ばあちゃんのたまご酒
浅野マリ子
約 4707
1985年11月11日、私は数日前から喉の痛みと悪寒を抱えながら、ショルダーには常備薬のバイエルのアスピリン一箱を忍ばせての厳しい出張となった。
車窓からの景色が、だんだんと色彩豊かになっていくのを、今朝出がけに飲んだ薬のせいで、時々軽い睡魔に襲われていた。
静かだった上越新幹線の車中が、越後湯沢駅の到着アナウンスが流れると、車内の乗客のほとんどが立ち上がり、一斉に網棚の荷物を降ろし始めた。
まるで、一つの集団のような動きに、驚きと共に、もしかして、同じ目的を持った人たちが乗り合わせたのではないかと気づいた時、既にホームに滑り込んでいた。
出張の目的は、豪雪地帯で知られた津南町に、新設されるリゾート施設に美術品を設置するためである。
苗場山麓にできる施設は、大型プロジェクトで、このようなケースには美術品においても、数社の共同体で行われることが多い。
いってみれば、建設業界でのJVといわれるところのジョイントベンチャーと同質の方法をとっている。
今回は4社の美術品商によるもので、そのうちの1社に私が経営する会社が担当することになった。
既にオープンの日も決まり、前日には美術品を乗せたトラックが現地に向かっている状況下での仕事をこなさなければいけない責任感もあり、体調は一向に改善しないという不安をかかえ、同業者にも迷惑をかけるわけにはいかないという責任感が交錯している。
約1年近く、設計事務所との打ち合わせや、同業者とのミーティングとの準備を経て、降り立つ越後湯沢駅であった。
気が付くと、車中での一団とも思われた人たちの姿は、いつの間にか私たちの視界からはすっかり消えていた。
目的地の津南町までは、越後湯沢からバスに乗って1時間30分ほどさらに奥地に入るという。
バスの発車時刻まで、時間があるので、明日からの作業についての話し合いをすることとなった。
確かに設計図は、平面図のため、宿に立ち寄らずに現場に行ってみておいた方がといった安全策が出た。
しかし、私の体調を案じて、私を残して行った方がよいのではと、気遣ってくれる仲間の気持ちをありがたく受け入れることとした。
ところが、予定のバスの発車時刻が来ても、肝心のバスの姿が見えないのである。
仲間の一人が「そういえば、こんな歌があったよね。田舎のバスはおんぼろ車…だよ、きっと」
季節は11月初旬、秋のつるべ落としもあり、日が陰り始め、寒気が私だけでなく感じ始めた時やっと、バスが到着。
一番後ろの座席に陣取った私たちは、暮れゆく景色をかなり揺れるバスに身を任せながら、初めて訪れる津南町に想いを馳せながら。
途中でかなりの地元の人の利用者が多く、私たちを一瞬珍しそうに、ふり返る人もいましたが。
さすがに、山の日暮れは特に早く、今日の現地視察は中止と,誰からともなく気持ちが決まり、指定された宿につき、一歩玄関に足を踏み入れようとした私の目に飛び込んできたのは、なんと宿の玄関の三和土にも、下駄箱にも、足の踏み場もないほどの作業靴に、初めて越後湯沢駅でのあの情景が呑み込めました。
この宿は、リゾートホテルの建築関係者が定宿として利用しているのだと。
多くは、入浴も済ませ、食事も済ませ、車中のときのように、敏速に自室に引き上げているように見えました。
慌ただしい雰囲気の中で、あたりを見回すと女性の姿はなく、私が一人。
湯上りの匂いがする男性が、「あんた、あの現場に来た人?」
「はい、明日から美術品の取り付けにきました。お世話になるかもしれませんのでよろしく」
「最近は、女性でも仕事となるとこんなところまで来るんだ、大変だなあ」
宿には既に私たちの食事も用意され、仲間たちは入浴を済ませてからと言い残して、部屋に戻ったのですが、私はとても入浴ができる体調ではないので、食事を済ませたら、持参したアスピリンを飲んで布団にもぐりこんで明日のために用心するつもりでいたところに、年配の仲居さんでしょうか、声をかけてきました。
「お客さん、風邪を引いていますね」「はい、そうなんです」
「うちは、女用の風呂は中二階に一つあるだけですが、先ほど部屋を暖めておいたので、ゆっくり風呂に使って、そのあと、うちのばあちゃんが部屋に来るようにとのことです」
「でも、私、熱もあるようなので、このまますぐ寝ます、明日があるので」
「とにかく、お風呂場に案内しますから。ゆっくり温まって」
案内された女性用の風呂場からは、外からでも湯気が立ち上るほど温められて、湯船はちょうど一合升を思わせるほどの真四角で、湯気がその小さな湯船を柔らかく包み込んでいた。
これまで、ぞくぞくしていた全身の寒気をその湯船の温もりが取り去ってくれるかのように、気持ちよく、立ち上る湯気に喉の痛みすら忘れるほどだった。
私には、大きすぎるけれども、脱衣場には浴衣と褞袍が用意されていた。
階段の下では、先ほどの仲居さんが「温まりましたか? さあ、ばあちゃんが待っていますので案内します」
廊下の冷たさも苦にならないほど、私の体は芯から温まったようだ。
「ばあちゃん、お連れしました」
中から、「どうぞ」とちょっとかすれ気味の声が聞きこえた。
「さあ、こたつに入りなさい。風邪を引いたお客さんがいると、仲居から聞いたので。ちょっと寝る前に、たまご酒を作るからそれを飲んでから休みなさい」
ばあちゃんは、傍らの火鉢には五徳に乗った鍋に、日本酒に卵の黄身だけかと思う黄色い液体をゆっくり、ゆっくり、まわしながら、時々私の顔を見ながら、丁寧に上から下まで均等にまわし続けているだけで、私に何も語らないまま、ひたすらかき回している。
ばあちゃんの手が止まり、「できた、これ飲んで、熱いうちに」
何と、渡されたのは、お寿司屋さんの湯飲みぐらいに、ミルク状の滑らかな、まるでプリンのようなたまご酒に、私は思わず「わあ、こんなきれいなたまご酒初めてです」
ばあちゃんから、笑みがこぼれました。
何やら、香ばしいするめの匂いが漂ってきた。
いつの間にか、するめを焼いて小さく小さく食べやすく裂いたのか私には分からなかった。
たまご酒といい、焼きするめといい、私のために、こんなに温かく気遣ってくれるとは、正直ばあちゃんの神対応に、胸がいっぱいになった。
ばあちゃんとゆっくり話ができなかったことが残念だった。
翌朝の私からは、喉の痛みも寒気も、昨夜のばあちゃんのたまご酒と焼きするめに退散したようだ。
仲間たちも私の回復ぶりに、ほっとした表情を見せた。
朝食のテーブルには、大皿に山のように冷たい野沢菜にも、その冷たさが心地よく感じるまでに体調が戻っていた。
宿からは、昨日の宿泊者が、それぞれの車に分散して慌ただしく乗り込んでいた。
やはり、私たちと同じ方向に数台の車が続いている。
これまでの平面図から、今日は初めて立ち上がった建物をまじかに見ると、よりファイトがわいてくる。仲間たちも、口々に思い思いの感想を述べ合っていた。
美術品の取り付け作業は、いつも竣工式間際に最終工程のことが多く、特に、コンクリートの湿気をとるために空調を最高に効かせているケースが多い。
生乾きのコンクリートの湿気を帯びた臭気に、私はなぜか心躍るのである。
4社がそれぞれお互いに助け合いながら、作業を進めていくのである。
自社担当の作業のときは、その担当者の指示に従いながら、お互いに学び合うことも多い。
昼食は、宿からの大きなおにぎりを頬張りながらも、話題は仕事の話になる。
お蔭さまで、私も大きなおにぎりを平らげるほどになっていた。
本当にばあちゃんに感謝である。
地元の人によれば、春先は山菜がたくさん採れるそうだ。
春先には、ばあちゃんにも是非、山菜狩りをかねて、リゾート施設に足を運んでほしい。
予定より作業が、順調に進んだので、一日早く繰り上げて東京に帰ることにした。
その夜、昨夜の仲居さんにばあちゃんに帰るのが早くなったので、今夜でも元気になった報告をしたいとお願いした。
ばあちゃんは私を見るなり、頷いてくれました。
「明日は、11月13日で、津南ではこの日から雪が降り始めるから、早く帰れてよかった」
早く帰れることになった私たちは、げんきんなもので、できるだけ早く帰ろうということになり、午前中のバスを待っていた時である。
はらはらと、桜の花びらのような雪がバス停で待っている私たちのコートに降ってきた。
朝から、どんよりとした重い雲が、やはり初雪に変わったのである。
長く自然の中での共に営みをしてきた人たちの生きざまを見たように思った。
東京に帰る新幹線の車中で、私は津南町の旅館のばあちゃんと、私の友人から聞いている庄内で長く続いた商人宿のばばはんを重ねあわせていた。
ばばはんには孫娘の私の友人を、後の後継者にと小さい頃から躾けていたと聞くある彼女は、小学校から帰るとまず、ばばはんと共に過ごす日々が多く、さまざまな旅館の女将としての歴史と共に、実体験を通して話して聞かせたそうだ。
彼女に言わせると、小学校の時に聞かされた話は、当時さっぱり理解できなかったという。
どうしても分からない男女間の話や、よけいなことは話してはいけないなどと、とても子ども心には難しく、首をかしげることばかりだった。
ばばはんはお構いなく、いつかは分かるとの想いから、話をやめることはなかった。
しかし、だんだん成長するに従って、ばばはんが昔、話してくれたことは今になって思い当ることが、多くなってきた。
ばばはんの方も、彼女の成長を楽しみに、惜しみなくこれまでの経験やしきたり、礼儀作法など話し続けたそうである。
どれほど、彼女への期待と成長の想いがくみ取れるか、生涯をかけて立派な女将に育てるための気迫すら感じる。
やがて、彼女は東京の大学に進むことを決めた時の、ばばはんの言葉を彼女から聞いた私は、思わず絶句したのである。
彼女が東京に行ったら、私は1年以内に死ぬだろうと。
私だったら、ばばはんの命を賭けた言葉を聞いたら、恐らく東京の大学の道はあきらめたと思う。
しかし、彼女は自分の意思を通して、東京の大学を選んだその理由は、親しくても触れる勇気が私にはない。
やがて彼女が上京して間もなく、予告した通り、ばばはんが亡くなったという知らせを受けた。
その時、彼女が目にしたのは、潔く覚悟を決め、自分の死期を悟って、自分で縫った死に装束のばばはんの最期の姿でした。
毅然としたばばはんを彼女は誇りに思うという。
今も、鮮明に覚えているのは「下げられる頭は、どこまでも下げなさい」だそうだ。
さすがに人生の艱難辛苦を知りぬいた、人生そのものの重い言葉である。
私は祖母を知らないで育った。生まれた時はすでに他界していたからである。
ある時代にしっかり根差した二人の祖母の生き方に、心のどこかで私も憧れている。
11月になると、わたしは恒例のように喉の痛みと発熱がいわば年中行事のようなものである。
その都度、ばあちゃんのたまご酒を思い出し、実は今年もトライするも、白旗です。
ばあちゃんとの出会いは、昭和から平成に変わり、31年前に遡る。
ばあちゃんといい、ばばはんといい、もはや歴史として語る時代になってきたのだろうか。
今年も津南町は11月13日が初雪となったのだろうか。