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3 第一回養成所に入学した女優の卵たち|天に駆ける、貞奴

だぶんやぶんこ


約 3857

すぐに、募集を開始した。

中途半端を嫌う(さだ)(やっこ)がめざしたのは、女優に対する世間の評価を一新するような名優を育てることだ。

女優として必要な科目と英語を重視した教養科目との両方を教えるために一流の講師陣を集めた。

修業年限は二年、月謝は無しの好条件だ。

(さだ)(やっこ)の人気と話題性があり、第一期生の志願者は100名を越した。

(さだ)(やっこ)は、将来の演劇界を担う女優を育てると気負い、真剣に選考した。

素晴らしい人材が多く、興奮しながら考え込み、15名を入学者とした。

だが、すぐに4名の退学者が出てしまう。

なかなか思うようにはならないと、がっくりだ。

冷たい世間の評価の結果であり先行きの困難さを味わう。

職業として女優を目指す養成所の入所者の募集の広告を新聞に出した。

広く募集するにはこの方法しかなかった。

だが、新聞を読む層はまだ少なく、新聞を読み自立の意識を持ち、自ら応募したのは、裕福な良家の子女ばかりだ。

結果として、(さだ)(やっこ)は「良家の子女」から女優の卵を選ばざるを得なかった。

女優は卑しい職業で「良家の子女」には相応しくないと思われていた時代だ。

自分の意志で応募したが、家族の猛反対にあい、4人が挫折したのだ。

やむなく補欠を入れた。

第一回入所者は、森律子・河村菊江・初瀬浪子・田中勝代・中村滋子・佐藤千枝子・佐藤はま子・白井寿美代・鈴木徳子・藤間房子、村田嘉久。11人。

追加として田村俊子。川上澄子(音二郎姪)。

13名の入学者を迎えるが、二年後の卒業生は11名となる。

森律子(1890-1961)。18歳で入学。首席で卒業する。

そして、帝劇の看板女優になる。

跡見女学校卒業の名家の娘である。

弁護士であり衆議院議員の森(はじめ)の次女として、東京府東京市京橋区日吉町(東京都中央区銀座8丁目)に生まれた。

名の知れた家だった為、恵まれた娘がなにゆえに女優を目指すかと新聞が大きく取り上げた。

興味本位に掲載され、良家の子女が役者にまでなり下がったと家族も、好奇の目で見られた。

両親は嘆き、期待の弟は、世間の風評に耐えきれず自殺してしまう。

森律子は、生涯家族に迷惑をかけたと詫び業を背負うが、ひるむことなく女優として大成する。

お嬢様女優として話題を集め、おちゃめで愛らしい名演で喜劇を得意とする。

辛い境遇をバネにうまく活用し、女優史に燦然と輝く名女優となる。

貞奴が一番、高く評価し、そのまま、女優史に残る名優となった。

養成所を創ったかいがあったと自画自賛する、第一期生だ。

村田()()子(1893-1969)15歳で入学。

品川高等小学校卒業。裕福な酒問屋、松本屋の娘。

東京府荏原郡品川町北品川(品川区北品川)で生まれる。

父は、義太夫が大好きで名人と言われるほどだった。

()()子は4人兄妹で、皆、幼いころから長唄や日本舞踊を習う。

父が、貞奴の帝国女優養成所の入所者募集を知り、才能あると見込んだ()()子に薦め、応募した。

家族を上げて希望し、無事、養成所に入った、幸運な一期生だった。

兄は歌舞伎俳優3代目尾上蟹十郎に、嘉久子と妹2人も女優になる。

妹は、女優、村田美弥子(1898-1962)、村田竹子(1905-1976)。

芸能一家だ。

卒業後は帝国劇場専属女優として、森律子とともに、活躍。

初瀬浪子(1888-1951)20歳で入学。本名は岩尾日出子。

父は、財閥、大倉組、支店長だった。

恵まれた暮らしで、築地の女学校、山脇女学校卒業。

先進的な家庭で育ち、女優を目指した。

芸名は、日露戦争で活躍した戦艦、初瀬から取る。

活発で勇ましい性格だった。

妖艶な雰囲気を持ち、熱烈な男性ファンが数多くおり、恋文が次々来てあだ名が「ふみ子」と言われるほどだった。

堂々の大女優となり、歌舞伎俳優と共演した。

鈴木徳子。

女優を志し、貞奴から第一期生に選ばれる。

帝国劇場の舞台で、女優として活躍する。

ここで、帝国劇場専属の歌舞伎俳優の初代、澤村宗之助(1886-1924)と出会い、結ばれた。

澤村宗之助は、歌舞伎俳優でありながら新しい舞台活動に注目し、新劇に参加した。英語劇・近代劇の創作活動に積極的に加わるが、1924年、38歳で亡くなる。

以後、鈴木徳子が、残された3人の子、澤村宗之助(1918-1978)・伊藤雄之助(1919-1980)・伊藤寿章を苦労しながら、育てる。

3人共、すべて役者となる。

学問をおろそかにすることなく、伊藤雄之助は慶應義塾幼稚舎に入る。

 1932年頃、若くして亡くなる。

藤間房子(1882-1954)本名、矢野島ぎん子。

東京市日本橋区通油町で生まれ、久松小學校出身。

上野の東京音楽学校に入学するも、俳優になりたくて中退。

市川宗家の門下になり、修行し、歌舞伎座で出演した。

だが、役に恵まれず、出演機会も少なく、思うような女優にはなれず、辞めた。

そんな時、貞奴の帝国女優養成所の入所者募集を知り、再起をかけた。

26歳と若くはなかったが、経歴が気に入り、貞奴は嬉しくなって招いた。

年下の子達ともに学び、第一期卒業生として、帝国劇場専属となり、女優として花開かせ、続けた。

河村菊江(1890-1972)。

父は文部省学務課の役人。

7代目松本幸四郎と「関の扉」で共演するほか、谷崎潤一郎作「お国と五平」のお国役で名声を得る。

7代目沢村宗十郎と結婚して一女をもうけた。

田中勝代。

恵まれた農家の七人兄弟の五番目として生まれた。

松城町馬冷に移転したばかりの浜松高女を卒業。

医師の兄の手伝いをしていたが、進学希望が強く、単身上京。

女子大に進んだが、貞奴の帝国女優養成所の募集記事を目にして、応募した。

家長の兄は怒り、許さなかった。

勝代の決意は強固で、なにを言われても、勘当されても怯むことはなかった。

優秀な成績で、終了後、女優として花開く。

帝国劇場で天覧芝居が上演され、女優、勝代の名が大きく出ると、世の評価も上がり、実家も認めざるを得なくなる。

堂々と、墓参りなどで郷里に帰る。

田村俊子(1884-1945)24歳で、追加で入る。

一期生となり舞台にも出るまでになったが、退所し文学に力を入れる。

幸田露伴の弟子となり露英のペンネームをもつ有名な作家となる。

一期生は、新劇、旧劇、長唄、義太夫、鳴り物、日本舞踊、洋舞、声楽、ヴァイオリンなどの授業を受けた。

加えて、脚本の講義、和洋の舞踊や音楽・化粧の仕方など俳優に必要な教養も身につける。

卒業後は帝国劇場の座付女優となることが決まっており、女優の道が創られていた。

周囲の反対を押し切り、自分の生き方を貫く強い決意で女優を目指した人ばかりだ。

(さだ)(やっこ)は皆を気に入り、日本を代表する女優が育っていると手ごたえを感じる。

主演女優としての役を終え、後継の育成にあたる素晴らしい仕事を見つけたと悦に入っていたが、苦労して集めたお金が底をついた。

音二郎と共に、志の高い夢を追い求め、見事な手腕を発揮実現するが、維持し続けるのは苦手だった。

大輪の花として大きく咲き、すぐ散ってしまうのが貞奴だった。

また蘇り大きく咲かすしぶとさを持ってはいたが。

次々美しい花を咲かせ、楽しみ、楽しませて終わってしまうのだ。

貞奴が、苦労して作った「帝国女優養成所」だったが、翌年1909年(明治四二年)7月に帝国劇場に譲る。

無念だったが、目的を達した満足感もあった。

これで良いと潔く、引き渡す。

「帝国劇場付属技芸学校」と改称され続いていく。

女優養成所の骨格を作ったのは貞奴であり、その精神は受け継ぐよう求め、了承されたことを確認し、譲り渡した。

(さだ)(やっこ)は所長の役職を気に入っており、自ら教えたいことが山ほどあったが、経営は成り立たなかった。

後ろには、桃介が控えており、いくらでも資金援助すると言うが、断った。

貞奴には、養成所に関わるための時間がなかったのだ。

(さだ)(やっこ)には面倒を見なければならない手のかかる夫、音二郎がいる。

音次郎とともにすべきことがあった。

音二郎は新劇の在り方を考え、次々すべきことを思いつく。

そしてなすべきこと、夢を語り続ける。

同じ価値観を持つことの多い(さだ)(やっこ)も賛同せざるを得なくなる。

すると、(さだ)(やっこ)がすべきことが山ほど出てくるのだ。 音二郎は(さだ)(やっこ)の協力なしには何もできない。