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地図の記憶

北川清


約 27630

一月下旬の午後六時すぎ、太陽が沈んで一時間あまりが経ち、名神高速道路を走るタクシーはすっかり夜の闇に包まれていた。「お客さん、今日は夕陽がきれいでしたね」とタクシーの運転手が話しかけるが、私は返答をしなかった。そうした世間話に応じる状態ではなかった。運転手はそれきり黙ってしまった。
 
飛行機の出発時刻のちょうど一時間前に伊丹空港に着いた。私は、空港のロビーに入るやいなや、激しい動悸とひどいせきに襲われ、しばらくはロビー内のベンチから立ち上がることができなかった。今日は、金沢から特急で京都に向かい、自分の家に立ち寄って再び京都駅まで行き、そこからタクシーで伊丹空港に行くという忙しい一日だった。まだ三十代の後半とはいえ、かなりの疲労を覚えていた。それを、張り詰めた心がかろうじて支えていた。
 
半分倒れ込んだ格好の私に、「お客様、大丈夫ですか」と若い女性職員が声をかけてくれるほど、憔悴した姿のようであった。「大丈夫です」と小さく答えたものの、しばらく動悸は収まらず、足どりはおぼつかなかった。ベンチに二十分ほど座り込んでいたが、出発のチェックインはどうにか済ませることができた。
伊丹発二十時、羽田着二十一時三十五分。全日空五五一便。この日の最終便だ。
このフライトの先に待っているものは、なんだろう。それはとんでもないことかも知れないし、世間ではありふれたことかもしれない。
もう、今となってはどちらでもよい。フライトの向こうには、有希子が待っている、はずだ。いや、待っていないかも知れない。
たとえ待っていようといまいと、私の「行かねばならない」という気持ちだけは消えることがない。私のバッグには、百六十錠の睡眠薬と、残高二千七百万円のキャッシュカードが入っている。
私は、まだくらくらする頭を振り回しながら、有希子と出会った日を思い出していた。
 
 
私が有希子と知り合ったのは、雑誌の「文通欄」がきっかけだったが、正確に言えばもう少し複雑なものだ。ある旅行雑誌の「読者欄」の「文通相手求む」に私の名前と住所、そして「文通希望。できれば近畿地方にお住まいの女性の方」というコメントが載せられた。だが、私はその雑誌を買ったり読んだりしたこともなければ、そのような希望のはがきを雑誌社に送った覚えもない。文通などという子どもっぽい趣味には縁も関心もなかった。きっと誰かのいたずらに違いない。突然、見知らぬ数人の女性から手紙が届き、その文面に私に宛てて手紙を出す理由が書かれていたので、旅行雑誌に私の名前や住所が掲載されたことを初めて知ったのだ。誰のいたずらなのかを考えたが、皆目見当もつかなかった。
 
もちろんそんな手紙を読む気もなければ、まして返事を書く気などまったく起こらず、無性に腹が立った。
その雑誌が発売されてから二カ月も過ぎて、中田祥代からの手紙が届いた。もう雑誌の文通欄騒ぎのことは忘れかけている頃だった。
これまで、ほとんどの手紙は封を開けずに捨てていたが、祥代の手紙の封筒は、偶然私のお気に入りの美術館で購入したものだったので、なにげなく開封したのだった。そこには律儀な文字で自己紹介や、雑誌は友人から借りて読んだものだが、もうかなり時間が経っているので、特定の相手が決まっていれば、返事はしてくれなくてもいいと書かれていた。
最後に、「私は、今一つ年上の女の子と同じ部屋に住んでいます」と書かれてあった。
私は気の迷いなのか、何かに誘われるように、簡単な返事を書いて投函してしまった。
 
 

私と中田祥代との文通は数回続いた。いつの間にか、私は彼女の手紙が届くのを心待ちにするようになっていた。祥代は私より六歳年下の二十二歳で、市内の書店に勤めている。熊本の出身で、京都の短大を卒業すると、そのまま書店に就職したということだ。
あるとき、祥代からの手紙に、会って食事をしようと書かれていた。
「ただし、お姉ちゃんもいっしょです」と付け足されていたので、姉妹で来るのか、と思って少しがっかりした。
その食事会は三条京阪のロータリーに面した居酒屋「いろはにほへと」で実現した。私は文通相手の祥代とはもちろん初対面だったが、活発な性格の祥代は、まったく初対面のことなど気にせず、幼なじみのように快活にふるまってくれたので、私はとても楽しい気分になった。
「これが、わたしの敬愛するお姉ちゃんです」と言って紹介してくれたのが倉橋有希子だった。お姉ちゃんといっても、血のつながった姉妹ではなく、祥代が勤めている書店でたまたま有希子もアルバイトをしていたときに気が合い、祥代が熊本、有希子は鹿児島と、どちらも九州出身で、アパートに住んでいたので、アパート代の節約が目的で、ルームシェアを始めたということだった。
有希子は、長身痩躯の色白、話し方はゆっくりだが、おとなしいというほどではなく、思慮に富み、私がそれまで持っていた、九州、とくに「鹿児島」というイメージにはまったく合わない女性だった。注文したサラダや魚料理が来ると、てきぱきと三人分に取り分けてくれるのも有希子だった。
 
 

その食事会の三か月ほど後、私はある用件で御池通を東に向かって歩いていた。御池通は京都の東西を走る通りでも最も広く、四月の爽やかな陽射しが街路樹を明るく照らす昼下がりだった。向こうから自転車で来る女性に見覚えがあるな、と思った瞬間「こんにちは」と声をかけてくれたのが有希子だった。
「この前はありがとう。私、今は建築設計士さんの事務所に勤めていて、これからお買い物に行くの」と言った。
「ときどき、祥代ちゃんから手紙を見せてもらってます。あなたの許可を得ずに、ごめんなさいね。でも、石田さんって、がんばり屋さんなのね。試験、合格できるといいですね」
私は、その頃市内の税理士事務所に勤めながら、公認会計士試験を目指して勉強していた。そのことを祥代への手紙に書いたが、有希子も読んでいたのだ。春の日差しが、有希子の髪や顔に降り注ぎ、有希子の表情もまた春の華やかさにあふれていた。
「今度、二人だけで会ってくれませんか」と私は思わず言った。
 
 

私と有希子は、それから二週間ほど過ぎた日曜日に烏丸丸太町の交差点で待ち合わせた。
季節は初夏に移り、葵祭りも近い京都の街は、その日もやや強くなった陽射しが注いでいた。
「祥代ちゃんに悪いわね」とどちらからともなく言ったが、私と祥代とは他愛のない手紙をときおり交換する程度で、二人でデートもしたことがなく、それほどの後ろめたさを感じなかった。
交差点角の狭い喫茶店でコーヒーを飲んだあと、御所や河原町界隈を散歩し、カップルが等間隔に並んで腰を下ろすことで有名な鴨川の川辺に座った。そこで私たちは、さまざまなことを話した。めいめいの現在の仕事や勉強のこと、趣味のこと、これまでの生い立ちのこと、好きな映画や小説や食べ物のこと。生まれ故郷の名物のこと…。

 
 
有希子と出会うのは、一月に居酒屋「いろはにほへと」で三人で初顔合わせをしたときと、御池通でばったり出会った二週間前とを合わせて三度目だった。だが、私は有希子に惹かれていく自分を意識せざるをえなかった。有希子も同じ思いだったのだろうか、彼女のほうから、
「今度は、いつお会いできますか」と言ってくれた。
有希子は、私と付き合い始めたことを祥代にも打ち明けた。祥代は何のけれんみもなく私たちのことを応援してくれた。
「わたしが、二カ月も遅れたけど石田さんに手紙を出したおかげだよ。二人から何かおごってもらわなくっちゃね。石田さん、お姉ちゃんをよろしくね」とまで言ってくれた。私と祥代の文通は終わり、祥代も同じ書店に勤める先輩と交際を始めた。
 
 

有希子と私はそれからほぼ毎週、休日には会うようになった。お互いにアパートの部屋に電話がないので、次の待ち合わせ場所と時間はしっかり手帳に書き留めた。
「急に都合が悪くなって、行けなくなったときは、どうするんだい」と尋ねると、
「約束した時間に三十分待っても来なかったら、あきらめましょう。けれど、一つお願いしたいことがあるの。これから、わたしたち二人の間では、しつこく『理由』を問わないってこと。わたし、『どうして、なぜ』と理由を聞かれるのも聞くのもあまり好きじゃないの。なんだか信用されてないような気がするの」
私も有希子の提案に同意した。
 
ある日、河原町の春陽堂でスパゲティを食べたときのことだ。食べ終えた後、有希子は皿に残った一本か二本のスパゲティをフォークの先でもぞもぞと動かしたが、すぐにスパゲティで Love と文字を作って私の方に向けた。その日から、私たちは新しい段階に進んだ。
「わたし、北海道にも東北にも行ったことがないわ。オーケストラも生で聴いたことがなくって、京都に住んでいるのに、まだ金閣寺だって行ったことがないのよ。琵琶湖も大阪城も近いのに、まだよ」
有希子は、話すときは真っ直ぐに私の目を見た。有希子は、まだ体験していないものを、体験したい、私とその体験を共有したいと、その目は語っていた。
 
 

六月のある日、私たちは、植物園から有希子が住む白川のアパートまで歩いた。それは、バス停でいえば八個分、かなりの距離があるが、二人ならどこまでも歩き続けたいと思った。夏至が近く、長い昼が終わり、京都の街はようやく夜のとばりに包まれはじめた。数日前に梅雨入りをしたとニュースでは言っていたが、まさにその梅雨の雨が私たちを襲った。私たちは、広い高野川を渡り終えたところで、雨宿りのために高野橋の下にもぐった。外灯も人影もなくただ暗闇がひろがり、音を立てて流れる高野川の流れだけが聞こえた。私たちは、そこで初めて抱き合い、キスをした。私は、このままいつまでも闇に包まれ、夜が明けず、有希子と二人きりで、高野川の流れの中で二人の身体が融け合ってしまえばよいと思った。抱き合ったとき、ブラウスの下に有希子の乳房を感じた。それは有希子の生命そのものだった。
 
「触ってもいいわよ」と言って、有希子は暗い橋脚のさらに物影に移動して、ブラウスのボタンと下着のホックを外した。私は、そっと有希子の乳房と乳首に触れた。有希子の乳房ではなく、有希子の中にある、目に見えない魂のかたまりを愛撫しているような気がした。
九月のある日曜日には、御所の中を散歩した。夏の名残りの強い日差しが降り注いでいたが、有希子も私も、その暑さを話題にすることはなかった。私たちは、二人でいるときは、どんなことも苦にならなかった。有希子のノースリーブの服からすらりと伸びた白い腕は、その年の猛暑にもかかわらず、白いままだった。その白い腕の有希子を、行き違う男がときおり振り返ると、私は誇らしくなった。少し汗ばんだ有希子は、南国生まれとは思えないほど色白で、深い聡明な目と、きりっと結んだ唇が目立った。
 
有希子は、私との結婚を望んだ。かつて、金閣寺や大阪城に行ったことがないと言っていたが、その後、それらのいくつかを二人で訪れた。しかし、有希子は、もっともっと、旅行も音楽も生活も病気も子育ても老いも死も、私と共有したいと望んだ。
私たちは御所の長い砂利道に点々と置かれるベンチの一つに座り、有希子が作って持ってきたおにぎりを食べた。
「来年の春ぐらいに、一度鹿児島に来てくれませんか。父に一度だけでいいから、会ってくれるとうれしいんだけど」
と有希子は間接的な言葉で、結婚したい気持ちを私に伝えてくれた。私には、まだ漠然とした人生に波が満ちてくるように、花が咲くように、星明かりが月明かりに変わるように思われた。
「うん、そうだね。きみの生まれ育った町とか、通っていた学校とか、買い物をしたお店も、見てみたいよ。だけど、僕は今、定職についていなくて、決まった収入もない。そんな僕を、お父さんはどう言うだろうか」
「そうね。父は、けっこう昔かたぎの人間だから、きっと頭ごなしにあなたのことをどなりつけるかも知れないわ。だから、今度の試験には絶対に受かってくださいね。それからでもいいわ。」
 
その頃、私は、公認会計士の試験を受けるために、浪人生活をしていた。試験は毎年十一月の一回だけ行われる。司法試験と並んで、日本の二大難関資格試験といわれ、とても仕事をしながらの片手間では合格できないと思った私は、有希子に御池通で偶然出会った一か月後の五月、勤めていた税理士事務所を退職して、試験勉強に専念していたのだった。残業の多い事務所の仕事から解放され、毎日十五時間を勉強時間にあてていた。だが、
「うん、あと二か月だから、全力でがんばるよ」とは言ったものの、実はほとんど絶望的な状況だった。七科目の試験のうち、それなりに仕上がったのはわずか二科目だけで、あとはまだこれから詰めていかなければならない状況なのだ。無為に過ごした時間の長さを改めて悔いた。
おにぎりを食べ終えた有希子は、私に言った。
「ここに頭を置いて、ひとやすみしていいわよ」
と、自分の太ももを指さした。
 
私は、ベンチに横になり、有希子の膝枕で、うとうとし始めた。有希子の柔らかな肉に頭を沈め、晴れ渡った空の下で、私はこのまま永遠に時間がとまってもよいと思った。だが、試験への不安はつきまとった。自分の生き方の選択は、実は大きく間違っているのではないだろうか、という思いもあったが、このまま突っ走るしかないと自分に言い聞かせた。
それから一か月が過ぎた。試験が近づき、デートは試験が終わるまで中断しようと約束した。有希子も、しばらく建築設計事務所を休んで、鹿児島に帰らなければならないと言ったが、その顔にはどこかかげりがあるように思えた。

 
 
試験を直前に控えたある日のことだった。
毎日七時と決めている簡単な夕食を済ませて、使った食器を洗っていると、ドアをノックする音が聞こえた。
「こんばんは」と小さい声で入ってきたのは有希子だった。鹿児島から戻っていたんだ、と私は思った。
有希子が私のアパートを訪ねてくるのは初めてだ。私も祥代と有希子がいっしょに住んでいる白川のアパートを訪ねたことはなかった。
「男の人の一人住まいだから、もっと散らかってるのかな、と思ったけど、案外片付いてるのね」と言いながら、有希子は、ひとしきり私の室内のあちこちを見回した。
 
だが、私の部屋を偵察に来たのでないこと、ただ何となく会いたくなって来たのでもないことは、一目でわかった。彼女はしばらく口ごもったあと、さきほどよりもっと小さい声で話し始めた。
「実は、急なんだけど、あさって、また鹿児島に帰るの。今度は、少しの間ということじゃなくて、もう京都には戻らないことになるのよ。ごめんなさい。せっかく出会えたのに、私の都合で、急にお別れすることになってしまって。わたし、あなたの奥さんになりたいと思っていたのよ。今でもそうしたいと思っている。でも、できなくなったの」
これまでの有希子は、冷静で、取り乱したり、興奮したり、激しく泣きじゃくったりすることはなかった。そして、声は小さいが今も落ち着いた話しぶりだった。それだけに、私は有希子の言うことをすべて真実だと信じないわけにはいかなかった。理由を聞かないというこれまでの有希子との約束は、今回は破らざるを得なかった。
 
「どうして、帰ることにしたの?」
「理由を聞かない約束だったけれど、このままじゃお別れできないわね。理由は二つよ。一つは、急に母の具合が悪くなって、付き添いがいることになったのよ。母は、若いころ、乳がんにかかって、片方の胸を切除したの。わたしを生んで、八年ほどあとのことらしいわ。それからずっと元気だったんだけれど、三年前に、こんどは膀胱がんになって、膀胱や卵巣や子宮を切除する手術を受けたの。そして、今度は白血球が少ないことがわかって、詳しく検査をすると、骨髄に異常が見つかったということよ。今度は手術はできなくて、点滴で抗がん剤を入れるんだけど、その時間が長くかかり、経過も観察するためにしばらく入院することになったのよ。白血球の値が回復するまで続けるそうだけれど、いつまでかかるかはわからないらしいわ」
私は、丁寧に見舞いを言うと、二つ目の理由を尋ねたが、彼女はそれを言わなかった。
そして、しっかりと私の目を見ながら、「わたしを、今すぐ、ここで、抱いてください」と言った。
私たちが狭いアパートの一室で抱き合っている間、有希子はぼろぼろと涙を流した。初めて見る有希子の涙だった。私は、有希子を抱きしめながら、その涙を漏らさず吸った。この涙は、私との別れの悲しみに流してくれるものだと思った。それは半分あたっていたが、それだけではなかった。
 
「今まで、優しくしてくれてありがとう。あなたに出会えて、ほんとうにうれしかったわ。北海道や東北には行けなくて残念だけど、しかたないね。あなたといっしょにいた時間が、わたしの一生の、いちばん輝くときになるわ。もう会えないけど、きっと試験受かってね。わたし、一生懸命応援しているから」と言って、涙でうるんだ目でもう一度真っ直ぐに私を見つめた。
私は、何がなんだかわからなかった。有希子の言うことは、事実ではなく、芝居のせりふのようにしか聞こえなかった。有希子が京都からいなくなる…、もう会えなくなる…、きっと試験前の重圧から、悪い夢を見ているに違いない。
有希子は、鹿児島の実家の住所も電話番号も教えてくれなかった。教えないことの強い意志が私にも伝わってきたので、あえて聞き出すことをしなかった。私たちは、何のつながりもなく、別れることになるのだ、と他人事のように思うしかなかった。

 
 
有希子が帰郷して一週間ほど過ぎた日、私は祥代が勤めている三条河原町の書店へ行った。京都ではいちばん大きな書店だ。祥代は難しい科学書の並ぶコーナーで本の整理をしていた。
「すみません、少し話す時間はありますか」と話しかけると、祥代はにこにこしながら、「五時に仕事が終わるから、隣の喫茶店で待っていてくれませんか」と答えた。
 
喫茶店に姿を見せた祥代は、さきほどの明るい笑顔とは違って、寂しそうな表情だった。
「お姉ちゃん、いなくなっちゃったね。達雄さん、大丈夫? 私は大丈夫じゃないよ。長くいっしょに暮らしたんだから、ものすごく寂しくって、心に穴が開いたみたいだね。いつも夕食作りは交代でやってたんだけど、もうお姉ちゃんのご飯、食べられないからね。
達雄さんには、心配させるといけないから、詳しく話さないでおくって言ってたけど、お姉ちゃん、鹿児島の市内の人のところへお嫁に行くのよ。もちろん、お母さんの病気の看病して、お母さんがよくなった後だけど…」
そうか、それが二つ目の理由だったのか。ときおり祥代の書店を訪ねるので、有希子から連絡があったら聞かせてほしい、と言って祥代と別れ、アパートにたどりついた。
 
有希子は、誰かと結婚するのか。それで鹿児島に帰ったのか…。私は、有希子を愛したが、彼女には何の力にもなれなかった。自分が浪人中だという口実で、彼女の控え目な結婚の申し込みにも口を濁してしまった。それにしても、有希子と結婚するという相手の男は、どんな人なのだろう。有希子はその男を愛しているのだろうか。結婚するのだから、愛しているに違いない。京都に住んでいて、どうして結婚相手を見つけたのだろう。来年の春ごろには鹿児島に来て父に会ってほしいと言ったあの言葉は何だったのだろう。私をだましていたのだろうか。だが、あの真っ直ぐに見つめてくる目を思い出すと、そうとは思えない。そうか、私の試験の前に、有希子もかなり長く休暇をとって鹿児島に帰っていた。あのとき、いったい、彼女に何が…。
 
 
昭和五十三年十一月。京都から有希子がいなくなり、よく事情が分からないまま心の支えを外された状態で、その年の公認会計士試験に臨んだ。翌年早々に発表があり、結果は予想通り不合格だった。心の支えがあってもなくても、明らかに力不足、勉強不足であることを痛感した。だが、自分の情けなさをなじってくれる人も、慰めてくれる人もいなかった。私のアパートには依然として電話はなかったが、あっても有希子の番号は知らない。祥代と有希子は今もときおり電話をしているはずだったが、あえて祥代から番号を聞き出す気にはなれなかった。
 
有希子と別れた翌年、私は、公認会計士の試験に挑み続ける気力を失い、思い切って転身を図り、大学時代からの親友である和泉という男が経営する家庭教師派遣会社に就職した。和泉とは同じ年齢で、大学では最も親しい男だったが、ここでは上司と部下の関係になった。和泉は大学を卒業すると同時に、親の援助資金をもとにこの会社を起ち上げ、ゼロからのスタートにも関わらず、精力的かつ誠実に経営をしていたが、有力なスタッフに恵まれず、経営は伸び悩んでいるということだった。
家庭教師派遣会社は、小学生から高校生までの顧客に講師を派遣し、顧客の支払う料金を会社と講師で折半するシステムだった。経営のポイントは、もちろん顧客を増やすことだが、それにはライバル他社をしのぐほどの、講師の質を向上させることがカギになる。安易な腰かけバイト講師を排除して、本気でこの仕事に打ち込む、プロ意識の強い講師を育て、顧客である子どもたちに満足のできる授業をすることである。広告宣伝よりも、子どもや親の口コミが最も効果を発揮するのだ。私は、講師の質の向上を主な仕事とする講師管理主任に抜擢された。私自身が、学生時代に家庭教師を続け、中学生や高校生を有名な学校に進学させたという実績を買っての、いきなりの人事だった。だが、他にライバルになる社員がいなくて、その人事に不満を唱える人も出てこなかった。
 
私も和泉に習って、与えられた仕事に真剣に打ち込んだ。公認会計士への未練は次第になくなっていった。会社では、私なりのさまざまなアイデアを提案し、それを実行した。顧客は口こみでしだいに増加し、会社の売り上げは急カーブで上昇した。和泉は「つまらん試験などにこだわってないで、初めから俺と一緒にこの仕事をしていればよかったんだよ」と口ぐせのように言って、私を高く評価してくれた。そして、二年後には、私をナンバー2の副社長に任命してくれた。このときも、社内から異存を唱える者はなく、会社はますます収益を伸ばした。
ところが、その翌年、思いがけないことが起きた。和泉が脳腫瘍で急死したのだ。和泉は、私を会社に招いたころ、頻繁に体調不良を訴えていたが、それが脳腫瘍だとは思いもしなかった。彼はわずかな入院期間を経て、旅立った。
副社長の私は、和泉の株を相続した和泉の妻や両親の要請で社長に就任した。和泉の妻とは、二人の結婚式にも参加したり、その前にも和泉から紹介されたりして、知り合いだった。実質的には和泉一族がオーナーで、やとわれ社長ではあるが、運営の裁量はすべて一任された。社内には和泉の亡くなった動揺が一時的には広がったものの、やがてそれも収まり、経営は安定していった。
 
 

それからさらに六年が過ぎた。
私は、その間、数人の女性と付き合ったが、これという特別の相手ではなく、結婚する気にもなれなかった。有希子への愛執は強く私を支配していた。女性たちとは、それを隠して付き合っていたが、常にむなしさがつきまとった。
 
有希子と再会したのは、昭和六十一年の一月だった。
そのころ、半年前から付き合い始めた家庭教師派遣会社の経理担当の社員のヒロミと、毎月一回ほど、一泊か二泊の旅行を楽しむようになっていた。七歳年下のヒロミには、結婚を望む気持ちはまったくなく、付き合うことそのものを楽しむという暗黙の了解のようなものがあった。
たまたま仕事帰りに入った喫茶店で
「石田さんって、誰かと結婚したいって思ってる? あたしはまったく思ってないわ。ダンナの食事作ったり、子どもの世話したり、考えただけでもうんざり、というかとてもあたしにはできそうにないわ」
と唇の先をとがらせて言ったあと、
「それはそうと、結婚を前提にしないで、あたしと付き合ってみない?」と気軽に言った。
「ほかにも、彼女がいるかもしれないけれど、それでもいいわ」と付け足した。
会社では私のことを「社長」と呼ぶヒロミが、プライベートでは「石田さん」とか「タッちゃん」と呼ぶのに最初はとまどった。
あとで分かったが、ヒロミはちょうど別の男と別れた直後で、誰でもいいから心の隙間を埋める相手を探していたようだ。
それから、ヒロミと食事をしたりお互いの住まいを訪ねたりしはじめた。だが、互いに恋愛感情はほとんど持たなかった。「これは、ただ、退屈をまぎらわせるための仮のつきあいだ」という気持ちがあった。
私には、ヒロミの豊満なからだは魅力的だった。今までつきあった女とは経験したことのないような、耳やうなじをゆっくりと愛撫されるのが新鮮な感覚だった。ヒロミはヒロミで、旅費や食費をすべて負担してくれる男との毎月の小旅行は心の隙間を埋めるのに好都合だったに違いない。
 
そんなヒロミと、各地の名所や温泉を訪ね歩いた。私は写真を撮ったり、好きな作家の小説に登場する舞台を確かめたり美術館をめぐることも目的だった。ヒロミはさほど興味のないことにも文句を言わずについてきた。代わりに、スィーツ好きのヒロミは、有名なスィーツ店をあらかじめ調べてそこで四つも五つもケーキを頼み、私もその半分に付き合った。
半年ほどそんな気ままな二人旅を繰り返したとき、ヒロミが、
「ねえ、来月は鹿児島へ行ってみない? もう菜の花が満開だそうよ」と言ってきた。私は「鹿児島」と聞いて、もちろんその瞬間に有希子を思い浮かべた。京都から鹿児島へ帰った有希子は、今どうしているのか。あれから七年、何一つ音沙汰がない。祥代から、有希子のお母さんは亡くなったこと、その後しばらくして有希子は正式に結婚したことは聞き出したが、詳しいことになると、祥代はなぜか口籠って、それ以上を教えてくれなかった。
「何か、あまり言いたくないこと、有希子がものすごく恵まれた結婚をして、私には気がねして言えないのか、それとも逆に何か込み入った事情でもあるのだろうか」
私は一人、そんな想像をした。
 
ヒロミとの鹿児島旅行は、振替休日で月曜日が休日になったので、その年から会社で導入した週休二日制の土曜日と日曜日を合わせて二泊三日のプランを立てた。
私は有希子と付き合う前に観光で訪れたことがあるので二度目の鹿児島、ヒロミには初めての鹿児島。指宿の温泉ホテルで一泊したあと、二日目は鹿児島市内を観光して、天文館に近い繁華街のホテルにチェックインした。
路面電車の音立てて走る音が懐かしかった。
手続きが終わると、いつも旅行に出るとそうするように、ヒロミは自宅の留守番電話に伝言メッセージが入っていないかを確かめた。そういうところは律儀な女だ。
 
すると、ロビーの片隅に四台ほど並ぶ公衆電話の一つを使っていた彼女が、青ざめた顔で戻ってきた。
「たっちゃん、大変。うちが火事で半焼したんだって。隣のうちから出火して、燃え移ったんだって。あたし、悪いけど今から帰るわ。まだ名古屋行きあると思うから」と話すにつれて興奮し、半分泣き顔になっている。「だって、あたしの部屋には大切なモノがたくさんあるんだよ……」
それから十分後に、あわてて荷物をまとめたヒロミはタクシーで空港に向かった。
一人取り残された私は、一人でダブルベッドの部屋を楽しんだ。だが、それも束の間で、することがなく、少し寂しい気持ちになって五時前にはホテルのレストランでずいぶん早い夕食をとり、軽くシャワーを浴びた。浴室から出ると、浴室横の壁に取り付けられた大きな鏡に自分の上半身が映った。私は、自分の顔をじっと見つめた。
鏡に映った私の顔は、鏡を挟んだ等距離で私を見つめていた。
「おまえは、何をしているんだ…」と問い返すもう一人の私は、鏡のこちら側にいる私を憐れむような、蔑むような視線を向けていた。
 
私は、いったい何をしているのだろう。有希子に出会う前に付き合っていた由紀子には二度も中絶を強い、そのうえいったん交わした由紀子との結婚の約束をホゴにしてしまった。有希子と別れたあとの会社では、部下の女と遊び歩いて、表向きは真面目な社長を装おっている。教育に携わる会社の社長として、大勢の生徒たちには、とても正面から顔向けなどできないではないか。自分の理想も誇りも忘れて、ただ会社のためだけに、つまりは金儲けに走っているのではないか。   献身的に尽くしてくれた由紀子を幸せにできなかったではないか。「狭衣物語」の狭衣中将のように、自分だけは満足して、次々と周りの人を傷つけているだけの生き方ではないか。最愛の有希子をも幸せにできなかった。
 
ヒロミに去られて一人わびしい食事をしたこともあって、いくらか悄然として鏡をもう一度見た。
「おまえは、何をしているんだ」
今度は、さきほどよりやや大きな叫びが聞こえたように思った。
有希子はこの町にいる。どこにいるのかわからないが、祥代は、市内の男と結婚したと言っていたから、ここから数キロほどのところにいるに違いない。この時間だから、家族で食卓を囲んでいることだろう。
私は思い出した。私たちが京都で付き合っていた頃、有希子が、半分冗談で、半分本気で書いた地図のことを。地図は、今鮮明によみがえった。
 
 

「いつか、鹿児島に来ることあったら、うちに来てね。場所教えておくから」
そう言って、有希子は書きつぶしのメモの裏に簡単な地図を書き始めた。うち、とは有希子が生まれ育った実家のことだ。
「ここが駅とすると、駅のそばに郵便局があるの。その右の道を北に進んで、踏切を越えて、ずっと行くの」
そう言いながら、2Bの鉛筆で記号と線だけの地図を書いてくれたが、駅も郵便局もただの〇印だった。そして、最後に黒々と●印をつけて、
「ここが、わたしの家よ。ちっちゃいおまんじゅう屋さんなの」
有希子はそう言って、しばらく自分の書いた地図を眺めていたが、そのうちその紙をくるくると丸めて、足元の丸いくずかごにポイと投げ入れて、にっこり笑った。そして●印は、おまんじゅうだと言った。
私はホテルを飛び出して、街の中を歩いた。小雨が降っていた。持参していた折り畳み傘を広げた。一月二十日の早い夕闇は、もう町全体を冷たく包んでいた。
「降らなくていいね」と話しながら歩く人がいて、今小雨が降っているのに変なことを言う人だなあ、と思ったが、この街では降るというのは雨や雪ではなく、桜島の噴火による灰のことだと思い返した。
 
まず、駅だ。天文館の近くにある林田観光ホテルから西鹿児島駅までは歩いて二十分だ。郵便局は駅の東隣だからすぐに分かった。郵便局に向かって右の道を北に進んだ。鹿児島本線の踏切もすぐにわかった。そこを越えて、ずっと…。
ずっと、ってどれぐらい? 心の中で有希子に問いかけながら、ともかく「ずっと」歩いた。地図に引かれた道の線は、大きな道路ということだったのだろうか、あるいは小さい道路も含めてなのか、それとも架空の道なのか…。
しだいに激しくなる雨の中を、小さな折り畳みをかざして、見知らぬ町の暗闇を歩き続けた。「おれは、何をしているんだろう」という声がますます強くなり、頭の中ではさまざまな動物や風鈴や楽器が音立てて響きあっているようだった。ここまで来たのだから、有希子が描いた地図の記憶を頼りに歩き始めたことを無意味なものにしたくないとも思った。
「このあたりに、倉橋さんという和菓子屋さんはありませんか」と、道行く人のほぼすべての人に声をかけたが、誰もが面倒そうに知らないとばかり答えた。
 
郵便局から二キロは歩いたはずだ。足も疲れてきたうえに、コートもズボンもほぼびしょ濡れだった。靴の中にも雨水が侵入している。私はますます倉橋饅頭店を探さねばならないと思った。
饅頭店に有希子はいるはずはない。有希子は、野上さんと結婚して、倉橋饅頭店ではないほかのところにいるはずだ。だが、それでいい。有希子が生まれ育った家がどんな家なのか見ておこう。そして、有希子のことをきっぱりと忘れよう。
雨は一段と激しくなり、遠くには雷も聞こえた。冬の嵐だ。とんでもない日に来てしまったものだ、と思いながら、たまたま見つけた電話ボックスに飛び込んで雨宿りをした。道行く人影はなかった。
電話ボックスには、たくさんの吸い殻が散らばり、ボックスの中にもたばこの香りが残っていた。思いついて、番号案内の一〇四にかけた。受話器の上に白いプレートに赤い文字で三一八一と彫られている。
「今、三一八一の電話ボックスにいますが、このあたりに倉橋さんという和菓子屋さんはありますか」なんとも頼りない質問なのに、案内嬢は適切にこたえてくれた。
「三一八一の電話ボックスは、武三丁目でございます。武には倉橋様かどうかわかりかねますが、和菓子屋さんの御登録が四件ございますが、すべてご案内しますか?」
「いいえ、結構です。ありがとうございました」ますます激しくなる雨に、その四件を順に探し出す気力は少し衰えていた。
 
しばらくして、少し小やみになったのを見計らって、あてどもなく歩いた。どの方角なのかさえもわからなくなっていた。美容院、医療事務スクール、お寺、生け花教室、廃屋、畳屋、それらの前を通り過ぎたが、この時間になると閉店している店が多く、道は暗く、すっかり迷路に入り込んでいることが心細くなった。濡れた電柱の立つ曲がり角を何気なく左に折れると、ぼんやりとした外灯の向こうに茶色い四階建てのレンガづくりの建物が見えた。一階の閉じられたシャッターの上に「みつや製菓」と書かれた看板が掲げられている。近寄ってみると、シャッターの左側が二階への出入り口で、「倉橋」と表札がある。
「あっ……」
思わず歓声ともため息ともいえない声が、出たような気がした。ここが有希子の生まれ育った家なのか。四階建てとは思ってもみなかった。有希子の二人の兄はどちらも東京へ出ていて、父と母だけが住んでいると言っていた。その母は先年亡くなったので、今は父だけなのだろうか。
 
私は、さきほどの電柱のあたりに戻って、道の斜め向かいの家をぼんやり眺めていた。そのとき、二階の窓に明かりがついた。カーテン越しに人影が動くのが見てとれた。女性のようだ。そう思っていると、窓が半分開いて、女性の顔がのぞいた。その顔は、じっと私を見つめてくる。私はぼんやりした外灯の下から、その人の顔を見上げたが、外灯の光は暗く、よくわからなかった。彼女は、いつまでも私の顔を見つめ続けた。そして、
「今すぐ下に降りるから、待っていてね」と言うと、すぐに姿が消えた。
有希子は、少し息をはずませながら、大きな傘を差して走り寄ってきた。
「ちょうど、父のところにちょっとした用事があって立ち寄ったのよ。三分ほど寄って帰ろうと思っていたの。誰かがうちを見てるなって思って窓の外を見て、びっくりしたわ」
七年ぶりに見る有希子は、少し痩せたように見えた。正直にいえば、やつれた感じだ。
「少し待ってね」
と言って、実家にもどって行った。私は、外灯の下で待った。有希子に会うとは思ってもいなかったので、何を話せばよいのか見当もつかなかった。
 
それから数分後、有希子は実家の前に停めてあった軽乗用車のドアを開けて、
「石田さん、乗ってください」と言った。
私たちが京都で付き合っていた三年間、彼女は私のことを最後まで「石田さん」と呼んでくれることが多く、それは新鮮な響きだった。
「どこに泊まっているの?」
私はホテル名を告げると、
「そこから歩いてきたの? 暗いのに、よく私の家がわかったわね。久しぶりね。来てくれてうれしいわ」と言って、涙声になった。
私は、自分の強い意志でこの家までたどりついたことを半ば忘れて、有希子との予期せぬ再会に胸を詰まらせ、ほとんど言葉は出なかった。
私は、ホテルから有希子の実家のレンガの四階建まで、散々迷って、むだな時間も多くかけた。それらのむだな時間の重なりと、わずか三分ほど有希子が実家に立ち寄った時間とが、みごとに一致したことに驚いた。だが、新たな別の思いが私を支配していった。
有希子と別れてからの七年、試験をあきらめて就いた仕事のうえでは、幸運にも多少の成功をしたものの、心のよりどころは見つからず、地面に足のつかない日々だった。私は、なぜ有希子と別れたのだろう。なぜ鹿児島へ帰してしまったのだろう。祥代から、有希子の母が亡くなったと聞かされたとき、なぜ有希子を迎えに行かなかったのだろう。なぜ…、なぜ…。
私を乗せて、ホテルに向けて運転する有希子の表情は、暗い車内に加えて斜め後ろの座席からなので、よく見えなかった。ホテルが見えるまで、私たちは無言だった。
 
「わたし、電話したんですよ」
有希子は唐突に言った。
「電話って?」
「わたしが結婚する二日前ですよ。あなたのご実家に。お父様が出られて、達雄はひどい熱で臥せっていますが、どんなご用件でしょうか、とおっしゃったので、わたし、電話を切ってしまったのよ。もしあなたが電話に出てくださったら、『わたしは明後日結婚します。でも今日はまだしていません。あなたには、お別れすると言ったけれど、あなた、わたしの結婚をとめてくださるなら、あと二日よ。あなたが決心する時間はあと二日なのよ』と言うつもりでした」
そして、その電話をした日は、覚えやすい五四三二一だと言った。昭和五十四年三月二十一日。その日のことを私は鮮明に思い出した。なぜなら、その三日前の十八日に、祖母が死んだからだ。そして二十日が葬式だったが、私はちょうど悪性の感冒で発熱して、葬式にも少し顔を出しただけで、ひたすら苦しんでいたのだ。そして、その電話のこともなんとなく記憶の片隅にあった。
「葬式で取り込んでいるときに、おまえによく訳の分からん電話があったよ。名前と用件を聞くと、むこうから切っちまったよ。ふざけたやつだ」
と父が半分私をなじるように言ったこともうすうす覚えている。
 
ああ、あれは有希子からの電話だったのか。祖母の葬式の混乱した時でもなく、悪性の発熱でもなく、ふだんの時間だったら、私はどう答えただろう。電話に私自身が出ても出なくても、同じことだった気がする。自分が意気地なしというよりも、有希子と出会ったほんとうの意味にまだ気づいていなかった私には、優柔不断な返事しかできなかったかも知れない。
私たちは、林田観光ホテルのラウンジでコーヒーを注文した。有希子は、人目を気にしつつ、あまり時間がないとも言った。改めて、明るい空間で七年ぶりの有希子の顔を見た。七年の時間は、彼女を変えていた。二十五歳の有希子は、三十二歳の有希子になっていた。はつらつとした若さから、成熟した女へ移ろうとしていた。ピンクのセーターがよく似合っている。有希子は編み物が好きで、私に白いセーターを編んでくれたことを思い浮かべた。そして、ピンクのセーターを通して、有希子の胸のふくらみを見た。なぜか、抱き合っているときの乳房ではなく、梅雨の暗闇の高野橋の下で触れた乳房の記憶がなまめかしくよみがえった。
だが、彼女にはどこか不安な、哀しげな影が感じられた。私たちが京都の街で出会っていた頃には持ち合わせていなかったものだ。その不安や哀しみは、表面的なものではなく、深い底に存在する、容易には動きそうにないもののような気がした。だが、そのことは口にはできない。
 
彼女は、夫は建築関係の会社に勤めていて一学年上であること、高校時代に同じバレーボール部に所属していたこと、有希子自身はいまは市内の小さな出版会社で事務の仕事をしていること、子どもはいないこと、住んでいるのはこの市街地から車で三十分ほどの郊外の山間地であること、夫の両親はすでに他界して、二人きりであることなどを手短に話し、私の今の仕事のことを簡単に聞いたあと、折角出会ったけれど、帰らなければならないと言った。そして、出版会社の電話番号をメモして、「昼休みは正午からの一時間よ。私はお弁当なので、昼休みの時間もたいてい会社にいます」と言って渡してくれた。私も、名刺を渡した。
 
 

七年ぶりに出会ったのに、あっけない別れだった。手を握ることもなく、京都で付き合った思い出を語り合うこともなかった。
私は、ホテルの部屋に戻った。部屋には誰もいなかった。一瞬ヒロミが待ちくたびれているかと思ったが、そうだ、彼女はもうここにはいない、と思い返した。
雨ですっかり濡れたズボンを脱ぎ、浴衣を着た。南国とはいえ、暖房を消していた一月二十日の部屋はしんしんと冷えた。
「おまえは何をしているんだ」という声が今度はどこからともなく聞こえた。
 
 

翌日、私は予約していた便で京都に戻り、午後から仕事を再開した。数人の部下が次々に指示を求めに来た。朝から、激しい頭痛と吐き気に襲われていた私を、講師管理担当の前田君が「社長、ご気分がすぐれないようですが、お休みになってはいかがでしょうか。僕が何とかしますから」と言ってくれた。どんな場合でも理由を聞かないのは前田君の主義だ。根掘り葉掘り理由を聞きただすのではなく、まず事実に対応することこそ仕事なんだ、といつも彼は言う。それは、有希子の主義とそっくりだった。
ヒロミからは五日間の休暇届が出ていた。彼女と顔を合わせなくてすむのはありがたかった。もし会っていれば「あれからどうしたの」と質問したり、「私、大変だったのよ」と「半焼」の状況を説明したりするだろう。今はそれより、有希子との再会のショックをいやしたかった。前田君の勧めに従って会社を出るか、思い切り仕事に励むか、どちらかしかない。当分有希子の勤める教材会社に電話をする気にもなれなかった。
 
 

私の体調はなかなか回復しなかった。激しい頭痛や、食欲不振、下痢が続いた。その数日後、ようやく出勤した会社に電話があった。電話の相手としばらく応対をしていた社員が、私に報告した。
「社長、今、少し妙な電話がありました。シモノさんとおっしゃる女性の方ですが、社長さんはお元気でお仕事をなさっていますか、とおっしゃるので、ただいま社長と代わります、と言うと、いいえ、代わっていただかなくて結構ですから、お元気でお仕事をされているかどうかだけを教えていただきたいのです、とくり返しておっしゃるのです。それで、はい、元気に出勤しております、と答えると、ありがとうございましたと切られました」と言う。
元気ではないが、出勤しているのは事実だ。
 
それにしても、「シモノさん」という名前は、知人や親戚、社員や講師、顧客にも心当たりのない名前だった。
だが、数時間後に、はたと気づいた。有希子だったのだ。有希子の現在の姓は「野上」だから、それを逆にして、「下野」、つまり「シモノ」だ。「私と連絡を取りたいことを、それとなく伝えているのだ」と思った。
次の日の昼休みの時間に、彼女の勤める出版会社に電話をした。
電話には有希子が出た。昼休みで、五人の社員も所長もみんな外へ出ていて、今は一人だという。そして、続けて言った。
「あなた、大丈夫ですか。わたしは、大丈夫ではありません。もう、少しも何も食べられないの。夜も眠れなくて、この会社に来るのがやっとよ。あなたのせいね。でも、出会えてほんとうにうれしかったわ。もう一生会わないつもりでお別れしたけれど、あなたのことを忘れたことは一日もないの」

 
 
次の月の中旬、私と有希子は先月、私が宿泊した繁華街のホテルの部屋で待ち合わせた。喫茶店やホテルのロビーでは、誰に見られるかもしれないという有希子の提案で部屋にしたのだった。
私たちは、七年ぶりに抱き合った。そして、部屋の薄暗いあかりの中で、有希子の体に多数の傷があるのを見つけた。
有希子は、夫からたびたび暴力を受けていると告げた。
 
「夫は、同じ高校の部活の一年先輩なの。バレーボール部よ。夫は、高校時代からわたしのことを気にかけていたの。わたしが京都にいた時、父の仕事がうまくいかなくなって、父は借金をしたのよ。それまで卸していたスーパーが突然閉鎖になり、売り上げは半分以下になってしまって、あせった父は新しい器械を買ったり、他のスーパーなどに品物を置いてくれるように頼んだりしたんだけれど、うまくいかなくて、それまで三人いた職人さんにも次々とやめてもらって、最後には父一人になったけれど、この仕事は俺一人になっても、やめるわけにはいかん、と言って続けたの。ところが、よくないことって、続くものね。母に三度目のがんが見つかったころ、父はおまんじゅうを配達中に、居眠り運転をしてしまって、あるお店にそのまま突っ込んでしまったのよ。それが、骨董屋さんで、店先に置かれていた高価な品物をたくさん壊して、弁償することになったの。保険のきかないものばかりで、思い余った父は、親戚の人にお金を借りることにしたの。それも、何千万という大きなお金だったの。親戚の人は、父の窮状を見かねて、そのお金を貸してくれたんです。親戚といってもかなりの遠縁らしいのよ。でも、それには条件がついていたの。その親戚の人の知人が野上で、野上の長男が、倉橋の有希子さんを気にいっていて、お嫁にしたいと言っているが、何とかならないか、と父に言ってきたのよ。その遠縁の人は、市会議員を務めているの。詳しい事情は知らないけれど、野上家に選挙のときにお世話になったことがあったらしいわ。もちろん、父はその話をはっきり断ったんだけれど、その後もどうしてもと何度も言われて、とうとう思い余って、父はそのことを私に打ち明けてくれた。私は、高校時代の野上君を思い出してみたけれど、あまり目立たない先輩で、そんなに印象は残っていなかった。けれど、お金のことで毎日元気が出ない父の様子を見ていると、もうしかたないと思ったの。あなたのことを私は真剣に愛していたし、あなたはきっと私を奥さんにしてくれて、二人でいい家庭が作れるって信じていたわ。でも、しかたなかったのよ。ごめんなさい」
 
有希子は深々と頭を下げて、話し続けた。
「ところが、野上との結婚はわたしの思ったようなものじゃなかったのよ。野上は、会社では、とても生真面目で、優秀とはいえないけれど、仕事で大きなミスをするようなタイプじゃなく、上司に言われたことをそのまま受け入れてこなしていくような人なの。でも、うちに帰ってくると、わたしにはとても干渉するの。お金の使い方とか、わたしのスケジュールとかを細かくチェックして、このお金は何に使ったのか、この時間はどこへ出かけて、誰と会っていたのかと、しつこく聞いて、わたしが少しでも口ごたえするとわたしに暴力をふるうようになったの。わたしが女のお友達とお話したりするのも気に入らなくて、『お前は、俺だけのものだ。俺はお前を愛しているんだ』と口癖のように言うの。そして、わたしをさんざん殴ったり蹴ったりした後は、『すまなかった、俺が悪かった。お前を愛しているからだよ。わかっているだろう』と態度を変えてすり寄ってくるの」
 
有希子は、嗚咽をこらえながら、野上とは結婚をするのではなかった、でも借金でさんざん苦労としている父の姿を見ると、どうしようもないのよ、と改めて言った。
私には、すぐに返す言葉がなかったが、一つできることがあると思った。
「お父さんが借りたお金は、具体的にはどれだけ?」
有希子は、少しためらったあと、その金額を答えた。それは、私には、会社の金ではなく、私自身の貯えとして動かせない金額ではなかった。そのときの私はかなりの給料と賞与を得ていて、家庭を持たないこともあり、ほとんどを預金として残していたからだ。
だが、有希子はかぶりを振った。
「だめよ。わたしは野上の妻だし、あなたからそのお金を借りたら、父が納得しないわ。夫もきっとあやしいと思うわ」
「だけど、今の話を聞いて、このまま明日から仕事に戻れると思うかい」
「そうね。あなたにこんなことを聞いてもらって、心配までさせてしまって、ごめんなさい」
有希子はそう言ったが、真っ直ぐ見つめてくる目はあのころと少しも変わらず、その片隅で、私にすがりついてくるような気配を感じた。誤解かもしれないと思いながら。
 
ヒロミは、退社して名古屋の実家に帰った。私には、気を許して付き合える女友達がいなくなった。有希子を愛しながら、有希子と別れていた七年の間、幾人かの女性と軽い気持ちで付き合ったことをひどく後悔した。女性たちと付き合ったのは、有希子を失った寂しさをまぎらわせるためだった、と自分に言い訳をしたが、そんな自分の気持ちに無理やり折り合いをつけようとする自分の性格にも改めて情けなさを感じた。いったん愛したものは、たとえその対象が現実に目の前にあろうと、姿を消して見えなくなっていようと、愛を貫く強さを、なぜ自分は持ち合わせていないのかと悔やんだ。私は、いったん心に決めたことをすぐに忘れて、それと反する行動をとることがあり、どこまでも同じことを押し通す気力に欠けていることを痛感して自分ながらに恥じた。
 
 

それから有希子と何度か電話で話した結果、有希子の父が現在抱えている借金の全額を受け取ってくれることになり、銀行から送金した。少しは私自身の肩の荷が降りた気もしたが、逆にとんでもない負担を背負うことになったという気持ちにもなった。有希子は、そのお金の出所を父にどのように話したのだろう。「理由を聞かずに、結果を受け止める」やり方は、父にも通じるのだろうか。
ところが、そんなことを考える暇もなく、思いがけない事件が起きた。
突然、私が社長の職を失うことになったのだ。
 
仕事ぶりも人柄も最も信頼し、仕事の多くを任せていた講師管理担当の前田君が、突然会社を辞めただけでなく、我が社の講師の大半を引き抜いて独立し、新しい会社を起こしたのだ。それも、子どもたちに人気のない新米の講師たちではなく、ベテランの人気講師のほとんどが前田君の新会社に移ってしまったのだ。法律によって、会社の取締役はその会社を退職したのち、同業の会社を経営することはできないことになっているが、前田君を取締役に登記しておかなったのは、うかつだった。
前田君がいなくても会社はもちろん営業できる。だが、大半の講師がいなくなると、新規顧客の獲得がほとんどできなくなるだけではなく、今の顧客はこれまでついていた講師につられていなくなる。現に、事件が発覚してしばらく、会社の電話はわが社との契約を解除するという親からの電話が鳴りっぱなしだった。
 
結局、講師も顧客もいなくなり、会社を維持することが困難になった。そのうえ、どこからか、私の会社の講師が顧客である女子高校生に性的暴力をふるったという噂までも流れて、立ち直ることも難しくなった。オーナーである和泉家とも相談して、私ではない、別の人を社長に迎えて、心機一転の再生が決まり、私は退社した。
私は、無性に有希子に会いたかった。彼女がそばにいてくれたら、何も言わなくても、その存在だけで再起が期せるはずだと感じた。
なぜ私は有希子との結婚をためらったのだろう。もはや取り戻せない過去への深い嘆息は、いつまでも収まらなかった。
 
 

数日後、私は有希子の会社の昼休みを見計らって有希子に電話をした。仕事をなくしたことを伝えると、次の日曜日に、適当な口実を作ってくれることになり、鹿児島の例のホテルで会う約束をした。

 

その日、ホテルの部屋に入ってきた有希子は、顔に小さなアザを作っていた。化粧で隠してはいたが、じっと見ればわかるものだった。まだ夫の暴力は続いているのだ。私は、まだ見ぬ有希子の夫に激しい怒りを感じた。このまま手をこまねいていることはできなかった。
「有希子、俺と、やり直そう。今まで、すべて俺が悪かった。初めから、俺とやり直してくれないか」
「達雄さん、だめよ。もう時間は戻らないわ。野上は、わたしに暴力をふるうけれど、それでもわたしの夫なの。あなたは、あのとき、わたしにも父にも遠慮なんてしなくてよかったのよ。仕事や生活の見込みはついていませんが、それでも有希子さんとの結婚をお許しください、と一言だけ言ってほしかったのよ。もう戻せないわ。悲しいけれど、それが世の中の秩序というものよ」
「わかっているよ。だけど、きみが苦しんでいるのを見過ごすことはできない。どうか、もう一度やり直してくれないか。俺は、おまえが好きだ。おまえが死ねと言うなら、今すぐここで死んでもいい。ぐずぐずしていたことは、ほんとうにあやまるよ」
 
天文館に近い林田観光ホテルの室内で、私たちの水かけ論は延々と続いた。そして、有希子が折れた。
「わかったわ。そこまで言ってくれて、ありがとう。達ちゃん、わたしもあなたが好きよ。わたしだって、今ここで、あなたといっしょだったら、死んでもいいわ」
「じゃ、俺と逃げよう。死んだつもりで、どこまでも逃げよう。社長はクビになったけれど、当分困らないぐらいはあるよ、ここからどこへでもいいから、逃げようじゃないか」
「それはだめよ。あなたとわたしがここで死ぬのはいいけれど、生きて逃げるのはだめよ。野上からも、母の親戚からも、父一人が責められることになるわ」
それから長い間、有希子は沈黙を続けた。やっと口を開くと、
「とりあえず、お腹がすいたわ。ルームサービスを頼んでもいい?」
と言った。私もいっしょに食事を頼み、二人でワインとステーキとサラダの食事をした。その間、有希子はずっと考えていた。私も彼女も、人生の崖っぷちに立っていた。
「ねえ、こうしましょう。今日は十二月二十日だから、ちょうど一か月後の一月二十日、どこかで待ち合わせる約束をしましょう。どこがいいかしら。そうね。東京がいいわ。東京で待ち合わせるの。一か月の間に、お互いの決心が変わったら、それは今だけ気持ちが高ぶっていることになるんだから、その場合は東京に行かないことにしましょう。もしあなたも私も東京に向かって、そこで出会ったら、もう死ぬまで離さないでね」
 
一月二十日。一年前のその日に、私は雨の中を歩きまわり、偶然に彼女と再会した日だ。
有希子は、冷蔵庫から冷たい水を二つ持ってきて、私と自分の前に置き、彼女は水を一気に飲み、話を続けた。
「一か月の間に、わたしは夫にお詫びをして別れてくれるように頼んでみるわ。でも、夫は許してくれそうにないわ。暴力はふるうけれど、気が弱くて、とても離婚なんて面倒でカッコ悪いことに踏み切れないはずよ。そのときは、夫を棄ててあなたといっしょになるのか、なぐられても蹴られても夫のそばにいるのか、考えさせてちょうだい。そのために、時間をください。父にもちゃんと事情を言うわ。父は、今だったら許してくれるかもしれないわね」
父に、借金を返済したことへの交換条件にするのは心苦しかった。
「じゃあ、一月二十日までの間には、どんなふうに連絡すればいいのかな」
「お互いに連絡することはなしよ。今日、お別れしたら、次は東京でお会いするか、しないか、どちらかよ」
「うん、わかった。それは、理由を聞かないきみらしくていいよ。でもその日に病気とか事故とかで行けないときには、連絡してもいいかい」
「それもだめよ。何の言いわけもしなくて、ただ東京で会うの。どちらかが来なかったら、それが病気であっても事故であっても、気持ちが変わったのであっても、もうわたしたちは一生縁がなかったことにしましょう。あなたは、何もかもすてて、わたし一人だけを守ってくださる決心をなさってね。その決心ができなければ、来なくていいだけよ。わたしも同じだわ。もし会えたら、わたしはその場で死んでもいいわ。死ななければ、地球の果てまであなたについて行くわ。あなたの好きにしてくださっていいの」
「僕たちは、お互いに出会うために生まれてきたんだね。回り道をしてしまったので、こんなつらい約束をすることになっちゃったんだ。ほんとうに、僕のせいだ。すまない」
有希子は部屋のテレビをつけて、「今、ドラマが始まったわ。このドラマが終わったら、私は帰らなければならないの。それまで、強く抱いて」
と言って、テレビを画像だけにして音声を消した。私たちは、激しく抱き合い求め合った。かつて、高野川の流れを聞きながら、この人とともに溶けてしまいたいと思った。その気持ちがよみがえった。
 
 

一月二十日、東京の京王プラザホテルロビーで待ち合わせる約束をした。待ち合わせ時間は午後十時。当日の部屋は私が予約しておくが、会うときまで、互いに連絡はしない約束なので、部屋番号は教えられない。最大午前零時までの遅刻は認めるが、その時刻を一分でも過ぎれば、約束は破棄し、私たちは生涯出会わず、それぞれの道を歩む。そのように決めた。

 

私は、一月二十日を心待ちにした。祥代からの手紙、三条京阪の居酒屋で初めて有希子に会ったこと、四月の春風が吹く御池通でばったり再会したこと、高野橋の暗闇に浮かぶ有希子の白く豊かな胸、公認会計士試験の不合格、家庭教師派遣会社、その破綻、何度もの鹿児島行、有希子の顔のアザ、さまざまなことが渦巻きながら、その渦の中心に引き込まれていくような時間だった。
私たちの約束は命がけだと思った。私は、生と死の両方を選んだ。有希子は、夫と円満に別れて東京に現れるかもしれない。円満に別れることができず、逃げるようにして現れるかもしれない。有希子が望むのなら、死んでもいい。死なずに泥のようになって、虫のようになって彼女を守り通して、生きながらえてもいい。生のために、有希子の父の借金の返済に充てた残りの私の預金の全額、二千七百万円の残高のあるカードを用意した。死のために、百六十錠の睡眠薬を用意した。
 
待ち合わせは二十日だが、私は前日の十九日から三泊の予約を京王プラザホテルに入れた。前日から東京へ行き、二十日は約束の午後十時の三時間前からロビーで待つ予定にした。そのホテルのロビーは広く、チェックインや宴会などの客で賑わう。どれだけ長くいても不審に思われることはない。
新しいスーツをつくり、靴もネクタイもシャツも、地味だが高価なものを新調した。そのように準備をするプロセスで、きっと有希子は来るだろう、そして生を選ぶだろう、私たちは苦難の道を手をとり合って進むことになるだろうと思い続けた。
ところが、直前になって、ハプニングが生じた。金沢に住む叔母がけがをしたという連絡が入った。叔母の松下良江は、九人兄弟姉妹の二番目で、一番目の私の母のすぐ下の妹だが、結婚してすぐに夫が建設現場での事故で亡くなり、子どももいないまま、松下家の嫁として、義父母と生活をともにし、その世話をしてきた人だ。私はこの叔母には幼いころとてもなついて、叔母も私が成人をした後もかわいがってくれた。その叔母が、歩道橋の階段から足を踏み外して骨折したうえに、脳震盪から回復しないという知らせが入ったのは一月十七日だった。
 
私は、躊躇った後、とりあえず金沢へ行くことにした。金沢へは、京都から特急雷鳥で日帰りでも往復できる。
叔母は重体だった。意識は戻ったものの、身動きができず、付き添う人が必要だった。だが、夫も子もない叔母を世話する身内の者は誰もなく、私以外の甥や姪からは何の連絡もなかった。唯一、広島にいる五番目の叔父に電話が通じたが、自分も体調が悪くてとてもお見舞いにも行けないので、達雄君、すまないがよろしく、と言って切ってしまった。
病院の手続きや付き添いをしてくれる人を探すのに時間を要して、私はついに二十日の昼まで金沢に足止めされてしまった。京王プラザホテルには、十九日の宿泊をキャンセルし、二十日からに変更してもらい、二十日の昼すぎにあわてて金沢から京都に戻った。睡眠薬も銀行のカードも、有希子に会うために新調したスーツも金沢には持ってきていない。北陸は吹雪になっていた。途中で雪のために徐行した電車は、一時間ほど延着して京都に着いた。
 
自宅に戻ると、急いで東京行きの手荷物をまとめた。しばらくこの家には戻らないかもしれない。もしかすると、もう永久に戻らないかもしれない。そう思うと、しみじみとした気持ちになったが、急がなければならない。
午後六時前に、京都駅に着いた。関ケ原付近の雪の影響で、新幹線に遅れが出る見込みだと表示されている。私がとっさに思いついたのは飛行機だ。今から伊丹へ行けば、余裕をもって八時か九時には羽田に着く便に乗れるはずだ。羽田空港から新宿の京王プラザホテルまではタクシーなら三、四十分だ。ぎりぎりになるが、約束の二十二時にはロビーで有希子の姿を見つけられる。
伊丹発十九時の羽田行には間に合わない。しかたなく、二十時ちょうど発の最終便を公衆電話から予約した。幸い、その便には空席があった。これだと、羽田着は二十一時三十五分。ホテルには一時間後の夜十時半には着けそうだ。約束は十時だが、最大午前零時まで待つことにしているので、有希子は待っていてくれる。
京都駅から、伊丹空港へは、タクシーがいちばん早い。タクシーが伊丹空港に着いたのは十九時ちょうどだった。
 
 

伊丹発羽田行の全日空最終便は、定刻に伊丹空港を離陸した。
機体はいったん東京とは逆の西に向けて飛び立ち、やがて大きく旋回して、東に向かおうとしていた。そのとき、座席の下から「ガタ」という音が聞こえたような気がした。私の幻覚かも知れない。だが、その直後から、客室乗務員の動きがあわただしくなった。やがて機長の機内アナウンスが始まった。
「乗客の皆さまにおしらせいたします。当機は、ただいまエンジンにトラブルが発生いたしました。大変恐縮ですが、伊丹空港に引き返し、当便は欠航とさせていただきます。伊丹空港着陸までの安全性には、まったく問題はございませんので、ご安心ください。お手続きにつきましては、地上係員よりご説明申し上げます」
その説明は三度繰り返された。機内は騒然とした。「もう他社便はないのか」「今日中にどうしても東京へ行かなきゃならんのだが」「ほんとうにこの飛行機は墜ちないんだろうな」「今の放送はジョークなのか」など、乗客は口々にわめきながら、客室乗務員に詰め寄っているのが聞こえる。
 
飛行機は、しだいに元の伊丹空港の滑走路に向かって高度を下げはじめている。これは最終便なので、もう日本航空にも東亜国内航空にも羽田行きの便はない。新大阪発の新幹線の最後の列車も発車した。タクシーで東京に向かっても、今日中には着かない。
私は、飛行機から降ろされ、伊丹空港の公衆電話から、京王プラザホテルに電話をした。公衆電話にも長い行列ができていて、順番を待たねばならなかった。時計はすでに約束の時間の十時を指している。ロビーで「野上」さんを呼び出してもらった。かなり長く待たされ、テレホンカードの度数がみるみる減っていく。そして、「野上さんとおっしゃる方はおいでになりません」という声が返ってきた。
私は、空港の地上係員が教えてくれた空港に隣接するホテルに飛び込んだ。この便に乗っていた客のために航空会社が準備したホテルだ。
ホテルも、私と同じように突然大阪に泊まることになった客たちでごった返していた。私は京都に戻るかどうか考えたが、とりあえず、もう一度京王プラザホテルに連絡をとるために、このホテルにチェックインすることにした。
伊丹空港そばのホテルから、再び京王プラザホテルに電話をして、ロビーの客の呼び出しと、宿泊客への接続の両方を依頼したが、どちらにも「野上」という人物はいないと返答された。念のため「倉橋」と「石田」でも改めて呼び出しと接続を依頼したが、それも該当者なしだった。
 
有希子も何かの事情で遅れているのかもしれない。そう思って二時間後の午前零時に同じことを繰り返したが、やはり「そのお客様はおいでになりません」と言われた。
有希子は来なかったのだろうか…。
京都駅から新幹線にすればよかった、そうすればたとえ雪で遅れても、十一時にはホテルに着けたはずだ。さらに、叔母のために金沢に行ったこと、金沢で思いがけない日数を要したこと、どの判断が間違っていたのだろう、とぼんやりした頭で思った。

 
 
その夜は、京都に戻らず、そのまま伊丹のホテルに滞在した。そして、持っていた睡眠薬を数錠服んだ。それから、静まり返った部屋で、手帳のポケットから取り出した有希子の写真に向かって、「有希子、有希子」と何度も呼びかけた。呼びかけたつもりだったが、声は出ていなかったかもしれない。有希子は、館内の呼び出しにも気づかず、一人ロビーで私の到着を待ち続けているのだろうか。それとも、今日が約束の日であることを思いながら、鹿児島の野上の家で、夫に暴力をふるわれたり、抱かれたりしているのだろうか。
有希子、さようなら。きみが「鹿児島へ来て、父と会ってほしい」と言ったとき、そうすればよかった。試験を受ける浪人中だからと自分に言い訳をして、なぜためらってしまったのだろう。なぜ一か月先の約束ではなく、あのときすぐに有希子とどこまでも逃げなかったのだろう。なぜ飛行機を選んだのだろう。有希子、すまない。私を憎んでくれ。私を罰してくれ。私を忘れてくれ。
 
 

眠ることで、あらゆる罪がほどけていくかのように思えた。あるいは、眠っている間に、どれほどの計り知れない新しい悲しみが起きているのだろうか、という思いもよぎった。
数錠の睡眠薬による朦朧とした幻覚のなかで、目覚めたら、はじめにすることは鞄の片すみに忍ばせた残りの睡眠薬をどこかに処分することだ、……。そんなつまらない分別をめぐらしながら、かつて京都御所のベンチで、有希子の柔らかなひざに頭をしずめて、ほんのわずかにまどろんだ、そのまどろみの夢はまだ覚めずに、このすべてはその夢の中のできごとなのか、それとも有希子に出会ったことさえ夢だったのか、判然としなくなっていた。ただ、水量の増した高野川の水音だけはいつまでも耳の奥でやむことがなかった。