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美しの我が故郷、八戸

A.K


約 1884

八戸の夏はとても短い。7月下旬頃のようやく梅雨があけてからお盆までの間に真夏日が何日あるかだ。ヤマセが多い年なら夏は本当に貴重なものとなる。冬、雪は少ないが、顔を突き刺し、耳がちぎれそうになるほど風は冷たい。

こんな北の街にも、八戸三社大祭を皮切りに本格的な短い夏がやってくる。この街と風景が一番美しく見える時だ。
潮の香りをふんだんの含んだ風に、キラキラと輝く海碧色の海。真っ青な空に浮く雲は、混じり気のない白い絵の具をポタリと落としたように純白で、木々は新緑を過ぎ、より深みを増した緑となり、そのコントラストは、まるで南の島に来ているかのような錯覚を起こすほどに、息を呑むほど美しい。

海岸は河岸段丘の岩場だらけの海岸が続く三陸海岸の最北の地でありながら白い砂浜が約二キロわたって続く大須賀海岸に白浜。さらには広大な天然の芝に覆われた種差海岸。子供の頃はここによく親に連れてこられ、放牧されていた。歴史好きが高じてのちに知った事だが、司馬遼太郎がある著書で「どこかの天体から人が来て地球の美しさを教えてやらねばならないはめになったとき、一番にこの種差海岸に案内してやろうと思ったりした」と記している。八戸に来たときは十一月だったようだから、これがもし夏に来ていたら、間違いなく案内してやろうになっていたのではと思う。

八戸港には蕪島という島がある。島といっても今は埋め立てて陸続きだから車でも気軽に行け、頂上には神社もあり、ウミネコの繁殖地としても有名で、繁殖期には島が白く見えるほどの数万羽のウミネコに埋め尽くされる。なぜこの島にこれだけのウミネコが住み着いているのか分からないけど、自然の生き物は正直だ。魚などの食料も豊富で、島であったから人の手が及ぶことも少なかったから最適な住処としたのであろう。

従弟の家が是川という所にあり、子供の頃遊びに行くと、崖を掘ると土器が出てくるというので、掘ったら本当に出てきて驚いた。しかも、あちらこちらから出てくるので、宝探しのように夢中で掘り探していた事を思い出す。この辺りは土器の他に、国宝である合掌土偶が発掘されるなど、縄文期にこの辺りは一大都市だったのである。

今から約八百年前、南部氏の始祖である南部光行は源頼朝よりこの地を与えられたとき、船で八戸に上陸したという。おそらく陸路はまだ危険が多いから海路で来たのであろう。彼らの目には一体どのような光景が見えて、どんな心境だったのだろうか。

歴史好きはロマン家だ。無数のウミネコが舞っている蕪島を眺めながら上陸。新井田川と馬淵川の大きな河川に、階上岳、名久井岳、西方に見える八甲田連峰に沈む夕日を眺めながら、この地で生きて行ける事の希望と可能性を感じたのではと勝手に想像する。

藩政を経て、戦後は港町から水産業が大きく発展。水揚げ量も全国有数の港となり、港湾の整備に伴い工業地帯としても発展した。自分が五歳の時には、八戸大橋が完成。夢の大橋と呼ばれ、完成時は東北で一番長い橋で高さも三十メートルあるから橋からは八市内が一望できる。

小さな湊街から、ここまで発展させてきたんだという八戸市民の誇りを、橋という建造物で表した街のシンボルだ。橋の主桁が黄色なのが特徴で、自分にとっては何か幸運をもたらしてくれそうな気がする、幸福の黄色い橋だ。この蕪島は、遥か昔からこの地で暮らす人々の生活と、街の発展を今も静かにも守っている。

八戸といえばイカだ。実家では朝市で取れたてのイカを限りなく細かに切って、わさびではなく、辛みのある大根おろしと醤油で食べる自家流だが、本当に旨い。これを食べると、当時、初めて東京の居酒屋で注文したイカ刺しがプラスチックのように真っ白なものが出てきて、しばらくの間固まってしまった事をいつも思い出す。やはりイカ刺しは透き通るほどに新鮮じゃなきゃ。

高校卒業後、上京を機に八戸を離れてから四半世紀以上が過ぎた。住んでいる時は、この短い夏と厳しい寒さもあって地元があまり好きではなかった。ただこの歳になって、ある事に気づき始めている。自分は夏の一時の色彩だけにこの街の美しさを見ていたが、実は元から美しかったのではないか?と。人々はシャイで自らを主張することもなく純朴で、豪華絢爛な八戸三社大祭の山車のように、北の厳しい地ながら、夏の祭りの中に心の充足を美しさとして追及してきた志と力がある。若い頃の自分にはこれが解らなかった。

さて今日は、久々に帰省したのだから、幸福の黄色い大橋を眺めながら、陸奥湊駅前の朝市に行って新鮮なイカを買って来よう。