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天使の手帳

直嶋航


約 3413

数年の闘病生活の後、父は七十七歳で逝った。私が貰い受けた父の遺品のなかには、会社員時代の三十四冊の手帳も含まれていた。
一番古いものは一九六八年のもので、B6サイズ・濃い紺色の表紙に、企業のシンボルである天使のマークが刻印されている。
一度目を通そうと思いつつも、そのまま押し入れに仕舞い込んでいたのだが、先日探しものをしている際に、ふと目に留まった。
大掃除のときの古新聞よろしく、読み始めてしまうのは、人の性というものであろう。

 

筆まめな父は、仕事人間で、外面が良く、頭の回転が速くて冗談好き、しかし短気で手が早い面も持っている人だった。
父親を幼くして亡くし、苦学して商業高校を卒業した。その就職から一部上場企業の管理部門の部長になるまでの間に記されていた手帳には、
勤めていた菓子会社の仕事に関することが細かく記されている一方で、時折、家族や親戚の行事や出来事にも触れられていた。
ある日の欄には、私の名前の横に「発熱」と書かれていた。お前は身体が弱いなあ、半ばあきれ顔で、すぐに風邪をひく私の額に手をあてる
父の姿が浮かんで、不覚にも眼頭が熱くなった。指で眼を抑えた、その潤んだ暗闇の中から突然に、はじめて父が私に、諄々と話をしてくれた
日の事がまざまざと甦ってきた。

 

父は転勤族であったために、我家は数年に一度、見知らぬ土地へと引っ越しを繰り返していた。おかげで私は幼稚園を中退したり、
四つの小学校に通ったりすることになった。

入学した小学校を離れたのは三年生の一学期の終わりだった。私は、三歳上の姉が来るのを、正門脇の花壇で待っていた。
初夏の日差しが爽やかな、よく晴れた日で、花の手入れをされていた校長先生が私に気付き、不思議そうな顔で
「どうしたの」
と声をかけられた。
私は、転校するので、姉を待っています、という意味のことを答えたのだろうと思う。
校長先生は、笑顔で、
「新しい学校でもがんばるんだよ」
と励ましてくださった。
その言葉を聞いて、ああ、ほんとうにもうここには来ないのだな、と子供ながらに実感したのだろう。途端に、もう何処にも自分の居場所がないような気がして、お別れにと級友たちが作ってくれた折り紙の花を、ぎゅっと握りしめた。潰してしまった花の紺色が、汗をかいた掌に融けて染みついてしまい、家に帰って何度洗っても、なかなか落ちてはくれなかった。

 

三年の二学期から通った小学校には、三学期の終わりまでの数カ月間しかいなかった。
やっとその土地の方言を、おぼろげながら使えるようになったばかりの頃だった。
担任の先生が、クラスの皆に私の転校を告げると、仲良くなった級友のひとりが別れを惜しんで、大きな声をあげた。
「だって、ついこの間、来たばかりなのに。どうして、もう引っ越しちゃうの」
それは私の心の叫びそのもので、私が必死に積み上げた堤防に決壊を促すものだった。私は教室を走り出て、階段を駆け上がり、屋上に登って、そして泣いた。
転校してきたころ、休み時間をひとり、ここで空を見て過ごした。その屋上で、私はまたひとりになった。

 

四年生のはじめから通った小学校は、家から子供の足で一時間近くかかったが、その長い通学路には小さな山があり、田畑が広がり、狭い川が流れていて、私には物珍しいものばかりだった。そんなことも手伝って、かなり速やかにその土地に馴染むことができた。
級友とざくろの実を採り、放し飼いの鶏を追い駆け、ザリガニを捕まえて、といった日々にも、けれどすぐに終わりがやってきた。
父に、再び転勤の辞令が下りたからだ。
そのことを聞かされた五年生の一学期の終業式の日、私は通信簿を父に渡しつつ、決死の覚悟で涙ながらに抗議した。
「ぼくは行かない」
ここに残る、と叫んだ。友達の親に下宿を頼む、というようなことも言ったと思う。
なぜ私ばかりが何度も転校しなければいけないのか、友達は誰も転校などしていないではないか、ここに住まわせてほしい、と。
絶対に殴られる、と思っていたが、そのときの私には恐怖心はなかった。むしろ殴れ、という気分だった。どうしようもないことは、心のどこかで嫌という程に分かっていた。ただ悲しくて、悲しくて、やるせなくて、黙ってはいられなかったのだ。

 

手をあげるとばかり思っていた父は、けれど声すら荒げることなく、私の眼を見て、静かに話し始めた。
なぜ会社は父を転勤させるのか、次に行く営業所で、支店長として何を期待されているのか。どうして転勤を拒否できないのか、拒否しないのか。
そして、家族はどうして一緒に居た方がいいのか。
ひとつひとつ、丁寧に、小学五年生には理解できないであろうことを承知で、難解な言葉も敢えて使って、父は私に説明してくれた。
晩酌で酔ったときには(俺が会社から給料を貰ってきてるから、みんな食べていけるということを、ちゃんと分かっているのか)などと管を巻くことも
あったが、父はこのとき、そういう類のことは一言も言わなかった。
そして、お前には辛い思いをさせて申し訳ないけれど、でも一緒に来てくれ、と懇願するかのように私に言った。私は、父にそんなことを言わせて、
なんだか申し訳ないような気持になっていた。小さな声でわかりました、とだけ答えた。父の腕に縋って、わんわん声を上げて泣いた。
「すまんな」
父の声が、頭の後ろに響いて聞こえた。

 

次の小学校では卒業まで居たが、ここでは私はあまりうまくはやれなかった。あんなに転校を嫌がったのは、そんな予感が働いていたのかもしれない。
泣きはらした日から暫く経った引越の当日に、近所に住む、別の小学校に通う友達が母親と一緒に見送りに来てくれて、彼のミニカーを、餞別にと私に差しだした。それが彼にとってどんなに大事なものか、私はよく知っていた。感激したのだけれど、なぜかうまく御礼が言えなくて、母に叱られた。
車の窓越しに、いつまでも手を振ってくれる彼を見ながら、けれど私は泣かなかった。
きっとあのとき、少年だった私の涙は枯れ果てていたのだ、ほんとうに。

 

父との関係は、私の小学生最後の転校を機に、あきらかに変わった。
もう父は、私に手を上げることは一切なかった。私は、父に対して感情的に物を言うことはなくなった。
何か意見の相違があっても、静かに長く討論する、理屈を戦わせるという、ずいぶん文明的な関係になった。ひとりの人間として、大人として認めてくれたのだ、と思いつつ、けれどそれだけではない何かが蟠ったままになってしまった。

 

幾度となくあった転勤の時期の前後には、他の時期に比して、父の手帳には概して空白が多く、記述も簡素である。
前任地と赴任地を行ったり来たりしながら、家を探し、引っ越しの段取りをつけ、仕事の引き継ぎ、挨拶回り、といった作業に忙殺されていたのだろう。
そんななかで、泣きわめく十歳の息子に、短気の虫を抑えて、静かに諭してくれた父の姿を、今更ながら、とてもありがたい気持ちで思い出すことができた。父が黄泉の人となって何年も経っているのに、こんなに確かな手触りで、父は、手帳を開く私の眼前に姿を現した。それは望外の喜びだった。

 

とうさん。
ぼくはあれから、人と別れても、あまり泣けない人間になってしまっていた。けれど、もう大丈夫だよ。
あなたとの別れの時、ぼくはとてもとても泣きました。
あの日、木造の借家の居間で、あなたの腕に抱かれて、泣きじゃくった時よりも、もっとずっと、涙があふれてとまらなかったよ。
ありがとう。また会えればいいね。

 

私はひとりごちて、父の手帳を閉じた。高い空にあった白い陽はもうすっかり低く紅くなっていた。視線を感じて振り向くと、押し入れの前で涙ぐんでいる私の姿を、紅茶のコップを片手に持ちながら、二十歳を過ぎた娘が不思議そうな顔でみつめていた。私は、ばつの悪さを隠すために、ふたたび当初の目的である「探しもの」をはじめるため、おもむろに立ち上がったとき、身体の奥の、堅いしこりのような塊が、ゆっくりと解けていくような感触を覚えた。
そして、長い間ずっと探していたものが、ようやく見つかったのだと気付いた。