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貞奴、パリに咲く華|女優、貞奴 幾重にも花を咲かせ、咲き乱れて生きた麗人。(11)

だぶんやぶんこ


約 4981

パリに向けて出発した。

4月28日、ニュ-ヨ-クからユベニア号に乗りアメリカを離れた。

駐米の政府高官の見送りを受けての日本を背負う出発だと、音二郎は見栄を張る。

一等船室を予約し、出発前、一流ホテルで、一流の文化人として、多くの賓客を招き、別れの宴を催した。

小村寿太郎は滞在費用・公演費用はすべて支払ってくれたが、別れの宴会は関知しなかった。

もちろん、パリへの船室も。

パリなど行かず、アメリカでの興行を続けるよう言ったほどだ。

(さだ)(やっこ)は、音次郎の変身ぶりが不安になっていく。

一流を気取り、話し方から衣装・歩き方まで、こだわるようになったのだ。

船内でも一流を気取り散財した。

やはり、途中、イギリスのリバプ-ルに着いた時には手持ちの資金はわずかになってしまっていた。

「あなたはお金を使いすぎます。お金が残りわずか。船室を変え、分相応に行くしかない」と叱る。

そこで、音次郎は、急きょ、ロンドン公演を始める。

パリまでの資金を稼ぐのだと威勢がよい。

ニューヨークでの評判が伝わっており、日本大使館の後援を得て興行は大成功だった。

ここでようやく、一流文化人としての体裁を整えて、パリ入りが出来るようになった。

(さだ)(やっこ)に「やったよ」と、自慢タラタラだった。

(さだ)(やっこ)が、主役を演じるがゆえに、興行が成功したのであり、(さだ)(やっこ)は音次郎に付き合い疲れるばかりだったが、それでも嬉しい。

すると、その評判を聞き興味を持ったイギリス皇太子から、バッキンガム宮殿での晩餐会に招待される。

予想外の申し出に、(さだ)(やっこ)と音次郎、顔を見合わせ、手を取り合って喜んだ。

日本大使館が、積極的に働いたからでもある。

アメリカ大使に張り合い、イギリス流に貞奴を売り込んだのだ。

(さだ)(やっこ)自身が、(さだ)(やっこ)の為の仮設舞台創設を見守り注文をつけ、堂々と「芸者と武士」を演じた。

主演女優として自覚し、演じた。

皇太子は「日本の芸術を目の前で観ることが出来た」と日本の美に酔いしれた。

(さだ)(やっこ)は生きた芸術だとまで絶賛され、皇太子から多額の寄付を得る。

(さだ)(やっこ)は「ただ、望まれるままに流れに沿って、女優をやっただけだ。あまり高く評価されても困る」という思いがどこかにあった。

それでも、皇太子の絶賛の声を直接聞くと「なかなか女優も面白い。私に力を与えてくれるお不動様の御加護だ。前を向いて演じていく」と演劇の醍醐味を味わい始める。

音二郎始め座員たちが異国での暮らしになれて、血色もよく公演を楽しむ様子が、何よりもうれしかったが。

1900年(明治三三年)6月末、ついに、万博でにぎわうパリに乗り込んだ。

公演に先立って栗野慎一郎(1851-1937)駐仏公使主催の夜会が催され、(さだ)(やっこ)ら一座が演目を披露した。

在仏の日本の外交官らは感動し、前評判を高める。

栗野慎一郎は金子堅太郎と親交があり、音二郎とは同郷で、特に熱心に後援した。

そこで、音二郎は、やる気満々で日本の美を強調し、歌舞伎に忠実な日本的精神の表現に心がけた傑作を上演した。

衣装も外国受けを考えて新たに取り寄せた。

川上一座の晴れ舞台にし、日本の演劇の力を見せると意気込む。

公使の手配で、パリ万博の日本館のすぐ側にあるロイ・フラー劇場での上演が決まっていた。

この年のパリ万国博覧会は新世紀を祝う記念すべき万博だった。

1851年ロンドン万博以来11回目になり、その内パリ万博は5回目だ。

四千八百万人の過去最高の入場者数となり「花の都」パリの名を世界に広めた。

日本政府は、トロカデロ広場に法隆寺金堂風の日本館を建設し古美術品を出展した。

ロイ・フラーはアメリカ生まれの女性舞踊家(ダンサー)。

当時、最先端の科学である照明技術を効果的に使ったテクノロジーダンスを踊る。

薄絹の衣装を何枚も身体に巻き付け回転しながら縦横上下に動かし、めくるめく強烈な印象を与える踊り、幻想的な「火の踊り」で爆発的人気を得た。

舞踊家として成功し、5百人収容の小劇場を主宰していた。

自分の審美眼に自信があり、演目も自ら判断するやり手の経営者となる。

斬新性のある演目を望み、芸術に厳しい目を持つ。

ロイ・フラーは音二郎の自称、傑作を見て「面白くない」と切り捨てた。

歌舞伎ではなく、動きの激しい「腹切り」を前面に押し出す芝居へ変更を求めた。

ロイ・フラーが納得しないと公演できない。

やむを得ず、(さだ)(やっこ)主演のハチャメチャドタバタのチャンバラ劇を演目とする。

(さだ)(やっこ)の愛を得たいと、男性陣が大殺陣(おおたて)を繰り広げて、最後は観客がよく見えるように立ったままで切腹する。

(さだ)(やっこ)を巡り、多くの男性が死闘を繰り返すのだ。

日本ではありえない筋立てだった。

派手な舞台の中で冴える(さだ)(やっこ)の清楚な顔立ちと妖艶な仕草、踊りの対比が強烈でロイ・フラーは大喜びだ。

こうして、公演が決まる。

ロイ・フラーは、必ず成功するし、成功させたいと、初日の招待客をロイ・フラー自ら選んだ。

初日の招待客の印象が、以後の入りに大きく影響するからだ。

芸術家・演劇人・評論家などなどじっくり選んだ招待客は見終わった後、感動のため息で声が出ないほどだった。

次いで、賞賛の言葉が飛び交い、各界で話題になる。

以後、著名人が詰めかける。

著名人が観客になると、著名人見たさに一般の観客も詰めかける。

こうして、国を挙げて作られたパリ万博日本館の入場者より、(さだ)(やっこ)たちの公演の観客が多くなった。

それでも、(さだ)(やっこ)の影響で日本館も徐々に注目され、日本の存在をより多くのパリの人々に知らしめることになる。

来客は、(さだ)(やっこ)の存在とともに、深く美しい日本を胸に刻みこむ。

一年前の4回パリ万博でエッフェル塔が建造された。

今回、近くに各国の風景を再現した商業パビリオン「世界旅行」が創られていた。

そこに、日本政府が日本風の五重塔や門を建てていた。

この日本館が、(さだ)(やっこ)人気のおかげで、万博一番人気の場所・建物となったのだ。

日本館が、見学者で溢れ、関係者の顔が立った。

パリっ子を魅了した川上一座は、8月19日に開かれたエリーゼ宮でのルーベー大統領主催の園遊会に招かれる。

余興出演を求められ、招かれたのだ。

芸人として招かれただけで、正式の招待客ではなかった。

そのため、通用門から入る事になっていた。

怒ったのが(さだ)(やっこ)と音二郎。

音次郎が「日本の文化大使であり客人として招かれている」と断固として主張した。

ここで、栗野大使が動き、正客となり(さだ)(やっこ)と共に堂々と馬車に乗り表門から入った。

二人は、一流の紳士淑女であり文化大使としての扱い以外は拒否するようになる。

自他ともに認める堂々とした日本の文化大使となる。

演目は(さだ)(やっこ)が得意とする短縮した「道成寺」。

(さだ)(やっこ)は招かれた人々の目をくぎ付けにし、日本の美を知らしめ感動の嵐を巻き起こす。

拍手の中で、大統領夫人が立ち上がり、(さだ)(やっこ)に握手を求める。

そして、手を取り、日本の大女優として招待客に紹介した。

こうして、(さだ)(やっこ)は、パリ社交界のトップレディーとなった。

だが、これだけでは止まらなかった。

大統領夫妻が絶賛した(さだ)(やっこ)の衣装が話題になったのだ。

そこで、パリの人たちでも着れるよう着物風「やっこ・ドレス」が作られた。

「やっこ・ドレス」は評判の人気の衣装となり、多くの人が買い、喜んで着るのだ。

すると、パリの人たちの思うようにされてはいけないと、栗野夫人は自ら振袖裾模様をまねた「やっこ・ドレス」を京都西陣に発注した。

そして、日本の細やかな技術が美しく表現された「やっこ・ドレス」を宣伝した。

こうして「やっこ・ドレス」は、パリの流行の衣装となる。

その図案が雑誌に掲載され、続いて、香水「ヤツコ」が発売される。

パリに、万博に、日本の話題があふれた。

日本は1867年のパリ万博に初めて出展し、日本の美術品(浮世絵、琳派、工芸品など)を展示した。

1862年のロンドン万博に、福沢諭吉や福地桜痴(ふくちおうち)ら日本人がはじめて訪れた。

熱心に見学したが、正式な出典はなかった。

この時、イギリスの初代公使、オールコックが集めた日本の品々を出品していた。

その品々は日本が誇れるほどのものではなく、パリ万博から正式に日本の芸術品の数々を出典したのだ。

貞奴もその経緯をよく知っている。

以来、日本の独自のアートがパリで注目された。

パリの芸術家が浮世絵や屏風や掛け軸などに魅せられていく。

日本美術に魅せられた人々は「ジャポニスム」と呼ばれ、増えていく。

フランスを中心に、ヨーロッパからアメリカまで、広範囲に広がる。

モネ・ゴッホ・ルノワールなどなどパリの印象派は、その影響を受けて出来た。

ポスト印象派、アール・ヌーヴォー、エステティック運動などに影響を与えた。

この頃のパリの画家は、日本独特のモチーフやリアルな動き、美しい線描描写にあこがれた。

そのあこがれた日本の芸術を、突然目の前で見ることができたのだ。

それだ、(さだ)(やっこ)だった。

夢見た世界が、生きた女人として目の前にいたのだ。感動するのが当然だ。

(さだ)(やっこ)は、かって福沢諭吉が感嘆して見て回った万博で、パリの人々を感動させたことに信じられないほどの喜びを感じる。

劇場には著名人が日参し、競って陣取るようになる。

(さだ)(やっこ)が悠然と気品にあふれた踊りを披露し、著名人が酔い知れ、見続けるのが常態化していく。

アンドレ・ジイド、イサドラ・ダンカン、ピカソらが度々劇場に足を運び、(さだ)(やっこ)の姿を熱心に描き、記した。

彫刻家、ロダンが一座を訪れ(さだ)(やっこ)をモデルに「ぜひ、彫刻を作りたい」と申し出る。

「彫刻となるのは面白いかも」と思うが「時間がない」と断わるしかなかった。

こうしてロングランが続き、パリ万博が終わるまで大盛況だった。

女優「マダム貞奴」はパリ万博一の人気者であり、トップ女優となった。

夜会・新聞・雑誌に引っ張りだこだ。

11月3日、日本文化の力を見せつけ、関係者一同信じられない興奮と感激の中、パリ万博は終了する。

11月5日、フランス政府から多大な業績を上げた文化人に送られるオフィシェ・ダ・アカデミー勲章が(さだ)(やっこ)と音二郎に授与された。

海外渡航の目的は達した。

ここから二人の頭の中は「日本でも評価されたい。されるべきだ」それだけになる。

凱旋帰国だ。

翌1901年1月、ロンドン経由で、日本に向けて出発した。

54日の航海を経て、神戸に戻る。

初めての海外公演で無事帰れるかどうか心配しながら出発したのがウソのように、日本に戻ることが出来た。

歓迎の嵐に心地よく身を任せる。