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1 貞奴 地方巡業の旅|天に駆ける、貞奴

だぶんやぶんこ


約 3182

貞奴の後半生を綴る。

  1.  貞奴 地方巡業の旅 
  2.  (さだ)(やっこ)、女優養成所を創る
  3.  第一回養成所に入学した女優の卵たち
  4.  音二郎の死
  5.  貞奴の夫川上音二郎(1864-1911)とは
  6.  実業家、(さだ)(やっこ)
  7.  二葉御殿の主、(さだ)(やっこ)
  8.  (さだ)(やっこ)の児童劇団
  9.  貞奴、女優として菩提寺を建立
  10.  福沢桃介(1868-1938)とは
  11.  貞奴の最後

1 貞奴、地方巡業の旅

 (さだ)(やっこ)は、女優の面白さ、意義を身体全体で掴み表現する、充実した日々を過ごしていた。

だが、1904年(明治三七年)2月、日本は、戦争を始めた。

ロシアに宣戦布告した。

大国ロシアと、満州・韓国での利権で対立した。

話し合いでの解決を試みるが、ロシアは日本に対し高圧的対応を変えず、日本もその対応を許せず、譲れず、戦うことになったのだ。

勝算があるとは言えないし、避けたい戦いだったが、戦いが始まる。

10年前の日清戦争の七倍にもなる戦費を使うことになる、厳しい戦いだ。

伊藤博文の苦渋の選択でもあった。

(さだ)(やっこ)は、歓迎され、良い思い出に包まれた国、ロシアとの戦いは望まなかった。

だが、戦いは始まり、演劇界も政治に振り回される。

3月、悲壮感漂う兵隊の士気を鼓舞するために、望まれ、朝鮮で公演した。

公演が終わり日本に戻ると音二郎は日清戦争と同じように「戦況報告演劇」を演じる。

素早いニュ-スが、もたらされない大衆にナマの現状を伝えるのだ。

爆発的な人気を得るはずだった。

だが、国は緊縮財政を取っており、娯楽は抑えるような風潮であり、規制があった。

演劇界もおとなしくせざるを得ず、思うような演劇は出来ないし、観客も来ない。

「戦況報告演劇」は不発だった。

(さだ)(やっこ)には戦争劇は苦痛であり、戦意を高める演技は出来ない。

そこで、代表作「ハムレット」・大好きな「浮かれ胡弓」を引っ提げて8月から地方巡業を始めると決める。

地方の規制は、東京ほどではなかったからだ。

日本の新劇、最先端の舞台を全国に広める嬉しい企画が実現させる。

以後、地方巡業の旅が始まり、大好きになる。

ただ当初は、東京都の違いに面食らってしまった。

東京では、劇場の電気・舞台での照明などは欠かせないし、当たり前となっていた。

一般家庭にも少しづつ電気が普及し始めていた。

ところが、地方は違った。

ひなびた、のどかな村での公演は、百目(ひゃくめ)蝋燭(ろうそく)を村人が並べた野外が劇場だ。

三時間半は持つ大きな蝋燭(ろうそく)だが、明かりでしかなく、照明とは言えない。

そして、お祭り気分で、村人は(むしろ)に座って見る。

貞奴率いる劇団は東京での舞台と同じ最先端の衣装・演技・小道具を取り揃え、来ている。

貞奴に東京と地方の差はない。

電気照明はなくても貞奴たちは、東京の舞台と同じ公演をする。

あこがれの世界が目の前に現れ、現実とは思えない村人の呆気にとられた表情がおかしかった。

ゆっくりとした日々の表情と、目を丸くして見る表情の落差がおかしかった。

 照明がないと、時間の経過、季節感や天候の表現が難しい。

晴れた日の抜けるような青空から夕暮れの茜色へ、団員が走り回り、背景を創るがやはり弱い。

東京とのあまりの違いに、主演女優としてどう演じるべきか考えるが、観客の目の輝きは変わらない。

「このままでいい」と思う存分貞奴らしく演じる。

照明がなくても、楽しかった。

電気設備のない舞台は、演出できない舞台でもあり、辛いことも多く、俳優の力で勝負するしかない。

大道具小道具を自ら運び設営し、舞台づくりも大変だ。

有名劇団にとって地方巡業は都落ちだと軽視されていた。

だが(さだ)(やっこ)はバカな考えだと笑った。

文化の配達人としての自覚を持っており、すべき役目だと、面白い素敵なめぐり逢い・発見を求め喜んで出かけた。

学童の無料招待を申し出ても、断られることもあった。

まだそのような村があるのかと、びっくりする。

児童の情操教育は、百姓には必要ないと認めないのだ。

天気の良い日中に、招待したり、楽しい学芸会程度のことだと、歩み寄り招く。

戦時中でもあり、各種の統制もあった。

それでも、子供たちに演劇の面白さ、表現し主張することの意義を教えたいと心に決め、屈することなく巡業を続け、子どもたちを招待し続ける。

巡業は過酷だった。

一座の中には病気になるものも出た。

特に音二郎の身体は弱っており、入院することもあり、起き上がれないことも再々だった。

慣れてはいたが、すべての諸事は(さだ)(やっこ)の肩にかかってくる。

長く続くと、体力が持たないと、不安が増していく。

1905年(明治三八年)9月4日(日本時間では9月5日)、アメリカ東部の港湾都市ポーツマス近郊のポーツマス海軍造船所で日本全権、小村寿太郎(外務大臣)とロシア全権セルゲイ・Y・ウィッテの間で停戦条約が調印された。

日露戦争は終わった。

それでも、戦後の混乱が続いており、東京での演劇の再開には時間がかかった。

やむなく、予定通り全国を回る旅は続けた。

1906年初め、明治座での公演を頼まれ、ようやく東京に戻る。

2月から、かってのような公演が始まる。

 収入を得て、団員たちの暮らしを支えるのが、貞奴の一番の仕事だ。

地方では、観客が少なく、諸経費ばかりかかり、収入にはならない。

音二郎も東京の人だ。

地方巡業ではお金のやりくりが大切になるが、そんな雑事は嫌いで、やる気を無くし、病気になってしまった。

東京での公演が軌道に乗り、収入も安定してくると、息を吹き返した。

演劇の将来を見つめて熱弁を振るうようになる。

文明開花の波は大きく押し寄せ、進歩したが、その進歩に比べ演劇は遅れていると強く主張する。

演劇は、文明の程度を示す大切な指標だ。

遅れを取り戻すために、立ち上がらなければならないと。

そこで、全国を回った経験を元に、各地に群雄割拠する新派の大同団結を図るべきだと決めた。

より価値ある演劇の力を生み出すために。

そこで、各地の新派の大同団結を図るため、再び、地方巡業の旅に出る。

3月、関西から始め地方巡業を続けた。

貞奴にとって体力が必要なきつい公演だが、嬉々として賛成し、地方公演を始める。

音次郎は、各地で、新派の演劇を実践する人たちと話し合うつ。

そして、新組織の機構・構成・規約を創っていく。

名簿登記・相互の連絡・脚本の供給・興行の補助協力・各地劇場主との連携と運営資金の調達・機関誌の発行などなど新組織の業務内容をまとめていく。

まとまれば、取りまとめた音次郎率いる川上一座は発展解消すると宣言した。

音二郎は全国の新派演劇をまとめる劇場を大阪に決めた。

4月、新劇場、帝国座の確認申請の認可を申請した。

帝国座での興行主となり、新派の興行を支援し、新派の発展に貢献するのだ。 翌1907年(明治四〇年)6月まで巡業を続け、その間、音次郎は説得交渉を続け、ほぼ全国の新派の大同団結に目途をつけた。