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椅子に刻まれた時間

N.O


約 1791

私が函館の街を初めて訪れたのは17歳。ようやく冬の寒さが緩み始めた3月だった。ガタゴトと走る路面電車や、異国情緒のある街並み、朝市の活気や、潮の香り、外人墓地の外れの丘から見下ろす黄金に輝く海を行くシルエットになった青函連絡船。

観光客として貪欲にこの街の魅力を味わって以来、すっかりこの街が好きになった。その2年後、青函連絡船が廃止になった年から、私はこの街の住人になることができた。この街で結婚し、10年以上を過ごした。その間、何年たってもこの街の魅力は色あせなかった。
私は住人でありながら、まだどこか観光客の気分が抜けないような気持ちに包まれ、この街の魅力を探し続けるそんな年月を過ごしていた。その後転勤で函館から500㎞以上もはなれた北海道内の地方都市にうつり住むようになり。気がつけば、函館で過ごした年月以上、函館から離れた土地での生活が続いていた。

「北海道にもいよいよ新幹線がやってきます。函館から中継です。」

平成28年の初めは、テレビや新聞などで北海道新幹線の特集が組まれ、毎日のように新幹線を迎えるため賑わう、函館の街の様子が伝えられていた。私は「函館かぁ」と、心の中でつぶやきながら、ぼんやりと画面を眺めていた。函館で生まれた子供も成人して、本州の大学に通うために家を出ていった。時の流れが、あんなに好きだった街のニュースでさえも、どことなく他人事のような感情を抱かせるようになっていたのだ。連日の特集番組は、函館の隅々までとてもよく紹介してくれていた。いつしか私は、画面に現れる映像に、函館での思い出を重ねて見るようになっていた。

函館の思い出の多くは、幼かった娘と週末毎に散歩にでかけた日々だった。「このソフトクリーム屋さん買い物帰りに寄ったな」「あっ、ここ。ここで転んで泣いたんだよ」「そり遊びした場所だ」「この観覧車また乗りたいな」テレビの画面に表れる、「あの頃の函館」の断片を見つける楽しさを覚えていた。

しかし、それと同時に、私の知らない函館も多く目にすることになった。函館を離れて約20年。近頃よく思うようになった「昔はよかった」という身勝手な感情を抱きながら、変わりゆく函館の街を眺めていると、ふいに変わりゆく街の姿に、私の思い出のアルバムが切り取られていくような思いがこみ上げてきていた。

「今のうちにあの街を、まだあの頃の面影がある街を目に焼き付けておきたい」
いても立ってもいられなくなり私は西に向かう列車に飛び乗った。函館駅は新幹線開業を心待ちにするポスターで埋め尽くされていた。赤い屋根の駅舎はずいぶん前に建て代わり、近代的で明るくなった駅舎に出迎えられた。

傘をささずに買い物ができるといわれた駅前の大門商店街は、歩道の屋根がなくなり、うっすらとつもった雪にぬれていた。私は自分の思い出の場所を一つ一つ確認するように函館の街を巡った。函館で一人暮らしを始めた栄町のアパート、毎週のように散歩をした八幡坂、元町公園。お宮参りに行った湯倉神社、港祭りの花火をみた七財橋、ハリストスの鐘、十字街の分岐点を渡る路面電車の車輪の響き、大森浜の波の音、湯ノ川の電停。

「よかったあの頃のままだ。」思ったよりも多くの、以前と変わらない函館の姿が私を迎えてくれたことに、何ともいえない安心感で満たされていた。駅前のデパートの7階にある食堂に向かった。そこは幼い娘との散歩帰りに、本当によく立ち寄った場所。私はいつも座っていた、函館駅方面が見える窓際に席をとった。食堂の名前は変わっていたが当時のままの店内を見渡すと、ふとあるものに目がとまった。子供用の椅子だ。3歳の娘が両手で抱えて、自分の席まで運んだり片付けたりしていた時とまったく同じ物だった。私はその椅子を自分のテーブルの横に並べた。椅子には長い年月が刻んだ傷があった。

それは、幾人もの函館っ子たちの思い出が刻まれている雄姿だった。ウェイターさんの「今、椅子を片付けますね」の声で一瞬我に返った。「いえ、このままで」この街を訪れてよかった、幼い娘と久しぶりに散歩をすることができたようなすてきな時間をかみしめていた。ただ過ぎゆくだけだと思った時の流れは、同時にすぎた時間を巻き戻すきっかけを数多く残してくれていたのだ。これからは、変わりゆく街も流れる時間をも楽しめるような気がしていた。