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天気予報

夢原夜星


約 6824

 暑くて長い八月の一週間がようやく終わり、俊樹は妻の待つ家路を急いだ。
『明日から土日を入れて9日間の休暇だ。予定していた北海道旅行にいよいよ行ける』
 俊樹は初めて行く夏の北海道旅行を楽しみに、汗だくになりながら営業の仕事に耐えてきた。しかし、明日からは爽やかな北国だ。
 俊樹は一週間の旅行を楽しみにしているだろう妻のもとへ急いだ。
 玄関を開けると、妻の沙耶が嬉しそうな顔で俊樹を迎えた。
「おかえりなさい。いよいよ明日は北海道ね」と、沙耶もこぼれそうな笑顔で彼の帰りを出迎えた。
「旅行の準備は万端だな?お前と二人で旅行するのは新婚旅行以来だな。きっと楽しい旅行になると思うよ」と言って、風呂と食事を済ませた。
 キャリーバッグに詰め込んだ荷物の最終チェックをし、テレビで明日から一週間の週間天気予報を見て、北海道内はどこも連日爽やかな気候の晴れマークであることを確認し、俊樹は嬉しそうに、
「旅行中に天気が悪かったら最悪だからな。晴天続きで良かったよ」と妻に語りかけた。
 「そうよね。せっかく遠くまで行くんですもの、好天じゃないと嫌よね」と沙耶も相槌を打った。
 明日は出発が早いので、二人は早めにベッドに入った。
 翌日、俊樹と沙耶はバッグを車に乗せ、空港に向かった。刺すような陽光の中、二人は北海道に思いを馳せながら、高速道路を走って行った。
 空港に到着し、手続きを終えた後、二人は新千歳空港行きの便に搭乗した。午前発の便なので、北海道に到着するのは昼過ぎだ。
 飛行機は、二人の夢を乗せて離陸し、予定通り昼過ぎに新千歳空港に着陸した。が、天気予報とは裏腹に、空港の滑走路は雨に濡れていた。
「こりゃ、参ったな。最初から裏切られた感じだね…」俊樹が呟くように言うと、沙耶は、
「そのうち晴れるんじゃないの」となだめるように答えた。着陸前の機長のアナウンスでも、新千歳空港は雨模様と言っていたので、ある程度の諦めはあったが、いざ着いてみると、本当に雨降りだったため、気分は多少滅入った。
 二人はレンタカーをレンタルし、予定表どおり、小樽市に向かった。雨で視界の悪い北海道の道を走りながら、小樽に着くころにはこの雨も止んでいてほしいものだと話しながら車を飛ばした。
 小樽市に入り、あの有名な運河沿いを散策しようと思っていたが、ここも雨が降り続いていた。数多くの観光客たちも、傘をさしてまで運河やレンガ造りの倉庫群を見ようとしている者はいなかった。
 仕方がないので、俊樹と沙耶は、遅い昼食を寿司にして雨が降り止むのを待ったが、雨は止むどころかますます激しく降ってきた。
「これじゃあ、どこにも行けないな。早めに札幌に行って、ホテルに入ろう」
「そうね。こんな雨降りじゃ、どこを歩いてもつまらないものね」
 二人は悔しい思いを残したまま、車に乗り込み、札幌に向かった。
 しかし、着いた札幌も雨だった。
 二人はホテルでチェックインした後、サッポロビール園で大好物のジンギスカンを食べながらビールを飲む予定だったが、こんな雨降りじゃ、ビアガーデンでの食事は無理と判断し、ここでも、楽しみが雨に流されたことに悔しさと憤りを感じながら、ホテルのそばの店でラーメンを食べて夕食を済ませた。
「明日は帯広市だ。初日から雨天で、予定の観光をすべて潰されたけれど、明日こそは晴れてほしいな」と、俊樹は憤慨気味に呟いた。
「今日は残念だったけれど、明日からは、本当に良いお天気になりそうよ」と、沙耶はテレビに映っている明日の帯広の天気予報を見ながら言った。天気予報では、明日の帯広は一日を通して晴天と放送していた。
「よし、それを信じて早めに休もう。明日はかなりの距離をドライブすることになるからね」と言ってベッドに入った。
翌朝、目を覚ました俊樹は、ホテルの窓から外を見た。快晴ではなく曇天だが、雨は止んでいた。今日こそ本当に大丈夫そうだな、と心の中で呟きながら沙耶とホテルの朝食を済ませ、車に乗り込んだ。
札幌から十勝平野の真ん中の帯広市までは、かなりの距離だが、北海道の道路は高速道路並に広くて車も少ないので、天気さえ良ければとても快適なドライブになる。
二人は今日こそ天気に恵まれることを祈りながら、曇り空の下を目的地目指して車を走らせた。
延々と続く原野、草原、山脈、大河を越えて、車を走らせ続けた。北海道の自然は、雄大で広大だ。本州の都府県のスケールとはまるで違う世界だ。そう思いながら、帯広市めざして快適に車を走らせていると、フロントガラスにポツリポツリと雨粒が落ち始めてきた。
「また雨かよ!」俊樹は、苛立った。
「通り雨よ、心配ないわ。天気予報では、快晴になるって言ってたじゃないの」と沙耶がなだめた。
 しかし、雲が切れて青空になる気配はなく、雨はますます強い降り方になってきた。フロントガラスをワイパーで拭きながら、車を走らせたが、サイドガラスにもびっしり水滴がついてしまい、外の景色を見ることができるのはフロントガラスからだけになってしまった。
 道路沿いの食堂で昼食を取った後、目的地の花畑牧場や十勝が丘展望台、幸福駅などに向かったが、どこもかしこもひどい雨で、車から降りて見ることができなかった。帯広まで来て、唯一見ることができたのは、天気に関係なく入れる、『池田ワイン城』だけになってしまった。
 翌日、予定地の釧路市に向かったが、出がけのホテルのテレビで見た「快晴です」と笑顔で話す気象予報士の予報に反して、大雨の中、車を走らせることになった。
 釧路湿原で餌をついばむ三羽の丹頂鶴が霧と雨のかなたに車の中からうすぼんやり見えたが、それはただぼんやり見えたに過ぎない程度のもので、思い出に残る良いイメージの記憶にはならなかった。予定地の釧路湿原国立公園の散策、釧路市動物園、釧路港、すべて雨でキャンセルになり、ここまで来て見ることができたのは、港文館というつまらない小さな建物だけだった。
 ホテルの部屋で、はらわたが煮えくり返っていた俊樹は、阿寒地方気象台にクレームの電話をした。電話に出たのは、のほほんとした口調の女だった。そのいかにも暇そうなぼんやりしたしゃべり方が、俊樹の怒りに油を注いだ。
「北海道に来て、今日で三日目だが、毎日雨降りだ」と俊樹が言うと、
「それはお気の毒さまです。でも、天候の良し悪しは気象庁には何の関係もありません」
「そんなことを言ってるんじゃない。テレビの天気予報で、今まで一度も雨になるなんて予報はなかった。毎日晴天です、と言っていたじゃないか。それがどうして、毎日雨降りなんだ」俊樹は怒りをぶちまけた。
「天気予報は、あくまでも予測です。気象状況は、刻々と変化していますので、必ず当たるというものではありません」
「ふざけるな。何だ、その無責任な言い方は。俺たち旅行者は、天気予報を信じて、目的地や行き先を決めているんだ。今まで一度も当たらないなんて、気象台は何を根拠にでたらめな予報をしてるんだ!」
「気圧、風向、風速、気温、湿度など大気の状態のデータ収集と、過去数十年の記録に基づいて予報しています。外れることもありますよ」
「適当なことを言うな!よくそんなでたらめな報道をテレビやラジオに流せるな。天気予報は、占いか?」
「最新の気象観測網とコンピュータを駆使して、天候の解析を行い、予測を立てて報道機関に流していますので、でたらめではありませんが」
「気象庁は、当たるも八卦、当たらぬも八卦の易者集団じゃないか」
「気象庁は、確率論で予報をしている専門集団ですので悪しからず」
 ああ言えばこう言う、こう言えばああ言う、気象台の苦情受付嬢は、ちっとも悪びれた様子もなく、人ごとのような口調で弁明し続けた。
電話を切ってからも、俊樹の怒りは収まらなかった。天気予報がすべて外れ、目的地に行けないし、行っても雨なのでつまらない、という状況がどうしても許せなかったのだ。
沙耶も気分的には不快指数が高まっていたが、気丈にふるまって俊樹を元気づけるしかなかった。
「まだ四日間旅行は残っているんだから、これからのコースを楽しみましょう。過ぎたことをいつまでも怒っていたって、何の解決にもならないし、気分が悪くなるだけでしょう」
「そりゃそうだけど…。そうだな、明日からの日程に期待をかけるか」
 俊樹は、沙耶の言葉に同調して、気持ちを明日以降に向けるよう努めた。それしか、為す術がないのだから仕方がなかったのだ。
 俊樹と沙耶は、明日の目的地の屈斜路湖、摩周湖、そしてウトロの天気予報の『快晴マーク』を確認してから、ベッドに入った。
 翌朝、釧路のホテルを出た二人は、楽しみにしていた屈斜路湖と摩周湖を晴天の下で見ることを夢見て車を走らせた。
 しかし、屈斜路湖に着く頃から、雲行きが怪しくなり、ポツポツと滴のような雨が降り始めた。
『またか!』俊樹は腹の中で地団太踏みながら車のアクセルをふかした。
 屈斜路湖に着いたときは、本格的な雨になっていた。先に来ていた観光客たちは、頭にタオルをかぶせながら、湖のほうから駐車場へ逃げるように走って来ているところだった。
 湖には深い霧がかかり、雨と霧で最悪の観光になってしまった。湖も景色もすべてが霧の中だった。絶望的な怒りを抑えて、屈斜路湖を諦め、摩周湖に向かった。が、摩周湖はゲリラ豪雨のような凄まじい雷雨の中だった。二人は車から出ることすらできず、泣きたい気持ちをこらえながら、ホテルのあるウトロに向かうしかなかった。
 翌日は網走市に向かった。最初の目的地の網走国定公園に着く頃から、またしても雨雲が空を覆い、滝のような雨が降り出した。予定していた網走刑務所もスルーして、ただホテルに入るしかなかった。
 連日の外れだらけの天気予報に業を煮やした俊樹は、佐呂間気象台に電話をかけ、電話口に出た男を怒鳴りつけた。
「嘘だらけの予報ばかりしやがって!連日雨続きなのに、よくもまあ恥ずかしくもなく連日晴天です、なんてでたらめを言い続けられるな。正気の沙汰じゃない。詐欺で訴えるぞ、馬鹿野郎が!」
「さまざまな情報を加味して気象予報を出しているわけですが、外れることもあります」
「外れることもあります、じゃなくて、当たることもあります、が正しい言い方じゃないのか?」俊樹は、皮肉たっぷりに怒鳴りつけた。
「天気予報の当たる確率は平均すると80%ぐらいです。かなり高い確率で予報しているのです」
 外れてばかりいるくせに、詭弁たらしい言い訳ばかり繰り返す気象台。怒り心頭に達した俊樹は、
「天気は当たるか外れるか、つまり晴れか雨かしかないじゃないか。オール オア ナッシングだろうが。白々しいことばかり言いやがって。こんな適当な仕事、世界中どこを探したってないぞ」と怒鳴り続けた。
「昔の人の予報のほうがかなり正確だったんじゃないか。『夕焼けの翌日は晴れ』とか『猫が顔を洗うと雨』とか。コンピュータも気象衛星も何もない時代の人のほうがはるかに正確な予報を告げていたってことに恥ずかしくならないか!」
 言いたい放題言い放ってから、俊樹は電話を切ったが、こんなことで気持ちが収まるわけではなかった。俊樹は、普段はあまり飲まないウィスキーを何杯もあおって、床に就いた。
 翌朝、網走市から旭川市に向かって車を走らせていると、またしても雨が降ってきた。青空の下で見ることを楽しみにしていた層雲峡も、土砂降りの雨の中で、外に出ることもできず、車の窓ガラスも激しい雨に叩かれて外の景色をしっかり見ることができなかった。そのまま層雲峡を抜け、豪雨と霧が渦巻く美瑛に着いたが、ぜるぶの丘にも行けず、ケンとメリーの木を見ることもできず、丘陵に咲く夏の花々の香りに包まれることもならず、富良野に向かった。富良野では映画のロケに使われた『石の家』に行きたかったが、叩きつけるような大雨のため、断念するしかなく、そのまま旭川のホテルに入るしかなかった。
「俺たちは一体、北海道へ何をしに来たんだろう」俊樹は、自問するように呟いた。曇りはおろか、晴天の日が未だ一日もない。こんなバカなことが現実にあるのだろうか。八月中旬だというのに、この連日の荒天は何故なのか。俊樹は、泣きたくなるような悔しさに打ちひしがれそうになっていた。妻の沙耶も、気持ちは全く同じだったが、俊樹と一緒に落ち込んでいては駄目だと自分に言い聞かせ、俊樹に言った。
「天気は最悪だったけど、北海道に来ることができて良かったと思わなきゃ。明日の札幌で最後だけれど、札幌で楽しみましょう」
「そんな気持ちになれないよ。広大な北海道をひたすら雨の中、車で走り回っていただけじゃないか!最低最悪だ!」
「だって、人間の力では、どうすることもできないじゃないの、天気なんて」
「俺が言いたいのは、毎日土砂降りなのに、連日晴れですと平然と嘘を言っている気象台に対する怒りだ。これが最悪のストレスになってしまってる。こんな旅行、来るんじゃなかった」
 俊樹は自虐的になっていた。自分が妻の沙耶を誘って来た北海道旅行。その自分がこんなセリフを吐くことで、どれだけ沙耶に悲しい思いをさせているか、考える余裕を失っていたのである。
「せっかく来た旅行でしょう。人間の力の及ばないことにくよくよしないで、できることをして良い思い出を残しましょうよ」となだめる沙耶の言葉に俊樹はうなずくしかなかった。
 旅行最終日の朝、ホテルのレストランで今日の札幌の天気予報を見た。テレビの中の気象予報士は天気図を示しながら、
「今日の札幌市は、今夏最高の行楽日和となるでしょう」と満面に笑みをうかべながら解説していた。
「最後の一日だけでも、好天に恵まれれば良しとするか」と、俊樹は助手席の沙耶に言った。
 車は旭川を出て、札幌に向かった。ドライブ中の天気は薄曇りで、そのうち雲が切れて、真っ青な空が顔を出すような雰囲気だった。
 午後遅く、札幌市内に入り、ホテルにキャリーバッグを預け、二人は最後の一日で札幌を満喫すべく、徒歩で市街に出た。
「まず最初は、時計台を見よう」と沙耶を誘い、俊樹は時計台の方向に向かって歩き始めた。
 ところが、みるみる天候が急変し、薄曇りの空がどんどん黒くて厚い雲に覆われ始めた。そして遠雷が聞こえ、歩いているうちに稲妻の光と音がそばに近づいて来るのが分かった。
 もう少しで、日本最古の時計台に着くという頃、叩きつけるような雨が降り始め、猛烈な暴風も吹き始めた。市街は瞬く間に暴風雨となり、雷の落ちる音が轟き、街路樹の葉が舞い散り、通りを叩きつける豪雨は、跳ね返って道行く人々をずぶ濡れにした。俊樹と沙耶は、傘を用意していなかったので、急いで近くの店に避難し、それ以後、市内観光に出ることができなくなってしまった。見たかった時計台も札幌テレビ塔も、赤レンガ庁舎も、何もかも見ることができなくなってしまった。
 激しい雷雨は夜まで続き、止む気配もなく、タクシーもつかまらなかったので、二人はホテルまで全力で走って帰るしかなかった。
 ずぶ濡れになってホテルにたどり着いた二人は、部屋に入るなり服を脱ぎ、風呂に飛び込んだ。
 今朝、旭川のホテルで見た天気予報とまるで違う現実に、俊樹の怒髪は、天を衝いた。堪忍袋の緒が切れた俊樹は体を震わせながら、由仁管区気象台に電話をかけた。
 電話口に出た女に向かって、
「馬鹿どもが!気象庁などつぶれてしまえ!嘘ばかり言いやがって」と怒鳴りつけた。
 電話を切った後も、怒りのやり場がなく、蓄積されていくストレスを鎮めることができなかった…。
 翌朝、車を走らせて空港に行き、二人は午前の便で帰途に着いた。
 一週間の北海道旅行が終わった。一日も晴れた日がなく、連日の大雨によるストレスと、でたらめな発表ばかりする気象庁に対する凄まじい憤怒で、俊樹は家に戻るなり、体調を崩してしまった。
 いつまでたっても回復しない俊樹に、沙耶はこう言った。
「気象庁の職員は、天気予報が当たっても外れても、何とも思っていない。クレーマーもそんなにいない。そのことが、あなたの苛立ちの最大の原因なんでしょう?」
 俊樹は、妻の言葉にうなずいた。
 沙耶は言った。
「毎日ノルマを課せられて営業で走り回り、くたくたに疲れて会社に戻っても、誰も褒めてくれないものね」
 沙耶は続けた。
「それならあなた、良い方法があるわ。あなたも気象庁の職員になってしまえば良いのよ!」
 …数年後、県内の気象台で俊樹という名前の職員が働いていることを知っているのは、妻の沙耶だけだった。