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影を踏ませぬ男

堀道郎


約 117103

女流画家現れる

その頃、この國は、敗戦の痛手からやっと立ち上がり、まだ危うい足取りではあったが、終戦直後の食うや食わずの頃から少しずつ白い飯も食えるまでに回復してきていた。しかし、まだまだ死に損なった病人がやっと二本の足でよろよろと歩けるようになった頃ともいえた。学校では教科書を真っ黒な墨で塗りつぶす作業を強いられた。毎日毎日、歴史の教科書を墨でぬりつぶした。権力が明らかに違う者の手に握られたのだと思った。今まで、お上から刷り込まれていた情報が、嘘と誤りの塊であったことを厭というほど自覚し、苦々しい思いをしたものだ。相変わらず駐留軍はこの國のあちこちに留まっていた。この國の政治は自立した状態ではなかった。絶えず政争が繰り返され、背後では、常にGHQの支配を受けている状況だった。

 

 

敗戦で落ちぶれ果てた國の経済も少しずつ改善される時が来たが、その反動で極左政党や、労働組合が強くなってきた。東京の三鷹駅では電車が突然暴走した。国鉄総裁が、三越百貨店の本店へ入ったまま行方不明となった。果ては常磐線の北千住、綾瀬間で礫死体となって発見された。組合ともめごとがあった上の自殺だ、とか或いは他殺だとか、いろいろ議論が飛び交った。東京の豊島区長崎の旧帝国銀行椎名町支店に正体不明の人物が突然、訪れ、集団赤痢の予防薬だと称して行員に毒物を飲ませ十二人を殺害するなど不可解な事件が続発した。

 

極東軍事裁判では、東条英機以下、かっての日本の指導者二十七名に有罪判決が下り、うち七名が処刑された。「デス・バイ・ハンギング」という裁判長の甲高い英語が、いつまでも耳の底に焼き付いていた。広島、長崎で恐ろしい数の人間が原子爆弾で殺されても、その記憶さえ、いつの間にか薄れて行くのだ。人間の忘却作用というやつだ。

 

敗戦の混乱が少しずつ納まると、どうしたわけか、公職追放の憂き目にあった人間たちがぞくぞく追放解除になってシャバへ戻ってきたのも何故か薄ら寒い厭な感じを残していた。

 

そんな時、青野哲太郎は、京都の国立大学の哲学科を卒業した。哲学科などという立身出世とはおおよそ縁遠い学科を卒業したが、それも突き詰めた考えから選んだ学科ではない。ただ企業という序列と決まり切った組織の世界に入るのではなく、もう少し世の中のせっぱ詰まったありようから少し離れた所で生きて行けたらと思うことから選んだ学科だった。ただそうはいっても食ってゆかなければなない。東京での就職も考えたが、戦後から十年そこそこを経た東京という所は、関西育ちの青野には、何故か空恐ろしい所のように思えたのだ。そこで青野が得た仕事というのは、敵性語だった英語が好きでいつの間にか、英語に堪能になっていた自分が、京都で生かせる道はないものかと探し求めた結果が祇園という仕組みの世界だったのだ。國は破れたが、この世界だけは、思いの外、健全に生き延びていだ。この世界は、人間の快楽の果てをどこまでも追及する仕組みで、どんな身分の者でも木戸銭さえ払えば、客分としてもてなす、ごく平和に尽くす仕組みなのだ。平和と平等こそがこの仕組みの根幹であった。青野は、それが好みでもあり、そろそろ外人客も多く訪れる時勢となったこの祇園で、彼らを得意の英語でもてなし、その平和な文化を彼らに紹介することを業とする道を選んだのだ。それは、この国でも有数の国立大学を出た男としては、誰もが少々不可解に思う職場であった。大学時代の友人は、みな背広にネクタイを身につけていたが、青野だけは違っていた。着物に袴、髪は放髪、ただ、穿いている靴だけはいつもピカピカに磨きをかけて光っていた。これが青野の仕事上のトレードマークでもあり、青野独特の戦後、極端に欧風化した日本文化に対するアイロニーでもあったのだ。着物は、四季折々に会わせて清潔で高価な仕立て上がりを着ていた。この青野独特のスタイルに長い脇差しでもさせば、それこそ今様坂本竜馬というような出で立ちだった。このスタイルは、青野自身の好みでもあったが、祇園の外人客を接遇するお座敷でのなりわいに、適していることも多々あったのだ。青野の事務所は、南座の脇道を少し下がった路地裏にあった。机と椅子、それにテーブルにソファ、やや大きめの本棚に、一寸した厨房と電話、これが事務所の道具だてだった。出勤時間などというものはなく、取り急ぎの仕事がなければ気の向いた時刻に顔を出すという風だった。しかし、この仕事も長いこと続けるうちに、世の中が少しずつ変り、外人客が増えてきた祇園では、英語で一通り外人扱いができる青野は、結構重宝がられ、何時の間にか食ってゆくのに困る風もなく、そこそこの収入が得られるようにもなっていたのだ。大学在学中に青野は、通訳案内業の資格を取っていた。

 

そんなある日、まだ京都には独特の底冷えの残る日のことだった。寒気が重石のように天から降りてきてずっしりと居座るのだ。四条大橋を行き交う人々は、皆一様に前こごみになって、コートの襟を立て、マフラーを深く首に巻きつけて歩いていた。そんな時、突然、電話のベルがなった。ブルーフレームの火をいつもより大きくし、どっしりと椅子に腰を下ろし、デスクの上で読みさしの文庫本を読んでいた時だった。電話の主は、女性だった。早口で歯切れがよく関西の人間には多少きつく聞こえる東京弁で単刀直入に本論へ入ってきた。その語り口に、青野は、やや戸惑いを感じた。女は、挨拶の言葉もなく、急き込んだように話しかけてきた。

「私、金沢英恵と申しますの・・・」

よくはわからないが、どうやら四十がらみの声ではないかと思われた。

「凡太さんという舞妓さんの絵を描かせて欲しいのです」

見知らぬ人からの余りにも唐突な話だ。しかも凡太の名前を知っているのには青野も少々驚いた。

「その名前、どこからお聞きになりました?」

「例の「穴八」とかいう料理屋さんからですの・・・」

これも青野にとっては驚きだった。

「失礼ですが、「穴八」は、どこでお知りになったのでしょう?」

「主人が「穴八」さんでご馳走になったの。その時、そこの女将さんに凡太さんとおっしゃる舞妓さんを紹介されたんです。凡太さんが主人たちのおもてなしを承っていたんです。それなら青野さんいう方がおられるので、その方にご連絡なさったら、というんです」

たたみかけて来るような女の声だった。こういう喋り方の女は京都にはいないと青野は思った。

「はあ、凡太のことですか?」

「そうです。主人がいうくらいですから、美しい方に違いありません」

 

「凡太」は、祇園甲部の置屋塩瀬」に属している舞妓で、そこから求めに応じてお座敷へ出向いてゆくのだ。

これは祇園独特の仕組みの一つだった。

「穴八」の女将からといえば、それ以上探りを入れることもなかった。

凡太については、青野も日頃から、よく知っている間柄だ。そうかといって不潔な関係ではなく、彼女のもつ舞妓姿は、日本の美の極致ではないかとかねがね思っていた。凡太も、折々、青野の事務所へ息抜きに来ては、電話番や簡単な掃除なども受け持ってくれた。何かと独身者の青野に女らしいアドバイスがあったり、何をおいてもその明るくて若々しい、屈託のない仕種や性格に普段から青野も心にくく思っていたのだ。凡太のことだ、顧客に誠心誠意尽くしたに違いない。

「わかりました。ところであなた様のことをも少しお聞かせ願えませんか?」

「私、女子の美術大学を出まして、二水会に属しております」

この一言で青野は、了解した。二水会といえば、その世界では名の通った絵画集団の一つなのだ。この一言で、相手が信用のおける画家であることがわかった。

「主人が「凡太」さんのおもてなしにすっかり機嫌をよくいたしましてね。あんな美しいおもてなしの心をもった舞妓さんなら、お前の絵に納めておいたらどうだ、と申しますの。私も一生のうちに一度は本格的な日本美の女性を描いてみたいと思いまして・・・」

その言葉にうなづけるものがあった。凡太の美しさや性格を、ごくよく知っているからだ。

「わかりました。それで絵をお描きになる時期は、いつ頃をお望みですか?」

女は、電話の向こうで少し考えているようだった。

「京都の夏は、暑さがひどいと申しますので、桜の時期も過ぎた春も終わりの頃はいかがでしょう?

秋は絵の具の乾きがよいので、秋ということも考えたのですが、秋は秋でモミジなども見頃になり御地は、さぞご多忙になられるでしょうから・・・」

「わかりました。早速、「凡太」の都合などを聞いて、またお電話いたします」

これには先方も了解し、青野に自宅の電話番号を教えてきた。そこで青野は、電話を切った。電話を切ってから青野は、事務所の書架から美術年鑑を取り出してきて、二水会の「か」の項をめくり、金沢英恵の項を探り出した。

 

昭和十九年、女子美術大学卒、二水会所属、油彩画家。一号は推定二千円。住所は、東京都世田谷区代田二丁目六八一とある。

 

当時、青野の大学でサラリーマンになった同僚の月給が一万円そこそこの時代だった。それと比較すれば、号二千円というのは、決して劣る金額ではない。ましてや女流画家のことだ。かなりの評価を受けている画家ということになる。金沢英恵の身元は、まず間違いないと青野は思った。青野は、早速、「塩瀬」の女将へ電話した。

「青野せんせ、またとないええ話どすわ。凡太も喜ぶに違いおおへん」

「塩瀬」の女将は、二つ返事で承諾してきた。

凡太にはよい記念になるし、異存はないのた。そして絵を描く場所については、

「うちは、汚い部屋ばかりですねん。「穴八」へ頼んでみます」とのことだった。

 

その結果、五月も上旬の十日間、午前十時から昼の時間を一時間除いて三時まで、料亭「穴八」の築庭に面した一階の十畳間を提供するというのだ。この部屋は、廊下を隔てて築庭からガラス戸を通して外光が入るが、全体的には、暗い部屋だ。

「穴八」でもごく懇意な客を接遇したり、顧客同士が内輪の用談に使用する部屋だった。

部屋は少々暗いので別に照明を用意することにした。凡太には青野から詳しい話をすることになった。凡太は、青野のことなら大方了承するだろうと思われたからだ。二人の関係は、そういう位置づけにあった。話はトントン拍子に進んだ。

 

 

不思議な会合

その日の午後、凡太がやってきた。青野が友人に手紙を書いている時だった。そこへ、ヒラリと事務所のドアを開けて入ってきた。凡太は、稽古ごとのある日は除いて、夜の仕事が殆どで、午前中は比較的暇なのだ。その日の凡太は、眼の覚めるような白地にブルーの細かな格子縞の長袖、ややロングのスカートのワンピースに黒のハイヒールというスタイルだった。白く長い指にルビーの紅い指輪をはめていた。夜はカツラをつけ、昼、お座敷に出ない時は、普通の女性と変わらないヘアスタイルなのだ。彼女の髪の毛は、漆黒でつややかだった。それは凡太が、若くて健康である証でもあった。

「せんせ、しばらくやったな。元気かな?」

ソファに腰を下ろし、ブルーフレームに手をかざした。凡太が来ると、その場が華やぎ、若くて健康的な雰囲気に包まれる。おそらく顧客からの頂き物のフランス製と思われる香水の香りをほのかに漂わせる。殺風景な青野の事務所が一度に花が開いたように明るくなる。

 

「凡太、いいところへ来た。例の件、オーケーだな?」

青野の問いかけに、凡太は、頬に深い靨を刻んだ。愛くるしい表情だ。

「どなたか、わての絵、描いてくれはるんやてな?」

長いつけまつ毛の視線を青野に差し向けた。その表情から凡太が満更でもない気分でいることが読みとれた。

「凡太、いい記念になるぞ」

「そゃかて、その絵、わてのものにならへんのやな」

「そりゃそうさ。号二千円もする女流画家の絵だからな、そう簡単に凡太の手には入らない。しかし、有名な絵画集団の絵描きさんや、展覧会か何かで、凡太の絵が大勢の人の眼にとまるのだ」

「なんや「穴八」の女将はん、えらい入れ込んでしもうて、わての背景になる金屏風まで用意してくれはるゆうてまんねん」

凡太は、満更でもなさそうにこりと笑った。

「ところで凡太、その絵描きさんの夫の金沢さんいう人の席にはべったそうだな。その人が随分と凡太のおもてなしが気に入ったらしい。どんな宴会だったんだ?」

この質問に、凡太は何故か一瞬、顔が曇り額の真ん中に眉を寄せて、なんとも不可解な視線を走らせた。何か感ずるところがあるらしい。

「ぎょうさんな宴会やったわ。総勢で二十七、八人ぐらいかな・・・、八畳間の部屋、にテーブルを二つ繋げて出したんえ」

「そんなぎょうさんな宴会だったのか? そして宴会の主は誰だ?」

「お客さんのことや。これ秘密にしといて・・・」

「わかってる」

「なんや、相沢さんいう方が主催者や」

「相沢?・・・、知らんなあ」

みな、相沢さんのことを閣下、閣下と呼ばはったわ」

「閣下、閣下か。ということは、相沢さんいう人は,元将官だな」

「将官?それ何のことや?」

凡太が聞いてきた。

「少将、中将,大将のどれかや。軍隊では最高の役職に入る人や」

凡太は、驚いて目を丸くした。

「相沢さんて、そな偉いお人だったんやな」そして、

「せんせ、この話、秘密やで・・・」

また凡太は念を押した。そして急に声を落とした。決してお客の秘密を漏らさない、この世界の不文律なのだ。その辺のことは、青野にも、いやというほどわかっている。それを押して凡太が口を開くのは、凡太と青野の長い間の付き合いからなのだ。青野は、凡太に不潔な感情を抱いたことはないし、凡太は青野を「せんせ」と呼ぶ。それは青野にある種の尊敬の念を抱いているからだ。二人は、固い信頼関係で結ばれていた。

「戦争中の元軍人らの集まりらしいのや。みな歳のわりに体格がよく、ご酒の飲みっぷり、あけすけない話し方や声の大きさから、やはり元軍人や。間違いあらへん。

ただ、相沢いうお人の隣りに、どうしても元軍人だった人とは思えんお人が一人おったんや」この凡太の話は、青野の好奇心をそそらずにはおかない。

「その人、どんな人だ?」

青野の詮索好きな癖が始まった。

「なんや、ようわからんお人や。うさんくさい感じの人や。」

「どこかの戦線の軍属の生き残りのような人かな?」

「せんせ、軍属て、なんやね?」

軍属などという言葉、凡太が知るはずもない。

「軍人でのうて、軍に属していた人のことや。例えば技師とか通訳とかな」

「それがどうも違うねん。元軍人さんらのように颯爽としたところはあらへんお人や」

「どう違うんだい?」

すると凡太は、また急に声を落とし、周囲を見回した。大きな瞳がすばやく左右に動いた。よほど秘密の漏洩を気にしているらしい。恐らく、その会合が、そういう雰囲気のものだったに違いない。

「髪は五部刈りで、七分ばかり白髪が混じっておったわ。ほして、どちらかといえば、ずんぐり型や。どこにでも見られるようなお人やが、眼がきつうて、きつうて、あてらの心の隅々まで見通すような感じのお人や」

「歳はいくつぐらいや?」

「七十を越してると違うか。小太りのお人や。黒っぽい背広を着てはってな、その背広の仕立てから生地、全て舶来もんという感じや。あてもいろんなお客はんを見ておるさかい、地味だがあんな立派な三つ揃えを着てはるお方は初めてや」

「不思議な人物だな。元軍人とは違う人品骨柄か。そういう人が一人だけ元軍人らの仲間に入っているのか・・・」

「そや、ほしてな、殆ど一言もしゃべらへん。よう紙巻を吸いはって、時折、ギロリとみんなを見回すんや。相沢さんいうお方とひどく気心が知れている感じやったわ。あんなお人に睨まれたら誰しも動きがとれへん。口数も少のうて、殆ど喋りはらへん。そのくせ、その座を支配してる感じや。ほんま、えたいの知れんお人や」

凡太は、ハンドバッグから赤いマークのラッキー・ストライクの箱を出し、一本取り出すと、テーブルの上のライターで火をつけた。一息吸い込み、青い煙を天井に向けて吐いた。そして話を続けた。

「ほんま不思議な会合やったわ。初めは人払いや。わてら、みなひとまず部屋から外へ出されたんえ」

青野は、この会合に益々興味を覚えた。「人払い」などという言葉を聞くと、ますます探りを入れたくなる。それは誰にも通ずる心理なのだ。

「秘密会議というやつだな・・・」

「そや、お茶一つ出さずに小一時間ばかりヒソヒソ話や。やっとわてらが呼ばれたんわ、その後や」

「へえ、そしてどんな宴会だった?」

「これ、ほんまに秘密やで」

「わかってる」

「歌、舞、音曲、聡出や。太鼓、小鼓、三味線、わてら総勢八人が踊りまくったんえ。無礼講いわはって、飲めや唄えやや・・・」

凡太は、タバコの青い煙を吐いた。バタ臭い香りが漂ってきた。青野はこの話に益々好奇心をそそられる。

「一人を除いて他はみな元軍人さんやし、それも北は北海道から南は九州まで、ほぼ全国から来はった人たちや。元軍人さんやから歳の割に体格はええし、ご酒は進むし、しまいには飲めや歌えやや。あちこちでわての知らん戦(いくさ)の話なんどが飛び交ったんえ。そして最後は、「同期の桜」いう歌を大声でみんなして歌いはって、お開きや」

凡太の話から、青野は、その会合の雰囲気をおおよそつかむことができた。不思議な宴会であったことは間違いない。青野は、その秘密会議の内容を知りたいと思った。しかし、それを凡太から聞くには無理があった。凡太と青野とでは関心の中身が異なるのだ。

「その集まりの中に金沢さんいう人がおったのやな?」

「そや。わての感じじゃ、大勢の中じゃ無口で紳士の方や。静かに杯を傾けるタイプらし。ほして、俺は「ガ島」に行っておった言わはったわ。そん時の暗い話をくどくどしはったわ。わて「ガ島」いわれてもなんもわからへん。ただ、ハア、ハアいうて聞いてお酌するだけやったわ」

凡太の話に青野はますます興味をそそられる。

「ガ島」といえば、「飢島」、ガダルカナル島のことではないか。

米軍との間に大激戦があった島だ。詳しいことは青野も知らないが、兎に角、今次の大戦で日本軍が、米軍に大敗北を喫し、あげくの果てに、退却した島だ。この戦いが今次大戦の軸を日本の敗戦へと大きく舵を切った戦いだったのだ。その程度の知識なら青野も持ち合わせていた。

「食べもんも弾もなうて、とうとう逃げ出した。ガ島って飢餓の「餓」だ、いわはったんえ。わて、なんも知らへんが、食べ物がなくて同僚の死体の肉まで食べた兵隊さんもおったんやて。ほんま厭な話だったわ」

「カニバリズムというやつだな」

「なんやね、そのカニバリズムとかいうもん?」

「共食いのことや」

凡太が、そんな言葉を知るはずもなかった。ガ島については、日本軍が敗れたことは知っていても、青野も、死んだ同僚の肉まで食ったことは知らなかった。苦い思いがこみ上げてきた。凡太は、つぶらな瞳を曇らせて、タバコの煙を天井へ向かってしきりに吐いた両の眉が額の真ん中に寄ってきて、凡太にしては暗い悲しさの漂う表情に変わった。死んだ同僚の肉を食べた、これには凡太も、さぞ驚いたことだろう。青野も初めて聞く話ではあったが、あの時の状況では、そんなこともあったに違いないと思った。

「へえ、そんなことがあったのか。凄い話だな。ところで凡太、その宴会の費用は誰が払ったんだ?」

凡太は、ちょっと戸惑いの色を見せた。しかし、話を続けた。

「女将がいうには、相沢なにがしの隣りにおった元軍人であらへん不思議なお人が、キャッシュで支払ったいうことや」

それだけの大宴会の費用を全部、現ナマで支払った。その人物、相当な金をもっているらしい。

「そのお客、よくそれだけの金を持っていたもんだな」

凡太も同感だったらしい。

「わてもそう思ったわ。でも、あれこれ詮索する雰囲気であらへんかったわ」といった。

「その男、名前はなんというんだ?」

「それが、名前は一切明かさんかったんえ。そのお人について来て、宴会が終わるまで一階の友待ち部屋で待っておった人がおってな、そん人が支払ったいうことや。女将も困っておったわ。そやかて上客やしな」

「宴会の主の名前がわからんでは、挨拶状も出せへんし、名前は「上様」にしとけとそのお人が言わはって・・・かなりの大金やし、税務署から問い合わせがあっても答えられへん言うてはったわ」

戦後、十年近くを経たとはいえ、まだまだ事情が許されない頃のことだ。

「それだけの宴会の準備に、女将は、身を削る思いをしたんだろうな」

「そや、お酒は、灘のお得意さんに頼みはったんや。魚は、板前さんが大坂へ行かはって仕入れてきはったそうや。野菜や漬けもんは大原あたりのもんや。みんなお女将さんの顔でや」

 

そういえば、この時期、祇園では、今までの縁故や、なにやらで、昔の繁栄の半分ぐらいはすでに復活させていた。顧客も含め、総勢でその仕組みを支えて、ここまで来たのだ。それはお客様専一に、今までの絆で支え合ってこしらえてきたものだった。どちらにも傾かない。ただただお客様専一の世界なのだ。しかし、この宴会については、青野にはどうしても解せないことがあった。終戦後、多くの旧軍人が、飲まず食わずで引き揚げて来たことを聞いて知っているからだ。例え元軍人の将校といえども、懐具合がいいとは思えなかった。それが相沢某という元将官だった男の隣りにいた不可解な男が、二十数名の元陸軍将校だった連中を一場に集めて、派手な宴会を催したということだ。その金がどこから出たのか、それは、それ相応に青野の関心の対象になるのだ。世の中には不思議なことがたくさんある。しかし、この大宴会は、詮索好きな青野に、なんともいえない感情を呼び覚ますことになった。

 

それはそれとして、青野は、「塩瀬」や「穴八」の女将と凡太の絵のことで、あれやこれやと細かな打合せをし、金沢英恵に電話で、その段取りを逐一説明し、スケジュールや宿泊する旅館、凡太の衣装のことなど、こまごまとしたことまで電話で連絡した。そして五月の三日からおおよそ二週間、午後一時から三時ぐらいまでの間に、絵を描いてもらうことがほぼ固まった。

 

けったいな男

京都にも桜の季節がやってきた。「春は曙」というが、夜が明けてから午を迎える頃まで、鴨川べりに春霞がかかる。ぼうっとして、うっとりするように川上にかけて空気が霞む。歴史を遡っても、この光景は続いているのだ。そういう意味では京都は歴史の空気を現代でも感じとることができる数少ない都会の一つでもあるのだ。川の流れも冬の冷たい感じは無くなり、その流れもゆったりと流れている気がする。青野は、四条大橋の欄干に立って洛北を見るのが好きだ。川縁の木々の緑が日増しに濃くなり、空はぼやけて霞みがかかるのだこの時期、大橋を行き来する観光客の姿が日増しに多くなる。疎水の桜もそろそろ満開を迎えるのではないか、とそんなことに思いを馳せていると、突然、青野の両目を後ろから手で覆う者がいる。それが凡太だということは、その長い白い指の感覚と若々しい香りでわかった。

「凡太だろ?」

ふり返ると、凡太が笑っている。その日の凡太は、春らしい細かくて色とりどりの花柄の袖長のワンピースを着ていた。その裾は、彼女の膝を覆うくらいで、長い脚線美に、黒のローヒールを履いている。凡太は、洋服姿もよく似合うのだ。

「なかなかいかす花柄やな」と青野がいった。

「これ英国のロンドンのハロッズいうデパートの生地で仕立ててもろたのや。せんせ、ロンドンへ行かはったことあるかいな?」

「いやあ、ないな」

こんな時期だ。外国旅行など夢のまた夢の話だった。青野が曖昧な返事を返すと、

「三井物産へお勤めしはるお客さんからもろたんえ。ほして大丸で仕立ててもろたんや」といった。

「だけんど、直接もろたんやあらへんえ。女将さんを通じてや・・・」と断りを入れた。

「凡太、どや、時間でもあるか?コーヒーでも飲みにゆかんか?」

青野が誘うと凡太は、嬉しそうについて来た。大橋の橋詰めにある「ソワレ」という喫茶店へ凡太と入った。店の中は、モーニング・コーヒーを飲むお客がみな立ち去った時刻で、一組のお客だけが商談か何かをしているだけだった。二人は、ゆるやかな階段を登り、二階の席で向い会った。春なのだ。凡太は、人をまろやかに明るく包み込むようなところがある。よく情より理が勝つ女を見かけるが、凡太は逆だった。知恵はやや遅れているが、そのまろやかな誰をも包み込む明るさが凡太の身上だった。彼女と向き合えば、春風のような明るさに包まれるのだ。考えてみれば、凡太は、祇園という世界に、うってつけなのかも知れない。青野も凡太のそういうところが気に入っている。その日、凡太は、ハンドバッグから、その頃まだ珍しいやや長めの洋モクを抜き出すと、細く長い、紅いマニキュアの指先にはさみ火をつけた。青い煙が細く長くゆったりと昇っていった。

「せんせ、ゆんべ、またおかしな宴会があったんえ」

この世界は、顧客の噂とか、身分とかは口外するのは御法度なのだが、凡太は、青野には、何でも打ち明けた。それは凡太が青野を信頼しているからだ。何かを打ち明ける時の凡太は、きまってその細くて長い両の眉を額の真ん中近くまで寄せるクセがあった。

「ほう、どんな客だったんだ?」

「おかしなお客、五人ばかりの宴会や。その宴会にも、先日の相沢さんと一緒にいた、けったいなお人が・・・」

「また、そのけったいな人が宴会の費用を払ったんやな」

「そや。だけんど、それだけであらへん。その方と一緒に招かれた客や・・・」

「どんな客だったんだ?」

「どう考えても、どこかの組の人たちや」

「組の人だって?」

「そう思うわ」

そう言われてみれば、つい先日、四条通りを歩いていて、偶然、以前より懇意にしている京都府警の谷田部警部に会ったのだ。その谷田部が言うには、最近しきりに神戸あたりのヤクザが京都駅を乗り降りするので警戒していると言っていたのを思いだした。

「凡太、なぜそう思うんだ?」

「人品骨柄からや。小指の先をツメタ人が一人おったんや。ほして、わてがその方の畳の上に脱ぎっぱなしにしてあるコートをとって衣紋掛けにかけたんや」

「衣紋掛けにかけた、そしたらどうしたんだ」

凡太はあたりを見回して急に声を落とした。

「なんや錦の布に包まれた固くて重い二十センチくらいの棒のようなものが、コートの内ポケットからポロリと畳の上に落ちたんや」

「そしてどうしたんだ」

「わてが拾うて、またコートのポケットへしまいこもうとしたんや。ほしたら・・・」

「そしたらどうしたんだ?」

「あわててその小指を詰めた男の人が立ってきて、その錦の布に包まれた鉄の棒のようなものを、わてからひったくって・・・」

「自分でコートのポケットへ戻した?」

「そや、ほして、これ俺の大事なクナイやいうたんや。クナイって何ですかと聞いたんやけど、あんたはそないなこと知らんでよろしというたんや」

「クナイだって? クナイってなんや?」

「わても知らへん。ただ、手に持った時、ズシリと重くて、なんやわての手の甲に尖った先か何かが刺さる感じやった。恐らくドスみたいなもんと違うやろか?」

「クナイか?不思議な道具だな」

「それからが又お人払いや。なんやヒソヒソやってる感じやった。そのけったいなお人いうのんが、わざわざ東京から一等車で京都まで来はるんやて・・・」

「わざわざ東京からか・・・」

「そや、東京は、うるさうてかなわんからやて」

ここまで喋ると凡太は、新しいタバコに火をつけた。白くて長い指先から紫煙がゆらりと昇っていった。

「人払いが終わってからはどうなったんだ?」

青野は、自分が人一倍詮索好きではないかと思うことがある。それは哲学などを学んだ青野には、不明なことはとことんまで究める習慣が根っから身についているのだ。物事を完全に理解して胸の底にストンと落ちる感覚が好きだった。しかし、それは何事にも或いは誰にでもということではなかった。やはり青野の頭の中には、詮索する案件に、ある種の基準があった。それは個人にではなく、その個人の背後にある背景について異常なまでの好奇心が沸くのだ。

「それからが、そのけったいな人を中心に大酒盛りや。みな、杯じゃあらへん、お湯飲みになみなみと、ご酒をついでゴクゴクや」

「そのけったいな人というのは、この間の元軍人たちの宴会の時もおった人か?」

「そや」

「その人はどんな人品骨柄なんだ?」

「なんや、田舎者のように肥えたおっさんや。髪には白髪が交じっていて赤ら顔や。

血圧が高そうなお人や。眉が濃く太くて左の眉の先が跳ね上がっていたわ。眼が鋭くてこわい人やったわ。人の心の内も全て見通して読んでしまはるような・・・。着ている服は、黒っぽい背広や。舶来の厚いゴワゴワした生地の仕立てらしかったわ。それに真っ赤なネクタイや。女将さんに後で名前を聞いたんやけど女将さんも、わてに、眼くばせしよって教えてくれはりゃせんのや。みんな親方、親方ゆうて呼んでましてん」

「親方、親方か・・・」

青野は、何か考える風をした。そして、

「不思議な人物やな」と吐き出すようにいった。

 

わざわざ東京から、この町へ来て、旧軍人の将校連中を集めて宴会を催す。しかも、宴会の費用は一切、その男もちだ。しかも組の関係者らしい連中とも繋がりがある。戦後、十数年を経たとはいえ、相当な金を持ち合わせている。戦後のドサクサに金儲けをしたヤミ成金でもなさそうだ。それは全く不可思議な男という他はない。戦後、一般の庶民は、軍人とは一切縁を切ったはずなのだ。今次の戦争を始めたのも軍人だ。いやでも応でも国民を戦争に引きづり込んだのも軍人達だ。軍人に対する不信感を誰もが背負いながら、今日まで混迷の中をなんとか生きてきたという感慨が青野にもある。彼らは庶民に情報を一切秘匿し、秘密の中を泳がせ、あげくの果ては、明治以築いてきたこの國を一挙に崩壊させたのだ。戦争中の教科書を墨で塗るという屈辱感、あれは一体何だったのだという気持ちが青野にも残っている。しかし、またぞろ旧軍人を集める動きは、またそれを操る人間は、青野には、理解できなかった。

 

 

モデルとなった凡太

五月に入ると、眠たくなるようなぼんやりした京の空も、はっきりと青く輝くように光を帯びるようになった。時を同じくして、金沢英恵が京都入りしてきた。彼女は、先ず青野の事務所を訪れてきた。英恵は、絵を描く道具類が入っているらしい大きな茶色の革鞄をタクシーに積んでやってきた。彼女の服装は、薄いブルーの袖長のワンピースに黒のハイヒールを穿いていた。この辺では見かけない白いツバ広に鳥の羽根がついた洒落たハットをかむっていた。髪は黒く、細く強く引いた眉毛がはっきり見えるオカッパで、髪のすそは、やや短めにきちんとカットしていた。これもこの辺では余り見かけないヘアスタイルだった。色白で鼻筋がきっちりと通り、マスカラを塗ったややきつい感じの黒い瞳をもっていた。彼女独特の美意識がはっきり目立つ顔だちだった。英恵は、青野の奇妙な服装に、驚いた感じだった。放髪に羽織、袴、それにピカピカに磨かれた黒い靴という出で立ちだったからだ。青野は、職業をもつ婦人にありがちな、個性のある自立した女性の雰囲気を英恵に感じた。戦後のよちよち歩きの日本では珍しい個性的なファッションだったからだ。

「大変お世話になりますわ」

英恵は、目の前のソファに自ら進んで腰を下ろした。女性にしては細い腰まわりだった。

 

青野は、英恵のために四条通り東詰めの八坂神社を少し下がり、東大路通りを左へ折れた所にある「畑中旅館」を予約しておいた。純然たる日本旅館で八坂の杜の樹木に囲まれた静かな旅館だった。ここであれば静かな場所で画想も練られるし、宿賃もほどほどだったからだ。

「私、京都は、ほんと久しぶりですの」と英恵がいった。

青野は、英恵に今の東京という都会の匂いのようなものを感じた。それは決して京都の人間とは溶け合わないものだった。英恵は、疲れているようだった。それは東京という生活からくる疲れのようにも思えた。

「こういう静かな所へ来ますとなにやら別世界のようです」と英恵はいった。

青野は、抹茶を入れて英恵に供した。英恵は、うまそうにその香りを嗅ぎ、少しずつもったいなさそうに、抹茶をすすった。青野には暗い雲のようなものが東京には存在しているように思えた。その雲のような雰囲気を英恵は、そのまま持ち込んできたのだ。それは、青野の理解を超えていた。

「デモがあったり、学生たちが騒いだり、東京は、うっとうしくなりました」

それは終戦後の混乱を飲み込んだ後の空気のようなものらしい。英恵には、終戦後のあの疎ましい雰囲気とは、既に決別しているようだった。

 

「八坂の社の近くの畑中旅館を予約しておきました。地理的にも便利ですし、値段もそこそこだもんですから・・・」

青野は、これまでの経過をこまごまと説明した。凡太の衣装については、「塩瀬」で衣装合わせをすること、そして現場となる料亭「穴八」へも案内することなどを、英恵に話した。

「それはそれは有難うございました。兎に角、この地は不慣れなものですから・・・」

東京から急行に乗ってやってきた彼女は、やや疲れた面持ちだった。青野は、彼女を早速「畑中」まで案内することにした。その日は、ゆっくり休んでもらうことにし、明日の朝、十時に凡太の衣装合わせに「塩瀬」で会うことにした。

「塩瀬」の場所は、旅館「畑中」からの道筋を細かく書いた紙を英恵に手渡した。

そしてその時刻に、青野も「塩瀬」で会うことを約した。英恵も青野の段取りの良さに感謝しているようだった。青野は、英恵が持参した茶色の女持ちにしては大きな革鞄を持ち、畑中旅館まで英恵を案内した。英恵がかむったツバ広の白いハットは、この地ではめずらしく、その上、青野の羽織、袴に黒靴といういでたちに、行きづりの人が、みな一様に視線を投げかけてきた。

 

 

衣装合わせ

翌日、青野は、「塩瀬」で、女将とあれこれ世間話をしながら英恵と凡太が現れるのを待った。英恵は、やはりむんむんるすほど東京の空気を持ってやって来た。京都弁を聞き慣れている青野には、英恵の喋り方は、きつく、しゃきしゃきしていた。言葉のはしはしに丸みがなく、キャベツを、菜ぎり包丁で切っているようだった。しばらくすると凡太が現れた。その日、英恵は、凡太を見るなり、

「まあ、なんて若くておきれいでしょう。私、嬉しい!」と少女のような驚きの声を上げた。

「凡太、なかなかの出来栄えじゃないか」と青野が言った。

「あて、恥ずかしわ」と凡太は、小さくささやいた。

 

その日、凡太は、久しぶりに祇園の舞妓の正式な衣装を身につけていた。両の腕を下げると振り袖が床についた。簪は、五月の藤の簪だった。その立ち姿は、誰が見ても圧倒的な美しさと雰囲気を持っていた。それは、英恵だけでなく、普段からよく見つけている青野でさえ驚嘆したくらいだ。凡太が本領を発揮した感じだった。

 

四畳半ほどの畳の部屋にうすべりが敷かれ、季節ごとの衣装が並べられていた。あれやこれやと「塩瀬」の女将と英恵、そして時たま凡太の意見も入り、衣装選びには、かなり手間取った。祇園の衣装に関する伝統的な考え方と絵かきとしての英恵の意見が飛び交った青野には、その辺のことは皆目わからなかった。が、最終的には、季節感よりも油彩画としての見ばえや、背景の金無地の屏風などとの関係を考慮して、凡太の肌の美しさが鮮やかに映える黒の留め袖ということに決まった。裾は、豪華な金糸や銀糸の入った複雑な裾模様の衣装だった。

「凡太、すばらしい衣装じゃないか」と青野がいうと、

「わて、なんや自信あらへんわ」という答えが返ってきた。

「凡太さん、安心してくださいな。あなたならどんな衣装でも雰囲気がでます」といって英恵は笑った。

 

「穴八」は「穴八」で、昼間、一階、八畳間の赤絨毯のある部屋を用意してくれた。誰が作った庭かはっきりしないが、それなりの石組みや樹木があり、そこそこの築庭の様相を呈していた。その庭に向かって長い廊下があり、ガラス戸越しに、外の光が入るが、庭に突出た庇で外光は直接に受けない。そのために薄墨を流したような適度の暗さが部屋に漂う。凡太のために無地のしぶい光を放つ金屏風と背もたれのない黒檀の椅子が用意されていた。赤い絨毯の部屋に黒のうすべりが敷かれてあって、英恵が椅子に腰掛け、パレットとイーゼルを置き、絵の具が少々落ちても心配ないように心遣いされていた。

「凡太さんの絵なら、わても見たいわ。御用がございましたら、何なりとお言いつけくださって・・・」といって女将は、その部屋を出ていった。

午が過ぎれば凡太が選ばれた衣装で盛装し、金屏風を背にして目の前の絨毯の上の椅子にかけることになる。英恵は、大きな革鞄から絵の具など諸道具を取りだし、イーゼルを据付け、パレットを引き出し、絵を描く準備の万端が整った。部屋の電灯では暗いので、青野は予め用意しておいた照明器具で調節した。

左側のガラス戸から僅かに外の光が入る。凡太は、ガラス戸にやや右向きの姿勢で腰掛けてもらい、外からの光が凡太の白い若い素肌をなめるように仕組んだ。初めは扇子を開いて手にもってもらおうと構想した。しかし複雑な裾模様を見せるため、留め袖の右側の裾を少し開き、振り袖と左側の裾模様とが画面の半分近くを占め、凡太の白足袋が覗く程度にして、両手は、膝の上で何気なく組むような雰囲気にした。勿論、黒の留め袖の裾からは白い、つややかな裏地が覗くという趣向だ。青野は、準備万端が整うと、英恵をおいてその場を立った。また二、三日後に、凡太の晴れ姿を見にくるつもりだった。

 

凡太にとっては、昼は英恵のモデル、夜はお座敷へと個人的には大変な労作であろうと思われるのだが、彼女は愚痴ひとつこぼさなかった。こういうところは凡太の見上げたところなのだ。

「英恵さんは偉い絵描きさんやわ。わてを実際よりきれいに描きはる」

ある晩、凡太は電話の向こうから青野へこういってきた。一つの方向だけを見つめる姿勢は、かなりの負担だと思うのだが、凡太の偉いところは、そういうことに一切文句をいわなかった。これには英恵も、いたく感心し、度々青野へそのことを褒めてきた。

 

 

「穴八」の女将からの依頼

そんなある日、料亭「穴八」の女将から突然、電話がかかってきた。青野は、てっきり凡太にからむことかと思ったが、それはあらぬ内容だった。

「せんせ、お忙しいとこ、ほんますんまへん。せんせに、通訳をお願いしとう思うてまんねん」

「穴八」の女将のことだ、内容はともあれ、青野としては断るつもりはなかった。

「どんなお客でしょう?」

「それが・・・」

女将はちょっとためらいを見せた。

「なんや、せんせにも余りいいとうないお客ですねん・・・」

「ほう、そんな客がいるのですか?」

「一人は、この間も、わての所で宴会をやらはった方ですねん。それが・・・こんなことまでせんせにいうていいもんやら?、せんせ」

女将は、ちょっといいよどんだ。

「お客は、東京からおいではります。どうも姿の読めぬお方ですねん。別の人を介して予約をしてきはりますんや。お名前も、その別のお方のお名前で・・・そういいましても、これも商売ですし、わざわざ東京から来るお方ですのんで、ほして、うちを何回もお使いくださって・・・」

女将には、いろいろ思案することがあるらしい。

「ところで、その客が連れてくる外人は、どんな人ですか?」

「それが・・・アメリカの人ですねん。ようわからんのですが、なんやジー・エッチ・キューとかいうところの人だそうですわ。その予約するお方が、お電話で、ごくごく丁寧にお取り扱いするようにいわはるんどす。わてにもようわからんお人ですわ。

せんせに通訳をお願いするについても、いろいろと条件があるらしいのどす。宴会の始まる前に、その方からせんせに十分に説明するからや、いわはります」GHQといえば、駐留軍の中核的な組織のことではないか。この仕事は、容易ではないと青野も思った。

「そういう難しいお客、面白い。女将さん、お引き受けしましょう」

青野の不可解なものに対する好奇心が、ここでもふっと沸き上がってきたのだ。府警が関係するいろいろな事件に青野が今日まで関係し、協力してきたのも、この不可解なものに対する好奇心からだったのだ。不可解なベールを一枚、一枚とはがしてゆき、そこに現れるものに青野は興味があるのだ。

「せんせ、ありがとうございます。あさっての夜八時過ぎに、そのお方が、外人さんと一緒にお見えになります。どうか、よろしうお願いもうします」

「そのお客というのは、お二人だけですか?」

「そうですねん。わてら全く言葉がわかりませんので・・・せんせを頼りにする他ありませんわ」

そこで女将からの電話が切れた。

 

当日の夜、「穴八」は、最高級の部屋を用意した。主客からの注文らしい。床の間には、明治維新の元勲といわれた人物の難しいくづし字の丈の短い掛け軸かかかっていた。青野もそのくづし字が、どういう字か判読できなかった。その下にジャーマンアイリスか何かの黄色い花が水盤の中の剣山に数本さされていた。部屋の空気は重く沈んでいた。

 

青野は、黒檀の四角いテーブルの片隅で、主客と外人が入ってくるのを待った。合図があるまで二人の客と通訳以外は、一切入室してはならないという主客からの触れ込みだった。どんな人物が、この奥まった部屋へ入ってくるのか、さすがの青野も、いささか緊張を強いられた。どこかでボンボン時計が八時を打った。その音も、遠い部屋から響いてくるようだった。静寂があたりを支配していた。その時、廊下を複数の人の歩く音が聞こえてきた。明らかに青野のいる部屋に向かってくる気配だった。そして突然、襖が開いた。黒い三揃えの背広を着た男が入ってきた。もう一人は、恐ろしく背の高い、がっしりした体格の鷲鼻の米国人だった。男は、のっそりと部屋へ入ってきた。青い小舟をさかさにしたような帽子をかむり、これも青草色の服を着て、見ただけで駐留軍とわかる外人だった。彼は陽気に青野に向かって「ヘロー」といってきた肩幅の広い、見上げるような大男だった。いつも陽気な笑顔をたたえている。黒檀の四角いテーブルの下には掘り炬燵のようなものが掘ってあり、外人が足を自由に伸ばせるように工夫されていた。黒のゴワゴワした舶来生地で仕立てた三揃えの男は、七十を過ぎた、いかにもいかつい赤ら顔で顎の張った男だった。頭髪は殆どが白髪で、その中を黒髪が櫛の刃のように目立っていた。眉は太く真っ黒で、左側の眉毛の先が天を向いている。手に鍬でも持たせて立たせたならば、どこにでも眼にする田舎者の風貌だった。目つきが鋭く、その表情は厳しく、どこか毒を含んでいた。顔はニキビの跡があちこちに見られ、赤ら顔だった。黒いチョッキから、腹がつきでていた。チョッキのポケットからは時計か何かの金鎖が長く垂れ下がっていた。酒食にまみれた男の顔だった。青野の想像を超えた様々な世界を覗いてきた男の顔だった。青野の付き合いには、こういう風貌の人物は見当たらなかった。それどころか、この町を歩いている人々の中にも、見当たらなかった。それは、この人物が送ってきた過去が如何に尋常ならないものであったかを表していた。青野は、この人物こそ、凡太がいう「けったいなお人」のことではないかと思った。男はその米国人と相対して席についたが、

「お前、今日のこの席での話は、一切外に漏らすな。洩らしたことがわかれば、これだぞ」といって、左手で首を切る仕種をして見せた。

青野は、容易ならざる席に同席したことが始めてわかった。青野には、ぞくぞくするような緊張感が走った。

「奴に俺の名前を呼ばせるな。「ユー」とだけ呼ぶように言ってくれ」

男は眼の前の米国人に対し、青野に、そういう注文をつけた。他人に名前を知られたくないというサインだった。それだけでも、この男に何か裏があることがわかった。

「ベッグ・ユア・パードン、ユー・ネバ・コール・ヒズ・ネーム。 ユー・ハフ・トウ・コール・ヒム・オンリー・ユー」

青野は、あわてて相手の外人に、こう通訳した。

「オー・アイ・シー、オー・アイ・シー」

外人は、繰り返し大仰に笑いながらそう答えた。相手が何者かよくわかっているらしい。相手の外人の名前は、「ユーラー」といった。GHQに属する人間であることに間違いはなかった。これは秘密会議なのだ。初め、テーブルの上には、お茶一つ出なかった。このけったいな男が予め女将に申しつけてあったらしい。何か重大な秘密会議に巻き込まれてしまったのだと青野は思った。一旦、この会議に巻き込まれた以上、恐らく、今後も陰になり陽になり、この男の黒い影が青野のこれからの行為につきまとってくるのではないか、そんな厭な予感がした。それほどドスが利いた空気を、このけったいな男が漂わせていた。

 

 

 

リ・アーマメントという言葉

この会議の大方の内容は、おおざっぱにいえば、相手の米国人から日本の再軍備の促進と日本の赤色化防止への協力要請だった。その背景には、ソビエトがドイツに勝って今次大戦の戦勝国となり、急に勢いづいてきて、日本を脅かすこととなったことにあるようだ。これに影響されて日本も労働組合の活動が活発化した。それに呼応したのか、実態の知れない勢力による数々の不可解な事件が生起している。これに危機感を感じた米国が、日本が共産主義に染まることを極度に恐れ始めたことに原因があるようだ。事態は、青野の想像を超えていた。ある意味で、戦後の日本が、また新しい局面を迎えたとも思われるのだ。日本の赤化を防止するためなら、資金の提供も辞さないという話が赤裸々に語られたことも青野には意外だった。それより、こういう重大なことが、政治の当局者でなく、一介のけったいな男の手で語られているということが、青野の理解を遠く超えていた。「リ・アーマメント」という言葉が繰り返し外人の口をついて出た。その「リ・アーマメント」なる英語をどう訳すべきか、青野は、一瞬、とまどいを感じた。とっさに「再び軍備をすること」という訳語が青野の口をついて出た。青野は、不思議な話が、こういう所で秘密裏に行われていることに、ある種の怖さを感じた。それにしても、凡太のいう「けったいな男」の正体は、一体、何者だという気持ちが青野の心を動かした。同時に、この國の形がまた変り始めていることを感じないわけにはいかなかった。この國が戦争を放棄したのは、ついこの間のことだと思っていた。なのに、もう再軍備の話が出てくるとは・・・現実の世の中の動きの速さに、青野はとまどいさえ感ずるのだ。こういう一国の運命をも動かす重大なことが、こんな所で秘かに語られていることに、青野は、目眩に近いものを感じだ。世の中は、われわれ庶民と関係のないところで、なんとも理解しがたい勢力によって変えられている現実が、青野を、始めて直撃したのだ。それにしても、一切、実態を明かさないこの「けったいな男」とは一体、何者なのか?

 

秘密会議の後は、お定まりの贅沢な宴席となった。その日、凡太は来なかったが、七人ぐらいの舞妓がやってきて、歌舞、音曲を演じてみせた。けったいな男は、上機嫌で日本酒をぐいぐいと飲んだ。ユーラーは、女将が、苦心して、どこからか仕入れてきたオールド・パーか何かの洋酒をしたたか飲んだ。料理は、日本固有の料理だった。ユーラーは、それらに少しづつ箸をつけては口に運んだ。三味線と踊りがいたく気に入ったらしい。けったいな男は、予め用意してきたのし袋を舞妓一人一人に手渡した。いくら包まれているかは知る由もない。宴席は瞬く間に十時を過ぎた。さすがの青野も気を許すわけにもいかず、かなり疲れを感じた。そして彼らは都ホテルへとハイヤーで引き揚げていった。

 

宴の後の静けさと虚しさが、にがにがしく青野を襲った。そこへ女将や女中が慌ただしく部屋へ入ってきた。「せんせ、すんまへんどした。今日はご苦労さんどしたな。お疲れでっしゃろ」うんざりと座り込んでいる青野へ女将が声をかけてきた。青野は、あいまいな返事を返した。宴席での緊張が一度にゆるみ疲れがどっと込み上げてきた。女中らが、宴の後の皿や小鉢などを早々に片づけ始めた。

「女将さん、変な宴会でした」

「そうどすやろ。あのお方がお見えになる時は、きまって変な宴会になりよる」

女将は、笑いながら青野にいった。青野は、背伸びして立ち上がった。

「せんせ、一杯おやりになって、ゆっくりしておくらっしゃ」

女将は、手慣れた調子で、青野に向かって意味ありげな笑みを見せた。

「あの、宴の主は、けったいな人ですなあ」

「まったくですわ」

「あのけったいな人、名前は何という人ですか?」

「青野はん、それが、それこそけったいですねん。本名らしきもんは一切申されしまへん。みな部下だか手下だかのお人の名前で予約からなにやら済まされますねん。わてもこういう商売ですねん。税金の書類なんど、作らにゃならへんもんですから、税務署からいろいろ聞かれても、本名がわからへんでは困ります。下に待たせてあるあの男の名前にしとけ、いわはりますねん」

「へえ、本名をいわないのですか?」

「そうどす。それ以上のことは聞けん雰囲気のお人ですわ」

女将に困惑した表情が窺えた。

「東京から来はった人に間違いおおへんが、東京の住所なんども一切おっしゃらしまへん。ほんま不思議なお方ですわ。けんど支払はきちんとキャッシュでお支払いになります。その上、女の子らへも心付けを・・・」

青野もこれ以上詮索することは止めた。凡太のいう通り、不可解な人物に違いないのだ。占領軍の中核GHQと手を結び、戦後日本の再軍備に手を貸す日本人とでもいうのか・・・こんな事があっていいのか。日本政府の要人とも思えない人物、そういう人物が、再びこの日本の裏舞台で動き、この國を元へ戻そうとしている。やっと明日の飯も食えるようになったこの国の人々の裏側で、またぞろこの國の歴史を逆戻りさせようと、何かを企む人物。何とも割り切れない状況に青野は驚いた。どう考えても明るい気持ちにはなれなかった。

 

 

金沢という男

それから一週間ほど過ぎた昼過ぎ、青野は、英恵の絵の進み具合を見に「穴八」を訪れた。五月の陽光が明るくまぶしい日だった。部屋へ入ると、油絵独特の絵の具の香りが鼻をついてきた。それは、この祇園という仕組みの中でも全く異質な香りだった。庭には、明るいおだやかな陽光があふれていたが、ガラス戸を通した部屋の中はやや暗く凡太の顔だけに柔らかな光が注いでいる感じだった。

「本当に、青野様にはお世話になります。凡太さんにも、私の我が儘を通していただいて・・・」

英恵の言葉だった。絵は、ほぼ九分通り仕上がっていた。恐らく百号は下らない大作なのだ。その日、凡太には、かしこまった風はなく、ゆったりと落ち着いて絢爛な衣装のまま椅子に腰掛けていた。凡太には、不思議に安定した心情があるのだ。絵は、すでに微調整の段階に入っていた。しかし、青野にとって、英恵の絵にはやや不満だった。しかしそんなことはおくびにも口にすることは憚られた。凡太の本質は、若くてのびやかで、普通の年頃の女性より少しばかり抜けて間延びしているような明るさがあるのだが、英恵の描く凡太像は、厳しい知性を感じさせる雰囲気の凡太だった。やや緊張感にひたった厳しさが、凡太の視線に感じられたが、凡太の視線は、もう少し穏やかであったはずなのだ。しかし、凡太の着物の裾模様といい部屋のやや暗い雰囲気といい絵の明るい部分と暗い部分の調和といい、実に巧みに描かれていた。美術年鑑に載るだけあってかなりの腕をもった画家であることに違いはなかった。

「すばらしい出来栄えです」

青野は、ややお世辞くさい言葉を英恵に吐いた。

「凡太、実にいい絵を描いていただいたもんだ」というと、凡太は、

「わてにしてはずいぶんと気品のある絵にしていただいたわ。少し恥ずかしいくらいやわ」といつもの陽気な言葉が返ってきた。

 

英恵の手慣れた絵の筆さばきをじっと見ていると、その時、ふと青野の背後に誰か人が立つ気配があった。それは全く影のように静かに人が立ったのだ。ふり返ると、いつの間にか英恵の夫らしい男が青野の後ろに立っていた。男は、青野に平静な笑みを浮かべて頭を下げた。

「夫の金沢です」と男は静かにいった。

みるからにがっしりとした体躯に紅いネクタイ、薄茶のざわざわとした感じのツイードの上下を着ていた。

「東京からわざわざいらしたのですか? 」

「ええ、ちょっと暇ができたものですから・・・」

がっしりと包み込むような大きな手で握手が返ってきた。その手にはぬくもりがあった。豊かな肩幅をもっていて、髪の毛はかなり後退していたが、広い額に高い鼻筋が通っていた。濃い眉に二重まぶた、男にしては大きな瞳で、どこか大きく熱く包み込むようなところがあった。ゴルフか何かスポーツをやっているのか、かなり陽に焼けた肌の色をしていた。これが凡太がいうガ島で戦った歴戦の勇士だとは全く想像もつかない。

 

その夜、青野は、この金沢と祇園甲部の裏通りにある、こじんまりした割烹「平一」で晩飯を食う約束をした。英恵も一緒に誘おうかと思ったが、彼女は絵の制作に打ち込んでいて疲れているだろうと思って誘うのを止めた。「わても連れていって」と凡太が、声をかけてきたが、青野には、いろいろな思惑があってそれを断った。男だけの話がしてみたかったのだ。「平一」は、京都特有の奥の深い細長い作りで、七、八人が腰掛けられる白木の清潔な長いカウンターがあり、その向こうで板前が目の前で料理を作って客に供していた。すでに四、五人の客が、談笑しながら酒を飲んでいた。奥の突き当たりに、四畳半ぐらいの畳の部屋があり、青野と金沢は、この部屋で座して差し向かいで酒を飲み、料理を食うことにした。部屋には、半畳ぐらいの床の間があり、そこには五月の花アネモネか何かの一輪ざしが置かれていた。狭い部屋だったが壁に南禅寺のさる僧が描いた「空(くう)」というたっ一字の軸がかかっていた。金沢は、酒が好みらしく、ぐいぐいと男性的に杯を傾けた。

「それにしても凡太さん。いい舞妓さんを紹介してくれましたな」と金沢は、席につくなり青野にそういった。

「なんともいえないほんのりとした舞妓さんです」ともいった。

金沢が凡太に「ほんのり」という言葉を使った。ある意味で凡太の一面をよくつかんだ表現だと青野は思った。

「東京でアプレ・ゲール(戦後派)ばかり見ている私には、日本にもまだこういう女性がいるんだと思いましたね」

「あれで、なかなか世の中のこともよく見ているんですよ」と青野は返した。

 

五十がらみの金沢は、陸軍士官学校を卒業していた。今は、小さな商社に勤めているようだった。英恵との出会いは、恋愛とかそういうたぐいのものではなく、親戚が奨めてきた縁談で結婚したようだった。

「画家の女房をもらうとは夢にも思っていませんでした」と金沢はいった。

英恵との間は、ごく自然にいっているようだった。が、人間というものは、夫婦の間の関係など、一言で語れるものでもなかったし、表面づらではわからなかった。その間には、いろいろな襞のようなものを誰しも抱えている筈だった。殊に旧軍人と女絵描きという取り合わせは、どのようなものか推測することはできないのだ。表からはごく平静にいっていると思われる夫婦関係も、内情はいろいろ起伏がある例を、青野も、いろいろと聞き知っている。しかし、金沢からは、そのような疑問を挟む余地はないように思われた。

「仲間は、この戦争で大半が死んでしまいました。こうして京都などで遊んでいられるなど、全く夢のようですな」

そういって金沢は、大きく溜息をついた。戦争という黒い雲のようなものが金沢の心の中に、まだうづくまっているらしい。人間というものは、そう簡単に過去と決別ができるようにはできていないのだ。それはあくまで死に至るまで引きずってゆくものかも知れない。青野には、金沢のような原体験はなかった。それだけが若いという証拠かも知れなかった。話は、当然のことながらガダルカナル島の戦いのことへと及んでいった。というより、金沢は、ガ島のことを語らないではすまない、何か慟哭するような感情が、絶えずこの男の心の底に横たわっているに違いないとも思われた。これが金沢の心の中に、消えることなくわだかまっている心の原風景だった。この戦いの話をしなければ、何事も進まないという感じだった。青野は青野で、この「ガ島」といわれる島の激戦の話に興味をもっていた。一度は聞いてみたい話だった。

 

 

人肉を食った戦い

「すざましい戦いでした」というのが切り出しだった。

「こうして京都で酒が飲めるなんて夢のまた夢です」ともいった。

金沢は、杯を重ねながら、遠い出来事をしきりに反芻しているようだった。

「大本営は、ガ島の戦いで「転進」という言葉を使いましたが、実のところは「退却」そのものでした」と自からを笑うようにいった。

金沢には、この話材を見つめ、自らを諭し、この話材の深みに自らを引き込んでゆくようなところがあった。それはむしろ青野の存在を無視するかのような趣さえあった。杯を重ねる酒が彼を次々にこの話題に引きずり込んでいくようだった。ガダルカナルの話となると、金沢は、声を落とし、控えめに話し始めるのだ。このことは是非、話しておかなければならないと思う反面、その感情を抑えようとする気持ちが働いているのだ。それは戦争というものの真実の姿を知らない青野への抑制する感情でもあった。

「どうせ私はもう付録の人生です」と彼は何度も吐き捨てるように繰り返し、その度に溜息をついた。

多くの部下を死に追いやり、自分だけがこうして生き残っているという罪悪感に似たものが悪魔を抱えるように金沢の心の奥底に潜んでいるようだった。それは心の傷というような軽いものではなかった。その悪魔が時によって金沢の胸のうちで暴れだすのだ。この話になると、金沢は杯の酒を飲むのを止めてしまう風だった。

 

金沢は、もの静かな男のように青野には思えた。この人が、あの激戦といわれたガダルカナルで戦ってきた男かと思うくらいだった。この人が戦いの専門家を育てる陸軍士官学校を出たとも思えない気がした。青野とも十分に馴染み合える人物のような気がしていた。しかし、それは間違いであるような気さえした。彼は静かに杯を重ねた。陽に焼けた面長な顔は、どこか旧軍人とは思えない重厚な雰囲気があり、その骨太な手で杯をゆったりと口に運んだ。それは、金沢が未だに引きずる大きな石の重さにも似ていた。青野は、まじまじと金沢の顔を覗き込んだ。そして彼の左目のすぐ下の所に、大きな泣きホクロがあるのを見つけた。泣きホクロのある人間は、苦労する人生を送ることが多いと、母親から聞いたことを思いだした。

 

告白に近い金沢の話の内容は次の通りだ。

「ひどい戦いでした・・・」と溜息をついた。

「日本陸軍が敗れた戦いでしょう?」

「その通りです。大本営は、「転戦」などという格好のいい表現を使って発表したようですが、はっきりいって惨敗して旗を巻いて逃げ出したのです」

「どんな戦いだったのですか?」

「昭和十七年にミッドウエー海戦で海軍が完敗した翌年のことです。ミッドウエーの敗戦で、それまで連戦連勝だった今次大戦の日本の戦勝の軸を、敗戦へと大きく舵を切らざるをえなくなったのです。海軍のミッドウエーについで、ガダルカナルで陸軍が敗北したのです。無茶苦茶なこの二つの戦いで日本の敗戦が決まりました」

「ガダルカナルについては聞いたことがありますが、どの辺にある島だったんですか?」

「ニューギニアの東南にソロモン群島という小さな島の集まりがあるのですが、そのうちの一つの小さな島です。ここに海軍が飛行基地を建設していました」

「そんな島に戦略的な意味があったのですか?」

「あの当時、この島は、アメリカとオーストラリアとを分断して双方に睨みを効かせる意味があったと思います。ガダルカナルは、そういう位置にありましたから・・・」

「僕らのような戦後派には、全くわからないですね」

「そうだと思います。しかし、ミッドウエーで大敗北を喫した海軍にはそれなりの意味があったのでしょう」

金沢は、タバコに火をつけ、大きく吸い込んだ。

「殆ど軍備らしい軍備をもたない設営隊二千名、陸戦隊二百名余という陣容で、海軍は、この小さな島にゼロ戦の飛行場を建設していました。すでにラバウルにゼロ戦の基地がありましたが、そこからおおよそ一千キロ離れた島にもう一つ飛行基地を作りたかったのでしょう。ゼロ戦の航続距離は一千キロが限度でしたから、そういう意味では戦略的意味があったのです。飛行場もほぼ完成し、後は、ゼロ戦を迎え入れる寸前だっのです。そこへ・・・」

金沢は、冷静に静かに話を進めた。

「米軍の大部隊が突然上陸してきました。輸送船二十隻、護衛艦船六十隻の大船団で兵力二万という大軍です。瞬く間に苦労して作った飛行場は占拠されてしまいました。その地にいた海軍の設営隊や陸戦隊は全滅しました」

「アメリカは、日本軍の暗号を解読していたと聞いていますが・・・」

「ミッドウエー海戦の時に、暗号が解読されていましたからね・・・」

「それからどうなったのですか?」

「忘れもしません、昭和十八年の八月十八日です。

ミッドウエー海戦に敗れたものですから、そのミッドウエー島攻略に予定していた陸軍の一木支隊約九百名をトラック島から駆逐艦六隻に乗せて急遽ガダルカナルへ差し向けたのです。陸軍には奇襲して白兵戦になればこっちのものだという変な固定観念がありました。一木支隊は、直ちに奇襲攻撃をかけましたが、敵の砲火に完全に包囲され、あっという間に全滅しました。武器、弾薬、食糧、圧倒的な差です。海岸沿いの椰子の木陰に、兵士の死体がゴロゴロという有様です。敵は、戦車、飛行機、重火器で包囲網をめぐらせていた」

金沢は、溜息をついた。カウンターで酒を飲んでいる客の笑い声が聞こえてくる。それに引き替え、こちらは深刻な話が続く。やはり金沢には、胸にたまっているものを、一気に吐き出したいというさし迫った気持ちがあるようだった。戦いの細かな日にちまで記憶している。この一件は、よほど金沢の心の内にわだかまっているのだ。心に重い石を抱えているのだ青野は思った。その石は、容易に取り除けるものではないのだ。

「大本営もあわてて次々に部隊を送り込みました。九月四日に川口支隊、これも全滅しました。今度は、島の東側から岡部隊、十月七日に第二師団。この中に私も中隊長でおりました。十一月十四日に第三十八師団と、次々に送り込んだ。しかし、敵が日本海軍から奪い盗った飛行場は、すでに完成していました。

だから制空権は完全にむこうに握られていた。その完成したばかりの飛行場から敵機が次々に飛び立ってきて空爆をかけてくるのです。そのため昼間の補給など全く不可能になってしまいました。夜間に輸送船でなんとか弾薬や食糧を陸揚げするのですが、これも翌朝までに空爆で全部焼かれてしまう。こちらは食糧も弾薬もない裸の軍隊になり果てた。ラバウルにゼロ戦の基地がありましたが、当時、ゼロ戦の航続距離は、往復で二千キロでした。ラバウルからガダルカナルまで片道一千キロです。ゼロ戦が応援に飛んできても、ほんの十五分そこそこしか戦闘時間がありません。これでは敵機と戦うことも思うようにできない。すぐ引き返さなければ燃料不足で海へ突っ込むことになるのです」金沢は、酒をぐいと飲んだ。しきりにタバコを吸い、その煙を天井へ向かって吐いた。苦い記憶が金沢を襲っていた。

「とうとう、夜陰に駆逐艦や潜水艦まで使って補給品を陸揚げする。私たちは、これを「ネズミ輸送」といいました。夜陰に乗じて動き回るからです。しかしこれでやっと陸揚げした補給品は、一夜明けると、また空爆で徹底的にやられる。なすすべがない。

その時、ある参謀がやってきて、島のジャングルを大きく迂回して敵の飛行場を背後から攻撃する作戦を立てた。この作戦は、前に試みて失敗していた作戦です。それを、島にやってきた新米の参謀が、再び強行させた。一人一日に乾パン一個、武器、弾薬、補給品が何もなく、ただ徒らにジャングルの中を強行軍させた。道なき道を切り開いて行軍する。睡眠をとることもできません。兵は空腹と疲労、マラリヤでばたばた倒れる。やっと敵陣を遠く望む所へたどり着いた途端に、猛烈な集中砲火でやられました。この時の参謀が、ノモンハンで陸軍本部の作戦中止命令を握りつぶし、独断で戦争を指揮し、徹底的にソビエトにやられた、その時の参謀です。彼は作戦を立てては失敗を繰り返してきた・・・この参謀が企てた作戦で成功したのは、シンガポール攻略作戦だけ。この作戦でも、この男が数千人もの中国人虐殺を命令した。しかし、終戦と同時に、彼はいち早くどこかへ姿をくらました。戦争犯罪に問われることがわかっていたから・・・。戦後、この捕虜虐殺の責任は、彼の部下だった将官が負うことになる。一説によると彼は僧侶に扮装して中国へ入り、、蒋介石軍の作戦に加わったらしい。当時、蒋介石は、毛沢東率いる共産軍と戦っていましたから・・・」

「その参謀、その後どうなったのですか?」

このことは青野にも興味があることだった。

「いつの間にか日本へ帰国していて終戦後の数年間、どこかへ姿をくらましていた。当然ながらA級戦犯に指名される人物でしたから・・・しかし・・・」

ここで金沢は、言いよどんだ。それからが青野の聞きたいところだった。

「その参謀、それからどうなった?」

「世の中の変転は早い」

「それ、どういう意味ですか?」

「ソビエトがドイツに勝利してから、GHQの考え方が全く変わった。アメリカの仮想敵国は、その時からソビエトになった。それが日本の政治上の空気を一変させました」

青野は、その先が聞きたかった。

「A級戦犯はともかく、戦争犯罪人に指名されていた連中が、ぞくぞくシャバへ帰っててきた。例の参謀も表舞台へ姿を現した」

金沢の突き放したような言い方に、青野は驚いた。

「この國は、過去の罪悪を不問にする國になりつつあるのです」

金沢の吐き捨てるような言い方に青野は、驚く。それは、つい先日、料亭「穴八」で「けったいな男」とGHQの高官らしき米国人との話しの内容とが、付合している気がするのだ。日本という國の形が、変わりつつあるのを青野も感ずるのだ。

 

「どうでしょう、日本の軍隊というのは・・・?」

青野も当時の日本軍隊のあり方に大いに疑問をもつのだ。

「精神主義の一言。あの頃は、合理的に考える力さえ放棄していた。それほど軍は消耗し、せっぱ詰まっていた。戦うということは・・・」

金沢は、しばらく言葉をつまらせた。

「戦うということは、その國の国力、資源、資金、それに外交力も含め、あらゆることを考慮しなければならない重大事なのです。それが・・・」

金沢は意外に冷静にこういった。

「武器、弾薬、食糧がなくても、断固、戦えという考え方。食糧がないと「敵さん給与」だという。つまり敵の陣地を占領してから、敵軍の残した食糧、弾薬で戦え、これが、日本陸軍を支配していた」

「なるほど「敵さん給与」ですか。無惨な言葉ですね」と青野はいった。

これほど貧しい言葉はないと思った。この國の軍は、どこかで大きな忘れ物をしていた。

 

「敵は、すでにペニシリンをもっていた。これでマラリヤを治療する。こちらにはそんなものは何もありません。マラリヤにやられて兵士がばたばた倒れた。しかし、どうすることもできない。敵は、ジャングルの中に拠点を設け、無線で我々の動きを逐一察知して、本部へ知らせる。本部は、それを狙って集中砲火です。こちらは一人に一個の乾パン・・・」

金沢は、ゴクリと唾を飲んだ。

そして杯をあおった。

「空腹とマラリヤで・・・、トカゲ、オタマジャクシ、蛇、あらゆるものを食いました。同僚の死体のウジ虫まで食い、とうとう死んだ同僚の肉まで食ったという噂が広がりました」

「ガ島を{飢える島}というのは、そのことですね・・・」

「マラリヤと栄養失調、殆どの兵が飢えと疲労でフラフラです」

「それから・・・?」

「昭和十七年の大晦日になって、やっと大本営は御前会議で、ガダルカナルの撤退を決めました。大敗北です。それも「転進」という言葉で誤魔化した」

 

この戦いで三万四千名の兵が投入され、うち約二万名が命を落とし、うち一万二千名が栄養失調による戦病死という惨憺たる結果で終わったというのだ。

「日本陸軍の厭な面をみてしまいました。こんなことのために士官学校へ行ったのではない、と思いましたね。日清、日露の戦いに勝って、日本軍は驕りました。昭和に入ってノモンハン戦争でソ連に敗れて、日本陸軍は、方向を見失った。白兵戦一本槍、それに引き替え、アメリカは、陸、海、空の共同作戦、その上、武器や食糧の補給を最も重視していた。なんといいましょうか、「尖りの戦法」に対し、「包みの戦法」とでもいいましょうか・・・」

青野は、この言葉に、何故かひかれた。戦いを大きな風呂敷のような物量、資源で包み込んでしまう。その言葉には、日本陸軍とは全く違う思想が感じられるのだ。戦争とは、武器、弾薬、兵士だけではない。情報、外交、資源、技術の総合力なのだ。

 

 

重大な告白

「世の中がまた変わってきているようですね」と青野はいった。

金沢は、大きく頷いた。青野は、つい先日、「穴八」でGHQの男の通訳をしたことを再び思いだした。

「あれだけ戦争で、うたぶられて又ぞろ再軍備ですか?」

すると金沢は、急に眉をひそめ、声を落とした。

「もっと恐ろしいことがあります・・・」

「え?もっと恐ろしいこと?」

相変わらずカウンターの客の声がうるさかった。下品で大きな声で笑い興じていた。

「ここだけの話です。一切、口外しないでください」

金沢は更に声をひそめた。そして深呼吸をした。

「首相暗殺を目論んでいるグループがある。クーデターを企んでいる」

この言葉に青野は驚いた。

今、日本を治めている首相といえば、外交官出身で、中国総領事や駐英大使を経験し、欧米の事情にも通じている人物だ。根っからの「親英米派」で、日米開戦を阻止しようとして働き、占領軍にも言いたいことは言う自由主義者だ。敗戦国日本を何とかここまで引きずってきた人物なのだ。政治のことは青野にはわからなかった。が、絶えずもめ事があり、いろいろな人物が、入れ替わり立ち替わり権力の奪い合いをやっているらしいことだけは、漠然とわかっていた。

「旧軍人のグループが、ある勢力の尻馬に乗って・・・」といって、

これ以上をいうべきか迷っている風だった。

「今の首相は、頑固な反軍論者です。彼がいる限り警察予備隊を軍隊にできない。旧軍人だった連中、特に陸軍大学を卒業して元、軍の中枢に居座っていた連中は、昔の甘い汁が忘れられない・・・これは人間の業(ごう)とでもいいましょうか・・・」

「それをバックアップしている勢力がある?」

「庶民の知らない裏側で、ある勢力がうごめいている」

「ある勢力・・・?」

「はっきりしたことはわかりませんが、GHQもその勢力を利用している・・・」

「ここだけの話ですが・・・」と青野も、前置きをした。

「僕に先般、GHQの人の通訳を依頼してきた男がいます。奴が、あなた方の集まりの主催者と同一人物のように思えるのですが・・・」

金沢は、一瞬、怪訝な表情を走らせた。

「眼がきつくて左の眉毛の先が跳ね上がっている男では?」

金沢は、一瞬、驚いたようだった。

「さあ、どうでしょうか?」と微妙な返事を返してきた。

「その男の素性、おわかりですか?」

青野は、その男の正体が知りたかった。

金沢は、一瞬、ためらっていた。

しかし、ある決意をしたようだった。

「あの男のことは、仲間から漠然と聞いています」といった。

「そこのところをお聞かせ願えませんでしょうか?秘密は守ります」

金沢は、徳利の酒を湯飲みにぶちあけて一気に飲み干した。

しばらく間をおいた。何か考えることでもあるのか、迷っている風でもあった。

青野の方は見ずに、どこか途方もない一点をじっと凝視してた。

「あの男、戦前、右翼だったと聞いています。詳しいことはわかりません。戦時中は、上海にいた。そこで軍と手を結び、レアメタルを買い集めて、軍に用立てた。それで莫大な利益を手にしたようです。本当のことはわかりません。ただ、特攻隊という戦術を軍の上層部へ提案して実施させた男、大西滝次郎という人物が海軍にいた。ゼロ戦に爆薬を積んで、搭乗員に敵艦に突っ込ませる、恐ろしい作戦です。最終的な肩書は中将かなにかだったと記憶していますが、この男、終戦の翌日、腹を切って死にました。その時、使った短刀は、あの男が大西に与えた短刀だった、という話を聞いたことがあります」

青野は驚いた。

「リ・アーマメント」と、料亭「穴八」で米国人がしきりに口にした光景が思いだされた。

どういう男かわからないが、日本の裏側のいろいろなところに、この男が顔を出しているのだ。

 

その後は、苦い酒となった。夜が更けて、青野は、八坂神社の前で金沢と別れた。金沢の後ろ姿は、どこか寂しそうだった。青野が、そう感じているだけかも知れなかった。五月の夜風がなま暖かかった。青野は、事務所へ向かって歩きながら、何か重いものを抱え込んでしまったと思った。

 

 

五月の風

五月も半ばを過ぎたある日、青野の事務所へ旅館「畑中」から英恵が電話をかけてきた。

「青野さんですか?この度は本当にお世話になりました。お陰様で凡太さんの絵が、ほぼ完成しました。ご一覧に供したく存じます。明日の十時に、「畑中」までお越し願えませんでしょうか?」

明るい弾んだ声だった。百号近い大作を仕上げた達成感に溢れる声だった。一も二もなく青野は了承した。

 

翌日、青野は旅館「畑中」へ出かけた。八畳間の座敷に、すでに料亭「穴八」や「塩瀬」の女将、それに凡太も来ていたその日の凡太は、眼も覚めるようなエンジの長袖のワンピースを着ていた。伸びやかな白い足が青野の眼に止まった。漆黒の長い髪の毛は、そのまま背中にリボン一つで留め、長く伸ばしていたその黒髪は、凡太のヒップまで伸びていた。凡太は、着物を着ると、典型的な祇園の舞妓の姿になるし、一旦、洋装となれば、これまた現代の若々しい女性の姿に変身する技を心得ていた。

 

畳の床に薄べりが敷いてあり、床柱に問題の絵が立てかけてあった。まだ完成したばかりでキャンバスのままだった。百号を越えると想われる絵は、見事な仕上がりだった。英恵は、まだ微調整するところがあるが、それは東京へ帰ってからにするといっていた。

「凡太、すばらしい出来栄えだ」

青野がいうと、

「英恵せんせ、私を実物より、よっぽどきれいにお描きくださったんえ」と満更でもなさそうな表情で答えた。

「凡太、あんたは幸せでっせ。こんな立派な絵にしていただいて・・・」と「塩瀬」の女将がいった。

「凡太はん、えらいこっちゃ、この絵見せたら祇園中の評判になりまっせ」と「穴八」の女将がいった。

「凡太さんには、長い間、モデルになっていただいて、本当になんと申し上げたらよいやら、言葉もありませんわ」と英恵がいった。

「わてを、ほんま、英恵せんせは、ずいぶんお利口さんに描いてくれはったんや。実物以上や」と凡太がいった。

「いえいえ、そんなことありません。凡太さんは、夢のようなお方です」と英恵がいった。

事実、やや視線を落とし加減にした絵の中の凡太は、新鮮な知性さえ感じさせる。もはや凡太は、祇園の凡太ではなく、絵の中の凡太に早変わりしているのだ。その変り様は、嫌みがなく、普段の凡太の延長線上にあるものだった。そういう意味で、その絵は、凡太のある本質のようなものを引き出していた。この絵は、どういう人の手に渡るのだろうかと青野は思った。凡太に渡るはずのものではないことは明かだった。この絵は、凡太に、この日が最後の見納めになるのではないかと思った。五人は、絵を観ながら、抹茶をすすり、和菓子を口にした。凡太も感ずるところがあるようで寂しそうな表情をしていた。

「そのうち、個展でもお見せします。是非、その節は、凡太さんもいらしてください」

と英恵はいった。しかし、凡太の今の境遇では、わざわざ東京まで出向くことは不可能だった。この絵を買い取るだけの金銭的な余裕が、祇園の舞妓の凡太にあるはずもなかった。青野には、ある種の同情の念が込み上げてきた。この絵は、すでに一個の人格を獲得していて、今後、自由に一人歩きしてゆくのだ。この絵のこれから先の運命を思うと、凡太の心情が想いやられた。意外に気働きがよく、感受性が強く、利発さもある凡太のことだ。青野以上に特別な感情を抱いているに違いなかった。そのことを凡太の表情が表していた。

 

金澤英恵と「凡太の絵」のプロジェクトは、この日、終止符を打った。青野にも、すがすがしい感情が残った。その日は五月のやさしい風が吹く日だった。英恵は、問題の絵を専門の運送業者に荷造りさせ、東京の自宅へ宛てて送った。青野は、英恵が持参した油彩道具一式がつまった大きな革鞄を持って、タクシーで京都駅まで彼女を送った。

 

 

小指をツメた男

五月も終わりに近づき、梅雨前線が北上しつつあるらしい。そんなある日、青野は、二組の外人観光客が祇園を訪れるというので、そのスケジュール作りに追われていた。そこへ凡太が、たもとを翻して風のように訪れてきた。夕闇が迫る頃で、凡太は、舞妓の盛装をしていた。

「せんせ、元気かいな」

「元気だとも。今日は、また美しい凡太やな」

「そやろか?」

凡太は、ソファに腰を下ろした。長いたもとは、膝の上に丁寧たたんでいた。テーブルのシガレットケースから、細巻きを口に銜えると、ライターで火をつけた。青い煙がゆるやかに昇っていった。凡太には、なにか言いたいことがあるらしい。そろそろお座敷の時間なのに青野をわざわざ訪ねてきたのだ。

「凡太、何かあったのか?」

青野が聞くと。

「せんせ、ゆんべ、また例のけったいな男の人らの宴会があったん」

「また例の連中が来たんか?」

「そや、ゆんべは五人だったわ。例の小指をつめた人もおったんや」

「組関係の者達やな」

「けったいな人物はおったのか?」

「そや、そのけったいなお人が主催者や。東京から「つばめ」の一等車でくるらし。ほして、決まって都ホテルに泊るらし・・・手の切れるようなお札で、きちんと支払をしはる。どんなうさんくそうても、商売やし、女将もなんもいわへん。眼つむっておるのや」

凡太は、タバコの煙を吸っては空(くう)に吐いた。まだ言いたいことがある風情だ。

「それがなあ、せんせ」

「どうしたんや」

「例の小指をつめた人、突然、わてと写真を撮りたい、いわはんね。床の間の前へ立ていわはる。わても仕方のうて、そのお方と並んで・・・」

「そして?」

「ほしたら、仲間の一人が鞄の中からカメラを出したんや。そん時、その小指をつめたお人が、俺は伊賀の忍者やぜ、いわははった。せんせ、伊賀いうのは、そんなとこかいな?」

「伊賀か、有名な忍者の里だ」

「せんせ、行かはったことある?」

「行ったことはないね」

「写真のシャッターが切られたとたん、みんなが拍手や。なんや厭な感じやったわ」

「凡太、面白い話やな、その席の主いうのは、例のけったいな男か?」

「そや、ほんま、うさんくさい宴席やわ。ほして、わてと写真を撮ったその男の人が、その時の写真をわてに送ってくれるいわはるんや」

その男は、凡太に眼をつけはじめたようにも思える。

「ほして・・・」

「そして、どうしたんだ」

青野も興味がある。

「その人が酔っぱらって上着を脱ぎはった。その上着を部屋の隅のお客さん用の衣紋掛けにかけてやったんや」

「そして・・・」

「ほしたら、せんせ、また例のずっしりと重たいもんが上着の内ポケットに入っているのや」

「凡太が前にいっていたものか?」

「もう忘れはったん? クナイや、クナイいうもんや」

クナイ、青野は、その不思議な道具の名前を反芻した。

聞いたことのない道具の名前だった。

 

その宴席の主は、女将にはっきり名前をいわなかったらしい。

「どうも最近「穴八」のお客も変わってきた感じや」

「そうはいっても京都や大阪のお大尽がたも来るんだろう?」

「来はるには来はるんやが、ああいううさんくさい宴席の噂が立つと、やはり地場のええお得意さんに影響あるんとちがうやろか・・・」

青野が通訳で呼ばれた宴席もおかしな宴席だった。例のうさんくさい男は、正式な名前も名のらず住所も明かさず、弟子らしい男に一切を仕切らせ、自分は表に決して立たないというやり方だった。

「せんせ、ほなら又来るわ。今晩は、ええ宴席でありますように・・・」

凡太は、袂を翻して出ていった。凡太の若々しい香りが漂ってきた。それにしても、そのけったいな人物が、こう頻繁に宴席をもつということは、一体、どういうことなのか。しかも、わざわざ東京から京都までやってきて・・・その事が青野には今ひとつ解せなかった。金沢がいった「ある勢力」、これが、この得体の知れない男の実像なのか?いずれにしても、GHQ高官に旧軍人の集まり、それに組関係らしき者も顔を出している。一体、その「けったいな男」は、どういう人物なのか知りたい欲望に駆られた。恐らく世間でいう黒幕に属する人物であろう。自らは殆ど表に立たず、全て子分とか手下にやらせる。そうかといって肝心な事は全て奴が抑えている。しかも、その肝心な事というのが、天下国家に関わることも含まれるのだ。

 

 

暗い雨の季節

京都にも梅雨の季節が訪れた。毎日、毎日、絹糸のような繊細な雨が降り続いた。四条大橋から、川上を見渡すと、雲がかかったように霞んでいて、水かさも増していた。この季節、観光客の数もぐっと減り、町にも静かさが甦ってきた。青野は、下宿のおばさんの言いつけで、高下駄を履き錦市場へ千枚漬けを買いに出かけた。雨が降り続いていても昼前の錦市場は、買い物客で賑わっていた。いつもの漬物屋の前に立つと、

「青野せんせやおまへんか?」と後ろから声がかかった。

振り向くと料亭「穴八」の女将が買い物籠を抱えて立っていた。その買い物籠から、鋭いハモの尖った口がせり出していた。ハモの料理は難しい。恐らく腕前のいい板前に「骨切り」をさせるのだろう。

 

「せんせ、今晩、また例の宴会ですわ。旧軍人さんらの集まりですわ。凡太はんも呼ばれますのんや。みんなが、凡太はどうしたいわはるんですわ」

「不思議な集まりですなあ」

「そやかて、手の切れるようなお札で即時払いですねん。お金のある人にはあるもんですなあ」

女将は、ハモの入った買い物かごを抱えて帰っていった。凡太も今夜はお声がかかる。青野は、千枚漬けの袋を下げて、錦市場をあちこち見て歩いた。その時、青野は、誰かにつけられている感じがして、後ろをふり返った。しかし、それらしい人物は見当たらなかった猥雑な人の波が、あちこちを右往左往しているだけだった。青野は、これは自身の錯覚だと思った。

 

その夜、青野は、事務所に残って残務整理をしていた。京都を訪れる外国人が増えてきている。その年、接収されていた歌舞練場が返還された。四月五日から五月二十日まで久しぶりに都おどりが行われる。外人客が訪れ、青野が引っ張り出されたその事務処理が残っていた。その時の都おどりの歌題は、源氏物語にちなむものだった。この世界は、青野にも苦手な世界だ。その通訳は難しい。古典を知らなので、いい加減な対応しかできなかった。しかし、「グランド・ゲイシャ・ダンス、イッツ、ワンダフル!」といってアメリカ人は喜んだ。夫婦連れで都おどりを見物した一組の外人夫婦は、奥さんが是非、舞妓の衣装を着て記念写真を撮りたいという。そこは京都、歓楽の町だ。清水寺の近くに、「ゲイシャ・プラン」という触れ込みで、舞妓の衣装姿を、そのまま外人に再現させることを業としている店がある。広い畳敷きの部屋に、カツラから簪、それに裾模様の派手な衣装、照明なども全部揃えてある。どんな外人でも、たちどころに、京の舞妓姿に変身させる。その晴れ姿を写真に納め、故国へお土産に持参させるのだ。京都は、エンターテインメントの町なのだ。その事務処理をしていると、突然、青野の事務所のドアを叩く者があった。その晩、外は雨だった。この時刻に誰かと思いながらドアを開くと、傘をさした金沢が立っていた。挨拶もそこそこに青野は、金沢を事務所に引き入れソファに座らせた。金沢は、先日、会った時よりやややつれた面持ちだった。青野は、恐らく例のけったいな男が主宰する「穴八」の宴会の帰りに違いないと思った。青野は、厨房から国産のウイスキーを取り出し、水割りを作った。大坂は心斎橋の昆布の佃煮を肴にテーブルに並べた。

「とんだ時刻に、予告もなしにお訪ねして・・・」と金沢はいった。

その時の金沢の眼差しには、先日、見せなかった緊張の色が窺えた。

「よくいらっしゃいました」

向かい合って青野も水割りをすすった。

「また例の秘密会議でしょう?」

青野が水を差し向けると、

「よくご存じで・・・」と金沢は、一瞬、驚いた表情を覗かせた。

「今日、錦市場で「穴八」の女将に会いました」

その日の金沢は、どう見てもいつもと違った印象だった。せっぱつまった感じがするのだ。

 

「この間、お話しした件、いよいよ詰まってきました。秘密が漏れないよう組の者が眼を光らせています。この私にも尾行がついて・・・」

金沢は、タバコに火をつけ、大きく煙を吸い込んだ。

「そこまでやっているのですか?」

青野は、今日、錦市場で背後を誰かがつけている感じに襲われたことを思い出した。

「兎に角、首謀者は、ノモンハンやインパール、ガダルカナルなど、日本陸軍を敗戦へと導いた高級参謀らです。彼らは元陸軍中野学校の卒業生を糾合して計画を実行しようとしている。陸軍中野学校は、簡単にいえば「スパイ養成学校」です。彼らは軍資金を潤沢にもつある勢力と強く結びついる。その勢力をGHQが支援している。実に不思議な構図です」

人間というものは、過去の己の立場を自己擁護し、それにすがりたがるものだ。できるものなら、過去の栄光に戻りたいというのが普通だ。金沢は違っていた。過去の己の立場に全くこだわる風がなかった。そういうものとは決別して、新しい時代の息吹を享受したいと願う人間のように青野には思えるのだ。金沢は、そういう意味では一風変わった人物でもあるのだ。

「やはりいけません。時計の針を元へ戻すことは・・・折角、國の形を変える大事な時期にあるのですから・・・」といった。

その気持ちは、青野にもわかる気がした。青野には、帰るべき過去の姿はなかった。全てがこれからの人間なのだ。そこが金沢と違っていた。

「どうですか、今の人達から抜け出すということは?」

「それができないのです。回りをがんじがらめに固められていますから・・・」

金沢は、もがけばもがくほどへばりついてくるトリモチのようなものにつかまってしまっているのだ。しかし、彼には、そういう運命を、受け入れるような諦めに似た面影があった。

「今日の宴席での凡太さん、美しかった。家内もお陰様で京都での仕事に満足していて、今、自宅で絵の微調整をやっています」といった。

 

その夜、金沢は、遅い汽車で東京へ帰ったのか、どこか旅館に泊ったのか、全くわからなかった。飄然と小雨けぶる闇の中へ青野の事務所を立ち去っていった。がっしりした体格にしては、どこか侘びさが残る後ろ姿だった。人間の一生には、気のつかないうちに捕らわれる罠のようなものがあるのだ。その夜の金沢は、その罠から抜け出そうとする気力も萎えた寂しい後ろ姿だった。青野は、金沢の姿が見えなくなった後も、しばらく小雨が降り注ぐ暗闇の戸口に突っ立っていた。なぜそのような気持ちになったか、青野自身にもわからなかった。ある種の寂しさが青野にも迫っていた。

 

翌日、青野は凡太へ電話をかけた。凡太は、いつもの明るい声で電話口へ出てきた。

「凡太、昨晩は大変だったな。例の宴会で・・・」

「そや、せんせ、よう知ってはるやないか。けったいな男の変な宴会やったわ。金沢さんもいらしたんえ」

青野は、昨晩遅く金沢が、事務所を訪ねてきたことは凡太に言わなかった。

「また例の会議の後、大宴会や。ほして最後は「同期の桜」を歌いはってお開きや」

「金沢さんは、他の人とちょっと毛色が違うんや。静かなお人や。

他の人らは、すごい酒飲みや。ほして、みな大ほら吹きや。わてら静かにお酒飲む人が好きやねん。せんせみたいにな・・・」凡太はそういって青野にゴマを摺った。

「いつものけったいな人もおったんか?」

「そのけったいなお人の酒席ですねん。どことなく品の悪いお人や。それと元陸軍の参謀だった相沢なにがしいうお人と、も一人、同じ元参謀の辻田いう人、この三人が、全部をまとめはっている会や。

せんせ、参謀って、偉い人やったんだそうな。戦争の作戦をみな立てはる人なんやてな。そうそう、例のけったいなお人は、戦争中には上海におったらし。上海におって随分、お金儲けしはったらし」

「へえ、おもろい話やな。そのけったいなお人いう人物に会うてみたいもんだな」

「せんせ、あないな、いかがわしい人とお付き合いせんといて。それより、せんせ、又イタリアンでもご馳走してほしいわ」

「わかった。そのうちにこの事務所へ出向いておいで」

そこで青野は電話を切った。その宴会のおおよその空気がよくわかった。金沢は、そういう雰囲気に馴染めない、ある種のはぐれ者なのだ。しかし、青野は、金沢には、「はぐれ者」として一括りにはできない何かがあるような気がした。

 

 

赤い色の夏

梅雨の季節が去り、京都も灼熱の夏を迎える頃となった。そろそろ祇園祭の鉾出しも始まるようだ。天から降ってきたように暑熱が京都にどっかりと居座り始めた。そんなある日、青野は、金沢英恵から一通の手紙を受け取った。手紙は、ほんのりと香りのする便箋に、達筆で、むしろ男っぽい字で書かれてあった。それは英恵の性格をかなりはっきり表した文字であった。例の凡太の人物画にかかわるお礼と、個展開催の連絡だった。凡太の絵が、とうとう一般の人の眼に触れる時がやってきたのだ。手紙には、八月の半ばから二週間の期間、銀座の松屋百貨店の裏にある「深草画廊」で行われる。是非、青野に観にきてほしいという内容の手紙だった。青野は、どんなことがあっても凡太の絵は観にいかなければ、と思った。ここのところ東京とは殆ど縁がなく、戦後十年近く経た東京の変わり様にも興味があった。しかし、青野は、すぐその場で何時上京するか答が出せる状況ではなかった。祇園祭も近く、どんな仕事が舞い込んでくるかわからなかった。どちらかといえば、不意に訪れてみるのも一つの方法だとも思っていた。個展の期間は、丁度、祇園祭が終わった頃であった。最も暑い季節だった。それもある意味では好都合だった。祭の最中は、何かと青野が仕事に追われる時期だったからだ。まだ一ドル三百六十円の固定レートの時代で、戦災の被害を受けなかった京都へは多くの外人観光客がやってきた。米国人が殆どだった。彼らは一様に金閣寺を観たいといったが、金閣寺は、一人の僧侶による放火で再建中であるため、それを説明して青野は、多くの外人客を主として銀閣寺へと案内した。あの焼けただれた骨組みだけの金閣寺を見せたくはなかった。恐らく入門も許されなかっただろう。その一僧侶による国宝の放火には、諸説があり、有名な作家の小説にもなった。ただ、その放火犯の母親が、京都府警に追及されたあげく、山陰線の列車から亀岡市付近の保津峡に飛び込み自殺したのだ。なんともいたましい事件だった。しかし、なんといっても外国人は、祇園の舞妓の姿に惹かれるらしい。そんな時、青野が祇園祭の宵山で混雑する四条通りを歩いていると、猥雑な人ごみにまぎれて青野の後になり先になる人物がいるのに気がついた。どこかで巻こうと思っても、秘かに、遠くなり近くなりして、しつこくまとわりついてくる感じだった。黒い背広の肩をいからせ眉毛の濃い四角い赤ら顔で背が低く屈強そうなその男は、青野と視線が会うと、さっと脇の商店に入り込み、客に早変わりする。青野は、誰かにつけられている感じを拭い去ることはできなかった。そんな時、四条通りを大丸前辺りまで歩いていると、向こうから青野が懇意にしている府警の谷田部が私服のまま歩いてくるのに気がついた。谷田部は、府警の捜査を担当する部の管理職だった。以前から、いろいろな事件に手を貸したことがあって、気心の知れる仲だっだ。

「谷田部さんじゃないですか?」

「おやおや、青野はん。ご無沙汰」

青野は、谷田部を裏通りの喫茶店へ誘った。谷田部は、時間に余裕があるのか、いつもならしぶるのを青野の誘いに従ってきた。喫茶店には、表通りとは、ふっきれたような静かさがあった。表の喧噪もここまでは届かない。客もまばらだった。エアコンの涼しさが何ともいえなかった。

「谷田部さん、僕は、誰かにつけられている気がしてならないんだ・・・?」と青野は切り出した。

「ほう、そんなことがあるのかいな」

「いつも同じ顔の男が、僕の後を前後左右についてきている感じなんだ」

「どんな男や?」

「背の低い、組の人間らしい男だ。普通の人間と人品骨柄が違う」

谷田部は、不可思議な表情で、青野の問いに答えた。

「今のところ、有り難いことに事件らしい事件もあらへんし・・・」といって、大きな音をたててコーヒーをすすり、青野の前であの顎の張った顔で大きなあくびをした。

この程度のことでは、谷田部は、鼻もひっかけない。

「「穴八」で不思議な宴会が度々開かれているらしい・・・」

「どんな宴会や?」

谷田部の職業的な本能が甦ってくる。眼の色がやや厳しくなってきた。

「二種類あって、一つはどこかの組員たちの宴会だ。も一つは、旧軍人、それも高級将校たちの集まりらしい・・・」

「その話は初めてや。ただ、うちの部員がいうには、神戸の蘇鉄組の連中が頻繁に京都で乗り降りするらしいんや。そこまでは、わしもつかんでおる。しかし、旧軍人達の話は、初めてや。それはどんな集まりや?」

谷田部は、職業柄、身を乗り出して青野の話に耳を傾けた。

「それも主催者は、同一人物なんだ」

「どんな人物やね?」

「それがわからないんだ。ただ、わざわざ東京から出てくるらしい」

「そういう男には、何か裏があるな・・・」

「名前や身元は一切あかさない。宴会の予約や仕切は、すべて子分にやらせるらしい。奴がやるのは支払だけだ。しかも全てキャッシュだ」

「へえ、おかしな男やな。身元をあかさん奴は、たいてい問題がある。気をつけんといかん」

「「穴八」の女将も困ってる。宴会の前は、必ず秘密会議だ。料亭の人間も一切部屋へ入れない・・・、その後が飲めや歌えやの大宴会だ。但し、支払はきちんとしてる。その男がキャッシュで払うらしい」

「少し探ってみるか・・・だが、あんたをつけてる奴いうのは、わからんな。気のせいと違うか? まあ、青野はん、よう見張っておいてや。なんかあったら、わしに知らせてや。「穴八」の女将も困ってるんやろ。店の評判にもなるしな」

谷田部は、青野の話に、関心をもったらしい。

「青野はん、あんたには世話になってるし、あんたのカンは、なかなか鋭い。今日の話は参考にしとくさかい、なんかあったら、わしに知らせてや」

二人の会話は、その後、世間話で終わった。谷田部は、再び、祭の喧噪の中へ消えていった。表通りは、狂ったような人の渦だった。酷暑は、まだどっしりと居座っていた。

 

 

青野、個展に行く

祇園祭が終わると、京都の喧噪は、浪を引いたように去っていく。だが、その後は、「送り火」があり、それが過ぎると、もみじの季節がやってくる。一年中、季節相応の仕組みが出来て上がっていて飽きることを知らない町なのだ。ミカドと貴族が長い間、居を構えていた町だけあって、それぞれの季節の楽しみを知っているのだ。衣、食、住と贅沢の極みをほしいままにしていた町なのだ。それだけに日本文化の粋もある。その間をぬって、青野は、東京へ金沢英恵の個展を観に行かねばならなかった。

 

まだまだ暑い日が続いた。青野は、東京行きの午前の列車に乗った。日帰りのつもりだった。その日は、英恵の個展の最終日だった。あれこれスケジュールをやりくりし、やっと英恵の個展の最終日に目途がたったのだ。列車は、二人づつ四人が向き会う座席だった。いろいろな人種が、さまざまなファッションと習慣を持ち込んで乗ってくる。羽織に袴、それにピカピカの靴を履いた青野も例外ではない。客はじろじろと青野を頭のてっぺんから靴の先まで、眺めまわした。しかし、そんなことにはお構いなしの青野だ。鞄から読みさしの文庫本を出して読みふけった。戦後で物流がまだ発達していない時期だ。網棚には、雑多な大荷物がぎっしりと載せられていた。青野は、いつの間にかうとうとした。眼を覚ますと、すでに名古屋を過ぎていた。その時、青野は、離れた同じ車両の入口近くに、青野をつけてきた例の男の後ろ姿を認めた。男は、しきりにタバコを吸い、時折、青野に知られないように視線を投げかけてきた。後ろ姿で断定はできないが、あの祇園祭の日に、青野をつけてきた男のようだ。着ている服は、あの時とは違うが、頭の形、髪型などから、人品骨柄がそっくりなのだ。男は、上着を脱いで網棚に乗せ、ブルーの縞柄のワイシャツ姿で、時折、席を立ちトイレのある列車と列車の連結された部分に立って、タバコを吸っているようだった。タバコを吸い終わって、車両のドアを開けて、自分の席に戻る時、チラリと青野の方へ視線を投げかける。やはり俺は、奴につけられていると青野は確信をもった。青野は、文庫本を読みながら、時折、上目遣いに、男の動静を観察することを怠らなかった。静岡を過ぎた頃、車内販売の車がやってきた。そろそろ車窓から夏空に、頂きに雪のない素顔の富士山が見える頃だった。例の男が車内販売を呼び止め、缶ビールを買ったようだ。その時、青野は、缶ビールを握った男の手の小指が飛んでいるのを見た。それは青野にとってゾッとする感覚だった。男の席は車両の前方のドア近くであり、青野は、後ろのドアから三番目の通路側の席に座っていたのだ。青野は、悟られまいとして文庫本に眼を落とした。しかし、しばらくの間、文庫本の行間を無為に視線が追っているだけだった。三時を少し回った頃、列車は東京駅に着いた。青野は、その男が車外に降りるのを見届けてから、ゆっくりプラットフォームに降り立った。すでに乗客の多くは、地階へ通ずる階段を下りていた。青野は、用心深く周囲を見回し、ゆっくりと階段を下りていった。男の姿は見えなかった。熱気が袴の裾を伝って這い上がってくる。東京も暑かった。京都に比べると、その暑さに湿気が加わって、すっきりしない気分だった。東京駅は、人の行き交いも京都とは段違いに激しく、混雑していた。東京は、青野が思った以上に復活していたのには驚いた。町を歩いている人々のファッションも見違えるほど華やかになっていた。東京という都会が、完全に息を吹き返したといってもよかった。空襲の被害を余り受けていなかった銀座通りも賑わっていた。画廊「深草」は、銀座松屋デパートの裏通りを二筋ほど入った所にあった。こじんまりとした画廊だった。受付でサインをしていると、青野を見つけ、早速英恵が近寄ってきた。

「まあまあ、ご遠方をいらしてくださり・・・」と深々と頭を下げた。

その日の英恵は、ブルーの涼しげなツーピースを着ていた。

年齢の割に白髪が殆どなく、よく手入れされた漆黒のヘアスタイルだった。やや大玉の真珠のネックレースが眼についた。英恵の最新作が三十点ばかり、ずらりと展示されていた。風景や静物画が並ぶ中に、凡太の絵が、なんとこの画廊の中心に展示されていた。凝った額縁だった。百号近い凡太の絵は、画廊にある種の迫力さえ添えていた。青野は、その絵の前に立ち、離れたり近寄ったりして眺めた。絵の中の凡太は、すでに現実の凡太ではなく、ある種の普遍性を獲得していた。いぶし金のように凝った彫りのある額縁に四方を囲まれ、静かに視線を斜めに落とした凡太は、ある種の気高ささえ感じさせる。それはすでに普段、凡太に感じる凡太ではなかった。別人格の凡太だった。

「ご立派な絵です」

「その節は、お世話になりました。お陰様で、つい先刻、早速売約済みになりました」

その英恵の言葉を聞いて、青野は驚いた。凡太の絵は、すでに他人の手に渡っていたのだ。

「どんな方がお求めに・・・?」

「それはちょっとお許しくださいまし」

英恵は、具体的なことは、一切喋らなかった。当然、その金額など聞く由もなかった。

「本当を申しますと、手放したくなかったのですが・・・」

英恵は、ごく控えめにそういった。青野は、何故か侘びしい気持ちになった。凡太が聞いたら、どんな思いをするだろうと想像したからだ。凡太の絵は、凡太は勿論、青野も、「穴八」の女将も、「塩瀬」の女将も、もう観ることはかなわないのだ。何か大事な人との惜別のような気持ちに襲われた。しかし、これが絵画の運命というものなのだ。絵の中の凡太は、新しい持ち主のところで、新しい人生を送ることになるのだ。それは、青野を侘びしい気持ちにさせた。

 

英恵の個展には、凡太の絵の他に、「K氏像」という人物画があった。それは英恵の夫の肖像画だった。英恵の説明を聞くまでもなく、それが金沢を描いたものであることは青野にもすぐわかった。描かれた人物の左眼のまぶたの下に泣きホクロがあったからだ。その泣きホクロがなかったなら、一寸観ただけでは、それが金沢を描いたものだとはすぐにはわからなかった。その絵は、デフォルメがきつかったし、どういう訳か逆光で描かれていた。背景には金沢の家の庭なのだろうか、ガラス戸越しに木々や草花が描かれていて、それらに強い光線が当り、室内の金沢の表情は、落ち着いてはいるが、暗く何かをじっと凝視しているような表情で描かれていた。その眼差しには、諦観のようなものが伺えた。静物の果物や、草花、そして風景にしても英恵は、独特の赤を使っていた。どの絵も、その赤で引き締まっていた。何とも説明のつかない不思議な赤の色だった。

 

 

失敗の本質

時間は四時を過ぎていた。これから京都へ帰るのもおっくうだった。今日は、東京の何処か安宿に泊り、明日の朝の列車で京都へ帰ろうと思った。英恵に挨拶をして画廊を去ろうとした時、

「青野さんじゃないですか?」と声をかける者があった。

ふり返ると金沢が立っていた。すぐさま、

「今日は、主人といかがでしょう?」と英恵が早速声をかけてきた。

金沢は、もう一人、友人を連れていた。その男は、細身で背が高くやや暗い眼窩をもっていた。二人ともにこやかに微笑を湛えていた。

「こいつは、中学時代からのポン友の友岡です。私とは違い、こいつは海軍予備学生でゼロ戦乗りでした」と相手の男を紹介した。

男はにこやかに、青野に握手を求めてきた。金沢より顔が長く、背も高かった。きちんと背広を着ていた。ピカピカに光った黒い靴は、青野と同じだった。金沢の世代は、軍隊経験と縁が切れないのだ。旧軍人らしく、しっかりと背を真っ直ぐ伸ばし、さわやかな気持ちのよさそうな男だった。友岡は、にこやかに笑って青野に挨拶した。二人とも軍国主義華やかな頃に青春を送った人たちで、陸軍と海軍に自分の運命を賭けた人たちだったのだ。しかし、金沢とは違って、友岡には深刻な面影はなかった。長い時間が、すべてを洗い流してしまった感じだった。金沢と比べると足取りも軽かった。

 

その夜、金沢は、昭和通りに面した小さなホテルを予約してくれた。そのホテルの地階のバー兼レストランへ青野を案内した。バーのテーブルに席をとり、三人でそれぞれ好みの酒を注文した。青野は、その日、赤い酒が飲みたくて、ブラッディ・マリーを注文した。金沢は、ジン、友岡という人は、生ビールを注文した。三人は、スペアリブを肴に飲み始めた。

「青野さん、こいつは、ミッドウエーの生き残りです」と金沢がいった。

「金沢さんがガダルカナル、友岡さんがミッドウエー、不思議な取り合わせですね。お二人とも、日本陸、海軍の敗北の戦いに参加されていた」

「そういうことになります」と友岡はいって明るい笑いを漏らした。

友岡という人は、今、三菱系の会社に勤めているとのことだった。三人ともタバコを吸う口で、酒をあおりながら、もうもうと煙を吐いた。

 

「なあ、金沢、お前も俺も、はかない夢に踊らされていたんだなあ」

友岡という人が過去をふり返っていった。

「俺達の青春は、一体何だったんだという気持ちだね」

金沢がいった。

「俺達が立たなきゃ、この國はどうなるんだと、せっぱ詰まった気持ちだったな。今から考えればアホな話だ」と友岡がいった。

「全部騙されて、のせられていたんや。あの雨の日の神宮外苑の学徒出陣や。あれにみんな踊らされた。理系の連中は、徴兵が伸びたが、俺達、文系は、文句なしに、煽動に乗せられた。そして死んじまった。お前は、軍人志望だったから、俺とは少し違う。いい思いもしたんじゃないか」

「いや、軍隊というところは、考えていたものとは全く違っていた。階級序列とピンタの世界や。敗色が濃くなると、もっとひどくなった」

トバクチは、昔の回顧談から始まった。青野は、二人の話を聞く外なかった。話は、軍隊の回顧談となっていった。彼らには、それが人生経験の原点で、いくら拭おうとしても拭い去ることができないのだ。

 

「引き金を引いたのは、昭和十八年四月十八日の日本初空襲です」と友岡がいった。

「あの空襲、私なんか小学生だった。鳥取の田舎で東京に空襲があったと聞きましたが、全く現実感がなかったですね」と青野。

「そこで山本五十六の出番です」

「山本五十六、有名な連合艦隊司令長官ですね。日米戦争に反対した・・・」

「そうです」と友岡がいった。

「真珠湾を奇襲しましたが、その時、湾内に敵空母が一隻も見当たらなかった。彼は、これは将来、大変なことになる、本土空襲の引き金になると考えていた」

「敵の空母は、その時、どこにいたのですか?」

「わかりません。これを沈めておかなければ、将来、日本は、大空襲に見舞われると思った。米軍の航空基地があるミッドウエーを攻略すれば、それに誘発されて、真珠湾奇襲で逃がした米国太平洋艦隊の空母群が姿を現わすにちがいないと思った」

ミッドウエーのこととなると友岡も熱がこもる。

「それでミッドウエーですか?」

「そうです。ミッドウエー、これをたたけば、敵の空母群が姿を現すと思った」

「なるほど・・・」

「山本長官は、日米開戦に反対でした。アメリカの駐在武官をやったことがありましたから、その強大な国力をいやというほど知っていた」

「なるほど・・・」

「ミッドウエーで米国太平洋艦隊の空母群を壊滅させて、次はハワイ占領を考えていた。

同時に、北のからの攻撃を防ぐために、北のアリューシャン列島のアッツ島とキスカ島の攻略も考えていた」

「すごい発想ですね。ハワイ占領とは・・・」

「その上で、講和に持ち込むことを考えていた・・・」

そこまで喋ると友岡は、ビールをごくりと飲んだ。

「ミッドウエーは海軍、ガ島は陸軍です」と金沢が口を挟んだ。

「戦艦「大和」を含む主力空母四隻からなる大機動部隊を発進させた・・・」

「山本長官は、何に乗っていたのですか?」

「「大和」です」

「ほう、沖縄戦に向かう途中で沈んだあの「大和」?」

「そうです。日本海軍聡出陣です。アッツ、キスカへ向かう機動部隊とミッドウエーへ向かう機動部隊とが別々に発進した」

「ミッドウエーの聡指揮菅は、南雲中将。これには、虎の子の「赤城」、「蒼竜」、「瑞鶴」、「翔鶴」と、日本の主力空母四隻を総動員した。ずっと後方に山本の乗る「大和」が控えていたのです」

「あなたは、何に乗ってらした?」

「空母「赤城」ですね」

友岡はビールをしきりにあおった。

「お前、ゼロ戦に乗ってたんだろ?」

金沢が聞いた。

「そうだ。あの時、ゼロ戦は、ミッドウエーを攻略する部隊と真珠湾から逃れていた敵空母をたたく部隊と二手に別れていた。俺はミッドウエー飛行場攻略部隊だ。だから俺のゼロ戦は爆弾を積んでいた。敵空母を狙うゼロ戦は、魚雷を積んでいた」

「敵は、日本の暗号を解読していた・・・」と青野。

「アメリカは、日本海軍がハワイの次に、どこに仕掛けてくるか、ハワイの苦い経験から特別な暗号解読組織をつくって、こちらの暗号解読に必死に取り組んでいた。そこで日本軍の次の攻略地点は、暗号“AF”だ、とまで突き止めた。しかし、“AF”というのが何処を指しているのか皆目検討がつかない」

「そこで、どんな手を打ってきたのですか?」

青野にも興味がある話だった。

「“AF”が、どこをか探りまくった。そこで使った手が、偽電報です。奴らは“AF”では真水が不足して困っている”という偽電報を、わざと易しい英文でミッドウエーからハワイへ打電させた・・・いわゆる誘導電報です」

「そして・・・?」

青野には、話のその先が待ち遠しい。

「まんまと、その手にのせられた。この偽電報を傍受した日本の先発隊が、偽電報とは知らず“AF(ミッドウエー)では真水が不足して苦しんでいるらしい”と暗号で東京の海軍本部へ知らせてきた。それでAFとはミッドウエーだ、と読まれてしまった」

「うまく乗せられた」

「敵は次はミッドウエーへ攻めてくると読んだ。向こうはレーダーももっていた」

「日本軍に、レーダーはなかった?」

「日本でレーダーを装備しているのは戦艦だけでした。それも技術的に、とてもお粗末だった・・・敵は全艦レーダー持ちです。こちらの動きを全部察知して作戦を立てていた」

「ゼロ戦の爆弾と魚雷の付け替えで手間どり、そこを突かれた。有名な話です」と金沢がいった。

「ミッドウエーに俺が行った時はな、飛行場には一機も敵機がいないんだ。みんな、飛ばして逃げていた・・・索敵からは、空母見えずだ。あの時、空母を発見していたら、魚雷を積んだゼロ戦が一斉に発進して敵空母を徹底的にやっつけた・・・」と金沢が言った。金沢も事情に詳しい。

「海軍はミッドウエー上陸を考えていたから、敵機のいないミッドウエー飛行場をメチャメチャに叩け、ということになった。そうすれば飛んで逃げている敵機は、着陸する所がなくなる。ところが、その時点でも、索敵からは、いまだ敵空母見えずだ。索敵の完全な失敗だ。こんな重大な時に索敵機を一機しか飛ばしていないんだから・・・」

「敵空母がいないなら、ミッドウエーの敵の飛行場を破壊しろということになった。ここで敵空母攻撃用のゼロ戦から急遽、魚雷をはずし爆弾につけ替えた。これに時間をとられた・・・そこへ、敵機が猛烈に襲ってきた・・・初めは、奴らを大方撃ち落とした。そしたら、やっと索敵から、“敵空母見ゆ”や。あわててゼロ戦の爆弾を魚雷につけかえた。そこへ敵の空母から発進した大編隊が襲ってきた。もうめちゃくちゃや。俺達ミッドウエー攻撃から帰ってきたゼロ戦は、ガソリンはきれる。来襲した敵機とも戦わねばならん。次々に海へ突っ込んだ」

「魔の五分間いうやつやな」と金沢が言った。

「大混乱や、敵は、猛烈な魚雷攻撃と空爆だ。爆弾を魚雷に積み替えばかりのゼロ戦が、敵の攻撃で猛烈な誘爆を起こした。四隻の主力空母が全部やられた。俺達は、空母がやられて着艦できない。海上へつっこむしかなかった」

「お前、よく生き残ったな」と金沢がいった。

「海をただよっていたらな、駆逐艦が見つけて引き揚げてくれた。「飛竜」だけ残して他の空母は全部やられた。これで日本海軍の空母は全滅や」

「すごい戦いですね。山本長官は?」

「作戦中止、引き揚げということになった」

「大本営は、この敗戦をひた隠しに隠した」

「ミッドウエーからの敵機だけなら、殆ど打ち落としたのに・・・」

「あの魚雷積み替えさえ無けりゃ、勝っていたな」

友岡は、悔しそうにビールをあおった。苦い追憶が未だに友岡を攻めるらしい。それからは金沢も友岡も軍の上層部の批判となった。三人は興奮が納まると、ボーイを呼びカレーライスを食った。青野は 別れる金沢に聞きたいことが一つあった。しかし、聞こうか聞くまいか戸惑った。金にまつわる話になりそうだったからだ。しかし、聞いておきたい事だった。

 

 

売約済みとなった絵

「金沢さん、例の凡太の絵、買い手がついたそうですね。どういう人がお買い上げになったのですか?答えにくければ、お答えいただかなくても結構ですが・・・」

青野がこう切り出すと、金沢は、意外に平気だった。

「例の男だと思いますよ。凡太さんの絵と何故か私の肖像画と二点を買い上げて・・・」とだけいった。

その一言で青野にはピンとくるものがあった。

「金沢さんの、あの肖像画も・・・?」

「いい値以上に札ビラを切りました。英恵の判断です。私は一切口を挟んでいません」

この答には、青野も驚いた。それを口に出すのも憚られた。

「早手回しですね」とだけいった。

「名前も住所もわかりません。奴の手下が買取りに来たようです。本人は一切姿を現さない・・・」

これには青野も驚いた。世の中には不思議なこともあるものだ。英恵が凡太の絵を描いたことをどうやって知ったのか?金沢が口にする筈はない。それが、こともあろう、あの男の手に凡太の絵が・・・あの絵が、例の男の手に渡ったとは、凡太には口が裂けても言えないと思った。凡太の気持ちを考えると、この事実は意外に重要なことだった。あの絵に託した凡太の気持ちは一体どういうことになるのだろう。ある意味で、青野は、金沢英恵に憤りに似た感情さえ抱いた。それに金沢氏の肖像画も一緒に・・・そのことにどれだけの意味があるのか?しかし、これは厳粛な事実として終止符を打たざるを得ないのだ。絵描きは、絵を売って飯を食っているとはいい上、何とも表現し難い感情に襲われるのだ。平然としている金沢の心情にも理解し難いものがあった。その夜、金沢らとも別れて、一人、ホテルのベッドに横たわった青野は、なかなか寝つかれなかった。この事実は凡太には秘匿しておかなければならないと思った。それにしても、あの男が、凡太の絵の他に、金沢氏の肖像画まで買い上げていったとは・・・そこに何の意味があるのか?

 

翌朝、青野は、再び画廊「深草」を訪れてみた。午前中の画廊は、ガランとしていて、薄暗く訪問者はいなかった。昨日が個展の最終日だったからだ。事務所の人間が一人受付にいるだけで、英恵さんも画廊には見えなかった。英恵さんがおれば、昨晩のお礼ぐらいはいいたかったのだ。しかし青野の他に人影はなかった。絵の殆どが、まだ手つかずに壁に展示されたままだった。わびしさが会場全体に漂っていた。青野は、再び凡太の絵の前に立ってみた。しばらくの間、動かなかった。全てを英恵に託した凡太の穏やかで、静かな視線がそこにあった。昨日と違うのは、その絵の下に売約済みを示す赤いリボンが下がっていることだった。描かれたこの絵の世界が、そのまま例の男のものになることが、青野には許せない気持ちがした。やや斜めに静かに視線を落としている絵の中の凡太が哀れに感じられた。金沢氏の肖像画も、どことなくうらぶれて見えた。画廊を出ると、真昼の陽光を受けた八月半ばのまぶしい光があった。銀座通りを歩き、東京駅へ向かった。午前中の銀座通りは、サラリーマンたちが、オフィスへ吸い込まれた後で、通りを歩く人の足もまばらだった。気が抜けた銀座通りだった。青野の足どりは重かった。色とりどりの幾つかの日傘だけが色濃く眼に焼きついた。たった一晩過しただけなのに、複雑な感慨と疑問に向き合う旅になった。東京には、やりきれない雲のようなものがわだかまっていると青野は思った。

 

 

影をひきずる写真

翌朝、青野には、いい知れない疲れが襲ってきた。それは何ものをも狂わせるほどの疲れだった。事務所のソファに横ざまに座り込み、ぐっすり二時間は眠ったろう。眼が覚めた時は、昼近い時刻だった。トン、トン、トンと事務所のドアを叩く音がしたからだ。これは凡太の仕種だとすぐわかった。案の上、今日は、白い半袖のブラウスに、明るいブルーのチェックのスカート、素足に白のハイヒールというスタイルで凡太が立っていた。その澄んだ大きなやや上目使いの瞳を観ると、さすがの青野も疲れが吹っ飛んだ。

「せんせ、東京へ、いかはったんだってな」

青野は、曖昧なうなずき方をして、凡太を中へと招じ入れた。

「疲れてはるんやな」といって、凡太は、あの甘い視線を青野へ投げかけてきた。

凡太は、青野が「凡太の絵」を観に東京へ行ってきたことを、すでに知っていた。

「凡太、すばらしい絵だった。結構な人達が観にきていた」と青野はいった。

が、その絵がすでに、例の男の手に渡っていることは口が裂けても言えなかった。それを聞いた時の凡太の気持ちが厭というほどわかっていたからだ。ついでに金沢氏の肖像画も例の男に売却済みになっていることも言わなかった、というよりいえなかったのだ。

「会場のど真ん中の一番目立つ所に凡太の絵があったよ。英恵さんが、考えた上での配慮だ」

「うれしわ」と凡太は、一言いって靨を作って微笑んだ。

恐らく、自分も、その絵を観に東京へ行きたいと思っているのは間違いなかった。しかし、それだけの自由は、今の凡太にはなかった。おそらく凡太も自分の絵を晴れの舞台で観たかったに違いない。それができないのが、青野には哀れな気がした。

「凡太、いつかイタリアンが食べたいといってたな。そのイタリアンをご馳走しよう」

青野は、何も知らない凡太に、罪滅ぼしのような気持がするのだ。凡太は、二の句もなく青野についてきた。青野は、凡太という女の哀れな一面を見てしまった気がするのだ。青野は、東京行きの疲れを凡太に見せまいとしたが、凡太はとっくに、それを見抜いていた。眼の下の隈が大きく、凡太は、青野が疲れていることを鋭敏に察知していた。

 

四条大橋を二人で肩を並べて渡った。その日も残暑が残る日だった。鴨川の空は、すでに秋の気配をただよわせ、青さが深さを増していた。行きずりの観光客が、青野の羽織、袴姿と凡太の洋装との奇妙な取り合わせに、怪訝な視線を投じていった。しかし、凡太は、平気だった。二人は、河原町通りを少し上がった、とあるイタリアン・レストランへ入った。店の中は、昼食の時間には早くガランとしていた。二人は奥の席に向かい合って腰を下ろした。白く長い指先にエメラルドの指輪が、涼しげに、青い光を放っていた。二人は、ペペロンチーノと野菜サラダ、それにコーヒーを注文した。凡太は、その細くて長い指にフォークを挟み、黄色くつややかなペペロンチーノをクルクルと上手に巻いて小さな口へしきりに運んだ。

「せんせ、東京はどうやったん?」

「全く変わっていたな。終戦直後の痩せ細って青白い人種が全く見られなかった。胴回りが太く、がっしりとして、栄養が行き届いた男たちを沢山見かけたよ。戦後はどこかへ吹き飛んじまった感じだったな」

「さよか、わても、せんせと一緒に東京へ行ってみたかったわ」と凡太がいった。

それは凡太の本当の気持ちに違いなかった。

そして、突然、

「せんせ、わてに写真、送ってきた男は、この男や」といって、白いハンドバッグから一枚の写真を取り出して青野に見せた。

それは青野にも関心のある写真だった。夜の「穴八」の宴会の部屋で撮った写真のせいか、暗い写真だった。素人がシャッターを切った写真だから、うまく撮れた写真ではなかった。凡太は、舞妓の盛装だが、問題は一緒に写っている男のことだ。青野は、その写真を見て驚いた。髪は真っ黒でぼさぼさで耳まで隠し、背が低く、ずんぐりとして黒い背広の上下を着ていた。四角い顔で、喧嘩を売っているような目つきだった。この男だと青野は、とっさに察した。青野をつけて歩く男、東京行きの列車の中で、ビールを買って飲んでいた男、左手を上着の袖のあたりで隠している。恐らく小指をつめた例の男に間違いない。獰猛な視線を下目使いに投げかけている。凡太の若々しい新鮮な、あどけない間が抜けたような白い顔とは、かけ離れた世界をもつ男の写真だった。顔は人間の来し方を物語る。凡太と並んだ男は、波乱のある人生を送ってきた人物に違いない。これから先の余裕を感じさせない表情だった。凡太には、未来も希望もある。しかし、その男は、すでに人生のどんづまりへ来ている顔だった。

「凡太、この写真を送ってきた手紙の宛先と差出人はどうなっている?」

「宛て先は、料亭「穴八」方、凡太殿や。これには「穴八」の住所をしっかり書いてあったさかい、まあまあや。だが、差出人が問題や」

「差出人の住所は?」

「なんも書いてあらへん。名前だけや」

「名前は何と書いてあったんや?」

「磯野吾平太、それだけや」

「磯野吾平太、磯野吾平太」

青野は、繰り返しその名を口に唱えた。やはり住所を明らかにしたくない男なのだ。うしろめたいことがある男に違いない。

「凡太、今度、この男に会うても知らん顔しておけや」

「せんせに言われんかて、わかってる」

凡太は、薄いルージュの唇でコーヒーを静かにすすった。この男が青野と同じ東京行きの列車に乗っていたことは凡太には秘匿しておいた。それにしても凡太を描いた絵が、例の「けったいな男」の手に渡っているとは、青野にも不思議な感じがするのだ。その男が、一切、自分の氏、素性を明らかにさず、手下を使って仕事をする男であることが、少しずつわかってきた。しかも、国の運命を左右しかねない事にも関わっているらしいことも・・・考えてみればみるほど、この國はどうなってゆくのかという疑問に晒される。白い長い指さきでコーヒーをすする凡太を見ていると、不思議な感情に襲われる。庶民というものは、國の運びがどうなっているかなど、とんと気づかず、そのうちに大きな運命の変化に襲われる。青野が中学へ入った頃の授業ば、国定教科書のGHQの意に添わない個所を墨で黒く塗りつぶすことをだった。その時、初めて、為政者が誤っていたことに、気付いたのだ。国が我々に虚偽を教えていたという苦々しい感情に襲われた時期があった。しかし、新しい為政者が出現すれば、その為政者が、またぞろ民を騙し始める。兎に角、世の中というものは、我々の知らないところで動いているのだ。

 

 

クナイの秘密

十月に入り、秋の気配が濃厚となり、紅葉を見にくる観光客が目立つようになってきた。朝夕、冷え込む日が多くなった。モミジなら醍醐寺か上賀茂神社がいいとか、紅葉の話題が人々の口に乗る季節がきた。これがまた観光客を誘い込む。そんな時、青野は、調べ事があるのが気になっていた。相沢某だの辻田某など、かっての陸軍高級参謀のことや、凡太がもたらした「クナイ」とは一体どういう道具なのか、などなどが、青野の好奇心を刺激する。青野は、西都大学の図書館へ行ってみようと思い立った。西都大学を卒業してから十数年経った今、大手企業に就職した同僚の中には、すでに肩書をもつ者もいた。しかし、青野は、無冠だった。立身出世という考え方に馴染めなかった。青野の考え方は、普通の人間とは異なっていた。変わった人間といえばいえた。哲学科を卒業した青野にとって、通常の人間の考えることには価値が見いだせず、ナンセンスだった。しかし、世の中の底流にあることには敏感だった。それが青野を数々の事件に遭遇させ、その独特のカンによって事件を解決へと導き、府警からも一目置かれた立場にあった。

 

秋も暮れ、季節は暗く動き、大学は、行き交う学生達にも、寂寥感が漂っていた。校庭の大銀杏も、黄ばみ初めていた。やがて雪が降るように黄色い葉を落とす。校庭も、春の賑やかで若々しい感じはなく、うらぶれていた。

 

図書館で、青野は、「人名ななめ読み辞典」を借り出した。この人名辞典は分厚く重く、使い古されて手垢にまみれ、つややかに光っていた。誰が閲覧したのか、所々ページの隅が折れていた。この辞典は、通常の辞典と異なり、有名人を諧謔的に記述してあるのが特徴だ。青野は、旧日本陸軍の将校の欄を開いた。

「相沢なにがし」と「辻田なにがし」という旧陸軍の高級参謀の項を参照したかったのだ。

「相沢」の項は、すぐ見つかった。正式の名前は、相沢卓郎といった。

 

陸軍士官学校第三十四期卒業。その期の秀才で陸軍大学を四十二期に卒業している。昭和十年、フランスに留学。所謂、日本陸軍のエリートなのだ。青野が興味をそそられたのは、昭和十四年五月に起こったノモンハン事件に関東軍作戦主任参謀として加わったこと。辻田雅治参謀と図り、東京の本部の「不拡大方針」を無視して、事件の積極的拡大へと暴走。結果、日本軍がソ連軍に大敗北を喫した。そのため、一時、陸軍歩兵学校付に左遷された。しかし、翌年十月、参謀本部作戦課作戦班長に栄転した、と書いてある。また、ガダルカナル島の作戦では、現地を視察した結果、「補給路が確立されていて、問題なし」と陸軍本部へ報告した。結果、陸軍は、三万人以上の部隊を投入したが、制空権をすべて米軍に握られ、結局、武器、弾薬、食糧など補給が殆ど続かず敗退、撤退できたのは僅かに一万人足らずだった。二万人の兵士が死亡又は戦死した。うち一万五千人は、餓死と戦病死だったと書いてある。昭和十七年、当時の陸相の秘書官を務めた。最終階級は、大佐とある。陸軍の将官の服装に、軍刀をもって控え、軍服もさぞかし重くなるのではと思われるほど、沢山の勲章をズラズラと左胸一杯に着装し、泰然としている写真が載っているではないか。どちらかといえば細面の顔ではあるが、意欲と威厳に満ちた得意満面の写真が添えてあった。軍でも紆余曲折した経歴の持ち主だったのだ。やはり勲章のような外形的なものに価値を見いだす人物のようだった。

 

青野は、「辻田雅治」の項をくってみた。

辻田雅治

石川県生まれ。一九一八年、陸軍士官学校を首席卒業、恩賜の銀時計を賜る。

一九三一年(昭和六年)陸軍大学を優秀な成績で卒業、恩賜の軍刀を拝領する。

二・二六事件後の一九三六年四月、関東軍参謀部へ転出。

一九三九年(昭和十四年)ソ蒙軍の満州国境侵犯に、東京の本部が「不拡大方針を」指示した。が、これを無視して、ジューコフ将軍率いるソ蒙軍との徹底抗戦を指示。ノモンハン戦を引き起こす。結果は大損害を受け敗退。九月十六日、日ソ間の停戦協定に持ち込む。

この戦いでソビエト軍の捕虜となり、捕虜交換で戻ってきた将校らに自殺を強要したとある。

日米英戦争では、マレー作戦に参加、シンガポールを占領後、市内華僑の一斉検問を命令。一説には六千人近い華僑を殺害させた。

フィリッピン戦では、米軍捕虜の移送で有名なバターン死の行進を命令。

ガダルカナル島の戦いでは、ジャングルの中を、武器、弾薬、糧食なく強行軍させ、多くの兵士をマラリアと飢餓で失う。結果、ガ島作戦では、大敗北を喫し、遂に撤退となった。

終戦と同時に、バンコックから姿を消し、為に、多くの将官が、シンガポール華僑虐殺事件の責任を問われ処刑される。

戦後、一九四八年(昭和二十三年)上海経由で、いち早く帰国、潜伏。一九五○年(昭和二十五年)戦犯指定が解除されたため、再び表舞台で活躍するに至る、と書かれていた。

 

相沢と辻田とは、参謀時代から密接な関係にあったことがわかった。これらの陸軍参謀が立案した作戦に従った多くの兵が、多大の損害を被った事実が書いてある。しかも、この二人が、戦後十年近くを経た今日、再び結びついてGHQや、凡太のいう「けったいな人物」と結んで、旧軍人の連中と何事かを企んでいる。金沢もその一人なのだ。彼らが何を模索しているのかが青野の好奇心を刺激した。

 

ついでに青野は、いろいろな辞典を借りだし、凡太がのいう「クナイ」という言葉を探してみた。しかし、どの辞典にも「クナイ」という言葉は、見えなかった。最後に、「歴史のことば辞典」という分厚くはないが、ひどく重い辞典を借り出し、「クナイ」を引いてみた。すると、

 

クナイは、「苦無」又は「苦内」とも書く、とあるではないか。忍者の道具の一つ。一名、「飛び手裏剣」ともいい、長さは、十三センチから十五センチの大クナイと八センチから十センチの小クナイとがある。鉄製の爪のようになっていて、現代でいうサバイバルナイフのように使用された。とあり、写真が掲載されていた。柄の部分に丸い小さな輪のようなものがあり、そこに紐を通し、投げて使う道具、とある。凡太がいう「クナイ」とは、これだと思った。この「クナイ」を、組の者らしい「磯野吾平太」という男が、洋服の内ポケットにしまい込んでいたのではないか。組の者であれば、この程度の道具を所持していることは不思議ではない。「磯野吾平太」という男は、忍法に熟達した男ではないか、と青野は思った。

 

帰り道の足どりは重かった。複雑な思いが青野の脳裏を行き来した。しかし、今の青野の立場ではどうすることもできないのだ。世の中とは、こういうものだと思うしかない。旧軍人を集めた秘密会議が目論んでいる事は、金沢から知ることができた。この重大なことを青野に洩らしたのは、他に理由があったのか、或いは金沢に、すでにある覚悟ができていたのではとも思われる。いずれにせよ、この國の形を、元に戻そうとしている勢力がある。今の青野には、どうすることもできないだ。軍備を失った日本に、再軍備を迫るアメリカとは、どういう國なのか?こういうことを考えると日本人の精神構造そのものに青野は疑問を抱かざるをえないのだ。青野は、憂鬱な気持ちになった。

 

 

最後の電話

青野は、事務所へ帰ると、一人、ウイスキーをあおった。この祇園という平和な世界を踏みにじろうとする輩に憤りを感じた。が、どうすることもできないのだ。ソファに横になり、知らぬ間にうとうととした。突然、電話のベルが鳴った。外は、薄暗くなりかけていた。昼間の喧噪から京の町も静かに夜を迎える頃になっていた。

 

電話は、金沢英恵からだった。興奮した英恵の声が電話の向こうに聞こえた。あの冷静な英恵にしては珍しい。英恵の声はふるえていた。

「どうなさったのですか?」と聞き返した。

「うちの主人が、一昨日から、そちらへ行ったまま、帰ってこないのです。青野様、何か主人のことをご存じでしょうか?」

英恵は、やや動転しているようであった。

「ご主人、こちらへいらしていたのですか?存じませんでした」

「いつもですと一晩泊って翌日には帰ってくるのですが・・・」

「なにか連絡でも・・・」

「全くないのです。いつもですとスケジュールが変われば必ず電話をくれるのですが・・・」

「僕の所へは、お立ち寄りになっていないのですが・・・」

「いつもの集まりだ、いって出て行ったのですが・・・そのままで、案じています」

英恵は、かなり動揺しているようだった。

「金沢さんは、こちらではどこにお泊まりになっていたのでしょうか?」

「都ホテルです。金沢は決まってそこに泊っていました。昨日、ホテルの方へ連絡してみたのですが、昨日、午前十時に外出しているということだけはわかりました。そのままです・・・」

「何の目的でこちらへいらしたのですか?」

青野は、その答えはわかっていたが、念を入れて聞いてみた。

「よくはわかりませんが、ちょくちょくそちらへ出向いておりまして、仲間達との話し合いだといっておりました。私には、自分の行動を逐一報告する人ではないのです。私は私で、勝手に動いていたものですから・・・夫婦とはいいましても、互いに干渉することは止めにして、それぞれ思うように行動していたのです」

「詳しいことは知らないのですが、例の料亭「穴八」で、ちょくちょく旧軍人の方たちの集まりがあるようにご主人からは承っておりました」

「そんな気配はありました。私がそちらで凡太さんの絵を描いております時も、そちらの方へ来ておったようですし・・・」

「警察へはお届けになったのですか?」

「いえ、まだです」

「もすこしお待ちになってみたらどうでしょう。この時期のことですから、京都見物でもやってらっしゃるとも考えられますから・・・こちらにお越しになったことが確実のようですから、もしものことがあってもいけません。京都府警には、私の方から届けておきましょう」

「ただ不思議なことが一つあります。主人が京都へ行きました晩遅く、十時過ぎだったと思います。突然、電話がありまして、「白川」さんのお宅の電話番号を教えろ、というんです」

「白川さん?」

「あの・・・」と英恵は、一瞬、いいよどんだ。

「もしかしたら、今の首相に、ごく近い方ではありませんか?」

「その通りです。実は、白川様が東京にお住まいの頃、私の実家が、その方のお宅の近くにありまして、私がまだ画学生の頃でした、よく写生をしておりますと、お散歩でお通りになり、私の絵を、度々ご覧になったのです。それで、ご懇意になりまして、白川様が多摩の別荘へお移りになった時に、電話番号を伺っておきました。至急に古い電話帖を探しまして、まだその電話番号が通じているのかもわかりませんでしたが、主人に伝えたのです。主人は、恐らく都ホテルからだと思います」

「わかりました。府警の方へ連絡しておきましょう」

そこで、青野は電話を切った。英恵の言葉の端々に、動揺の色がありありだった。変な予感でもあったのだろうか。青野は、早速、府警の谷田部に電話した。谷田部は、帰り支度をしているところだった。

「今頃、なんやね?あんたをつけている男のことかいな?」

谷田部は、電話の向こうで大きなあくびを抑えているような気配だった。ここのところ事件に遠ざかっていて暇らしい。

「この間、あんたに話した旧軍人たちの会議のメンバーの一人が、行方がわからないという電話が、今、奥さんからあったんだ」

「一体、どないな人やね?」

「元陸軍軍人で今、東京に住んでいて中規模の商社へ務めている人だ」

「名前は何という?」

「金沢茂だ」

「見物に奈良あたりに行ってるのと違うか?」

「そんな風はなさそうなんだ。必ず予定について自宅へ電話してくる人らしい」

「もう二、三日待ってみんとわからへんわな」

「だが・・・奥さんから差し迫った電話なんだ。変なことに引っかかりがないといいのだが・・・」

谷田部は、夜遅く面倒なことをいってきたな、と思っている風だった。

「元陸軍軍人か・・・金沢茂な。青野はん、各支所へ連絡しとくさかい、また何か情報があったら教えてや。こういう事件いうのんは、二、三日経つと、ひょこり本人が現れることが、ようあるさかいな、余りあわてたらあきまへんぜ」

そこで谷田部は電話を切ろうとした。

「谷田部さん、待ってくれ」

「なんやね?」

谷田部は、いかにもうっとうしいという気配だった。

「も一つ、重要なことがある」

「それ、なんやね?」

「例の元軍人たちの集まりや」

「それがなんやね?」

「皆目わからない。毎度の秘密会議だからね」

「それがわからんことにや手の打ちようもあらへん」

谷田部は、青野の話には冷たかった。

「金沢氏に何か危険なことがなければいいのだが・・・」

「青野はん、取越し苦労はせんがいい。全ては事実や。事実がわかってからや」

と青野はいった。

「事実がわからんことにゃ、部下にも命令もできへん」ともいった。

警察に予防措置を依頼しても無理なことは青野も、過去の経験からよくわかっていた。

警察は、結果を見て動くところだ。

「青野はんのことや、万一に備えて、その金沢いわはる人のことを教えておいてや」

と谷田部は、懐から手帳を取り出し、金沢のフルネーム、年齢、東京の住所、職業などを聞いてきた。

青野は、金沢の人品骨柄も含め、知れる範囲のことを谷田部に伝えた。

谷田部は、メモをとっている風だった。

「心に留めておくさかい、何か変化があったら教えてや」と谷田部は、いって電話を切った。

しかし、青野には、漠とした不安が残った。翌日、青野が事務所へ出ると、また金沢英恵から電話があった。英恵は、疲れ、混乱していた。あれこれ方々へ電話したり、地元の警察へ届け出たりしたのだろう。

「青野さん、夕べも主人は帰りませんでした。そちらに何か耳よりな情報がありますでしょうか?」

英恵は憔悴しきっていた。

「今のところ、これといった情報はありませんが、京都府警に届けておきました。もう少し待ってみましょう。ご主人が京都におられるなら、きっと何か情報が入ると思います」

英恵はうろたえていた。青野には何もできなかった。事態が急迫している感じを肌でうすうす感じた。

 

 

行方不明になった男

翌日、青野は、朝、早く事務所へ出た。紅葉の季節も過ぎ、冬仕度に入る頃となっていた。鴨川べりにも霜が降りた。比叡の山々も、くっきりとその姿を青空に現す季節となった。川の流れは、蕭条として川面を見ただけで寒さが襲ってきた。青野も首にマフラーを巻いた。金沢の行方は、ようとして知れなかった。毎日、英恵から電話がかかってきた。電話口での英恵の声は、嗄れ果てていた。恐らく方々へ電話をかけたり、夜半に泣き通したのだろう。そんな時、昼の十時頃であろうか、凡太が突然、青野の事務所に現れた。その日の凡太は、長い髪を背中でリボンか何かでまとめ、厚手の派手な赤いコートを着てやってきた。黒いローヒールを履いていた。

「せんせ、しばらくやったな。どうしてはったん?」

「まあまあだ。凡太、英恵さんの旦那が行方不明だ。ついこの間、京都へ来たままだ」

凡太は「え?」とも「う?」とも聞こえる驚きの声をあげた。つぶらな瞳が一瞬つり上がった。平和そのものの凡太の表情が、驚きの表情に変わった。

「つい二日ばかり前に、例の会合があったばかりや」

「例のけったいな男が主宰する会合だな。元軍人たちの集まりの・・・」

「そや。そんときは、金沢さんも元気でいはったんえ」

凡太は、殊の外驚いたようだ。

両の眉を額の真ん中に寄せる仕種をした。

「その会議の中味はわからないだろうな」

「わからへんね。ただ、えらいもめたようや。

大きな声で怒鳴ったり、いい争っておったいうことや」

「会議がもめたって?」

「そや」

「その後だな、金沢さんがいなくなったのは・・・」

「さあ、宴会の時は、金沢さん、そんなそぶりも見せなかったんえ」

青野は、パーコレーターで二人分のコーヒーを作り、テーブルの上に並べた。凡太は、その熱いコーヒーをふーふー吹きながら口にした。

「不思議なこともあるもんや。せんせは、思い当たることでもあるのかいな」

「全くない。英恵さんから度々電話がかかるが、答えようもない」

「えらいこっちゃなあ。あの人、静かなお人やったのになあ」

「凡太、静かな人ほどおっかないのや」

「そやろか?そんな悪いことせえへんようなお人だった・・・」

「悪いことではなくても、他にやることがある」

「あない静かなお人でもなあ・・・意外に大胆なところもあるやも・・・」

「静かな人ほど、しっかりしたことをやる・・・」

「なんや、「穴八」もへんな人が集まるようになってしもた」

「それも、例のけったいな人が、すべてにからんでいる」

「どういう人か、皆目、わからへんのやな」

青野は、近くの仕出し屋へ電話して、昼の弁当を二つもってきてもらうことにした。凡太は、不思議な予感を持ってはいるが、青野ほど深く考えている風はなかった。それを凡太に求めるのも無理だった。その凡太が、何を思ったのか急に、

「わても、いつまでこないな仕事をせにゃあかんやろか・・・」とふと溜息に近いい葉をもらした。

凡太の小さな胸の中にも、悩みがあるらしい。青野も凡太には、手を差し伸べなければと思っていた。おおらかで率直で明るい性格は、何時までもそのままでいてもらいたいものだとかねがね思っているのだ。しかし、感受性の強い凡太のことだ。最近の料亭「穴八」に出入りするいろいろな人間に、嫌気を感じているらしい。それは理屈ではなく、感覚的なものなものではないか。人間の運命は、予測がつかない。凡太がどのような道を、歩いて行くのかはわからないのだ。ただ、青野としては出来るだけのことはしてやりたいと、いつも思っていた。

 

 

殺された金沢

夕べは、十一月の満月が墨を溶かしたような寒空に、くっきりと丸く白い澄んだ光を中天に放っていた。月には、ウサギが住むと子供の頃、青野は、母親から聞かされたものだが、確かにその夜の月には、翳りのような曇りがうっすらと見えた。しかし、それは、とてもウサギの形からは程遠いものだった。孤独に澄んだ白い光を仰ぎながら、青野は、夜道を下宿まで帰った。四条大橋を渡ると、鴨川の水は、月の光に照らされて、黒光りして静かに流れていた。十一月も半ば近くともなれば、京の街に寒さがどっかりと居座っていて、青野は、思わず襟巻きを高く首に巻きつけて帰った。遠く暗闇の中に叡山が墨絵のようにぼんやりと浮かんでいた。叡山下ろしで、しんしんと冷え込み、真夜中に近い大橋には、人の行き交いもまばらだた。ただ、月の光が青野の黒い影を斜めに長く引いた。その夜、寝床へ入っても何故か寝付かれなかった。

 

一夜明けると、冷たい雨が降り注いでいた。夜中のうちに天候が急変していたのだ。窓から見ると、京の街は、ぼんやりと白く霞んで見えた。その日の晩、青野は何故か下宿へ帰るのが躊躇されて、事務所に残りいろいろと残務整理をやっていた。外は冷たい雨が降っていた。八時を過ぎた頃だった。突然、電話のベルが鳴った。

「青野はんかいな?府警の谷田部や。今、お宅の下宿へ電話したんやが、まだ帰宅しておらんいうことで、事務所へ電話してみたんだ。いいところに居合わせた」

「今頃、何か?」

谷田部の声は、何時になく高ぶっているように感じた。

「男の死体がみつかったんや」

「え、男の死体?」

「そや、殺しや。あんたの言ってはった人と違うかと思って電話したんや。これから検死に入るところや」

谷田部の言葉に青野は驚いた。一瞬、足が震えた。受話器をもつ手も震えている。

「それはどこで?」

「今出川で鴨川が高野川と鴨川本流とに別れおる。その鴨川本流の方や」

「そのどの辺ですか?」

「下鴨宮崎町辺の鴨川べりや。あんたから聞いておった人かわからんが、気になるんやったら、これから現場へ来たらええが・・・」

青野は、淡々と喋る谷田部の声に、いらつきを覚えた。

「こちらから行ったら鴨川右岸や。今、部下の者を張り付かせておる。カンテラを灯けてるさかい、すぐわかる。俺もこれから現場へ急行や。ではまた」

そういって谷田部は電話を切った。青野は、コートを羽織って表へ飛び出した。昨夜は、綺麗に澄み切った月夜だった。澄んだ夜空に満点の星が輝いていた。満月に近い月が中天にかかっていた。青野は、口笛を吹きながら、下宿まで帰ったのだ。それなのに、今日は、細かな雨が粉を振りかけるように降っている。冷たい雨だった。青野は、通りへ出るとタクシーを停めた。

「下鴨宮崎町辺まで行ってくれないか」

タクシーは、九時頃で灯りの消えない河原町通りの商店街を駆け抜けた。小雨が降っているのに、この時刻でも人が出ている。人の行きずりもある。ただ路上は、黒光りして雨を映していた。今出川の橋を渡る頃は、さすが人影はなく、黒く細かく光る川面だけが暗闇の中に続いていた。糺の森の覆いかぶさるような真っ黒な森の影を右に見て、すべるようにタクシーは走った。下鴨宮崎町といえば、西都大学の学生達の下宿を営む家が多い。かって学生の頃、青野もここへ友人の下宿を訪れ、夜を徹して、青い議論を交わした記憶があった。このあたりは、闇が深かった。この辺だろうと見当をつけた所で青野は、タクシーを降りた。雨がひとしきり激しく降り続いていた。民家と民家の間のごく狭い道を傘をすぼめて歩き、川縁に出た。闇が迫り、川の流れが細かく光っていた。川の流れの音が悪魔のささやきのように静かに、聞こえてきた。見渡すと五十メートルほど川上にカンテラの揺れる灯が見えた。二三人の黒い影が動いていた。青野は、その灯に近づいていった。ぐっしょりと靴に湿り気が入り込んできた。警官が三人いた。彼らは青野の姿を認めると一斉に身体を開き、咎める目つきで青野を見た。

「どなたですやろ?」

「決して怪しい者ではありません。先刻、谷田部さんから知らせをいただいて、取る物もとりあえずやってきました。青野と申します」

「ああ、青野さんですか。ご苦労さんです」と警官の一人がいった。

過去に青野が府警の難事件の解決に手を貸したことがあって、青野の名前は、府警の捜査課では通っているのだ。遺体には、青いビニールシートがけてあった。俯いて倒れているらしい。

「呼吸はありませんか?」

「発見した時には、すでに心肺停止でした」

「誰が見つけたのですか?」

「夜釣りに来た人から第一報が府警に入りました」

「その人の身元は?」

「はっきりしています。この近所の人ですさかい」

警官の雨具が雨に光って見えた。真っ黒な人影が三つ、呆然と立っている風だった。恐らく検死の者が来るまでは手がつけられないようだ。

「どんな死体だったのでしょう?」

「背広を着たままうつむけに倒れていました」

「傷は?」

「背中に一箇所、それに胸の心臓のあたりに一箇所の二箇所です」

青野らは検死官が来るまで、死体に手をつけるわけにはいかなかった。川上から冷たい風が吹き、寒さの中に立たされたままだった。青野は、懐からタバコを出すと火をつけた。暗闇に煙りが飲まれていった。苦いタバコだった。闇夜の川のせせらぎの音だけが、やけに大きく青野の耳に響いてきた。それは誰かがささやいているようで不気味だった。

 

ほぼ三十分を過ぎた頃だろうか、三人ばかりの人の気配が闇の中に見えた。谷田部と検死官の人達だった。谷田部は、片手でこうもりを掲げ、やにわに懐中電灯で死体を覗き、覆われているブルーのビニールシートをひっぱがした。黒いコートに黒い背広の上下を着た男が、うつむきで倒れてていた。肩幅の広い体格のいい男の死体だった。コートの背中が無惨に切れていて血糊が吹き出ていた。傷は、三センチから四センチぐらいの間隔をおいて二箇所に刺し傷を残していた。ナイフの切り傷とは違い、小さく深く何かが二箇所に、つき刺さったような傷跡だった。傷の部分のコートの生地が無惨に二箇所破れている。そこからどす黒い血が噴き出して固まっていた。死体の傍らに転がっていたハットを見て、青野は、どきりとした。金沢が目深にかむっていたハットと同じではないか。うつむいて死んでいる死体の髪型からみても、金沢に違いないと確信した。

「金沢さんだ」と青野が小さく呟いた。

「青野はん、ガイシャを知っとるのかいな?」と谷田部がいった。

「面識のある人だ。先日、二人で酒を酌み交わした仲だ」

「ほなら、青野はんから事情を聞かなくてわな。どんな人や」

「この人の奥さんから「塩瀬」の凡太いう舞妓の絵を描きたいという申し出があって、いろいろ準備万端を整えてやった、その旦那さんだ」

「その人がなんで京都へ・・・?」

「よくわからないが、例の「穴八」でしばしば会合があって・・・」

「なんの会合やね?」

「それがよくわからないんだ」

「あんたが前に言っていた会合か?いずれにせよ、青野さんに詳しいことを聞かなくてはな・・・下手するとあんたにも容疑がかかるぜ」と谷田部がいった。

職業意識に徹した男の発言だった。

 

検死官がカメラを手に持ちながら死体をゴロリと仰向けにする。雨に濡れて乱れた前髪の主は、まぎれもなく金沢だった。死体の左の眼のすぐ下にある泣きホクロからだった。死に顔は、意外に静かなものであった。これが「付録の人生や」と繰り返しいっていた男の最後の姿だった。全てのわだかまりや心の重荷をすっかり清算した、むしろ透明で安らかな死に顔だった。死に顔には、苦痛とか無念とかいう言葉に関わる表情は一切なかった。どこか安堵の色さえ伺えるではないか。胸の心臓のあたりの白いワイシャツに多量の血糊が吹き出して固まっていた。胸を何かで一撃されたのだ。検死官は、死体のあちこちを懐中電灯で細かく調べた。しかし、傷跡は、背中に二カ所と胸の一箇所だけだった。

「財布には現金が十二万円ほど入っている。腕時計もそのままや。殺しは物取りではおおへん」と一人の捜査員が呟いた。

一人の捜査員が、しきりにカメラのフラッシュを焚いた。遺体をいろいろな角度から写真に納めた。残りの捜査員は、遺体の周辺の草むらをカンテラをかざして探りまわっていた。冷たい雨が降り続いていた。

「あとは監察医や」と谷田部がいった。

金沢の死を英恵に至急伝えねばと青野は思った。人間の終末は誰も予測できない。金沢が、このように無惨な死を遂げたことは青野に衝撃を与えた。英恵のうろたえる姿がまぶたに浮かんだ。

 

金沢の遺体は、その場でビニールシートでぐるぐる巻きにされ、警官が三人がかりで担架で持ち上げ、民家の横町の細路地をかつぎ上げ、表通りに停めてある車の後部座席に押し込んだ。それは、すでに人間としての扱い方ではなく、一個の物体としての事務的な扱い方だった。車は、遺失物を探す捜査員と谷田部と青野を残し、西都大学法医学部へと向かった。司法解剖をするためだ。谷田部と青野は、雨のそぼ降る中を今出川大橋まで歩いた。そこからタクシーを呼ぶためだ。二人は無言のままだった。青野は、至急、金沢英恵に電話で知らせねばと思った。が、谷田部に伝えておくことがあって、二人して一緒に夜の雨で不気味に光る夜道を歩いていった。途中、糺の森の木々が黒い悪魔のように二人の歩く道に、のしかかるように覆い被さってきた。

「谷田部さん、あの殺し方は、尋常な刃物と違うようだ」と青野がいうと、谷田部は何か考えごとをしているのか、それには答えなかった。

そして、

「しばらくこの町に犯罪がなかったんやがな。とうとうこのザマだ」と独り言のように呟いた。

「いずれにせよ司法解剖の結果を待たなくてはな」といった。

それ以外のことは、谷田部は、一切、口にしなかった。二人の間を、黒い暗黙の時間が流れた。大橋のたもとで谷田部はタクシーを拾った。青野は、公衆電話を探すために、そこで別れた。雨が執拗に降っていた。青野は、人間の運命の悲しさ、不思議さを思いながら歩いた。しばらく歩道を歩くと、向こうに公衆電話のボックスが眼についた。扉を開けて中へ入った青野は、どのようにこの件を英恵に知らせるべきか迷った。懐から英恵の自宅を記した電話帖を広げ、暗い電灯の光で、英恵の自宅の電話番号を探した。思い切って英恵の東京の自宅の電話番号をダイヤルした。ダイヤルを回す青野の指先がふるえていた。

「どなたですか?」

英恵は、眠りについていたところらしく、曇ったようなおぼろげな声が聞こえた。

「青野です。こんな夜分に申し訳ありません」

「おや、青野さん、主人、見つかりましたか?」と問いかけてきた。

率直に伝える他はあるまいと青野は心に決めていた。

「英恵さん。驚かないでください・・・」といいかけると、英恵は、金沢の身に何か重大な事が起こったのだと察して、受話器の向こうで、恐れおののく言葉とも声ともわからない不思議な声を発した。

「ご主人は、亡くなられました」

それだけいうのが精一杯だった。英恵は背後を鈍器のようなもので打ちのめされたかのように、うめきに似た声が聞こえてきた。

「何か、そちらで病気かなにか・・・」

「残念です。こういうことをお伝えしなければならないのは・・・」と青野がいいかけた時、今度は向こうから、

「何か厭なことでも?・・・」といってきた。

「残念です。何者かに刺されて・・・」

英恵の声は、もう言葉にはならなかった。すぐに激しい慟哭とも声ともつかない声が聞こえてきた。もはや人間の声ではなかった。青野は、これまでの仔細を、できるだけ詳細に英恵に伝えた。英恵は、驚きでその場にしゃがみこんだ風だった。その後に、激しい動揺と悲しみが英恵を襲ってきたようだ。

「明日、そちらへ参ります」とだけ応えるのがやっとだった。

そこで電話が切れた。青野は、今まで人の死を伝えたことはなかった。こういう伝え方で果たして良かったのか、悪かったのか、悪かったとすればどう伝えたらよかったのか、青野にはわからなかった。少々正確に伝え過ぎたのではないか、という反省の気持ちが沸き上がってきた。しかし、どうすることもできなかった。取り返しがつかないのだ。そうかといって正しい伝え方もわからなかった。相手に与えたショックは想像もつかないのだ。いろいろと躊躇いの感情が次々に青野を襲ってきた。電話ボックスの中で、しばし佇んだままだった。すでに電話は途切れてしまい、受話器だけが、ブーブーと奇妙な音を立てていた。電話ボックスを出ると、タクシーを止める気にもなれなかった。ただ漠然と四条通りへ向かって、そぼ降る雨の中を歩いてゆくだけだった。河原町通りの商店街も、すでに大方はシャッターを下ろしていた。街路は暗く、雨だけが執拗に降りそそいでいた。金沢と一献を酌み交わした夜が遠のいていくのをどうすることもできなかった。彼との最初の握手、あの骨太な感覚がまだ温みをもって甦ってくる。あの時、金沢が青野にふと洩らした言葉。すでに金沢は、この世に、その存在の基盤を失っていたのではないか。しかし、金沢を刺した人物の実像は全く闇の中だ。突き詰めて考えれば、それは空恐ろしいことではないか。鴨川の流れは闇を流していた。その闇の中で、小さな浪頭だけが白く光っていた。恐ろしいほど静かな夜だった。

 

翌日、朝早く、事務所に出るなり、青野は、「穴八」と「塩瀬」の女将、そして凡太に電話をかけて、金沢の死を伝えた。皆の驚きは、一様尋常ではなかった。

「えらいこっちゃなあ。あないなええ人やったのに。世の中、どないなってるんや」

これが凡太の声だった。夢とうつつをさまよっているようだった。

「今夜はええ月夜だし、川縁でも散歩するか、いわはったんえ」

「凡太、それ、ほんとだな」と青野は、念を押した。

「せんせ、それほんまでっせ」と凡太が返してきた。

 

 

事の経緯

この殺人事件は、祇園中の評判になることは間違いなかった。特に「穴八」には打撃だった。その朝の新聞は、一斉に、このニュースを大きく伝えた。青野は、早速、府警の谷田部に電話をした。

「青野はんか?ゆんべは、ご苦労さんやった。今日の午後までには、司法解剖の結果がでるはずや。あちこちに連絡は入れさせたる」と谷田部はいった。

「今日、金沢さんの奥さんが、こちらへ来るはずだが・・・」

「間もなく司法解剖が終わって遺体の縫い合わせができたら、知らせがくるはずや。ご遺体との面会は、その後や。事件記者がつめかけておる。お気の毒になあ。検死の結果は、青野はんとこへ電話を入れるさかい」と谷田部の返事だった。

青野には、疑問に思うことがあった。そこで「穴八」の女将に電話してみた。

「青野はん、えらいことになりましたな。うちの宴会を終えた夜のことですさかい、あても、うかうかしておれまへんわ」

電話口での女将の言葉だった。

「女将さん、例の会合のことをお聞かせねがえませんか?恐らく府警は、お宅へも事情聴取をすると思いますが・・・」

「青野はん、わてらの仕事に影響が出んよう、お願い申します」

「勿論です。立ち入ったことですが、一昨日の宴会、誰が仕切ったのですか?

例の男でないことはわかっています。奴の手下の男だと思うのですが・・・」

「青野はん、それが不思議ですねん。

あん時はな、けったいなお人に二人、男がついてきましてん。いつもなら、付け人は一人ですねん。あの日に限って二人でしたわ。ほして、お二人とも、うちの一階の玄関脇にあります友待ち部屋に、宴会が終わるまで待ってはったんですわ。時間が遅くなりますもんで、お夕飯でもと思い、うちのもんが、お伺いに上がったんですが、お二人とも、そんなもん要らへんおっしゃって・・・寒くて暗い部屋ですねん。火鉢だけは持ち込んでおきました」

「その二人の男の風体は?」

「わてもようわからへんのですが、うちの者がいうには、やはり一風、頷けるようなお人だったらしいですわ」

「わかりました。例のけったいな男は、一切、手を触れていない・・・」

「そうどす。ただ、芸子さんらへのお礼だけは、のし袋に用意してはって、例のお方が眼の前で手渡されたんどす。総勢、八人おったと思います。一体、いくらもろたんやと聞いたんどすが、みなはっきりしたことは申されしまへん。恐らく万を超す金額だったんではなかろかと思ってますねん。みんな、えらい喜んでましたわ」

恐らく凡太も、その恩恵に浴したに違いないのだ。

「宴会の費用は?」

「それは、友待ち部屋で控えなすったお人ですわ」

「こんなこと聞いて失礼ですが、その人、何という名前でした?」

「よう覚えておりまへん。帳場にでも聞きましょか?」

「いや、結構です」

「例のけったいなお人と一緒に、東京からいらした方ですねん」

「東京からね・・・女将さん、もう一人、友待ち部屋におった男は・・・?」

「お客さんが帰ると同時にどこかへいかはったと違いますやろか?何時の間にかお見えにならなくって・・・例のけったいな男の方と東京から来はった方は、ハイヤー呼んで都ホテルへ帰らはりましたわ」

「有り難うございました」

「なんの、なんの、しても金沢はん、お気の毒でしたなあ。奥さんへは、知らせはったんやろか?」

「僕から知らせておきました」

「奥さん、どんなでした?」

「話になりませんでした」

「そやろなあ。ところで、うちへも調べが入るんやろか?こういう客商売ですさかい、ほんま、ごたごたあっても困りますねん」

「その件でしたら、府警の方に僕から重々話しておきます」

「よろしうお願いします。青野はんにすがるより他ありまへんわ」

その足で、青野はタクシーを呼び、都ホテルへ向かった。

ホテルのロビーには、すでに警官が三人、控えめに佇んでいた。

その一人に青野が声をかけた。

谷田部の部下で、青野の顔を知っている警官だった。

「金沢さんは、一昨日、ホテルへ何時に帰ってきたのですか?」

警官は、うさんくさそうな表情を走らせた。

「その日は、帰っていない」といった。

金沢は、ホテルへは戻らず、「穴八」からどこかへ消えたのだ。

青野は、待たせてあるタクシーに乗って事務所へ向かった。

 

その日は、昨日と打って変わって空は晴れ渡った。空気は冷たかった。鴨川の川上から冷たい風が吹いてきた。雲一つない青空に叡山がくっきりと見えた。昨夜の悲劇を突き放して見ているといった感じだった。青野が事務所へ着くと間もなく凡太がやってきた。その日の凡太は、茶色の地味なコートを羽織っていた。

「せんせ、えらいことが起きたな。わて、仰天してしもうて、ゆんべは眠れへんかったわ」というのが凡太の第一声だった。

その日の凡太は、化粧ののりが悪く、ところどころあばたのように素肌が覗いていた。化粧のうまい凡太にしては珍しいことだった。

「せんせ、英恵先生に連絡したんか?」

「夕べのうちに電話で伝えた」

「驚いたやろなあ」

「泣いておられて話にならなかった」

「そやろなあ。それにしても殺されるとはなあ。人に怨みを買うようなお人には見えへんかったわ。犯人の見当はついているのかいな?」

「府警が調べている」といっているところへ電話がかかってきた。

谷田部からだった。

「青野はん、やはり殺しやね。背中に二箇所、三、四センチぐらい間をおいてや。これは致命傷ではあらへん。胸に一箇所、鋭い刃物のようなものや。心臓へ一発や。刺し口は小さい。四センチ弱ほどや。ただ、深い傷や。心臓まで一気に到達している。よほど刃物使いに熟達しおる奴や」

谷田部の報告は、職業柄、淡々としていた。

「先ず背後から何かで刺されて、振り向いたところを一発か?、遺留品は?」

「草むらや、方々探しちょる。今のところ何もみつからへん。以上や」

「谷田部さん。今日、奥さんが京都へくるんだが・・・」

「ご遺体は、西都大学法医学教室の地下室のご遺体安置所や。奥さんをお連れしてもかまへんいうこっちゃ。

それより青野はん、も少し、詳しいこと、教えてくれへんか?都合のええ時に電話してや。昨日、あんたから聞いたことは、本庁へ連絡して、すべて手配したる」谷田部との電話は、ここで切れた。

 

 

傷心の献体室

「せんせ、えらいことが起こったなあ。英恵せんせも運が悪いわ。お気の毒になあ」

「凡太、僕も「穴八」の女将に会ってきた」

「女将さん、なにいうてはって?」

「事件に関わりができて、心配しておった。店の評判にもなるしな」

「そやろなあ・・・」

「ところで凡太、先日の集まりは、もめていたそうだな」

「そや」

「なんでもめていたのかなあ。金沢さんの死と関係あるのではと思うのだが・・・」

「それ、全くわからへんね。「穴八」の女将も、えらいお客に店を使われて困ってはるわ」

凡太は、細巻きに火をつけると、青い長い煙を天井へ向かって吐いた。

「凡太、君も気をつけや」

「おお、こわ、こわ」と凡太はいって両手で顔を覆った。

人の運命はわからない。だから人は生きてゆかれるのだ。凡太が青野の事務所を立ち去ろうとしたと同時に金沢英恵が姿を現した。英恵は黒のコートを着ていた。凡太と青野の視線が英恵の視線とかち合った。英恵のまぶたは、恐らく泣き続けたのであろう、紅くはれぼったくなり、顔色も悪く見るからに痛々しかった。凡太が真っ先に声をかけた。凡太には、人の心をくみ取る能力が人一倍備わっているのだ。

「英恵せんせ、えらいことにならはりましたなあ。さぞお悲しみでしょう」といった。

英恵は、その問いには答えなかった。

「まあおかけください」

青野はそういって、英恵にソファをすすめた。英恵と凡太、それに向かい合って青野が座った。英恵は、じっと涙をこらえているようであったが、突然、堰を切ったように嗚咽した。両手で顔を覆い下を向いた両肩が、ガタガタ震えていた。こういう時は、どんな言葉をかけても慰めにはならないのだ。凡太は、泣き崩れる英恵の背中を軽くさすった。凡太らしい慰めの表現だった。

「せんせ、なんと申し上げたらよいか、悲しおすなあ」と小さな声で英恵の耳元でささやいた。

青野は、英恵を泣けるだけ泣かしておくのが、この際の礼儀だと思った。

「よろしければ、ご遺体にお会いしに参りましょうか?」というのがやっとだった。

 

青野は、谷田部を呼び出し、英恵を真ん中にしてタクシーに乗り、西都大学へ向かった。英恵は、泣けるだけ泣き、今は涙も枯れてしまっていて、ただ深い沈黙を守つているだけだった。タクシーのフロントガラスに一途に泣きはらした視線を投じている。窓の外は、昨晩とは打って変わって明るい陽光が輝き、両サイドの歩道は、何事もなかったように明るい笑顔や談笑して歩く人々の姿が見られた。車の中の重い雰囲気とは無関係の世界が展開していた。警察官にしては比較的口数の多い谷田部も、さすがに口を一文字に塞ぎ、黙したままだった。青野は、こういう重い雰囲気を久方ぶりに味わった。

 

西都大学法医学部の献体室は、暗い鉛色の階段を下りた地下にあった。四方が厚い壁に閉ざされていて、その中に数体の部厚い茶色の板で作られた手すりのない寝台のようなものがあり、その中の一つに司法解剖を終えたばかりの金沢の遺体が純白のシーツを掛けられて横たわっていた。部屋全体が薄暗く、裸電灯が三つ灯をともしているだけだった。中央に白木の小さな神棚があり、ろうそくの灯が小さく左右に揺れて今にも消え入るばかりに灯っていた。その度に壁の人影が揺れた。すでに英恵らが来るのを待ち受けていたのか、白衣を着て太い黒縁の眼鏡をかけ、漆黒の髪の前髪を二、三本、額に垂らした神経質そうな教授らしき人物、白衣の助手と生徒と三人が、金沢の遺体の頭の部分の回りに立っていた。三人が到着すると、教授らしき人物が、一礼して静かに金沢の身体全体を覆っていた白いシーツの顔の部分を、静かにまくり上げた。そこにはまぎれもなく物いわぬ金沢の顔があった。死に顔は、穏やかなものだった。眠るようにという通俗的な表現が一番ぴったりする死に顔だった。それを見た英恵は、死に顔に抱きついて、大声で泣き出した。身体全体を大きく震わせて泣いた。

「あなた」とか何か声にならない声をかけて泣きついたが、何を言ったのか青野にはわからなかった。

教授達一同は、黙したままだった。しばらく英恵を嗚咽するままにしておいた。やがて教授は、金沢の遺体にかかった白いシーツを腹部の辺まで折り返してみせた。そこには縦に深く長くへその辺りまでメスを入れ、そして縫合した跡がまざまざと現れた。金沢の遺体は、揺れ動くろーそくの光を映して深い翳りを見せていた。深い悲しみは、涙をも枯らす。その時、英恵は、泣いていなかった。泣きはらした眼で夫の遺体を食い入るように見つめた。

「この胸の深い傷、これが致命傷です。ただ、普通のナイフのようなものとは明らかに違います。切り口が小さく、深いのです。何か尖ったもので刺されたものと思われます。これが心臓をうち抜いていました。深い傷です。いろいろ想像しましたが、凶器については私どもにも不明です」と教授が静かにいった。

次に、助手らしき者と学生の二人が、金沢の遺体を丁寧にひっくり返した。すると、そこに明らかに二つの傷があった。その二つの傷の間は、四センチぐらい間隔があいているではないか。

「残念ながら、この傷も私どもに凶器はわかりません。今までに見たことのない傷です。この二つの傷は、同時に受けたものと思います」と教授がいった。

「すべて写真は撮ってあります。解剖の結果は、書面で警察の方へお渡ししてあります」と助手らしき男がいった。

祭壇のろうそくの灯が風もないのに揺れた。その度に壁に投影された周囲の人々の影も黒く大きくゆれた。

「ご愁傷さまでした」というのが教授の最後の言葉だった。

金沢の遺体は、特殊な方法で東京の自宅まで送られることになった。青野は、タクシーで、途中で谷田部を下ろし、英恵を旅館「畑中」まで送り届けた。英恵は、沈黙したままだった。青野には、語りかける言葉も見当たらなかった。

「都ホテル」には、金沢が残した手荷物があるはずだった。

 

翌朝、十時頃、青野が事務所へ出ると、電話がかかってきた。凡太からだった。

「凡太、こんなに早くどうした?」

「せんせ、昨晩、英恵せんせは「畑中」へ泊らはって、今朝、わてと一緒に都ホテルへいってきたんや」

「凡太、君がついて行ってくれたんだな。ありがとう。そしてホテルの金沢さんの遺品に何かあったのか?」

「なんもあらへん。もう府警の調べがあったらしいわ。部屋の中はきれいに片付いておるし、革の鞄を置いて行かはったんやが、鞄の中は、とってもきちんとしとって・・・

あのお人の性格がよう忍ばれる風やったわ。それより、事件をホテルが知っておって、厳戒や。府警からも三人ほど来てはったわ。わてらも初めは、金沢さんのお部屋へよう入れんかったわ。英恵せんせも、気丈なお方や。しっかりしはっていて、もう涙一つこぼさんかったわ」

「そして、一昨日の金沢さんの行動はどうだったんだ?」

「ホテルの人がいわはるには、夜の八時頃、例の「穴八」から帰らはって、その足で一人でホテルを出ていかはったいう話や」

やはり、月夜に鴨川べりを散歩に出た、ということは事実だと青野は思った。

「そうか、そして英恵せんせは?」

「せんせは、今日の昼の汽車で東京へ帰らはる」

「そうか、凡太、ほんとうにありがとう」

「せんせはどうしはるんや?」

「英恵せんせを京都駅まで送っていかにゃ」

「それがよろし」

「ところで凡太、後でいいから、例の凡太と不可思議な男と撮った写真、もう一度、僕に見せてくれないか?」

「あないな写真、人に見せたらあかんえ」と凡太がいったが、青野の指示には従うのが凡太だった。

凡太の電話は、そこで切れた。やはり凡太は、なかなか気遣いがあるのだと青野は思った。黙っていてもよく気がづく性格なのだ。人の心が読めるのだ。

 

その日も晴天だった。寒かったが京都特有の抜けるような冬の青い空が広がっていた。青野は、旅館「畑中」へ電話して、英恵がどうしているか聞いてみた。ところが、「畑中」の女中がいうには、とっくに部屋を引き払って京都駅へタクシーで行ってしまったとのことだった。しまったと青野は思ったが、致し方なかった。英恵は、すでにこの町から遠ざかっていた。これ以上、なじみのない人と会うのがおっくうだったのかも知れない。悲しみを胸に秘めたまま、孤独に戻りたかったのかも知れない。傷心の英恵を乗せた汽車は、今頃、どの辺を走っているのだろう。恐らく、英恵は、京という街に怨念のようなものを抱いて去っていったのではないか。青野は、ガダルカナルの戦いを熱っぽく語った金沢のことを想った。こうして歴史の証人が次々にこの世を去ってゆくのだ。

 

 

事件の背景

その日の午後、青野は、府警に谷田部を訪ねた。谷田部は、すでに管理職で、現実に捜査で走り回るのは、谷田部の部下たちであった。谷田部は、デスクについて、方々へ電話をかけていた。青野を見ると、席を立ってやってきた。

「谷田部さん、捜査の進み具合は?」

「いろいろ手を打たせてある。だが、今のところはなんともいえん」

野球の本塁ベースに似た形の顔の谷田部は、慎重な言い回しだった。

「ところで青野はん、あんたに聞かにやならんことがあるんだが・・・」といって、谷田部はデスクの背後にある取調室を指さした。谷田部は冷静だった。

「青野はん、あんた、なんで金沢氏を知ったんや?」

これが谷田部の最初の質問だった。取調室は、暖房が効かず、ひどく寒かった。青野は思わずコートの襟を立てた。電灯も暗かった。

「凡太という舞妓がおるのを知っているかな?」

「よう知らんな」

「「塩瀬」所属の舞妓だ」

「ふむ、それがどうしたんや?」

「「穴八」で時折、不思議な会合があって・・・」

「どんな会合や?」

「先日、あんたにも話したかとも思うが、二種類の不思議な会合がある。一つは元軍人が集まる会合だ。も一つは、組の関係者たちの会合だ」

「ふむ。恐らく神戸の蘇鉄組やろ」

谷田部は、断定的にそういった。谷田部は、タバコの煙を胸深く吸い込んで、天井へ向かって白い煙を吐いた。

「ところが・・・」

「ところがなんやね?」

「その二つの会合の主催者が共通しているんだ」

「そらどんな奴や?」

「それがわからない。わざわざ会合の日に東京から一等車でやってくる。本名を一切あかさない。会合の予約や仕切は、一切奴の手下にやらせる。ただ、宴会の費用は、この男が毎回キャッシュ払いだ。相当な金を持っている」

谷田部は、何か考える風に、少々、間をおいた。青野は、言葉を選ばなければならなかった。慎重を要する案件のような気がするのだ。

「実は・・・」と切り出した。

「僕は、「穴八」の女将から頼まれて・・・」

「・・・?」

「これから話すことは、取扱いを慎重にしてもらいたいんだ」

「わかった。青野はん、その内容いうのはなんや?」

谷田部は身を乗り出してきた。そして、また新しいタバコを銜えて火をつけた。

「その得体の知れない男とGHQの軍人との会談の通訳を僕が引き受けた。

もっとも「穴八」の女将のたっての頼みだったんだが・・・」谷田部は、青野の喋り方に焦りを覚えたらしい。不快な表情を露骨に表してタバコの煙をしきりに吐いた。

「その内容は?」

「それは谷田部さんといえども、いえない。いえば僕の首が飛ぶ」

谷田部は、やや不機嫌になった。眉と眉との間に、深い縦しわを寄せた。

「それをいわんことにや、捜査は進展せん」

谷田部は、急にぶっきらぼうになった。青野を見つめていた視線を途方もない方角へ転じた。いうなればそっぽを向いたのだ。

「それは今度の事件と関係ないことだ」

「捜査は、アリの穴からや。どんなことでも捜査の邪魔になることはあらへん。特に、その得体の知れない男いうのが臭い」

青野も、思案のしどころだった。ある意味で谷田部から脅しがかかったことになる。

「あんたのことは、この谷田部にまかしとき。絶対にあんたを守るさかい」

谷田部の言葉に青野も動かされた。内容が今度の事件と、直接に関係がないとも思われるのだ。

「日本を再軍備する話だ。GHQは、日本のある勢力に、援助を与えて、日本の赤化を食い止めたいと思っている。それに選ばれたのが例の得体の知れない男に違いない」

谷田部は、納得したように何度も肯いて、青野の話を聞いていた。

「その得体の知れない男いうのは、何者やろな?」

「その男が旧軍人たちを集めて何か企んでいる。それに金沢氏が巻き込まれたんだと思う。その得体の知れない男は、神戸の蘇鉄組らの暴力団とも関係をもっている」

谷田部は、事態が複雑なのに、やや理解が及ばないようなのだ。

「わからん。その得体の知れない男と今度の事件は関係があるんやろか?」

「それは僕にもわからない」

「不思議な事件やなあ」

谷田部は、腕組みをして何かを考えている風だった。

「ただ、僕にはひっかかるものがある」

「それはなんやね?あんたの推理は当たるさかい」といって谷田部は、目の前で大あくびをした。

青野は、金沢と飲んだ晩の彼の言動を思い出していた。我々庶民の知らないところで、何かが動きだしている気配を青野は、その時、感じたのだ。青野は、おもむろに口を開いた。これを谷田部に話すには、それなりの覚悟がいる。しかし、今、話しておかなければ、今後、どんな事態が起こるとも知れないのだ。国家転覆もあり得る話なのだ。青野は、決心した。

「谷田部さん。「穴八」で開かれた旧軍人らの度々の会合、あれは、クーデター計画だ。日本の再軍備に根強く反対している今の首相を暗殺しようとする計画だ。これは、金沢さんが僕にだけ打ち明けた話だ。それを例の正体不明の男が、いつの間にか察知して、奴の手下を使って、あの月夜の晩、月を見ようと、川縁を歩いていた氏に殺しを仕掛けた。僕の推理は、以上だ」

この話を聞いて、居眠りをしかけていた谷田部が、突然、がばと立ち上がった。

「そりゃ大変や。事実の有無は別にして、すぐ警戒に当たらせにゃ・・・」

そういうなり、谷田部は部屋を飛び出して行き、恐らく、本庁らしきところへ電話をかけた。

谷田部の声は、低く、何を喋っているのか、周囲には全くわからなかった。やがて、電話を切ると、再び青野のいる取調室へ戻ってきた。

「青野はん、ええ情報をくれはった。間違いにしても、兎に角、手を打つように本庁へ連絡しといた」といった。

そして、どこからか焼酎の瓶をぶら下げて入ってきて、湯飲み茶碗二つになみなみと注ぎ、

「青野はん、お飲みや」といって、一つの茶碗を青野に差し出した。

そして谷田部も一気に飲み干した。

「ところで、谷田部さん。僕も、ここまで来ると身辺が危うい。護衛を頼む」と青野はいった。

「わかった。まかしとき」

「遺留品は何か見つかったの?」

谷田部は、おおむろに部屋を出て、ビニール袋に入った黒いものをぶら下げてきた。

「これや」

見ると五方の手裏剣ではないか・・・

「遺体のすぐそばの草むらの中からや」

これには青野も驚いた。そして

「谷田部さん。三角定規を貸してくれませんか?」といった。

「何にしはるねん?」

「いや、ちょっと計ってみたいのや」

そういって、谷田部が青野に渡した手裏剣の五つの歯のうち、二つの歯と歯の間の間隔を測った。丁度、四センチある。

「これだ、谷田部さん。金沢さんの背中の傷は、これによるものだ」と青野はいった。

谷田部は、大きく肯いた。

「谷田部さん、これは相当な使い手だ。恐らく、金沢氏の背後から、この手裏剣を投げつけた奴がいる」

「なるほど・・・」

谷田部は、半信半疑だった。

「そんな道具の使い手が、今頃、いるんやろか?なんや、近所の子供の遊び道具じゃあらへんか?」

「違う、こんな物騒な道具、今時の子供は知らない。親も持たせない。これは正真正銘の大人の仕業だ」

「それによっちゃあ、捜査方針を、がらりと換えにゃあ・・・」

そういって谷田部は、肩を落とした。

 

その晩、青野は、「穴八」へ出ている凡太へ電話した。お座敷に上がっているのに電話口まで呼び出したのだ。それでも青野のこととなると凡太は、厭がりもせず、明るい声で電話口まで出てきた。

「凡太、すまん、仕事中に呼び出しなんどして・・・」

「せんせのことやさかい、例え火の中、水の中や」

凡太の笑い声が聞こえてきた。

「凡太、また頼みごとや、例の男と撮った写真、僕のところへ、明日にでも持ってきてくれへんか?」

「せんせ、あないな男と関わりをもったらあきまへんえ」といいつつも、青野の申し出を拒む気配はなかった。

仕事中でもあり、青野は、そこで電話を切ろうとした。

「ほな、さいなら」という凡太の声が聞こえてきた。

 

 

青野、伊賀上野へ行く

翌日は、晴天だったが、風が強く、寒さがきつかった。京都も急ぎ足で暮れの仕度に入っていた。青野は、その日、出町柳から京阪で丹波橋へ出て、近鉄丹波橋から新田辺、新田辺から徒歩で京田辺へ出て、そこからJR関西線に乗り、伊賀上野へ向かった。小一時間ばかり乗り伊賀上野へ着いた。この地は、京都以上に寒さがきつかった。四方を山に囲まれ、由緒ある古い町だ。京都に住みつけている青野には、この町はひどく寂しい町だと思った。大体、人の足が少ない。それに冷たい風が京都とは違って、更に冷え切っていた。今更ながら、京都は大きな都会だと思った。織田信長が明智光秀に殺害された時、堺にいた徳川家康は、伊賀忍者の助けを借りてこの地を通り、海路で逃げた話は有名である。

 

この地は、所謂、忍者のメッカなのだ。時刻は、午後一時を過ぎていた。青野には初めての土地であり、不案内であったが、あちこち歩いて聞いて回り、伊賀流忍者博物館へたどり着いた時は、二時を過ぎていた。この地は、俳人松尾芭蕉の生地でもあり、仇討ちで有名な荒木又右衛門の「決闘鍵屋の辻」など、尋ねたい所は沢山あったが、その日は、時間もなくここだけに絞って訪問した。ここには忍者体験館や忍者伝承館、その他に忍者ショーなどという見せ物まであり、伊賀流忍者の現代の根拠地といってもよいところだった。青野は、そのうちの忍者伝承館を訪れた。忍者の衣装や道具など忍者に関する多くのものが展示されていた。青野が目指すものは、忍者の道具類だった。凡太がいう例の「苦無(クナイ)」とはどんなものか見るのが、その日の青野の第一目的だった。いろいろ忍者に関する展示物がある中で、青野は、とうとう本物の「クナイ」なるものを初めて見た。それは鋭い刃のある槍の穂先の先の部分だけを切って取り出したような形態の道具だった。全て鋼鉄製だった。長さは、おおよそ十五センチほどだろうか、ただ、柄と思われる部分に小さな輪のような形のものがあり、そこに紐などを結んで通し、投げて、相手に突き刺さったところで、紐を引っ張ってクナイそのものを回収するように工夫されている。使った凶器を遺留品として残らぬように回収する工夫が施されている。壁を登ったり、地面に穴を掘る道具としても使われたと説明書きに書いてある。小型のものは、「飛び手裏剣」として紐をつけずに使われたらしい。青野は、直感的に金沢を刺したのはこれだと思った。刺しても紐を引っ張れば、凶器を被害者の身体に残さずに逃げられる。しかし、それにしても金沢の背中に向かって先ず手裏剣を放ち、金沢が振り向いたところを、その心臓部に向かって「クナイ(苦無)」を撃ち込んで命中させたと考えられるではないか。その腕前は、見事という他はない。忍術に相当精通したものでなければできない技なのだ。青野の脳裏にひらめいたのは、このような精巧な技術に精通した者は、恐らく相当な訓練をつんだ者に違いないと思った。青野は、この忍者伝承館内にある忍者研究会の事務所を訪れた。伝承館の事務所へ入ると、「伊賀流手裏剣打選手権大会」のポスターが眼についた。ポスターには、一人の忍者装束の男が、前こごみになって、手裏剣を空に放った瞬間の大写しの写真を載せている。伊賀流手裏剣の熟達者を養成し、顕彰する大会なのだ。伊賀流手裏剣の術は、すでにある種のスポーツの領域まで高められているのだった。忍者研究会の事務所といっても机が二つと事務を務める中年の女性が一人いるだけだった。壁には名簿類や書類がぎっしり詰まっていて暗い蛍光灯が灯っていた。女は、肥っていて座っている椅子から身体を半分はみ出していた。突然、訪れた青野に、怪訝な表情を漂わせた。青野は、名刺を差し出して、

「京都からやってきました。忍者研究会なるものがあるそうですが、ここがその事務所ですか?」

「そうよ」

女はぶっきらぼうにそういうと、青野の顔を度の強い眼鏡越しに、覗き込んだ。

「忍者研究会の名簿がありますか?」

「あるわよ。それがどうしたの?」

その女性は、なかなか心を開かなかった。

「忍者研究会の名簿を拝見したいのですが・・・」

「そんなもの何に使うの?」

「以前、忍者ショーをやりまして、その時、お世話になった方のお名前とご住所を知りたいのです」と青野は、とっさに思い浮かんだ出鱈目な答えを口にした。

「そう。だけど、ノートに三冊もあるわよ」

彼女は、そういって手垢に汚れた古びたノートを三冊持ってきた。青野は、それらをペラペラと一通りページを繰ってみた。しかし、それは顔写真のある名簿ではなかった。名前と住所、入会年月日と電話番号だけが記された簡単なものだった。その中に凡太がいった「磯野吾平太」という名前がないか、青野はページを丹念にめくった。しかし、三冊の名簿の中に、そのような名前の者は見当たらなかった。

「ありがとうございました」

青野は、その手垢にまみれた会員名簿を女に返した。磯野吾平太は、一体、どこで忍の術を会得したのだろう。それがわからないのだ。

「用は足りたの?」と女が聞いてきた。

「まあまあです・・・」

青野は、曖昧な返事を返して、その事務所を出た。時刻は、すでに四時を過ぎていた。周囲を山に囲まれたこの地は、寒さがきつかった。すでに夕闇が迫っていた。青野は、重い足取りで再び京都へ帰る電車に乗った。電車の中で、今日の伊賀上野行きは失敗だったと思った。ただ、現実に青野の眼で「クナイ」の実物を確かめたことが唯一の収穫だった。青野には、なんとしても金沢殺しの犯人を見つけなければ、という願いに近い気持ちがあった。次にどんな手段があるだろうかと思いあぐねた。電車の揺れが眠気を誘い、疲れが出てうとうとと眠ってしまった。

 

 

忍者の法

京都へ着いた時は、すでに暗くなっていた。冷たい風が横殴りに吹いていた。青野は、疲れていたが、何気なく府警のビルの方角へ足が向いた。府警のビルの谷田部がいる階には、まだ煌々と灯りが灯っていた。谷田部は、まだ仕事をしていると青野は思った。その足で青野は、府警の階段を上がっていった。足取りは重かった。案の定、谷田部は、デスクにしがみつくようにして書類に眼を通していた。金沢殺しの捜査に出たまま、まだ帰って来ない部下達が帰ってくるのを待っている風だった。書類に眼を通しながらタバコをふかしていた。

「なんや、青野はんか。何かあったんか? こないな時刻に・・・」

谷田部は、青野には、何があっても文句をつけることはなかった。二人の間には、そういう信頼感が出来上がっていた。二人は、また例の取調室へ入った。例の通り、茶碗二つと一升瓶に半分ほど残っている焼酎を手にしていた。いつものように、谷田部は、二つの茶碗になみなみと焼酎をついで、その一つを青野の前に差し出した。

「何か捜査に進展は?」

「いや、何もあらへん。もっとも、捜査が始まったばかりやさかい」と谷田部はいい、湯飲みの中の焼酎をごくりと一飲みし、タバコを取り出して火をつけた。

「実は、今日、伊賀上野まで行ってきた」

「伊賀上野やて?それはなんや?」

「いや、金沢さんの殺され方が、どうも「忍者の法」と関係があると思ってね」

「まさか、今ごろ、忍者なんて・・・」

谷田部は、呆れたという風に青野を見つめ、青い煙を天井へ向かって吐いた。暖房が入っているのか、部屋の中は、思ったより暖かかった。それは青野には救いだった。それに提供してくれた焼酎が、腹に沁みて、何時の間にか全身を回りはじめ、青野の身体も少しづつ暖かくなってきたのだ。酔いも回り初め、それが青野を、いささか大胆にした。

「あの殺し方は忍法に、酷似したところがある。背中は、例の遺留品にあった手裏剣、胸の方は、クナイという忍者特有の道具を使って、一突きだ。そこで、金沢殺しは、「忍者の法」に特別精通した者の仕業だと考えた」

しかし、この青野の言葉を聞いた谷田部は、冷ややかだった。

「なんぼ青野はんでも、少し飛躍し過ぎや」といった。

「あんたのいう通りだ。伊賀上野に忍者研究会という組織がある。その名簿を調べさせてもらった。だが入会年度と住所、名前だけで、顔写真もなく、あとは皆目わからん。あんたのいう通り、無駄足だった」

「そやろ、なんぼ青野はんでも、その考え方は、いささかとっぴ過ぎるぜ」

谷田部は、あざ笑うような表情を浮かべて、残りの焼酎をゴクリと飲み干した。

二人とも焼酎を飲みながら、疲れた表情を走らせた。

「勿論、非常線を張ったり、いろいろ手は打ってるが、決定的なものは、なんもあらへん。そこが今度の事件の難しいところや。証拠物件が手裏剣一つではな・・・どこから手をつけたらいいかわからへんのや。勿論、本庁へも青野はんのいわはった重大な案件については、すぐ手配したる。本庁も驚いておったわ。ともかく、首相の身辺警護はぬかりなくやるいうておった。いろんなことがあるもんやなあ」

谷田部もかなり頭を悩ましているらしい。谷田部は、三本目のタバコを口にして、青い煙を天井へ向けて吹き付けた。二人の間に長い沈黙が続いた。夜は更けていった。その時、青野は、懐に手を入れて何かを探す風をした。谷田部の前に差し出したのは一葉の写真だった。

「谷田部さん、この人物に覚えはないか?」

それは凡太と例の組の者らしい男と撮った写真だった。その一葉の写真を見るなり、谷田部は、

「大変なこっちゃ。この男、見覚えがある」と突然、頓狂な声を上げた。

「これは「穴八」で、この男の求めに応じて凡太が一緒に写真を撮ったのだが・・・

この男、上着のポケットに、常に「クナイ」を入れて持っておった」

「なんや、その「クナイ」いうのは・・・?」

「忍者が使う飛び道具の一種だ。飛び手裏剣ともいわれている」

青野は、そういって、凡太から聞いたクナイにまつわる話を谷田部に詳しく話した。

「あんた、また、いい情報をくれはった」

谷田部は、ポンと大きく手を叩いた。

「この男、前科三犯や。つい去年、ムショから出てきたばかりや。神戸の蘇鉄組の男や。

強盗、恐喝、そして薬物や。遺留品の手裏剣、それに今、青野はんがいわはったクナイ。これ、みんな繋がりがあるやんか!」といった。

「この男の住所、わかってるの?」

「わかっとる。神戸に住んでいる。こりゃ、青野はん、助かったわ。すぐ手配や。その前に、神戸の家宅捜査や」

谷田部は、やや興奮している。興奮と焼酎のまわりで顔を真っ赤にした。

 

 

驚愕の家宅捜査

男の正式な名前は、木曽吾兵太といった。前科がある。その時の取調では、彼の居宅は、神戸市元町通り二丁目三番地となっている。このあたりは青野にも多少の知識があった。神戸の三ノ宮で降りて、有名な元町通りを進んで、海岸寄りへ路地を左へ曲がり、かなり歩いたあたりだという勘は働いた。繁華な神戸の町も空襲で打撃を受けたが、今は復興し、昔の商店街も息を吹き返していた。輸入品を中心にした商売も繁盛し出していた。遠く京都、大坂あたりからも客が絶えない。しかし、木曽の住むあたりは、その繁栄を極める元町通りから裏路地をずっと入ったあたりで、その辺は、時間が後戻りしたように、ひっそりとしていて、ゴミゴミした小さな家が所狭しと建ち並んでいる。それよりも、まず本人が、その取調の時に登録した家に、今、果たして住んでいるかどうかが問題だった。前科三犯の男のことだ。一応、妻と子供三人という届出だが、すでに刑を終えて時間が経っていることもあり、今でもその住所に住んでいるかは疑わしい。谷田部は、三人の部下に命じて、内偵させることにした。曇り空の北風の吹く寒い日、私服の三人の刑事が、別々になって神戸へ出かけていった。ある者は、阪急電車で、も一人は京都駅から国鉄、さらに一人は、阪神電車に乗って誰にも気づかれないように、京都を発った。その頃は、まだ携帯電話などという文明の利器はまだ出現していない。府警の谷田部との連絡は、公衆電話ボックスからの連絡方法しかなかった。六甲下ろしが吹き付ける日だった。蘇鉄組の同志に悟られまいとすることが肝要だった。彼らに見つかれば、被疑者へすぐに連絡がゆく。蘇鉄組の組員は、神戸市内の至るところにいて、飲み屋、食い物屋や、いい加減な輸入品を高値で売り付けるいかがわしい闇商売りをやったりして、同志をお互いに守ることをモットーとしている連中なのだ。彼らに悟られないようにすることが肝心だった。

 

それから数日後、谷田部から青野へ電話がかかってきた。

「青野はん。奴はカミさんと二人でまだ例の所に住んでるらしい。毎晩のように大坂の北の新地へお出かけらしい。夜遅うなって千鳥足で帰ってくる。相当金を持ってるようや」

「次はどういうことになる?」

「まず、北の新地へ行ったところで任意同行や。ほして、神戸に家宅捜査をかける。奴の証拠を握らんことにゃ。そん時は、青野はん、あんたの世話になるさかい」

青野は驚いた。

「奴が犯人だという証拠をしっかりつかんでおかないと、えらいしっぺ返しを食うよ」

「わかっとる」

そんな電話を受け取ってから数日後、地元新聞は一斉に「金沢氏殺し」の容疑者がつかまったことを報じた。時は流れて十二月に入っていた。京都も、底冷えのする日々が続く。正月の仕度にはまだ間があるようだが、大掃除をする家なども見かけるようになってきた。そんなある晩、十時近くだと思われる。木曽吾兵太の自宅を張っていた捜査員が、彼が毎日のように大坂北の新地へ出かけて行くのをつきとめた。新地のクラブ「花ねずみ」で毎晩のようにかなり派手に遊んでいるらしい。そんな金がどこから出ているのかも不思議だった。家には奥さんが住んでいて、子供らの姿は見えなかった。家は、台所に居間、客間、そして寝室という木造建てのかなり古びた平屋だった。樹木や庭はなく、長いこと手入れをした形跡がなく、あちこちにガタがきているといった家だった。奥さんと思われる女性は、かなり派手な服装をしていて、ほぼ毎日のようにヘアサロンへ通って髪の手入れをしている。色白で眼が大きく、濃い眉にマスカラを引いて、一見してどこかのクラブで働いていた風体だった。時折、夕方、家を出てゆくことが多く、そういう生活を送っているらしい。帰りは、木曽と同じく決まって夜の十時を過ぎていた。

 

ある晩、金沢が殺された夜と同じ満月に近い月夜の晩だった。十時を過ぎた頃、「花ねずみ」へ、かねて張り込んでいた三人の捜査員が踏み込んだのだ。木曽は、女たちとカラオケに興じている最中だった。捜査員は、いきなり木曽に警察手帳を見せ、任意同行を求めた。初め木曽は、それを拒否したが、捜査員三人に囲まれてはどうすることもできなかった。木曽は、曽根埼警察署へ収容された。翌日、京都府警へ移送されてきた。

 

その日、青野の事務所へ谷田部から電話がかかってきた。

「青野はん。奴はなかなか吐きよらへん。今日の午後二時、奴の邸へ家宅捜査をかける。青野はん、一緒に来てくれへんか?」

青野は、少々戸惑った。警察の家宅捜査についてゆくなど、考えてもみなかったことだし、今まで経験したこともなかったからだ。しかし、木曽の犯罪を証明するには、青野が推理した凶器類があれば、これらを押収する必要があるのだ。通常の凶器とは異なり、特殊な凶器であるため、これが見つかれば、木曽の犯罪の有力な証拠物件となる。そこで青野に助けを求めてきたものと思われる。青野は、金沢殺しを解明するためにも、家宅捜査への同行を了承した。

 

その日、時刻は午後四時頃だった。谷田部以下府警の捜査員が三人、それに証拠物件はもとより、この事件の推定を可能にするその他あらゆる物件を探し、それらを持ち出して運ぶ要員が五名、総勢十人が同行した。元町通りにも、夕暮れが迫る頃だったが、人通りは衰えていなかった。務め先からの帰りの人々が、ウインドーショッピングをする時刻だったのだ。

 

 

意外な結末

木曽の家は、人通りの多い元町通りから、細い横町を入り、かなり歩いた裏通りにあった。表の通りの賑やかさとは全くかけ離れた暗い静寂が支配していた。すでに夜のとばりが降りていた。木曽の家には、妻と思われる若作りの女が一人、炊事場に立っていた。真っ赤な口紅にどぎついマスカラで一目でその類の女であることがわかる。女は、比較的落ち着いている。すでに亭主がつかまっていて、それ相応の覚悟があるようだ。しかし、捜査員に反抗的な視線を向けることは忘れなかった。捜査員は、家宅捜査を行う旨を宣言し、令状を見せ、その妻と思われる女が、驚くのも無視して、ドカドカと家の中へ上がり込み、机の引き出し、箪笥、戸棚からあらゆる疑わしい場所を捜索した。捜査員が、慣れた手つきと方法で、仏壇の奥から額縁や箪笥の裏まで調べ上げるのには青野も驚いた。しかし、なかなか例の凶器と思われるものは見つからなかった。捜査は徹底していた。玄関では下駄箱を開けて靴の底まで調べた。さすが木曽の妻らしい女の靴は、ハイヒールが多く、それも黒や赤など多彩で何足も揃えられていた。しかし木曽の靴は、夏物の白靴の他は黒靴が多かった。殆どがカカトがすり減り、磨いたことがないらしく埃だらけで、両底のかかとの外側が、著しくすり減っていた。恐らく木曽は、エックス却であったらしい。その下駄箱にも、何かが隠された形跡は無かった。居間、台所、客間と調べたが、凶器は発見されなかった。谷田部には、やや焦りの色が伺えたが、部下達が懸命に調べているのを、腕組みをして見ている他は無かった。

「おかしいな・・・」と一言つぶやいた。

最後に調べに入ったのは寝室だった。寝室には、ダブルベッドが部屋の片隅に置かれていた。枕元には、いかがわしい猥褻な雑誌が一、二冊置かれたままだった。まず押入を調べた。妻の布団は、立派な羽毛の入った布団だったが、木曽の布団は、まるで絵に描いたような煎餅布団で、長年手入れをしていないらしく、うす汚れていた。部屋の中は暗い。後からついて行く青野には、証拠捜査の状況は、よくわからなかった。しかし、捜査員の一人が裸電球に手をかけ、灯りをつけたとたんに、青野は、それこそ飛び上がらんばかりに驚いた。寝室の奥に床の間があり、そこに大きな油彩画がかかっているではないか・・・その油彩画こそ、金沢英恵が描いた「K氏像」の絵ではないか。死んだ英恵の夫を描いた油彩画だった。この絵は、青野が銀座の「深草画廊」で見たその絵そのものだったのだ。明るい庭を背景にした部屋の中で、恐らく英恵の夫である金沢氏と思われる人物を暗い色彩で描いた油彩画だ。号にして四十号は下らないと思われる。金沢の顔をやや左側から描いたものだった。その絵の金沢は、すでに金沢そのものでなく、別の人格を獲得していた。平明な瞳で前方を穏やかに凝視している。薄茶色の厚手のツイードを着ていて、エンジの斜め縞のネクタイをきちんと締めている。やや斜め下を見下ろして静かに坐している。背景はガラス戸を通して英恵の家の庭かとも思える明るい樹木の明るい青を映していた。しかし、その背景は、主題を殺さないように、ぼかして明るい空気だけを映していた。しかし、その背景には、青野には見覚えのある英恵独特の赤を使った花が描かれている。外の陽光の明るさに対し、部屋の中は暗く、金沢の視線は、幽愁に曇っているように見えるではないか。それは青野にとっては、ショックだった。こんなところに英恵の描いた金沢の絵がかかっている、それは何とも形状しがたい感情を呼び覚ました。金沢は、こんなところに飾られて、深い悲しみに沈んでいるように見えた。青野には、金沢が、現代の世の動きをじっと凝視しているようにも思えるのだ。この絵は、死ぬ前に金沢がいった凡太の画と同時に、弟子か舎弟の手を経て例の「けったいな男」が買い上げた絵の筈だった。それがむさ苦しい木曽の家の寝室の床の間に飾られているとは、青野には予想もつかなかった。青野は、何とも表現できない複雑な感情に襲われた。青野は、絵の中の金沢をしみじみと眺めた。金沢の絵は、こんな男のところに置かれる絵ではない、と思った。その時、青野は、不思議な文字を発見した。その絵の右下に、一一・一四、と黒い数字が小さく書かれているではないか。画家が、自分が描いた絵にサインを描き込むことは不思議ではない。ただ、青野が不思議に思ったのは、銀座の画廊へ凡太の絵を観にいった時、金沢を描いた「K氏の像」には、この数字はなかった。それが今、目の前の同じ絵に黒色で数字が入っている。

 

何故、この絵が画廊に展示されていた時にこの数字が見当たらなかったか。青野の見落としということも考えられるが、あの時、青野は、この絵を隅々まで観たつもりなのだ。しかし、一一・一四という数字は、何時書き込まれたのか?一体何の意味があるのか?西暦の日時を記入するなら、その年は、一九五三年だから、一、九、五、三と書いてなければならない筈だった。その事が青野の脳裏に焼き付いていた。しかし、事態は、それとは全く無関係に進んでいった。捜査員は、二人して、床の間にかかっている五十号近い油彩画を壁から外しにかかった。さすがに絵を傷めないような慎重な取扱いだった。そしてその絵を外した時、とうとう凶器が見つかったのだ。青野が想像した通り、例の「クナイ」が、この絵の裏側の壁に打ち付けられた留め金にぶら下がっているではないか・・・

「おお、これや」と谷田部が最初に声を上げた。

「青野はん。これやろ。奴の凶器いうやつは・・・」

「谷田部さん、やはりクナイを使って、奴は金沢氏を刺した」

「これがクナイか?」

「そうです。谷田部さん、その柄に巻き付けてある紐、これには手を触れてはいけません」

「なんでやね?」

「血液型の検査のためです。もしその紐に金沢氏の血液痕でもあれば、金沢さんの血液型と照合すればよろし」

「なるほど。さすが青野はんや、ええところに気つきはった」

谷田部はそういって、捜査員に、クナイの柄の紐には一切、手を触れないよう注意を促した。捜査員は、丁寧に壁にかかったクナイを、手袋をはめた手ではずすと、丁寧にビニール袋に包み込んだ。

「ところで、青野はん。これだけで奴が、金沢さんを刺したとは思えん。他に動機がある筈や。そこんところがわからへん。奴をとことん追及するより他に方法があらへん」

谷田部が青野の耳もとで小さくささやいた。

「その辺のことは、谷田部さん、後でゆっくり相談しましょう。それより残りの証拠物件を探さなくちゃ」

「それは何や?」と谷田部が青野に聞いた。

「金沢さんの背中の傷、あれは手裏剣による傷です。鴨川べりの金沢氏の遺体付近の草むらから発見された手裏剣と同じ種類の手裏剣が見つかれば・・・奴は、恐らく、忍者の道具使いに相当熟練している筈ですから・・・もっとも、あの川縁で見つかった手裏剣に残された指紋と奴の以前の犯罪で取調の時に採取した指紋とが一致しているか調べる法もあるが・・・」

「そやな、しかし、あの晩は雨やったさかい、指紋も消えておるかもしれん。ここであれと同じものが見つかればな・・・」と谷田部はいった。

捜査員は、この判断をすぐ察知した。捜査員の一人が、厨房にいた妻を連れてきた。女は不満そうに仏頂面をして立っていた。

「なんの捜査ですねん?」と女が谷田部に聞いた。

「ある事件の捜査や」

谷田部は、それだけをいった。女は、木曽という男のことを熟知しているようだった。仕方がないことだと諦めているようなところがあった。余計な抵抗は、一切、しなかった。

「うちの主人、警察に捕まってるらしいが、理由は何やね?」

「詳しいことは、今はいえへん。まだ被疑者や。犯人とは断定しておらん」と谷田部がいった。

そうこうしている間に捜査は進んだ。

金沢の肖像画が、そっと壁に立てかけられた。青野には、金沢が、事態を悲しんでいるように見えてならないのだ。捜査員が、台所から、脚立を持ってきて、一人がその上に乗り、床の間の上の棚の小さな扉の取っ手を手で開け、中へ腕を突っ込んだ。

「なにしまんねん!」と女が、怒鳴った。

風呂敷に包まれた何物かを片手で引きづり出した。重い物が中に入っているらしい。がちゃがちゃと金属音が聞こえた。もう一人の捜査員が、下から手を差し伸ばしてそれを受け取った。ずしりとした重さが捜査員の手に伝わってきた。風呂敷包みの中身を畳の上に拡げた。中から五個の手裏剣が出てきた。一同、息を呑んだ。中心から六本のひねりをかけた鋭い刃が伸びていて、その刃の先を繋ぐと円形になる特殊な手裏剣だった。

「一つの刃の先と次の刃の先の間隔を測ってください」と青野がいった。

捜査員の一人が定規をポケットから出した。一つの刃先と次の刃先の間隔を測った。

「四センチです」といった。

この間隔は、金沢の背中の二箇所の傷の間隔と同じだった。

「間違いないね」と青野はいった。

「まいった。青野はん!」と谷田部が声を上げた。

まぎれもなく、この鉄具は、金沢殺しの重要な証拠物件なのだ。

「また青野はんに助けてもろた」と谷田部が呟いた。

谷田部の顔には、安堵感が漂っていた。木曽の家宅捜査は、これで重要な部分は終了した形だった。

「あとは手紙です。誰が金沢殺しを木曽に唆したか?」と青野が捜査員を見て小声でいった。

「この絵は、金沢さんの奥さんの英恵さんが描いた絵だ」と青野がいった。

「そのいきさつ、聞かせてくれんか」と谷田部が木曽の妻にいった。

「わて、そないなこと、なんも知らへん」と木曽の妻は、ぶっきらぼうにいった。

「何時からこの絵、ここにあるんだ?」

「わてが、この家へきた時には、もうこの絵が、ここにあったのや」と木曽の妻はふてぶてしくいった。

ということは、青野の推理では、木曽の妻が、ごく最近、この家で一緒に暮らすようになったのだと思った。或いは、木曽の妻が、嘘をついているとも思った。それにしても木曽とその妻らしい女との関係は、不可解だった。亭主が警察に勾留されていても、案外、平気でいる。女が木曽に対し、愛情のかけらがあるとも思えない。二人の関係は、愛情で結ばれたものではなさそうだった。その二人を結びつけたものは、一体何だったのかと青野は思った。二人を結びつけたものは、「金とセックス」であったのかも知れない。青野は、木曽の家の寝室の床の間にあった金沢の肖像画のことは、後日、府警で説明しなければならないと思った。その機会は、意外に早くやってくる。その日の家宅捜査は、問題のクナイと手裏剣そして多くの手紙や文書類を押収した上で、終了した。捜査を終えて多くの書類などを段ボールの箱に詰めて運び出し、一行が、いざ引き揚げとなった時、突然、木曽の妻が、玄関のドアを大きな音をたててピシャンと閉めた。せめてもの抵抗の気持ちを一行に対して表したのだ。見上げれば、鋭い刃物のような月が、冷たく切れるように中天にかかっていた。あの月の満月の晩に、金沢は殺されたのだと青野は思った。

 

 

危険な計画

その夜、捜査員と別れた谷田部と青野は、大阪駅の地下道を二人して歩き、ゴタゴタと飲食店が立ち並ぶ中の立ち飲み酒場に入った。U字型のカウンターを囲み、客が突っ立ったまま酒を飲む仕掛けになっている。腰掛けを用意すると、酔客がいつまでもくだを巻いて飲み続けるからだ。その辺が大坂商人の知恵なのだ。丁度、頃合いがよく、会社帰りのサラリーマンや商売人など、雑多な人種が、立ったまま酒だの焼酎だのを飲んでいる。酒の肴は、大きなキャベツの葉を大雑把に切って山盛りにしたものと串揚げだった。キャベツの葉は、これに塩やソースやごま油をかけてかぶりつく。それで酒を飲んでいるのだ。見栄も外聞もない大坂特有の酒飲み場だった。谷田部と青野が、店に立つと、酒をあおっている連中が一斉に二人に視線を向けた。特に青野の風采は、どう考えて見ても珍しく、みんなの視線を一手に集めた。そんなことは一向におかまいなしの二人だ。大型のコップになみなみと注がれた焼酎をあおった。

「今日は、疲れたなあ、青野はん」と谷田部がいった。

「いや、生まれて初めての経験だった。ありがとう」と青野がいって、強い焼酎をあおった。

空腹でもあった。キャベツの葉に塩をふりかけて、二人ともバリバリと口に運んだ。酔いが急に青野を襲ってきた。足の下から熱さが少しづつ腹へ、腹から頭へと昇ってくるのがわかる。谷田部は、めっぽう酒に強い。大きなコップの焼酎も見る間に二杯目になっていた。そして絶えずタバコを銜えた。青野は、焼酎をあおりながら、「凡太の絵」は、恐らくあの「けったいな男」の手にまだ留まっているのだと思った。このことは、凡太にいってはならないことなのだ。

「なあ、青野はんや、俺はちょっと疑問なんや。なんで奴が金沢を殺さにゃあならんかったかだ。その動機が、今ひとつわからへんのや」

「僕にもよくわからない。だが、金沢氏が、せっぱつまった立場にあったのは間違いない」

「それはなんでやね?」

谷田部は、鳥の串揚げを二本注文した。

「不思議な会合が「穴八」であった。旧軍人たちの集まりだ」

「それと今度の事件とどう関係があるんや?」

「戦争が終わって食い詰めた軍人たちの集まりなんだ。突飛でもないことを話あっていたようだ」

谷田部は、鳥の串揚げを頬ばった。ポケットからタバコを出すと、また火をつけた。彼の顔も酔いが回ってきたらしく、赤くテラテラと光ってきた。

「この間もあんたに話した通り、首相を暗殺して、旧軍人の世界をもう一度と考えている連中だ」

青野の突飛でもない意見に谷田部は、せせら笑う風体を見せた。

「あんた、この間もそないなこというてはった・・・そやさかい、俺は本庁へ電話を入れておいたんや。しかし、本庁の奴ら、笑っておったわ・・・」

「谷田部さん、これは本当のことだ。奴らは、根っからの民主主義者で再軍備に強く反対する今の首相を暗殺して、新しい政府を樹立しようと企んでいた。その計画を秘密裏に「穴八」で旧軍人らと相談していた・・・一種のクーデターや。しかし、その中で金沢だけが、その計画に疑問を抱いていた」

「それと金沢殺しとはどう結びつくんや?」

「金沢氏は、その仲間の重大な秘密に、疑問を抱き、これは僕の推理だが、それを首相の側近に洩らそうとした」

「そんで、その旧軍人のグループか、その会合を仕掛けたけったいな男が、木曽をたきつけて、金沢氏をか?」

「その通りだ」

「その推理を裏付けるものはなんや?」

「殺される前の晩、彼が京都から首相側近の某氏の電話番号を奥さんに聞いてきた」

「青野はん、一体、誰からそないなこと、聞きはったんや?」

「金沢氏の京都からの帰宅が遅いので、奥さんが、僕に電話をよこした。その時、その電話の話が彼女の口から出た」

「なるほど・・・しかし、金沢氏を殺したのは木曽だ。木曽と金沢氏との関係が今ひとつわからへん」

「金沢殺しを木曽に教唆した奴がいる・・・」

「誰や、そいつは?」

「僕にもわからない。その秘密は、木曽の家の寝室の床の間にかかっていた金沢氏の肖像画だ」

谷田部は、吸っていたタバコを、目の前の灰皿へねじ込んだ。

「あんた、あの絵の由来を知ってるんか?」

谷田部は、コップの焼酎を、全て飲みほした。

「あの絵は、金沢氏の奥さんが描いた」

「その絵が、なんで木曽のところへ?」

「そこのところは、僕にもよくわからない。ただ、金沢氏の奥さんが、東京の銀座で個展を開いた」

「金沢氏の奥さんいうのは、絵描きさんか?」

「二水会というレッキとしたグループに属する絵描きさんだ」

「その絵が、なんで木曽の家に・・・」

「僕にも、そこのところはわからない。いずれにせよ、あの絵にプレミアムをつけて買い上げた奴がいる。金沢の奥さんが銀座で個展を開き、その個展の終了間際に、あの絵を買い上げに来た奴がいる。僕もその個展を観に東京へいっていた」

「青野はん、よう細かいことを知ってはるわ。その絵を買い上げた奴いうのは、誰やね?」

「旧軍人らや蘇鉄組を操っていた奴だ。けったいな男なのだ。そいつが手下の木曽を使って・・・」

「あの絵を買い上げたのは?けったいな男いうのんは誰や?」

「その正体が、全くわからない。毎度「穴八」で会合を開くのだが、奴は自分の正体を一切明かさない。会場の予約と仕切は、すべて奴の手下にやらせる。支払だけは毎度キャッシュできちんと奴が払う。「穴八」の女将も手を焼いている。しかしはきちんとするので文句もいえへん」

「不思議な男もいるもんや」

「僕らの預かり知らんところで、この世の中を操っている奴がいる」

「青野はん。あんた、頭が良すぎるんや。先の先まで考え過ぎるのと違うか?」

その後、二人は、阪急電車に乗って京都へ帰った。時刻は十一時を過ぎて、電車の中は空いていた。梅田辺で飲みつぶれた酔客と、北の新地あたりで働いている明らかにそれとわかる派手な洋服の二、三人の女たちだけだった。二人は並んで座席についたが、電車が動き出すと、谷田部は、大いびきをかき出した。青野も酔いと疲れで、うとうとした。深夜の闇の中を電車は疾駆した。うとうととしながらも、けったいな男のことが青野の脳裏にわだかまっていた。あの男は、どうも「鉄の掟」で配下の者を縛っている。その掟を破れば、どんな運命が待ちかまえているのかわからない。人間を奈落の底に落とすことを平気でやるのではないか。ある種の空恐ろしささえ感ずるのだ。それほどの「毒」を、「あのけったいな男」がもっている、ふとそんな考えが青野の心をよぎった。

 

 

犯人発見の糸口

翌日、昼近く、青野は、眠い眼をこすりながら、しぶしぶと事務所へ出た。そこに薄茶のツイードの袖長のツーピースに、髪の毛をながく腰のあたりまでたらした凡太が、青野の椅子に腰掛けて手紙か何かを書いているではないか。

「せんせ、優雅なご出勤やな」

「夕べが遅くてな、神戸まで行ったんや。凡太、君から借りた例の写真、大いに役に立ったぞ」

「なんや、あの変な男と撮った写真のことかいな」

「そうだ。金沢殺しの有力な容疑者だ」

「そやったら、わては、殺人犯と一緒に写真撮ったことにならへん?」

「まだ真犯人とは決まっていないが、その可能性は十分ある」

「厭なこっちゃ。せんせ、あの写真、破って何処かに棄ててや」

「そうはいかん。有力な証拠物件だからな・・・」

「わて、府警に呼ばれることにならへんか?府警に呼ばれるなんてかなわんわ。せんせ、何とかしてや」

「そうならないように、谷田部さんにいってある」

「せんせ、昨晩は何処へ行かはった?いくら電話しても出えしまへん」

「すまん。ちょっと府警に協力したんだ」

「事件いうとせんせは、夢中になるんやから・・・」

「捜査はどないなったんや?」

「まだ、凡太にもいえない段階や」

「新聞は、なんや容疑者をつかまえたと大きく囃しておる」

「しかし、まだまだだ」

「せんせ、そないな事から手を引きなはれ。それよか、もっとわての相手になってくれへんか?」

「わかってる。ところで凡太、その後、例のいかがわしいおっさんの宴会はないのか?」

「金沢さんが殺されはってからは、一度もあらへん。不思議やわ」

凡太は、そういってタバコに火をつけた。青い煙が尾を引いて立ち登っていった。

「それよか、せんせ、たまにはわての相手をして・・・また例のイタリアンにでも連れてって」

「わかった。これからでも構わないよ」

青野がソファから立ち上がると、凡太も青野についてきた。

 

外は冷たい風が吹いていた。空は晴れていて雲一つなかった。四条大橋の上は、北風がきつかった。鴨川も、流れが速くなっているように感じた。遠く叡山が近頃にないほどくっきりと聳えていた。

「凡太、その後、英恵さんから、何か音信でもあったか?」

凡太は、紅いマフラーを首に巻き付けながら、歩いて行く。

「そういえば、きのう、英恵せんせから電話があったわ」

それを聞いて青野は、急に身体に緊張が走った。

「英恵さん、何かいっていたかい?」

「京都では主人の事件のことが大きく報道されているようだがどうなってるんや、というようなことだったわ」

「何て答えたんだ?」

「わても詳しいことは存じませんが、なんや容疑者がつかまったいうことです、いうたんや」

「そしたら?」

「そうですか、といわはっただけや。意外にサバサバしてはってたわ。人の心はわからへんもんや。英恵さんも事件を飲み込んでしもうたようや」

凡太は、何かにこだわるようにこういった。何にこだわっているのかは知るよしもなかった。

「今さら思い悩んでもどうにもならんからな」と青野は、いった。

人間には忘却という作用がある。人の死も、時間と共に忘却作用が始まる。これがあるから人は生き続けてゆくことができるのだ。金沢氏の死も、忘却とまではゆかなくても、英恵さんには、それなりの覚悟が固まってきたのかも知れないと青野は思った。

いつものイタリアンレストランで、凡太は、スパゲティ・ナポリタン、青野は、久しぶりにラザニアを注文した。凡太は、いつものように、その白い長い指にフォークを挟み、クルクルと上手にスパゲティを巻き付けて口に運んだ。

「わて、いつまでも、こないな仕事しておっていいのやろか」

凡太は、また急に疑問とも述懐ともとれる言葉を発した。それは青野に問い質している風でもあり自分自身に言い聞かせている風でもあった。凡太は、今度の事件で自分の日常に疑問を感じてきているのだ。これを聞いて青野は、いった。

「凡太、君には祇園という所が一番適している。余りくよくよ考えるより、君が「塩瀬」の跡を継ぐぐらいのことを考えてたほうがいい。「塩瀬」の女将さんも君をとても大事に思っている」、そして、

「祇園のような平和で、お客本意で、しかも人にも尽くせる、そんな世界は、他にはないぜ」ともいった。

それは、青野自身が感じていることでもあった。

「世間の人の動き、人の考え方もわかる。第一、人間観察ができる。こんなところは他にはない」ともいった。

凡太は、納得しかねるという風だった。人間には迷いというものがある。これは魔物なのだ。しかし、この迷いが人間を大きくもする。魔物は、その飼い主に、なついたり、背いたりするものなのだ。

 

その後、金沢殺しの捜査は、一段と進んだ。例のクナイの紐に付着していた血液型は、金沢の血液型と一致した。自宅から押収された「クナイ」と「手裏剣」を眼の前に並べられては、いかな木曽といえども逃げることはできなかった。時間はかかったが、金沢殺しを自白する日が来た。しかし、その動機や、殺しを教唆した者については、なんとしても口を割らなかった。そういう意味では捜査は難航していた。谷田部は、部下に金沢殺しの捜査の現状をマスコミは勿論、一切他言はならないと命令した。毎日のように察回り担当の記者たちが、入れ替わり立ち替わり情報をとりに府警を訪れたが、その後の情報は全く外部に漏れなかった。

 

 

意外な事実

青野には、木曽の家にあった金沢氏の肖像画とその絵に書かれていた一一・一四、H・Kの文字に、何故かひっかかるものがあった。、H・Kは金沢英恵が書き込んだと見当はついた。金沢英恵の英語読みの頭文字だ。例の個展では英恵のサインのない絵は見あたらなかった。しかし、青野が銀座の画廊「深草」で金沢氏の肖像画を観た時に、H・Kというサインはあっった。しかし、そのサインの前の数字を見た記憶がないのだ。そう言えば凡太の絵の英恵のサインは、H.Kanazawaと横文字の筆記体だったと記憶している。しかし、英恵のサインの前にある一一・一四という数字は何を意味するのか、青野には理解できなかった。そんなある日、事務所の青野へ府警の谷田部から電話がかかってきた。

「青野はん、奴は先日の家捜しの時の物的証拠と、金沢氏の血液型がクナイの紐に付着していた血液型とが一致していることを示されて、金沢殺しをとうとう白状しよった。だけんど、誰が金沢殺しを教唆したかは、一切、口を割らん。青野はん、どないしたもんやろ?」

谷田部も金沢殺しの直接の下手人が、木曽吾平太であることを理解したのだが、その殺しの理由が不明だし、それを教唆した者が誰かわからないのだ。青野は、金沢氏の肖像画を、その場でプレミアムをつけて購入しに来た男が、木曽に金沢殺しを示唆したのではと考えたこともある。又、青野が英恵の個展を観に東京へ出かけた時、同じ列車で青野をつけてきたらしい男が、金沢氏の肖像画を購入したとも考えられないことはない。あの男は、車内販売でビールを買った。その時、奴の左手の小指が飛んでいたのを覚えている。男は、木曽吾平太だったのだ。

「谷田部さん、金沢氏の肖像画を買った奴は、木曽かも知れない。そこを追及してみたらどうだ。僕が英恵さんの個展を観に東京へ出かけた時、同じ車両に木曽らしい男を見かけたのだ」

「それはもうとっくにやってる。しかし木曽は俺ではないとはっきりいっている。あの時、俺は別用があって東京へ行ったのだ。絵を買うためではないといってるのよ。あの絵は東京から送られてきたといっている」

「東京の誰から送ってきたのだ?」

「わからん。それがわかれば苦労はせん。奴はどうしても口を割らん。組の奴は、仲間のことは一切口を割らんもんや。それが奴らの掟や」

恐らく、ちょくちょく東京から京都へ一等車で出向いてきて、「穴八」で旧軍人らを集めては秘密会議を開いているあの「けったいな奴」に違いない。名前もいわず、住所も公にしない。ただ、毎度、費用はキャッシュ払いだ。この男が、木曽ら蘇鉄組など暴力団の連中を動かしている。

「穴八」の女将も困っているが、支払だけは確かだから、文句もいえない。凡太や「穴八」の女将は、その男のを「けったいな男」と呼んでいる。僕は、そいつの顔だけは知っている。

GHQのアメリカ人と二人で「穴八」へやってきた。その時、僕が通訳をやった。しかし、その男は、自分の名前は一切名乗らなかった。その時の「穴八」の予約から支払まで、手下にやらせている。そして、もっと重大なことは、あの木曽の家の寝室の床の間にあった金沢氏の肖像画、あれは、この男がプレミアムをつけて、金沢氏の奥さんから居抜きで買い取ったことが生前の金沢氏の口からわかっている。そこまで僕も見当をつけたが、それから先は一切不明だ。その肖像画が木曽の家にあるとは驚きだった・・・」

「なんや、あんたの話こそけったいな話やないか」

「木曽の家から押収してきた書類などに、けったいな男の証拠みたいなものはなかったの?」

「なんもあらへん。貯金通帳には八百万円ほどあった。居間の机の引き出しに現ナマで三百万ほどあった。だが、どこからその金が手に入ったか、奴は一切吐きやがらへん。あの正業のない奴が、こんな大金、持ってることが、おかしいのや。だけんど預金通帳やその他の文書を調べたが、金が振り込まれた形跡が全くないのや。それでは証拠にならへん」

「動機なき殺人ではどうにもならない。木曽の家にあった現金は、木曽が金沢氏をやった報酬かもしれない」

「そや、そのうちにマスコミが騒ぎよる。困ったもんだ」

「ところで谷田部さん、木曽の左手には小指をツメた跡があるの?」

「そや、奴には前がある。その時に、すでに小指をつめておった。蘇鉄組でなんや、粗相があったらしい。これは前からや」

谷田部は、捜査が今ひとつ進展しないことを憂慮しているのだ。

 

翌日、青野は事務所で金沢氏の絵に描かれていた一一・一四の四つの文字の謎を解こうと思案に暮れていた。机の上で白い紙に万年筆で一一・一四と何度も書いた。この一一・一四の四つの数字は、一体、何を表しているのか、あれこれ思いを巡らしていた。そこへ、凡太がお座敷へ出る衣装のままで、ひょいと青野を訪ねてきた。

「せんせ、何してはるんや?元気かいな」

これが凡太の挨拶だった。凡太のお白粉の甘い香りが漂ってきた。しかし、青野が思案しているこの文字が、金沢の肖像画に描かれていた文字だとまではいわなかった。捜査上の秘密に属することでもあったからだ。青野は、あわててその文字を書いた紙切れを破り棄てようとした。しかし凡太の眼は素早かった。

「せんせ、その数字、金沢はんが殺されはった日の数字じゃあらへん?」と目敏くいってきた。

青野は、心臓をぐさりと抉られたような気持ちに襲われた。心臓が高く鳴り出した。そうだ、いわれてみれば、十一月十四日、金沢氏が木曽の手で殺された日だ。ごく単純なことを、深く考え過ぎていた。それを凡太が簡単に見破ったのだ。こういうことは往々にしてあることだ。渦中の人間は、複雑に考え過ぎて単純な見方が出来なくなっているのだ。

「金沢さんのことを考えておってね・・・」

青野は、その場を何とかつくろった。

その紙を破って屑籠へ放り込んだ。

「凡太、今日はまた随分きれいやな。又例のけったいな宴会でもあるのか」といって誤魔化した。

「いやなあ、せんせ、不思議なことや、金沢さんの事件が起こってからいうもの、例の宴会は、一度もあらへん。全てご破算になったらしいわ。これから出かけるお仕事は、昔からの「穴八」のお客さんの宴会や」

「そうか、例のけったいな男とも、お別れだな」

「そや。その後は、ぷっつりとあないな宴会はあらへんわ。けったいなお人も、その後ぷっつりや」と凡太はいった。

凡太は、袂から紙巻きを取り出すと、テーブルの上のライターで火をつけた。そして何ともいえない優雅なやり方でソファに腰かけた。青野の事務所に久しぶりに華が開いたようだった。青い煙を天井へ向けて吐きながら、

「せんせ、そないな事件ばかり追いかけんと、たまには、わてをかまっておくれやす」といった。

「よっしゃ、わかった。近いうちに凡太の時間が許す時に、すかっとおいしいものでも一緒に食べよう」

「せんせ、それ、ほんまにしてよろしか?」

「本当だとも。凡太、暇な時に電話をくれないか」と青野はいった。

凡太は、気をよくして袂を翻して出ていった。今夜は、どんな客を凡太は迎えるのか。青野は、何故か凡太が哀れになった。その感情はどこから来るのか、青野にもわからなかった。凡太の後ろ姿に、青野は何か寂しいものを感じた。凡太にこんな感情を抱いたことは初めてだった。先日、四条通りのイタリアン・レストランで、凡太が今の職業に疑問を抱き始めていることが青野の頭の中にあるからかも知れなかった。凡太の香りがまだ事務所に漂っている頃、殆ど凡太と入れ替わりに、西京新聞の尾関記者がやってきた。

「青野さん、ずいぶんおきれいな人がお訪ねでしたね。うらやましいね。ところで例の金沢殺し、捜査が難航しているようですね。何が原因ですか?青野さんなら何か情報があるかと思って・・・」

尾関は、図々しくづかづかと事務所に入ってきて、いきなりソファに座り込み、テーブルの上にあるタバコ入れから細巻きを一本抜き出すと、ライターで火をつけた。

「その質問は、僕が君に聞きたいところだよ」と青野は返した。

 

 

書かれた数字の謎

西京新聞の尾関記者は、青野からは、何らの新しい情報も得られないとみると、早々に引き揚げていった。青野は、谷田部に電話した。谷田部は、疲れているのか、なかなか電話口まで出てこなかった。

「なんやね。青野はん」

「実は、谷田部さん、木曽の家宅捜査に行った時、金沢氏の肖像画があったが・・・」

「それがどうしたんや?」

谷田部は、やや機嫌が悪かった。

「あの肖像画の右下に、一一・一四、H.Kというサインがあったのを覚えているかい?」

「そんなもん知らんわ」

谷田部は、とりつく島もなかった。青野は、谷田部の機嫌が納まるのを見て、直接会って話をしようと思った。

 

翌日、午前十時ころ、北風の吹きすさぶ中を青野は府警へと向かった。羽織の上から襟巻きを首に巻き付けた。その日、鴨川は黒い色で流れていた。いつもの川の水なのに青野は、その日、そう感じたのだ。行き交う人々は、それぞれの用向きをもってその日の寒さに前こごみになって大橋を渡り行き交っていた。府警の階段を上がりながら、青野は、息が切れた。これは珍しいことだった。谷田部は、青野を見るなり、自分のデスクの後ろにある取調室へ、顎でしゃくって入るように指図した。しばらくおいて谷田部は、眼をこすりながら、いかにも疲れたといった風に取調室へ入ってきた。

「今頃、何やね?」

谷田部は、相変わらず不機嫌だった。木曽の捜査が詰めきれないでいるのだ。殺人罪で起訴することはできても、犯罪の動機があいまいでは、裁判を維持することができない。

「谷田部さん、木曽の家にあった金沢氏の肖像画、あれは殺された金沢氏の奥さんの英恵さんが描いたものだ」

「それは俺も聞いておった」

「八月の熱い盛りに、銀座の「深草」という画廊で、英恵さんは個展を開いた。彼女は、二水会という名の通った油彩画のグループに属している。号二千円もする中堅画家だ。僕は彼女に凡太を紹介した関係で、彼女の個展を見に東京まで行った」

「うん、そして・・・」

谷田部もやっと青野の話に耳を傾けてきた。

「その時、今から考えると同じ東京行きの車両に、木曽らしい男が乗っておったんや」

「同じ車両に木曽が乗っとったって?」

「そうだ。なぜ木曽だとわかったかというと、奴が車内販売のビールを買った時、奴の左手の小指が飛んでいたのが遠くから見えたんだ」

「奴の左手の小指は、ツメた跡があるからな」

谷田部は、身体をデスクから乗り出して、青野の話に耳を傾けてきた。

「僕は、その日、画廊「深草」で、五月に金沢英恵が描いた祇園「塩瀬」の舞妓「凡太」の油絵と金沢氏の肖像画をじっくり観てきた」

「うむ、そして・・・?」

「あの時、金沢氏の肖像画には、金沢英恵の頭文字のH.Kのサインの他には何もなかった。その時のことは、はっきり覚えている」

谷田部は、大きく頷いた。話がだんだん谷田部の関心領域に入ってきた。

「ほして?・・・」

「僕が英恵の個展を観に行った日は、個展の最終日だった。その日、会場にいた英恵が、お陰様で早速、凡太の絵と金沢氏の肖像画とが売却済みになりましたと僕に言ったんだ」

「そして・・・?」

谷田部の眼が光を帯びてきた。

「その時、会場を出ようとしたら、英恵の夫の金沢と、もう一人金沢の友達とに出会った。この時は、まだ金沢は殺されていない」

「そしてどないなったんや?」

谷田部は、上体をデスクの上に乗り出して、青野の次の言葉を待った。

「金沢氏に僕は訊いたんだ」

「何を訊いた?」

「英恵さんから、凡太の絵とあなたの肖像画が売約済みになったと聞いたが、一体、誰が買ったのか、と聞いてみた」

「そしたら・・・」

「そしたら、どうしたんや?」

谷田部が、しきりに急き込んでくる。

「例の男や、といったんだ」

「例の男?それは一体、誰だ?」

「例の男が、プレミアムをつけて買い取って行ったんだ。例の男いうのは、「けったいな男」のことだ。しかし、それは金沢氏の憶測にすぎない。事実は不明だ。その時のいきさつも一切わからない。それを知っているのは、金沢氏の奥さんの英恵さんだけだ。金沢氏がいうには、英恵が描いた絵の売買は、すべて英恵にまかしてあって金沢氏が嘴を入れたことは一切ないと言ったのだ。例の男というのは、最近、頻繁に料亭「穴八」で旧軍人らを集めて秘密会議を開いている、その男のことだと思う」

「それで?・・・」

「奴は、決して表に自分を明らかにしない。全てのこまごました事は、奴の手下に仕切らせる。奴が火の粉をかぶるのを避けるためだ。恐らくあの画は、その手下の誰かが、奴の指示で英恵と交渉して買い取ったものだと思う。一旦、あの絵は、奴の手に渡った」

「二つの絵のうちの金沢の肖像画だけが、木曽の手許に届いていた?」

「そうだ。あの金沢氏の肖像画に書かれていたサイン、一一・一四、このサインは、金沢氏が殺された日だということに偶然気がついたんだ。思うに、けったいな男が、手下の誰かに、金沢殺しの日を書かせた。つまり、あのサインは、十一月十四日に金沢を消せという暗号だ。その日は、京都で例の旧軍人らの秘密会議のあった日だ。けったいな男が、金沢氏の肖像画に記されたあの日付で金沢殺しを木曽に命令した。しかも、あの肖像画を見れば、木曽には、金沢の人相が手にとるようにわかる。キメ手は、金沢の左眼の下の泣きホクロだ」

ここまで言うと青野は一息入れた。

「それからなんやね」

谷田部が話の先をせっついてきた。大いに関心がある証拠だ。

 

「木曽は、十一月十四日、あの不可思議な会議が終ると、金沢を待ち受けて跡をつけたに違いない。けったいな男は、かねてから金沢に疑いをかけていた。金沢が、彼らの秘密を漏らすのではないかと眼をつけていた。僕は、「穴八」の女将に電話してみた。例の旧軍人らの秘密会議のあった日、あのけったいな男の手下が二人、例の会議が終わるまで「穴八」の友待ち部屋で待機していた。一人が、宴会の費用の精算をした。も一人は、会議が終わると同時にいなくなったというのだ。僕の推理では、いなくなった男は、木曽吾平太だと思う。奴は、会議が引けると同時に金沢氏の後をつけた。僕は、都ホテルにも行ってみた。その晩は、金沢氏がホテルに戻っていないのを確認した。金沢氏は、木曽にやられたのだ」

「おい、おい、青野はん、ちょっと待ってくれ。その話、飛躍し過ぎじゃあらへんか?あの日、金沢がホテルに帰っていないことは部下から報告があった、しかし・・・、」

谷田部は、不審の色をありありと表した。

「あの一一・一四の数字を金沢英恵が書き込んだのか、英恵を洗ってみたらどうだろう?」

「手の込んだ事件やな。俺にはあんたの推理は当たってないと思うがな・・・殺された金沢と妻の英恵が、そんな関係とは、とても思えへん。残念だが、青野はん、あんたの推理は、子供だましのような話や」

「谷田部さん、僕も金沢氏の奥さんが夫殺しに手を貸したとは思いたくない。しかし僕に騙されたと思って金沢英恵を洗ってみるんだ」

その日、谷田部は、半信半疑で席を立った。青野もいうべきことは全ていったのでその場を去った。後は谷田部の判断一つだと思った。冷たい北風を受けて、暮で忙しい人混みの中へ青野は、消えていった。

 

青野が立ち去った後、谷田部には忸怩たるものがあった。一寸、青野には言い過ぎたかなという反省の気持ちがあった。そして青野のいうことも一考する必要があると思った。夫婦の関係というものは、往々にして外からは見えないことがある。外見は、うまくいっているように見える関係も、場合によっては隠された罠が潜んでいることもある。これは谷田部の長い経験で厭というほど味わってきたのだ。谷田部は、デスクの上の電話を取った。そして世田谷警察署に、青野から聞いたことを細かく連絡し、金沢英恵の身辺を洗うよう依頼した。世田谷署は、直ちに金沢英恵の住所を割り出し、北沢署に金沢英恵を訊問するよう要請した。

 

 

英恵への訊問

北沢署は、突然舞い込んできた話に、半信半疑だったが、署長は、石沢と大木の二人の刑事課の署員を呼んだ。京都府警から伝えられた話をその二人の署員に伝えた。二人の署員は府警から指示された金沢の邸へ向かった。金沢の邸は、下北沢の高台を世田谷代田方面へ下がり、その下がったあたりから、再び高台へと登りつめた所にあった。大きな屋敷ではなかった。入口の部分に、塀を巡らし外部からは中がわからないつくりになっていた。このあたりは、マンションより普通の民家が多い。外界から途絶して、ひっそりと住みなしている構えの邸が多かった。塀で囲まれた北側に門構えがあり、「金沢」と墨痕も古びた表札がかかっていた。背の高い松の木が塀から覗いていた。東京という大都会にしては、驚くほどひっそりとした区域だった。時折、表通りの商店街から買い物篭を下げた婦人が通り過ぎる程度の人通りであった。自家用車の駐車場を所有している家も少なかった。要は、中産階級が、夫を勤め先へ送り出した後、ごく静かに住みなしているというたたずまいの家が多かった。どこかから犬の遠吠えが聞こえてきた。英恵の家は、画家がもつアトリエもなかった。普通の二階建ての家だった。ただ、家の裏側は背の高い青木の生け垣がめぐらされ、その垣根の間から覗くと、家の中庭には、菊の花が穏やかに咲き乱れていた。インターフォンを通して署員が来意を告げた。

「どなた様でしょう?」

かすれた女性の声が返ってきた。

「北沢署の者ですが・・・」

「なんのご用件でしょう?」

インターフォンから返事が返ってきた。

「旦那様の件で、京都府警から連絡が入ったものですから、そのことで、知れる範囲のお話しをしなければと思い、お伺いしました」

「ただいま玄関を開けます」という返事があった。

しばらくすると、玄関のドアを内側から開ける音が聞こえ、ドアが開いた。金沢英恵が立っていた。英恵は、濃紺のツイード風のワンピースを着ていた。白いベルトが目立った。事件の痕跡か、顔から色つやが消えて、血の気のない白くふやけたような顔をしていた。黒髪は、短く切られていたが、乱れが目立った。泣きはらしたためか、まぶたが、はれぼったい感じだった。英恵は憔悴していた。やつれ果てている。口紅は塗っておらず、化粧らしい化粧もせず、素顔のままといってもよかった。ただ苦境にある女にしては、不思議ななまめかしさがただよっていた。英恵は、署員二人を玄関の上がりがまちに腰掛けさせ、座布団を三つ、奥から持ってきた。英恵は、二人の前に正座して座った。二人に座布団をすすめた。

「すでにご存じとは思いますが、ご主人様は、去る十一月十四日、正確な時間はわかりませんが、午後九時過ぎかと思います。現在、取調中の木曽吾平太という男に殺害されました。誠にご愁傷さまです」と大木がいって頭を深々と下げた。

石沢も当然ながら頭を下げた。

「死んだ者は帰りません。ただ、殺された理由が知りたいのです」と英恵はきっぱりといった。

それからは、石沢が、金沢の死体の詳細、検死の結果、使われた凶器、それを使って金沢を死にいたらしめた木曽吾平太という男のことを、知れる範囲で話した。凶器についてはモノクロの写真を英恵に示した。

「クナイ」と「手裏剣」だった。

京都府警から送られてきた情報を伝えたに過ぎない。石沢や大木が直接入手した情報ではない。間接情報なのだ。

「何ですか、これ?」

当然といえば当然の質問が英恵から返ってきた。

「私も京都府警のことで、詳しいことは存じないのですが、忍者が使う手裏剣のようなもののようです」

「こんな凶器で主人は殺されたのですか?」

さすが英恵も驚いたらしい。このような凶器で殺された主人のことが今更のように英恵の胸を突き、署員の見ている前で、はらはらと二筋の涙を流した。ハンカチーフを取り出し、その涙をぬぐった。無念とか憎悪とか、表現できない複雑な感情が英恵を瞬間、襲ったのだ。

「私も西都大学の遺体安置所で夫の遺体を見ております。傷跡も見ました。夫が死んだ、それも殺されたことまではわかりました。ただ、何故、夫が殺されなければならなかったのか、その理由がわからないのです」と英恵は、二人の顔を代わる代わる見つめながら、はっきりといった。

「それが・・・実は、金沢さんを殺した木曽も、詳しいことは一切白状しないのです。俺は、東京の兄貴分から殺せという命令を受け、それを実行したまでだと言い張っているのです」。

「本人が東京にいる兄貴分から、主人を殺すように指令を受けたというなら、その兄貴分にあたってみるのが筋じゃないですか」

、英恵は憮然としていった。

「おっしゃる通りです。が、その兄貴分という男が、わからないのです。その前に、ご主人様に、事態が起こる予兆のようなものでもあったなら、そちらからお伺いしたいと思いまして・・・」

英恵は、初め、この大木の説明を、真剣に聞いていた。何故、夫が殺されなければならなかったか、未だに腑に落ちないことがあることを述べた。以下は、その時、英恵が二人の署員に告白した概要である。

 

 

英恵の告白

「夫は悪い人間ではないと思っています。私との結婚も殆ど偶然に近いものでした。

私は、美術大学を卒業し、絵描きの道を歩んできました。絵を描くことが大好きで、三度のご飯より好きでした。父も母もこの世にはおりませんが、二人とも私が絵描きになるのは反対でした。その頃の世の中の風潮もあったでしょう。私には、普通の女、いうなれば家庭の主婦としての波乱のない道を歩ませたいと望んでいたようです。ご存じの通り、当時の世の中は、戦争前の風雲急を告げる時期でもあり、両親は、私をごく普通の安全な道を歩ませたいと思っていたのでしょう。そこそこの富裕な家に嫁がせ、主婦として落ち着いた道を歩ませたかったのだと思います。しかしそれに私は猛然と反対しました。女としてこの世に生を受けた以上、納得づくの一生を送りたかったのです。それで父母の反対を押し切って私は、好きな絵を描く道を選んだのです。戦いが始まり、それはそれは絵を描く仕事も大変でした。絵の具がなくなりました。キャンバスも額縁も上野の美術学校近くの専門店へ行っても、悉く事欠く有様です。私はキャンバスの代りに、薄い木の板の上に絵を描きました。そうこうしているうちに父母があの世へ去りました。あの戦争の最中でした。絵を描く仕事というのも、描いた絵が順調に売れれば、それで食べてゆけるわけです。しかし、そこまで到達するには、きわめ付きの才能がなければなりません。才能というものは、天賦のものでして、誰もがその才能に恵まれる訳でもありません。芸術を職業とするには、海綿が水を吸うようにお金がかかるものなのです。お金は芸術の肥やしです。これがなくては、どんなに才能があっても芸は育たないのです」英恵は、まずそこまで喋ると、何か思いにふけるようだった。英恵はやつれ果てていた。顔の陰影がそれを表していた。美しい女だと石沢は思った。いろいろな思いが、英恵の胸を去来するのだ。石沢と大木は、メモをとるのも憚られ、英恵の話にひたすら耳を傾けた。それは英恵の告白に近く、捜査員も、それを止めるのもどうかと思った。人間は、告白という形で真実を語るのだ。今日までいろいろな犯罪の捜査に当たっても、この告白に充分時間をかけて聞いておくことが如何に重要であるか痛いほどわかっていた。英恵は、ここまで喋ると、つとその坐を立ち、奥へ行き捜査員にお茶を入れてもってきた。その時の茶碗といい、茶碗を載せた盆といい、実に趣味がよく、かなり高価で美しいものだった。捜査員は、金沢夫妻には子供もなく、恐らく、英恵の美的な感覚で全ての調度なども整え、きちんとした生活を送っていたと想像した。奨められた茶も、香りが芳醇で、戦争が終わって十年そこそこの時間を経たばかりなのに、この夫婦は、かなり高価な茶をたしなんでいると思った。夫妻には、子供もなく、生活に追われている風もなく、山の手の典型的な知識階級に属する夫婦だと認識した。

「生菓子でも用意しておけばよかったのですが・・・」と英恵はいった。

「いや、結構です。ご心配はく、お話しをお続けください」と大木がいった。

英恵は、自分でも茶をすすり、再び自分の来し方を語り始めた。英恵の語り口には、語っておかなければならない衝動のようなものが感じられた。英恵を突き動かす何かがあるのだ。それが何かはわからなかった。英恵の独白の中に、金沢を殺しに誘う手がかりがつかめたらと二人は思った。しかし話はその方向へは進まなかった。

 

「その頃、芸術の世界は、こぞってお國の為一色となっておりました。高名な画家の方たちも、戦争絵画を描き、文筆家は文筆家で、兵隊さんと一緒に戦地へ出かけていって、戦さのきれいな面だけを文章に綴ったりしたものです。日和見主義といわれても、芸術家とて毎日の糊口を凌がねばならなかったのです。女一人生きて行く難しさをつくづくと味わいました」

英恵は、少し間をおいた。何か複雑な思いに囚われている風だった。来し方のいろいろな思いが交錯するようだった。

「そこに現れたのが金沢でした」

以下は英恵の述懐である。

 

「彼の実家は、秋田県で手広く農業を営んでいました。県立の中学校を主席で卒業し、陸軍士官学校へ入学したのです。夫も何時かはお國のために戦地へ赴くのではと予測していました。しかし、女が絵を描いて一人で一生を送るのも甚だ危うい生き方ではないかと思いました。主人が戦地へ出かけて行けば、いつどのような運命になるかもわからない。それは私も予測していました。通常の大学出を、とも考えましたが、世の中が全て、あの戦争に集中している時でした。通常の大学出でも、どしどし軍隊へかり出される時期でした。金沢を紹介してくれたのは、私の美術大学の同級生でした。主人が戦地へ行っている間に好きな絵を描くことに没頭できると女の浅知恵で考えたのです。夫が戦死をしたも、それまでに絵で食べられるように、実力を蓄えておきたい、とも思いました。」

英恵は、そこで溜息をつき、幾分、肩を落した。

 

「それからというもの、世の中は、想像もつかないほど激変しました。

夫が連隊長かなにかになって、ガダルカナル島へ行ったことは、それとなくわかりました。その島の戦いで多くの犠牲者が出て、日本軍はとうとう撤退したということも新聞その他で知りました。撤退という文字を新聞で見た時、これは容易ならない事態になったと思いました。恐らく、そのうちに主人の訃報がもたらされるのではと思ったのです。そうなった時にも動じないよう心の構えを決めておこうと思っていたのですが、人間はそう簡単に物事を決めるようにはできていません」石沢は、ぽつぽつと語る英恵の顔を、ある種の驚きをもって、まじまじと眺めた。それほど英恵の語り口は、しっかりしていた。

「それから、日本は、敗戦へと大きく舵を切りました。私は金沢は、ガダルカナルで死んだものと思っていました。やがてその通知がくるのではと思いました。その覚悟をしなくてはと思い、私は、絵を描くことに拍車をかけました。結果として二水会の会員に推挙されるまでになり、私の絵も少しずつ人様に買っていただけるまでになったのです。この調子ならば、よしや夫が戦地から帰ってこなくても何とか食べてゆけるのではと思ったものです」

英恵は、いろいろな思いが胸の中で去来するらしく、しばらくどこか定めのないところへ視線を投げて、深い思いにふけるようだった。そういう時は、話が途切れた。捜査員は、二人とも、この独白に近い話を、耳を澄ませて聞き入った。英恵の言葉の端々に、事件に関係するヒントはないかと思うからだ。

 

英恵は、一息いれて目の前のお茶をすすった。そして捜査員の顔をまじまじと見つめた。何かを訴えようとしている。そして、

「あなた方は、一体、何のために私のところへいらしたのですか?」と、突然、疑問の声をあげた。

「いや、失礼いたしました。お伺いすれば、事件を解く鍵があるのではと思いまして・・・ご主人を殺した犯人は捕まってはおりますが、それを教唆した者が誰かを知りたいのです」と捜査員の一人がいった。小さなささやくような声だった。

その時、英恵は、周囲を用心深く見回した。前こごみになり一層小さな声でささやいた。

「私につきまとっている男がいるのです」と言った。

声が震えていた。英恵は、また周囲を用心深く見回した。そして、

「何とかしていだだけませんか?」といった。そして再び話を続けた。

石沢も大木も、何か謎があると感じた。余り長居は禁物だと思った。二人は、これ以上英恵の話を聞いても事件のつながりになるものはないと判断した。互いに目配せをして、その場を早々に立ち去る合図をした。しかし事情は異なる方向へと動いた。英恵の話がまた始まったのだ。

「それから私の生活も一変しました。食べる物がないのです。人間は食べていかなければ生きてゆけません。秋田の主人の実家から時たま食糧を送ろうかといってきましたが、終戦直後のことで輸送ができません。東北方面へ行く汽車も来る汽車も、満員の状態です。   特に地方へ行く汽車は、焼け出されて着のみ着のままの被災者が鈴なりです。誰かが白米のおむすびなど持っていようものなら、それこそ恨みがましい眼でみられました。私は人間というものの限界をこの眼でみました。好きな絵を描くどころではありません。女一人で生きて行くことさえ満足にできない世の中になっていました。私の描いた絵など買ってくれる人はおりません。絵を描く行為自体が怨磋の的になりました。私は声を潜め、静かに暮らし、ここの電車で小一時間ばかり乗った所で、農家にたどりつき、着物を売ったり、家にあった骨董品をお米に変えたりして何とか飢えを凌ぎました。そこへやってきたのが新円の切り替えでした。なけなしの貯蓄もこれですっかりなくなりました。もうこれ以上生きていても仕方がないという所まできたのです」

 

 

金沢を脅かす亡霊

英恵は、再び話の続きを始めた。何かせっぱつまった話があるようだった。

「冬の寒い日でした。庭先に人が立つではありませんか。ドアを開けるとなんと金沢が立っていたのです。ボロボロの軍帽に肩章も何もかもはぎ取られ、よれよれの軍服を着た金沢が、背嚢のようなもの一つを背負って立っているではありませんか。

私は驚きました。私は喜びました。真っ黒な顔をして、骨と皮ばかりになった夫、しかし私には天から幸運が落ちてきたと思ったものです。女一人の生活の中に、男手が現れたのですから・・・

「あなた、生きていたのね」と私はいって、主人の汗くさい汚い身体に抱きつきました。涙があとからあとからこぼれるのです。主人は、痩せて衰えた肉体から薄汚い背嚢を落し、崩れるようにして、縁側に座りこみ、ボロボロのゲートルを解いたのです。金沢は、私の顔を見ても、笑顔を一つも表さないのです。ただ暗い沈んだ表情で、家に上がりこみました。出陣の時、持って行った軍刀も没収され、丸腰でした。その丸腰の姿が、その時の金沢の立場を語っていました。

それから一月ほど、金沢は死んだように眠るばかりでした。大体、口数の少ない人でしたが、更に寡黙になっていました」ここまで話すと英恵は、次を話すべきか、戸惑っている風だった。英恵は疲れているのだ。しかし、ふっきれたように口を開いた。小さな声で「私を救ってください」といった。

「その頃、私は金沢にある変化が起こっていることを見つけました。金沢は、深夜に必ず寝言をいうのです。恐ろしい寝言です。その寝言は、殆どがガダルカナル島での出来事への後悔と懺悔の言葉ばかりでした。

ある時は、「俺は部下十三人を全部殺しちまった。俺だけが生きて帰った」といい、またある時は、「お前、トカゲを食ったのか?」とか「蛇の味はどうだったか?」とか、「少しは腹のたしになったか」とか、そのうちに「お前、死んだ同志の肉を食ったのか?馬鹿者!」とか、そんな食べ物に関する寝言やウワゴトを、しきりに眠りながら口づさむのです。しかもそれは必ず夜中の三時を過ぎた頃から、明け方近くまで続くのです。その夫の寝言を聞くと、私は眠れなくなるのです。例え寝言にせよ、真夜中にこんな寝言を、殆ど毎晩聞かされるのです。私は夫に怖ささえ感じました。この人は、戦地へ行って人が変わったのだと思いました。隣りに寝ているのは、本当に主人なのか、もしかしたら主人の姿をした亡霊ではないかと思いました。それは恐ろしい体験でした。金沢は、ガダルカナルの戦いがトラウマになっていたのです。目が覚めると普通の人に戻るのですが、夜になると、全く人が変わるのです。恐ろしい金沢になるのです」といって英恵は、一息入れると、

「こんな内輪の恥を晒してしまって・・・」と後悔するような表情を走らせた。

「そんなこと、恥でも何でもありません。ご心配なくお続けください」と大木がいった。

「金沢には、魔物が住んでいたのです。ガダルカナルという魔物です。あの戦いが、金沢の神経を痛めたのは間違いありません。戦地へ行く前は、全く普通の人間で、私の愛する夫でもありました。戦いが、全く人間を百八十度変えてしまったのです。夫は、まるでジェキル博士とハイド氏のように、二重人格になっていたのです。

それに生活の重みが加わりました。明日食べるものの心配もしなければならなかったのです。金沢もそのことはよくわかっておりまして、それなりの心配もいろいろしてくれました。そして一番重要なことは、正業を失った自身のことでした。あれこれ就職の運動をいたしまして、何とか働く場所を確保したわけです」英恵は、ここまで喋ると、つと坐を立って奥へ行き、新しいお茶を入れて、持ってきた。      英恵は、時々、大きく深い呼吸をし、また話し始めた。

「しかし、その後も、金沢は、夜になると睡眠中に寝言というかお叫びというか、この癖は治りません。そのうめきとも叫びともいえる声には、この私もほとほとまいりました。お恥ずかしい話ですが、夫婦の交わりもあるにはありましたが、兎に角、その夜の雄叫びに私は怯え続けました。

あいつも殺した。こいつも死んだ。食い物だ、食い物さえあれば・・・というようなうめきです。昼間は、普通の人間に帰るのですが、夜になると全く人が変わります。彼の脳の中に何か怪物が住み着いていて、夜になると、その怪物が暴れ出す。これには私も全く困惑しました。私は、本人に精神科へでも行って相談したらどうか、と奨めるのですが、本人は、これは俺の「罪ほろぼし」やといって聞き入れません」ここまで喋ると、英恵も疲れたらしく、お茶を飲んで一服入れた。

「すみません、こんな話ばかりで、この辺で止めておきましょうか?」といった。

石沢は、あわてて、

「とんでもありません。非常に参考になることばかりです。どうかお続けください」といった。石沢もこの話の続きが知りたかった。

それは捜査員という肩書きを離れたものになっていた。

「ある晩、真夜中のことです。眠っていた私は、突然、首を絞められて眼が覚めました。

夫がランランと燃える眼で私を鋭く睨みつけているのです。その時の眼、夫の形相、この世の者とも思えない恐ろしい形相でした。「貴様、奴の肉を食ったな。馬鹿者め!」といって、私の首を絞めようとするではありませんか。私はとっさに夫の手を払いのけ、起き上がりざま、夫の顔にピンタを食らわせました。夫は、やっと正気に戻りました。夫は、その時、本当に切ない表情で私を見つめました。夫は初めて私に人間の弱さを見せつけました。隣りの布団にもぐり込むと、そのまま大いびきをかいてぐっすりと寝込んでしまいました。こういうことが再三続いたのです。本当に、こんなことまでお話しするのは、心苦しいばかりですが、私も心底困り果てたのです」しかし、英恵自身にも、この異常な体験を、夫の存在が失われてしまった今、全てを吐き出して清算してしまいたいという衝動もあったに違いない。

「そのために私の絵を描く仕事も阻害される有様です。昼になれば、全く人が変わったように、普通の人間になるのです。そのうちに私もいろいろ考えるようになってしまいました。それには離婚ということも含めてです」そういって英恵は、深い溜息をついた。

 

 

不可解な夜の電話

「そのうちに主人は、ある方から、京都で打合せしたいことがあるというお誘いを受け、私もやっと主人の怨嗟から解放されるかとも思い、京都行きの話に賛成しました。京都へ出かけても、恐らく状況は変わる筈もないのです。ただ、ホテルの個室にさえ泊ってもらえば、周囲に迷惑をかけることもないわけです。その間、私もあの怨嗟の叫びから解放されるのだと思いました。彼はすでに廃人に近い存在だったのです」

その時、大木が、すかさず、

「金沢さんを京都へ誘い出した人、それはどんな方ですか?」と聞いた。

「詳しいことは存じませんが、昔の軍人の仲間だといっておりました」という返事が返ってきた。

「その辺のことはもう少し詳しくお話しいただけませんでしょうか?」

「でも、ほんとに誰からどういう話が来たのか、私にはわかりませんの・・・」

と英恵はいった。

石沢も大木も、その場の雰囲気から、それ以上は追及できなかった。

「何の目的で京都まで行くのか、私には皆目わかりません。ただ集まる人達が、旧軍人でそれも元幹部の人達だということだけは夫から聞いていました。それが私の心を許す原因でもありました。主人が京都へ出かけている間は、私にとっては天国でした。再び、私に絵を描く気持ちが再燃したのです。その時に制作しましたのが祇園の舞妓の凡太さんを描いた絵でした」

「その絵は、京都の何処でお描きになったのです?」

「ごく普通の料亭です。「穴八」とか申しました。そこの方も、とてもご親切で、協力していただきました」

「凡太さんというのは、どこのどういう方なのでしょう」

「祇園の確か「塩瀬」とおっしゃる置屋さんに所属していらっしゃる舞妓さんです。とても若くておきれいで、感じのよい舞妓さんでした」

「あなた、お一人では、その段取りも大変だったと思いますが、どなたか、お手伝いなさった方でも・・・?」

「それは、祇園を訪れる外人の方の案内と通訳をなさる青野さんという方です。この方も非常に気がつくし、気持ちのよい方で、しまいには金沢も、この青野様と昵懇の間柄になりました。しかし、この方が事件にからむ方とはとても思えません・・・」と英恵は、いって、再び話を続けた。

 

「凡太さんの絵も完成し、主人が京都へ出かけたある晩、突然、京都の都ホテルから私に電話がありました。現在、日本を治めていらっしゃる総理大臣の側近の方の自宅の電話番号を教えろということでした。私にはその背景は一切わからないまま、昔、お付き合いのあったその方の電話番号を、古い電話帳を繰って教えたのです」

「それは何というお方でしょう?」

「白川様とおっしゃる方です」

「その方を、あなたは何でお知り合いになったのですか?」

「白川様は、ご存じの今の首相の側近中の側近でいらして、GHQなどへも、づけづけと本音をおっしゃり、一目置かれていた方です」

「私も存じ上げております。その方を、どうしてお知りになったのですか?」

「その方のお住まいの近くに以前、住んでおりまして、私が道端で絵を描いておりますと、お散歩か何かの折に、時々、立ち止まられて、私の絵をじっとご覧になり、そんな縁でお知り合いになりました。私も初めは、どういうお方か存じなかったのですが、そのうちに、このお方が、今の首相の側近でいらして、英国帰りの紳士でいらっしゃることがわかりました。随分と私の描く絵を誉めて下さり、そんなこんなでお宅へお邪魔したりしておりました。そのうちにお電話番号も知り、私の作品も一、二点、お買い上げいただいたことがあります。それが私と白川様とのご縁でございます。実に英国紳士と申しますか、当時の日本の男性には見られない歯切れのよい颯爽としたお方だという印象をもっておりました」

「よくわかりました。どうかお話しをお続けください」

英恵は、時折、口を閉ざし、何かを考える風だった。恐らく複雑な心境が英恵の胸の中を去来していたに違いない。そしてまた、ボツボツと語り始めた。

 

 

個展に仕掛けられた罠

「それからでしょうか、久々に私にとっては大作の祇園の舞妓凡太さんの絵も完成しましたので、今まで描き貯めていた作品も含めて昔からお付き合いのある銀座の画廊「深草」で個展を開きました」

ここから英恵は、何故か急に声を落とした。

「大勢の方に観に来ていただきました。そして個展の最終日の午下がりことでした。一人の男の方が、づかづかと会場へ入って来られたのです。すでに戸外は、近隣のビルの屋上の部分を除き、陽が翳り、個展を観にこられる客足も少なくなった頃です。一見して、その方がどのようななりわいの方かこの私にもよくわかりました。大体、油彩画をお買い上げになるようなお方は、美術に関心をお持ちでしかも、それ相応の教養をお持ちの方が殆どです。ところが、その方は、どう見てもそのような範疇に属さない方なのです。そのことは、長年の私の視覚と嗅覚でわかりました。親父(おやじ)が是非あの祇園の舞妓さんの絵と「K氏像」の絵を欲しいといっている・・・とおっしゃるのです。その方は何とおっしゃるお方でしょう?と伺いましても、全ては俺にまかされているとおっしゃって・・・」

英恵の話は、いよいよ佳境に入ってきた。その時、大木が、

「お宅様の絵のサインは、どんなサインですか?」と訊いた。

「私の絵のサインは決まっておりまして、私の金沢英恵の頭文字のH.Kです。しかし、舞妓の凡太さんの絵は、百号近い大作で、私も力を入れて描いたものですから、その絵にはH.Kanazawaと絵の右の下のところへ黒の英字でサインしておきました。もう一つの主人の肖像画の方は、小品でありましたので、サインは、絵の右下のところにH.Kと私の氏名の頭文字だけを記入しておきました」

ここまで話すと英恵は、一服入れた。目の前の冷え切ったお茶を一口飲んだ。

 

「私の絵は、打ち明け話になりますが、だいたいが号二千円前後と画商から決められておりまして、凡太さんの絵は、ほぼ百号ちょっとで、しかも京都その他へ出かけて制作しましたので、滞在賃とか交通費とかの出費がかさみましたので、四十万円、夫の絵は、五十号そこそこの作品ですから十五万円ぐらいを想定しておりました。それに画商さんの手数料が加わります。今のサラリーマンの方々の月給が一万円そこそこということですから、結構な大金だと思います。だいたいお金の細かなことは、画商と相談するというのが、私の今までのやり方です。、私は、専属の画商の住所と電話番号を、その方に申し上げ、そちらでお金の話はしていただきたいと申し上げました」

「その絵を買い上げた男に、小指をツメタ跡はありませんでしたか?」

突然、石沢が問い質した。英恵は、周囲を見回し更に声をひそめた。殆どひそひそ話に近い声だった。

「いえ、気がつきませんでした」と英恵はいった。

「失礼かとは存じますが、結局、売却なさった絵の代金は、おいくらになったのでしょう。私どもは、北沢署の捜査員でして、売却された絵の金額やその他のことは、税務署、その他にも一切他言しません。捜査上の参考にするだけです。これは信じてください」と大木がいった。

英恵は、比較的率直だった。隠し立てしても仕様のないことだと思ったのかも知れない。

「画商から手にしたお金が、丁度、百万円でした。この金額は、画商の手数料を差し引いた後の金額ですから驚きました。何度も画商に問い合わせたのですが、画商は、お客さんが満足しておられるのだから、いただいておきなさいと申すのです。そこで、何処のどなた様がそんなお金を私の絵に払って下さったのか、画商に再三問い合わせました」

「その結果は・・・?」

英恵は更に声を落とした。ひそひそ話に近い話方になった。

「画商は、大槻三郎とおっしゃる方だ、というのです。住所と電話番号ぐらい教えてもらい、お礼の一つもせねばと思って、画商に問い合わせたのですが、画商がいうには、名前以外のことは一切、おっしゃらなかったというのです。今後のこともありますので、と申したのですが、他の情報は一切口にされなかったというのです。その場でキャッシュで支払われたというのです」

石沢の眼が輝いた。そして、急き込むように英恵に聞いた。

「その時、貴方は、ご主人様の肖像画の貴方のサインの他に、何か数字をお書きになりませんでしたか?」

英恵は、ずいぶん変なことを聞くなというような表情を走らせた。黒く細く引いた両方の眉毛が、小鼻の中心へ寄った感じだった。

「そんな数字が、あったのですか?そしてまた、主人の絵がどなたの所に・・・?」

「驚かないでください。ご主人様の肖像画は、木曽吾平太のところにありました」

英恵は、驚愕の表情をありありと表した。そして、

「はあ・・・?」と聞き返した。

「ご主人様の肖像画は、犯人の木曽の家にあったのです」

「そ、そんな・・・大槻さんと木曽、同一人物ではないのですか?」

「同一人物ではありません」

「おかしな話・・・?」と英恵は、怪訝な表情を走らせた。

「そのご主人様の肖像画に、あなた様のH.Kのサインの前に、一一・一四という数字が書かれていたのです」

「へえ、私、そんなこと全然存じませんでした」

英恵は、ありありと驚愕の色を表した。

「その数字、誰が書き込んだのでしょう?」

「わかりません。木曽も一切、口を割りません。知らぬ存ぜぬです。今日、お伺いしたのも、その辺のことが、貴方様から伺えるのではと思い・・・」

「一一・一四・・・・?」

英恵は、この数字を反芻しているようだった。驚きととまどいの色を隠すことはできなかった。そこで、大木が助け船を出した。

「府警の担当の者が申しますには、この数字は、ご主人様が、殺害された日に一致しているというのです」

英恵は、ますます驚愕の色を表した。

「と申しますと・・・?」

「犯人の木曽が書き込んだものではないことは確かです」

「では、その絵を買い上げた大槻さんが、書き込んだ・・・?」

「その大槻三郎なる者は、どこにいるのか居所も電話番号もわからないのです」

「不思議なこともあるものですね。私、怖くなりました」

英恵の声は、小さく震えているようだった。

「この件で何か異常な事態が起こるようでしたら、至急、北沢署の私のところへお知らせください」といって石沢が、名刺を英恵に渡した。

「ところで、ご主人が京都から突然、白川様の電話番号を問い合わせてきた周辺の事情をお話し願えませんでしょうか?」

捜査員は、英恵にそう尋ねた。英恵は、やや疲れた、もうこれ以上どうでもいいではないかという表情を走らせた。そして、正座していた姿勢を、崩しながら、しばらくしてから重い口を開いた。

「主人の事件が起こったその日の晩でしたか、記憶は、はっきりしません。正確な時間は忘れてしまいまいました。、すでに夕闇に閉ざされていた頃という記憶があります。七時頃でしたでしょうか、突然、京都から主人が電話をよこしまして、白川様の電話番号を教えろというのです。私も久しくご連絡もしておりませんし、兎に角、高名な方ですので、躊躇したのですが、主人が火急にお知らせしたいことがあると申しますので、しばらく電話を切らずに、あちこち古い電話帳を探し、やっと白川様のお宅の電話番号を主人に知らせました。しかし、昔のお付き合いですから、今でもその電話番号にお住まいがあるかどうかもわからないのです。主人は、私が電話番号を電話口で伝えると、何かメモでもとっていたのでしょう、伝え終わると同時に電話が切れてしまいました。私は、主人が、何時、東京へ帰るのか、その予定も聞きたかったのですが、そんな余裕はありませんでした」

「その時のご主人様のご様子は・・・?」

「だいたい普段は、夜の寝言のことを除けば、落ち着いた普通の人間です。

主人は、ガダルカナルの亡霊さえなければ、平静な人間でした。ただ、京都での会合から帰ると、決まって不機嫌でした」

 

おおよそ以上のようなことを英恵は、北沢署の署員に告白した。その時の英恵には、不思議な表情が漂っていた。それは諦観のある確信だった。それがどういう意味であるかは、二人の捜査員の想像を超えていた。金沢氏の肖像画に書き込まれた数字の件を英恵は初めて知ったように思えた。同時に、自分に与えられた運命に従わざるをえないという感情も潜んでいたのであろう。いかにも疲れたという風に、深い溜息をついて身体を崩した。石沢と大木は、これ以上英恵に話をさせることに限界を感じていた。英恵との事情聴取を、この辺で切り上げることにした。その時、また奥の方で戸か何かが閉まる音がした。石沢と大木は、英恵に丁重にお礼を述べて、その場を立ち去った。金沢は、首相暗殺計画に関与し、その計画が熟してきたことに危険を感じ、良心の赴くままに、これを阻止しようと思っていたのではないか。そして、そのことを青野だけに、洩らしていたのだ。捜査員は、そういう秘められた話は、その場で英恵に伝えなかった。まだ周辺の証拠固めや、事実関係の捜査が終わっていないからだ。しかし、谷田部が本庁へ、その危険な計画の存在を伝えてきたため、本庁は、殊更、首相周辺の警護を固くした。

 

 

数字に隠された秘密

それから数日後、青野の事務所へ府警の谷田部から電話がかかった。昼近くのことだった。青野は、ソファによりかかりウトウトしていた時だった。

「青野はんか?昼過ぎに俺んところまで来てくれへんか?」

「何か進展があったの?」

「いや、決定的なことはないのだが、東京の北沢署から連絡が届いておるんや」

谷田部は、金沢殺しの下手人はつかまえたが、今、一つはっきりしないことがあるらしい。

「わかりました。ちょっと調べものがあるんだ。少し時間をくれないか?」

「よろし。そんな急ぐことでもあらへんので・・・」

谷田部は、青野の申し出を素直に聞き入れてくれた。青野には、谷田部に会う前に、事件について、調べておかなければならないと思っていることがあった。青野は、カメラを持って事務所を出ると、料亭「穴八」へ向かった。

「穴八」では、昼飯の客があるらしく、女将は、せわしそうに、使用人への指示に余念がなかった。

「女将さん、忙しいところへ来てしまって・・・」

女将は、かねがね青野には、世話になっている。多忙な手を休めて出てきた。

「つかぬことをお願いします」

「なんでっしゃろ?青野はんのことなら私に出来ることなら何でも・・・」

「ちょっと申し上げにくいのですが、今年の夏に、金沢英恵さんがお世話になりました」

「お気の毒な事が起こりましたなあ。犯人がつかまったと聞いてはおりますが、その後、どないなっているんでつしゃろ・・・」

「その件ですが、異な事をお願いに参りました」

「何ですやろ、私にできることなら・・・」

「お忙しいところすみせん。、夏に金沢英恵さんが、お宅のお座敷を使わしていただきました。その時、諸掛かりの支払いをしたはずです。変なお願いですが、その時の彼女の領収書のサインを見せていただきたいのです。」

女将は、やや古い話で怪訝な表情を隠さなかった。しかし、日頃、いろいろ世話になっている青野のことだ。いやとはいえなかった。

「ほなら、帳場の者にいっておきますさかい、ちょっと待ってておくれやっしゃ」と快く引き受けてくれた。奥の帳場へ小走りに走って行った。

厭なことを快く引き受けてくれた女将に、青野は感謝した。青野は、「穴八」の玄関を上がったすぐの所にある友待ち部屋で、帳場の人間が来るのを待った部屋は、金沢が行方不明になった晩、例の旧軍人たちの集まりが終わるまで、「けったいな男」の手下が二人、待っていたその部屋だ。帳場では多くの領収書類を調べているに違いない。青野は、懐からタバコを取りだして火をつけた。友待ち部屋は、四畳半ぐらいの暗い畳敷きの部屋だった。真ん中に四角いテーブルがあり、灰皿が一つと備え付けのライターが置かれていた。部屋には暖房がなく、冷たい暗い部屋だった。ぞくぞくと寒気が膝のあたりから這い上がってきた。十五分ぐらい経った頃、人の足音が聞こえて、襖が開いた。五十がらみの紺の半天を着た白髪まじりの頭がてっぺんまで禿げあがった男が入ってきた。男は、この種の人間によくある慇懃な話し方だった。

「お待たせ申しました。だいぶ前のお話しですので時間がかかり、すんまへんでした。失礼なお願いですが、この書類は、秘密に属しますさかい、お見せしたことは外に漏れんようお願い申します」

軽く頭をさげてから分厚い領収書の綴りを青野の前に広げた。そこには、九万三千円、「お部屋使用料」とあり、その下に、これは英恵の直筆であろう、日付と金沢英恵の署名があった。分厚いしっかりした紙の領収書だった。日付は、五月十六日で、数字で書かれていた。青野は、その数字をじっくりと眺めた。そして

「不躾なお願いですが、この領収書の写真を撮らせてください」といった。

「何にお使いになりまっしゃろか?」と、その男が訊いてきた。

そこで、青野は、そのいきさつを包み隠さず話した。

「ご存じの金沢氏の事件の捜査上必要なのです」といった。

「「穴八」に迷惑がかからんよう願います」と男がいった。

「当然です。一切ご迷惑をかけるようなこといたしません」と青野はいった。

そして、その領収書にカメラをかぶせてシャッターを切った。

「ありがとうございました」といって、分厚い領収書の綴りを男へ返した。

「こんなんでよろしおますのか?」と男が、怪訝そうに青野に訊いてきた。

「結構です。事件の捜査に使う意外は一切秘密を守ります」

礼をいって青野は外へ出た。外はまぶしい陽光が降り注いたが、空気は冷たかった。青野は、その足で、次は、旅館「畑中」へ向かった。青野は、「畑中」でも同じことを繰り返した。英恵が、凡太の油彩画の仕事を終えて「畑中」を立ったのは、「穴八」の五月十六日から二日後の五月十八日だった。恐らく、仕事の後始末や凡太の油彩画を東京まで無事送り届ける専門業者への手続などで二日ばかり後になったのだ。青野は、その日、英恵の荷物を持って京都駅までタクシーで彼女を送ったことを思い出した。確か、五月の陽光が輝く日でやさしい風が吹いていた。青野が金沢の死を英恵に伝えた翌日、たしか十一月十五日か十六日にも英恵は、夫の遺体を確認するために京都へ来て、同じく「畑中」へ一泊している。その翌日、凡太の付き添いで都ホテルへ金沢が残していった荷物を取りに行っている。これらにも英恵の領収書がある筈だった。「畑中」の領収書をカメラに納めると、青野は、その足でタクシーを拾い、都ホテルへ向かった。しかしホテルには英恵が自筆で書いた領収書はなく、その上、個人情報に関することという理由で強く拒絶された。英恵は、金沢の泊った個室から金沢の持ち物だけを引き取って帰ったのだ。その金沢は、例の旧軍人たちの会合の後、殺害され、ホテルに帰っていなかった。その為、未払の宿泊費は、英恵が精算したに違いないのだ。しかし、それ以上、ホテルに問い詰める気持ちは、青野にもなかった。これは致し方ないと青野は思ったのだ。

 

 

暴かれた真実

青野は、その足でタクシーを拾い、府警の谷田部のところへ向かった。時刻は四時を回っていた。昼食を摂っていない青野に空腹感があったが、昼食は谷田部に会ってからにしようと思った。谷田部は、いかにも眠そうに眼をこすりながら出てきた。疲れているようだ。

「青野はん、すまん、すまん」といって、例の取調室を指さした。

「青野はん、東京の北沢署から報告書が届いたんや」といって、分厚い封筒を青野の前に差し出した。青野は、その報告書に眼を通した。

「わからない事が多すぎますね」

「大槻三郎のことやろ?」

「そうです。大槻と木曽との関係がわからない。ただ、はっきりしていることは、英恵が描いた「K氏像」が、いつの間にか木曽の手許に届けられていた・・・

ところで、谷田部さん、あの金沢氏を描いた肖像画の右下に描いてあった数字、一一、一四の数字のことだが、木曽は、その数字を英恵が書いたものと思っている。そこで谷田部さん、今日、僕は、ここへ来る前に、英恵さんが舞妓凡太の絵を描いた料亭「穴八」と、彼女が滞在していた旅館「畑中」へ行って、英恵さんの手で書いた支払領収書の数字を調べて来たんだ。支払金額だけは、それぞれ「穴八」と「畑中」の者の手で書いていた。しかし、支払った日付と支払人、つまり英恵さんの名前は、英恵さんが自分の手で書いたものに間違いない。英恵さんの「穴八」への支払は、五月十六日、旅館「畑中」への支払は、二日後の五月十八日だった。この十八日に英恵さんは、京都を去っている。僕が京都駅まで送っていったからよくわかっている。その後、金沢氏の死亡が確認された翌日、英恵さんが遺体に会うために急遽、京都へ来た。その時は西都大学の検体室まで谷田部さん、タクシーであなたも私も英恵さんと一緒だった。その晩も英恵さんは「畑中」へ一晩宿泊した。僕は、「穴八」と「畑中」の両方の領収書の写真を撮ってきた。谷田部さん、この日付の数字と木曽へ送りつけられてきた金沢氏の肖像画の日付の筆跡を、専門家に鑑定してもらいたいんだ。それが英恵さんの筆跡ということになれば、この事件は、全く別の方向へ走り出すことになる。その二つの領収書はカメラに納めてきてある。これを現像して、木曽の家にあった「K氏像」の油彩画の日付の筆跡を専門の筆跡鑑定士に鑑定してもらいたい」

「なるほど、それによっては英恵にも嫌疑がかかる。というのは北沢署からの報告では害者には、夜、三時過ぎ、決まって狂いだして、ガダルカナルの幻想に襲われる癖があったらしいのや。妻の英恵さんの首まで絞めて、悪夢にうなされることがあったらしい」と谷田部はいった。

「そうか、きっと、金沢さんにはガダルカナルの戦いで部下を飢え死にさせたことが、きついトラウマになっていた」

青野は、懐からカメラを取り出すと谷田部に手渡した。

「この中に重要な証拠が治められていることになるかも知れない」と青野はいった。

「なるほど」と谷田部は、大きく肯いた。

「気になっているのは、英恵さんが自書した一という数字だ。英恵さんには、一の字に特有の癖がある。一の字の最初のカギが大きいこと、二番目は、一の字の最後に必ずハネが入っていることだ。これが「穴八」の英恵さんのサインの日付の一の字も、旅館「畑中の英恵さんが自署した日付の一の字とが全く一致している。この一の字と例の「K氏像」の一一、一四の数字の一の字とが、同じ英恵さんの手になるものであれば、この事件の局面は、「けったいな男」や大槻三郎から急展開して、英恵さんに嫌疑をかけることもありうるのだ。谷田部さん」

「あんたの推理は鋭い。早速、北沢署へ連絡して、問題の一の字の筆跡鑑定、これを急がにゃ」と谷田部はいった。

 

その夜、青野は、事務所のソファに腰を下ろし、タバコを吸った。場合によっては、金沢事件は、大きく展開する可能性がある。あの凡太の絵を見事に描いてみせた金沢英恵を、場合によっては告発の場に乗せる事になるかも知れな。このことは青野の心を揺さぶった。青野は複雑な心境だった。そして青野の心の中には葛藤があった。金沢の隠れた部分を知ってしまったのだ。金沢はガダルカナルのトラウマの虜になっていたのだ。それほど、ガダルカナルの戦いは激しいものだったのだ。

 

 

納得し難い結末

それから一週間ばかり経った日の午前十時頃だった。青野の事務所に電話がかかってきた。青野は、珍しくこの時刻、事務所に出ていて、デスクに向い読書をしていた。

「谷田部だが・・・、こんな時刻に事務所にいるとは珍しいな」

「最近は、事務所に早くからつめているんだ」

「ところで、例の件やがな、青野はん、筆跡鑑定の結果だが・・・」

「それ、どうなった?」

「ヅボシや。「穴八」と「畑中」の領収書と金沢氏の肖像画の日付サイン、これ、みんな同一人物の筆跡や」

「ということは、金沢英恵の筆跡か?」

「そや。おもろい事になってきた・・・。あの一の字の書き出しのカギと終わりのハネ、決めてはこれや」と谷田部はいった。

「ということは、事件が、新しい局面に入ったということか?」

「そうや。近く金沢英恵に召喚をかける。同時に自宅に見張りをつける。人の出入りを突き止めにゃ」

「しかし・・・」

「しかし、なんやね?」

「英恵さんの夫殺しを仕掛けた勢力のことだ」

「それは、解明が難しい」

「何故だ」

「政界を裏で金で牛耳っている奴がいる・・・そいつを挙げるのは難しい」

「どうしてだ?」

「下手なことをすれば、全てが潰される」

「例の暗殺計画はどうなったんだ?」

「それは、本庁を挙げて消し止めた」

「英恵を挙げるとしたら、罪状は何だ?」

「殺人教唆や」

青野の胸の内に複雑な感情が走った。しかし青野は、それを飲み込んだ。それにしても英恵が描いた舞妓姿の凡太の絵は、どこへ行ってしまったのか、恐らく例の「けったいな男」の手に渡ったに違いないのだ。このことは凡太にはいえないことだった。凡太の絵は数奇な運命をたどることになったのだ。

 

金沢英恵は、北沢署へ呼び出された。北沢署は、金沢英恵を再三にわたり訪ねてくる男に探りを入れていた。男は刑事に尾行されていた。その男が大槻三郎であることを突き止めた。大槻は、ある時はサラリーマン風で、ある時は、近所の商売人風で、その風采を変えては英恵宅へ訪れていたことがわかった。英恵は、大槻に脅かされ「K氏像」に一一・一四の数字を記入したことを認めた。それがどんな意味をもつかはわからなかった。それほど大槻の要求は激しく、英恵が拒絶することは不可能だった。万一、拒絶したならば、英恵の運命はどうなるかわからなかった。大槻は、英恵の描いた絵二点、つまり「舞妓凡太の絵」と「K氏像」を必要以上のプレミアムをつけて買い取ったことをタテに、しきりに難癖をつけ、ゆすり「K氏像」に一一・一四の数字を英恵の手で書き加えさせたことがわかった。

「本当に申し訳ありませんでした。私、どうしたらいいのでしょう。お宅さまの署の方がお見えになった時、このことはハッキリ申し上げませんでした。私があの数字を大槻の脅しで書き込んだことが知れると、大槻は私に何を仕掛けてくるかわからなかったのです。私、本当に怖かった。彼は、しつこく私につきまとい、あの数字を私の夫の絵に描き込ませたのです。この数字が、夫を、この日に殺せというサインだったとは・・・私、全く気がつきませんでした。私、残念です。これでは私が夫を殺せと指示したことになってしまうではありませんか。私、あの数字が夫を殺す日だとは予想だにしませんでした。私、どうしたらいいのでしょう。私、悲しい・・・」と英恵はいい、涙を流して北沢署の取調室の机に泣き崩れた。

 

大槻は、英恵に対し、執拗に肉体関係を迫っていたことも明かになった。そして「K氏像」は、大槻が木曽へ送ったことも明らかになった。年が明けて一月の半ば、北沢署は、大槻三郎を殺人教唆と恐喝の疑いで逮捕に踏み切った。しかし、大槻は、背後関係については、自分がやったことだとして一切白状しなかった。大槻は、「舞妓凡太の絵」の所在も、一切、口を割らなかった。知らぬ存ぜぬで通したのだ。また、これまでの経過の背後関係についても、言を左右にして具体的なことは一切述べなかった。当然ながら「けったいな男」の実像は、解明されなかった。ふり返って英恵の心情を思う時、青野は、なんとも名状しがたい思いに捕らわれた。いろいろないきさつがあったにせよ、英恵は、金沢を夫として認め、愛情を失ってはいなかったのだと思った。夫を失った女一人の弱みを突いて大槻三郎が入り込んできたのだ。青野は、女一人、絵筆一本で生きて行かねばならない金沢英恵の運命に、同情の念を禁じ得なかった。そして「けったいな男」の正体を、つかみ得なかった悔恨の情に襲われた。「けったいな男」は、「鉄の掟」と金で配下の者たちを縛りつけていた。後に金沢が、秘かに青野に洩らした首相暗殺計画は、挫折していたことがわかった。相沢と組んでいた辻田が、この計画の中止を迫ったということだ。理由は、首相を暗殺するより、共産主義者をこの國から放逐する方が先決だと強く主張したためだという。。今となっては知る由もないが、一つ確実なことは、この絵を巡る事件に、正体不明な巨魁がその背後に絶えず見え隠れし、その巨魁が日本を根幹から変える重大な計画を実行しようとしていたことは事実だっだ。しかし、その巨魁の実像を一切不明のままだ。

 

事件が一段落したある夜、青野は夜の鴨川べりを歩いて下宿まで帰った。その夜は満月に近い月が中天にかかっていた。川の水は、月の光を反射して、流れていた。青野の心中は複雑だった。世の中を動かしているのは政治家だが、、その政治家を裏で動かしている勢力があることを今度の事件で知った。庶民とは関係のないところで、こういう勢力がうごめいているのだ。青野の心は重かった。