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貞奴、日本一の女優に|女優、貞奴 幾重にも花を咲かせ、咲き乱れて生きた麗人。(13)

だぶんやぶんこ


約 6306

1902年8月、(さだ)(やっこ)は、日本に戻る。

二回目の海外公演を大成功のうちに終え、光り輝いていた。

興行をこなし文化大使としての役目を果たす第一の目的を達成し、国際女優としての自覚と自信をもっての帰国だ。

同時に、各国の舞台を精力的に見て回り、それぞれの演劇人と親しく意見交換し、それぞれの国の演劇の状況の視察することも大きな目的だった。

あまりに忙しすぎて、こちらは今後に持ち越した。

 たちまち一座の住む家がなかった。

大森の家は差し押さえられており戻ることが出来ないからだ。

一座の仲間と共に住める家を見つけなければならない。

帰国前に新居探しを知り合いのあちこちに頼んでいた。

あとは決めるだけだったが。

音次郎の旧知の友であり、熱烈な(さだ)(やっこ)ファン、吉永良延が、素晴らしい家を見つけてくれ、その話に乗るつもりだった。

吉永良延が所有する相模湾に面した茅ヶ崎の高砂(たかすな)緑地(りょくち)を譲るとのことだった。

借金の返済をしても、余裕資金はあり、購入の意志は伝えていたが、目で見て確かめて決めたかった。

出迎えの中に、吉永良延がいた。

再会を喜び、早速、これからのことを打ち合わせる。

現地を見て、予想以上の好条件に驚き喜んだ。

(さだ)(やっこ)・音二郎が尊敬する歌舞伎界の大御所、市川団十郎の別荘に隣接する景勝地だ。感激して即決だ。

そこには「萬松園」と名付けられた和洋折衷の住居が建っていた。

10月、吉永良延らから約二千坪(後に買い増した部分を含んで)の「萬松園」を含む松林を購入する。

 権利関係が複雑で、貞奴が土地・建物の所有者になるまで、調整が続くが、おおらかな時代であり、即入居する。

五年ぶりに自宅を持った。

川上一座の住まいであり、稽古場であり、演劇活動の拠点が出来た。

長い海外巡業の成功をかみしめる。

座員と共に歓声を上げて喜んだ。

 貞奴は、大女優として評価されたゆえに巡りきたご褒美だと喜びを噛みしめる。

大女優として生きる覚悟を改めて持つ。

「萬松園」は、幾つもの縁で結ばれた、(さだ)(やっこ)の家となる。

貞奴の父はこの近くの出身であり、兄の養子先でもあり、馴染みのある地なのだ。

故郷にも等しい。

吉永良延は、結婚前の音二郎が資金に窮した時支えてくれた恩人でもある。

以来、価値観が音次郎とよく似て、話が合いとても親しい。

ただ、話は大きく奇想天外で信じがたいところもあったが、

高名な横浜の文化人であり「新世界新聞社」の「社主」。

精力剤「慈強丸」・目薬「一点水」を販売し、宣伝がうまく成功した実業家だ。

芝居好きで、海外での貞奴の活躍の情報をかき集め、貞奴の熱烈なファンとなった。

また、磐城セメント(後の住友大阪セメント)の初代社長、吉永仁蔵は吉永良延の親戚になる。

磐城セメントは、実業家として名高い、岩崎清七・明治・大正時代の出版王、博文館社主、大橋新太郎・渋沢栄一らが設立に尽力し、横浜市港町(中区港町)の浜港館で創立総会を開催し出来た。

吉永仁蔵は、横浜の著名な実業家だ。

2代目社長が岩崎清七(1865-1946)。

代々醤油醸造と米穀肥料商を商う。

非常に優秀で、慶應義塾に入り、諭吉にも目をかけられ、アメリカ留学し、実業家として、多くの会社の成立に関わる。

後に、福沢桃介と共に日清紡績を創立しており、関係が深い。

桃介は、まだ、北海道炭礦鉄道(北海道炭礦汽船、通称「北炭」)の重役付きでしかなかったが、諭吉が亡くなり、思い切り羽根を伸ばした時期で、貞奴を陰ながら支援している。

次第に、後援者として影響力を持ち、音次郎の脅威となっていく。

吉永良延は川上一座の明治座の興行に出たいと言い、(さだ)(やっこ)と音二郎は喜んで応じる。

後援者としても、友人としても、親しい仲が続く。

「萬松園」は、旅館だった。

1897年、茅ヶ崎駅が出来たことで、建てられた。

駅を活用した、茅ケ崎への集客、茅ヶ崎の発展のため、知恵を絞り、旅館が必要と建てられた。

村長、伊藤里之助は、茅ヶ崎別荘誘致開発に力を込めて取り組んだ。

1899年から防砂を目的とした防砂林の植林を始め、最高の別荘地だと宣伝した。

その茅ヶ崎の良さを体感するための旅館「萬松園」だった。

その建物を1902年、貞奴が購入した。

以来、村長・村民の心意気に賛同して、茅ヶ崎での別荘建設の宣伝役となる。

土地購入には、近くに住む兄、幡豆(はず)勝次郎も力になってくれた。

広大な土地であり、所有者は幾人かおり、調整し、買い足して2000坪になる。

そこで、世話になった兄、勝次郎に一部を残そうと話す。

兄は、北海道に移り、我が子、幡豆(はず)寅之助への所有権移転を貞奴に頼み、貞奴は応じ、幡豆(はず)寅之助の所有地が出来た。

寅之助は、横浜の水上署に勤務する。

そのため、幡豆寅之助は、海上に詳しく、音二郎と話が合い、共に神戸から台湾視察の旅に出ている。

貞奴は、寅之助を養子にし、後継にしても良いと思う。

貞奴の兄弟姉妹は、源兵衛、花子、トヨ、タガ(タカ)、留吉(留三)、久次郎、夏子、彦造、倉吉、幡豆勝次郎。

貞奴は、兄、勝次郎・倉吉を頼りにした。

高砂(たかすな)緑地(りょくち)「萬松園」で過ごす貞奴は、幸せだった。

打ち合わせ・稽古の間に、楽しそうに、洋装で犬の散歩や、自転車を乗りまわした。

超人気の美貌の貞奴を見たいと、見物人が絶えなかった。

茅ケ崎への集客、茅ヶ崎の発展へ、大きく寄与した。

貞奴も注目を浴びると、より美しく輝く。存在そのものが、天性の広告塔だった。

こうして「萬松園」でのけいこを続け準備を整える。

いよいよ、凱旋公演、明治座でのシェイクスピアの翻訳劇「オセロ」興行を始める。

第一回目の凱旋公演で、発表するはずが、反対が多く、出来なかった。

今回は、誰が何を言おうと、(さだ)(やっこ)主演で上演すると決めていた。

海外の成果を世に訴えるのだ。

1903年2月11日、紀元節を期して、(さだ)(やっこ)は日本での新しい試みに緊張で震えながらも、堂々とシェイクスピアの翻訳劇「オセロ」を演じ、世に問うた。

日本で、女優、(さだ)(やっこ)は勝負をかけたのだ。

大勝利で、女優、(さだ)(やっこ)は、受け入れられ、興行は大成功だった。

外国人女性を演じる(さだ)(やっこ)は新鮮で、驚きとともに、賞賛の嵐となり、大入りが続く。

(さだ)(やっこ)は、男優と女優が共に演じることが観客に受け入れられたと、感無量だった。

ここで、近代日本演劇史上初の女優が誕生した。

(さだ)(やっこ)は、気品があり、申し分ない仕草は身体中隅々まで行き届いていた。

踊りは優雅で、楚々とした表現で、日本女性としても受け入れられる演技で勝負した。

観客はうっとりと見惚れて、思わずため息を漏らす。

終焉となると拍手喝采の声が鳴りやまなかった。

外国では自信があったが、日本で女優が受け入れられることがまだ半信半疑だった。

2年前、海外から戻って、公演したかったが、受け入れ先はなく、諦めてしまった。今と何が違うのか、自問自答する。

経済的に余裕がなかったこと。

受け入れ態勢がなかったこと。が主な原因だ。

その上で、貞奴自身が自信がなかったのがのも大きいと思う。

今は、日本の女優だと胸を張ることができた。

32歳で初めて、女優になった喜びをかみしめる。感激で涙を流し続けた。

音二郎と共に成功を祝った。

女優を卑しい職業と考える風潮はまだ残っているが、演劇史の中で輝く第一歩を踏み出したのを実感する。

以後、「ハムレット」など外国女性を演じ、女優としての地位を固めていく。

そんな時、1903年(明治三六年)9月13日、市川団十郎(1838 – 1903)が亡くなった。

まだ茅ケ崎に住んで1年だ。

憧れの師匠とお隣になって喜んだが、あまりに早く別れが来た。

教えてほしいことがまだまだあったのにと残念でならない。

歌舞伎俳優九代目市川団十郎は、鉄道の駅ができる前、まだまだ鄙びてのどかだった茅ヶ崎に別荘「孤松庵」を建てた。

景観が気に入ったのだ。

ここで、六代目尾上菊五郎など若い歌舞伎俳優を育て茅ヶ崎の名を有名にし、茅ケ崎の恩人とも言うべき人となった。

そしてこの地で亡くなった。

貞奴も音二郎も、世話になっていた。

少しでも恩を返したいと、川上一門は、急遽、弔問客のため駅から団十郎邸までの道普請や道案内に取り掛かる。

茅ヶ崎停車場から団十郎の別荘まで四キロほどあり、音二郎・貞奴の高砂(たかすな)緑地(りょくち)を通るのが一番近路だった。

そこで、団十郎の屋敷まで屋敷内を道路として整備し小川に橋を架け、所々へ杭を立てて堀越(団十郎の本名)道と貼紙しランプを吊り下げた。

東京からの弔問客のために、我が地を提供したのだ。

皆が喜んだ。

15日、遺体は茅ヶ崎駅から東京の本邸に向け搬送されるが、その前にわざわざ村内を一周した。

団十郎の遺志だ。

茅ヶ崎を皆に見せたいと考えてのことだ。

茅ヶ崎駅から貨車を貸切り、棺は鉄道で東京築地の本邸に送られた。

続いて本葬が、20日青山斎場と決まる。

そこで、音二郎は大磯の別邸、蹌浪閣(そうろうかく)に居た伊藤博文を訪ね、一国を代表する俳優を葬るのに国家が顕彰するのは当然と、西洋での見聞を訴え、団十郎のために弔辞を依頼した。

前代まで最下層の身分に置かれた俳優のために、一国を代表する元老の弔辞を得るのは、異例だが、実現させた。

貞奴の働きでもある。

斎場で胸を張って、音二郎が代読する。

団十郎を見送り、公演を続け、(さだ)(やっこ)は、日本一の人気のある女優になった。

社会の評価であり、自ら体感している。

競う女優がなく、数少ないために日本一と称賛されるだけだと、自分を戒めるが。

同時に、貞奴だけで終わらせてはならないと気を引き締める。

女優を育て、男優と伍して演技できる女優としなければならない。

海外での公演時に、女優の卵を連れて行き、俳優学校の授業を見たり、観劇し、演劇の在り様は見ていた。

まだまだ勉強不足だが、構想は練っていた。

(さだ)(やっこ)と音二郎は、話し合い、

俳優学校の設立。

男優女優が自然に演じられるための脚本の改良。

河原者と言われる役者の不品行の改良。

俳優の社会的地位の向上。

公立劇場の設置、等々の実現するために、力を合わせると固い約束をする。

また、長年日本の演劇界を引っ張ってきた歌舞伎との摩擦を避けたい。

そのために、欧米では日本の演目を、日本では西洋演劇を演じ、新劇の活路を見出し、発展させると、決めた。

ここから、女優養成機関を創る試みを始める。

(さだ)(やっこ)を目指して若い女優志願者が現れていると聞いている。

嬉しくて、手ずから教えたい。

まず、音二郎の姪、澄子と(さだ)(やっこ)の姪、小山ツルを内弟子にし教える。

小山ツルは、ヨーロッパ巡業にも伴った貞奴の最もお気に入りの後継だ。

ツルだけでなく、もっともっと多くの女優を育てるのだ。

 同時に、活躍している女役者を、男女混合劇での女優として飛躍する手伝いもしたいと思う。

女優が競いながら、男優と共演し、良い舞台を創らなくてはならない。

1629年、徳川幕府は、将軍家光時代、風紀を乱すとして(おんな)(まい)・女歌舞伎を禁じた。

以来270年間、日本演劇に登場する女性はすべて男が演じる女形だった。

女役者のみで構成される女芝居があるだけだった。

明治の代となり、他の価値観は大きく変わるが、演劇の世界では江戸時代の遺風が残っていた。

(さだ)(やっこ)の呼びかけに応じて、女芝居の名優、(守住月華)市川九女八(1846-1913)が弟子、内田静江らを連れて加わる。

舞台は女優たちがにぎやかに競演することで、盛り上がり、観客も喜び盛況を続ける。

女優の共演の素晴らしさを実感する。

(さだ)(やっこ)は「女優は創れるし、創られるべきだ」と自信を持った。

いよいよ(さだ)(やっこ)の正念場だ。

男優に負けない女優を数多く養成し、舞台に欠かせない存在とするのだ。

当時、女優として注目されたのは(さだ)(やっこ)だけではない。

貞奴が海外興行をした二年後の1902年、34歳の名古屋で芸者をしていた「花子」(太田ひさ)が海外興行に出ている。

貞奴が花開かせた東洋ブ―ㇺに乗り「武士道」「ハラキリ」などの侍物の舞台を演じ、踊った。

1906年には、ロイ・フラーと共にマルセイユで開催されていた植民地博覧会で公演を行なっている。

ロイ・フラーが花子の演技を気に入り、そのプロデュースをしたのだ。

続いて、欧米18ヶ国を巡業する興行を企画した。

各国で、大人気を得て、花子はスーパースターになった。

ロダンが、「芸者の仇討ち」を演じていた花子の公演を見る。

花子が桜の木の下で斬られ悶死する断末魔の表情に衝撃を受け、花子にモデルを頼む。

花子が応じると、66歳のロダンが、身長140cm足らずの花子を小柄な「プチト・ハナコ」と呼び、夢中になって、制作を始めた。

巡業がない時、花子は、ロダン夫妻の自宅で過ごすほど、親しくなり可愛がられる。

ロダンが制作した花子の肖像彫刻は60もあり、他にもスケッチが残る。

ロダンは、花子を生涯で最も数多くモデルとし、彫刻を作ったのだ。

表情豊かな大好きなモデルが、日本の女優、花子だった。

貞奴もその評判を聞き頼もしく思う。

花子は、1921年(大正一〇年)日本に戻り、岐阜市の妹の元で暮らし、演劇から身を引いた。

「イギリスばあちゃん」と呼ばれロダンから受け取った肖像彫刻二体を誰彼となく見せ、喜ばせた。

花子が話すイギリスでの暮らしを、皆が興奮して聞く。

貞奴との接点はなかったが、1945年亡くなる。

女優として生きたい女性の声が聞こえてくる。

もっともっと、貞奴のあとに続く女優を生み出さなければならない。

その時が、いよいよ始まる。