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徒然なる蟷螂の記

矢口つくす


約 13168

梅雨入り前のある日、電車に乗って郊外の図書館に行き、私が書いた本と対面してきた。
 
六月の梅雨入り前のある日、朝の天気予報によると、薄曇りで雨の心配はないとのことだったので、当日に急遽思い立って、自宅を午前十時に出発して、電動車いすで最寄の新井薬師前駅から高田馬場、池袋回りで東武東上線に乗って、埼玉県くまかわ市立上川瀬図書館へ行ってきた。途中で軽い食事をしたので出発から三時間かかり、到着したのは午後一時過ぎ。平日ということで、そこの職員としても、それほどには忙しくない時間帯であろう。
 
図書館蔵書検索サイトのカーリルによると、現在、半年ほど前に私が自費出版した小説「狂夢の花」は全国で四十以上の図書館に入っているが、他の図書館に先駆けて、出版の二週間後に入れてくれたのが、この上川瀬図書館だった。そして、そのことにかかわってくれたのかもしれないと私がにらんでいるのが、大昔、ちょっぴり親しくしていた女性。お互い、二十歳代半ばという実年齢は別としても、精神的に若く、人間的にも特に私の方が未熟で、また当時は修行中で経済的な自立もままならなかったということは、言い訳にならないのかもしれないが、性的な関係に至ったことは一度もなかった。とは言うものの、それなりの感情はあったので、元カノという表現が当てはまるのかもしれない。
 
彼女は、私が少しかかわりを持っていた一九八一年国際障害者年の周知とそれに向けた関係団体の組織化のための活動の中で、健常者スタッフとしての役割を果たしていた。そして、そこでの初対面のときに、私の酷い言語障害に、笑わず、ごまかさず、極めて真摯に対応してくれたということが強く印象に残っている。
 
彼女は、その後、別の人と結婚して、現在くまかわ市在住の専業主婦らしいが、標語の募集などでは何回か入選しているその筋の有名人。また、ある入学偏差値の極めて高い女子大の文学部で児童文学を専攻していたので、外部委員や子供への読み聞かせなど何らかの形で図書館にかかわっていても不思議ではない。ひょっとすると、図書館へこの本の購入をリクエストしたりしてくれていたのかもしれない。
 
実際に行って、その女性に三十数年ぶりにぱったりというメロドラマのようなことは残念ながらなかったが、筆談で小説「狂夢の花」の作者が私であることを明かし、名刺を渡してから、そこの司書の方と話をすることはできた。話自体は、選書の参考資料を見て「いい本」だと思ったというようなありきたりのことだったので、「私、有名人ではありませんし、自費出版でそんなに売れている本でもないのに、なぜこんなに早く入れていただいたのですか」とちょっぴり粘って、裏事情を探ろうとしたが、私としては、そこに車いすの職員がいたことに、何か納得できた思いを持った。
 
「あの人をどうにかしてください」という知り合いの美人女性の依頼から今回の仕事人としての私の仕事ははじまった。という一文を書き出しとして、社会派ミステリーでありながらも、私自身の経験も交えて障害者の生活と心理を濃密に描いた小説なので、障害者向けの本として入れてくれる図書館は何か所かあるのではないかと原稿を書いていたころから予想はしていたが、そういうことでは、残念ながら、あくまでも「面白い本」ではなく、「いい本」ということになるのであろう。「本はこれまでに四人の方に貸し出されたので、入れてよかったと思っている」とのこと。この辺には多少の社交辞令も含まれていたはずである。
 
帰りには、話をさせていただいた司書の方が図書館の玄関で私の姿が見えなくなるまでかなり長い時間見送ってくれていた。本の作者が車いすで東京から行ったということもあるのかもしれないが、経験によると、こういうときには、厄介払いということではないにしても、何らかの裏があることが多いようである。昨今、個人情報の管理は厳しくなってきているので、知っていても言えなかったというような後ろめたさもひょっとしたらあったのかもしれないと思っている。
 
(以上は実話を基にしたフィクションです。地名は実在しません)
 
 
私は、十年ほど前の頸椎症で歩けなくなる前は、冬でも大汗をかいて歩いていた。もともとの脳性マヒという障害によって、歩くときのバランスが悪いがための緊張による冷や汗の連続ということだったと思う。オーバーや厚手のセーターなんかもってのほか。それで目的地や電車の乗り換えなどで寒いところにいると、冷えて風邪をひくことがしばしばだった。電動車いすを使っている今は、寒いことは寒いが、汗をかかなくなり、厚着もできるので、風邪ひきに至ることはほとんどなくなった。汗をかくことは体にいいということも言われているようであるが、それにも程度があるということになるのであろう。私は、外出のたびに大汗をかかなくなったことで、身体の酷使から解放されて、命拾いをしたと思っている。頸椎のこともあったが、年齢的にも、また体力的にも歩くことは難しくなっていたのかもしれない。
 
都営地下鉄大江戸線の新宿西口駅で電車から降りると、赤ちゃん連れの女性にしつこく追いかけられた。その女性の母親らしき人も一緒だった。全く身に覚えはないが、赤ちゃんの認知を迫られたり、慰謝料を支払わされることにならなければいいが・・・
これは地下鉄のエレベーターの話。車いすとベビーカーの動線が同じなので、結構よくある。車いすの人について行けば確実にエレベーターを利用できるはずだと思っているお母さんもいるようである。新宿西口駅は、ホームから地上までエレベーターの乗り換えが二回で、コースも少し長くて複雑なので、途中お互いにだんだん親しみを感じるようになり、最後には子供の頭を撫でて別れた。
 
明後日は、飛行機を利用して青森へ行くことになっている。そのために午前中に電動車いすで中井から大江戸線と京浜急行を乗り継いで羽田まで行くことになる。その日は平日なので頼みのエレベーターが保守点検の作業で使えないことが考えられることに、はたと気付いた。使えないようであれば別のコースを使わなければならない。
ネットで確認しようとしたが、情報は得られなかった。それで、今日の午後、急遽、中井駅へ行き、そこでの点検作業の張り紙を確認した後、改札の駅員に大門駅の点検予定を尋ねた。大門駅でも予定はないということだったので、当日は安心してこのコースを利用できる。
 
素粒子論をやっている理系の若い研究者から「心のバリアフリー」について尋ねられたときの私からの答え。
「心のバリアフリー」ですか。私としては、この辺のことにどっぷりと嵌っていますので、普通に使ってしまっているのですが。
文脈としては「設備がいくらバリアフリーになっても、心のバリアフリーがなければ」というように用いられます。まあ、私は、そんなことはお互いの経験不足であって、とりたてて言うほどのことではないと思っているのですが。
 
昨日、杖をつきながら健康診断の結果を聞きに行った母親からの情報だが、その医院が改装されて、バリアフリーになっていたとのこと。その医院の医師は最近三代目の女医さんになったが、我が家では初代のころから六十年以上ずっとお世話になっている。
 
今日は、午前中に出発して羽田空港へ。飛行機で旅行に出かけるわけではない。空港施設内のホールで行われる「旅立ちの会」(お別れの会)。飛行機マニアの方で、生前にも、そこでお別れ会をしてほしいと言っていたらしい。私のかかわっている旅行関係の勉強会にも参加していて、以前には会報の編集を担当していた。享年五十四歳。私と障害の種類は異なるが、障害ゆえの早死にと言えるのかもしれない。合掌
 
六本木で予備校時代の友人と四十何年ぶりの再会。社会科の選択科目が同じ地理ということで気が合った。会ったときの第一印象は確かにお互いふけたというのが本音であろう。医師をしていた弟さんが過労で脳出血を起こして、最重度の障害者になってしまったというような極めてシリアスな家庭状況の話もあったが、予備校時代の思い出話は楽しかった。「なぜ政経学部に入ったんだ」と聞かれて、「受かっちゃったから」と答えて、大笑い。このへんは、まあ本音であるが。彼は、これからは福祉タクシーをやりたいと言っていた。慶応義塾大学を卒業して、社会派の記録映画の仕事をしていたときには、タクシー運転手のアルバイトをしていたこともあったとか。将来、客として乗せてもらうこともあるのかもしれない。
 
私が常連となっているスーパーの建物の中に、ここの建物は新宿区と豊島区の境界線上にありますという案内がある。私は中野区在住なので、新宿区を飛び越して豊島区に半分足を踏み入れていることになる。家から決して近くはないが、他のスーパーも距離的には似たり寄ったり。衣料品や雑貨もあるので便利。バリアフリー対応もしっかりしている。
 
いつものスーパーで靴を買った。黒いスポーツシューズ。メインの外出用として使うつもり。値札は2,000円だったが、靴全品二割引きということで1,600円。家を出たときは4,000円前後の腹積もりだった。
寝ていてハッと気が付いた。昨日買ったスポーツシューズ、マジックテープ式となっていた。これは、もともとは障害者が履きやすく、もっと言えば介助者が履かせやすくするための工夫だったはず。当時は値段も一般用よりはかなり高かったという印象がある。それが今では一般用として、当然のように売られ、値段も安くなっている。ユニバーサル・デザインということでは、好事例の一つであろう。
 
午前中、いつものスーパーへ行った。片道二十五分程度。雨は天気予報からも想定していたが、買いたいものがあったので、最小限の雨支度をして出かけた。行きは多少濡れるかなという程度だったが、帰りは本降りの雨で、かなり濡れて寒かった。買いたかったものは室内履きにするスニーカーだったが、売っていなかったので、目的は果たせなかった。それでもバナナ、刺身などの食料品を買ってから帰宅した。
午前中、昨日買えなかった靴を買いに中野ブロードウェイへ行った。商品分類ではスクールシューズというらしい。私は、昨日のいつものスーパーと、そこになければ新宿までという感じで、中野はあまり行かないが、比較的大きな靴屋があるという昔からのイメージで足を向けた。ところが、その店は別の衣料品店に変わっていて、今日も靴は買えずじまいだった。帰りに中野の食品スーパーで一個150円の塩大福とあおい書店で来年の手帳を購入して帰宅。塩大福はもちが本物でおいしかった。靴は、ネット通販を物色している。
 
午前中いつものスーパーへ買い物に行った。私としては便利で、品物もそろってるが、決して家から近いところではない。その帰り、雨に降られてしまった。かなり大降りになってしまったので、途中いつも横を通りすぎている、看板代わりに赤い電車の本物の車両のおいてある鉄道模型メーカーのショールームで雨宿りをさせていただいた。玄関のひさしだけでも構わないと思ったが、雨がいつやむかわからないので、中を見せていただいた。展示スペースと販売スペースがあり、販売スペースでは細かな部品も売っていた。また修理受付コーナーもあった。車いす利用者用トイレもあった。今回は雨宿りということで、二十分ほど。展示品はあまり見なかったが、わざわざ行ってもかなりの時間楽しめるところのように思う。
 
1970年代から80年代の時期には、二時間ドラマを中心として、ヘア以外は何でもありという感じで、あまりにもおおらかすぎたのかもしれないが、90年代以降のテレビ・エロへの規制は長い時間をかけた社会実験だったのではないか。この実験が成功したことによって、政治・社会報道への規制も、これから長い時間をかけて強化されることになるであろう。じわじわと、行きつ戻りつを繰り返しながら。
 
新聞に、江上剛氏への連続インタビューが掲載されていた。こちらからの面識はないが、同じ大学の学部の同じ学年だったので、カマキリのようにぎこちなく、変な格好で歩いていて外見的には目立つ存在であった私のことは、ひょっとすると彼の記憶には残っているのかもしれない。私自身、日米野球での東門君の死亡事故や川口君事件には大きな衝撃を受けたし、セクトには属さず、デモにも参加できなかったが、統一教会の連中の活動には憤り以上のものを感じていた。投稿関係では、文芸ではないが、研究社の「英語研究」「時事英語研究」の和文英訳と英文和訳のコンテストにときどき応募していた。一度だけ、英文和訳で賞品をもらったことがある。五百円分の研究社図書券。そのときには飯田橋の研究社まで行って「英文法小辞典」に換えてもらった。
 
新聞に、大学受験ラジオ講座のことが出ていた。今はやっていないとのこと。私は、高校二年のときから三年間聞いた。講師の名前で記憶に残っているのは、記事に出ていた西尾孝、勝浦捨造、J.B.ハリスに加えて、古文の森野宗明、物理の竹内均、英語の金口義明ぐらいである。今聞くことかできるのであれば、知的なエンターテイメントとして結構面白いのではないかと思う。勝浦捨造は数学というよりも、受験教の教祖様というような雰囲気だったが。
 
「ドバイ原油、11年9カ月ぶり30ドル割れ」
この辺の数字、懐かしく感じる。私はこのころまで、勤務先で石油専門雑誌「ペトロリアム・インテリジェンス・ウィークリー」の翻訳を主な仕事にしていた。文書作成の機械はワープロ専用機、データのメモリー媒体としては、まだフロッピーディスクが主流の時代だった。当時使っていたフロッピーは、今もかなりの数が机の上の棚に残っている。英文を今はネットで見ることができるが、誌面のレイアウトは当時と変わっていない。これだったらすぐにでも復帰できそうな感覚もある。仕事に戻るつもりは全くないが。
 
私が翻訳業務から離れて三年半になるが、その間に人工知能を利用した翻訳の実用性が格段に増してきていると思う。そのままで原稿として通用する実用性の高い翻訳ソフトが一般的に利用できるようになるのはもう少し先になると思うが、私としてはいい時期に業務としての翻訳から解放されたのではないかと思っている。
 
二十年ぶりに三田の東京都障害者福祉会館へ行った。それ以前の二十年間ぐらいは、そこの職員の中に知っている人がいたこともあって、週一回の出勤での職場からの帰りなどにもよく行っていた。入口の上の「完全参加と平等」の看板は、私が行き始めたころにつけられた。
よく行っていたころ、ここで脳性マヒ者の俳人・文人の花田春兆さんをときどきお見かけした。彼は、ここは事務所ではないが、事務所代わりに使うことはできると言われて、職員の部屋に当時のワープロの機械を持ち込んでいた。職員の方も黙認というか、ちょっとした生活上の手伝いもしていたようである。彼は現在麻布のご自宅を離れて、老人ホームで生活をされているが、卒寿を迎えた今でも全国規模の障害者団体の機関誌に味わいのある文章を毎月寄稿していて頭はかくしゃくとしていらっしゃる。
 
下関市立大学教授で、私の早稲田でのゼミ仲間が経済学の学術書を出版した。「フランス」、「欲望」とくると、あっち系を連想する向きもあるかと思うが、決してそのような本ではないはずである。彼は博士号は京都大学から取得している。
「経済学の起源-フランス 欲望の経済思想」京都大学出版会
 
貧困家庭の児童への「学習支援」、貧困の再生産を避けたいということで三十年以上前に取組んでいたところがあった。江戸川区の福祉事務所。そこでは、福祉事務所のスペースを使って、職員の有志が塾のような感覚で教えていた。毎年何人かは都立高校に進学できたということであった。福祉関係の研究所の研究員だった私の友人も、大学時代に塾で教えていた経験を生かしていたらしい。私は一度は行きたいと思っていたが、当時は車いすではなかったといっても、中野から江戸川区、往復に時間がかかりすぎるので一度も行かれなかった。当時、福祉事務所での中心人物だった人は、現在大学の教員になっている。福祉の現場から大学の教員になるということは、いわゆる出世ということになるのであろうが、私は必ずしもいいことだとは思わない。そういう心ある優秀な人材を引き留められないというのが、いまの福祉の現場の現状であろう。
 
今日、成城学園前近くの店で、高校同期の集まりがある。かなり有名なプロのミュージシャンが二人とセミプロのミュージシャン一人がギター、ピアノの演奏をと歌声を披露してくれることになっている。参加費は飲み食い付きで5,000円であるが、私として飲み食いで元が取れなくても、ライブ演奏が聴けることに加えて、旧交を温めるという意味もあるので十分行く価値はあると思う。ちなみに電動車いすは道路交通法上は歩行者ということになる。したがって、飲んだとしても酔っ払い運転で捕まることはないが、運転がおぼつかなくなることは確かであろう。その辺は自己責任である。音楽の道に進んだ同期生としては、もう一人プロの有名サックス奏者がいるが、今日は大阪での活動があって不参加。あと、音楽大学の図書館司書(館長になっているのかもしれない)もいる。高校は都立の普通科。音楽科があったわけではない。
 
先日高校同期の集まりがあったからということなのであろうか、今朝、小中学校で親しかった友人の夢を見た。夢の始まりは、道での彼との出会い。小学校での私とは別のクラスの同級会に行くとのことであった。私は、それなら別のクラスとは言っても知っている人も多いので、挨拶だけでもしておきたいと思って彼について行った。会場の前で、彼は私を待たせて、中に入っていった。なかなか戻ってこないので、私は何回も彼の名前を呼んでいた。
そこで目が覚めたのであるが、私としては、何回も彼の名前を呼んだということに,少し引っかかるものがある。次男坊で結婚して地域を出て行った彼とは、今となっては、お互い何かあった場合に、連絡方法がないというのも実情である。そういうことが気になる年齢であることも確かであるが。彼の住んでいた家は、だいぶ前から人手に渡り、建物も建て替えられてしまっている。
 
高校の還暦同期会に行ってきた。同期生の一割の四十五人が参加。私としてはほとんどが高校卒業以来。先生もお二人お見えだったが、われわれのほうがあまりにも齢食ったという印象が強く、生徒のほうが年寄りに感じられるような人も何人かいた。昔、美人だった女性が、それなりに美人だったことは、一つの救いだったのかもしれない。
 
小金井市に梶野町というところがある。高校時代の先生が住んでいた。私は先生への年賀状の宛名に「カジノ町」と何回か書いたことがあった。冗談半分ではあるが、カジノを解禁するならまずここではないかと思いながら。その先生がいつも蝶ネクタイで、そういうところに出入りしていてもおかしくはない風貌をしていたということもあるが。その先生は保健体育を担当していて、四十数年前、当時はまだタブー視されていた面もあった性教育にも取り組んでいた。
 
大昔、私が子供のころ、若秩父と松登という力士がいたことをふと思い出した。イメージとしては、手の親指を少し曲げると若秩父、そらすと松登だった。右手と左手で対戦させて遊んだこともあったが、勝つのはいつも私が好きだった若秩父だった。
 
私が子供のころ、「おいもいもいも おいもったらおいもだよ おいもだおいもだおいもだよ せんばいとっきょのおいもだよ」と言って売りに来ていた焼き芋屋のおっさんがいた。いつも大笑い。
 
西武新宿線新井薬師前駅の南口の近くのパチンコ屋がコンビニに変わった。コンビニとしてはかなり大きな店の部類に入ると思う。数日前、新規開店の新聞折り込み広告があり、その地図から、もしやと思っていたが、今日の午前中、駅までの途中に少し回り道をして通ってみるとたしかにそうなっていた。そのパチンコ屋は、私の中学生のころからだから、五十年近く営業を続けていたことになる。友人の中には、開店当初、年齢をごまかして遊びに行っていた人も多かったようである。定年退職後、今は暇すぎない程度の用事はあるが、これから暇で困るようなことがあったら私も多少の小遣いを持って遊びに行こうかと思っていたので、残念という感覚もある。
今日は、それから新井薬師前から高田馬場まで電車に乗り、メーカーのショールームへ電動車いすのタイヤ交換の申込みに行って来た。ちなみに私は電動車いすは自費で購入している。
 
昨日の午前中は東大病院循環器内科での定期観察。珍しく三十分以上待合室で待たされた。血圧104-78. 血液検査のための採血をしてから帰宅。これまで血液検査でも異常値が出たことはない。検査値に出ない異常は放っておかれがちであるということも言われているようなのであるが。
病院から帰ってしばらくしてかなり大きな爆発音が聞こえた。何だろうと思ったが、昨日はわからずじまい。今日の午前中いつものスーパーに行くつもりで、電動車いすに乗ろうとしたら、タイヤのチューブがパンクしていた。とりあえずパンクしたままの状態で最寄りの自転車屋まで車いすを走らせて、チューブを交換してもらった。私としては爆発音の原因がわかってホッとしている。
 
沖縄国際大学での障害学会、私は学会の前日の夕方に那覇空港に到着して、二泊三日の予定。往路の那覇空港に古い友人が出迎えてくれることになった。三十何年ぶりかの再会になる。彼は、慶応義塾大学出身で日本社会事業学校の研究科の同期。今は、沖縄で短大の先生をしている。以前には、母子福祉関係の翻訳プロジェクトでご一緒したこともある。空港到着後、空港の中の店で軽い食事をご一緒することになった。実は奥様も研究科の同期なので、ちょっとした同期会のような雰囲気になるのかもしれないと思っている。短大の案内の中の写真をネットで拝見すると、髪の毛がかなり薄くなっている。それはお互い様ではあるが、彼と私は研究科当時から禿げることが予想される双璧だった。
障害学会への航空機での行き帰り、横浜の大学の美人の准教授が付き添ってくださることになっている。私としては付添いは不要で、私から希望したわけではないが、彼女が私の搭乗場面を見たいということで、そういうことになった。彼女は早稲田の後輩だが、比較的最近「障害学入門」の翻訳プロジェクトをご一緒した。昨年には、彼女の大学で、旅行を中心とする私の体験を話したこともある。
「障害学入門」の共訳者としての私の名前は「矢口つくす」ではなく本名。ここでは秘密とさせていただく。
 
先日、沖縄で再会した古い友人から、泡盛と醪酢が届いた。私は強い酒は苦手だが、三十度を水か炭酸水で六倍程度にすれば、いつものビールという感じで飲めると思う。でもおそらく全部は飲みきれないので、行き帰りの飛行機で付添いをしていただいた美人の准教授に「ご一緒しませんか」と声をかけたが、見事に振られてしまった。OKということであれば、友人がオーナーをしているバーにその泡盛を持ち込むつもりだった。彼女はかなりの酒好きらしいが、残念ながら既婚者である。酔わせてどうするなんてことはできない。結局、一人でひと月かけて飲み終えた。
 
夏目漱石の「三四郎」の中に「新井の薬師」が出ていた。ここは私の家の近くにあり、地元では「お薬師さま」と呼んでいる。正式名称は「新井山梅照院薬王寺」。ちなみに、私の家の最寄駅は「新井薬師前」である。江戸のころには浅草と並ぶ人気のスポットであったということも聞いている。私が子供のころの、おそらく東京都内のバス交通の全盛期には、池袋、新宿、東京、中野。江古田、中村橋、代田橋行きの路線バスも出ていて、どこへ行くにも便利だった。「三四郎」の中には「落合の火葬場」もあったが、今の「落合斎場」。これも私の家の近く。あの世へ行くには今も便利である。
 
SNSで「たきびのうた」が話題になっていたところがあったので、矢口つくすオリジナルの替え歌を作ってコメントした。私の住んでいるところは、「たきびのうた」発祥の地から歩いて十分ぐらいのところ。
「かきねのかきねのまがりかど たきびだたきびだやきいもだ やけたかなたべようよ たべたらそのうちへがでるよ」
コメント先では呆れていたようである。
 
五月の連休明けのころ、いつものように午前中にスーパーへ行った帰り、道沿いのアパートの二階から明智小五郎の映画にでも出てきそうな黒マントを身にまとった男が颯爽とした感じで階段を下り、私の前を通り過ぎて行った。「あれ、何だろう」(ポカーン)。近くに中野哲学堂公園があるので、そこでパフォーマンスでも披露しているのかもしれない。確かに哲学堂公園の中のレトロな建物の雰囲気には合っていると思う。
 
キヤノンのプリンターをヨドバシ・コムに注文した。明日到着予定。今、午前中なので今日中の配達も可能ということだが、夜になると風呂の時間と重なることが考えられ。受け取りにくいので、可能な限り翌日の午前中の配達を指定している。小型で安いが、基本的な部分は押さえられていると判断した。
昨日注文したプリンターが今日の午前中に到着した。思ったより重くてでかかった。もちろん、箱から出しただけでは使えず、設定に手間がかかるが、何とか使えるようになった。
 
障害学会に行った直後にしつこい風邪を引き、完全に治るまでひと月以上かかってしまったこともあって、思いが及ばなかったが、学会の会場になった関西学院大学で私の大学時代のゼミ仲間がフランス経済史を教えていた。彼は四十四歳のときにガンで亡くなった。腰が痛くて軽い気持ちで医者に行ったのが始まりで、その後は授業を続けながらの壮絶な闘病生活だったらしい。経済学部の建物の前で、手を合わせることぐらいはしたかった。障害学会に行く前には、そんなことも少しは思っていたが、行ってみたら悪天候だったり、時間の余裕がなかったりしたこともあってすっかり忘れていた。彼には申し訳なかったと今になって思っている。
 
関西学院大学内のケンタッキー・フライド・チキンでとんでもないレアなものを食べたらしい。「チキン南蛮丼」。おいしかったので、東京でも食べたいと思って、ネットで調べたら、関西学院店限定メニューだった。
 
北の湖が亡くなった。花のニッパチ。私と同年齢。私がテレビで相撲を見ていた最後のころに活躍していた力士の一人。それ以降は相撲をほとんど見なくなった。もう一人、小尾信弥氏が一年前に亡くなっていたとか。小中学校のレベルだが天文に関心のあった私としては、懐かしく感じられる名前。
 
もともとかなりやばいが、最近髪の毛が急に薄くなったように思う。ただごくわずかではあるが、心臓に不安があるので、心臓の薬の開発中に偶然発見されたとかいう発毛剤の使用は、私としては難しいかもしれない。医師は「問題ないと思いますよ」と言っているが、この「思いますよ」に私は引っ掛かりを感じている。
 
ちょっとした自慢をさせていただく。私、公立中学に入るときのアチーブメントテストで一番だった。入学試験ではないので、遊び半分の人もいたとはいえ、これには当時の校長先生が一番驚いたらしい。言語障害のある私の状況では新入生代表としてのあいさつはできないので、二番だった人にお願いしたとか。もともと、学校での成績はあまりよくないが、外部の試験ではときどき大当たりをするタイプだった。早稲田の政経に合格したのもそんな感じだったのであろう。
 
家の近くのバス通りで、車いすの高齢の女性を見かけた。その車いすを押していたのがたくましい黒人男性。「最強のふたり」の映画を連想してしまった。その高齢の女性も、どこかインテリで、英語もできそうというような雰囲気だった。
 
他人の夢の話ほど、つまらないものはないというが。先ほど変な夢を見たので起きだして、忘れないように記録している。
外は雨風が強い。そんな中で、下の庭で変な音がする。その直後、犬が猫をものすごい剣幕で追いかけて、部屋の窓から入ってきて、寝ている私の横を通って、部屋から出て、階段を下りて行った。その夢の中で、私は肝を冷やしたと同時に、笑いたいような心境であった。実際に目を覚ますと雨は分からないが、風は結構強く吹いていた。英語にIt rains cats and dogs.(土砂降り)という表現があるが、それを髣髴とさせるような摩訶不思議な夢であった。時計は六時前。もう一度、おやすみなさい。
 
あの名曲に乗せて
昨晩の出来事
「曇りガラスの向こうにヤモリ這い」
中に入ってくると大騒ぎになる。
 
電車の中で
中年の女性とその娘と赤ちゃんの隣に初老の男性が座っていた。お互いの面識はおそらくないと思われる。その男性、新聞紙のちょっとしたところに私に見せながら赤ちゃんの似顔絵をかいて、その新聞紙を破って、女性の膝の上に置いて、すでに停車していた電車からそそくさと逃げるように降りて行った。初めはわけがわからなかった女性二人、私が教えて、似顔絵に気が付くと大笑い。バッグの中にしまっていた。西武新宿線の高田馬場から下落合の二分程度の時間での出来事。その赤ちゃん、髪の毛が立っていて可愛かった。
 
小説「狂夢の花」の中に「突然で申し訳ございません。これ、この街では一番の老舗の和菓子屋の『バフン最中』なんです。名前を聞いて、初めての方はほとんどがギョッとするようなのですが、味は絶品です。ここに置いておきますので、よろしければ、あとでお召し上がりください」というくだりがある。架空の和菓子の名称であるが、そう書いたことで親しみを感じ、新聞記事の中で紹介されていた馬糞饅頭を買いに、飯能から西武線で山の中に入ったところの吾野まで行ってきた。読み方は「バフン」ではなく、「マグソ」。黒糖あんの茶饅頭だった。買いに行ったところは「カフェギャラリー吾野宿」。そこでは売り切れだったが、そこのマスターが別のところには残っていると言って、車で取りに行ってくれた。吾野の街並みには風情があり、周辺には緑も多いので、現地に行って食べることを是非お勧めしたい。饅頭には大と小があるが、大きい方は直径十センチ程度。いかにもという感じである。マスター曰く「二十五年前に作られなくなった名物を今回復活させたが、昔の饅頭は、これほどにはおいしくなかった」。
そして、霊験あらたか「馬糞饅頭」。翌日の朝にはドカンと出た。
実は、吾野は親戚・知人がそこにいたということではないが、都会暮らしの気分転換のために、歩けなくなる前には年一回程度、いまの季節や夏の終わりに行っていた。今回行って、街並みはほとんど変わっていなかったが、当時すでに廃業していた旅館は取り壊されて、更地になっていた。
 
 

作家紹介

矢口つくす
1953年2月生。うお座。血液型A。都立武蔵丘高等学校から一浪後、早稲田大学政治経済学部経済学科入学・卒業。翻訳家。フリー研究者(バリアフリー旅行、障害学)。東京都中野区在住。2013年3月に幻冬舎ルネッサンスから「破花の宴」、2016年1月に幻冬舎メディアコンサルティングから「狂夢の花」を自費出版。