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炎の女(ひと)、ガラシャ玉子

だぶん やぶんこ


約 21930

関ヶ原の戦い後、細川忠興は、妻、玉子(ガラシャ)の劇的死という大功により、豊前国を得た。

秀吉時代は一二万石、秀吉死後、家康に率先して従うことで六万石加増の一八万石だった。

決して大藩とは言えない処遇だったが、関ヶ原の戦いの恩賞だと豊前中津藩三十九万九千石を得たのだ。

 

関ヶ原の戦いで、細川忠興に特別の戦勲があったわけではないのに。

玉子(ガラシャ)への恩賞だったのだ。

 

非業の死を遂げた明智光秀の思いを、娘、ガラシャ玉子が死をもって表し、そして光秀筆頭家老の娘、春日局が受け継いだ。

春日局が強力に推し、細川家は熊本藩五四万石藩主となる。

 

 

目次

一、明智玉子(細川ガラシャ)誕生。
二、玉子の兄弟姉妹。
三、光秀謀反。
四、玉子、幽閉
五、玉子、再びの暮らし
六、洗礼を受ける玉子
七、輝く玉子

 

一、明智玉子(細川ガラシャ)誕生

明智玉子は、熊本藩五四万石初代藩主、忠利の母だ。

 

明智玉子(細川ガラシャ)は一五六三年、越前国、東大味(ひがしおうみ)(福井市東大味町)の明智屋敷で生まれた。

父が明智光秀。母が明智一族、妻木氏、凞子(ひろこ)。三女だ。

 

後々、細川家を熊本藩に繋げるのが玉子と春日局。

その繋がりの歴史は長いが、父、明智光秀から読み解く。

 

明智家は美濃守護、土岐氏一族で、明智城(岐阜県可児市明智)を居城とし土岐氏に仕えた。

土岐氏が衰退すると、成り代わって美濃を支配した斎藤道三に仕える。

光秀は、主君であり一族の土岐氏を滅ぼした斎藤道三が憎いはずだが、道三の妻、小見の方が、光秀の叔母(父の妹)だったゆえに、可愛がられ、自然に主君として仕える。

道三は、光秀を文武両道に並外れた力を持つ稀有な武将だと見定め、引き立てた。

光秀も期待に応えて、戦功を上げ、順調に出世していく。

 

ところが、道三と嫡男、義龍(よしたつ)が敵対した。

嫡男、義龍の生母は、小見の方ではなく側室、深芳野だったことが大きな要因だ。

道三は深芳野への愛情が薄く、義龍(よしたつ)は道三を父とは思えず、父の愛を信じられず、疑ったのが始まりだ。

 

深芳野は稲葉氏の娘。

土岐家を支える西美濃衆、筆頭と称えられた猛将、稲葉一鉄の姉だ。

一鉄の孫が細川家を熊本藩主に推挙した春日局になる。

 

絶世の美女、深芳野は、土岐頼芸(よりあき)に愛される。

頼芸(よりあき)は、美濃守護の父から溺愛され、次男だが、後継として育ち、守護になるはずだった。

深芳野は正室となってもおかしくない出身だが、頼芸(よりあき)、守護となれば、相応の妻を迎えることになると、深芳野の処遇をあいまいなままにした。

 

頼芸(よりあき)の兄が、守護代らに支えられ、美濃守護となると決起し、頼芸(よりあき)は美濃から追放される。

頼芸(よりあき)は再起し、兄を追い出し美濃に戻る。

だが、父が亡くなると、兄の勢力が増し、再び美濃から追い払われる。内紛は広がり続く。

 

土岐頼芸(よりあき)は、斎藤道三の策で一度は再興し、兄を追い払い守護となる為には、次も頼るしかないと思う。

そこで、一五二六年、道三が惹かれていた深芳野を下げ渡し、再起を目指す。

 

愛する女人を得て道三の才は冴え、一五二七年、頼芸(よりあき)の兄を越前に追放し、頼芸(よりあき)の美濃守護への道を確かにする。

同じ年、嫡男、義龍(よしたつ)が生まれた。

一五三六年、頼芸(よりあき)は、正式に守護となる。

だが、道三は、頼芸(よりあき)以上の権力を持ち、美濃を支配し、頼芸(よりあき)は形だけの守護となっていく。

道三は美濃の完全支配を狙い、続いていた土岐家の内紛(頼芸(よりあき)の兄の子との戦い)を終焉させ、一五四七年、用なしとなった頼(より)芸(あき)を追放し、美濃の支配者となった。

 

義龍(よしたつ)が生まれた頃、道三と深芳野は、熱く結ばれていたが、道三が土岐頼芸(よりあき)以上の力を持つようになっていくと、深芳野は、立場を失い、冷めた関係になっていく。

頼芸(よりあき)以上の武将として美濃に君臨する道三は、頼芸(よりあき)の影を感じる深芳野を信じていいかどうか疑い始める。

また、美濃の統治者の妻としては、旧主から下げ渡された深芳野のイメージは良くなかった。

新しい美濃治世を築く為には不釣り合いだと、自然に、愛も失せる。

道三から愛され望まれ結婚した深芳野は、道三の心変わりに、裏切り者と怒る。

稲葉家も、同じ思いだ。

 

道三は、土岐家を引き継ぐとみなした一門、明智氏と共に、美濃を治めることで、人心をつかもうとする。

そこで、小見の方を正室に迎える。深芳野は側室となる。

その後、正室、小見の方との間に男子が生まれても、嫡は義龍だと変えることはなかった。

道三は義(よし)龍(たつ)を我が子だと信じていたし、義龍(よしたつ)は優秀だった。

 

だが、義龍(よしたつ)は「(道三は)弟ばかり可愛がり、自分を亡き者にしようとしている」と思い込んだ。

力関係が逆転するまで、義龍(よしたつ)は、ひそやかに家臣団をまとめ待つ。

一五五四年、家督を譲られると、決起した。

 

光秀は道三を守り戦うが、義龍(よしたつ)が優勢だ。

一五五六年五月二八日、義龍(よしたつ)は道三を殺し、名実ともに後継となった。

勢いに乗る義龍(よしたつ)は、明智家居城、明智城を攻めた。

光秀の父、光綱(光安)と弟、光久が重臣と共に殺され城を奪われた。

明智勢の主だった武将が死に、一族は離散する。

 

小見の方と道三との子には、信長の妻となった濃姫・孫四郎・喜平次・利治がおり、孫四郎・喜平次は義龍(よしたつ)に殺されたが、利治は生きていた。

利治は、信長に支援され弔い合戦を繰り広げ、光秀も共に戦うが、義龍(よしたつ)が美濃を制し、勝ち目はなかった。

利春は、美濃を追われ、姉、濃姫の元、信長の庇護下に入る。

 

明智家は稲葉家に追われた。

だが、稲葉家に仕えた春日局の父、斎藤利三は、後々、光秀のたっての願いに応え、筆頭家老の役目を受ける。

稲葉一鉄は激怒したが、利三は、光秀の武将としての力を見込み仕えた。

利三は斎藤家嫡流の出身で、かっては明智家と同格だった。

 

光秀は故郷を追われ、家族家臣を引き連れ美濃を離れる。

二度目の妻、凞子(ひろこ)と幼子の娘を連れての逃避行であり流浪の旅ではなく、縁者を頼っての隠棲だった。

光秀の初婚は道三が決めた女人だった。だが、初婚の妻は一女を残して亡くなり一五四九年、明智一族の妻木広忠の娘、凞子(ひろこ)を後妻に迎えた。

 

凞子(ひろこ)は才媛で逆境の中でも家政を上手に取り仕切る。そして光秀を一途に愛し、四人の子を産む。

光秀は側近と共に野に潜み、時期を待つが、凞子(ひろこ)の変わらぬ笑顔が救いだった。

凞子(ひろこ)は、窮地に追い込まれても、静かで取り乱すことはない。その姿で、子や近習は心落ちつく。

こうして、皆一丸となって時が来るまで耐える。

 

この時、妻木家は、斎藤家を去り、信長に仕えた。

光秀が再起すると、信長家臣ではあったが、光秀与力となり、最後まで尽くす。

 

光秀は妻に支えられ、これからの兵器として目をつけた鉄砲とその使い方・仕組み・軍装などを深く研究する。

軍学を極めつつ情報を集め、天下の戦略・戦術を考え、武器・武具を試し、自信を持つ。

光秀は、必ず再起するとゆるぎない信念を持ち、若狭守護、武田信豊を訪ねる。光秀の母が武田一族であり、その縁を頼った。

勇んで若狭に行くが、武田氏は、力がなかった。

 

気落ちした光秀だったが、越前守護、朝倉義景が召抱えたいと申し出る。

朝倉義景の母が武田氏で若狭守護、武田氏を庇護下に置いていた。その為、光秀の動きをすべて知っていたのだ。

光秀の才に興味を持った義景は、越前に光秀を呼び、対面し、感銘を受け、一五六〇年、鉄砲指南役、五千石という破格の厚遇で召抱えた。

 

光秀の役目は、文殊山(もんじゅさん)榎峠から朝倉家本拠のある一乗谷(福井市)まで続く朝倉街道の大手道の守りだ。

一乗谷城・朝倉館・重臣屋敷などが立ち並ぶ一乗谷から約四㎞ほど離れた東大味(ひがしおうみ)に領地に与えられた。

光秀は、この地に、妻や子たち、従う家臣の住まいを建てる。

 

そして、積み重ねた軍事の知識を、実践で証明すると、浅倉街道に目を光らせ、一乗谷を守る鉄壁の防衛策を打ち立てる。

この頃、浅倉氏は強く、豊富な資金を与えられ、思う存分、攻め入る隙を与えない防備を築き上げる。

 

玉子は、一五六三年、光秀が、朝倉家中にゆるぎない地位を築いた時、生まれた。

高禄の重臣として迎えられ譜代の臣から疑いの目で見られていたのを跳ね返し、力を見せつけた時だった。

 

明智家が未来に明るい希望を持った時、待ち望まれた子だ。

目鼻立ちの整った透き通るほどの肌を持って生まれた。赤子というには惜しいほど光り輝いていた。大切な宝、玉子と名付ける。

一家は、玉子の誕生を祝し、にぎやかな宴を開き、主従共に笑い声に包まれた。

二人の姉がおり、父母は、男子であって欲しいと願っていたが。

 

二年後の一五六五年、亡き室町将軍の弟、足利義昭が都を追われ、姉婿、武田氏を頼り若狭に来る。

兄から「将軍を譲る」と遺言されたが、将軍となる為に必要な資金軍事力がなく庇護者を求め来たのだ。

だが、武田氏は頼りにはならず、朝倉義景の資金力・軍事力に頼るしかないと、側近と共に、越前に来た。

 

義景は歓迎し、武田家に縁ある光秀に接待役を命じる。

明智家は、室町将軍に直属し軍事で仕える親衛隊(奉行衆)の家柄だった。

光秀は、道三が討たれた時、京で将軍に仕えようと働きかけた時もあったほどだ。

その思いが実現した。

 

光秀は、武将として飛躍の時が来たと、胸を打つ感動に震える。義昭を室町将軍にする事が天から与えられた使命だと心に固く誓う。

朝倉義景に、義昭の将軍就任の為に動くべきだと懸命に取り次ぐ。

だが、義景は義昭を将軍にするには今、京を支配している勢力を一掃する必要があり、まだ時期尚早と動かない。

 

朝倉義景の優柔不断な態度にいらだつ義昭主従は、光秀に信長との仲介を頼む。

光秀も、今川義元を討ち名を上げ美濃を手中にした信長の活躍ぶりをよく知っており、信長に懸けると思い定める。

義昭からの熱心な支援の申し出を受けていた信長は、光秀の取次ぎに「(義昭を)将軍に擁立する時が来たと思う」と応じた。信長の考えを知った光秀は、喜び勇んで義昭を将軍にすべく策を煮詰める。

 

信長は、独自の将軍擁立策を持っており、準備していた。

それには、信長の意向に沿って義昭と取り次ぐ人材が必要であり、光秀は適任だった。

義昭家臣では信用できない。直臣になるようにと言う。

道三に仕えた光秀だ、軍事に詳しく、心動いた。

それでも、義昭を将軍とすることが第一と信長に願い、義昭に仕えつつ、信長に仕える。

 

一五六七年、光秀は家臣と共に、信長の用意した岐阜城下の屋敷に入る。

実質、信長直臣として働き始めたのだ。

玉子は、四歳。母凞子(ひろこ)と家族、家臣と共に屋敷に入る。皆、故郷に戻った喜びに包まれ元気よく移り住む。

 

ここから、光秀は、信長家臣として義昭を将軍にすべく働き、翌年、信長は義昭を奉じて上洛した。

光秀四〇歳、義昭の将軍就任に果たした役割に、自分ながら満足した。

この間、義昭に従っていた家臣団と親しくなる。特に、細川幽斎(ゆうさい)とは、意気投合した。

 

明智家は、京に在する時が多かった為、文人としての教養も備えている。

光秀も、幼い頃より茶道や華道、短歌、俳句を学び、才能豊かでそれぞれに精通した文化人となっていた。

母凞子(ひろこ)は、岐阜城下に落ち着くと、玉子らを明智家に繋がる縁戚・学者に会わせ、文化教養を学ばせた。

 

こうして、玉子は信長に目をかけられた武将の娘として、贅沢に明智家の家風を体現する女人として育つ。

父の文化的素養を受け継ぎ、幼い頃から文学をはじめ、茶道・華道などに興味を持ち、一流の文化教養をすばやく身につける賢さを発揮し、父母を喜ばせた。

また、類まれな美貌が注目されていく。

玉子は、知性が輝き、明るく素直で自信に満ちた、光秀の自慢の娘となる。

 

信長は京に政権を樹立した。

その功は光秀が大であり、その後の戦いぶり忠勤ぶりも気に入り一五七一年、光秀に滋賀郡(約五万石)を与える。ここで、光秀は、琵琶湖の湖畔に居城、坂本城(滋賀県大津市)の築城を開始する。

 

これは織田家中を震撼させた。信長に仕えてわずか四年で、家臣の中で最も早く一国一城の主となったのだから。

信長の能力主義の表れであり、長年仕えた譜代だからと、うかうか出来ないと重臣のそれぞれが肝に銘じる。

信長が褒めた光秀は異例の出世をしたのだ。

光秀も良き主君に巡り合えたと幸運に感謝し、取次ぎ能力、行政手腕が冴えていると自分自身を褒める。

 

玉子は、父が誇らしく、父母姉弟と共に弾む思いで坂本城の築城を見守る。

一五七二年、玉子九歳は、一族と共に坂本城に入城した。

以来四年、一五六九年生まれの弟、光慶のはしゃぎ声を中心に、母、凞子(ひろこ)の元、幸せな家族の暮らしがあった。

 

だが、義昭と信長の対立が表面化する。

光秀は、出来得るならば避けたいと思っていたが、義昭の信長への不満・将軍として何もなし得ない苛立ちを側で見ており心構えはしていた。

迷うことなく信長に従い、義昭派の切り崩しに掛かり、義昭の側近を信長方に調略していく。

信長も褒める成果を挙げた。

 

中でも、旧知の細川幽斎(ゆうさい)の説得に必死になり成功する。

一五七三年、細川幽斎(ゆうさい)は、信長に従い、義昭と離れる。

信長は細川幽斎(ゆうさい)を家臣とし、桂川の西、山城国乙訓(おとくに)郡(京都西部)長岡(長岡京市)を与えた。

以後、幽斎(ゆうさい)は、長岡姓を名乗り、明智勢に従う与力として信長のために戦う。

 

城持ちとなっても織田家では新参の光秀は、重臣の中では軽く扱われた。

織田家重臣として一派をなすために、影響力の持てる有力家臣団を形成する必要があった。

美濃勢を束ね一定の家臣団を作ったが、とても、織田家重臣の一角を占める家臣団ではない。

その為に、名家、細川家との親密な関係は、価値があった。

義昭が京から追放されると、伊勢貞興ら伊勢一族や諏訪盛直など義昭旧臣を召し抱え、家臣団の層を厚くし、信長重臣の地位を固めていく。

 

光秀は、信長の命令に従い、比叡山焼き討ちから、浅井氏・朝倉氏滅亡まで、戦勲を上げ続けた。

そして一五七五年、義昭支持者が多く、反信長の勢力の強い丹波攻略を任される。

光秀は、細川幽斎(ゆうさい)や川勝継氏ら丹波衆を与力として従え丹波平定を目指す。

二、玉子の兄弟姉妹

翌一五七六年、母、凞子(ひろこ)が亡くなる。明智家の未来は輝いていると、誰もが思っていた時だった。
玉子は一三歳、大切な母の死に衝撃を受けるが「大人の女人として母の死を受け止めなくては」と気丈に振舞う。

 

凞子(ひろこ)には五人の子がいる。

先妻の子で凞子(ひろこ)が育てた長女、倫子は、摂津一国を領する荒木村重の嫡男、村次に嫁いだ。

信長は、村重に摂津一国を任せるほど高く評価した。

凞子(ひろこ)は良縁だと小躍りしながら嫁がせた。

 

凞子(ひろこ)の死後、一五七八年、光秀の盟友となるはずの村重が信長に背く。

この時、倫子は離縁され明智家に戻り、いとこの明智秀満と再婚する。

秀満の父は、光秀の父と共に、義龍と戦い亡くなった。

 

次女は、いとこの明智光忠を婿養子に迎えた。

長らく嫡男に恵まれない光秀が後継者の含みで迎えた。凞子(ひろこ)との第一子であり、明智家を継ぐ娘だ。

 

三女、玉子と細川忠興との婚約が決まっていた。

「おめでとう。天にも昇る嬉しさです。これで安心して、逝けます」と病が重くなった母の口癖となる。

 

母、凞子(ひろこ)は、越前の屋敷で忠興の父、細川幽(ゆう)斎(さい)に対面して以来、親交を深め、藤孝の妻、麝香(じゃこう)とも親しくした。

細川幽斎(ゆうさい)こそ、明智家を支える光秀の盟友になると信じた。

幽斎(ゆうさい)も凞子(ひろこ)と思いを同じくして、嫡男、忠興と玉子との結婚を望んだ。

そこで、光秀が信長に願い出て、了解されたのだ。

 

四女は織田一族、津田信澄と婚約した。

凞子(ひろこ)は「信じられない嬉しさです。信長様の一族になるのまで見届けられるとは。ありがとう」と涙した。

 

嫡男、光慶は七歳で気がかりだったが「次女に任せれば安心」と言う。

「つらい日が続きましたが、父上(光秀)の力で皆を立派に育てることが出来ました」と光秀に満足の笑みを残して逝った。

 

間もなく父は、三度目の妻を迎え、次男、十二郎・三男、乙寿丸をもうける。

 

玉子は、忠興との結婚を望み婚約を喜んだ母、凞子(ひろこ)の面影を胸に、死後二年間、明智家の姫として恥ずかしくない教養をつけると必死で学び、新しい母の元、嫁入り支度を整え、一五七八年結婚する。

 

玉子と夫、忠興は同い年の一五歳同士。

両家とも、岐阜城下に屋敷があり、二人は、今まで、儀式で顔を合わせており、美男美女で似合いだとのうわさが立っていた。

光秀が望み、申し出て、信長が婚約を命じたのだが、お互いが待ち望んだ結婚だ。

 

光秀も、六才下の細川幽斎(ゆうさい)を出会った時から高く評価した。

細川幽斎(ゆうさい)は、光秀の取り次ぎで信長の家臣となり、信長家中では光秀より格下になる。

玉子は幽斎(ゆうさい)から「(信長重臣で直属の上役、光秀の)姫を嫡男の嫁に迎え、光栄だ」と感謝された。

 

三、光秀、謀反

玉子は、上役の姫として、うやうやしく細川家に迎えられた。

細川家中の羨望の目を受け、夫のまぶしそうに見つめる目を心地良く感じ、細川家の人となる。

 

細川幽斎(ゆうさい)は、博学多才の教養人だった。

剣術等の武芸、和歌・茶道・連歌・蹴鞠等の文芸、さらには囲碁・料理・猿楽などにも造詣が深い。

剣術は塚原卜伝に学び、波々伯部貞弘・吉田雪荷から弓術の印可を、弓馬故実(武田流)を武田信豊から学ぶ。

また、公家、三条西実枝に古今伝授(こきんでんじゅ)(古今和歌集の解釈を秘伝として受け継ぐ)を受け、その子・三条西公国、さらにその子・三条西実条に伝授するまで、和歌の二条派の正統をも継承した。

 

玉子は幽斎(ゆうさい)の持つ深い学識に憧れ、結婚後は教えを受けると、わくわくしながら嫁いだ。

幽斎(ゆうさい)は、長岡に勝龍寺(京都府長岡京市)城を築き居城としており、玉子は、勝龍寺城で幸福な新婚時代を過ごす。

美男美女の二人は、はためもうらやむほどの仲のよさだった。忠興は少々神経質だが、玉子は満ち足りていた。

 

結婚の翌年一五七九年、長女、長姫が生まれた。

生まれた時、忠興は戦いが続き、戦勲を上げるのに全神経を集中していた。

長姫が生まれたのも知らないほどだ。その為、玉子は長姫の養育を任され、子を育てる母の喜びを味わう。

 

翌一五八〇年、嫡男、忠隆が誕生。

玉子得意絶頂の時だ。妻として成し遂げた感涙に咽ぶ。

 

玉子との結婚で細川家は明智一門となり、光秀の丹後侵攻を共に担う光秀勢の主要な一角を占める。

だが、信長は、丹波攻略が進まないとイライラしていた。

当初、かっての丹波守護、細川氏一門である幽斎(ゆうさい)に丹波平定を任せたが成果が上がらず、やむなく光秀に任せた。

だが、光秀も時間がかかった。

そこで、忠興・玉子の結婚により光秀・幽斎(ゆうさい)の結びつきを強め、丹波攻略を急がせたのだ。

信長の狙い通り、総大将、光秀、副将が幽斎(ゆうさい)は、協力し勢いがつき、丹波攻略は進んだ。

 

玉子が嫡男を生み、喜びに浸っていた頃、細川勢が丹後守護、一色氏との戦いで、反撃され追い詰められる。

細川氏と一色氏とは共に将軍に仕えた同僚で幽斎(ゆうさい)が降伏を呼びかけていたが、一色の急襲に合い危機となった。

そこに、総大将、光秀が、驚くほど速く駆け付け、勝利する。

 

この勝利で形勢は逆転し、光秀勢は丹後(京都府北部)南部を平定し、主戦力を担った幽斎(ゆうさい)は信長から丹後南半国(加佐郡・与謝郡)を得る。丹後北半国は降伏した一色氏に与えられる。

ここで、細川家居城は、宮津城(京都府宮津市)となる。

 

玉子も、夫と子たちと共に宮津城に移る。

玉子は、光秀の後ろ盾で大きくなる細川家を見続け、胸いっぱいの幸せを堪能した。父が大好きだった。

父が、玉子の為に細川家の飛躍を願い、手を貸していたのを、よく知っており嬉しい。

 

また、夫の戦いぶりも見事で、目の覚めるような凛々しい勇猛な武者だった。

良き夫を持った幸せが、日々あふれ、細川家の人となっていく自分の姿に自然に笑顔がこぼれる。

 

光秀は、一五七八年から丹波攻略の拠点とし、丹波・丹後・但馬、平定後は政庁にすると丹波亀山城を精魂込めて築いていた。

次第に、城下町に、賑わいが生まれ、光秀の居城にふさわしくなっていた。

光秀の丹波に賭ける思いに応えて信長は、丹波一国(約二九万石)を加増し、坂本と共で三四万石を与える。

 

そして、丹後の長岡(細川)幽斎(ゆうさい)、大和の筒井順慶等の近畿地方の織田方大名を与力として付けられる。

こうして、光秀が直接支配する丹波、滋賀郡、南山城と与力大名を含め、近江から山陰へ向け畿内(近江・山城・大和・丹波・丹後)方面軍が成立する。柴田勝家の北陸方面軍にも匹敵する勢力となる。

信長のなくてはならない重臣になったと、光秀は誇った。

 

だが、信長が天下平定を目前になると、畿内は安定し、光秀のすべきことはなくなる。

そこで、信長は光秀に、独自の四国覇権主義を貫く長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)を抑えるよう命じる。

長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)の妻が、光秀の筆頭家老、斎藤利三の妹であった縁からだ。

だが、光秀は信長の望む説得は出来ず、信長は三男、信孝を総大将に四国征伐を決める。

 

また、荒木村重一派を、順次捕え、処罰していたが、村重を捕らえることはできなかった。

信長は、村重と光秀の娘の結婚を取り持ったにも関わらず村重を離反させたのは、光秀の責任だと考えた。

 

ついに、信長は、光秀に「丹波、山城、坂本などの領地を召し上げる。代わりに毛利の所領を与える」と告げた。

その上で、中国攻めの仕上げに入った秀吉を支援し、戦うよう命じる。

光秀は、精魂込めて治めた丹波を離れることは、耐えられなかった。

丹波亀山城は、坂本城以上に愛着があった。

 

丹波平定以降、光秀は信長の為に良かれと働いた労を認められず、反対に、気分を損じさせて叱責されることも度々だった。

信長との意思疎通が微妙にずれ、かみ合わなくなっていたのだ。

 

光秀は、信長重臣としての将来に絶望した。秀吉配下は、嫌だった。

ここで、我が道は、自ら切り開くしかないと決意する。信長に勝るとも劣らない能力だと自信があった。

 

一五八二年、光秀は、信長を本能寺で倒す。

信長を倒し天下人となり、盟友、藤孝・忠興父子や、京や丹波で培った武将と共に、新しい政権を作ろうと決意しての行動だ。

筋書き通りに事は進み、それぞれに加勢を求める。

 

しかし、幽斎(ゆうさい)・忠興父子は光秀の誘いを拒否した。

光秀は、一番頼りにしていた盟友に裏切られる。

 

玉子もすぐに本能寺の変の詳細を聞く。父ならばありうると思う。

父は天下人足らんとしている節があった。

 

玉子が嫁いだ細川家だ。必ず父に加勢すると信じていたが、光秀の申し出にまったく動じなかった。

明智家と細川家は運命共同体だと信じていた玉子は、驚き必死で、夫、忠興に父への加勢を頼む。

だが、忠興は無視した。

玉子は両家を結びつけたはずの自分の存在が、まったく意味を成さない幻想だったと、打ちひしがれる。

 

その後、光秀は秀吉と山崎(京都府乙訓(おとくに)郡大山崎町)で戦い、敗れる。

光秀の本陣は、玉子が忠興と新婚生活を送った勝龍寺城だった。

玉子は、父が幽斎(ゆうさい)・忠興と共に新しい時代を築こうとしたのを、ひしひしと感じる。

 

だが、忠興は、光秀を見殺しにした。

光秀は、山崎での敗戦後、居城、近江坂本城に戻り再起を期そうとするが、落ち武者狩りの連中に、あっけなく殺される。

 

この時、幽斎(ゆうさい)が、光秀との関係を絶った証として、剃髪して隠居し幽斎(ゆうさい)と名乗り、家督を忠興に譲った。

幽斎(ゆうさい)が、光秀を主君殺しの反逆人だと高々と意思表示したゆえに、光秀は縁ある他の有力武将から見放され無残に敗れたのだ。

 

光秀は、天下人として力を奮うことなく、五四歳で亡くなる。

次いで一族も坂本城を死守し、滅ぶ。

 

四、玉子、幽閉

玉子は幽斎(ゆうさい)・忠興の冷たさに強い衝撃を受ける。

特に、夫、忠興には、光秀に加勢しなくても、玉子への愛で光秀らを助ける努力をして欲しかった。

そして、武士として潔い最後をさせて欲しかった。父の死の様子は、聞くに耐えない惨さだった。

忠興は、父を裏切ったと生涯、肝に銘じる。

 

幽斎(ゆうさい)・忠興は、謀反人、光秀の影響を最小限に抑えるために必死だった。

玉子は唖然とする。

玉子を迎えたことに感謝し良き嫁と話した義父、幽斎(ゆうさい)は、光秀とは一切の関係がなかったかのようにしているのだ。

父の思いはよくわかっていたはずであり、止めようとすれば出来たかもしれない義父の変わり身の早さに息をのむ。

 

だが家中は「殿の隠居だけでは許されるはずはない」とあわて収まらない。

重臣は、玉子を何らかの形で切り捨てなければ、細川家により大きな困難が降りかかると決めた。

玉子を愛する忠興は「離縁しない」と宣言し、玉子の身を隠す事に同意した。

 

玉子は、側近、小侍従・清原マリアから、家中の騒ぎを聞いた。

細川家の仕打ちに抗議し、光秀の娘として父と共に、死ぬ決意を固める。

それでも、夫、忠興は玉子を守るはずで、子達の為に今の暮らしを続けたいとも思う。

だが、幽閉が決まる。

 

「ほんのひと時の辛抱」との忠興の言葉を信じ、味土野(みどの)(京丹後市弥栄町)へ旅立つ。

まだ一九歳だったが、忠興との幸せだった結婚生活は終わったのかもしれないと思え、寂しかった。

 

尼寺での隠棲だと思い出立したが、玉子のために急ごしらえで屋敷が築かれていた。

築かれたのは、玉子が侍女と共に住む「女城」と、向き合うように警護の兵で固めた「男城」だ。

「男城」は玉子の警護の為だが、玉子の動きを厳重に監視するための屋敷でもあった。

玉子は秀吉の追及から逃れる為に身を隠すと考えていたが、自分は信用されておらず監視されるのだと知る。

 

こうして、玉子は自由に屋敷外に出る事も出来ず、人を呼ぶ事も出来ないまま山深い地の丘の上に築かれた屋敷で、二年近く、孤独の中で住む。

 

玉子は味土野(みどの)に着いてまもなく妊娠を知る。父、光秀が、無念の最期を遂げた頃、忠興に抱かれ身ごもったのだ。

心と身体は別だと呆然とし、笑える。

父の生まれ変わりだと、出産の時を待ちわびる。翌一五八三年、興秋(おきあき)が生まれる。

 

結婚の時、明智家から付けられた乳母、小侍従と幽斎(ゆうさい)が付けた縁戚の清原マリアが侍女筆頭の老女として変わらず従い、他に侍女数名が、玉子に従っていた。

忠興から、興秋(おきあき)の乳母・侍女が送られて来た。

 

玉子は小侍従・清原マリアを通じて、連絡を取りたい人と文をやり取りし、世の移り変わり、情勢の変化を知る事しか出来ない日々だ。

 

琵琶湖畔の坂本城(大津市)、豊かな水をたたえる堀が巡る勝龍寺城(京都府長岡京市)、天橋立を望む海辺にある宮津城と開放的な城で育ち、暮らした玉子にとって、屈辱的な待遇だった。

 

そして、本能寺の変の詳細、父母・兄弟姉妹すべてが亡くなったことを知る。

姉、倫子は、夫、秀満と共に亡くなる。甥、三宅重利(母の姓を名乗る)は生き残る。

 

もう一人の姉も夫、光忠と共に亡くなる。娘、小ややが残る。

 

妹と夫、津田信澄も亡くなった。遺児は、昌澄・元信。

まもなく、秀吉が、連座はなかったと赦した。

 

幼い弟たち三人は殺された。

 

玉子は、光秀に加担しなかった細川家におり、連座を問われる立場にはないと思う。

 

光秀筆頭家老、斎藤利三の嫡男、利宗は明智勢として果敢に戦った。最後に逃げ降伏したが、出家することで助けられている。後の家光乳母、春日の局の兄だ。

 

秀吉は、信長亡き後の政権作りに燃えていた。

ただ、織田家筆頭家老、柴田勝家を倒さなければ、信長の後継者にはなれない。

光秀勢となったすべてに過酷な制裁を加えると、追い詰められて柴田勝家に取り込まれる可能性があった。

秀吉は、敵方に廻る事のないよう、細心の注意を払い、過酷な制裁は避けているのだ。

 

また、信長の妻、濃姫も健在だ。

信長を受け継ぐと自称している秀吉であり、濃姫は主君に変わりない。

濃姫は明智出身の母を持ち光秀の従兄弟だ。濃姫は、明智家縁者を庇護し、その頼みには秀吉も応えざるを得ない。

 

玉子は「(幽斎(ゆうさい))秀吉殿に対し、過剰な反応をしている」と思う。

幽斎(ゆうさい)が動かなかった事が、光秀への同調者を少なくし、光秀があっけなく敗れた主因だと確信している。

幽斎(ゆうさい)・忠興は、秀吉への功が大であり、玉子を気にする必要はないはずなのだ。

 

玉子は、裏切り者の妻であるより、信念に生きた父の愛娘でありたいと心に念じた。

細川家が理不尽な扱いをするならば、死を持って応え、父の元に行くと覚悟している。

それでも、夫の愛を信じる妻であり、迎えに来ると信じて、揺れ動く思いの中で味土野(みどの)で待つ。

興秋(おきあき)はあまりに可愛い。残した子たちに会いたくてたまらない。

子たちへ、母としての責任は果たしたいし、父母弟姉妹や一族の菩提を弔いたい思いもある。

 

玉子は「何も悪くない」と叫びたい思いを押さえ、忠興に「戻りたい」との思いを言づける。

秀吉の勝利に貢献した忠興が、玉子を戻したいと思うなら、秀吉・濃姫に願い、味土野(みどの)での暮らしは数ヶ月で終わるはずだった。

 

なのに、警備の兵は変わるが、二年近くも、忠興からの連絡はなかった。

そして、突然、照れたような忠興が現れ「よく我慢した」と話し帰る。まもなく、正式な迎えが来る。

秀吉が信長後継の立場を確立し、玉子を許したのだ。細川家から、願い出たわけではない。

 

五、玉子、再びの暮らし

玉子は、大坂城内にある玉造屋敷に戻った。

夫、忠興や子達と一緒に暮らす、一見元通りの暮らしが始まる。

家中は、親子夫婦仲睦まじく、以前のように戻ったとほっとした。

玉子の激しく一途な性格は家中のだれもが知っており、忠興もよく似ており、心配していたのだ。

 

長女、お長は、五歳になっていた。

二年ぶりの対面にきょとんとしていたが、何か思い出すものがあったようで、そう時間がかからないうちに母子の触れ合いを感じた。分身だと何度も抱きしめた。

忠隆は、四歳。

玉子を覚えてはいなかった。

二年前の母子に戻る為には、何度も涙を流さなくてはならなかった。

それでも、三人の子たちはかけがえのない宝で、生きていてよかった。もっと生きたいと思う。

子たちのはしゃぎ声が、生きる喜びだ。

 

まもなく、居城、宮津城には側室がおり、子が生まれることを知る。

玉子は、言葉にはならないほどの衝撃を受け、激怒する。忠興の重大な裏切りだと責めた。

忠興が、二年間も女人なしに過ごせるとは思わないが、側室とし子をなすことは許すことが出来ない。

玉子に何の相談もなしに行われた裏切りに、忠興の愛を疑う。

 

同時に、立場が変わったことを、まざまざと感じる。

結婚時は、上役の姫として敬われたが、今は、後ろ盾の実家をなくした帰る所のない妻なのだ。

 

秀吉は「光秀を手厳しくはねつけた」と感激し、信長がした以上に忠興を厚遇した。

忠興は、光秀の謀反を知ると、共に丹後半国を治める一色氏を光秀に加担したと攻め滅ぼした。

そして丹後全土一二万石を支配した。

信長から得た領地ではなかったが、秀吉は恩賞として、丹後全域一二万石を安堵した。

後には、幽斎(ゆうさい)の隠居領や大隅国にも所領を与える。

 

玉子は、父、光秀を足蹴にして伸びたのが忠興だと涙を流す。

忠興の秀吉に対するへりくだった態度にあきれ、冷徹な目で見るようになり、愛も冷めていく。

父、光秀は側室を持たず、母への愛を貫き、命をかけて主義主張を貫き通した。

父に比べ、忠興は、優柔不断で、権力に対し卑屈なだけだ。

 

細川家は多くの家臣を抱えており、きれいごとだけでは守れないと知っているが、誠実な態度で説明するべき重大なことだと思う。

忠興の玉子をないがしろにする独断専行に、吐き気がした。

 

細川家は、室町幕府足利将軍家の一族で、管領(かんれい)として幕政を左右する力を持ったこともある名門だ。

だが、室町幕府の凋落と共に、家中の内紛も続き力を落とした。

京を征した信長は、細川家嫡流、京兆家(けいちょうけ)を義昭追放後の足利将軍家を継ぐ家とし妹を当主、細川晴元と結婚させ信長一門とし、支配下に置いた。

存続させるべき細川家は、それで充分だった。

 

幽斎(ゆうさい)は、和泉守護を代々勤めた和泉上守護家の当主で、特別取り立てる必要のない分家と見なした。

忠興は、将軍側近の奥州細川家の家督を継いだが、両家とも細川家分家に過ぎないと、信長は家柄ではなく武将としての力で判断する。

 

幽斎(ゆうさい)も、家系より武将として評価される為に戦勲を上げるしかないと悟る。文人としての才が際立っていた幽斎(ゆうさい)には不本意な事だが。

それでも、光秀の後ろ盾で戦果を上げ、丹後南半国を得た。

 

忠興は、光秀に武将としての戦い方を学び、戦上手と言われるまでになっていた。

常日頃「義父殿は素晴らしい。尊敬している」と玉子に話した。玉子は忠興と父、光秀の話題で盛り上がり、至福の時を過ごしていたのだ。

実際、忠興と光秀は、父子のように見えるほど仲が良かった。

 

だが、幽斎(ゆうさい)や忠興は、光秀の出世の伸びが止まり頭打ちに陥った、と注視していた。

そんな時の本能寺の変だった。

 

玉子が玉造屋敷に戻って以来、忠興は光秀の話を一切しなくなった。

玉子は、細川家が今日あるのは明智家ゆえだと、ゆるぎない信念を持っている。

臆することなく玉子や明智家に対する理不尽な扱いに抗議する。

謀反人の娘としてひっそりと暮らすことを望む忠興には、困った存在だ。

 

その為、忠興は、目の届く屋敷内に居るようにと、玉子に外出を控えるように命じる。

静かに従う玉子ではなく、秀吉の妻、ねねや、本能寺の変が起きるまで親しくしていた大名家の女人との付き合いは続ける。

それでも、直接会いに行くことは避けて、侍女を通じての付き合いとし、時には、招いてお茶席など催す。

 

忠興の愛は変わっていなかった。

美しい玉子を熱い目で見つめ、屋敷に在するときは、夜ごと玉子を訪れ、共に過ごした。

だが、玉子は側室、藤の方が子を生むと知ると、忠興を許せず受け入れる事は出来ず、忠興を避けた。

 

秀吉の評価の高い忠興は、軍事にも政治にも冴えた力を発揮し、来客も多かった。

玉子も、細川家への正式な来客には、思いを押さえ、忠興と共に正室として会い、公式の場にも出る。

玉子は、天下人、秀吉の信頼を得るためには、細川家中が藩主の元一丸となるべきだと考えており、内紛を起こす事に通じる仲違いはすべきでないと、細心の注意で、にこやかに応対した。

 

忠興には、才色兼備の自慢の妻であり、気品が漂い教養が溢れる申し分のない妻だ。

皆に見せ付けたい思いも強い。玉子も、その思いに応え、輝く笑顔で寄り添う時もあった。

 

玉子は多弁ではないが、発する言葉に心地よい響きがあり、聞く人を魅了する。

的を得た会話に、細川家の女主の風格が出てくる。

 

そして、藤の方の生い立ち生き様を知る。

姉、倫子に仕えた摂津衆の娘であり、倫子が共に死ぬことを許さず、逃したのだ。

秀吉に仕えた父、郡宗保(こおりむねやす)の元に逃げたが、郡宗(こおりむね)保(やす)が共に義昭に仕えた亡き三淵藤英(みつぶちふじひで)の弟、幽斎(ゆうさい)に預けた。

そこで、忠興に出会ったのだ。

 

姉、倫子のつらく悲しい生きざまを見つめた藤の方だった。玉子は、認めざるを得ない。

藤の方を理解すると、忠興の強引な愛の言葉を受け入れることが出来るようになり夫婦の暮らしが戻る。

 

一五八六年、三男、忠利が誕生。

細川家後継も万全となり、玉子は誰気兼ねなく、子達を甘やかしたり厳しくしたりと子育てを楽しむ。

忠興との仲も、一見平和になっていく。

忠興へのわだかまりを消すことはないが、

 

玉子は国元に行かなかった。

秀吉が主だった大名に大坂城下に妻子と共に住むことを望み、国元との行き来は秀吉の了解を得れば出来るが、玉子は玉造屋敷を動かない。

玉子は、家政を仕切ることは苦手だった。文人として学び、憩うのが好きで、父の悲劇を思うと、政治は嫌いだ。藤の方は顔を合わせたくない女人でもあり、競いたくもなく、国元は任せた。

 

玉子には、すべき大切な仕事があった。

明智家の復権であり、生きている甥姪の安寧な暮らしだ。

 

長姉、倫子と明智秀満の間に生まれた子、三宅重利を引き取りたいと忠興に願うが応えず、一五九三年、ようやく、忠興は同意した。

だが、重利は忠興の冷たい待遇に怒り、父、秀満の家老を頼り、唐津藩に仕える。

そして、天草を統括し一万石を得る。

 

次姉と明智光忠の間に生まれたのが、姪の小やや。

幼い時に引き取り、玉子が育てる。

 

妹と津田信澄の間に生まれた昌澄・元信。

彼らの祖母が池田家当主、輝政の母、荒尾御前だ。

秀長重臣となっていた藤堂高虎はかって信澄に仕えていた。

そこで、池田家・藤堂家が後見し、育てるが、玉子も密やかに援助する。

 

玉子は、甥姪にとって一番近い親戚であり、皆を引き取りたいと忠興に再三頼んだ。

だが、忠興は渋った。

光秀との縁を深めることは、細川家にとって不利益だと判断したのだ。

ただ、女の子の小ややを引き取ることには、反対しなかった。

 

この時も、玉子は、忠興の冷たさをなじった。

甥たちとの意思の疎通は難しかったが精一杯庇護した。その思いを子たちが見ている。

手元に置いた小ややは玉子を母と慕う良き娘に育つ。

甥への想いが実らず、申し訳なく、忠興への怒りを抑えられない。

 

玉子のもう一つのなすべき課題は、キリスト教を学ぶことだった。

キリスト教は当時、新しい文明文化をもたらすものと捉えられ、多くの知識人の興味を引いていた。細川家中にも興味を持つものは多い。

 

清原マリアは敬虔なキリシタンだった。

玉子は、味土野(みどの)で清原マリアからキリスト教について知り興味を持った。

 

キリスト教が教える世界は魅力的だった。

新しい文明・文化を知り、珍しいもの、技術的に優れたものも手にする。父、光秀が大好きだった世界だ。

キリスト教は世界に通じ広がっていた。価値観・教義も共感できることばかりだった。

 

一五八七年、関白となり京で政務を執ると決めた秀吉は、聚楽第を築き移る。

忠興らにも聚楽第近くに屋敷地が与えられ、忠興は聚楽第屋敷を建て、細川家の主な屋敷とし移る。

玉子は動かなかった。

多羅姫を身ごもっており、忠興も了解した。

以後、忠興は丹後宮津城・大坂玉造屋敷・京聚楽第屋敷を、後には伏見屋敷を、その時その時に応じて移る。

 

玉子は、忠興と共に過ごすことが少なくなった。

玉造屋敷の奥を守り、来客をもてなし、子育てに追われるが、自分の自由な時間もある日々となる。

忠興が側に居れば、玉子の行動すべてに干渉する。玉子への愛ゆえだが、自由に動けず、息苦しかった。

聚楽第の屋敷に、忠興が移り、ほっとする。

思う存分に、探究心を満たす学びの暮らしとなる。

キリスト教の教義を夢中になって学び、心踊り新しい知識を吸収する。子達にも未知なる世界を面白く語る。

 

一五八八年、三女、多羅姫が誕生。

難産だった。それでも無事生まれ、ほっとすると同時に「もう子は欲しくない」と思う。まだ二五歳だった。

 

忠興との埋め難い考えの違いが見えたからでもある。

情熱の人であり、理想に生きる玉子には、現実の権力闘争に明け暮れていると思える忠興を醜く感じてしまった。

藤の方の存在で、夫婦仲が悪くなったのではない。

忠興は、キリスト教を夢中になって学ぶ玉子に反対はしなかったが、良い顔はしない。

 

そして朝鮮の役が始まる。秀吉は秀次の弟、秀勝の後見を忠興に任せた。

忠興に支えられた秀勝は、手柄を立てるようにとの秀吉の励ましの言葉に送られて朝鮮に出陣した。

 

まもなくの一五九一年九月二二日、秀吉は、最愛の子、鶴松を亡くす。

秀吉は、あまりの悲しみに投げやりになって隠居すると言い、関白を秀次に譲り聚楽第を明け渡すと決めた。

隠居城、伏見城の築城を始める。

伏見城完成まで秀吉は、大坂城を居城とした。

 

続く、一五九二年一〇月一四日、忠興は、預けられた総大将格の秀勝を亡くしてしまう。やむを得ない病死だったと報告され追及は免れるが秀吉の心証は悪い。

続く晋州城(しんしゅうじょう)攻防戦でも城を落とせず、秀吉の評価は下がった。

 

秀吉に従い、忠興も名護屋城から玉造屋敷に戻り、玉子の側にいることもあった。

この時、玉子は忠興の苦悩を見る。

忠興は、秀吉から思うほどには評価されないといらだっていた。

光秀を裏切り、父、幽斎(ゆうさい)から家督を譲られたが、期待されたほどには細川家を大きくすることも、秀吉からの信頼度を増すことも出来ず、納得できない日々が続いた。

 

玉子も父を裏切った代償がこれかと時には嘲笑するが、心労を痛いほど感じ、労わりの言葉を優しくかける時もある。忠興には玉子の言葉が皮肉に聞こえ、喧嘩の種になることも多いが。

 

忠興も智謀にあふれた名将だ。じっと我慢はしていない。

秀吉後を見越して関白、秀次との付き合いを深めていく。

 

一五九四年、伏見城に秀吉が入城し、城下に細川屋敷も出来る。

秀吉の側近くの屋敷に忠興は移り、玉子にも移るように言うが、玉子は玉造屋敷を動くことはない。

 

すぐに、関白、秀次の筆頭家老、前野長康の嫡男、長重に長女、長姫一五歳を嫁がせたいと、秀吉の了解を得る。

長康と共に、秀次を支えると決めたのだ。

続いて、北野松梅院、禅興の娘、おさこの方を秀次の元に送る。

長康が取り次ぎ、秀次お気に入りの側室になる。

 

おさこの方の姉が、細川家家老、小笠原秀清の妻だった縁だ。

秀次との取次ぎをし、性格好みを知る小笠原秀清が、際立った美貌の秀次好みの女人だと自信をもって推し、忠興も納得し送り込んだのだ。

 

菅原道真を祀る北野天満宮の祠官、北野松梅院、禅興は、秀吉・秀次の庇護を受け、親しい付き合いだった。

おさこの方は、翌一五九五年、秀次四男、十丸を生む。

忠興は、おさこの方の後見人として、秀次との縁を一層深める。

 

だが、秀次は秀吉により謀反の疑いをかけられ、妻子その他多くが殺された。前野長康・長重も切腹だ。

おさこの方母子も処刑された。

長姫も出頭を申し渡され、忠興も連座を疑われる。

 

玉子は驚き、命に代えても長姫を守ると忠興に迫る。

忠興は、筆頭家老、松井康之に策を任せる。

康之は、細川家・長姫と秀次の行状には一切の関係はないと事細かに証拠を挙げて弁明し、秀次からの借り入れも家康の資金援助を得て素早く清算し、難を逃れ、長姫を守り切る。

 

長姫は母、玉子と同じく味土野に身を隠し、後、出家した。

玉子は、長姫が不憫でならなかった。このような目に合わせた忠興を憎む。

 

玉子は、伏見屋敷に移るのを拒否し、決意した。

手塩にかけて育てた姪、小ややを伏見屋敷に送り、忠興に仕えさせると決めたのだ。

小ややに忠興が好きなことや難しい性格についてあれこれを教え「(忠興の)身の回りの世話をするように」と厳しく命じた。

小ややは、玉子の言葉を忠実に守る。

忠興の側室となり一五九八年、四女、万姫・四男、千丸の双子を生む。その後、五女、お市と三人の子を生む。

伏見屋敷の奥を守る。

 

玉子、三五歳、藤の方と小ややに細川家の奥を任せ、妻としての役割を終えた。

すっきりした気分で、細川家・子達の行く末に目を配りつつ、心置きなく宗教を深めるべく突き進む。

 

六、洗礼を受ける玉子

玉子が洗礼を受けたのは、多羅姫が生まれる前年、一五八七年だ。

光秀の娘として大きな心の傷を負った玉子は、心の平安を保つには信仰心が必要だった。

 

玉子の信仰心は、味土野で、清原マリアと話し芽生えた。

清原マリアは、義父、幽斎(ゆうさい)の母の実家、公家の清原家の出身であり一族に信者も多い。

京の知識人の間では、新しい文化技術をもたらすのがキリスト教だと興味を持たれていたのだ。

 

玉造屋敷に戻ると、玉子は清原マリアらに連れられて密かに教会を訪れ教会・神父・教えを自分の目で確かめる。

何事も自分の目で見て、学び、納得しなければ前に進まない慎重な性格だ。

そして、新たな興味が生まれ、探求していく。

玉子主従で、熱心にキリスト教を学ぶと、侍女達も敬虔なキリシタンになっていく。

 

秀吉の禁教令が発令されることを知ると、宣教師が大阪を退去させられるかもしれないと思う。

その前に洗礼を受けると決めた。

秀吉の禁教令は、宣教師の布教活動の制限・国外退去だった。だが、外国商人による南蛮貿易は認め奨励しており、商人と宣教師の見境が付かない。結局、形だけで終わる。

 

まず、清原マリアや侍女たち一七人が大坂教会で洗礼を受けた。

その上で、屋敷を出ることのない玉子が、屋敷内で洗礼を受け、ガラシャ(神の恵み)という洗礼名となる。

 

忠興は、偏執的な愛を玉子に抱いており、教会には理解を示しつつも、玉子に危険が及んだり、秀吉の政策とは違う教会への傾倒を利用され、細川家に害が及ぶかもしれないと恐れ、屋敷を出ることを制限した為だ。

 

玉子は、洗礼を受けて覚悟が定まり、思う存分家中にキリシタンとしての影響力を広げていく。

忠興も屋敷内では、認めていた。

 

それでも、この頃から、忠興と玉子の喧嘩が増えていく。

忠興は、完璧主義で引くことを知らず、自分の思いを相手に押し付ける性格だ。些細なことにも、こだわりがあり、つい声を荒げる。

玉子は、繊細な神経ゆえに忠興の言動に傷つき、怒り、反発し、言い返す。そして、険悪な雰囲気になる。

長年連れ添った夫婦であり、臨機応変その場の雰囲気に合わせ、お互いが寄り添うよう心がける時もあるが、亀裂は深くなる。

 

玉子には、深層心理に、忠興は明智家と玉子を裏切り権力に擦り寄ったとの思いがあり、忠興の一言で、瞬時に、笑顔が怒りの顔に変わる。

しかも、裏切りの代償としての利益は、幽斎(ゆうさい)の隠居領や、秀吉に従い戦った九州征伐での恩賞として薩摩大隅の領地など一万石足らず、どさくさに紛れて奪った丹後国以外、信長時代からさほど増えたとは思えない。

細川家嫡流としての権威は吉兆家が持ち続け、忠興はあくまで細川家分家の当主でしかない。

 

後には、秀吉に重用されない忠興に、長姫の想い、甥達の想いも合わせ、非難し続ける。

 

玉子は、諍いを繰り返す夫と過ごす時間よりは、キリスト教を学び祈る時間、来客との会話を大切にしていく。

忠興の友、高槻城主、高山右近や池田家、前田家など秀吉を支える大名やその家族と親交を深める。

 

玉子は、細川家の奥の主として博学多才で存在感があり、細川家と交友のある者は皆、玉子と親しくなることを望んだ。発する言葉に重みがありわかりやすくつい引き込まれる魅力的な玉子だ。

 

次男、興秋(おきあき)三歳に洗礼を受けさせる。

玉子が一番見つめ抱きしめ涙を流したかけがえのない子だ。

忠興の弟、興元(おきもと)の養子となると決まり、離れるまで心を込めて教義を教え、興秋(おきあき)も熱心に学ぶ。

興秋(おきあき)は、幼いながらも玉子の苦しさを感じ、笑顔を振りまくことで、玉子を癒す心優しい子だ。

 

七、輝く玉子

玉子は、子たちをおおらかに、あまり手をかけずに育てる。

近習侍女はいるが、玉子自身で子達の面倒を見ることも多い。それは玉子には嬉しい事であり、思う存分に愛情込め、子達は皆、玉子を尊敬し愛した。

 

こうして、玉子は子達のみならず、細川一族や侍女・家臣・縁者にもキリシタンとして影響力を広げていく。

次男、興秋(おきあき)の養父、興元(おきもと)と玉子は、興(おき)秋(あき)を通じて付き合いを深める。

すると、興元(おきもと)もキリスト教に関心を持ち、より強く結ばれる。

一五九四年、興秋(おきあき)が正式に養子入りする時、迎える興元(おきもと)や奥州細川家家臣五人が洗礼を受ける。

 

一五九五年には、玉子の影響力は広く及び、入信者も増え、玉子の話を聞きたい人たちが増える。

そこで、屋敷内に小聖堂を造る。忠興も認めた。

ここから、誰に遠慮することもなく宗教の道に突き進む。その姿は神々しく、周囲に入信者が増えていく。

末の娘、多羅姫七歳に洗礼を受けさせる。

 

そして、秀次謀反が発覚。

連座を問われた長姫は味土野に隠れる。玉子は、傷心の長姫にキリスト教の教えを説き一五九六年、母を尊敬する長姫は、洗礼を受け、以後、宗教に生きる。

 

義母、沼田麝香(じゃこう)は、いつも変わらず、玉子をかけがえのない嫁と言い、キリスト教に理解を示した。

玉子の死後、受け継ぐように、自ら洗礼を受け細川マリアと呼ばれる。

沼田家は、興元(おきもと)の妻(義母、麝香(じゃこう)の弟の娘)の実家であり、光秀の側近だった進士国秀の妻(麝香(じゃこう)の妹)の実家でもある。玉子は結婚以来、麝香(じゃこう)を母とも思い慕った。

 

玉造屋敷、玉子付き家老、小笠原秀清も影響を受け、キリスト教を理解していく。

小笠原一族に洗礼を受けた者も多く、後には殉教者も出る。

 

玉子は、悲しみもあるが、キリシタンとしての影響力を広げつつ、充実した暮らしを続け、この世に生まれた意味を問い続ける。

それでも、いつも細川家の奥に目を配り、細川家の奥の要としてゆるぎない立場を守るが、細川家でなすべきことは終わったと思い始める。

 

一五九八年九月一八日、豊臣秀吉が亡くなる。

それから二年、玉子の影響力は驚異的に広がり、人生最大のイベントに向け、準備を整えていく。

細川家を大飛躍させるためだ。

 

運命の日、一六〇〇年八月二五日、玉子三七歳で亡くなる。