貞奴、さらなる高みへ|女優、貞奴 幾重にも花を咲かせ、咲き乱れて生きた麗人。(14)
だぶんやぶんこ
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翻訳劇を中心に上演が続き、貞奴は、日本一の大女優として国中に名が知れ渡る。
貞奴の誇らしい楽しい日々だった。
ところが、自信を得た音二郎は、飽き足らなくなり1903年6月、明治座で「江戸城明け渡し」を上演する。
共存を図るはずの歌舞伎界に、維新の史劇をぶつけて、挑戦したのだ。
亜流の翻訳劇ばかりではなく、日本の演劇の中心に躍り出たくなったのだ。
音次郎の変わり身の早さはいつものことだ。
貞奴は「今のままでいいじゃない。もっと慎重に、焦ることはないですよ。歌舞伎界と敵対しても益はない」と諌めた。
音二郎は川上一座の盛況ぶりを見て、次の段階に進むべきだと考えた。
歌舞伎の型にとらわれることなく、写真や古老の話に基づいて写実を旨とする正劇(新派劇の一種で、新劇の萌芽)を上演したくなったのだ。
日本の新派の演劇人として「新しい演劇を作るんだ。観客は来る」と睨んだ。
狙い通りだった。
明治後期から大正にかけて、川上一座を頂点とする新劇が、歌舞伎顔負けの人気を誇り拮抗する勢力となる。
歌舞伎が主に江戸時代以前の時代を扱うのに対し、新派は明治以降、近代日本の女性の人生を描く作品が多い。
歌舞伎の時代物とは違い、江戸時代や庶民の生活を描いた世話物ともまた違う。
近代日本人の情緒、風俗や生活、価値観を描く新派の演劇で、歌舞伎界に対峙した。
新派の代表俳優が日本一の女優、貞奴だった。
貞奴も歌舞伎界との軋轢は避けたいが、新派の演劇も好きになっていく。
近代日本の女性を演じることに、入れ込んでいく。
1903年8月15日、養母、浜田屋可免が亡くなった。
貞奴のすべてを受け入れ、応援してくれたとても大切な養母だった。
可免は、貞奴に出会えたことに感謝し続け「思いっきり生きるよう」と遺言した。
「(貞奴は)まだまだ伸びるんだからね」と明るく満足の笑顔を残して逝った。
貞奴は、主演舞台が続き、ゆっくり看護できなかったのが、残念だった。
それでも、最後の笑顔は見ることが出来て、看取ることも出来た。
冥福を祈る。
可免が、過去のしがらみにとらわれず女優の道を突き進むようにと威勢よく送り出してくれた気がした。
なんだか解き放された良い気分だった。
浜田屋は可免の弟、清吉が継ぎ清吉夫人の弟、明治座専務、三田政吉が受け継ぐ。
可免が貞奴を育ててくれたように、女優を育てたい、女優の養成に力を注ごうとの想いに、肩を押した。
いよいよ動く時が来たのだ。
また、可免の死の前7月、貞奴は横浜公演中に児童文学者、久留島武彦・巌谷小波(1870-1933)に会っていた。
新派と歌舞伎との対立が激しくなり、新派の今の状況を素直に受け入れられない。
対立するための新派の舞台には立ちたくなく、距離を起きたくなった。
そこで、子供芝居に取り組む。
以前から、子供が演劇鑑賞することは、大切で必要な情操教育だと考えていた。
そこで、何か子供のために役立つ、子供向けおとぎ話を上演したいと話し合った。
久留島武彦・巌谷小波と意気投合し、具体的な演目選びに入る。
貞奴は、海外公演の途中、巌谷小波に会い児童文学にかける熱き思いに共感していた。
巌谷小波(1870-1933)は、近代児童文学史の上で、日本児童文化運動の先駆者と見なされる。
1900年から3年間、ドイツ、ベルリンに留学し、欧州各地を周り、児童活劇の活気にふれた。
感動して心が揺り動かされ「日本でもぜひやって見たい!」と、日本の子ども向けの戯曲「春若丸」を書いた。
京都の堀川に住む柏井少将、春方と奥方、足穂の前の間に春若丸が生まれた。
両親の留守中、乳母たちが門前の幸若舞に見入っていると、山賊が財宝ともども春若丸も奪い去った。幸若舞の太夫たちは山賊の一味だったのだ。
春若丸は山賊の隠れ家の窟で人知れず育つ。
そして7歳の春、ふとしたことで下界に出た春若丸は、見るもの、聞くものすべて初めてのことばかり。
ここから、奇想天外な波乱万丈の物語が続いていく。
ドイツの少年小説「ハインリッヒ・フォン・アイヘンベルヒ」を原案とし、日本の平安末期の政情不安な時代の物語とした。
日本の民話的な面白さを持たせたが、歌舞伎スタイルで書いた。
1903年(明治36)雑誌『少年世界』に発表した。
自信作だった。
巌谷小波は「春若丸」を上演すべきだと推すが、あまりに歌舞伎調で貞奴は納得できない。
1891年、日本初の創作童話『こがね丸』を博文館から発表していた。
以来、児童文芸作品を表す言葉として「お伽噺」を使用し、次々童話を創っていく。
「少年世界」「少女世界」「幼年世界」などの博文館発行の雑誌を自ら編集長を務めながら、書き続けた。
こうして、児童文学を広めた。
「少年世界」「少女世界」「幼年世界」から「幼年画報」まで主筆となって作品を発表した。
さらに「日本昔噺」(1894~1896年)、「日本お伽噺」(1896~1898年)、「世界お伽噺」(1899~1908年)などのシリーズを刊行。
『桃太郎』や『花咲爺』などの民話や英雄伝を、幼い読者が理解できるよう創り変えたりした。
出版は、博文館であり、博文館社主、大橋新太郎が強力に後押しした。
貞奴は、吉永良延を通じて、博文館創業者、大橋新太郎を知っている。
桃介ともつながっており、言いたいことを言える関係だ。
「世界おとぎ話」を読み耽り、中で「狐の裁判」「浮かれ胡弓」が気に入り、選んだ。
大橋新太郎も、巌谷小波も賛成した。
気に入った原作を選び、演じることが出来るのだ、感無量だった。
ここから、自分らしい演劇を思い浮かべ形にしていく。
海外で見てきた演劇、俳優を思い浮かべ、負けないと気を引き締める。
可免が押してくれているのだ。喜んでくれるおとぎ話にすると。
舞台装置・配役・衣装・音楽その他一切の指揮を取る。
こうして貞奴が自分の意志で、座長となり、公演が始まる。
10月、貞奴座長の川上座は子供向けの御伽草子を上演した。
「初めて演じたい芝居を見つけた」と興奮して、練習を重ねたうえでの上演だ。
「狐の裁判」では、けだものに扮する役者に獣の頭をかぶらせ顔を見せた。
衣装は、動物の身体の毛色に合わせた服を着せ、動物になりきれるいで立ちだ。
日本では、子供向け演劇も、舞台衣装も珍しかった。
子供たちは、我を忘れて興奮して見入った。
「浮かれ胡弓(三味線を小型にしたような楽器)」
出会った乞食(魔神)に願われ、有り金すべてを与える少年がいた。
乞食(魔神)は心打たれ、その恩に応えて欲しいものを上げると言う。
そこで、少年は楽しい胡弓が欲しいと言い、思いが叶えられた。
胡弓が大好きな少年は、嬉しくて浮かれながら弾き始め次第に思い通りに弾けるようになる。
その音色は、聞く人の心に響き幸せそうに踊り始めるのだ。
胡弓を引く少年の周りには、老若男女が集まり、皆、浮かれて踊り出す。
主演の貞奴が半ズボンをはき、足を見せ、軽快に弾き踊り舞うと観客も浮かれ出す。
芝居の世界に陶酔し、子供たちの目が輝く。
貞奴の至福の時だった。
自分の足で、一座を率い、演劇を続ける、自立の道が始まった。
入場料を安く、貧民街の子たちは無料に、子供たちには寄贈を受けた本を土産に渡すなど、おまけも用意した。
貞奴は、過去のすべてを忘れ没頭し、心地よいおとぎ話の世界にどっぷり浸かった。
歌舞伎役者のように長い修業をしたわけでなく、演技には不安があったが、やっと女優としての手ごたえを感じた。
子供たちの歓声に包まれて、貞奴の心も洗われる。
日本一の女優だと気取って入るが、競う相手がいなかっただけだと思っていた。
演技力で日本一の女優であるとまでの自信はなかった。
子たちの歓声に包まれ「日本一とか大女優であるとかは関係ない、女優が天職なのだ。だから続けるんだ」と心晴れ晴れで一点の曇りもなくなった。
幸せな忘れられない記念すべき公演だった。
主な収入源は、多くの観客が集まる西洋演劇であり派手に演じ続けるしかない。
それでも、時には好きな舞台を持つ事ができ、女優である喜びを実感する。
自分で選んだ道を確実に進んでいる手応えがあった。
もっともっと、貪欲に貞奴らしく生きるんだと、空に向かって話す。
明治36年から37年、団(九代目市川団十郎)(1838-1903)・キク(五代目尾上菊五郎)(1844-1903)・左(初代市川左団次)(1842-1904)と称された明治の三代名優が亡くなり、歌舞伎は火の消えたようになった。
すると、新派は隆盛する。
貞奴は、演劇界の人気を一身に集める、日本のトップ俳優となった。
音二郎は「河原者」と呼ばれることを嫌い、反骨精神を奮い立たせ、新派の隆盛の為に突き進んだ。
貞奴は、演技の質を高めることに集中した。
音二郎と共に世間の荒波を受けても、突き進んだ。
そして、好機到来となり、新派の芸を広めていく機会を与えられた。
同時に、演劇人の社会的地位向上のために、舞台以外でも、努める必要があった。
新聞雑誌等の取材に応じることは好きではなかったが、時には応じる。
女優としての品格を示し、立派な職業であることを、身を持って示す。
欧米体験談や各国婦人の風俗・気質・習慣・嗜好・人情・要望・化粧・付き合い方まで話し、俳優の日々の努力、世界の俳優たちの紹介、演技の面白さを語る。
こうして、読者や演劇に興味を持つ人たちの思いに応える。
貞奴が、前面に出て語り始めると、政財界の有力者も動く。
彼らとの付き合いを深め、女優として生きる誇りを、女優を目指す人達に伝えたいとの思いを深め、形にするための構想が湧き出る。
大成した女優として政財界人と親交し、資金集めの目処も出来た。
長年の夢、女優養成所の実現を目指す時が来たと、胸が熱くなる。
貞奴、自らの力を試す時が来たのだ。
女優であることをバネに、さらなる高みを目指す。