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大女優、貞奴|女優、貞奴 幾重にも花を咲かせ、咲き乱れて生きた麗人。(12)

だぶんやぶんこ


約 6021

日本で突き付けられた現実は厳しかった。

渡航前の俳優税金滞納の支払い、借金の返済を請求され、払わなければならない。

海外興業での利益だけでは足りないほど膨れ上がっていた。

国際女優となり、文化大使としての役目を果たし、パリに咲いた絢爛豪華な華だった貞奴なのに、資金稼ぎに、四苦八苦することになる。

洋行土産の芝居を熱望されたこともあり、稼ぐぞと公演を始める。

川上一座は、海外での人気が日本にも伝わっており、きっとうまくいくと、日本のファンに応え、稼ごうとした。

だが、存在感のある主演女優中心の男女混合劇は、まだなかった。

海外公演は、主演女優、(さだ)(やっこ)で稼いだ。

ところが、日本では、興行主は、海外と同じ公演を望まず、(さだ)(やっこ)の出番はないのだ。

貞奴は裏方に回った。

公演は、盛況だったが爆発的興行収入とはならず、すべての借金の返済は難しかった。

稼ぐ方法は、海外で超人気を得た演劇しかない。

ここで、(さだ)(やっこ)は覚悟を決めた。

自分が女優として大劇場で演じ、稼ぐ以外に打開の道はないと。

それは日本では難しいどころか、挑戦することすら出来ない。

再度の海外公演しか打開策はない。

「こんなはずじゃなかったのにね」と二人顔を見合わせながら、ため息だ。

こうして、海外渡航への金策と再渡欧し有利な条件での興行のために準備を始める。

すでに、ロイ・フラーと興行契約を交わしており、近いうちに行く予定だった。

ただそれだけでは限界がある。

もっと稼ぎたい。

(さだ)(やっこ)は日本の文化への対応に腹が立っていた。

海外では女優として圧倒的人気を得たのだ。

その報道を知りながら、日本の演劇界は変わろうとせず、女優を必要としなかった。

演劇界は女性が主演で舞台に立つことへ抵抗があり、厳しく排除しようとしたのだ。

「男が男を、女が女を演じる、この当たり前が通じない日本の演劇界なんかにこだわらない。出ていくよ」と啖呵を切った。

だが、女優が少なすぎる現実があった。

活躍の場がないからだが、女優がいないから男女混合劇が出来ないのでもある。

そこで、貞奴は、才能ある女の子を海外で育てようと考える。

演技のうまい女優を創れば、きっと公演できるようになると。

主演を目指さなくても、まず、男女混合劇を作る下地を作る必要があると。

それは、女優が当たり前のようにたくさんいる海外が相応しい。

海外で、海外の女優と競わせながら女優を育てれば良いと。

こうして、女優(女役者)と女優の卵を加えて、海外に向けて川上一座を結成する。

貞奴は、自分の考えに納得していたが、海外への恐怖心はまだまだ強く、思う人材が集まらない。

嫌がるのを説き伏せて、

女役者、石原なか(芸名、中村忠吉)40歳。

見習い、大田なみ21歳。

見習い、浜田たね16歳。

見習い、西尾とし16歳。

(さだ)(やっこ)の兄、倉吉と倉吉の長女、小山ツル

音二郎の子、5歳の長男、雷坊(雷吉)。

川上一座14人を加え、総勢21人だ。

今は日本での活躍の場はなくても、女優を育てなくてはならないと決めた。

途中で、女優見習いの二人は帰国し、一人の男優を呼び寄せた。

1901年(明治34年)4月10日、神戸港から讃岐丸に乗り、再渡欧の公演旅行に出発した。

6月4日イギリスに入り、一年の長期興行がロンドン公演から始まる。

パリ万博での公演が長引き、公演できず、延期されていたコロネット劇場での公演だ。

9月にはパリに入り、コーマルタン街のアテネ劇場での公演を始める。

すべて、ロイ・フラーと契約した公演だ。

パリ万博のような熱狂的な観衆は減ったが、盛況だった。

フランスの小説家、ジイドの評価が、浸透していた。

貞奴も気に入っていた。

「愛の驚喜(きょうき)の叫び声、全戯曲を通じて唯一の叫び声だが、その叫び声を上げて憎み、また愛することを終わらせる。美に最上の価値を認め、それを唯一の目的とする唯美主義そのものだ」と絶賛した。

その他貞奴の素晴らしさはそこかしこで知られている。

だが、万博が終わり、お祭り気分は、かなり失せていた。

どこか物足りなさと収入の少なさなど不安が残る中で、パリをあとにし、ドイツ、ベルリンに入り、新規開拓しつつ、公演を続ける。

年末、伊藤博文がドイツに来ることになっており、会うのも目的だ。

貞奴は、会うのを楽しみにしていた。

予定通り、伊藤が来て、飛ぶように伊藤に会いにいく。

伊藤も、貞奴の活躍を喜んでおり、激励を兼ねて親しく旧交を温める。

その様子が新聞に載り、貞奴が話題となる。

総理大臣の後援する貞奴は、皆の注目に値して、注目された。

ここから、貞奴らは、ベルリンに在住している日独の要人の宴席に呼ばれ、国際親善の役目を果たすようになる。

ようやくパリ万博の時のような、脚光を浴びる。

「こうこなくちゃ」と、自信を取り戻した貞奴。

一流女優として認められ、熱狂的なファンを掴む。

あまりに過密スケジュ-ルでの公演が続き音二郎が体調を壊し、寝込んでしまう。

(さだ)(やっこ)は「仕方がないね」と言いながら、主演女優であり座長であり貴賓の接待もこなす超過密スケジュールをこなす。

しかも上演は移動日を除き毎日なのだ。

自分でも体がよく持ったと思うほど、責任者として、女優を育てながら頑張った。

ドイツでの公演を盛況のうちに終える。

翌1902年(明治三五年)2月1日、オーストリアに入り、すぐにウイーン続いてグラーツと公演が始まる。

(さだ)(やっこ)の人気は広まっており、知名度は抜群で、皇室一族、有名俳優、文化関係者が競って見に来る盛況だった。

そこに、(さだ)(やっこ)の熱狂的ファンが現れた。

オーストリアの有名な流行作家ヘルマン・バール(1863-1934)だ。

「繊細で、ゆらゆら揺れ動いて定まらず、たゆたっているようだ。水晶(透き通る氷のような精霊が宿る石)でできているかのようだ。一輪の花が鉱山の薄い空気の中で育ち可憐に色鮮やかにひっそり咲き誇るようでもある」と。

ヘルマンだけでなく、各国の著名人・記者が観賞し、それぞれの表現で賛美した。

「とても愛らしく甘く、穏やかで、心に溶けいるような飾り気のない、かすかな優しい女性を思わせる」。

「気品ある風格、多感と純情を持つ。内面的感情表現に優れる」。

(さだ)(やっこ)は、そんな評価を面映ゆくは感じるも、当然だとの思いもあった。

公演が続き、(さだ)(やっこ)の人気は絶大で不動となる。

ハンガリーのブタペスト・ユーゴスラビア・ルーマニアのガラツィ・ポーランド・チェコスロバキアのプラハと公演を続けた。

 観客の多くが、見知らぬ遠い国から来た芝居を見て、異国と異民族の持つ異質の文化に接し、驚き強い関心を持った。

主演女優、(さだ)(やっこ)は、注目の的となり、面会を求められ追いかけまわされる。

だが、(さだ)(やっこ)は忙しすぎて、面会も対談も取材も拒否した。

その媚びない潔い態度が、また人気を沸騰させた。

 音次郎の体力も回復し、しっかりと各国の演劇のあり方を学んでいく。

また、身振り手振りでのわかりやすい演技を求める音二郎と、繊細で抑制のきいた演技を好む貞奴との諍いも激しくなる。

どちらも、芸術家であり、演劇のあり方に確固とした考えがあった。

(さだ)(やっこ)も各国を巡り、日本の演劇の在り方、表現の仕方などを考えさせられ、次第に女優として演劇界を引っ張る心意気を培っていく。

日本の高い文化に裏打ちされた演劇を広めつつ、多くを稼ぐために、驚異的日程で公演を続ける。

ロシア・イタリア・スペイン・ポルトガルと続けた。

ロシアの公演では、皇帝ニコライ2世から、絶賛され、金時計を贈られた。

世界に咲く華、(さだ)(やっこ)だった。

大女優としての風格が溢れていく。

貞奴は、気品のある顔立ちで、純情と妖艶を瞬時に演じ分け、内面の微妙な表現も難なくこなす、天性の国際女優だった。

したぶくれの卵を逆さにした顔、あるかなきかの小さな鼻孔の鼻、色白の肌、黒い髪、痩せてほっそりした体格、か細い腕、あどけない態度、気取った優雅さ、天性の容姿とさまざまに表現出来る演技者だった。

大女優としての才能が満ちていた。

それでも、なにをどう褒められようとも、課せられた責任を果たすことに全神経を集中するだけだった。

(さだ)(やっこ)なくして舞台は成り立たないのだから。

どの舞台でも、(さだ)(やっこ)の存在がすべてなのだ。

絶対に倒れないと気を張っていたが、倒れなかったのが不思議なほどの過密な日程だった。

 日英同盟が1902年1月30日、調印された。

ロシア帝国が極東進出を図っており、阻止しなければならないと、英国外務省で日本駐英公使とイギリス外相との間で結ばれた。

この同盟で大国、イギリスと対等の権利を持つ国として日本の名が広く知られるようになり、渡米当初の黄色人種への差別は減り、劣等感も多少は緩和され、公演はスムーズに進む。

 それでも、興行主は無理なスケジュールの公演日程を組み、(さだ)(やっこ)は追い立てられた。

(さだ)(やっこ)と音二郎は、各国の演劇の在り方を視察したかった。

音二郎と共に、各国の舞台を精力的に見て回り、それぞれの演劇人と親しく意見交換したかった。

だが、忙しすぎて、思うほどのことはできなかった。

わがままで、強情で、怜悧な、賢く、敏捷な、器用な、勝気の面魂(つらだましい)を演技し続け、ヨーロッパじゅうに(さだ)(やっこ)旋風を起こし駆け抜けた。

きゃしゃな体でどうして舞台上であれほどのたくましさが表現できるのか、信じられないと誰もが不思議がるほどで、一層人気が高まる。

 貞奴は、観客が増え、収入が増えるのを喜んだ。

借金の返済が第一であり、たちまちはそれだけで十分だった。

視察は、次の機会にしようと思う。

1902年6月、予定したすべての興行を終え、帰途に就く。

ここでようやく、(さだ)(やっこ)は、落ち着いた旅を楽しむことができた。

音二郎と共に巡る最高の観光旅行であり、身体を休めることが出来た。

8月、1年4か月ぶりに、神戸に着く。

日本に戻ったと、感激で涙を流す。

借金は返済し、余裕資金も出来た。

女優としての揺るぎない自信もある。

誰が何を言おうとも気にしない、日本で女優、貞奴として生きる覚悟ができていた。

だが、今は、ゆっくりとした時を過ごしたい。

川上一座の前に、海外公演する一座は、いくつもあった。

1866年4月、渡航規則(海外渡航差許布告)が出され、可能になったのだ。

居留地での楽しみに招かれ披露した芸人がおり、日系人がもっともっと日本の芸を見たいと願った。

そこで、外国人興行師が、日本の細やかで珍しい民衆芸が売り物になると思いつき、願った結果、許可されたのだ。

こうして、1866年(慶応二年)の秋、独楽(こま)廻し、軽業師、手品師など男女14名が、二年の興行契約を結び、海外に渡った。

異国を遍路する旅芸人の先頭を走る。

最終的に目指すは、1867年(慶応三年) 第二回パリ万博での公演。

出向したのは、12月、横浜港から西廻りでヨ-ロッパに向けて出向した一行と、東廻りでアメリカ・ヨ-ロッパを目指した一行がいた。

西廻りの一行の中に、手品師、柳川蝶十郎(1847-1909)が加わっていた。

まず、ロンドンで、日本式手品の名人だと絶賛を浴びる芸を披露した。

ウィンザ-城で王室一家の前でも、得意の芸を披露した。

1869年、各国を回り、好評のうちに、帰国する。

切った和紙を扇であおいで蝶の飛ぶさまに見せる芸「浮かれ蝶」は絶品だった。

「バタフライ・トリック」と呼び、手作り蝶を自由自在に、空中であやつり、最後にほんものの蝶を舞わせた。

(きょく)独楽(こま)」の十三代松井源水と女房、娘もいた。

松井源水は、十一種の「曲独楽」をあれこれ披露する。

ヒモとともに目方が七貫二百匁(約27Kg)もあるという三尺五寸(約10.5cm)の大コマを、かるがるとまわす。

フィナーレは、そのコマが、まんなかから二つにわれて、娘のおつねがキモノ姿でキョトンと飛び出す。

皆、拍手喝采だ。

イギリス各地を巡業してから、翌年の7月にパリの劇場で興行を行った。

1867年4月から10月31日まで開催のパリ万博は、日本が初めて、公式参加した万博になる。

幕府・薩摩藩・佐賀藩は、参加国として恥ずかしくない陣容を整えたいと、芸人一座を呼び込んだのだ。

パリでの興行後も、ベルギー、ドイツ、イタリアなどヨーロッパ各地を巡業。

1870年2月、帰国。

東廻りの一行の中に、隅田川浪五郎、女房の小まん、浪七と、八歳と七歳の少年がいた。

「自動人形」(からくり人形)が得意芸だ。

唐子(からこ)三番叟(さんばそう)などのカラクリ人形を幾つも、器用にうごかして東洋のエキゾチズムをただよわす。

浜碇定吉もいた。

あお向けに寝て両足を上げ、足の裏ではしごや樽を支える足芸の妙技を見せた。

絶賛された。

サンフランシスコが初演となる。

アメリカ巡業の後、パリ万博に向けて海を渡った。

隅田川浪五郎・浜碇定吉らは、それぞれに日本文化を、海外に知らしめた。

彼らの作った道を歩み、日本文化の研ぎ澄まされた水準の高さを諸外国に知らしたのが、大女優の名を冠された貞奴だった。