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スーパーマン 第二回小説コンテスト入賞作品

宮本水月


約 21213

(1)

 その街には〈怪物屋敷〉と呼ばれる、古くて、不気味なたたずまいの洋館があった。
屋敷の門や壁には蔦がびっしりと生え、庭には得体の知れない植物がうっそうと生い茂っている。
かなり以前から、この家には得体の知れない怪物が住んでいると噂されていた。その名も〈金髪の悪魔〉。
その怪物は美しい娘をさらってきては吸血鬼のようにその生き血をすするという。
そんな馬鹿な、と思うだろう。きょう日、小学生だってそんな迷信は信じない。しかし、その屋敷は実際に子供はおろか、大人さえも嫌がって近づきたがらないのだ。なにかいわくつきの家だった。
だが、蔦のからまる門を抜けて敷地内に入ってみると、外観から見る不気味な様子とはずいぶん違っていた。庭には綺麗な花が植えられて、花畑のようになっている。建物の壁はクリーム色とチョイコレート色のペンキが塗られ、まるで童話に出てくるお菓子の家のようだった。
――ここが、怪物の住んでいる屋敷なの?
小学四年生の竹内直樹は、家から黙って持ち出した父親のカメラをいじめっ子たちに放り投げられてしまい、カメラを拾いにおそるおそるこの気味の悪い屋敷の中に忍び込んだ。が、敷地内のあまりに明るい雰囲気に直樹はしばらく呆然としていた。
「あら。いらっしゃい」
そばで女性の明るい声がした。声のした方を振り向くと、いつの間にか黒猫を抱き、ホウキを手に持った美女が立っていた。彼女は直樹を見ると微笑した。
――この人が屋敷に住んでいる怪物?
直樹は目を疑った。
「坊や、髪の毛が汚れているよ?」
直樹は自分の頭を触ってみるとベタベタする。忍び込むときに蜘蛛の巣と直撃したからな……。
「少しじっとしていてね」
そう言うと美女はいたずらっぽく笑って、濡らしたタオルを直樹の汚れた頭にかぶせてごしごしと拭いた。それはまるで撫でられているような拭き方で、直樹はなんだかとても気持ちがよくなった。それに、とてもいい匂いがする。
「さては、ここが空き家だと思って遊びにきたな?」
直樹の頭を拭き終えた美女は、タオルをたたんでそれをエプロンのポケットにつっこんだ。
「う、うん」
直樹は答えた。美女の身体からほのかに漂うオレンジの香りにうっとりとしていた。
「私たちね、今日この家に越してきたの。私は佐伯絵梨、あっちの黒猫はダニエル、ぶすっとしてるのは息子の明彦。こら、こっちへ来てちゃんと挨拶しなさい」
絵梨という名の美女は、庭のすみっこで黒猫をかまっている無愛想な美少女を呼んだ。
――え。あれ男なの! 直樹は仰天した。どう見ても女の子にしか見えない。母親に呼ばれて渋々やってきた少女のような少年は、直樹の顔を見るなり、「けっ」という表情をした。
顔立ちはともかく、そのふてぶてしい態度を見るかぎり、たしかに彼は男だった。
直樹は絵梨と明彦に「竹内直樹です。南小学校の4年生です」と名のった。
明彦は挨拶にする代わりに、威嚇するような目をして直樹を睨んだ。直樹は思わず「ひっ」と悲鳴をあげてしまった。――怖っ!
「明彦!」絵梨が息子の頭を平手で叩いた。スパーンという、いい音がした。叩かれた明彦は拗ねたような顔をして、また庭のすみっこに行ってしまった。
「直樹くんは4年生なんだ。よかったね明彦、同じ年じゃない」
背が高く、痩せてるくせに妙にドテっとした貫禄があるため中学生くらいに見えるが、明彦は直樹と同じ年齢のようだった。明彦はあからさまに直樹の存在を無視し続けた。
しかし絵梨の方は、まるで姉のように打ち解けた感じで、近くに買い物ができるスーパーはないかとか、この家にはよく遊びにくるのかなどと直樹に話しかけてきた。直樹は美人で気さくな絵梨がすぐに好きになった。……でも、あの明彦という子供はどうも苦手だ。
彼はさっきから一言も口をきかず、絵梨と直樹の会話を庭のすみでじっと聞き耳立てていた。そしてときどき、直樹を値踏みするようにじろっと見、目が合うと人を小馬鹿にしたように口を歪めて見据えてくる。はっきり言って、感じが悪い。
「すごく人見知りするけど、本当は優しい子だから仲良くしてあげてね」
絵梨は直樹に言った。そうは言われたものの、とてもあんな奴とは仲良くなれそうにない。綺麗な顔立ちなだけに、態度が悪いとかえって嫌味な感じがした。
そろそろ帰ろうかと直樹が思い始めたとき、明彦にかまわれていた黒猫が、直樹の足元に擦り寄ってきた。よく見ると、その猫は柴犬ほどもあろうかという大きさで、しかも脚がやたらと太い。背中に手を触れるとふわふわして心地がよかった。
「これ、猫なの?」直樹はダニエルを撫でながら聞いた。
「猫よ」
絵梨は微笑んだが、直樹にはどうしてもコレが猫には見えなかった。直樹はさっき明彦がしていたように、黒豹のようなダニエルを抱き上げようとした。が、非常に重く、とてもじゃないが抱き上げることなんてできない。ねえ、これ黒豹じゃないの?
「ダニエルはデブちゃんだから、40キロはあるのよ」
40キロ? 直樹は目を剥いた。だってさっき、あいつはこの猫を軽々と抱いてたよ?
明彦はそっぽを向いたままニヤニヤしている。……直樹は、憮然とした。
「ダニエルも直樹くんが気に入ったみたい。珍しいんだよ、普段はめったに人に懐かないの」
そう言って、絵梨は明彦の方をちらっと見た。明彦は相変わらず知らん顔をしている。
――ダニエル“も”? 直樹は首をかしげた。
「また遊びにいらっしゃいね」
直樹が怪物屋敷を出るとき絵梨はおみやげにと言って、明彦という子供が家から持ってきた菓子包みをくれた。かわいらしい包装紙からバニラの甘い香りがした。

怪物屋敷のすぐそばにある公園で、いじめっ子たちが直樹の戻るのを待ち構えていた。「ちゃんと戦利品を取ってきたんだろうな」
「あの家に今日、人が越してきたみたい。よろしくだって」
直樹はお菓子の包みをいじめっ子グループに見せた。リーダーで6年生のヒデユキが菓子包みを直樹から奪い取った。
「あんな怪物屋敷に人が越してくるわけないだろ。馬鹿じゃねえの」
「本当だってば。佐伯さんていう女の人と子供がいるよ。見てくればいいじゃない」
いじめっ子たちは顔を見合わせた。気にはなるが、確認するのが怖いのだ。すぐに彼らは虚勢を張りなおして、直樹を突き飛ばした。
「どうせ途中でびびって自分の家にでも行ってたんだろ。これお前の母ちゃんの手作り?」
ヒデユキが菓子包みを開けた。中からチョコレートや砂糖のかかったケーキが出てきた。あまりにおいしそうなので、直樹はごくっと唾を飲み込んだ。
「もう帰っていいぞ」少年たちはケーキを手に取ってガツガツと食べ始め、「明日も菓子を持ってこい」と直樹に命じた。
「それ、僕のお母さんが作ったのじゃないよ?」直樹が泣きそうになって言った。すると、「持ってこなかったら明日、お前のことシメるから」と脅された。直樹は絶句した。
「これ、すごく旨い」ヒデユキが歓声を上げた。「そっちのチョコのも食わせろ」
うまいうまいと言ってるいじめっ子たちを背に、直樹はとぼとぼと家路を歩いた。――すごくおいしそうなケーキだった。せっかく絵梨さんが僕にくれたのに。
直樹が家の前まで来ると、玄関先にヘンな髪型の子供が立っているのが見えた。あの無愛想な明彦だった。「ここ、僕のうち」直樹は明彦に言った。何の用だろうと直樹は思っていた。
直樹は明彦が巨大な籠を背負っているのが気になった。籠から甘いバニラの香りがしている。――こんな大きなカゴなんか背負って、重くないのかな?
明彦は直樹を観察しながら、「さっきやったケーキはもう食ったの?」と聞いた。しっかりとしたよく通る声だった。
こいつ、ちゃんと口がきけるんだ。直樹は明彦がやけに大人びた口ぶりで話すのを意外に思った。人見知りというから、もっとボソボソと話すのかと思っていた。
「友達にあげちゃった」
本当は取り上げられてしまったのだが、直樹は嘘をついた。
すると明彦は天を仰ぎながら、愚か者めとでも言いたげに肩をすくめた。
「なんだよ、せっかく俺が徹夜して作ったのに」明彦は口を尖らせた。「超傑作を選んだのに。あーあ、やるんじゃなかった」
――あれ、こいつが作ったの? 直樹は仰天した。そしてさっきはあんなに無愛想だったのに、今は妙に饒舌な彼の態度にも驚いた。全然人見知りじゃないじゃない!
「ほんとはいじめっ子に取られちゃったんだ」直樹は正直に明彦に打ち明けた。超傑作とやらを選んでくれた彼に悪いことをしたと思っていた。
「いじめっ子?」明彦は眉をしかめた。「……人類が火星へ住もうかというこのグローバルな時代に、そんな前時代の遺物がまだ存在したのか」
……は? 直樹の目が点になった。グローバルとかゼンジダイとか意味がわからなかった。
呆然としている直樹にはかまわず、明彦は籠から菓子包みのひとつを取り出して直樹の手にぽんと投げた。「しょうがないな、これ食えよ。味は保障するから」
菓子の包みを直樹に渡すと明彦はすたすたと歩いていき、今度は隣の家の門前に立ってチャイムを鳴らした。その家は近所でも評判の口うるさい婆さんが住んでいた。子供の笑い声がするといっては直樹の家へ怒鳴り込み、掃除機の音がうるさいといっては裏の家に怒鳴り込んでいた。
「その家、勝手にチャイムを鳴らしたらすごい剣幕で怒られるよ」直樹は明彦に警告した。
「呼ばないと、挨拶できないじゃない」変なことを言う奴だな、という顔をして明彦が言った。
「なに、引越しの挨拶回りしてるの? 子供ひとりで」
ようやく直樹は気がついた。そもそもこの町内には越してくる人というのが非常に少なかった。人の出入りが少ない閉鎖的な地区なのだ。
「ママは家の掃除で忙しいから。このくらいは俺がやらなきゃね」
明彦は誇らしげに言った。母親の手伝いをするのが自分の使命だと言わんばかりだった。
しばらくして乱暴に家の扉が開き、不機嫌そうな顔をした老婦人が姿を現した。
「何よ、あんた。どこの子」
「近所に越してきた佐伯です。ご挨拶にきました」
明彦は貴公子のような優雅さ、スキの無さで老夫人に挨拶した。直樹の脳裏に〈偉大なる王者〉という言葉が浮かんだ。――なんなのだろう。僕は、こいつからすごい威圧感を感じる。
老婦人も同じことを感じたらしく、明彦から「苦しゅうない」と言わんばかりに菓子包みを手渡されて戸惑っていた。「は、はあ。それは、どうも」
直樹の顔を見つけた老婦人は目の前にいる貴公子ではなく、いかにも手ぬるそうな直樹に聞いた。「越してきたってどこに? この辺にアパートも空き家もなかったはずだけど」
直樹は怪物屋敷の方を指差した。「すぐ近所の洋館」
「ぎゃ!」老婦人は一声叫ぶと、ものすごい勢いでドアを閉めてしまった。
鼻先で扉を閉ざされた明彦は、綺麗な形の眉を寄せた。
「なんかさ、あの家に越してきたって言うと、みんなこういう反応するんだよね」
納得いかないという表情だった。
「知らないの? あの家、怪物屋敷って言われてるんだよ。昔、殺人鬼が住んでたんだって」
直樹は今日いじめっこたちから聞いた情報も加えて明彦に教えた。
明彦はつまらなそうな顔をした。「昔住んでた殺人鬼が、今と何か関係あるの?」
たしかにその通りだった。なぜだろう、直樹は人々が怯える理由を推測してみた。
「オバケが出そうじゃない。人骨とか埋まってるっていうし」
直樹の推理に対し、明彦はふんと鼻を鳴らした。
「骨はただの骨だろ? だいたい、怪物とか幽霊とか信じてるんだ。今どき、いい大人が」
直樹は明彦の言葉に衝撃を受けた。直樹は怪人とか宇宙人とか幽霊といったものを強く信じていた。――こいつは夢やロマンのない奴なんだな。
しかしすぐに明彦は、「ま、サンタクロースとエスパーの存在は科学的に立証できるけどね」と胸をはった。そして彼は輝くような笑顔で言った。「サンタさんはちゃんといるんだよ。信じてる子の家にだけプレゼントを置いていくんだ」
……は? 直樹は愕然とした。――信じている子の家にだけサンタクロースが来る? それ、思いっきりお母さんに騙されてない?
直樹は明彦に対するさっきの考えを改めた。明彦は夢とファンタジーの申し子らしい。
「ねえねえ、宇宙人はいると思う?」直樹は明彦に聞いてみた。そんな話をできる相手は今まで直樹のまわりにはいなかった。話せばクラスの子供たちからは「イマドキ幼稚園児だってそんなこと言わない」と笑われ、大人たちからは「いればいいね」と一蹴された。
「いるいる。地球人だって宇宙人みたいなもんだし……」そう言うと、明彦は宇宙に存在するであろう惑星の数と、そこに生命が誕生する可能性について熱く語りだした。「……この状況下で化学反応が起きると生命が……」
――こいつ天才だ。直樹は目を見開いた。
「……つまり、俺はサンタさんも宇宙人だと思うんだ」最後に明彦は締めくくった。直樹は明彦の語りの最初と最後しか理解できなかった。だが、「こいつは僕と話が合うみたいだぞ」と認識し始めていた。
「エスパーって超能力者のことでしょ。どうして信じてるの?」
直樹はだんだん興奮してきた。
すると明彦は、「俺がエスパーだからさ」と誇らしげに言った。
「……は?」
スプーン曲げができるというオチだろうか、直樹は思った。――そんな手品、僕だって知ってるよ。
明彦は今まで直樹が会ったこともないタイプの子供だった。頭がよさそうだし、妙な迫力もあるが、いじめっ子たちとは違っていた。成績が一番の鈴木君やスポーツが一番の山下君、金持ちの子供の斉藤さんとも違う。強いて言うなら、変わったヤツだった。
直樹は、いつの間にか自分が明彦の挨拶回りにくっついて歩いているのに気づいた。この不思議なムードを持つ少年に、直樹は興味を抱き始めていた。
「家に帰らなくていいの?」明彦が直樹に聞いた。
「お父さんもお母さんも帰りが遅いから」直樹は寂しそうに目を伏せた。
直樹の両親は高校で教鞭をとっており、どちらも教育熱心だと評判の教師だった。彼らは落ちこぼれといわれる生徒の指導や、クラブ活動の指導でいつも帰宅が遅い。ただ、ひとり息子の直樹のことは「おとなしくて手がかからない」と放任していた。直樹は親から撫でられたり、だっこされたという思い出がほとんどなかった。だから、さっき佐伯家で絵梨に頭を拭いてもらったときは、お母さんに撫でられているみたいで嬉しかったのだ。
明彦が近所の家に挨拶をしているのを見ながら、おなかがすいていた直樹はもらった菓子包みを開けてケーキを食べた。ケーキを頬ばると甘いハチミツの香りが口いっぱいに広がる。まさに絶品だった。直樹はもらったケーキを全部平らげてしまった。
直樹が指についたクリームをしゃぶっていると、「わざわざ挨拶なんかしにこなくていい!」という怒鳴り声が聞こえてきた。怪物屋敷の住人ということで、明彦は町の人々からひどく警戒されている様子だった。
しかし明彦の努力のかいあって、翌日になると「怪物屋敷に人が越してきた」という噂は、町中に広まっていたのである。

〈2〉

 翌朝、直樹は昨日言われていた貢物の菓子を持ってこなかったということで、登校中に5人分の鞄を持たされて、よろけながらいじめっ子たちの後ろを歩いていた。
「お前聞いた? 怪物屋敷に親子が越してきたって」
「俺の家に挨拶にきたよ、外人みたいな金髪のガキが」
近所のいじめっ子たちが話しているの聞きながら、直樹は「だから昨日、そう言ったじゃない」と思っていた。――こいつらは僕の言うことなんて聞きやしないんだから。
いじめっ子はいつも直樹の話にはまったく耳を貸さなかった。彼らにとって直樹は、ノラ犬かノラ猫と同じ程度の存在でしかないのだ。
「あそこの家のガキとは口をきくなって父ちゃんに言われたよ、私生児なんだってさ」
「殺人鬼の子孫で、日本にいられなくなって外国に逃げてたんだって聞いたよ」
直樹はみんなそういう話をよく知っているな、と感心していた。――昔の殺人鬼が、今となんの関係があるんだよ。
昨日、直樹は明彦から自分たちはアメリカ合衆国にあるアトランタという町から引っ越してきたと聞かされた。アメリカ帰りなわりに、明彦の日本語は流暢だった。3歳までは日本で暮らしていたらしい。それにしてもペラペラだな、と直樹は思ったものだ。
明彦の髪は金色のクセっ毛だった。生まれつきのものらしい。手足も長くて、細身だが骨格はがっしりしている。母親の絵梨は黒髪、華奢な体型でどう見ても日本人だが、明彦には欧米の血が流れているように見えた。
「お父さんはアメリカ人なの?」直樹がそう聞くと、明彦は途端に不機嫌そうになった。
「いいんだ、あんなロクデナシのことは」その件については、触れられたくなさそうだった。
「俺にはママさえいればいい。それに、ママのことは俺が守るって決めてるから」
ママか……、直樹は考え込んだ。このあたりで母親を「ママ」なんて呼ぶ男の子はいない。そんなことを言っていたら、この辺りに住む子供たちはすぐに「マザコン」と馬鹿にした。金髪だし、顔も女の子みたいだし、明彦は学校でいじめられるかもしれないと直樹は心配した。
そんな回想をしていると、いじめっ子のリーダー・ヒデユキが直樹に声をかけてきた。
「そうだ、直樹。怪物屋敷の子供を殴って泣かしてこいよ」
直樹はぎょっとした。いじめっ子たちは「それ、名案」と言って喜び出した。
「殴れたら、お前を奴隷から子分に格上げしてやってもいいぞ」
直樹が驚いていると、ケンタも言った。「凶器使ってもいいから。鉄パイプで殴るんなら、お前みたいなヘタレでもできるだろ?」
それを聞いて直樹は背筋がぞっとした。転入する前から、明彦はもういじめのターゲットとして狙われていたのだ。
「どうせ悪人の一族だから。この町から追い出してやろうぜ」
ヒデユキは直樹の肩を抱いて言った。直樹はただ、震えていることしかできなかった。

2日後、明彦は直樹と同じクラスに転入してきた。彼が怪物屋敷の子供だということはすでに学校中に知れ渡っていた。しかも、いつの間にか身内が犯罪者ということにまでなっていた。
明彦は相変わらずヘンな髪型で、しかもやたらと大きな鞄を背負って教室に現れた。それだけでなく、彼の日本人離れした端正な顔立ちは生徒たちの目を引いた。
「女かと思ったら、オカマか」
自己紹介した明彦に、クラスの奴が罵声を浴びせてきた。直樹は明彦が怒り出すか泣き出すのではないかと心配したが、明彦は嘲笑を浴びせられてもジーパンのポケットに手をつっこんだまま、平然としていた。彼はかなり図太い神経の持ち主らしかった。
「あの金髪はなんなの、かっこつけてんの?」
「女みたいな顔で気持ち悪い」
休み時間中もクラスの生徒たちは、明彦に聞こえるように嫌味を言いながら遠巻きに彼を観察していた。ムラに目立った新入りがやってくると、その人物が迎合するまでムラの仲間には入れてもらえない。明彦は自分の席で『相対性理論』というタイトルの本を読みふけっていた。
不意に、「同じクラスになったんだね」という声がして、明彦は顔を上げた。
先日、明彦の家に迷い込んできた直樹という少年がはにかみながら笑っていた。
「俺は、あまり歓迎されてないみたいだ」明彦は綺麗な形の眉を寄せて直樹に言った。正直なところ、明彦は日本という国に良い印象を持っていなかった。
「そういうわけじゃないんだけど……」直樹は口ごもった。
「たぶん、怪物屋敷の悪い噂のせいだと思うんだよね」――あと、なんだか殺人鬼の子孫っていうことになってるし。
「ふうん」
明彦は片眉だけを上げて意地の悪い顔つきになった。まるで外国のアニメに出てくる悪役みたいな顔だった。
「まあ、あんなの黙らすなんてラクショウだけど」
「黙らす……、ラクショウって?」
直樹はびっくりして明彦に聞いた。
「ほら、俺はエスパーだからさ」
また明彦は自分がエスパーだと言い出した。
エスパーのことについて、直樹はすごく聞きたい衝動にかられたが、聞こうとしたところでクラスメートたちに引きずられ、彼は明彦のそばから引き離されてしまった。
「竹内、お前なにやってんだよ」クラス内でも、特にやんちゃといわれる男子たちに囲まれて、直樹は彼らの追及を受けた。
「なにって、話してただけじゃない」直樹は言い訳した。
「あいつ、犯罪者の子供だぞ。わかってるのかよ」
「いつの間にそんな話になってるの!」直樹は唖然とした。〈昔、殺人鬼が住んでいた〉から、ずいぶんと話が飛躍したものだ、と思った。
「あいつ、親父がいないんだろ? どうせ刑務所にいるに決まってるじゃん」ケンタが明彦を指差して言った。指をさされた明彦は、こちらをちらっと見て怪訝そうな顔をしている。
「そういうふうには、見えないんだけど」直樹は美人でいい匂いのする絵梨を思い浮かべた。あの人が犯罪者の奥さんだなんて、まったく信じられなかった。
「お前、俺たちを裏切る気かよ!」怒ったケンタが直樹の首を絞めた。
いつもなら直樹のことなんか誰も問題にしないのに、明彦と話していると「裏切者だ」と言われる。なにが裏切りなのか、直樹にはわけがわからなかった。
〈鉄パイプで殴ってこい〉
今朝のいじめっ子たちの言葉が蘇り、直樹は憂鬱な気持ちになった。彼は絵梨のことはもちろん、明彦のことも好きになりかけていた。

〈3〉

 ひ弱な坊やたちを黙らせるのは簡単さ。ようは、俺がうかつに手出しできない存在だと思い知らせてやればいい。明彦は反撃を開始した。
2時間目は算数のテストがあり、かなり難しい応用問題を中心に出題された。クラスのやんちゃな男子たちはぶーたれ、直樹のような成績が優秀な生徒でさえ、テスト内容と出題数の多さに頭を抱えていた。
「竹内、カンニングさせろよ」ケンタが直樹の椅子をガンガンと蹴ったが、直樹は聞こえないふりをした。彼ですらそれどころではなかった。
テスト開始からわずか2分後、明彦がいきなり席を立ったのでクラスのみんなが唖然とした。
「どうした? トイレか」担任教師が明彦に聞いた。
「終わった」明彦はあっさり言うと、テスト用紙を担任に提出して席についた。そして机につっぷして寝てしまった。
テストの問題は全部で50もあり、仮に詰まることなく全部解けたとしても、問題を読んで解答を書くだけで三十分はかかろうかというものだった。日本語の問題が読めなくて白紙で出したのだろうかと直樹が心配したほどだ。
渋い顔をして、もらったテスト用紙を採点していた担任が、やがて信じられないという顔をした。「……満点だ」
教室内がざわつきだした。直樹は胸が熱くなるのを感じた。――やっぱり、あいつは天才だったんだ。

3時間目は国語の授業で、生徒たちに問題の書かれたプリントが配られた。
「坊ちゃんの作者は……佐伯はわかるかな?」
「夏目漱石。本名は夏目金之助。一八六七年二月九日生まれ、一九一六年十二月九日没。ペンネームの漱石は故事の〈漱石枕流〉から引用。代表作は〈我輩は猫である〉〈三四郎〉〈それから〉〈坊ちゃん〉〈こころ〉」
担任教師が唸った。「まさか、その故事の意味までわかるのか?」
「石で口をすすぎ、川の流れの上に横たわる。本当は逆なんだけど、古代中国の孫楚って奴が間違えを認めずそう言い張ったことから〈負け惜しみの強い頑固者〉という意味を持つようになった」明彦は相変わらず『相対性理論』を読みふけりながら答えた。
教室内が水を打ったように静まり返った。コンピューターみたいな奴だな、直樹は思った。

明彦の超人ぶりは頭脳だけでなく、4時間目の体育の時間にも発揮された。
マット運動の授業で、彼は前方後方宙返りと華麗なアクロバットを決め、締めにムーンサルトを披露した。それを見ていたクラス全員の顎が、外れた。
「なにあれ、サーカス団員?」
「むしろ、忍者?」
明彦はまるで、アクションゲームの主人公がするような動きをこともなげにやってのけた。テレビゲームが大好きな直樹は胸が高鳴るのを感じていた。あんな人間が現実世界にいるんだ、まるでヒーローみたいだと。
「すごい、すごいよ明彦」直樹は思わず明彦を呼び捨てて叫んでいた。すると褒められて嬉しかったのか、明彦は照れくさそうに笑った。「カンフー映画のマネするのが好きなんだ」
「じゃあ、俳優のドラゴンのマネもできるの?」いつの間にかクラスの女子たちが明彦のまわりに集まってきた。こういう場合、男よりも女のほうが自分の好奇心に忠実だ。
「ドラゴン、俺大好き。こうだろ」
女子の声援で気をよくした明彦はドラゴンの蛇拳、龍拳、酔拳などのアクションのマネをして見せた。それは、そのままプロのアクションスターになれるんじゃないかと思うほど美しい型だった。女子たちは彼を喝采した。明彦は女の子の声援に乗る性質らしく、最後に女拳を使って女っぽくくねくねして見せ、ノリノリだった。女子たちは大受けし、直樹はただ、「すげえ」と思いながらアホみたいに口を開けて見ていた。
「うるせえよ女! ぎゃーぎゃーわめくな」
自分たちも今まで遠巻きにして見とれていたくせに、男子生徒たちが怒り出した。
「オカマは女と一緒の方が楽しいみたいだな」スポーツ1番を誇りにしている山下という少年が明彦を挑発しだした。しかし、明彦は馬鹿なんか知らね、という顔をしてすましていた。
「こら、お前たち騒ぐんじゃない」呆気にとられていた担任教師が平常心を取り戻して全員を注意した。彼も、だんだん金髪の転入生がタダモノではないと気づき始めていたようだった。「とんでもない奴が俺のクラスに来てしまったな」と内心思っていた。

〈4〉

 今日、「怪物屋敷の子供」が起した授業中のさまざまな事件は、すでに学校中に知れ渡っていた。もう、明彦に嫌味を言う生徒はいなかった。いじめっ子たちをはじめ、誰もが明彦をタダモノではないと警戒し、ヘタに怒らせると危険だと思い始めていた。
「な、黙っちゃっただろ?」明彦はにこっと笑った。笑うと本当に女の子みたいだよな、直樹は思ったものだ。
放課後、直樹は転入生の明彦に学校内を案内するという役目を担任教師からおおせつかった。先生の許可つきなので、いじめっ子たちも直樹を「裏切り者」とは言えず、黙るしかなかった。
「アメリカってさ、飛び級制度があるんだよね。つまり、年齢に関係なく能力があれば大学だって卒業できるっていう」
明彦はこっそり直樹に耳打ちした。「俺、アメリカでもうハイスクールは卒業してる。内緒だよ」
直樹は目を剥いた。「はいすくーる!」
明彦がシっと人差し指を口にあてたので、直樹は声をひそめた。「……って、なに?」
「高校」
「なんで、内緒にする必要ないじゃない。すごいじゃん」
「あまり目立ったことすると危ないってママが言うんだもの。しかも、超能力は絶対に見せちゃいけないんだって」
――今のままでも十分目立ってると思うんだけど。
直樹は思った。
「ペンタゴンとかCIAなんかがスカウトに来るとうるさいからね」
まるで新聞や生命保険の勧誘がうるさかったと言うのと同じ調子で、明彦はすごいことを軽々しく言った。とはいっても、直樹にはペンタゴンやCIAが具体的に何なのかはよくわかっていなかったが。
「勉強とスポーツができるっていうのが、明彦の超能力なの?」
「まさか。そんなの超能力でもなんでもないさ」 明彦は誇らしげに言った。直樹は期待に満ちた表情で明彦の顔を見た。
「まだなにかあるの! これ以上、まだなにか隠してるの。秘密奥義を」
「うん、2つほど」明彦は胸をはった。心底嬉しそうだ。
――2つも! 直樹は衝撃を受けた。明彦と出会ってからというもの、彼はショックを受けっぱなしだった。
「教えて。ねえ、教えてよ」
直樹はものすごく明彦の秘密が知りたくなっていた。明彦は、直樹にとってほしくてたまらない未来のネコ型ロボットと同じくらい魅力的な存在だった。
「だめだめ。教えたらママがすんごく怒るから」そう言いつつ、明彦は秘密を教えたくてたまらなそうだった。
「途中まで教えておいてひどいよ、知りたくなるじゃない」直樹は明彦にせがんだ。
「じゃあヒントだけ……」
そう言いかけたとき、さっきまで微笑していた明彦の目が急に据わった。「え?」直樹が明彦の変化に驚くのと同時に、彼は明彦に突き飛ばされた。
次の瞬間、さっきまで直樹が立っていた場所へ鉄パイプが旋回しながら飛んできた。やがて鉄パイプは、壁に当たってガツーンという派手な音を立てて床に転がった。
「な、なに」突き飛ばされた直樹が足元に転がった鉄パイプを見て声をあげた。

「今度は転入生に尻尾ふってるのかよ、直樹は裏切り者だな」
明彦たちの前に、5年生のいじめっ子のリーダー・ヒデユキが仲間や子分たちを10人くらい引き連れて現れた。鉄パイプは、彼らが投げたものだった。彼らは距離をとり、明彦が歯向かって着たらすぐに逃げられる位置に陣取っていた。
「お前が怪物屋敷の子供? なんかずいぶんと生意気だって話だけど」仲間たちに囲まれ、一番安全な場所からヒデユキが話しかけてきた。
「ほんと、こいつ女男だ。俺オカマ初めて見たわ」4年生のいじめっ子が明彦の顔を見て罵った。「あきこだっけ、名前」
いじめっ子たちは大笑いし、明彦を「オカマのあきこ」とはやし立てた。
明彦は眉間にしわを寄せた。「下品な日本語は理解できない。英語で話してくれる?」
そう言うと、明彦は尻餅をついている直樹の方を向いた。「Naoki……ナオ、大丈夫か」
直樹はうなずき、「逃げよう、あいつら今度は殴りかかってくるよ」と明彦に警告した。
すると明彦は、ほがらかに笑った。「あんなションベン小僧が、俺を殴れるわけないじゃん。すぐ逃げられる態勢のヘタレどもがよ」
明らかにいじめっ子たちに聞こえる大きな声で、明彦は言った。下品な日本語がどうとか言いながら、明彦もかなり下品なことを口にした。
――思いっきり日本語理解してるじゃん!
やっぱりオカマと言われて相当アタマにきてるな、と直樹は確信した。
いじめっ子たちは明彦の挑発に怒った。しかし、彼らはなぜか明彦ではなく直樹を睨みつけた。「竹内、お前、あとで絶対シメるからな」
「え……?」直樹は目を見開いた。どうして僕が!?
「直樹、覚えてろよ。てめえ」
直樹が青ざめていると、不意にヒデユキが口を歪めて笑った。「おい、直樹。鉄パイプ拾ってそいつ殴れ。殴るって言ってただろ」
ヒデユキが突然命じてきたので直樹はあせった。「そ、そんなこと言ってないよ!」
「言っただろ、嘘つくなよお前」
明彦はきょとんとした顔をして直樹を見た。直樹はぶるぶると首を振った。
「根性見せろよ、竹内。そいつをこの町から追い出すって言ってただろ」
「女男なんかやっちまえよ、直樹」
汚い奴らだ、直樹は思った。彼らは直樹に明彦を殴らせて様子を見ようとしているようだった。つまり、直樹の忠誠心と、明彦の実力を。――いつも自分たちばっかり安全な場所にいる。直樹は腹が立っていた。……しかし、逆らう勇気はなかった。彼は、いじめっ子たちによって完全に恐怖で支配されていた。
直樹はいじめっ子たちに「やっちまえ」とはやし立てられて、たまらずに床に転がっていた鉄パイプを拾った。明彦は冷ややかな目をし、逃げるそぶりも見せずにポケットに手をつっこんでじっとそこに立っていた。
「お願いだから、逃げて」明彦にだけ聞こえるように、直樹はつぶやいた。そして明彦めがけて鉄パイプを振り上げた。
明彦の目がかっと釣りあがり、鋭い眼光で直樹を睨んだ。――ライオンだ! 睨まれた直樹は雷に打たれたような衝撃を受けて、持っていた鉄パイプを思わず落としてしまった。睨まれただけなのに、膝がガクガクと震えた。直樹は、明彦の顔が一瞬だけ金色のたてがみを持ったライオンに見えた。
その様子をみて、いじめっ子たちは落胆した。「やっぱ直樹だめ、ヘタレすぎ」
「竹内は一生俺たちのドレイだな」
「直樹、こっちへ戻ってこい」ヒデユキが直樹に命じた。直樹はベソをかきながらヒデユキたちいじめっ子のところへ歩き出した。情けないのは自分が一番わかっていた。そんな直樹の背に、明彦は言ったのだ。「もっと自信を持てよ、ナオ」
明彦は直樹の落とした鉄パイプを拾い上げ、難なく2つに折り曲げてしまった。それを見た直樹やいじめっ子たちは戦慄した。
「あわわわ……」
明彦は鉄パイプをぐにゃぐにゃと曲げつづけ、ついに蝶結びにしていじめっ子たちの前に放り投げた。
「Come on boy!」そう言うと、明彦は咆哮した。まさしくそれは、ライオンの咆哮だった。
咆哮と同時に大地が轟き、床がいきなり揺れだした。窓ガラスの割れる音がする。
いじめっ子たちは恐怖ですくみあがった。「バケモノだ!」
ヒデユキが一目散に逃げだした。「うわああ、殺される!」
リーダーにつられて、子分たちも「きゃー」と悲鳴をあげて逃げ出した。そして、廊下には明彦と直樹だけが取り残された。
「ごめんなさい、殺さないで……」仲間に置き去りにされた直樹が震え上がってうめいた。
「最初に逃げ出した奴が一番の弱虫だ」明彦が不敵に笑った。「ナオ、お前は根性あるよ」

〈5〉

〈牙を磨け、爪を研げ。……そして人間どもを食い殺せ〉
その夜、明彦は悪夢にうなされていた。それは、自分が大きな獣の姿になって人々に襲い掛かるという夢だった。獣になった明彦には大きな首輪がつけられていた。
そばにいたご主人様は非常に不機嫌そうで、明彦がなぎ倒した人々を指差し、「なぜ殺さない。そいつらを全員噛み殺せ」と命じた。獣の明彦は嫌がって、ご主人様の足元にうずくまった。すると、いきなりその足で蹴り飛ばされた。
「軟弱者。貴様、それでも王者の子か」
蹴られながら、明彦は「こんなことはしたくない」とご主人様に訴えた。すると首輪についた鎖を引っ張られ、これでもかというほど鞭で打たれた。
「注射を打ってアタマをパアにしてしてやろうか? お人形さんになって暮らすか?」
死にそうなほどの痛みに耐えかねて、明彦は思わず大きな咆哮を上げてしまった。すると地面が大きく揺れだし、人々が次々と木っ端微塵になっていく。砕け散る寸前、彼らは恨みのこもった目で明彦を見た。「バケモノ」と彼らの目が語っていた。
明彦はせつなくなった。いつだって、人は俺をバケモノと言って忌み嫌うんだ。――俺は人間だよ。これ以上、嫌われたくないんだよ。
ご主人様は砕けていく人々を見てゲラゲラと笑い、明彦はご主人様を恨めしく思った。
「そうだ、これが王者の力だ。ゴミどもをひれ伏させろ」
ご主人様が明彦の方に顔を向けた。その顔を見て、明彦は戦慄した。ご主人様は、人間の姿をした自分だった。いかれた目をしてる、将来の自分の姿だった。
大人の明彦は言った。〈バケモノは、けっして人間の仲間にはなれないんだぜ?〉
――ママ! ママ、助けて!
突然、獣のような咆哮が聞こえ家が大きく揺れ出したので、絵梨はびっくりして床から起き上がった。「また、あの子が夢を見たんだわ」
絵梨は子供部屋へ駆け込んだ。明彦はベッドで横たわったままかっと目を見開き、獣のように唸っていた。全身が総毛立ち、身体をがたがたと震わせている。――さては今日、力を使ったわね? あれほど使ってはいけないと言ったのに。
「ママはここにいるよ」
絵梨はぐずって泣いている息子を抱き寄せて頭を撫でた。こうして撫でていると、明彦は次第に落ち着いていく。やがて彼は絵梨の膝に顔をうずめたまま、安らかな寝息を立て始めた。と、同時に家の揺れも収まった。絵梨はベッドから転げ落ちたクマのぬいぐるみを拾って、眠っている明彦の手に持たせた。明彦はクマのぬいぐるみを抱きしめて、眠りながらにこにこした。
絵梨は息子の赤ちゃんみたいな寝顔を見ながら嘆息した。――これだけうなされても、朝になるとけろっと忘れちゃうんだものなあ。

※※※

翌朝、直樹は明彦と一緒に登校した。今日も明彦はランドセルではなく、やたらと大きなショルダーバッグを肩にかけていた。
「昨日のあれが超能力なんだね!」直樹がはしゃぎながら言うと、明彦はシッと指を立てた。
「俺のトップシークレットなんだからさ」そう言いながらも、どことなく明彦は誇らしげだった。
昨日見た夢のことはすっかり忘れていた。ただ、今朝は絵梨から「あれ、使ったでしょう」と睨まれた。「なぜママにはいつもバレてしまうんだろう」と明彦は不思議に思っていた。
「2つ目のチカラはなんなの?」直樹は我慢できずに聞いた。「僕だけに教えてよ」
そこまでせがまれてしまうと、明彦としてはぜひ教えたくなった。正直なところ、生まれて初めて人から関心を持たれたのが嬉しくてしかたがなかった。
「そうだな。ナオは昨日の夜、焼き魚と玉子焼きを食べた。朝はフルーツヨーグルトだけだな」
直樹はびっくりした。「食べたけど、なんでわかったの?」
「匂いでわかる」明彦は鼻をひくひくさせながら、いたずらっぽく微笑した。
「え、ええ? 僕ちゃんと歯磨いたよ、夜と朝と」
「鼻と耳がいいんだ。これが2つ目のチカラ。遠くのヒソヒソ話なんてすぐわかるよ」
まるで犬みたいな奴だ、直樹は唖然とした。
「聞こえすぎて困るから、こうして参考書や本に集中して雑音は聞かないようにしてるんだ」
明彦は今も〈国立大学入試試験用〉という難しい本を開いていた。直樹は「へえ」と思った。
――そういえば昨日、明彦は鉄パイプが飛んでくるのがわかってたみたいだったよな。
「ほら、昨日のいじめっ子たちが今、走ってこっちへくるよ」
直樹は周囲を見回したが、それらしい人影はなかった。が、やがていじめっ子グループが十字路を曲がって直樹たちに接近してきた。思わず逃げ出そうとすると、「堂々としてろよ」と明彦に引き止められてしまった。
「たしか佐伯だったよな、君」ヒデユキがやけに親しげに明彦へ話しかけてきた。そして直樹を押しのけて明彦の隣に陣取った。
直樹はいじめっ子の豹変振りに驚き、明彦は肩をすくめた。
「昨日のアレなに? 手品?」
「うん、そんなもん」明彦はとぼけた。
ヒデユキは納得いったような顔をして、明彦と並んで歩いた。一緒に登校するつもりらしい。
「君、度胸あるよな。どう、俺たちと組まない? 佐伯ならすぐ幹部だけど」
「怪物屋敷の子供とは口きかないんじゃなかったの」
直樹が抗議すると、いじめっ子のひとりに「お前はしゃべるな」と頭を叩かれた。
「明彦くん、すごいな。いきなり幹部だってよ」
「こんなしょぼいのとつるんでてもいいことないぜ?」ケンタが直樹を指差した。
直樹はむっとした。押しのけられたあげくに、せっかくできたトモダチを横取りされた気持ちになっていた。昨日は「裏切り者」とか言ってたくせに。
――でも、たしかに明彦みたいな奴は敵に回すよりも仲間にしたほうが利口だよな。
アイドル並の容姿、優秀な頭脳、すさまじいほどの運動神経、そしてライオンのような迫力。それで連中は明彦に擦り寄ってきたのかと直樹は合点がいった。
「えー。めんどくさい」明彦はうるさそうな顔をした。「俺、苦手なんだよね。ゾロゾロとつるむの」
「断らないほうがいいぜ? 怪物屋敷の子供で金髪の転入生なんて、どっかの派閥にでも入らないとこの町でやってけないよ」
ケンタがまるでオトナみたいなことを言い出した。
「僕もその派閥に入ってるの? 知らない間に」直樹がヒデユキに聞いた。
「お前は飼い犬」
「……」
明彦が参考書に目を通しながら言った。「ナオを昇格してくれるなら、そのハバツに入るのも考えてもいいけどね」
「そう! それがいいよ。あのさ、俺も明彦くんのトモダチだから。そこんとこ覚えておいてね」ケンタが明彦をよいしょしだした。
「似合わないよ、明彦にいじめっ子なんて!」直樹が青ざめて言った。
直樹はいじめっ子になった明彦を想像してみたが、あまりピンとこなかった。そしてヒデユキにペコペコしている明彦を想像したときは反吐が出そうになった。超人のヒーロー像が音を立てて崩れ落ちた。
「後悔しても知らないぞ?」直樹は明彦を睨みつけた。
「飼い犬はよけいなこと言うなよ!」ヒデユキが直樹を怒鳴りつけた。
直樹は憮然とした。――がっかりだよ。悪の組織なんてクソくらえだ、とか言ってくれると思ったのに。やっぱり明彦も長いものに巻かれちゃう人間だったんだ。
「まあ、幹部テストはあるけど、度胸ありそうだしアッキーならすぐパスするよ」ヒデユキはすっかり気をよくして、明彦の肩を抱いた。しかも、アッキーという愛称までつけて。
「幹部テスト?」明彦が片眉を上げた。
「悪いことすんの」にやっと笑ってケンタは人差し指を曲げた。
明彦はほがらかに笑った。「どのくらいの悪? 拳銃ぶっぱなしながら人質とって銀行に立てこもるほど?」
直樹といじめっ子たちは、ぽかーんとした顔をして明彦を見た。
「……それ、ワルとかいうレベルじゃないだろ」ヒデユキが青ざめながら言った。
「なんだあ、つまんない」明彦は本当につまらなそうにして参考書に視線を戻した。「そのくらいの悪じゃないと俺、燃えないんだよ」
「燃えないって……、それがアメリカの常識なの?」仰天した直樹はアメリカ合衆国に対して失礼なことを言った。

まだ彼らは知らなかった。超人・佐伯明彦はとんでもなくズレてる人間だということに。

〈6〉

 その日の放課後、明彦はヒデユキたちに案内されて駅前の繁華街へやってきた。
「万引きとか、カツアゲとか、とにかく悪いことをするのがテストだ」
ヒデユキは明彦に念を押した。「でも、銀行強盗はやめてくれ」
「かつあげって何?」オカマは知ってるのにカツアゲは知らないらしい明彦が直樹に聞いた。直樹も明彦の幹部テストが心配になって、ついてきてしまっていた。
「人からお金や品物を脅しとることだよ、やめなよ、そんなの」直樹は口を尖らせた。カツアゲはいつも直樹がヒデユキたちからされていることだった。
「人からお金や品物ね。じゃあ、それでいこう」明彦はほがらかに笑った。「万引きじゃスケール小さいしね」本当は万引きもなんのことだかわからなかった。
「アッキーは3年生だろ? カツアゲなんてできんの?」
5年生のメンバーが言った。明彦はいつの間にかいじめっ子グループのみんなからアッキーと呼ばれていた。
「下級生いじめなんかだめだよ!」直樹が明彦を必死で止めると、いじめっ子たちから一斉に頭を叩かれた。
明彦はほがらかに笑った。「俺はオトナしか狙わないから。二十五歳以上限定ね」
大人だって? そこにいた全員がぎょっとしていると、明彦はすたすたと大通りの方へ歩いていってしまった。
いじめっ子たちはふるえあがっていた。
「大人だって、やばくねえ? 捕まっちゃうんじゃないか」
「というか、二十五歳以上限定って何?」
やがて、明彦が黒いベンツの周囲にいるサングラスをかけた一団の前で立ち止まったので、全員が真っ青になった。どう見ても彼らは危険な気配を発していた。ヤクザ、小学生でもそれが大人の中でもとりわけ怖い人々だということはわかった。
「あ、明彦! それは危ない」
直樹は明彦を止めようとしたが、腰を抜かしてしまって足がまったく動かなかった。
「やっぱアメリカ帰りは日本の事情をよく知らないんじゃねえの?」
ケンタの膝はガタガタと震えていた。
「逃げろ、やばい」
ヒデユキが叫んだ。彼は今すぐこの場から逃げ出したくてたまらなくなった。
そんな仲間たちのことも知らず、明彦はサングラスの一団には目もくれずに、その集団の中央にいる高級そうな毛皮のコートを羽織った姐さんの前に立った。明彦は姐さんをじっと見つめた。姐さんは年配だったが、とても綺麗な人だった。
明彦は胸に手を当てて言った。「……綺麗だ。まるで、ママみたい」
……は? 直樹たちは戦慄した。
「誰。こんなとこに子供が来るんじゃないよ」
声をかけられた姐さんは、最初その美少年が何を言ってるのかわからなくて唖然としていた。しかしよく見ると、その美少年はうっとりとした顔をして頬をバラ色に染めて自分を見つめている。……まるで天使のように。
――まあ。かわいい。
不本意にも、姐さんはそう思ってしまった。
「ママ」明彦は姐さんに抱きついて甘えた。実は、明彦は大人の女の人の胸に顔をうずめるのが大好きだった。なぜか、とても気持ちよくなれる。
「こら、懐くな。私はあんたのママじゃないよ」
姐さんは明彦から離れようとしたが、明らかに嬉しそうだった。彼女は完全に母性本能を刺激されていた。明彦は「ふふ」と笑って姐さんの胸に頬ずりした。
――うーん。やっぱりママのマシュマロ級の柔らかさにはかなわないな。
直樹たちは立ち尽くしていた。心の中で、「それはカツアゲじゃない!」と突っ込みながら。
明彦は姐さんの頬にキスをして、彼女に手を振りながら仲間たちのところへ戻ってきた。「ほら、金もらってきたよ。ジュースでも買えって」
明彦から千円札を受け取ったヒデアキは引きつった笑顔を浮かべた。
「いや、こういうことも悪いことだけどさ……」
「これがカツアゲでしょ?」
明彦は子犬のような顔をして首を少しかしげた。
「全然違う」直樹が突っ込んだ。「それはタカリ。もしくはナンパ」
「迫力がないよ、俺はアッキーのもっとワルっぽいとこを期待してたんだけど」
ケンタが文句を言い出した。「下級生殴るとか」
「ワルっぽくないか……」明彦は眉根を寄せた。「じゃあ、これは?」そう言い、明彦は分厚いワニ革のサイフをいじめっ子たちにちらつかせた。札が100枚は入っていそうなサイフだった。
「日本人は、すぐ無防備になるからなあ」
自分も日本人のくせに明彦はサイフの中の札を数えながら言った。
「俺が殺し屋なら、あのお姉さんはとっくに死んでる」
……いじめっ子全員の顎が、外れた。
――こいつ、ヤクザからサイフをすってきやがった!
「馬鹿! サイフを返してこいよ!」
ヒデユキが悲鳴を上げた。「俺は絶対、関係ないからな!」
「俺、お腹痛くなってきた」ケンタはそう言ってとっとと退散した。
いじめっ子たちは明彦と直樹を即座に解放して逃げていった。これ以上、アメリカ帰りの変人に巻き込まれたくないと彼らは思っていた。
「逃げ足が速いね、みんな」明彦は涼しげな顔をして言った。
直樹はどぎまぎしながら「そのサイフ、どうするの?」と聞いた。明彦はけろっとした顔をして「どうもこうもないよ。これ、もともと俺の持ち物だ」と言って、サイフの中身を出した。それはわら半紙の束だった。
「だましたんだ!」
「盗んだとも、金だとも言ってない」明彦は平然としている。
確かにそうだな、直樹は思った。「というか、その紙束はなんなの?」
「俺のメモ帳。ヒマ潰しに円周率を書き込んでる」100枚はあろうかという紙に、裏にまでびっしりと数字が書かれていた。「最近、円周率は10ケタで計算できることがわかったらしいけどね」
「まぎらわしい……。いつもそんなの持ち歩いてるんだ」直樹が呆れていると、明彦は「ほかにもいろいろあるよ。俺の秘密7つ道具」と言って、肩にかけていた巨大な鞄を開けた。
「大学受験の参考書と辞書だろ、釣具に工具セットだろ、洗面器に寝袋、シャベルに裁縫道具、フォークにフライパン、カセットコンロ、ビニールシート……」
学校で使う道具は一切持ってきてないんだな、直樹は愕然とした。――サバイバルでもするつもりなのか? というか、7つ以上あるし。
「その鞄、ずいぶん重そうだけど、いったい何キロくらいあるの?」
「50キロくらいだよ」
明彦がほがらかに笑った。直樹はもう、何を聞いても驚くまいと決意した。

※※※

生まれて初めて同じ年頃の友達ができたことで、俺は有頂天になっていた。
俺はアメリカにいた頃も、大人たちに囲まれ、厳重警戒されてずっと孤独に暮らしてきた。あの頃、俺とまともに口をきいてくれたのはママしかいなかった。
学校という場所は、幼稚な人間たちが集まる場所だと思っていた。実際、多くの人間が取るに足りない挑発や根拠のない罵倒、批判をしてきた。だが、友達になってくれる人間もいる。少しずつ学校の仲間とも打ち解けて、彼らと宇宙人やサンタクロースの話をしたり、隠れ家を作って遊んだり、ゲームの対戦をしたりするのは楽しく、新鮮だった。
最近、評判のイマイチだった頭のちょんまげをママに切られてしまった。ちょんまげは日本の男のステータスだと思っていたのだけど、どうやら今は違うらしい。俺は日本のサムライやニンジャに憧れていた。特にニンジャ、いろんな術を使って悪党をやっつける、あんな風になりたいと思っていた。
〈力を使ってはだめよ。約束してね〉
あれほど繰り返してママが言っていたことを忘れかけるほどに、俺は調子に乗っていた。
――少しくらいならママだって許してくれる。だって、あんなの全然本気出してないし。
だってこの国は平和じゃないか、いきなり撃たれたりしないし、妙な組織が追ってくることもない。本気を出す必要はまったくない。俺はただ威すだけでよかった。

「アッキーは名誉幹部ってことで。どこのハバツかを聞かれたら俺の名前を言えよ」
ヒデユキという5年生はそう言って、俺とナオを野に放った。ナオは俺の付き人ということになったらしい。ナオは心底ほっとしていたようだった。こいつは根はずうずうしくて図太いくせに、なぜか臆病者のように振舞っているヘンな奴だ。
「臆病者のように振舞ってる、じゃなくて本当に怖がりなんだよ」ナオが口を尖らせた。そう言いながら、奴は怪物屋敷と呼ばれている俺の家でくつろぎ、エスパーである俺の作ったホットケーキをむしゃむしゃ食っていた。
「家のこと全部やってるの? 明彦は」
「うん。ママは仕事だからね。ちゃんと手伝わないと」俺は夕飯の支度をしながら言った。生活のことをひとりでちゃんとやれるのが一人前ってもんだろ?
それに、俺はママからアテにされたかった。ママに褒められたかったし、ママから一人前の男として認めてもらいたかった。勉強だって頑張るし、スポーツだって活躍してしまう。絶対に泣かないし、物事はクールに決めている。すべてはママの自慢の息子になるためだった。俺は、そんな自分をカッコイイと思っていた。
俺が誇りをもってそう言うと、ナオは神妙な顔をして言ったものだ。「ヘンなの。明彦って、マザコン?」
……まざこん? 聞き慣れない日本語に、俺は首をひねった。
〈エディプスコンプレックスだってよ。乳離れしてない男。つまり、赤ちゃんと同じ〉
なぜか天から妙な声が聞こえてきた。いや、今はそれよりも、俺はマザコンの意味に衝撃を受けた。――赤ちゃん!
オトナで無頼、ニヒルで男らしくが俺のモットーだった。――それを、ママがいないと何もできないってか! 俺のプライドがヒビ割れた。
「マザコンじゃねえ!」
大地が轟き、家が揺れた。「俺はマザコンなんかじゃねえ!」俺は吼えた。屋根が吹っ飛び、壁にヒビが入った。たぶん、頑丈な洋館だからこの程度で済んだ。普通の家ならぺしゃんこだった。
「わかった、明彦はお母さん思いなだけだよね」ナオはため息をつきながら言った。
俺は舌打ちした。――こいつ、最近はちっともびびりやしねえ。
その夜、またしても悪夢にうなされ、「本当に赤ちゃんみたいなんだから」と言われながら、ママにだっこされながら眠っていたことなど、もちろん覚えちゃいなかった。