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高田馬場ラプソディ

梅川康輝


約 10477

 

息を切らしながら絶えず上を向いて歩いていた。すぐにお上りさんだと気付かれるだろう。高層ビル街はそうでもしないと訳が分からない。どこもかしこも田舎にはない大きなビルばかりだ。

僕は慣れない手つきでネクタイの結び目を直しながら新宿副都心を歩き、会場へと足を早めた。首が苦しいし、革靴も足のつま先が痛い。スーツを着るのは成人式以来だ。何だかぎこちないなと思った。

会場はスーツ姿の若者で埋め尽くされていた。真ん中辺りの隣に誰もいない席を選び、受付で渡されたパンフレットに目を通していた。式が始まると、校長らしき初老の男がご入学おめでとうございますと挨拶し、しばらくすると檀上で白髪の男が早口で話し始めた。

生い立ちや学生時代に小説家を目指していたこと、大学卒業後にテレビ局に入社したことから、最後にはアメリカの軍事戦略にまで話は及んだ。ジャーナリストの男は最後に会場へ呼びかけるようにこう言った。

「みなさんには受け手のキャッチャー型ではなく、球を投げるピッチャー型の人間になって欲しい。ジャーナリストは自分で考え、行動するものです。そして日々疑問を持って欲しい。立派なジャーナリストになって下さい」と言った。講演が終わると来賓が挨拶し、入学式は終了した。

桜の花びらが落ちた東京の坂道を歩きながら、僕はこれからのことを思った。上京した妹と住むために大学のあった世田谷のアパートから所沢に引っ越し、学校までの定期券も買った。新しい生活が始まると思うと不安と同時に胸が高鳴った。新宿ですし詰め状態の山手線に乗車し、高田馬場で西武新宿線に乗り換えた。

四十分ほど揺られると新所沢駅に着く。線路沿いにあるマンションのドアを開けると、綾がキッチンでジャガモの皮を剥いていた。高校で調理の勉強をしていたので料理は得意な方だった。

「おかえりー。今日はカレーね」と綾は言った。

「おっ、カレーか。それにしても今日はすごかったよ。テレビで有名なジャーナリストが講演したしね」

「すごいね、お兄ちゃん。さすがジャーナリスト専門学校」

妹は埼玉県内の大学入学のために上京し、大学を中退して高田馬場にある専門学校に入る僕と同居することになった。僕はルポライター専攻科に入学した。単純に物書きになりたかったからだが、親には心配を掛けたくなかったので、卒業すれば新聞社に就職できると思うと言っておいた。

大学受験で文学部に落ち、たまたま受けた商学部に受かり渋々入学したのだが、講義が面白くなく友達もできず、中退してしまったのだった。

「大学辞めてまでして来たんだから頑張ってよね。直子さんも応援してるって年賀状来たから」

「お前に言われなくても分かってるよ。それにしても、まだ直子と連絡取ってるのか」

「連絡取ってるよ。直子さんはいい人だよ。

何で別れちゃったの」と綾は言った。僕は黙っていた。

直子とは僕が大学に通っていた頃付き合っていた。お互い地方からの上京組でアパート暮らしだったため、半同棲状態だったが、専門学校だった直子が先に就職してからすれ違いが多くなってしまった。別れて半年が経っていた。

所沢に引っ越した後、直子のマンションに行った。僕が電話した。直子は病院に就職し、昔住んでいた駅から一つ隣の駅のワンルームマンションに引っ越していた。

新宿から小田急線に乗り、各駅停車の駅で降りた。専門学校の入学パンフレットを持ってきていた。マンションの近くのコンビニでビールを買って部屋に入った。

「ほりちゃん変わったね。靴が違う。彼女出来た?」と直子は僕のニューバランスのスニーカーを見て言った。

「いないよ。たまたま買ったんだ」

僕はビールを渡すと、直子は冷蔵庫からつまみになるものを出してきた。

「へえー、可愛い子いそうでいいねえ」と直子はパンフレットを見ながら言った。

「そんなのは期待してないよ。やりたいことをやるために行くんだ」

「そうだよね。ほりちゃんは作家になりたいだんもんね」

「だから作家は諦めてルポライター科に入るんだ。新聞社に就職できればいいと思ってる」

「新聞社ねえ。とにかく学校頑張ってね。

私は仕事忙しい。毎日のように人が死んでくの。もう慣れたけどね」

「看護師は大変だな。でも、なりたくてなったんだからやるしかないでしょ」

部屋の中央には炬燵が置いてある。季節は四月だったが、フローリングなので床が寒いのだろう。僕たちはビールを飲みながら夜のバラエティ番組を見ていた。

飲み終わってしまうと気が付けば僕は直子のスカートを脱がしていた。直子は抵抗しなかった。僕はスカート脱がし、ストッキングとパンティを脱がした。直子はしっとりと濡れていた。

「今日何しに来たの?やりたいだけじゃん」と直子は言った。

僕は何も答えず、直子の乳首を愛撫したあと、硬くなったものを挿入した。久しぶりの感覚だった。全身が震えた。直子も上半身を小刻みに震わせて声を上げ、下から足を絡ませてきた。僕は我慢できなくなると直子のへその上に射精した。直子と寝たことが良かったのかは分からない。直子に見透かされていたことを恥じた。その夜、直子のマンションに泊まった。

一週間後、初の登校日がやってきた。ジャーナリスト専門学校のある高田馬場は早稲田大学のキャンパスあることで有名だが、短大や専門学校も立ち並ぶ。

JRの駅を下りると、右手にビックボックスという若者向けの商業施設があり、沿道にはラーメン屋や安いチェーンの居酒屋、学生ローンの看板が目立つ。スーツ姿のサラリーマンは皆無で、学生だろうジーンズ姿の若者が圧倒的に多い。僕は橋の上で神田川を下に見て、都電荒川線の線路を渡って学校の本校舎に着いた。

最初の授業は文芸評論家が講師だった。眼鏡をかけ、頭が剥げた講師は授業の冒頭に言った。

「君たちに水ぶっかけるようで悪いけど、マスコミは学歴社会だからね。専門学校出ても大手マスコミには入れない。大卒しか獲らないからな」

初日から厳しい現実を見せつけられた。それでも僕は大手でなくともいい。文章を書く仕事につければと思っていた。

講師は四国の国立大学を出て、左翼系出版社を経て文芸評論家をしていた。「噂の真相」に読書コラムを連載していて、仕事柄ノンフィクションからミステリー、純文学まで多読するのが特徴で一カ月に何十冊も読むのだと言う。片目が見えなかったが、その分本を読みたいという欲求が強くなるんだと講師は言った。

僕は文芸創作科とルポライター専攻科で最後まで迷ったが、結局文学の才能はないのだと諦めた。現実を取材して書くのならできそうだと思い、ルポライター科を選ぶことにしたのだった。

だが、学校は怪しいものだった。講師も言ったようにマスコミは大卒しか採用しないし、狭き門である。そんなことも知らない入学生は大学受験に失敗したか、大学中退者や高校中退者など学校からドロップアウトしたものの集まりだった。それでも編集者や記者を夢見るものが一縷の望みを託して入学してくるのである。学校側も学生を集めなければ経営していけないので、就職率をうまく誤魔化しながら入学説明会を行っていた。

実態は講師は本業では食えないジャーナリストや評論家の集まりで、講義の合間にメディアの仕事をするのはいい方だった。大半はマスコミでは相手にされないレベルの物書きばかりだった。入学説明会で貰った学校パンフレットにはルポライター専攻科講師として、オウム真理教の取材で有名になった女性ジャーナリストの名前があったのでうかつにも信用してしまった。入学してみると、その人物は本業が忙しくなり、学校には来られなくなったということだった。

そんな風にして現役のジャーナリストは姿を消し、無名の物書きだけが学校に残ることになるのである。

そもそも物書きは教えられてなれるものなのかという議論があり、大学にも文芸学部や新聞学科があるが、どれだけの作家が世に出ているだろうか。新聞記者でもそうだが、いくら一流大学を出ていていも現場で短時間の間に記事が書けなければものにならない。要は書く能力なのである。

クラスの半分は途中で辞めていった。専門学校を中退してもどうにもならないと思うが、現実の厳しさを知ったのか、辞めるものが後を絶たなかった。僕は大学を辞めてきた手前、今度は途中で投げ出すわけにはいかなかった。

就職は無理なのでフリーランスのライターになり、収入は肉体労働で稼げと言った講師もいた。ノンフィクションライターであるその講師は若いころ日雇労働者として土方仕事で生活費を稼ぎ、ライター修行をしたという。宗教でも政党の新聞でもいい。とにかく潜り込んで金もらいながら修行をしろと言っていた。

僕は大学を中退して来ていたし、何か結果が欲しかったので、一年の秋に校内の作品コンクールに応募し、ルポルタージュ部門で大賞を獲った。入学説明会の時にコンクールのことを知ってからずっと取りたかった賞だった。受賞すれば活字になって二千人の全学生に配られる。何よりも自分の文章が活字になるということが一番の喜びだった。

ルポは東京の芝浦にあるとさつ場の見学記だった。取材実習の授業で3K職場についての取材という課題が出され、数人で見学に行ったのだった。

何回かの取材交渉の末に見学許可が出たのだが、現場は想像を絶するものだった。豚や牛が電気ショックを与えられ、断末魔の叫びを上げるのを間近で見た。人間は動物を殺して食べているのだという当たり前のことに気づかされる。

とさつ場で働くものは被差別部落出身者が多いことも知った。何人かにインタビューをしたが、「俺たちは牛殺してんだよ」と吐き捨てるものもいたし、「人に仕事のことを言えない」というものもいた。

僕は四百字詰め原稿用紙三十枚を書いて応募した。大学では卒論を書いていなため、三十枚といっても初めての経験なので長く感じたが、取材ノートのメモや印象的なコメントを拾い出し、見よう見まねでルポを完成させたのだった。

ルポ部門には同じクラスの池田という学生も応募していた。四百字詰め原稿用紙三百枚の大作である。内容は地方の農業高校でいじめがあるという内容だった。教育問題をテーマにしたルポだった。池田の話だと、友達から話を聞き、書いたという話だった。

結果的に受賞はならず、僕が受賞となったわけだが、池田は一年生の冬休みに睡眠薬を大量に飲んで自殺未遂をした。精神科に通院していたらしい。池田はマンション暮らしだったので、時々遊びに行ったりする仲だった。

ルポ科担任の講師が僕に言った。

「池田は自分のこと書いてたんだよ。お母さんから聞いた。自分がいじめられてたこと書いてたんだよ」

「そうなんですか。あいつはこの作品は足掛け三年と言って自慢してたんですよ」

「体験記として書くべきだった。あれではルポにはならないよ。自分のことだからね。

堀川君、池田とは関わらない方がいい。彼はたぶん退学するけれどね」

僕はどうすることもできなかったが、責任を感じた。池田は賞を獲れなかったショックで命を絶とうとしたのかもしれない。だとすると、僕が受賞したから池田は落ちたのだ。三百枚も書いて駄目だったのだから落ち込んだだろう。僕は食欲が落ち、体重が減った。

しかし、退学した池田とも会うことはなく、

新学期が始まる頃になると事件も風化し、

僕の体調も戻ってきた。

東京にも桜が咲き、春がやってきた。二年生になるとゼミが始まった。僕は選抜試験を経て希望するゼミに入ったが、ゼミに入れないもののいた。福本ゼミに入ったのはルポ科の先輩の規定コースを外さないためだった。先輩は校内コンクールの大賞を取り、福本ゼミに入り、若手ジャーナリストの事務所にデータマンとして就職していた。

ある四月のゼミが終わると、先輩たちと居酒屋へ直行した。高田馬場では四時から飲み屋が開いている。さすがに学生街だ。チェーン店らしいが、初めて入る店だった。今日はどうせ先輩のおごりだ。たくさん飲んでやろうと思った。

客は僕らだけだった。焼き鳥やホッケの塩焼き、鳥の空揚げといった定番メニューが壁紙にびっしりと書き込まれていた。生ビールとイカ刺しを頼み、ジョッキで乾杯した。昼間からつまみを食べながらアルコールを飲むのは学生にとって最高の贅沢のように思えた。

「福本さんはああ見えて、ムサビだからかね」と眼鏡を上げながら松下さんは言った。

「えっ、まさかムサビって、あのムサビですか」と僕は言った。

飲みかけたビールをこぼしそうになった。

「そう、武蔵野美術大学出身」と松下さんは言ってタバコの煙を鼻の孔から出した。

僕はビールを飲んだ。

「じゃあ、絵を描くんですか。それって創作じゃないですか。普段は事実を追ってるのに」と僕は言った。

「それがいいんじゃない。普段はノンフィクション、休日はフィクション」と村田さんは笑った。

「村上春樹がエッセイかなんかで書いてたけど、長編小説が終わると意識的に翻訳の仕事するんだってさ。頭の使い所が違うからいいいんだって」と村田さんは言った。

福本先生は科学をテーマにする売れないジャーナリストだった。主に遺伝子に関する問題を追っていたが、テレビ嫌いでコメントを求められても断っていた。

松下さんと村田さんは福本ゼミのOBだった。二人とも会社勤めではないので、平日の昼間にゼミに顔を出せるのである。松下さんは一応、編集プロダクションの代表を

やっており、村田さんは若手ジャーナリストの助手を経て、今はフリーランスのライターだった。

「堀川君、ミニコミやらない?ミニコミって言っても手作りの同人誌だけど」と松下さんが突然言った。

僕は予想もしていなかったので割箸を落としてしまった。しかし、断れない性格なのでやりますと言ってしまった。

「俺が学生やってた頃はちょうどPKO派遣が問題になってたんだよ。それでミニコミに自分の考えを書いたら、校長と福本さんに褒められてさ」と松下さんは言った。「ミニコミは面白いぞう。福本ゼミのみんなが通る道だから」

結局その日は松下さんの家に泊まることになった。松下さんは既婚者だったが、その日は家には誰もいなかった。

「ついてくるもんな。やっぱり堀川君は違うなあ」と村田さんは言った。

松下さんは都内の西武池袋線沿線に一軒家を持っていた。人から聞いた話だが、松下さんの父親は本当かうそか分からないが、国会議員だとかで地元の名士らしく、かなり裕福な家庭の生まれということだった。僕はかなり酔っぱらっていたので雑魚寝ですぐ寝てしまった。

朝起きると、知らない天井があった。周りは布団が散らばっている。一瞬どこにいるか分からなったが、しばらくして昨日松下さんの家に泊まったのだと気付いた。

僕は頭を押さえてゆっくりと布団から這い上がった。先輩たちはいない。コンビニにでも行ったのだろう。近くにファミリーマートがあった。今日は土曜日だったが、風呂に入っていなかったので家で入りたいと思い、僕はマンションに帰ることにした。

朝帰りすると、妹は学校へ行っていなかった。夜になると、僕は親友の久保田君に電話を掛けた。先輩に言われてミニコミの編集長になることになってしまった。副編集長として手伝ってほしい。こう伝えると、久保田君は「まあ、事情があるんでしょう。分かりました。引き受けましょう」と言ってくれた。まずは松下さんに言われたように、創刊準備号を作らねばならなかった。

一週間後、学校へ行くと久保田君が休み時間に話しかけてきた。

「堀川さん、タイトルはジャッジで行きましょう」

「ジャッジ?俺たちが学校を判断するってこと?」

「いや違うんです。最近テレビでサッカーの国際大会の誤審問題が話題になってて、それでジャッジという単語が浮かびました」

久保田君は自ら参謀タイプというだけあって、なかなか頼りになる。

「そういうことか。それいいね。ジャッジで行こう」

学校はジャーナリスト専門学校だけあって、マスコミ志望の学生ばかりで、ミニコミも活発に出されている。僕たちのように個人で金を出し合って、ワープロで作った白黒の冊子が玄関ホールに置かれていた。

ミニコミの内容はゼミやルポ科の友達が授業の課題で書いた文章を載せることになった。

「久保田君は何載せる?」

「俺は評論載せます」

「ああ、いつものやつ?」

「ゼミで書いたやつです。タイトルは宗教と政治の交錯。なぜ政教分離をしなければならないのか。その辺を絡めて書いた原稿です」

「政教分離かあ。よく分からないけど、実際的に公明党は創価学会だしね。やっぱり宗教と政治は昔から深い関係にあったのかねえ。俺は小説載せるわ。文章実習の授業で書いたやつ。一応、先生に褒められたんだよ」

小説は四百字詰め原稿用紙十枚の小説で、マルクスの資本論を愛読する大学生が主人公だった。火星と金星に住む新左翼団体と新興宗教の知人から手紙が来るというアバンギャルドな内容だった。小説家の講師に褒められ、もっと長く書いて新人賞に出してみろと言われたのである。小説が評価されたのは初めてだったので天にも昇る気持ちだった。

ミニコミは映画評論やルポなどの原稿も集まった。原稿はフロッピーで集めて、僕のワープロで一ページづつレイアウトしなおし、感熱紙に印刷した。手書きの原稿の場合は妹に打ち込みを手伝ってもらった。A4の紙を何枚か二つに折ってそれを重ねて仮のページ数を書き込み、表紙、目次、一ページ目と作っていった。

執筆者から千円づつ集めて学校の図書館のコピー機で印刷した。部数は百部を作ることにした。無料配布だったが、ジョークで時価と書いておいた。

表紙はルポ科の古橋君が広末涼子の写真を撮ってきた。何かの商品パンフレットを一眼レフで撮影したのである。アップで撮っているので直接撮影したようにも見えた。JUDGEという文字をワープロで拡大印刷してハサミで切り、写真をモノクロコピーした紙にノリで張り付けた。

「表紙がアイドルなのに、中身は硬派ですねえ」と古橋君は言った。

「硬いかね?いいんだよ。俺が作るとどうしてもこうなっちゃう」と僕は笑った。

古橋君は高卒で入ってきたので僕より三歳年下だった。同じ西武新宿線沿線のアパートに住んでいたので遊びに行ったこともある。映画好きで映画評論家のゼミに入っていた。創準備号にも映画コラムを書いてくれていた。

「古橋君は日本映画好きだよね。ハリウッドは?」

「あんなアクション大作で、金かけて世界で興行するような映画には興味がありません」

「やっぱり、日本映画ですね。静かで純文学的なものが好きです。でも、今映画界は厳しくて映画監督だけでは食えないので結構有名な監督でもCM撮って稼いでますけどね」

「へえーそうなんだ」

「今度ゼミで自主映画獲るんです。八ミリですけどね。脚本もオリジナルです。僕もちょい役で出ます」

「自主映画は憧れるね。クリエイティブな学生って感じがする」

「そうですね。ゼミの先生が言ってましたけど、脚本は主人公の一週間分の生活スタイルを考えなければいけないそうです。何時に起きて、どこの会社へ行って、昼はどこで何を食べるか。それぐらいしないと人物に厚みが出ないそうです」

「なるほど。それは小説にも言えそうだね。

またミニコミの原稿お願いね」

創刊準備号は何とか二十ページ程になりそうだった。僕は創刊にあたってという巻頭文を書いた。ジャーナリスト専門学校で学ぶ同じ学生として、様々な社会問題に対して一緒に考えていこうと呼びかけた。これは福本先生が授業でよく話しているライターは啓蒙してはいけないという教えに基づいている。奥付には編集兼発行人として僕の名前と住所、電話番号が書かれていた。編集兼発行人という肩書は何だか誇らしかった。

仲間数人で放課後に集まり、図書館でコピーしたものを折りたたみ、大きなホチキスで真ん中を二か所止めて出来上がった。僕は出来たてのミニコミを抱えて、本校舎の玄関ホールの机に五十部を陳列した。果たして皆は手に取ってくれるだろうか。一向になくならない可能性もあったが、内容には自信があった。残りは高田馬場駅近くにある第二校舎へ置いた。

翌日、本校舎へ登校するとミニコミはほとんどなくなっていた。自分で作ったものが評価されてなくなる。僕は何とも言えない快感を覚えた。

僕は久保田君に携帯電話で電話を掛けた。久保田君はPHSを持っていた。

「すごいよ。本校舎に来たけど、ほとんどなくなってるよ」

「そうですか。やりましたね。いきなり最初から結果が出ましたね」

六月の梅雨の時期に入り、僕は第一号の準備に取り掛かった。ちょうどその時、日本列島を震撼させる事件が起こった。いわゆるサカキバラ事件である。神戸新聞社に送られた犯行声明文からは想像もつかなかった弱冠十四歳の少年が逮捕された。

学校の授業でもレポートを書かされた。ゼミの友達の奥村が授業で書いた原稿を持ってきた。

「これ次のミニコミに載せてよ。良く書けたから。少年Aの声明文に透明な存在ってあったでしょ。あれ、すごくよく分かる。俺も透明な存在だったから」

「それ、どういう意味?」

「俺は高校中退してるでしょ。中学から不登校だし。俺はクラスにいても誰からも注目されない透明な存在だった」

「だから学校に問題があるといいたいの?

これは教育問題だと」

「そうだね。少年は学校教育の被害者だと思う」

社会システムに問題があるという視点は僕の周りの友達たちの常套句だったので聞き飽きていたが、奥村の透明な存在というキーワードに共感したという言葉は印象に残った。奥村の文章を掲載することに決めた。

学校の広告コピーに「マスコミ人になる」というものがあったが、僕はこれを取り上げ、名コピーだが実態は就職率が低いと巻頭コラムに書いた。朝日新聞出身のジャーナリストがエッセイで書いていたジャーナリストは学校では養成できないというエピソードも書いた。学校と学生を挑発してやろうという考えだった。

表紙は前回同様に古橋君が撮ってきた。

「今回はサカキバラ事件に関連してこんな写真です」と言って学生服を着た男子の集合写真を僕に見せた。「僕の高校時代のです」

「これはいかにもそのイメージだね。こんなタイムリーな表紙はない」と僕は喜んだ。

「前回、パンフレットを撮って福本さんに怒られたので、今回は自分で撮った紙焼きです」

ミニコミを見た一年生から原稿を掲載したいという要望があったほか、ルポ科のクラスでも話題に上ることが多くなっていた。

奥村はサカキバラ事件の他に競馬コラムも書いた。学校の授業は面白くない。競馬で当てて学費を取り戻そうという内容だった。これに対し学生から投書が来た。私はゼミなど授業が楽しいし、学生生活は充実している。ギャンブルの競馬で取り戻すとはいかがなものかという内容だった。次号に掲載する予定だったが、ゼミの課題が忙しくなったり、僕の就職活動が忙しくなったりしたためにミニコミにさく時間がなくなっていた。

この号も一日で百部がなくなり好評だったし、校長や講師からカンパも貰ったが、これから二、三号を発行したところで結局ミニコミは自然消滅してしまった。

僕は年明けから就職活動を始めたが、送られてくるのは不採用通知ばかりだった。学校に求人票を送って来た会社を受けているのだが、やはり大学中退者を積極的に採用する企業はない。形式上では専門学校に門戸を開いてはいるが、実際には大卒しか採用しないのだろう。何社受けただろうか。数十社分の履歴書を書いた。

しかし、大学生の就職戦線に比べれば楽だろうと思った。話で聞くには、OB訪問から始まり、相当な数のエントリーをして会社説明会やセミナーをこなさなければならないという。

だが、この学校では至極単純だった。履歴書を送って、面接を受けるだけだ。企業も中小企業の新聞、出版ばかりで新卒採用ではなく、欠員補充という意味合いだった。

一社だけ書類選考が通り、面接まで進むことになった会社があった。ファッション業界の業界紙で日本橋に本社があった。

日経新聞の社説を読んで作文を書かされた後、総務部長と編集部長との面接を受けただけで終わった。手ごたえはあまりなかったが、一週間後に内定の電話が来た。両親や友人、先生は祝福してくれたが、僕は心の中に引っかかるものがあった。

僕はとっさに村田先輩を思い出した。村田先輩はルポライターの助手をした後、フリーライターになったが、都内で生活費月十万円以下で暮らしていた。アパートは四畳半で家賃がかなり安いところだった気がする。

専門学校時代、夏休みに大阪のドヤ街である釜ヶ崎へ行って日雇い労働を体験し、その日記をまとめて校内コンクールの大賞を獲った人である。

やりたいなら反対しないけどと前置きして、フリーライターはお勧めできないと僕に言ったことがあったが、それでも「SAPIO」に書き、目次で落合信彦の隣に自分の名前が並んだと言って目を輝かせていた。

数日後、僕は公衆電話から内定をもらった会社へ電話をかけた。申し訳ありませんでしたと僕は言った。電話を切ると駅の方へ向かって歩き出した。真っすぐ続いた道の向こう側に、高層ビル街の赤ランプが点滅しているのが見えた。

冬の都会の薄汚れた空気にけぶる赤い灯を見ながら、自分とあのビル街との間の長い道のりのことを思った。

歩いたら三十分、いや四十分はかかるだろう。けれど僕はふと、俺が今、ここからあのビル街まで歩いたとしても、別にどうということはないんだなと考えたりした。 (了)