1 貞奴 地方巡業の旅|天に駆ける、貞奴
だぶんやぶんこ
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貞奴の後半生を綴る。
- 貞奴 地方巡業の旅
- 貞奴、女優養成所を創る
- 第一回養成所に入学した女優の卵たち
- 音二郎の死
- 貞奴の夫川上音二郎(1864-1911)とは
- 実業家、貞奴
- 二葉御殿の主、貞奴
- 貞奴の児童劇団
- 貞奴、女優として菩提寺を建立
- 福沢桃介(1868-1938)とは
- 貞奴の最後
1 貞奴、地方巡業の旅
貞奴は、女優の面白さ、意義を身体全体で掴み表現する、充実した日々を過ごしていた。
だが、1904年(明治三七年)2月、日本は、戦争を始めた。
ロシアに宣戦布告した。
大国ロシアと、満州・韓国での利権で対立した。
話し合いでの解決を試みるが、ロシアは日本に対し高圧的対応を変えず、日本もその対応を許せず、譲れず、戦うことになったのだ。
勝算があるとは言えないし、避けたい戦いだったが、戦いが始まる。
10年前の日清戦争の七倍にもなる戦費を使うことになる、厳しい戦いだ。
伊藤博文の苦渋の選択でもあった。
貞奴は、歓迎され、良い思い出に包まれた国、ロシアとの戦いは望まなかった。
だが、戦いは始まり、演劇界も政治に振り回される。
3月、悲壮感漂う兵隊の士気を鼓舞するために、望まれ、朝鮮で公演した。
公演が終わり日本に戻ると音二郎は日清戦争と同じように「戦況報告演劇」を演じる。
素早いニュ-スが、もたらされない大衆にナマの現状を伝えるのだ。
爆発的な人気を得るはずだった。
だが、国は緊縮財政を取っており、娯楽は抑えるような風潮であり、規制があった。
演劇界もおとなしくせざるを得ず、思うような演劇は出来ないし、観客も来ない。
「戦況報告演劇」は不発だった。
貞奴には戦争劇は苦痛であり、戦意を高める演技は出来ない。
そこで、代表作「ハムレット」・大好きな「浮かれ胡弓」を引っ提げて8月から地方巡業を始めると決める。
地方の規制は、東京ほどではなかったからだ。
日本の新劇、最先端の舞台を全国に広める嬉しい企画が実現させる。
以後、地方巡業の旅が始まり、大好きになる。
ただ当初は、東京都の違いに面食らってしまった。
東京では、劇場の電気・舞台での照明などは欠かせないし、当たり前となっていた。
一般家庭にも少しづつ電気が普及し始めていた。
ところが、地方は違った。
ひなびた、のどかな村での公演は、百目蝋燭を村人が並べた野外が劇場だ。
三時間半は持つ大きな蝋燭だが、明かりでしかなく、照明とは言えない。
そして、お祭り気分で、村人は筵に座って見る。
貞奴率いる劇団は東京での舞台と同じ最先端の衣装・演技・小道具を取り揃え、来ている。
貞奴に東京と地方の差はない。
電気照明はなくても貞奴たちは、東京の舞台と同じ公演をする。
あこがれの世界が目の前に現れ、現実とは思えない村人の呆気にとられた表情がおかしかった。
ゆっくりとした日々の表情と、目を丸くして見る表情の落差がおかしかった。
照明がないと、時間の経過、季節感や天候の表現が難しい。
晴れた日の抜けるような青空から夕暮れの茜色へ、団員が走り回り、背景を創るがやはり弱い。
東京とのあまりの違いに、主演女優としてどう演じるべきか考えるが、観客の目の輝きは変わらない。
「このままでいい」と思う存分貞奴らしく演じる。
照明がなくても、楽しかった。
電気設備のない舞台は、演出できない舞台でもあり、辛いことも多く、俳優の力で勝負するしかない。
大道具小道具を自ら運び設営し、舞台づくりも大変だ。
有名劇団にとって地方巡業は都落ちだと軽視されていた。
だが貞奴はバカな考えだと笑った。
文化の配達人としての自覚を持っており、すべき役目だと、面白い素敵なめぐり逢い・発見を求め喜んで出かけた。
学童の無料招待を申し出ても、断られることもあった。
まだそのような村があるのかと、びっくりする。
児童の情操教育は、百姓には必要ないと認めないのだ。
天気の良い日中に、招待したり、楽しい学芸会程度のことだと、歩み寄り招く。
戦時中でもあり、各種の統制もあった。
それでも、子供たちに演劇の面白さ、表現し主張することの意義を教えたいと心に決め、屈することなく巡業を続け、子どもたちを招待し続ける。
巡業は過酷だった。
一座の中には病気になるものも出た。
特に音二郎の身体は弱っており、入院することもあり、起き上がれないことも再々だった。
慣れてはいたが、すべての諸事は貞奴の肩にかかってくる。
長く続くと、体力が持たないと、不安が増していく。
1905年(明治三八年)9月4日(日本時間では9月5日)、アメリカ東部の港湾都市ポーツマス近郊のポーツマス海軍造船所で日本全権、小村寿太郎(外務大臣)とロシア全権セルゲイ・Y・ウィッテの間で停戦条約が調印された。
日露戦争は終わった。
それでも、戦後の混乱が続いており、東京での演劇の再開には時間がかかった。
やむなく、予定通り全国を回る旅は続けた。
1906年初め、明治座での公演を頼まれ、ようやく東京に戻る。
2月から、かってのような公演が始まる。
収入を得て、団員たちの暮らしを支えるのが、貞奴の一番の仕事だ。
地方では、観客が少なく、諸経費ばかりかかり、収入にはならない。
音二郎も東京の人だ。
地方巡業ではお金のやりくりが大切になるが、そんな雑事は嫌いで、やる気を無くし、病気になってしまった。
東京での公演が軌道に乗り、収入も安定してくると、息を吹き返した。
演劇の将来を見つめて熱弁を振るうようになる。
文明開花の波は大きく押し寄せ、進歩したが、その進歩に比べ演劇は遅れていると強く主張する。
演劇は、文明の程度を示す大切な指標だ。
遅れを取り戻すために、立ち上がらなければならないと。
そこで、全国を回った経験を元に、各地に群雄割拠する新派の大同団結を図るべきだと決めた。
より価値ある演劇の力を生み出すために。
そこで、各地の新派の大同団結を図るため、再び、地方巡業の旅に出る。
3月、関西から始め地方巡業を続けた。
貞奴にとって体力が必要なきつい公演だが、嬉々として賛成し、地方公演を始める。
音次郎は、各地で、新派の演劇を実践する人たちと話し合うつ。
そして、新組織の機構・構成・規約を創っていく。
名簿登記・相互の連絡・脚本の供給・興行の補助協力・各地劇場主との連携と運営資金の調達・機関誌の発行などなど新組織の業務内容をまとめていく。
まとまれば、取りまとめた音次郎率いる川上一座は発展解消すると宣言した。
音二郎は全国の新派演劇をまとめる劇場を大阪に決めた。
4月、新劇場、帝国座の確認申請の認可を申請した。
帝国座での興行主となり、新派の興行を支援し、新派の発展に貢献するのだ。 翌1907年(明治四〇年)6月まで巡業を続け、その間、音次郎は説得交渉を続け、ほぼ全国の新派の大同団結に目途をつけた。