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4 音二郎の死|天に駆ける、貞奴

だぶんやぶんこ


約 9338

3度めの渡仏前の1907年(明治四〇年)4月「帝国座」(大阪市中央区北浜四丁目)の建築許可を受けていた。

音次郎は詳細まで煮詰め指示して、出発した。

1908年5月帰国した時には「帝国座」の建築がいよいよ始まろうとしていた。

音二郎にとって海外視察の主な目的は、「帝国座」運営のための劇場視察だった。

次々どん欲に見て回り、アイデアが浮かんでいく。

「帝国座」に掛ける思いが次々膨らみ、夢中になって話し、止まらないほどだ。

すでに、基本計画は決まっており、建築が始まるのだ。

そのまま進めるべきだと言うが、聞かない。

音二郎は、自分流の理想の劇場を思い描き、変更していく。

(さだ)(やっこ)は、川上座失敗の経験があり、慎重に考えるように言う。

建築は任せて、運営を思い通りにすれば良いとうのだが、音二郎は、当初の企画をはるかに上回る壮大なスケールの劇場づくりを求めた。

新しい演劇の仕組み、観客のありかたも考え、随所に音二郎らしさがある斬新な劇場にするんだと燃えた。

(さだ)(やっこ)は「また馬鹿なことを」と無理だと思いつつ、その熱意に頷き賛成した。

膨大な資金が必要だ。気が遠くなる。

まず、一番簡単に稼ぐ方法が、(さだ)(やっこ)が絶え間なく舞台で主役を演じ、観客を喜ばせることだった。

音二郎は、派手にどんちゃん騒ぎをしながら、高邁な理想を説き熱弁をふるい賛同者を集めるだけだ。

(さだ)(やっこ)は大観衆の前で踊り続け、賛同者の前で資金提供の最後のお願いをし、資金を受けとる役目を果たす。

私ばっかりが忙しいとぶつぶつ言いながらも、嬉しそうに、資金を用意し、劇場建設が進んでいく。

二人には、手を携えて夢に向かって突き進む興奮がたまらなく好きだ。

困難であればあるほど血沸き肉躍るのだ。

望むところの興奮であり身をゆだねるのが好きだった。

それが生きるということと割り切った。

ところが演劇界は、貞奴・音次郎が、渡欧し留守にした間に変わった。

新派は退潮し、歌舞伎陣が盛り返し、新派の領域、新作喜劇にも乗り出したのだ。

旧派が息を吹き返した。

渡仏前の新派大同団結の工作は、旧派の隆盛で、崩れていく。

新派はそれぞれ身を守るのに必死だった。

それは、音二郎の協力者が減ることに繋がった。

皆で盛り上げ、新派大同団結の象徴となるはずの「帝国座」が、空中分解していく。当初の予想より、音次郎の負担が増えた。

それでも、音二郎は、思い通りの「帝国座」を造り続けた。

こうして、二人の長年の夢が実現する最高のときが来た。

1910年2月、船場北浜の地に大阪で最初の西洋式演劇場「帝国座」が開場した。

大阪「帝国座」は、ヨーロッパの多くの劇場の良さを取り入れ、日本の劇場にふさわしくアレンジし設計建築された。

煉瓦造、3階建、建坪260坪、西洋風の洒落た建物だ。

実業家などの多数の賛同者を得て貞奴と音二郎は、総額40円(40億円相当)もの夢のような資金を集め帝国座を建てた。

だが、音二郎の思いを込めたためにそれでは足らず、12円(12億円相当)の借り入れをせざるを得なかった。

舞台の間口は十六メートル。その前にはオーケストラ・ボックス。

回り舞台や花道も用意された。

丸天井や壁面には日本の優雅な王朝絵巻が描かれ、金箔やビロードで飾られたロビーには600個の電燈が光り輝いた。

東京朝日新聞の記者は「これまでに類のない日本一の劇場。設備や舞台の模様など、外国にいる心持がする」と書いた。

 開演を控えた劇場の正面入口には根付のままの桜30本が飾られた。

午後7時の開演の二時間前から来賓や招待客が押し寄せ、劇場は三階の桟敷まで瞬く間にぎっしりと客で埋まった。

ここで開場の挨拶に舞台に立った川上音二郎。

帝国座は、音二郎が借金まみれになりながらも個人の私財で建てた近代劇場だった。

音次郎が笛を吹き、貞奴が集めたのだが。

東京の財界人が政府の支援をバックに建てた帝国劇場が完成するのは、帝国座の完成から一年後。

音二郎は、勝ったと満面の笑みだった。

新しい芸術を創り出すとの理想を実現するために、劇場建設に向けて取り組み、成し遂げたのだ。

音二郎の劇場運営への理想は高かった。

多くの客の収容を目的とせず、営利は求めず、観客が楽しむことを第一とする。

役者が演じる舞台を広く、天井を高くして、新しい舞台装置を活用する。

幕間を短くして客に退屈させないようにする。

下足のまま入場できて、気楽に見物できるようにする。

芝居に集中するよう飲食は禁止する。

良い脚本を選んで、観客に文芸の楽しみを広める。

演劇の芸術性の理解を高める。

など帝国座のあるべき姿を今までの演劇とは一新すると言い、実行した。

理想は高く現実は厳しかったが。

翌1911年、川上音二郎は経営が軌道に乗らないまま、舞台で倒れ、10月13日入院してしまった。

貞奴の必死の看病にも関わらず、医者も見放した。

ここで、貞奴は、帝国座で最後を看取りたいと主張。

11月11日昏睡状態のままの音次郎を帝国座に移した。

一時間後に帰らぬ人となった。

貞奴は笑ってしまった。

苦労して苦労してやっと実現し「できたね」と喜び合ったら、もう当の本人は亡くなったのだから。

まあいいかなとも思った。

いつものことだ。

どうしようもない男とハチャメチャ人生を生きた満足感で大笑いした。

音二郎は「男」として名を残したと思う。

貞奴も「女」として名を残した。

盟友として、生きて愛した、それだけで充分だ。

音二郎は、永遠に貞奴の伴侶、きっと天国で感謝しているだろう。

 音次郎の新派合同葬が執り行われる。

葬儀は、派手好きの音二郎にふさわしく、これ以上ないほどに趣向を凝らした大掛かりなものとした。

7日間もの通夜を行った後、帝国座から墓所、一心寺まで6キロの道を延々と四時間かけて歩いた。

沿道には10万人ともいわれる見物人が身動きできないほど集まり見送った。

先導するのが、僧54人・花車50台・弔旗幾百・花輪無数等々。

次に会葬者が続き、明治の葬祭史に残る大葬儀となる。

大名行列さながらの葬儀だった。

翌19日、貸し切り列車で博多に向かう。

川上家菩提寺、浄土真宗本願寺派、万行寺で盛大な葬式を行った。

音二郎の葬儀を終えた貞奴は、音二郎の故郷で、存在を誇示できたと胸を張った。

疲れ果てて、葬儀の途中で何度も倒れてしまったが。

音二郎の偉さ、素晴らしさを多くの人に知らしめたいと見せつけた葬儀だ。

(さだ)(やっこ)が愛した人を故郷の多くの人の心に長く刻み込むために想いを込めた。

(さだ)(やっこ)の意地を見せた葬儀が終わると、各地で追悼の会が催される。

 貞奴40歳「独り立ちの時が来た」と自然と覚悟が決まる。

音二郎の死は、いずれ近いうちだと分かっていた。

だからこそ「帝国座」を作り、音二郎の夢を叶えたのだ。

新派を代表する女優貞奴は、海外で生まれ、育ち、成長した。

新派は厳しい状況にある。

今は、海外視察し、音二郎との思い出に浸り区切りをつけ、明日への構想を得る必要があった。

海外で、冷静に自分を見つめ明日への活力とするのだ。

だが、追善公演を望まれた。

借金も多く断れない、稼がないと劇場が成り立たないのだ。

音次郎が亡くなると「帝国座」も終わりでは、貞奴は何をしたのだと冷笑される。

貞奴の意地が許さない。

翌1912年2月から、公演を始める。

東京・名古屋・姫路・神戸から山陰地方を回り、大盛況だった。

松江(島根県)での公演中、1912年(大正元年)7月30日、明治天皇が崩御され、興行中止となる。

ホッとして茅ケ崎の「萬松園」に戻る。

海外視察へは行けないが、休養し、考える時間が与えられたのだ。

改めて納得できる今後の生き方を逡巡し果断する。

「帝国座」を守ること。

女優を養成は成し遂げた。次は、児童劇団のあるべき姿を見極め、育てること。

我が家で休養しつつ頭の中を整理すると、これしかないと元気が出て、出来そうな気がしてくる。

大喪が終わると、公演を再開10月、博多公演、引き続き朝鮮巡業に出る。

翌1913年1月、すべてを終えた。かなりの益が出た。

そこで、貞奴は音二郎の業績を賞して銅像を建立しようと思い立つ。

まだ俳優の銅像が創られたことがなかった時代だった。

それだからこそ、音次郎の姿を多くの人の心に留めるために創りたい。

困難が予想された。

貞奴は、周囲から難しいと言われ、誰もなしていないことをするのが面白いと動き始める。

音二郎が、大好きで、ずっと寄進し、座員の墓所とした泉岳寺で建立したかった。

泉岳寺の同意も得て、思いの外、すんなりと、銅像は出来た。

音次郎の墓前に「出来たよ。良いでしょ」と喜びの報告をした。

ところが、由緒正しい出身で泉岳寺に葬られている武士らと音次郎は違うと周辺住民が反対した。

墓所としてなら良いが、銅像となり崇め立てられる人物ではないというのだ。

同意した泉岳寺も、檀家衆の反対に従わざるを得ず、申し訳ないと断ってきた。

貞奴も簡単には行かないと覚悟していた。

泉岳寺での銅像設立は挫折したが、次に、音二郎らしい盛り場にある公園での建立を考える。

東京府公園課に趣旨を話し銅像設立を願い申し出るが、前例なしと断られる。

貞奴は、困難さを思い知らされるが、踏ん張らなくてはならない。

負ける貞奴ではない。

一人の力では限界があると、支持者・賛同者の協力を頼む。

そして、露伴の小説「五重の塔」で知られる谷中天王寺での設立許可を得た。

貞奴の音二郎への永遠の愛の表現が、実現したのだ。

1914年(大正三年)11月11日、谷中天王寺内で音二郎銅像除幕式を行う。

感無量だった。

ここで再び心機一転の海外視察を考える。

ゆっくりとした2年ほどの海外視察を考えるが、戦争中であり、行けなかった。

何度も計画するが、実らない。

海外で女優開眼し認められ、演劇の肝のようなものを掴んだ気がしていた。

一人で生きる今、何かを掴み、今後の演劇活動の糧にしたいのに。

次々難題が起き、日本を離れられない事情もあった。

音次郎が、後継とした弟、磯次郎と追善公演のあり方で意見が対立した。

磯二郎は、川上一座を去り、自ら一座を作ってしまった。

音次郎の思いを活かせなかったと、申し訳なく思うが、貞奴と音次郎で創った一座だ。

貞奴の演劇に掛ける思いを重視した。

手塩にかけて育てた後継者第一の小山ツル(偵子)も、去ってしまった。

小山ツル(偵子)は共演者と駆け落ちした。

貞奴に代われる女優はいなくなり、がっくり来た。

貞奴の過度な期待に、応えきれなくなったのだと心痛める。

貞奴の姉、花子が自殺した。

貞奴より16歳上の姉、花子は、幕末、母のように水戸藩家老、中山家に奉公に出た。

そして、当主、中山(なかやま)(のぶ)(あき)(1846-1917)と愛し合い、信光(1869-1949)が生まれる。

信光は、青木家の養子となり出ていく。

花子も信光とともに生きたいと願うが許されなかった。

使用人のままで、(のぶ)(あき)の長女、歌子・次女、鈊子に仕えた。

歌子と久留島通簡(くるしまみちひろ)の結婚が決まると、嫁入り支度を整え、結婚を取り仕切った。

歌子が病に伏せると、再々見舞いに行くも亡くなった。

続いて妹、鈊子が後妻に入ることになり、同じように送り出した。

 花子は、中山家で筆頭格の使用人であり、この間、久留島家との連絡、取次をこなし親しい関係を築いた。

久留島通簡(くるしまみちひろ)は、貞奴が最も信頼した児童文学者、久留島武彦の父のいとこになる。

貞奴は、花子と花子が育てた歌子、鈊子との縁で、1903年(大正二年)7月、久留島武彦(1874-1960)と出会ったのでもある。

子供の情操教育についてお互いの思いを話し意気投合した。

貞奴は、武彦の作品「浮かれ胡弓」の上演を決め、協力を願う。

武彦も賛成し、惜しみない支援をした。

ここから、三歳年下の武彦は、貞奴の素敵な弟になった。

武彦自身も、日本全国で童話を語り聞かせる口演童話活動をしていく。

 だが、花子の立場が微妙になった。

貞奴と武彦と花子が親しくなると、中山家は、花子の処遇で責められる立場となった。

久留島武彦は、久留島家が誇る児童文学者だ。

花子は、長年、中山家に尽くしたが待遇が変わることがなく、子、信光の元に行くことも出来なかった。

信光の母として、生きることを望んだが、だめだった。

中山家は、花子をどのような立場の人とするかで揉めた。

高名な貞奴の姉であり、相応の待遇をすべきだと考えるが、中山信徴には過去の人であり、望むところではない。

花子は、諍いの種になることを望まず自殺した。

貞奴には当然の交友だったが、姉を追い詰めたことを知り、つらすぎた。

この後、音二郎の後継、雷吉が失踪し自殺。

結核を患い将来を悲観してとされた。

貞奴が、我が子のように、厳しく指導したのが原因と思えつらい。

 次々起きる近しい人との別れに涙し、気を落とす。

そしてあまりに大きな宝、帝国座を維持する困難に直面していく。

明らかに貞奴には荷が重かった。

資産価値40万円(時価40億)と言われるが、借入額は12万円(時価12億)だ。

音二郎は開設一年で、大借金を残して亡くなった。

以後、貞奴が稼ぎ返済していたが利息支払いが精一杯だった。

とても理想の高い劇場であり、恒常的に赤字だった。

興行収入はあっても、採算がとれないことに音二郎は突き進み、死んでしまった。

やむなく(さだ)(やっこ)は、理想を横に置いて、現実に即した運営、地方巡業を繰り返し、興行を続ける。

(さだ)(やっこ)がいくら稼いでも、稼いでも赤字は増え続け、資金繰りは銀行任せとなった。

そんな時、1913年(大正二年)5月、すべてを任せていた北浜銀行頭取、岩下清周から融資の打ち切りを伝えられる。

岩下清周は、三井財閥を経て北浜銀行(三菱UFJ銀行の源流)を起業した新進気鋭の秀才だった。

当時のベンチャー企業への積極的な融資を行い、融資先の経営にも積極的に携わった。

音次郎への融資もその一つだ。

関西大手私鉄、阪急電鉄(阪急阪神ホールディングス)・大阪電気軌道(近畿日本鉄道・近鉄グループホールディングス)の事実上の創設者でもある。

豊田式織機 (トヨタ自動車)や森永製菓、大林組など現代日本を代表する企業の草創にも活躍した。

だが、積極投資で、大阪電気軌道・大林組の債務が焦げ付いた。

岩下清周は、経営責任を問われ、音次郎への融資も止まることになったのだ。

1914年(大正三年)夏、第一次大戦開戦直後の恐慌の波を受けて支払い停止、休業となる。北浜銀行は事実上破綻し、岩下清周は逮捕される。

 次第に、戦争景気が始まり、好景気となるが。

ここで貞奴もあきらめが付く。

苦労して作った帝国座だが、金融機関の支援がないと譲り渡すしかない。

その後、帝国座の譲渡先を探し、交渉を続ける。

帝国座は1916年(大正五年)11月、住友銀行に引き渡される。

その後、大阪カトリック教会に移る。

帝国座を売り渡し清算も終わる。

借金を返済した残りのお金がかなりあった。

帝国座がなくなると、海外視察をしても活かす場がないと、あきらめた。

残ったお金は一座のために使いたい。

皆が、公演を望んだ。

貞奴がすべきことは、音二郎の遺志を継ぎ一座を率い、主演女優として東京を中心に巡業し、公演活動を続けることしかなかった。

桃介の帝国劇場・叔父、三田政吉の明治座での公演は、思い通りだ。

帝国座がなくなっても、貞奴の本拠は東京にあり、東京での公演が中心になる。

それでも、地方公演も大好きで、座員百人、引き連れての公演は、盛況だ。

だが、音次郎が居ないと、新しい企画が出ない。

(さだ)(やっこ)の人気は衰えていないが、座長としての役目は大きな負担で、新しい演劇を生み出す余裕がない。

マンネリ化を感じていく。

それでも、貞奴は、変わらず公演を続ける。

舞台が好きで、演じているときはすべてを忘れる。

若手の歌舞伎俳優と共演したり、本物の馬に乗って登場と、思う存分、円熟の味を見せ拍手喝采だ。

また、出会いもある。

北海道公演では、兄、勝次郎と再会する。

兄の子、幡豆寅之助の面倒を見ており、顔を合わせることがなかっただけで、連絡は取っていたが。

新劇の退潮期だった。

それでも、頑張り続けるが、マンネリ化はどうしようもなく、海外で何かをつかんできたい過去の思いが、膨らんでいく。

貞奴は国際女優だった。

海外で得たものを日本に伝え、海外で日本の良さを見せつけたい。

再び海外視察の夢が膨らむ。

だが、第一次世界大戦中であり、海外に行くことは出来ない。

客観情勢が許さなかった。

一座は貞奴で持っているのだ。皆を守りたい。

主演女優として舞台を務めるのは面白くても、一座を率いる責任の重さで、身体はガタガタになっていく。

その救いは、側に付いて、こまごまとしたことまで付きっきりで世話する桃介だった。

桃介に願えば、帝国座を引き渡さなくてもよかったが、音二郎は自分の「帝国座」であることしかなかった。

桃介によって生き延びる「帝国座」では、音次郎は満足できなかったはずだから。

それほどの大富豪の桃介が、貞奴のために走り回る姿は、周囲を驚かす。

桃介は、一度、裏切ったことを忘れることなく、貞奴に尽くした。

当然のことだった。

桃介の初恋の人が貞奴であり、永遠の恋人なのだから。

貞奴が東京に居れば、桃介はいつも駆け付け、相談に乗り、何でもした。

とても嬉しそうに動く。

桃介の身体も丈夫でないのに、貞奴の面倒を見るのが、嬉しくてならないのだ。

 地方公演に行くと、付いていくことが出来ず、桃介は寂しくて仕方がない。

ついに、貞奴をどうしても必要とする事態が起きた。

そこで、桃介は「危篤」の電報を打つ。

受け取った貞奴はやむなく、代役を頼み、東京に戻る。

それは、桃介の賭けだったが、成功した。

主演女優が私的理由で、舞台から離れ、桃介のもとに行ったのだ。

桃介は病ではあったが、危篤ではなかった。

貞奴は、舞台を放棄した責任を取らなくてはならないと覚悟を決めた。

1917年(大正六年)9月、引退宣言をする。

1911年音次郎が亡くなって以来、主演女優を務めながら、座長として百人近くの座員を率いた。

大人数をまとめる統率力は抜群だったが、ここで大劇団の座長を降りる。

音二郎の死後、経営手腕を磨きながら、大劇団を率いたつもりだった。

それでも、計算は苦手だった。

公演は盛況だったが、利益にはならなかった。

音二郎ほどではないが、派手でぜいたくな舞台を望んでしまうからだ。

文化とは夢であり憧れであり、その表現である舞台公演は、観客を楽しませなくてはならない。

観客が満足し、良い気分で拍手したくなることが、貞奴の使命としていた。

そのため、どうしても気張ってしまう。

限界が来た。

一座を手放すことは、無念で、音二郎の情けなそうな顔が浮かぶ。

「やっぱりだめだったよ。先に死んじゃったのが悪いのよ。まあ仕方がないよ」。

貞奴はそのときそのときにすべてを賭けてきた。将来よりも今を生きた。

人を育て、劇場を作り、女優として生きた25年。

美しく華やかに音二郎と共に生きて、潔く退く。

桃介は、貞奴のために、内幸町(千代田区)に住まいを用意していた。

だが、だまし討ちは気に入らない。

桃介の世話にはならない、桃介と距離を置き関係なしに、渡米して、今後を考えようと決めた。

だが、大々的な引退興行を求める声が湧き上がる。

座員の将来の為にも、主だった地で引退興行をすべきだと、決める。

座員の行く道を決めて、引退するのだ。

10月、東京明治座で引退公演を始める。

貞奴の引退公演は、大きく報道されており、話題を集めていた。

『日本の近代女優第一号』貞奴は、最後の東京公演となる「アイーダ」を演じた。

別れを惜しむ観客で溢れた。

続いて、地方での引退興行を行い1918年(大正七年)11月、思い出の詰まった、大坂道頓堀中座を最後とした。

貞奴は、志に燃えるパートナ-とともに、パートナ-を生かし自分を生かすときが一番輝く。

天才的才知の持ち主、女優貞奴は、音二郎を得て輝き、音二郎の死とともに少しずつ輝きを失った。

代わりに、共に生きたいと切実に願う桃介がいた。

「まだまだ人生これからだよ。共に生きて欲しい」と必死だ。

引退公演を嬉々として取り仕切る、桃介だった。

誠心誠意尽くしてくれる桃介の愛に応えたくなった。