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2 貞奴、女優養成所を創る|天に駆ける、貞奴

だぶんやぶんこ


約 5994

(さだ)(やっこ)は、女優養成所の構想を練りながら、女優として舞台を務め、地方巡業をこなしていた。

すると、翻訳劇を見て女優に憧れる女性が次々楽屋に訪ねてくる。

(さだ)(やっこ)が内弟子を置いていると聞いて、自分も置いて欲しいと押しかけてくる者もいた。

嬉しいことだったが、次々集まる若い女人に、時には、怒った。

ただ若くてきれいなだけで演技ができると思い込み、女優になれるかのように集まってくるのは軽薄であり許せない。

貞奴自身は、幼少時から練習に練習を重ね努力した。

その結果、今日があるという自負がある。

それでも、とても満足できるものではない。

女優とは簡単になれるものではないと諭す。

同時に、彼女たちの若さ美しさはまぶしく、女優養成所を創る意欲をますます掻き立てられる。

音二郎の新派合同の話も進み、いよいよ時が来た。

(さだ)(やっこ)は、35歳を過ぎ、主演を代われる女優の必要性をますます感じ、演劇界の将来を考える。

諸外国を巡業し、女優という仕事の必要性を知り、養成する演劇学校にも足を運んだ。

日本に置き換えて、あまりの違いに、ため息をつきつつ、いずれ自分で作るとの思いを募らせた。

音次郎の構想がまとまりつつあるのを助け、見届けていく。

ようやく、自分で納得のいく名女優を育てる時が来たと、具体的にとりかかる。

これからの日本の演劇界には、多くの優秀な女優が絶対必要だ。

近代劇では、女の役は女が演じた方が、リアルで自然だ。

写実的な表現・表情・音声の抑揚・手足の動きなどで感情を表現しようとすれば、男は男・女は女を演じるべきだ。

今までは歌舞伎の伝統に引きずられて、歌舞伎以外の他の演劇も、男の役者が女形として女を演じた。

これからの新しい演劇に、それは通用しない。

女の役は、女が演じなければならない。

との思いは固めても現実は伴わない、自らを奮い立たせ、顔を引き締める。

 (さだ)(やっこ)と同じ芸者出身の千歳米坡(ちとせばいは)など、女ばかりで一座を作る女役者ではなく、男女合同劇に参加する女優も、あちこちに出てきつつある。

彼女たちを後押し、女優が仕事と胸張って言える環境づくりにも取り組みたい。

賛同者・支援者が集まり、女優育成の組織づくりが本格化する。

パリの俳優養成所(女優養成所でもある)を参考にして構想を練っているが、万全を期したいと思う。

そこで、もう一度、視察と資料収集のために、1907年7月24日、横浜から博多丸に乗ってパリに向かうことになった。

音二郎と貞奴、貞奴の姪のつる23歳と語学研究者(通訳)2名、音楽研究者2名、の七人だ。

海外への旅は、長期の船旅から始まる。

ここで、諸雑事から離れて、音二郎と過ごす夫婦の時間を持てる。

それはとても幸せな時間だった。

音二郎は病弱で無理をするとすぐに倒れる。

視察をほどほどにし、無理をさせてはならないと固く思い定めている。

船旅は、ゆっくりと休養させる時間であり、元気を取り戻させたい。

そのために、貞奴は、音次郎に尽くし、休息を取るように仕向けた。

「二人で新派の演劇の発展の為に力を尽くさなければならないのよ。着くまで、体調を整え、休んでいて」と。

(さだ)(やっこ)には三度目の新婚旅行だった。

海外では音二郎はいつもそばにいる。

ただ、海外では(さだ)(やっこ)の旦那という紹介ばかり続き、音二郎が腐る時もあり、慰めるのが難しかったが。

それでもいつも一緒は楽しい。

お互いが別々の課題を抱えており、お互いが独立した取り組み方をしていく。

それは、新鮮で、同じものを見て同じ行動をしても、見方が違い、話し合える。

お互いが思うがままに、意見を言うことができるのだ。

貞奴は、はっきりした女優育成論を持っていた。

揺るぎない信念があることで、音二郎の誇大妄想気味の面白い話を、余裕を持って聞くことが出来る。

音次郎の新派が日本演劇界を制する夢は膨らむばかりなのだ。

そんな時、新婚時代に戻ったような、たまらなく幸せな気分だ。

パリの俳優学校は教室のほとんどが小劇場の形をしていた。

一教室に25人ほどの生徒がおり、思い思いに席を取り、自発的な研究に教師が手を

貸す授業だ。

注意力と観察力を発揮し、動作・仕草・音声など独自に作り出し発表し、指導を受けるのだ。

そのうえ、演劇・歴史・言語学・絵画・能弁楽・心理学などの授業があり、広い教養も学ぶ。

入学者の八割程度が卒業し、有給で、2年間国立劇場で働くと、一本立ちの俳優として認められる。

優秀な生徒が国立劇場に残り、残りは各地の劇場で仕事をする。

学び始めた俳優の卵から名優と言われるまでに育った俳優までに会い話す。

いくつもの演劇学校を見て回る。

興行主体の今までのパリではなく、通訳や書記官が付き従う国家の文化事業の一翼を担ってのパリだ。

それぞれの俳優学校に特色があり、日本での設立に役立てなければならないと、どん欲に使命感に燃えて視察する。

(さだ)(やっこ)と音二郎は共に、真剣に視察を重ねる。

理由づけや高邁な理論は(さだ)(やっこ)には興味はない。

けれど、音二郎には得意で、必要不可欠なことであり、新派の合同発展に役立てる構想を練りつつ、資料も集める。

(さだ)(やっこ)はひたすら生徒の表情・演劇への取り組み方を見て、講師と生徒の関係のあり方に思いを巡らす。

最初の渡航は、生きるか死ぬかの瀬戸際まで追いつめられ続けた苦い経験だった。

後半には、信じられないほど最高のもてなしを受けるが。

二度目の渡航は、お金を稼ぐ為に、あまりにも過密スケジュールだった。

どちらも、海外の演劇視察をしたいとの目的を持ち、そのために時間を割こうとしたが、音二郎は寝込むことも多く、(さだ)(やっこ)には一座を率いる苦労もあり、二人でゆっくりとはいかなかった。

それでも夫婦として、伴侶として、最高の時間を過ごした。

三度目の1907年、今度が一番いい形の新婚旅行になった。

多くの人に見送られ口々に「女優育成は日本の演劇界に画期的なこと。ぜひとも頑張って欲しい」と励まされ出立した。

視察予定も綿密に立てられており、貞奴は希望を言うだけでよく、すべてのおぜん立ては出来ていた。

それでも、皆が、本当に女優の必要性を感じているかは疑問だった。

彼らを心から納得させたいと考え続け、(さだ)(やっこ)は、必死で構想を練り続けた。

その裏付けのための視察旅行だ。

パリ流女優育成を会得して日本に帰らなければならない。

堅苦しい予定通りの視察は、性に合わず飽きてくるが、我慢した。

 貞奴の性格は、結局は出たとこ勝負。これしかなかった。

なるようにしかならないが、きっと活路はあるが信念だ。

理想通りには現実はならないことを何度も経験してきている。

現実は、予期しないことの連続で面白い。

何を言っても飛び回る音次郎とともに行動しながら、思えば出会いから短い逢瀬で飛んでいく人だったことに思いを巡らす。

(さだ)(やっこ)が音二郎の才能を見込んだのだが、知名度も集金力もいつも(さだ)(やっこ)が上だった。

音二郎は(さだ)(やっこ)を心から愛していたが、陰に隠れるのは嫌だった。

結婚前は金さえ出せばいいとの見栄っ張りの態度を取り続けた。

(さだ)(やっこ)が怒り結婚する気があるのかと迫って始めて結婚することになったのだ。

それでも運命と感じた人と結ばれた感激は忘れられない。

結婚式は、貞奴の生涯最高のイベントとなった。

結婚しても二人でゆっくりするときはなく、音次郎は単独行動ばかりの人だった。

料亭を渡り歩き理想を語ることが生きがいの人だった。

音次郎は、説得力もあり、弁もたち、草案が手早く、すべてにリズム感があった。

貞奴が入れ込む才があった。

(さだ)(やっこ)は話すのは嫌いじゃないが、文章は苦手だった。

幼少時勉強したつもりだったが、動く方が好きで机に向かう時間は少なかった。

音二郎にはかなわない。

海外では、船旅から始まってからずっと、音二郎を側から離さない。

音二郎も、(さだ)(やっこ)と離れると付き合う人がいない。

誰もが(さだ)(やっこ)と共に会いたがるからだ。

また、海外では夫婦で招待され、夫婦で出かけるのが当たり前だった。

(さだ)(やっこ)が気に入った習慣だ。

そのため、やむなく、音次郎は貞奴の側に居続けた。

公演とは無縁の視察旅行だったが、半年、パリにいて、四度芝居をした。

演目は大使館新築祝いにと、創った「悪魔と日本刀(紅葉狩り)」。

日本ほど四季を重んじないパリでは紅葉狩りを説明するのに骨おる。

それでも、日本的美の表現は新派では欠かせないと、演じた。

日仏協会演劇会では「布晒(ぬのさらし)」を上演した。

仏国旗に擬した赤白青の布と日の丸を翻して華麗に踊るのだ。

いずれの演目でも圧倒的存在感を発揮した貞奴。

歓声鳴りやまず民間外交に貢献した。

いつも二人で出かけた時は、あっという間に終わり、帰国の時が来る。

1908年2月13日、パリに別れを告げ、ベルギ-のブリュッセル・オランダの旧跡を訪ねた後、帰国。

明治期において巡業を含め音二郎が四度、貞奴も三度、欧米を訪れた。

そして、本場の舞台を観た。

本場仕込みの海外演劇を日本の大衆に伝えることができるのは、川上音二郎・貞奴だけだと二人は自慢し合った。

どんな、名優も著名な演劇に関わる人も、これほど海外の演劇を身体で受け止め、日本で披露した人はいない。

洋書だけをたよりに、演劇改革を推し進めた人が、要職を占めている時代だった。

(さだ)(やっこ)は実力があったわけではなく、ただ日の当たる場に居合わせ運がよかっただけだと自分を戒めながらも、運も実力の内と自画自賛した。

(さだ)(やっこ)と音二郎は、お互いを誉め合うのが大好きで、お互いが成し遂げたことをあげつらい、自慢し合ういつも楽しい夫婦だ。

東京に戻った。

新橋駅前に二頭立ての馬車が待ち受けていた。

そして、出迎えの歓声が響いた。

七年前には面映ゆく断わり、乗らなかった馬車だ。

今回は受け入れ、二人並んで乗り、沿道の歓迎の人たちに手を振る。

1909年(明治四二年)から音二郎の本家になるいとこ、川上岩吉に会計を任せる。

二年前の公演の時以来話し合い、女優養成所の税務を担当する人材が必要だと決めたのだ。

貞奴では手に負えないと探し見つけた信頼できる税理の専門家だ。

財産管理に気を使うことがなくなり、気が楽になる。

いよいよ次に向けて始めるのだと、二人顔を見合わせる。

まず、けじめとしたく、アメリカで亡くなった二人の法要を泉岳寺で執り行う。

日本での法要をしておらず、気になっていたのだ。

しめやかに、厳かに盛大に執り行い、新しい始まりのための区切りとした。

冥福を祈る。

こうして、皆の期待に押され、1908年9月、東京市京橋木挽町(中央区)に女優養成所仮事務所を開くことができた。

女優養成所に関する海外の現状をまとめ、帝国女優養成所設立の趣旨を説明し、賛同者を募り資金を集めた。

同じ頃、伊藤博文が主唱し渋沢栄一・福沢桃介・増田太郎・西野恵之介らが発起人となり資本金120万円の株式会社、帝国劇場が、造られた。

音二郎も主導した一員だった。

当然、株も持った。

桃介と比べるとわずかで、差をつけられたと腐るが、新派の隆盛が第一だ。

貞奴は笑って「生き方が違うのだから気にしないように」と慰めるが。

帝国劇場の建築が始まり、1911年(明治四四年)3月、落成する。

帝国劇場での「帝劇女優劇」の上演が決まっていた。

(さだ)(やっこ)は間に合うように女優を養成しなければならなかった。

帝国劇場は、貞奴に、創立賛助金500円と毎月100円の補助金を提供する。

続いて、日本経済界を代表する蒼々たるメンバーが、資金を提供した。

貞奴の最大の後援者は、桃介となっていた。

桃介は、貞奴のためならいくらでも出すと言ってきかない。

(さだ)(やっこ)は、他の財界人とのバランスを考えて資金援助を頼む。

莫大な金を持つ絶対的支援者が居るのは、安心で、心落ち着く。

音二郎は、あればあるほどすべてのお金を使ってしまい、気づけばお金がなくて何度も苦労した。

この頃から、桃介と音二郎の(さだ)(やっこ)をめぐる火花が散り始めていた。

その様子を(さだ)(やっこ)は面白く見る。

どちらも大切な人だ。

桃介は、(さだ)(やっこ)の為に糸目をつけない資金を援助するが、音二郎を立てて後ろに下がっている。

それでも、(さだ)(やっこ)の最大の支援者であることを隠さない。

伊藤博文に成り代わったかのようだ。

節度を保ち、資金援助するだけだが、音二郎にとって気になる存在だ。

貞奴は、なすべきことを決めると必ず実現する、凄い手腕を持っていた。

資金が用意できると、(さだ)(やっこ)が所長となり、東京の芝桜田本郷にできた帝国女優養成所で、開所式を行う。

趣旨を理解し資金援助した日本経済界を代表する蒼々たるメンバーが集まった。

当代一の実業家だと名高い渋沢栄一男爵が、祝辞を述べ、小さな養成所にはもったいないほど盛大に、門出を祝ってくれた。 もちろん、桃介も音次郎も出席し、にこやかに祝った。