映画『ソフィーの選択』について
橋本浩
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【はじめに】
1982年に公開されたアラン・J・パクラ監督の映画『ソフィーの選択』は、第二次世界大戦が終結した二年後のニューヨークから物語が始まる。主要な登場人物は三人。メリル・ストリープ演じるソフィー、ケビン・クライン演じるネイサン、そして、スティンゴを演じるピーター・マクニコルだ。ソフィーとネイサンは恋人同士であり、南部からニューヨークにやってきた二十二歳の作家志望の⻘年スティンゴもまたソフィーに恋心を抱いている。この映画をソフィーとネイサン、そして、スティンゴの三角関係、つまり、恋愛物語として観ることも可能ではある。しかし、そう観るには、物語は重く、複雑すぎる。では、我々はこの名作映画をどう観るべきだろう。
【ソフィーが必要とした狂気としてのネイサン】
三人の登場人物のおおまかな特徴を挙げると、ソフィーはポーランド人であり、幼い兄妹の子供とともに、アウシュヴィッツ強制収容所に送られた過去がある。ネイサンは生物学者でハーバード大学を卒業しており、アメリカの大手製薬会社で研究をしている。彼の気性は荒く、度々、ソフィーとスティンゴを口汚く罵るが、その後はまったく何事もなかったかのように、ソフィーを優しく愛撫し、スティンゴに友情を示してみせる。そして、スティンゴは南部から自己探求のためニューヨークに辿り着いた、作家志望のごくありふれた⻘年だ。彼は偶然ソフィーとネイサンが住むアパートを間借りし、その後、奇妙な関係に巻き込まれていく。
ソフィーとネイサンの恋愛関係は、ネイサンの熱情と静穏、そして、妄想型嫉妬によって度々破綻する。それは、ネイサンの妄想型統合失調症とドラッグによるものであったと、映画の終盤で、ネイサンの兄からスティンゴに伝えられる。
つまり、ネイサンは生物学者ではなく、ハーバード大学卒業という経歴も妄想による虚言であったのだ。それでも、スティンゴはネイサンを慕い、ソフィーはネイサンを必要とした。
ネイサンが激昂してアパートを出て行ったある晩、ソフィーとスティンゴが窓辺にもたれて向き合う⻑回しのカットがある。⻘い月灯りだけの薄暗い部屋で、ソフィーの白くほっそりとした表情が静謐さを誘い、それを見つめるスティンゴの恋慕に満ちたまなざしが印象的なカットだ。そこで、ソフィーはアウシュヴィッツ強制収容所に収監されていた頃のことを、スティンゴに語り始める。しかしながら、そのときソフィーが語った言葉は真実ではなかった。後にソフィー自身がスティンゴに告白するように、ソフィーもまた嘘で塗り固めた人生を過ごしてきたのだ。
自身が過ごしている日々を余生だと自覚している人間は、二種類のそれぞれ異なった生活形態を送る可能性がある。ひとつは、晩年のルソーのように孤独に植物採集などをしながら、回顧的に日々を過ごす余生だ。もうひとつは、死など意識もせず、華やかで、退廃的で、狂乱的な余生の過ごし方である。おそらく、ソフィーの余生は後者に当て嵌まるだろう。そのために、二人の出会いは偶然ではあったものの、狂気としてのネイサンをソフィーは最後まで必要としたのだ。
終盤、錯乱したネイサンが銃声を轟かせながらスティンゴとソフィーを電話で脅し始めたとき、スティンゴはソフィーを連れてワシントンへ向かう。安いホテルに落ち着くと、スティンゴはソフィーに本気で求婚する。二人で故郷の南部に行き、子供を作って、結婚生活を送ろうと。しかし、ソフィーは自分にはその資格がないとそれを拒む。そこから、ソフィーはあの告白、「ソフィーの選択」を語り始める。
ワシントンの安いホテルで、ソフィーとスティンゴは一夜だけベッドを共にした。それは、スティンゴにとって、初めてのセックスだった。おそらく、若干二十二歳の素朴なスティンゴには、十歳以上も年上のソフィー、あるいは、一般的な人間がその生涯で体験することなどないに等しい悪夢を経験し、一度人生をリセットしたソフィーを抱え込むには、荷が重すぎただろう。翌朝、スティンゴが目を覚ますと、置き手紙とともにソフィーの姿は消えていた。「死ぬのは怖くないが、ネイサンがひとりきりで死ぬのが怖い」と、その手紙には書かれてあった。スティンゴがニューヨークのアパートに引き返すと、そこにはベッドの上で⻘酸カリを用いて心中したソフィーとネイサンの最期の姿があった。ネイサンがソフィーを後ろから抱いている二人の死姿は、それが予め予感された必然的な死であるが故に美しい。その傍には、エミリー・ディキンソンの詩集がそっと置かれてあった。
COUNTRY BURIAL
Ample make this Bed.
Make this Bed with awe;
In it wait till judgment break Excellent and fair.
Be its mattress straight,
Be its pillow round;
Let no sunrise ʼyellow noise Interrupt this ground.
Emily Dickinson
【「祖国」の自由のためというジレンマ】
ポーランドは、その地政学的な性質上、⻑らくドイツとロシアという二つの大国に引き裂かれてきた国だ。第二次世界大戦時下では、スターリン率いるソ連によって、あの有名な「カティンの森虐殺事件」が起きている。ポーランド軍将校や聖職者、一般官吏等々、二万二千人がソ連によって虐殺されており、ペレストロイカ後にソ連が一旦それを認めたものの、その後、ロシアは再度その事実を否定している。この虐殺を発見したのはナチス・ドイツだが、戦時中、ナチス・ドイツとソ連は虐殺をそれぞれ互いに擦り付け、プロパガンダに利用し続けた。そして、戦後、ポーランドは⺠主主義と共産主義の狭間で、またも引き裂かれる。
小林公二著『アウシュヴィッツを志願した男』の中に、引き裂かれたポーランドを象徴するかのような、実在したひとりの男が詳細に描かれている。ヴィトルト・ピレツキ(註1)という名のその男は、ナチス・ドイツが建設したアウシュヴィッツ強制収容所に自らの意志で潜り込み、地下武装組織を結託することによって内部からそれを破壊することを企図した。更に、アウシュヴィッツ強制収容所内部でどのような事が行われているのかを、外部の同志やイギリス亡命政府に伝達してもいる。彼はそれらを『ヴィトルト報告』として纏めたが、それは、アウシュヴィッツ強制収容所内での自身の生命が危うくなり、強制収容所を脱出した後でのことである。
ヴィトルト・ピレツキのアウシュヴィッツ強制収容所内での活動の詳述は割愛しておこう。ピレツキは、1944年8月1日に決起されたナチス・ドイツに対する祖国奪還の闘争、「ワルシャワ蜂起」に志願兵(後に第一大隊第二中隊⻑)として参加している。「ワルシャワ蜂起」は、「祖国を死守するため」という旗印の下、イデオロギーを超えて右派の「国⺠武装同盟」と左派「共産主義者=人⺠軍」が糾合した闘争だった。しかし、ナチス・ドイツ軍の圧倒的な火力兵器により、大敗に終わることとなる。ここで注目しておきたいのは、「ワルシャワ蜂起」が、「祖国」のため右派と左派が団結した蜂起だったことだ。この「祖国」という言葉と、左右の糾合が、後のポーランドが陥る自己欺瞞というジレンマの胚胎となる。
周知のとおり、ノルマンディー上陸作戦以後、ヨーロッパにおける第二次世界大戦はヒトラーの自殺とナチス・ドイツの降伏によって、連合国の勝利に終わった。ソ連を後盾としたポーランド傀儡政権は、着実に社会主義国家ポーランドを建設していく。しかしながら、「祖国」ポーランドの自由のために闘い続ける人々もいた。ヴィトルト・ピレツキもその中のひとりだった。ナチス・ドイツとの闘いが、反共産主義闘争、スターリニズムに対する闘争にすり替わった。それは、裏を返せば、「祖国」との闘争という叛逆、つまり、「祖国」の自由のために「祖国」と闘うというアンチノミーに陥る。ここで、ポーランドが既に胚胎していたジレンマが、春の陽光に照るかのように発芽することになるのだ。
それでも、ポーランドはソ連の後押しの下、社会主義体制を整えていく。もはや、ドイツとロシアという二つの大国に引き裂かれた国家としてのポーランドは消え失せ、自己欺瞞的な社会主義国家ポーランドが誕生していた。「祖国」に叛逆する者は逮捕され、容赦のない流刑、または、処刑が「祖国」によって幾多も遂行された。ヴィトルト・ピレツキもまた「祖国」ポーランドによって、逮捕され、「アウシュヴィッツ強制収容所よりも酷い」拷問を受けた挙句、軍事裁判にかけられ、死刑を宣告された。嘗て、ピレツキたちと共に、「祖国」の自由のために闘い、共産主義者に転向したある人物は、ピレツキの裁判を傍聴しながら、自身の心に浮かび上がってきたのは、自己喪失感だったと回想している。
1948年5月25日午後9時30分、ヴィトルト・ピレツキは、「祖国」ポーランドによって銃殺刑に処せられた。
【ソフィーの選択とアメリカ人青年】
アウシュヴィッツ強制収容所で、ソフィーが決断した究極の選択、つまり、幼い娘を焼却炉行きにして、十歳の息子を守ったことは、おそらく、母性的本能だと思われる。しかし、ソフィーがポーランド人だということを考慮すると、映画『ソフィーの選択』において、ソフィーが引き裂き、自身も引き裂かれた究極の選択は、ポーランドという国の分裂性、そのメタファーとして描かれているのではなかろうか。この名作映画は、ポーランドという国家が辿った変遷、その歴史的視座から観られるべき映画なのかもしれない。
ラストシーンてニューヨークを去り南部へ帰るため、ひとり明け方のブルックリン橋を歩きながら、「⻘い空」と語ったアメリカ人⻘年スティンゴは、彼自身の人生には一応の決着をつけたのかもしれない。しかしながら、ポーランドという国の分裂性と歴史、そして、そのメタファーとしてのソフィーについて、彼は多少でも想いを巡らせただろうか。
註1:尚、ヴィトルト・ピレツキの名誉は、1990年10月1日に回復されている。「騎兵大尉ヴィトルト・ピレツキは、あらゆる軍人が敬すべきわが国英雄の一人である。我々は、ドイツ人、ロシア人と同罪である。我々の手で、我々自身の英雄を抹殺してしまったのだから」(ポーランド司法の決定より一部抜粋)