夜のナポリタン
J.T
約 2016
3年前の9月、すすきのにあるサン・ローゼが閉店になるという噂を聞いた。そこは会社勤めの頃、ときどき立ち寄った店で、狭い階段を降りると昭和のにおいのするレトロな雰囲気のある喫茶店である。
今思えばオレンジ色の照明が食べ物を美味しそうにみせていた気がする。私のイチオシはオムライス。そのほかにもナポリタンやソフトクリームの乗ったクリームソーダが好きだった。それなのにいつも「今日は何を食べようかな」と迷わせるメニューが揃っていた。
その迷いが在宅仕事でめったに外出しなくなっていた、私の重い腰を上げさせたのかもしれない。だからそこで同級生のフー子に出会ったのは偶然中の偶然だったとも言える。第一、お互いに50歳をすぎて、相手が誰かということがわかったのも不思議なくらいなのだ。
小学生の時のフー子は天然パーマの頭にくりくりと良く動く目を持ち、いつもクラスで話題の中心にいたような子で、私は目立たない本の虫のような存在。彼女はこの店で、今の夫さんにプロポーズをされ、そのあと二人でナポリタンを食べたらしい。今日はその思い出に浸ろうとなぜか一人でやってきたという。そこで私は聞いた。
「普通はダンナ様と一緒にこない?」
「いやよ、たまには一人になりたいもの」
私とフー子は笑いあった。同級生というのは一瞬で長い空白の期間を埋め、知らなかった時間を軽く飛び越えてお互いの距離を縮めてしまうものらしい。いや違う、終焉を迎えつつあるサン・ローゼの魔法がそうさせたに違いない。
昔を懐かしむ人達で混み合うその一角、おばさんが二人で、顔をつきあわせてナポリタンとオムライスを食べている構図は平凡だが、しかし彼女の独身時代の話は私の想像を超えていた。
20世紀の終わり、バブル崩壊の直前、私はまだ女子大の寮にいた。そしてときどき寮を抜け出して、釈迦曼荼羅(しゃかまんだら)というディスコでキラキラ輝くミラーボールを見ながら踊っていた。なんとその頃、彼女はすでにすすきので名のあるクラブのチーママになっていたというのである。ひとしきり夜の蝶の時代のことを語ったあと、彼女が突然私に聞いた。
「ところで、ご主人は元気?」
「一応ね、忙しくてあまり帰ってこないけど」
「いんじゃない、男は仕事してなんぼ。あたしね『結婚するべー』って毎日、お店に通ってきたお客さんと結婚したから、花嫁修業してなくてさ…。」
彼女のお姑さんは、ご主人亡きあと、遺産はあったにせよ、女手一つで子供を育て、日々着物で背筋を伸ばして過ごす専業主婦。そのお義母さんとの暮らしが大変であろうことは、詳しく聞かなくても想像がついた。フー子は二人の子供を連れてマンションに引っ越し、ご主人は実家から通うという奇妙な形で結婚生活は落ち着いたという。いるであろう愛人のことは知らない振りをし、離婚せずにきたフー子。結局、二人の息子が片づいたので一人になって考えることが多くなったのだろう。
フー子のおちょぼ口にナポリタンの太めの麺がするすると吸い込まれていく。彼女は音を立てたり、ケチャップを飛ばしたりせず、美味しそうに目を細めて食べている。かつて勤めていたクラブの常連に、観音菩薩と呼ばれた風貌は、今も女らしい曲線でかたどられ、まるで城下町のお堀端に植えられたしだれ柳のようにたおやかな雰囲気を醸しだしている。かたや馬が女になったのかと思うほど骨太でガタイの大きな私は、ただドデンと構えて座っているほかなかった。
「ねえねえ」
ナポリタンのせいで唇をぬらぬらと光らせながら上目遣いで彼女が私を見つめてこう切り出した。
「あのさ、いつか旅行でもしない?」
「いいよ、女二人旅なんていいかもね」
「あたしは温泉の露天風呂巡りとかしたいな…。」
ふっくらとした卵形の面差しに、相変わらずくりくりと動く大きな瞳でにっこり笑いかけるフー子。ほんの少し沈黙が続いたあと、彼女は真面目な顔で私に言った。
「あなたと再会してはっきりしたわ」
「なあに」
「あたし女の人のほうが好きかも」
「ええっ…、それって?」
私は小さな声で聞き直した。
「ここ数年感じていたんだけど、男より女の人のほうがより好きみたい」
「そんなこと言われても私は…。」
「そうね、ご主人が亡くなってからでいいの、通い婚でもかまわない。電話番号は絶対かえないから、いつかそんな気持ちになったら連絡ちょうだい。」
いつのまにか私は、携帯番号のメモを握らされていた。
呆然としている私の返事を聞く前に、フー子はお金をおくと、すっと立って出て行った。去り際に
「その番号、今ここで捨てていっても怒らないからね、じゃさよなら」
と笑うのも忘れなかった。
私の引き出しにはまだそのメモがある。たぶん夫が亡くなっても電話はしないかもしれない。でも、もしかして急に、夜のナポリタンが食べたくなったらわからないなと思った。