小さな街のストーリー
Y.K
約 1202
東京から岩手に移り住んで、間もなく9年目を迎える。
11月を引越しの日と決めたのは、冬の寒さをまず体験して、覚悟を深くするためだった。
当たり前のように見られるダイヤモンドダストに感動し、目玉が凍みる朝の散歩に笑いがこみ上げた。
凍った坂道を歩くのも、大分上達したような気がする9回目の冬を前に、思い至るのは高村光太郎のことである。
岩手県民は別として、高村光太郎が晩年の7年間を花巻で過ごしたことを知る人は、あまり多くない。
戦中に戦意高揚の詩歌を多く発表していた光太郎は、空襲でアトリエや千恵子のちぎり絵の多くを失って初めて、自身の成したことを悔いて失意の底に沈んでいた。そこへ宮澤賢治の弟に招かれ、花巻に居を構えたのである。
現存する光太郎の当時の住まいは、端的に言って掘立小屋である。
これを始めて見た時、光太郎がここで死を覚悟したに違いないと感じたほどである。
彫刻刀を捨て、畑を耕し、小学校で書を教え、冬には一面が銀に埋まる小さな小屋の中で一人、詩を書いていた光太郎は、やがて愚かな典型と唾棄した自らを、再び立ち上がらせてゆく。
小屋の中に掲示されている「山の少女」という一編の詩が、その再生の端緒を示している。
光太郎の描いた山の少女は、瑞々しく頼もしい。小さな少女でも山に入っては食べ物を取ってきて、光太郎に差し出すのだ。
畑仕事を手伝う少女は、兄や母に叱られつつも鎌さばきが様になっている。
この少女を見た時の光太郎の驚きは、まさしく私が移住後最初の夏に感じた、人々への畏敬と同じだった。
光太郎をしてでさえ、東京で生まれ育ち外国で芸術を学んだことがあることすら、この地では何の価値もなく、自分の喰らう一束の青菜すらこの手では作り出せない脆弱さを、思い知らされたに違いない。生きるとは何たるかを、大地に働く人々から見せつけられたのだ。
いのち麗し。光太郎が好んで用いた言葉が、花巻の田園風景で息を吹き返す。
雪白く積めり。鮮烈な白い雪がもっさりと広がり、冬の畑は銀の荒野となる。
圧倒的な自然を前に立ち尽くしてなお鼓動する自らの心の臓を、光太郎は受け入れる。
掘立小屋でポタージュスウプを作り、クリスマスにはサンタクロースとなって小学校を訪問し、小屋の裏手の丘に登っては智恵子の名を呼んだ。
やがて最後の仕事となる、十和田湖畔に立つ乙女の像を完成させ、東京のアトリエで息を引き取ったのだが、私は光太郎は花巻の小屋で雪の降り積む冬、静かに召されたいと思っていたような気がしてならない。
東京からのゲイジュツカという見知らぬ老爺を温かく迎え入れた花巻の人々に、光太郎がどれほど救われたかを知る歌がある。
みちのくの 花巻町にひとありて 賢治をうみき 我を招きき
光太郎を再生させたみちのくの人々の温かさは、平成の今でもしっかり受け継がれていると、岩手に移り住んだからこそ言えることである。