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たーさん

牛路田 獏


約 1417

ベートーヴェンは20歳代から耳に異常を感じ始めた。だからといって晩年も、全く聞こえなくなったわけではない。少女の甲高い叫びには振り返ったという。
私は物書きになってからというもの、朝の早くからまず、ミスドで朝食をとる。そして、飲茶を楽しんでいると、毎日、「たーさん」と自らをそう呼ぶ、80年代のジャケットを着、薄汚れたネクタイに90年代のズボン、70年代に買った靴といういで立ちの変わり者の年配男性が隣のテーブルにいつものようにやってきて、コーヒーをお替りしながら、世間話をするのが常である。が、彼も耳が遠い。
ベートーヴェンがゲーテと出会ったとき、お互い大声で身振り手振りを交えがら、自分たちの思想を語り合ったのと似ていて、「たーさん」もとにかく声がでかい。耳が聞こえにくい人の特徴で普通のボリュームで話しているつもりでも、自然とそうなってしまうのだ。相手の耳が遠い以上、必然的に私のほうも声を大きくしなければならない。
それで、去年だったか、非常連のお客様から、「たーさん」の声がうるさいとクレームが入ってしまった。ところが、そういわれて普通なら謝るだろうなと思っていたが、「たーさん」は突然怒り出し、「なんで、公共の場で人が楽しく喋っているのに、うるさくしたらダメなんだ? どのお客さんだ?」と大声で怒鳴り始めた。
「公共の場だからだろ!」と言い返したいが、こうなったら、この人は手の付けようがない。幸い、その時、非常連さんは帰ったところだったので、喧嘩には発展しなかった。(いたら喧嘩になるのだ!)むかし事故に遭ってから、このような癇癪を起すようになったという。しかも、これは初めてではない。しかしながらそれが、客に向けてやるのだから、私も立場上、非常につらい。しかも、二回その人からクレームがきた。
そこで、とうとう、私も考えた。私がいるから「たーさん」は喋る。それなら私がいなければうるさくすることはないだろう。ひとりで喋ることはないのだから。そこで、約一年間、彼とすれ違いで店に入り、会わないようにした。そのうち、非常連のお客様も引っ越していなくなったと聞いた。そこで試しにいつもの時間きっかりに店に行った。

約一年ぶりに会った「たーさん」の喜びようは半端ではなかった。しかし、よく考えてみた。この人はベートーヴェンの外見精神がそっくりである。ベートーヴェンの癇癪は有名だし、古ぼけた服をいつも来ているあたりも置き換えてみればそっくりだ。中身は全然似ていないが、一方的にR&Bのことに熱を帯びて話し、UFOを見たといっては大喜びし、毎日、その日の海水温を日本地図に色分けして塗って来ては、嬉々として私に今年のサンマ漁の展望について話す。人が話しているのに、それにかぶせて会話を強引に進めるあたり、まさに、ゴーイング・マイ・ウェイだ。こんなふうであるから、奥さんもいない。友達もいない。
「たーさん」は私と会うようになってから毎日が楽しくなったという。会話が続く以上、私は仕事に手を付けられず、嬉しいやら悲しいやらであるが、それでも、必要とされていることには、やはり礼を言わなければならない。ちょうど、ベートーヴェンにゲーテ(私はゲーテにほど遠い)がいたように、なるようになるんだろう。
人間、ひとりでは生きていけない。一世一代のベートーヴェンに出会ったつもりで、今日も私は「たーさん」の話し相手になろうと思う。