読み手と書き手の交流サイト

読むCafe
 

母と私の紡ぎ旅

M.S


約 1806

「濃昼ってなんて何て読むか分かる?」

私たちが乗るバスの行き先を見て母が言う。

あーまたか。あー今年も言ったよ。

「ごきびる、って読むの。」

もう何回も聞いたし。しつこいって。私がうんざりすることが墓参りのお決まりパターンなのだ。いつもの二人旅はその会話から始まる。

母と私は札幌からその濃昼行きのバスに乗り、一時間半ちょっと揺られ厚田(あつた)村役場前で下車する。

厚田は北海道の石狩北部に位置する日本海沿岸の小さな漁場町だ。

私はこの厚田が好きだ。なぜなら、唯一、母と気持ちを通わせることができる場所だから。誰でも落ち着く場所というのはあるのだろうか。私は厚田へ行くといつも言いようのない感覚になる。バスを降りた瞬間に磯臭さの空気に包まれ、その空気はとても心地よく真夏のギラギラした日などは青い空と海の蒼さ、そして虫の鳴き声が相俟って最高に気持が良い。アスファルトの照り返しの暑さがそれに輪を掛ける。それは悪い意味ではなく、その空間すべてが私にとって落ち着く場所なのだ。

厚田は母の生まれ故郷で、日帰りではあるが二人旅と称して子供の頃から毎年のように墓参りへ行っていた。
当時すでに母の実家も親戚なども居なかった。
母と私はバスを降りるとまず小さな漁港へ向かうのが決まりだ。墓はそれとは逆の場所なのだが、まず二人でこの道のりを無言で歩く。子供の頃はそれが気まずく、墓参りはとても憂欝な夏休みの行事だった。

途中、村で唯一の雑貨店で墓参の花を買い、一息つくための飲み物を買うのが決まりだ。
別に漁港に用などは無かったのだけれど、漁船を眺め、そして日本海を見下ろせる場所までハァハァ言いながら上がり、横並びに座り買った飲み物を飲む。

海を眺めていつも母が言うことは決まっている。自分の父母、姉弟の悪口だ。いつからだろうか、母が親族の悪口を言うようになったのは。 私はそんな母が嫌いだった。嫌いで嫌いで嫌いでしょうがなかった。 母は威圧的で攻撃的な性格だった。母の言葉でいつも傷つき、母の呪縛で私は私自身の存在意義を見出せずに育ってきた。私は絶対に母のような人間にはならない、そう誓って生きてきた。私は母と違う、と。

母は何かと厚田へ行っていたようだ。別に墓参りというわけではなく、母も厚田が好きだったのだと思う。夫婦げんかした時などは私と弟の手を引き家出をして厚田の小さな旅館へ泊った記憶がなんとなくある。
母と私の二人旅は私が三十代になっても続いた。でもある時その旅が突然終わる時がきた。 墓が無くなっていたのだ。親族とは既に疎遠になっていた母は何も言わなかった。それからは厚田へも行くこともなくなった。 ただ厚田への想いがそこに残った。

母は晩年、癌に侵され5年ほど闘病生活を送った。病気は実に人間をわがままにする。病気を盾に周りを振り回す。
そんな母を私は罵倒し、攻撃した。私の中にこんなに攻撃性があるかと思ったほどだった。結局、私も母と同じだった。母のようになりたくない、と誓って生きていたはずなのに。
今思うと母は私に依存していたのかもしれない。不器用な性格ゆえ、私を繋ぎ止めたる手段がそれしかなかったのかもしれない。

最期の時というのは実にあっけなくやってくるものだと思った。数日前まで辛口を聞いていたはずの母はみるみるうちに状態が変化し、医者からの残り時間の通告をされた。
意識が朦朧とし、オレンジジュースを飲ませろとせがみ、二晩もスポンジに含ませ飲ませ続けた。出ていた熱が下がった三日目の朝、朦朧としていた母が突然目を見開き、ひと言大きな声で言った。

「色々とありがとうね。」最期の言葉だった。

ずるい。母がずっと嫌いだったのに最後のその一言ですべてが帳消しとなった。

母が亡くなって数日後、私はバスに乗っていた。ひとつまみの灰となった骨を小瓶に入れ、一時間半のバスの旅をしていた。バスを降りるといつもの磯臭い空気に包まれた。

「やっぱり厚田が好きだ。」

私は海岸のテトラポットの前に立ち、母の灰を空中に撒いた。ひとつまみの母は厚田へ帰れて喜んでいるだろうか。日本海を見下ろしながら寂しい気持ちになった。もっとお互い素直な親子だったら良かったのに。もっと二人旅したかったのに。

これからは一人で旅をすることになりそうだ。それを母との紡ぎ旅と称しようと思う。

母は厚田で待っていてくれるだろうか。