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虹の生まれる里

隼人


約 56302


橘恭平は、スタジオに入るなりセットが気に入らなかった。
恭平は、日本を代表するテレビコマーシャル界の奇才である。
42歳・・・演出家として一番脂が乗っているはずの年齢・・・しかし、世界のクリエイターから最も注目される演出家として数々の作品を送り出して来た彼も今は過去の栄光の残り香で生きていた。

 

外からの光に照らし出された細かいチリがキラキラと浮遊している。まるで顕微鏡で覗いたアメーバのようだ。
これが自分の肺に入ってゆくのはたまらないと、神経質に口をハンカチで押さえていたのはもう遥か遠い昔の事だ。でもレンズの前のホコリは霧吹きで消える・・・業界では当たり前の数多くのテクニックを吸収しながら、ひたすらフィルムに焼き付けられた映像に集中して来た。
・・・そろそろ・・・
終わりだな、オレも・・・もう、あの頃の情熱はなくなった・・・
 
その時、恭平のポケットに入った携帯が突然震えだし突っ込んだ右手に怒りと蔑みを伝えた。たぶん朝子の母親からの電話だろうと、今日8回目の無視をした。
恭平は、ひとつ大きなため息をつぃて予定しているカメラ位置に立った。セットに向けてライトを一灯つけるよう照明助手に指示をするとプロデューサーの佐々木を呼んだ。
誰かと携帯で話している最中だった佐々木は、仕方なく携帯を閉じると、これ見よがしに若い制作に時間がないぞ!と怒鳴ってから近づいて来た。恭平から何を言われるのかすでに予測しているようすだ。
「セットが打ち合わせ通りじゃない。今すぐ塗り直させてくれ。」
この仕事は、乗り気ではなかったがクライアントからの直接のご指名ということで引き受けた。その期待を裏切りたくないという意地だけが恭平の背中を押している。
「ちょっとちょっと・・・勘弁してよ、橘ちゃん。今から塗り直すだなんて・・・そんなにたいした問題じゃないだろ・・・?」
「・・・」
佐々木は、顔を寄せて来て小声で言った。
「テレシネで、ちょっと調整できないかな・・・」
「できない。」
間髪入れずに答えた。恭平も佐々木の出方をあらかじめ予測していたのだ。
テレシネとは、撮影したフィルムをビデオに変換する作業の事を言う。その際に、色調整も行われる。佐々木は、その時に色を変えればいいと言っているのである。
恭平は、ゆっくりと佐々木の方に顔を向けた。
「これじゃ商品が目立たない。商品がイエローなんだから、背景は寒色系で統一してくれって、何度も言ったはずだ。パントーンのチップまで貼って色指定したのは何のためだったんだ!」
大きな声を出したのでスタジオ特有のざわめきが一瞬フリーズした。浮遊していた埃さえも・・・
佐々木が恭平の袖をひっぱって外に連れ出す。
釘を打つ音が遠ざかり重いドアの閉まる大きな音が恭平の心の扉に鍵をかけた。
「だけどさ、撮影はもう明日なんだから・・・なんとか頼むよ。今日プリライト(事前に基本的なライティングをすませておくこと)を済ませておかないと・・・明日は、タレントの入りが8時なんだからさ・・・」
「とにかく、徹夜でもなんでもさせて間に合わせてくれ。撮影部と照明部は、今日はもうバラして・・・プリライトは明日の朝6時にやればいい。どうせヘアメイクに時間がかかるんだ、必ず9時にはカメラ回せるから。」
 
恭平は、朝からイライラしていた。今日4月2日は、妻であった朝子が子宮癌で亡くなった日。あれから、まる2年になる。
2年が経ったというのに、恭平は未だ立ち直れずにいた。気持ちの整理がつかないままに時は流れ、恭平だけが一人過去に取り残されているのである。
まるでエスカレーターを逆走する子供のように・・・そうすれば過去に戻れると思っているのかも知れなかった。
当時朝子は、恭平の子供を宿していた。結婚して5年目で、二人にとってやっと出来た待望の子供だった。しかし、4ヶ月という診断とともに癌が発見され妊娠を喜ぶことさえ出来なかった。既に手遅れで子宮を摘出して女である事を捨てただけでなく、母になる事も、妻である事も許されなかった。癌の転移が広範囲にわたっていたのだ。
今日はその朝子の3回忌。本来なら、夫である恭平が親戚を迎えなければならない。しかし今、それを避けるようにスタジオにいる。恭平は朝子と過ごしてきた日々を、単なる思い出話として親戚たちと分け合う気になれなかったのだ。
法事の準備を何もしない恭平を見かねて、かわりに朝子の両親がやっとの思いで世間体を取り繕ったにもかかわらず、当の恭平が出席しないのではもはや弁解の余地もない。
・・・どうでもいい・・・
死んだ朝子は、もう戻ってこない・・・
 
1985年・・・恭平は、朝子と大学の広告研究会で知り合った。ふたりは日本の広告、海外の広告についてよく語り合った。
「ね、恭平・・・どうして、日本の広告は海外で賞を獲れないのかしら?」
いつもふたりが入り浸っていた青山にあるオープンカフェ『ロコ』。木立に囲まれたパティオがあり、夏は特に風が気持ちよく、一日のほとんどをそこでしゃべりながら過ごした。
強い日差しを遮るために空一面を覆った木の葉のやさしさや・・・熱を吸収し夏の香りを漂わせる土の肌触りがふたりには合っていた。
店員のユニフォームがアロハだったせいで、その頃はまだ実際のハワイには行ったことはないふたりだったが、ハワイの心地よさが肌に感じられるお気に入りのカフェだった。
朝子は、いつも恭平を質問攻めにした。
しかし恭平にとって、それは決して苦痛ではなく、むしろ楽しんでいた。朝子のその飾らない素直な好奇心のおかげで、恭平はちゃんと自分の意見、考え方を持てるようになったのだ。
「それは、日本と欧米の根本的な文化の違いなんじゃないかな。」
「例えば?」
「例えば、日本人は行間を読む。欧米人にはそれがわからない。欧米は特に契約社会だから、きちんと伝える必要があるけれど、日本では曖昧だよね。あうんの呼吸なんて言葉は、欧米にはたぶんないんじゃないのかな。だってさ、欧米人の会話では、誰かが意見を述べると、相手はWhy?と必ず聞くし・・・いや、聞かれなくても、Because,と言って話を続けるよね。それがそのまま広告にも現れている。欧米の広告は、ベネフィットや伝えたいことにちゃんとフォーカスを当てていて、それをアイデアの核にしている。だって、どうして?って、聞かれるのが最初からわかっているから・・・」
「でも、それじゃつまらない広告になっちゃわない?」
「だからこそクリエイティビティが問われるんだよ。そのあとに、“なるほどっ!”っていう思いもよらない結末に導いてゆく・・・だから、行間で作られている日本のコマーシャルを欧米人に理解させるのは難しい。出しゃばらない日本人の奥ゆかしさは到底理解されない。だから日本の広告は海外で賞を獲れないんだと思う。音を消して見てみるとそこには何も表現されていないことがよくわかるよ。本当なら映像だけでコミュニケートできる広告を目指すべきなんだ・・・かえってその方がコピーが効くと思うんだよ。」
「たしかにそうよね・・・そういえば、日本のコマーシャルは、実際には目立つだけで、購買には結びつかないと思うんだけど、タレントものが多いわよね。う〜ん、どうしてなの?」
「カンヌのCMフェスティバルに行ってきた人から聞いたんだけど、同じタレントが複数の広告に出てきて・・・さっき車の広告に出ていたかと思うと今度は化粧品・・・その度にブーイングが起こるんだってさ。すごくはずかしかったって言ってた。日本では旬なタレントなんだろうけど、海外じゃ知られていないんだからね。だいたいそんなコマーシャルを出品する神経がわからない。なにを評価してもらうつもりだったのか・・・?
そもそも日本のCMフェスティバルってさ、エリマキトカゲのCMをグランプリにする国だよ。だから、クリエイターだけでなく審査員自体が、広告って何なのかをよくわかってないのかもしれない。何のコマーシャルだったか、覚えてるかい?」
「そういえばそうね・・・なんだったかしら?・・・」
「車だよ。・・・信じられる?さっきも言ったように音を消してみるとわかる。ただエリマキトカゲと車が走っているだけなんだもの。未だに何を訴求したかったのかがわからない。ほとんどの日本人が、エリマキトカゲの存在に驚いただけのCMだった。グランプリじゃなくて話題賞というならわかるけどね。」
「私が覚えているカンヌで賞を獲った車のコマーシャルは、なるほどなって思ったわ。それはね、テニスの格好をした男の人が後ろのハッチバックを開けてテニスをはじめるの。ちゃんとボールが打ち返されてくるんだけど、それってスペースが広いってことが言いたかったのよね。」
「そうそう、それ僕も覚えているよ。コピーは、ほとんど入っていなかったよね。それなのに、伝えたいことはなんなのか、ちゃんとわかる。確かに広告ってエンターテーメントじゃなきゃだめだと思うけど・・・それだけじゃいけないと思うんだ。広告代理店が悪いんだよ。アイデアの出しかた、発想のしかたがわかっていないんだと思う。いかに目立つかということばかり考えていて消費者に何を伝えるべきか・・・どう伝えるべきかを発想の原点にしていない。」
「それってむずかしいよね。」
「もちろんさ、そんなに簡単なことじゃない。」
「そもそもコミュニケーションてなんなのかしら?」
「伝えることじゃなく・・・伝わること。」
「どういうこと?」
「例えば・・・僕が君に、明日君の弟に『僕のデスクの上に花を飾っておくように伝えてくれ』と頼んだとするよね・・・でも君の弟はファミコンに夢中になっていて君の話を上の空で聞いていた・・・だから案の定僕のデスクには花は飾られていない。当然僕は君に『君はちゃんと弟に僕の伝言を伝えたのか?』と聞く。君は『もちろん、ちゃんと伝えたわ。』と答える。この場合、君は伝えたつもりだけど、実際には伝わっていなかったということになる。つまりコミュニケーションてさ、メッセージを伝える事ではなくメッセージが伝わるということ・・・そして、相手が行動を起こすということなんだ。」
「そうか、じゃぁ広告は一方通行ではなく、相互通行にすることが大事なのね・・・?」
「そう、それにはまずターゲットがどんな人かを知る必要がある・・・僕は、君がホラー映画が嫌いな事を知っている。だからその手の映画に君を誘わないでしょ。」
「へぇーつまりわたしは恭平にとってターゲットってわけね、結構考えてんだ。じゃぁ、結局日本の広告をだめにしているものって何?」
「日本の広告賞・・・広告賞の審査員を務めているコピーライター養成学校の先生から聞いた話だけど、クライアントからちょんちょんって肘でつつかれて『よろしくな』って言われたら、票を入れないわけにはいかないって・・・審査員の気持ちをつかむんじゃなくて、消費者の心をつかむべきなのにね・・・それに元広告寸評編集長の青野幸男。広告のこと、何もわかっていないのに知ったかぶりをしてテレビでベラベラしゃべってる・・・本当にはずかしい。彼の場合は広告をエンターテイメント・・・と、してしか見てない。どんなアイデアが商品を売るか、といったことなど分析してないよね。面白いとか面白くないとか、そういうレベル。そんなこと、子供だって言えるじゃない。」
 
・・・それにしても・・・
あのころの僕らは熱かったな・・・この先、自分が熱くなる事はあるのだろうか・・・気持ちが空回りし、周りに当たり散らしている自分を見て朝子はどう思うだろうか・・・

若かったけれど恭平にとって朝子は同志。今の恭平がこうして演出家でいられるのも、朝子がパートナーでいてくれていたおかげだ。それ以来、恭平はカンヌではグランプリと銀を二つずつ獲った。IBAも獲ったし、CLIOやニューヨークフェスティバルでも金を獲った。Directors of the yearにも選ばれた。
そう、獲っていないのは日本の広告賞だけだった。獲れる訳がない、出品していないのだから。
 
「ったく、えらぶってんじゃねえよ。昔はどうだったか知らないけどさぁ、橘って、もう過去の人なんだろ?・・・」
恭平は、聞こえないふりをした。その通りだったからだ。朝子が死んだあの日に、恭平も死んだのだ。最高のパートナーを失った今、未だにこうやって仕事が来るだけでもありがたいのかも知れない。だからといって、あのセットを塗り直させないわけにはいかないと思っている。
・・・妥協するくらいなら・・・
引退するさ。朝子だってそう言うに決まっている・・・
 
今恭平は、消えかけているプライドと意地と最後のあがきをかろうじて灯して生きているのだ。
 
 


時計を見ると、もうとっくに法事は終わっている時間だった。親戚たちはもう帰っただろう。今から車を飛ばせば、墓参りくらいは出来るかも知れない。恭平は、背後から浴びせられる冷たい視線を無視して車に乗り込んだ。どうせなら明るいうちに着きたかった。朝子の墓は、静岡県にある。富士山を背にした広大な墓地で、宗派は問わないからクリスチャンだった朝子のためにはうってつけだった。お墓にもリゾートというカテゴリーがあるのならまさしくそれで、その中でも一番見晴らしのいい明るい場所にあった。ここなら、この時期満開のソメイヨシノに囲まれてにぎやかだし、なんといっても海が見える。恭平は、この場所が気に入っていた。朝子が大好きだったハワイの方向を向いているのだ。
墓には、すでに花がそなえられていた。途中で買ってきた朝子の好きだったデンファレを横に置き静かに手を合わせた。恭平が朝子にあらたまって言うことは何もない。朝子は常に恭平の隣にいるのだ。普段から朝子とは会話をしている。学生だったあの日と今も変わらずに。
恭平は帰ろうとして、なにげなく横を見た。隣の墓石に向かって若い女性が手を合わせていた。
恭平は目を疑った。
西日が背中から当たっているせいで顔は濃い影になっているが、真横から見た雰囲気が、まさしく朝子だったのだ。髪は黒く短くて、すらっとしたスタイルにジーンズがとてもよく似合っている。白いブラウスに生成りの麻のセーター、そしてジーンズのジャケット、カジュアルだけどなんとなく上品な雰囲気に朝子をだぶらせて、金縛りにかかったようにそこを動けなくなった。
シルエットがとても美しい。
朝子は、子供の時からクラッシックバレイを習っていたせいもあって、立ち姿がすごくきれいだった。洗いざらしの綿のシャツをさりげなく着こなした。恭平はそんな朝子のシンプルなライフスタイルが好きだった。今で言うロハスな生活を実践していた。お化粧もほとんどナチュラル・・・肌も髪も本当にきれいだった・・・そんなことを思いだしながらしばらく彼女を眺めていた。
太陽が落ちるのは早く、白いブラウスを黄色に染めた太陽は演目が終わった事を知らせるようにやがて彼女から色を奪っていった。
恭平はゆっくりと立ち上がり、彼女が朝子である訳もなく、声をかけたい衝動をおさえてその場を後にした。
 
 

それから、2、3ヶ月経った頃、恭平はオールスタッフ(撮影に関してのスタッフ打ち合わせのこと。スタッフがはじめて顔を合わせる)のためCMフットワークというプロダクションのミーティングルームにいた。
恭平は、先日のこともあり、どうしても断れないお世話になった人からの仕事だけを受けるようにしていた。受ける際の条件も気のあったスタッフに限らせてもらっている。今、目の前には恭平が一番信頼している10人を超す仲間たちが大きなテーブルをはさんで向かい合っている。
そのおかげで今日の恭平は、最近になくめずらしく調子がよく・・・どちらかと言うと躁な状況だった。
テーブルの上には広告代理店が作成した資料と恭平が描いた絵コンテがおかれている。すでにパラパラとめくって目を通すものがいたり、この仕事ではない他の撮影のことを話していたりと、まだガヤガヤと落ち着かない。煎れたてのコーヒーが配られ、プロデューサーが会の口火を切る。
最初にスタッフの紹介が行われる。といっても彼らは恭平が一番信頼しているスタッフなので、あらたまって紹介をする必要はないのだが、これは一種の儀式だった。毎日を同じように過ごしている彼らの頭の中を一度シャッフルして切り替える必要があるのだ。ちゃんとした始まりがあるから、ちゃんとした終わりがある。それから、代理店のクリエイティブディレクターから商品のあらまし、市場の動向、企画コンテの説明が行われ、そして演出家、つまり恭平が演出コンテの説明をする。ちょうどその時、スタイリストの飯島治子がアシスタントを連れて遅れて入ってきた。
スタイリスト、ヘアメイクは必ずと言っていいほど遅れてくる。
「すみません、遅くなりました。」
「えー、スタイリストの飯島さんです。」
しかも、アシスタントは紹介されないことが多い。
「彼女は?」
恭平が聞いた。
恭平は、細かいところまで気を配る。
「アシスタントの佐伯美奈です。よろしくお願いします。」
と、本人が答えた。
「そういえば君、以前どこかで会ったことがあるよね・・・」
「橘さん、その手は古いですよ。」
みんなが笑った。
「いや橘さんは、今や独身なんだし、別にいいんじゃない。あ、そういえばなんとなく朝子さんに似ているなぁ・・・」
恭平が作ったほとんどの作品でカメラを回してくれている下条が言った。
「いや、そうじゃなくって・・・」
と言ってはみたものの、下条が正しかった。朝子に似ていたから覚えていたのだ。
「・・・あ、思いだしたよ。確か・・・4月2日に、西富士霊園で会ったよね。」
「えっ?・・・確かに西富士霊園には行きましたけど・・・ごめんなさい、お会いした記憶は・・・?」
そう、恭平が見かけただけだ。彼女が知る訳がない。
「ま、いいか。話をもどそう。」
恭平は、演出コンテをもとにシーンごと、カットごとに、どう撮るのか、どう狙うのか、目的とその方法を説明した。一通りコンテを説明すると次はセットデザイン、カメラ位置の話に移る。もちろん照明部も話に加わった。光の方向性を考えてキーライトの位置を決める。パンサードーリー(移動車)が必要だとか、クレーンがいるとか、レンズは何ミリがいるとか、フィルターをどうするとか、照明機材がどれほど必要だとか・・・ヘアメイクと衣装の話に関しては大抵は後回しだ。
・・・そういうことか・・・
だから彼女たちは遅れてくるのかも知れない・・・
 
「今回は、ドーリーというよりモーションコントロールを使おう。カットをわらないで一気にワンカットでいきたい。だから衣装を替えて同ポジで3回と空舞台の4カット。つまり、衣装が明らかに変わったことをわからせたい。まず色。そしてデザイン。それに合わせて髪型も考えてくれ。ただし、あくまでもタレント奥村愛菜ということが認識できないといけない。それと、操演か美術部に彼女が手にした商品は絶対に動かないように何か仕掛けを考えさせてほしい。何か質問は?・・・じゃぁ、僕たちは4日後にもう一度集まろう。それまでに基本的なデザインを提案してくれ。ヘアメイクに関してはそのときに決めよう。」
もちろん、恭平の頭の中には、既にイメージはあった。でも、ハードルは高くしたい。プロである彼女たちを尊重したいと思っているし、必ず自分が気づかないいいアイデアを持ってきてくれる。餅は餅屋。いいスタッフを持っているかどうかで自分の価値が決まるのだ。おごってはいけない。あくまでも謙虚に、時には頑固に大胆に。そして妥協はしない。
恭平は、気のあった仲間たちに囲まれて久しぶりに前向きな自分を感じていた。
「それじゃぁ、2回目のオールスタッフは、25日金曜の1時から・・・セット図面と、もろもろ確認させてください。それと、衣装とヘアメイクの打ち合わせも合わせて行います。7月1日にフィッティング(衣装合わせ)をここでやります。タレントは3時に入る予定になっています。それで撮影は5日に目黒の109です。3日から建て込みをはじめますが・・・橘さん、セットチェックとプリライトは前日4日の1時からということでいいですか?」
恭平は、「了解。」と言いながら手帳にスケジュールを書き込んだ。どこのプロダクションの制作も、きびきびしていて気持ちがいい。
 
 

恭平たちは、セット図面を見ながら問題点を議論していた。そこへ黒い大きなバッグを肩にかけて、佐伯美奈がひとりで入ってきた。スタイリストは黒い大きなバッグを持つこと、とスタイリスト協会の厳しい決まりがあるのか・・・それとも大きな黒いバッグを持つとスタイリストであることが容易にわかるのでそうしているのか・・・恭平は、機会があったら一度聞いてみたいと思った。
「できるだけワイド目で狙いたいんだ。セットはこれでだいじょうぶかな?」
と、恭平。
「そうですね、半間分(約90センチ)左右の壁を広げておきましょう。ということは天井が入ってきますね・・・。」
と、セットデザイナー。
「少しあおり目で撮るから、入るね・・・じゃぁ、安全のために、天井も作っておいて。」
と、カメラマン。
「下手に、窓からの光があった方がいいと思うんだけど・・・?」
と照明部。
「いいね、でも窓は写らないから、ライトでよろしく。オーケイ・・・じゃぁ衣装に移ろうか。」
と、恭平。
佐伯美奈が、あらかじめハンガーに吊るしておいた衣装を、ひとつひとつ丁寧にはずして、テーブルに並べ始めた。そして、その衣装の上に一枚一枚デザイン画を置いた。
「すみません。今日は急に仕事が入って、飯島がこちらに来れませんので、私が説明させていただきます。この衣装はイメージサンプルです。実際には、デザイン画に合わせて作りたいと思っています。基本的に、単純に色だけで変化をつけるのではなくて、シンプルで清楚な感じから、徐々に洗練された大人に成長してゆく彼女を、表したいと思いました。ですから、襟の形、スカートの長さなどが変化して見えるようにデザインしたんです。40年もの長い間、親しまれてきた商品が、ここにきてデザインを一新した訳ですから、ただ変わったということではなく、どう進化したのか、どう成長したのかということも印象づけるべきだと思いました。消費者は、この広告を見て新しい奥村愛菜を発見するとともに、新しくなったこの商品を、ポジティブに受け入れてくれるんじゃないかと思うんです。」
・・・朝子だ・・・
身のこなし、髪をかきあげる何気ない仕草・・・
恭平は、動揺を隠せなかった。
「あの・・・?」
「あ、ごめん・・・すごくロジカルだよ。カラーリングはどうする?」
「そうですね、デザイン画にも色はつけておいたのですが、このように原色に近い形でパステルカラーにしたいと思います。」
「それがいいね。ただ・・・どうせなら例えば赤、青、黄色というような変わり方ではなくてモノトーンから徐々に色がつき始めて、最後は華やかなパステルカラーに変わるっていうのはどうだろう?」
「そうですね、確かにその方が変化がわかりやすいし、いいと思います。」
「オーケイ。それと、最後に決まるカラーは、コーポレイトカラーのブルーを意識しておいて。・・・じゃあ、それで進めて。」
朝子であるはずもなく・・・そして朝子はもういないことを改めて思い知らされることになり、なんだか先日とは打って変わって落ち込んでゆく自分をコントロールできなくなっていた。
「はい。」
彼女は、安心したように、ふーっと息を吐いて椅子に座った。
彼女は自信満々に演説をぶったわけではない。顔を紅潮させて今にも倒れそうだった。ゆっくりと感じたままを誠実に伝えたい・・・そう思ったのだろう。
・・・朝子も・・・
ロジカルだった。僕の感性に彼女のロジックがうまく機能していた。そういえば、最近の僕の作品には、朝子がいないな・・・だから、僕は過去の人なのだ。
「橘さん・・・大丈夫ですか?」
プロデューサーの後藤が耳元でささやいた。
顔を上げるとみんなが心配そうに恭平を見ている。
「じゃぁ、デザインの変化、商品の進化、彼女の印象の変化がわかるように、モーションコントロールだけでなく、CGを使ってモーフィングしよう。その方がわかりやすい。ヘアもモーフィングを意識して。短い髪がストーンと落ちて長くなるとかさ。彼女の変化を大胆にしよう。」
一時停止のポーズボタンが解除された。
 
 

彼女が説明した通りの衣装が出来上がっていた。恭平は満足していた。
「どう?」
スタイリストの飯島が言った。
「いいね。」
「あら、それだけ?珍しいじゃない・・・いつもは必ず何か言うのに。」
「いや、本当に気にいっているんだよ。」
「美奈のプレはどうだった?」
「堂々としていてすばらしかったよ。それに、そのときにイメージした通りのものが出来上がっている。」
そういって、恭平が彼女の方に笑顔を送ると、赤くなって下をむいた。
「美奈、すごいじゃない。橘ちゃんが褒めるなんてめったにないのよ。」
美奈は感謝の気持ち分だけちらっと恭平を見て微笑んだ。
「美奈がデザインして、自分で縫い上げたの。将来有望なスタイリストよ。」
「すごいね。最近入ったの?」
「はい、この4月に入ったばかりです。」
変わって治子が付け足した。
「ちょうど3ヶ月かな? よく動くし、素直で性格もいいし、今時めずらしい子よ。そういえばね、この子ったら橘さんて、すごいですねぇ!って、興奮してたわよ。自信に満ちあふれていて、カリスマ性があるって・・・だめよ、若い子をたぶらかしちゃ。」
「や、やめてください、治子さん!」
「ははは・・・わかったよ。努力する。」
・・・いまさら・・・
もう恋なんてする事はないだろうな・・・
誰かを愛して、やがて失ってゆく辛さは身も心もボロボロにしてゆく。
「えっと、ところで斉藤ちゃん、タレント来てんの?」
「はい、今着いたところです。入ってもらっていいですか?」
「いいよ、入ってもらって。」
 
 

撮影当日の朝・・・恭平は、すでに仕事モードになっている。セットも衣装もパーフェクトだった。ライティングもイメージ通りだ。ただ、スタンドイン(ライティングや動きを確認するために、タレントの代わりをする人)によるリハーサルの段階で、演出上のすっきりしない迷いがあった。タレントの奥村愛菜の準備もすっかりできあがっていた。スタッフのみんなが、恭平のゴーサインを待っている。ちょっとしたことなのだが重要なこと・・・モーフィングのきっかけをどうするかということで、迷いがあった。いくつかのシミュレーションが恭平の頭をめぐる。いつもであれば、編集でどうにでもなるように、いくつかのオプションを撮っておくのだが、モーションコントロールやCGを使うということで、いたずらにカットを増やす訳にはいかなかった。恭平は腕組みをしたままフリーズしてしまっていた。
「どうしたの?何待ち?愛菜ちゃんはスタンバイできてるからね。」
治子が近づいてきて耳打ちした。美奈はタレントの衣装を念入りにチェックしながら心配そうに恭平を横目で見ている。
「よし、いくか。じゃぁ、愛菜ちゃんに入ってもらって。」
本当は、まだ迷いがあった。でも、実際にタレントに入ってもらうと、イメージがわくことも過去にはあったのだ。
恭平はいつもの癖で、いるはずのない朝子を探した。
こんなときに朝子がいてくれたら、適切なアドバイスをくれたに違いないのだ。
 
恭平は、奥村愛菜を呼んで何回か歩かせた。
あらかじめ予定していた演出を朝子が“ノー”と言っているようで先に進まない。
朝子はいないのに、確実にこの状況をどこかで見ている。
 
「あ、あの、髪を振ったらどうでしょう?」
「えっ?」
振り向くと、美奈がそばに立っていた。恭平はその声を一瞬、朝子かと思ったのだ。蚊の鳴くような小さな声で話している。
「髪を振った瞬間に、髪型と衣装がモーフィングするっていうのはどうでしょう?そうすると、なんかこうメリハリがあるっていうか・・・その・・・ごめんなさい。余計なこと言いました。」
「いや、いいね・・・」
・・・いいじゃないか・・・
そのアイデア。
「それいただくよ。ありがとう。」
「あ、いえ、そんな。」
どうして彼女に、迷いがわかったのか不思議だったが、恭平にとっては適切なアドバイスだった。まるで、朝子が彼女に乗り移って言わせているんじゃないかと思うほどだ。すっかり迷いが吹き飛んだ。
「オーケイ!じゃぁ、愛菜ちゃんいくよ。ここまで歩いたら、一瞬カメラを振り返るように髪を振って。・・・そう、そういうこと・・・それでいこう・・・いいねぇ・・・その時、最高の笑顔をちょうだい。・・・それで、さらにここまで来たら、今度は一回転してみようか。そう、髪を振ること忘れないで。目線はここね。えっと、誰かここに何か目印作って。愛菜ちゃんの目線がきちんとくるように。よし、一度リハするよ。照明いいかい?カァメラァ!・・・ アクション!」
つなぎ(編集のこと)のイメージも見えた。
「カァーット!」
恭平は、ストップウォッチを見た。
・・・完璧・・・
「いいね。続けて本番いこう。」
「はい本番いきます!お静かに願いまぁす!」
制作の斉藤が大きな声を張上げると、エアコンが止められライトが全開した。ピーンとした空気がスタジオ中に張りつめる。美奈と治子が、急いで愛菜の衣装を整えた。同時にヘアメイクの谷山が髪にブラシをあてた。終わるとカポック(照明のための発泡スチロールの板)の後ろに退いた。一同が一斉に恭平の顔を見た。
「カァメラァ!」
と、気合いを入れて叫んだ。この一言がすべてのスタッフのスイッチをオンにする。
「ローリン」
と、モーターが安定したことをカメラ助手が知らせる。
静かなスタジオにカメラのモーター音が響き渡り、フィルムが凄まじい勢いで回る。緊張が走る。カメラが移動を始める。
「アークション!」
愛菜が動く。彼女の演技に与えた時間は6秒半。
・・・なかなかいい表情だ。・・・
所定の場所で髪を振った。笑顔が決まった。
「カァーット!」
ストップウォッチを見る。問題はない。カメラはコンピュータで制御されているから、問題があるとすれば愛菜の演技だ。ビジコン(カメラのファインダーの映像がモニターできる装置)で演技をチェックする。
・ ・・すばらしい。・・・
クライアントとCDのOKもでた。一発OKというのもめずらしい。衣装とウィグを替えて同じことを後2回行う。
恭平は思った。
・・・美奈のおかげで、久しぶりにいい仕事になりそうだ。・・・
 
夜も12時を過ぎると、さすがに疲れてくる。タレントは、とっくに帰っていた。手タレを使っての商品カットを残すのみとなっていたが、ライティングにまだ1時間はかかるだろう。
「いよいよ最後のカットですね。コーヒーでもいかがですか?」
恭平が振り返ると、煎れたてのコーヒーを持った美奈が立っていた。ちょうど飲みたいと思っていたところだった。
「ありがとう。君のアドバイス・・・助かったよ。」
「いえ・・・でも、でしゃばったんじゃないかと心配で・・・」
「そんなことない・・・俺たちみんなで作ってるんだ。これからも、思ったことは遠慮しないで言ってくれていいんだよ。」
「はいっ。」
先生に褒められた小学生のように、うれしそうな顔をして治子の方へ戻って行った。
最後のカットを撮り終えたのは結局朝の3時を過ぎていた。気がつくとセットはほとんど取り壊されている。制作はこれからさらに片付けが、そして撮影部は撮り終えたフイルムを現像に出すという大事な仕事が残っている。恭平は、身の回りを片付けると彼らに労いの言葉をかけて駐車場に向かった。
「やめてください!」
一番奥の駐車スペースに、男ともみ合っている美奈が見えた。
「止めろ。嫌がっているじゃないか!」
恭平は後ろから腕をとってねじ上げると、男はたまらず地面に膝をついた。見ると代理店の若いADだった。
「痛ててて・・・何すんだよ・・・ただ家まで送って行くと言っただけじゃないか・・・」
美奈を見ると両腕を胸の前でクロスしてかたまっていた。さらに腕をねじ上げた。
「そうは、見えないけどな・・・?」
「わかった・・・わかったから放して・・・」
腕を放すと、いきなりなぐりかかってきた。恭平は、瞬時に左に身をかわして、どてっぱらに1発、そして身をかがめた瞬間に右膝で顔面を蹴り上げると男はもんどりうって倒れた。鼻から血が噴き出している。
「ちくしょう・・・俺がCDになったら、絶対にあんたは使わない・・・」
捨て台詞を吐いて車に乗り込んだ。思いっきりアクセルをふかすと、機嫌の悪いタイヤがアスファルトに八つ当たりして煙を上げた。広告代理店と言う立場を笠に着て、スタッフを業者呼ばわりするバカがいる。嘆かわしいことだ・・・と恭平は首を振った。
「大丈夫か?」
「・・・はい・・・橘さんこそ怪我は?」
右手の拳と膝に少し血が付いていた。膝の血は、恭平のではなかった。
「あ、血が付いてる。」
美奈は、ティッシュをつばで濡らすと丁寧に拳の血を拭き取った。恭平は、美奈がバンドエイドを貼ってくれている間、少し照れくさく感じていた。美奈はズボンの血に気がついた。
「これは、あいつの血が付いただけだから・・・」
「本当に、ごめんなさい。」
「君のせいじゃない・・・」
そこに治子が戻ってきた。
「なんかあったの?」
「何にもないさ・・・おつかれさん。」
美奈が車に乗り込むのを確認してエンジンをかけた。こちらを見ている美奈に向かって人差し指を口に当ててみせた。小さな二人の秘密だった。
 
 

恭平は、青山の『ロコ』にいた。朝子との指定席に、ひとりで座っていた。アイデアをひねり出すのにここが一番いい。静かで風が気持ちいいからだ。左の席が彼女の指定席・・・恭平は誰にも座らせないようにバッグを置いた。
次の仕事は、あるドイツ車の企画だった。メルセデスやBMW、フォルクスワーゲンは、ポジショニングが確立されている。それらと、どう差別化させるのか、消費者が、わざわざその車を選ばなければならない理由はなんなのか?
恭平は横に座っている朝子に意見を聞いた。
“無骨なメルセデスに比べて、洗練された優雅なスタイリング・・・高速道路じゃなくて、街中が似合うアーバンな車よね。優雅な気持ちにさせくれるし、おしゃれをしたくなる。この車は、女性に受けなきゃだめね。メルセデスを買うつもりだった夫が、渋々と妻のわがままに従わざるを得ない・・・そんな気にさせる広告でないと、この車は売れないんじゃない?”
“と、言っても僕は、今乗ってるメルセデスをこの車に乗り換えるつもりはないよ・・・”
・・・妻のいない僕はターゲットじゃないから・・・
朝子との会話が続き、結局5案ほど描き上げた。
「橘さん。」
振り返ると美奈だった。例によって、大きな黒いバッグを肩に担いでいる。耳にぶら下がっている小さなシルバーのピアスが、あまり主張しすぎない彼女の性格を物語っていた。美奈は、一瞬恭平の右手を見た。恭平は、彼女に手をひらいてみせた。彼女はほっとしたように微かに笑みを浮かべた。
「仕事?」
「はい、今終わって事務所に引揚げるところです。」
「そうか、事務所ってこの辺だったね。」
「橘さんは、お仕事?・・・みたいですね。」
「いや、今日はそろそろ終わろうかと思っていたところ・・・」
「ちょっと待ってていただけますか?・・・この荷物、事務所に置いてきちゃいますね。すぐ、戻ります。」
5分ほどで、美奈は戻ってきた。
恭平は、バッグをどけて朝子の指定席を美奈に譲った。
「今日は帰っていいって、治子さんからお許しが出ました。ここ、一度入ってみたかったんです。なんか、落ち着きますね。」
「そう、僕もそこが気に入って・・・ここに通いだして、もう10年以上になるかなぁ・・・」
「じゃぁ、常連さんですね。」
「そういうこと・・・コーヒー一杯で、夕方まで粘っていても許してもらえる・・・僕は、特権階級なんだよ・・・」
美奈が笑った。美奈の笑顔は、人をやさしい気持ちにさせる。
「ここって、ハワイを意識してるのかしら?」
「そう、雰囲気だけはね・・・でも実際のハワイは、気候がドライで涼しくて過ごしやすい・・・。」
「えっ?・・・ハワイってもっと暑いんじゃないんですか?」
「もちろん季節によるけど・・・日中の気温は27〜8度・・・太陽が雲に隠れると寒いくらいだし・・・ゴルフをやっていてもほとんど汗もかかない・・・」
「そうなんだ・・・知りませんでした・・・そういえば、橘さん、いつもアロハなんですね。それもパパス。」
「さすがにスタイリストだな・・・」
「だって、何回かお会いしてますけど、その度にパパスで・・・すごく似合ってるなぁって思っていました。」
・・・別にこだわっているわけじゃないんだけどな・・・朝子の見立ては間違いないから、彼女にまかせていただけ・・・
もう、すっかり暗くなっていた。
「・・・もし時間があるなら、食事につき合ってくれないか?ちょうど飯を食わなきゃなって思っていたところなんだ。」
車は、いつも利用している近くの駐車場に停めてあった。
恭平は、愛車メルセデスを美奈の横につけた。助手席のドアが開くと外の暖かい空気とともにほのかなお化粧の香りが入って来た。
・・・そう言えば・・・
朝子が亡くなって以来助手席に朝子以外の誰かが座ることはなかったな・・・
恭平は、封印していた朝子の指定席を二つも譲った事に後ろめたさを感じた。
そんな思いがよぎって、朝子との行きつけの店を避け最近開拓した広尾のイルピノーレに向かった。ハンドルのボタンで電話番号を探してかけた。
「はい、イルピノーレです。」
スピーカーからの声が車内に響き渡る。
前を向きながら応答する。
「橘と言いますが・・・あと10分くらいでそちらに着けると思うんだけど、今から行ってもだいじょうぶかな?・・・二人・・・できれば窓側のテーブルで・・・ありがとう。」
 
 

「ボナセーロ」
店は、活気があって込み合っていた。くしゃくしゃに丸めたピンク色のメニューが、テーブルの上に無造作に置かれてある。ふたりが席に座ると、ウエイターがテーブルのキャンドルに火をつけた。ゆらゆらと美奈の笑顔が浮かび上がる。
「白でいい?」
「はい・・・」
「わかった・・・じゃぁ、料理は勝手に頼んじゃっていいかな?」
美奈が頷いた。
恭平は車だったのでノンアルコールのバクラー、彼女にはシャルドネを頼んだ。
恭平は今までここで頼んでおいしかったと記憶しているいくつかのものをオーダーした。まず前菜は、牛タンとゴルゴンゾーラを合わせたもの・・・そしてプロシュートとルッコラのピッツァははずせない・・・魚は鱸のバターでソテーしたもの・・・それと、サルティンボッカと・・・4種類のチーズのリゾット・・・少し多いかな?とは思ったが・・・もし、多いようだったらピッツァは持って帰ればいい・・・と、一気にオーダーした。
恭平がオーダーしている間、美奈は、手持ち無沙汰に次から次へと入ってくる客を観察していた。
 
なんとなく話のきっかけがつかめず、恭平も入ってくる客や既に席に着いているそれぞれの人生を覗き見していた。
やがて運ばれてきた飲み物が会話のキューをくれた。
静かにグラスを合わせると美奈が口火を切った。
「私、まだハワイって一度も行ったことがないんです。橘さんは、もう何度も行かれてるんですよね?」
「もう数えきれない・・・ほとんど仕事だけどね、引退したら住みたいと思ってるんだ・・・」
「やっぱり・・・住むとしたら・・・ホノルルとかですか・・・?」
「住むとしたら・・・オアフだったらホノルルよりノースの方がいいし・・・マウイだったらハナ。でもやっぱり、カウアイのハナレイがいいかな?」
「ハナレイ?・・・」
「ハナレイってね、カウアイの北のはずれにある小さな街で、たくさんの虹を見ることができるから虹の生まれる里って言われているんだ。ハワイ諸島ってこんな風に長細く連なっているだろ?その一番西の端にあるのがカウアイ・・・ハワイで最初にできた島・・・今からだいたい5,600万年前にできた島だと言われていて、他の島に比べて雨が多いんだ・・・だから緑が多くてガーデンアイランドと呼ばれてる。とくにハナレイは、一日に1回は必ずシャワーがあるんだよ。それが10分くらい経つと、さっきまでの雨がうそみたいにやんで、真っ青な空が広がったかと思うとさ、七色の虹が、色鮮やかに現れる。現れるというより・・・やっぱり、生まれるって感じかな?・・・虹の麓に行くと、幸せになれるって言うだろ?・・・本当に行けるんじゃないかと思ってしまうほど、虹はすぐそこにくっきり見えるんだ。」
なんとなく得意分野だったせいか、恭平は一気にしゃべりまくった。
「ほんとですか?・・・それなら私も行ってみたいです・・・ハワイってショッピングするだけの島だって思い込んでいたから・・・幸せになれる里があるなんて、素敵じゃないですかぁ・・・」
美奈は、目を輝かせている。
「ハワイは、それだけじゃないよ。マウイもいい。『星の降る山』というのがあって・・・ははは、ごめん。これは、今自分で勝手に名前を付けた。ハレアカラ火山って言う・・・ハワイ語で『太陽の家』っていう意味の山・・・富士山でいうと8合目くらいの高さかな・・・『2001年、宇宙の旅』って観たことある?」
「はい、観ました。」
「あの映画の一部分が撮影されたことや、アポロの月面着陸の時に訓練した場所としても有名な山で・・・俺は5年くらい前に、ご来光を見に登ったことがある。登ると言っても車で行くんだけど、ホテルに頼んでおくと、朝の2時半頃にピクニックバスケットが部屋のドアの外に置いてあってね、それを持って真っ暗な山をひたすら登って行くわけ・・・空は満天の星・・・吸い寄せられるように、星に向かって走ってゆくって感じ。その星の多さに感動していると、流れ星が長い尾をひいてスーッと流れるのが見える・・・それもひとつやふたつじゃないんだ・・・いくつもの星が流れてゆく。まさに星が降ってくるって感じ・・・ストロークが長いから、流れている間にちゃんと願い事が言い終われる・・・虹が幸せにしてくれて、星が願いを叶えてくれるハワイ・・・ロマンチックだよね・・・」
「橘さん、私、もう絶対にハワイに行きたい!」
「君は若いんだからこれから何度でも行くことができるじゃないか・・・ハレアカラに行く時はできればレンタカーがおすすめ・・・ツアーで行くと自分で運転する訳じゃないから目的地に着くまで星にも気づかずにほとんどの人が寝ちゃうらしい・・・それにバスを降りたら、すごく寒くて、それでトイレに行きたくなる・・・しかも山頂にはトイレが一つしかないから長蛇の列、それで肝心のご来光を見ることも出来ずに、またバスに乗る・・・なんてね・・・太陽に照らし出された自然があらわになるってすごいぞ・・・10数年もかかってやっと花を咲かせるのに、たった一日で枯れてしまうというシルバーソードを見ることができる・・・日本語では銀剣草というんだけど、その辺の雑草に安物の銀のラッカーを塗ったみたいな不思議な草・・・ハワイではマウイのハレアカラだけじゃなくてハワイ島のマウナケアでも見ることができる。・・・まじめな話、ハワイは人生哲学を教えてくれる。ほんと、大げさじゃないんだよ。大自然の営みを見ているとね、人間って本当にちっぽけな生き物なんだなぁって思えてくる。壁にぶつかって、悩んで、悲しんで・・・そんな時にこそハワイに行ってみるべきかも知れない・・・きっと、悩んでいた自分が馬鹿みたいに小さく思えるから・・・自分のエゴに気がついて、所詮自分一人では生きていけないんだということがよくわかる。おおげさに言えば、神様に生かされているんだと、思えるようになる。ハワイはね・・・俺たちに自然体で生きることを教えてくれている。たとえ死に直面したとしても、怖くないと思えるようになる。一度ハワイに行って、風や空気の肌触りを感じるとね、たとえ東京にいたとしてもいつでもハワイに帰れるんだ。頭の中にそれが記憶として刻み込まれているからね。こうやって、ただ目を閉じるだけでいい・・・」
・・・はは
エラそうに何を言っているんだオレは・・・みっともなくくよくよしているのはオレの方じゃないか・・・
目を開けると美奈のワインはさっきから減っていないことに気がついた。
恭平は思った。ちょっと一人でしゃべりすぎたようだ。
仕事以外で誰かと会話するなんて最近は無くなっていたせいかもしれない。
「ちょっと、一人でしゃべりすぎちゃったな・・・今度は、佐伯さんのこと聞かせてよ。」
「あ、美奈って呼んでください。みんなにもそう呼ばれていますから。」
「じゃ・・・美奈さんのこと聞かせてよ・・・そういえば、前にも話したけど、4月の2日に西富士霊園で見かけたんだよ。」
美奈の顔から、笑みが一瞬消えた。
「・・・あの日は、母の命日でした・・・昨年亡くなったんです・・・橘さんは?」
「僕の妻も2年前に亡くなって・・・だから3回忌でお参りに行ってた。」
「そうだったんですか。」
「うん・・・つまり君のお母様のお墓の隣に、妻の墓があって、しかも命日が一緒ってことだな。ちょうど帰ろうと思って立ち上がったら、隣で君が手を合わせていた。・・・一瞬驚いた・・・あまりにも君が・・・妻に似ていたから・・・」
「ほんと、すごい偶然・・・それで、こうやって知り合えただなんて・・・先日、カメラマンの下条さんもおっしゃってましたけど、そんなに私・・・奥様に似ているんですか?」
「そう・・・なんか、こう・・・醸し出す雰囲気がね。」
「ぜひお会いしてみたかったですね・・・橘さん・・・お子さまは・・・?」
「いや、いない。結婚して・・・5年経って・・・やっと子供ができたと喜んでいたら、子宮がんでね。だから、今は二人とも天国にいるよ。」
「・・・ごめんなさい・・・なんか辛いことを思い出させてしまって・・・本当にお寂しいですね。」
「まぁね、いなくなると彼女の偉大さをあらためて思い知らされる・・・自分ひとりでは、何ひとつできないんだなって・・・ははは、いや、だから俺の話じゃなくって・・・君の話。」
「あ、そうでしたね・・・それで私は、一人っ子で・・・」
「じゃぁ、今はお父様と二人?」
「いえ、父には、母が亡くなる前から・・・その、恥ずかしい話なんですが、愛人がいて、去年の暮れに、その人を籍に入れたんです。私は、大学を卒業してすぐに家を飛び出して、今は、一人で暮らしてます。」
「お母様が、好きだったんだね。」
「好きというより、私のあこがれでした。母は、服飾デザイナーだったので・・・」
「えっ、ひょっとして・・・佐伯麗子?」
「はい。」
佐伯麗子を知らないものはいない。一世を風靡したファッションデザイナーだった。
「彼女は、確か・・・自殺だった。」
「そうです。睡眠薬をのんで・・・」
語尾が聞こえなかった。そして、美奈は握りしめた左手の人差し指を噛んだ。
「父の愛人というのが、母のアシスタントだった人なんです。父に愛人がいたというだけでなく、一番信頼していた人でしたから、それを知った母はすごくショックを受けて・・・その日から極度の鬱状態が続いていました・・・私がもっと気をつけていれば、あんなことには・・・」
「あんまり自分を責めないほうがいい・・・僕も妻を亡くして後悔する事ばかりだけど・・・でも、どれだけ後悔してももう彼女は帰ってこない・・・だから、今はできるだけ楽しかった時の事を思い出すようにしているよ・・・」
「そうですね・・・でも、私は父のことも大好きでしたから、今は裏切られた思いでいっぱいです。」
「スタイリストになろうと思ったのはお母様の影響かい?」
「はい。治子さんは、母が教えていた服飾デザインスクールの教え子だったこともあって、私の相談に乗ってくれていたんです。卒業したら、手伝って欲しいって言ってくれて・・・」
「飯島ちゃんは、優秀だから、彼女についていれば間違いない。」
「はい、とても勉強になります。」
ときどき作る笑顔が、朝子を彷彿とさせる。右頬に、小さなエクボが出来るのだ。
「そう言えば・・・この間はありがとうございました。」
「ん?・・・」
「スタジオでの・・・」
「ああ・・・あれから何も言ってこない?」
「はい・・・撮影が終わると代理店の人に会う機会はほとんどありませんから・・・でも、橘さんはいろいろと影響がおありだったんじゃありませんか?・・・」
「ないよ・・・あそこのCDとは昔からの付き合いだし・・・何かあったら彼に相談するから心配しないでも大丈夫。」
「なにかお礼をさせていいただけませんか?」
「いや・・・お礼なんていい。」
「だって今日のお礼もしなければいけないし・・・私の手料理をご馳走させていただけませんか? だめですか?・・・ご迷惑ですか・・・?」
「そんなことはないけど・・・」
「よかった・・・それに、毎日こんな高カロリーなもの食べてたら、ダメですよ。ちゃんとコントロールしないと・・・だから、ごちそうというより健康管理と言った方が正しいかしら・・・」
「ありがとう。確かに最近はそういうこと気にしなくなってたかな・・・」
「じゃぁ、なおさらですね。お宅はどちらなんですか?」
「世田谷の弦巻。駅で言うと、田園都市線の桜新町・・・」
「なんだぁ!私、用賀なんですよ。近いじゃないですか。仕事の様子を見て、たまに作りにいってあげますね。」
美奈は3杯目のワインには口をつけずにいた。恭平は、定番のティラミスはパスしてエスプレッソを頼んだ。
お酒のせいなのか、美奈の表情に少し疲れを感じた。
「どうした? 疲れたかい?」
「え、ごめんなさい。なんか最近疲れやすくて・・・でも、平気です。若いんですから。」
「でも、それを飲んだらそろそろ帰ろう・・・家も近いことだし、送って行くよ。」
 
 

恭平は、昨日タイから帰国したばかりだった。
ここ最近、タイのソン・ブンというお気に入りのカメラマンと仕事することが多く、よくバンコクに行った。
留守電に美奈の伝言が入っていた。
「橘さん・・・美奈です。帰国されたらお電話ください。」
・・・そうだった。
美奈の手料理か・・・社交辞令とあまり気にも留めていなかったのだけど・・・戸惑った。
ここは、朝子と過ごした部屋・・・女性を入れることに彼女はなんと思うだろうか・・・彼女がいなくなったとしても何も変わらず、今朝子がひょっこり玄関を開けて入って来ても別に驚くこともない。あの頃と同じだった。
とはいっても少しは片付けないと・・・
恭平は、そうすることになんとなく抵抗があった。もう朝子がいないことを認めたようで・・・
 
恭平は、あらためて部屋を見回した。
そこら中に朝子がいる。片付けようがない。
朝子は特にキッチンに入られるのを嫌がった。
・・・どうしたものだろう・・・
 
美奈がやってきたのは2日後の土曜日の午後。
テレビモニターに屈託のない笑顔が大写しになった。
おそるおそるあたりを見回しながら部屋に入る美奈。
「きれいにしてらっしゃるんですね・・・驚きました。」
「いつもは散らかってるんだ・・・朝から掃除で大変だったよ・・・」
美奈はベランダに出た。
「目の前が馬事公苑なんですね・・・えっと・・・あ、あった・・・私のマンションはあそこです・・・用賀の駅の真上に建っているマンション・・・ね、近いでしょ?」
そこで、インターフォンがなった。
今度は飯島治子の顔が大写しになっている。「そうなんです。治子さんも来るって・・・男性の部屋にひとりでいきなり行くなんて何事って、叱られちゃいました。」
・・・助かった。
「ワイン持って来たわよ。ま、橘ちゃんももう独身なんだからいいんだけどさ・・・いきなり美奈をひとりでこの部屋に入れると私が朝子に叱られちゃうからさ・・・保護者としてついて来たって訳・・・悪く思わないでね・・・」
治子がウィンクしながら言った。
「・・・いや、治子の言う通りだよ。」
そう言いながらもキッチンのことが気になっていた。彼女の聖域に入れることに罪の意識があった。
「意外ときれいにしてるのね・・・キッチン・・・男やもめなんて思えないわ。」
「いや、実を言うと使ってないんだ・・・コーヒーを煎れるくらいで・・・朝子が亡くなった時からそのまんまで・・・」
「そっか・・・朝子きれい好きだったもんね。・・・そうだ美奈・・・今から美奈ん家に行こう・・・」
「えっ?・・・はい・・・」
治子のいきなりの提案に美奈はすべてを悟ったかのようだった。
恭平は、治子の気遣いにとてもすまない気がしていた・・・それが美奈に対してなのか、朝子に対してなのかはわからなかったが・・・
治子の機転で、3人は美奈のマンションにいた。
・・・やはり・・・
美奈は育ちがいいようだ。
 
すべてが美奈の個性を物語っているセンスのいいシンプルな家具が配された清潔な部屋だった。
3人は、美奈の手料理でワインをいただき遅くまで飲み明かした。
治子はつぶれてしまった。
治子はいるけれど、なんとなく二人きりになったそんな気まずい空気を感じていた。
この前はあんなに二人で話し込んだのに今日は言葉が出てこない。
治子の寝息がこだまする。
美奈と二人で治子をベッドに運び、12時を過ぎた頃、恭平は帰ることにした。
帰り際に玄関で美奈が言った。
「また、ハワイの話を聞かせていただけますか?」
「そうだな・・・でもとりあえず一度行ってみるといい・・・ハワイなんてすぐそこだから・・・じゃ、おやすみ・・・」
・・・後悔していた“また、ハワイの話で盛り上がろう”と・・・ただそう言えば良かったのだ。
“ほんとにあなたって無粋な人ね”
朝子の声が聞こえるようだ。
すでに階下に下りていた恭平は、急いで引き返し美奈の部屋のドアを静かにノックした。
ずっと玄関にいたのだろうか、すぐにドアが開いた。
美奈は何も言わずにただ恭平の言葉を待っている。
「今日の料理とてもおいしかった・・・それを言うのを忘れていたから・・・それと・・・また、面白いハワイの話を仕入れておくよ。」
後ろの方でドアが開く音がした。
「あ、橘ちゃん帰るの? じゃね、おやすみ・・・」
ふあーっとあくびしながらそれだけ言うとトイレに入ったようだった。
「又来てくださいね・・・ごちそう作りますから・・・」
 
 
10
治子から電話があった。
「今度のハワイロケ、美奈でいいかな? 私仕事が重なっちゃって行けないの・・・いいよね?」
美奈のことを思うと断れるはずもない。
恭平は思った・・・ハワイの空気を感じてくるだけの短いロケなのだ、それでも美奈の喜んでいる顔が目に浮かぶ。
このハワイロケはタレント夫婦の都合で急遽行くことになった。夫である歌舞伎役者がNHKの大河ドラマの主役が決まっていたため彼等の最後の休みに便乗してのロケなのだ。だから行ったとしてもほとんどとんぼ返りだった。
ハワイでの撮影となったが、本来は日本が設定の頭痛薬のTVCだった。
感動的な景色を見せたいがために妻を連れて四駆でやってくる。そしてそれから先をマウンテンバイクでという時に彼女がそっと頭に手をやる。“早く効いて胃にやさしい”がキャッチフレーズのその薬をのんでことなきを得た彼女は、ホノルルのカピオラニ公園の木立の中を楽しそうに走り回る。そして訪れた妻の感激の顔・・・見たこともない壮大な景色と対面する・・・顔に西日が当たって幸せそうに寄り添う二人。妻が言葉もなく夫を振り返る時の幸福感に満ちあふれた顔。 “君の笑顔にやっと会えたね“とスーパーが入る。これはオアフのハワイカイとモロカイ島の2カ所に分けて撮った。
そんな短いハワイ滞在最後の夜、打ち寄せる波の音を聞きながら、恭平と美奈はスタッフとともにマイタイバーにいた。
昼間の余韻を忘れられない子供連れの家族達がすっかり熱さを吸い込んでしまった砂浜を裸足ではしゃぎ回っている。
「あっという間だったな・・・でも、ホノルルじゃハワイの良さはわからない。」
「・・・」
「どうした?疲れたかい・・・?」
「少し・・・」
帰還するディナークルーズの遊覧船が遠くにいくつも見える。
「ここだとあんまり星も見えないんですね・・・結局虹も見れなかった・・・でも、来てよかった・・・また来たいと思えたから・・・」
「いつだって来れるさ・・・」
 
 
11
それからというもの、ふたりは何回か仕事で一緒になることがあり、たまに家まで送ったりしながらお互いの身の上を詳しく知るようになった。
美奈は休みの日に突然やって来て、一日中恭平の部屋にいることもあったし、相変わらずキッチンに入ることはなかったが掃除もした。そして何より恭平は、美奈の仕草に見え隠れする朝子の面影への戸惑いがなくなりはじめていた。逆に朝子のようにタイミングのいい的確な助言を求めるようになっていた。
「橘さん、美奈です。ちゃんと食事してますか?」
携帯に連絡があった。
「あぁ・・・ちゃんと食べてるよ。」
「よかった。明日の午後には帰るので、お夕飯は、私のマンションで一緒に食べませんか。」
次の日、恭平はロケハンからの帰り道に思わぬ渋滞に巻き込まれて、結局美奈のマンションに着いたのは夜の7時を過ぎていた。
ドアを開けるといつも美奈の笑顔が迎えてくれる・・・その笑顔に恭平はどれほど癒されただろう。インターフォンを押してドアを1センチほど開けると、その隙間から明かりが漏れてきた。いつもの笑顔はそこにはなかった。一気にドアを開けて入ると、キッチンの方から味噌汁のにおいが漂ってくる。こちらを振り返った美奈の髪がフレアスカートのように一瞬広がり、そして収まる。流れるようなハープの効果音を付けたいくらいに光の筋が滑らかに移動する。美奈の髪は美しい。いつも美奈の髪に触れたいという衝動に駆られるのだが、そこまでの勇気は恭平にはなかった。
「おかえりなさい。遅かったんですね。」
ほっとする天使の笑顔が、恭平の疲れを吹き飛ばす。
「ごめん、だいぶ待たせたみたいだね。」
「1時間くらい前かな? でも今日は、簡単なものしか作ってないの。なんか無性にお味噌汁が飲みたくって・・・それと納豆とお魚はきんきの煮付け、後は・・・芥子菜のおひたしだけ。健康的でしょ。」
美奈は、恭平の健康のために調味料にもこだわった。塩は天然塩を使う。それに醤油も高松から取り寄せている。決して砂糖は使わず、みりんだけだ。だから素材の味が生きている。
「それとね、焼酎を買ってきました。」
「すごい。佐藤の黒じゃないか。」
「ロックでしたよね?」
美奈が作る料理は、おふくろの味がすると恭平は感じていた。母親がしっかりと教育したに違いない。若いのにどこか古風なところもある。細かいところによく気がつく。そしてなによりも、年の差を感じないから、一緒にいて疲れないのがうれしいと思っていた。
 
 
12
美奈のおかげで、恭平は仕事も順調だった。迷ったときには、美奈に意見を聞いた。出会って半年が経ち,今ではかつての朝子のように、仕事のパートナーとして大切な存在になっていた。
そして、11月の終わりに美奈が仕事中に極度の貧血で倒れた。一報を聞いたとき、恭平は五反田のスタジオで編集中だった。すぐにでも駆けつけたかったが、終わったのは明け方の3時だった。
いったん自宅に戻り、シャワーを浴びて出かけたが、面会が許される10時まで車の中で待たなければならなかった。時計をにらみながら地獄のような長い時間を過ごした。
不安な気持ちで病室のドアを開けたとき、美奈は眠っていた。点滴が痛々しい。
明るい日の差す個室だった。白い壁のところどころにピンクがきいている。清潔な窓際に花瓶があったが、まだ花は生けられていない。継母の佐伯悦子が付き添っていた。若くてきれいな人だった。年の頃は40代前半か・・・恭平は、あまり自分と変わらないなと思った。着ているものを見て裕福さがうかがえる。美奈の話を聞いていたから、恭平は一瞬かまえてしまったが、性格的には想像していたほど派手な感じはなく、むしろ人に安心感を与える人だと思った。
自己紹介をした。恭平のことは、すでに美奈から聞いていたらしい。どのように説明していたのだろうかと思った。美奈の父親は、仕事が忙しくて、まだ来れないと言う。驚いたことに父親は、佐伯コンツェルンの代表者だった。美奈をひとり娘として溺愛していると言うが、その後も、恭平は一度も美奈の父親に直接会うことはなかった。
病名は白血病。最近は、随分医学の力で治癒力が高くなってきているという病気だ。
 
「やぁ・・・」
目覚めた美奈にかけた最初の言葉
「やぁ・・・」
恭平に返した美奈の最初の言葉
「どうしてこんなことになっちゃったんだろ私。」
「ちょっと無理し過ぎちゃったんじゃないか?」
「ごめんなさい、心配かけちゃいましたね・・・」
「ほんとにね、でも顔を見て安心したよ・・・」
お互いに、ちょっとぎこちない挨拶を交わした。
気を利かせて佐伯悦子がさりげなく部屋を出て行った。
それなのに、二人は見つめ合うだけで何も言葉を交わさない。美奈は、恭平がいてくれているだけで心強く思い、恭平は美奈の顔を見ただけで胸が熱くなっていた。
・・・愛しているのだ。
失いたくないとお互いが感じた瞬間だった。
 
その日から、恭平はできるだけ新しい仕事を入れないようにして、足しげく見舞いに通った。
見舞いに行くたびに、お見舞いの花が増えている。花瓶に生けられた花は、毎日悦子が水を換えていたからいつも生き生きしていた。
その後しばらくスタジオに缶詰になっていた恭平は、最後に会ってから1週間ぶりに病院に行った。
ドアを開けると、美奈が一瞬こちらを見て、窓の方へ顔をそむけてしまった。
「ずいぶん、顔色が良くなったんじゃないか?」
窓の外から差し込む光が、そう思わせたのかも知れない。
美奈は、わざと頬を膨らませて怒ってみせた。
「ほら、プレゼント。」
恭平がハワイの写真集を手渡すと、すぐに笑みが戻った。
「橘さん・・・」
佐伯悦子が、目配せをして外に出るように合図した。
「すぐに、戻る。」
また、膨れてしまった美奈を病室に一人残して、恭平と悦子は1階の食堂に行った。
病院の中庭が見渡せるテーブルを選んでしばらく何も言わずに庭を眺めていた。春を待つ間の殺風景な花壇は、恭平の心を和ませてはくれなかった。
「美奈とは、うまくいっていますか?」
「ええ、なんとか・・・積極的に口をきいてくれるわけではありませんが・・・」
先ほどから、いつもと様子が違う彼女の表情が気にかかっていた。
「美奈の、病状のことですか?」
「はい・・・実は、美奈は白血病と言っても、正式には慢性骨髄性白血病なんです。」
「慢性と、急性では違いがあるんでしょうか?」
「簡単に言うと、急性ほど楽観視できないということなんです。もうすでに移行期と呼ばれる状態で、効果的な化学療法はないんだそうです。今行っているのは、なんとか慢性期に戻そうという治療なんだそうで・・・。」
「もし、戻らなかったら?」
「・・・その時は、もう骨髄移植しか方法がないんです。」
「じゃぁドナーさえ見つかれば・・・」
「彼・・・いや美奈の父親は適合しませんでした。それに、もう母親は亡くなっています。あとは適合するドナーが現れるのを、根気よく待つしか方法はないんです。でも、その適合者は数千人に一人いるかいないかなんですって・・・」
そう言うと、その場で泣き崩れてしまった。
「母親さえいてくれれば、まだ可能性があったのに・・・私のせいで・・・」
「でも、医学がこれだけ進歩した世の中なんです。あの美奈が死ぬなんてことは、絶対にありませんよ。」
そう言いながらも、また大事なものを失ってしまうかもしれないという不安と絶望感が恭平を覆った。
「美奈は、このことは・・・」
「知りません・・・でも、うすうす気がついているようです。」
実際、美奈に適合するドナーが見つからない場合、後数ヶ月の命と診断された。
 
「私、死ぬのかしら・・・」
不安そうな顔を向ける。恭平の顔色から何かを確かめたいというように。
「ははは、馬鹿なこというんじゃない。すぐによくなる。さっきも言ったけど顔色も良くなったじゃないか。」
「私、やり残した事がたくさんある・・・虹が生まれる瞬間をまだ見ていない・・・もう一度ハワイに連れてって・・・虹の生まれる里に・・・お願い。」
「その前に、ちゃんと病気を治すんだ。」
佐伯悦子から病状を聞いたばかりで、恭平はまともに美奈の顔を見ることができなかった。
「よくなんてならないよ・・・自分のことだからわかるの。だから、お願い。ここから連れ出して。・・・残された時間を、何もしないでただ死を待つだけのために使いたくない。」
実際には、現れるとも限らないドナーを待つだけなのだ。抗がん剤の副作用が苦しそうで、見ていられない。すでに脱毛も始まっていた。あの美しい髪が・・・その日から、毎日のように、ハワイ行きをせがまれた。
そして、クリスマスイブの24日に、恭平は心を決めた。残された時間を待つだけのために消費させるのは、かわいそうだったからだ。自分の判断が正しいとは思わない。でも、生きていてよかったと、思わせたかった。
恭平は行き先を誰にも告げずに決行した。
 
 
13
12月26日、21時45分成田発JAL074便というタイムマシンに搭乗した。ダイヤモンドの輝きの中を飛び立ち、闇を超えてその日の夜明けに向かって逆戻り。まさにタイムトリップだ。
「19時間だけ過去に戻るって素敵な旅ね・・・できれば、ママが生きてたあの頃に戻りたいけど・・・」
「そうだな・・・寒くないか? 向こうに着いたら、まず病院に行こう。」
「ありがとう・・・ごめんなさい。」
「決めた以上、楽しんでこような。まずは、様子を見るためにしばらくホノルルに滞在するつもりでいる。最初はビッグアイランド。溶岩の上を歩くんだ。真っ赤な溶岩がゆっくりと流れているその上をね。そして、4、5年前に朝子を連れて行った時に持ち帰った溶岩のかけらを返してきたいんだ・・・つき合ってくれるかい?」
「いいよ・・・でもどうして?」
「溶岩を持ち帰ると、女神ペレの怒りをかってしまうという言い伝えがある。その頃俺たちは、それを知らなかったんだ。朝子が死んだのは、ペレの怒りをかったからかも知れないな・・・そして自信がついたらマウイにわたって『星の降る山』に登ろう。星を見るならハワイ島のマウナケアの方がいいんだけど富士山よりも高い山だからな・・・今回は無理をしないでおこう。」
「クジラも見たいな。」
「そうだな、ちょうど今、ザトウクジラがアラスカからやってきているんじゃないかな。マウイではハナマウイに泊まろう。すてきなところだよ。そして、ついでにラナイにも足をのばしてみるか。誰にも教えたくないくらいに素敵な島なんだ。うれしいことに、日本人をあまり見かけない。それからカウアイに渡っていよいよ虹の生まれる里だ。そこがこの旅の最終地点。」
「こんな旅、ツアーじゃ絶対に経験できないね。」
「そう、俺以上のガイドはいないからな。それが、今は美奈専属のガイドだ。」
こんな無謀な旅をするべきなのか、恭平は未だに迷っていた。もし、美奈に何か起きたら殺人者だ。ホノルルの病院には、日本から連絡を入れておいた。学生時代の友人が医者として勤務しているのだ。恭平は、美奈がどのような治療をしていたのか彼に詳しく事情を話した。そして、日本と同じ治療を約束してくれた。でも、週に2回、通院しなければならなかった。恭平と美奈は、カオニアナオレハイウェイ沿いのサンディビーチが目と鼻の先に見える高台に、家を一軒借りた。しばらくは、そこをベースにするつもりだった。
真っ青な空に白い雲、そして真っ青な海に白い波が、カラフルな色達を生き生きとさせている。恭平はラナイのデッキチェアに座ってしばし打ち寄せる波を見ていた。美奈は手すりに体を預けて、海の香りを運んでくる風を、全身に受け止めている。
「ここ、風が気持ちいいね。風が木の葉とおしゃべりしてるみたい・・・時計をする意味があるのかしら・・・こんな自然を相手にしているとハワイにはハワイの時の流れがあるって感じがする。」
男物のオメガのスピードマスターを外しながら、美奈が言った。
「ビーチまで下りてみるか?」
「うん!」
「日陰に入ると結構寒いから、これを持って行って。」
美奈に薄手のカーディガンを渡した。
二人は、直射日光を避け、パームツリーの木陰にゴザを敷いて座った。ABCストアで買ってきた安いやつだ。木陰は風が抜けて涼しい。太陽が雲の中に入ってしまうと、寒いくらいだ。二人で、ボディサーフィンをする若者たちを見ていた。サンディビーチはサーファーに人気のビーチで、この時期はクジラが近くに来ることもある。
こうやって二人は、午前中はいつもビーチに寝転んでいろんなことを話したり、本を読んだりして過ごしていたが、午後になると車でドライブした。サンディビーチから、北に上がってゆくと、パカプウポイントがある。ここは、オアフで一番の壮観な眺めと、息を呑むほど美しいビーチがある。マカプウヘッドを通り過ぎると見事なパノラマが現れた。頂上の海側に小さな駐車場があったので、そこに車を停めた。そこから眺める景色は絶景なのだ。
「言葉にならない。水平線の彼方まで鮮やかなターコイズブルーとエメラルドグリーンで染まっているなんて・・・私が知っている色の名前だけじゃ表現できない・・・あの小さな島は、なんて言うの?」
「大きい方が、マナナアイランドで通称はラビットアイランド。昔、ヘリで真上を飛んだことがある。火口付近にはたくさんの海鳥の巣があるんだ。そして、手前の小さい方が、正式な名前は忘れたけど通称タートルアイランド。残念だけど、どちらも今は立ち入り禁止なんだ。」
真っ青な空に、いくつものハングライダーが円を描いていた。美奈が一番好きなビーチは、ノースショアのワイメアビーチだ。ここは、サンセットビーチと同じくらいサーフィンの盛んなところで、世界中のサーファーたちが集まってくる。
「ね、見て!ウミガメ!」
砂浜から20メートルくらい先を2匹のウミガメが泳いでいるのが見えた。美奈は自由に泳ぎ回る魚やウミガメに何を感じているのだろうか・・・生きていて欲しいと恭平は思った。
 
 
14
12月31日。二人はワイキキビーチにいた。以前ロケで来たロイヤルハワイアンのマイタイバーでマイタイをすすっていた。目の前の砂浜には、新しい年をみんなと一緒に迎えようと、大勢の人たちが押し寄せていた。カウントダウンがはじまり、花火があがった。先の見えない新年をふたりで静かに祝った。
 
 
15
朝は、決まって7時に目が覚めた。打ち寄せる波の音と、小鳥たちのさえずりに起こされるのだ。首を起こすと窓一面に青空が広がっている。美奈の寝室は、壁を隔てたとなりにあって、同じ青い空が見える。二人は一緒に寝てはいなかった。もちろん、お互いにお互いが愛し合っていることは感じていたが、未だに手も触れ合うこともなかった。愛しているからこそストイックになっていたのだ。ただ、恭平はそれでいいと思っている。
キッチンの方からコーヒーの香りが漂ってきた。コーヒーは必ず100%ピュアのコナコーヒー。恭平が一番好きな豆だ。
ベッドから起き上がると朝食を作る美奈が見える。美奈は恭平に気づくと世界一の笑顔を作った。
「朝ご飯ですよ。」
朝食は、決まってラナイでとった。
美奈は、短パンにアバクロのTシャツ、そして素足だった。恭平も短パンだったが上は何も着ていない。美奈にプレゼントされたシルバーでサーフボードの形をしたペンダントを首から下げていた。もうすっかり日焼けした黒い肌に、銀色に映えるペンダントが気に入っていた。パンは、天然酵母を使って美奈が自分で焼く。目玉焼きは両面焼き。フレッシュなサラダに茹でたソーセージ。そして、コナコーヒーとサンシャインスペシャル。サンシャインスペシャルは、恭平が教えた。パパイアの身を半分と、絞ったオレンジ2個、バナナ一本、そして氷を入れてミキサーにかける。氷がカタカタ言わなくなるまでクラッシュさせると、ちょうど二人分が出来上がる。今で言うスムージーだ。
昔は、スムージーなんて言葉はなかったのだけど・・・。
「今度は、マウカモカの作り方を教えてあげるよ。」
「マウカモカ・・・?」
「最近は、スタバとかでも似たものが飲めるけど、一種のコーヒースムージーって感じかな。」
「ほんと、橘さんて何でも知っているのね。」
「ハワイのことならね。そうだ今日は、病院の帰りにカムボウルに行ってみるか。」
「カムボウル?」
「ボーリング場・・・」
「ボーリングするの?」
「ははは、そうじゃなくって、その中にカピオラニコーヒーというスタンドがあって、そこのオックステールスープが絶品なんだ。美奈はパクチーは大丈夫だっけ?」
「たぶん・・・でも、あんまり好きじゃないかも。」
「だったら、入れなきゃいい。その後に、リリハベーカリーでココパフを買って帰ろう。ココパフって一口サイズのシュークリームみたいなお菓子・・・ロコが長い列を作って買いに来てるよ。みんな大きな箱一杯買って帰る・・・あれじゃぁ、太る訳だな。」
「この間、食べたレナーズのマラサダもおいしかったね。」
「まだまだ連れて行くところたくさんあるぞ。」
そうして、食事が終わると、ホノルルの街に向かって車を走らせた。
 
美奈の診察が終わると、恭平は別の部屋に呼ばれた。窓からは真っ青な海とダイアモンドヘッドが一望できる。友人である田中の表情を伺った。恭平の顔には、あからさまに不安が表れていた。彼は学生時代から温和で、人に安心感を与える。日焼けしていたせいか、白い歯がさらに安心感を与えてくれて緊張がほぐれた。
「とりあえず、今は大丈夫だね。症状は安定している。本当は入院してほしいんだけど。」
「すまない。本人のためにも、そうすることが一番いいってわかっているんだけど、それとは逆に、1ヶ月、2ヶ月、ただ生き延びることがいいのかって、思うこともあるんだよ。どうせ死ぬのなら・・・」
「まだ、死ぬとは決まっていない。そうやって一日でも長く生きられれば、きっとドナーだって見つかるさ。」
「わかってる。俺だって美奈に生きていてほしいんだ。」
 
 
16
「今日は、なにかエスニックなヌードルが食べたいな。」
「じゃぁ、フォーなんてどう?」
「いいところ知ってる?」
「もちろん。」
恭平は、左手にサンセットを見ながら車を走らせた。ワイアラエブールバードに入って丘を上がりきった信号を左折した。パブリックパーキングに車を停めた。パーキングメーターにクォーターを1枚入れた。前に停めていた人が予定より早く出て行ったのだろう。まだ30分ほど残っていた。ハワイで恭平が一番好きなベトナム料理屋『ハレベトナム』。
「美奈、パクチーだめじゃなかったっけ?」
「大丈夫。橘さんが好きなもの、私も好きになりたいから。」
さすがに客はアジア系が多い。日本人の観光客もちらほらといる。恭平たちはフォーと生春巻きを頼んだ。
「アジアの料理を食べてるとね、やっぱりパクチーは必需品だと思う。それがだんだんわかってきた。」
「おっ、グルメになってきたかな?」
「そうよ、口がこえてきちゃって・・・どうしよう、もうおいしくないもの食べられなくなっちゃうかしら? 橘さん、私の料理、大丈夫?わたしの料理もおいしい?」
「ばぁか・・・」
「・・・?」
美奈の目から一筋の涙がこぼれ落ちた。
「やだ・・・私ったら・・・ちょっと、感傷的になっちゃった。」
恭平は、美奈の手に一瞬手を触れて引っ込めた。
「もう、疲れただろう。そろそろ、帰ろう。」
車に向かう途中、美奈が腕を絡ませてきた。恭平は、美奈の手にそっと手を重ねた。
 
 
17
美奈の病状は、あまり思わしくなかった。貧血を起こす回数が増えてきた。恭平は、美奈の状態がいいうちに約束した場所を早く訪れたいと思った。
「まず、ヒロからキラウエアに向かって、巨大なカルデラを見て、そのあと少しだけ溶岩の上を歩いてみよう。」
二人は、アロハ航空246便でハワイ島のヒロに向かっていた。今日は、美奈の様子を見て日帰りの予定だ。
「ハワイ島は、生まれたての島なんだよ。」
「いつ生まれたの?」
「たった100万年前。」
「・・・」
「一番西にあるカウアイが生まれたのが、だいたい600万年前だから、まだほんの赤ん坊。ハワイ島の海底には、今まさに島として産まれようとしている火山が、まだあるんだよ。」
「もうすぐって言ったって、何万年か何百万年後のことなんでしょう?」
「地球の年齢で言ったら、あっという間さ。」
二人は空港でレンタカーを借りて、食事をするためにヒロタウンに向かった。海岸沿いのパーキングに車を停めて、少し街を歩こうと恭平は美奈の肩に腕を回した。タイムスリップしたようなノスタルジー漂う街・・・恭平は心を落ち着かせてくれるこの雰囲気が好きだった。たぶん80歳は超えていると見受けられる日系のおじいちゃんがおばあちゃんと腕を組んで歩いていた。
「やぁ、こんにちは。」
と、すれ違う瞬間に声をかけてきた。
「こんちは、いいお天気ですね。」
「今に、雨が降るよ。ここいらは雨が多いから。気をつけてお行きなさい。」
ありがとうと言って、ふたりを見送った。
「なんか、すてきなご夫婦だったね。」
「ほんとだね・・・本当の日本人に会いたければ、ヒロに行きなさいって言われているんだ。日本に住んでる日本人より、日本人のハートを素直に受け継いだ人たちなんだ。」
もう一度彼らを振り返った美奈は、恭平の腕を引き寄せた。
そうやって、しばらく歩いていると、ケアベ通りとハイリストリートの角にあるおしゃれなイタメシ屋を見つけた。中に入るとシックなインテリアだった。パスタとピッツァをオーダーした。
「今日は、トマト味のパスタなのね。」
「その店のパスタが美味しいかどうかは・・・トマトソースを食べてみるとわかる。だから、はじめての店では、トマトソースにバジルだけのシンプルなポモドーロを頼むことにしているんだ。」
ハワイにしてはアルデンテに茹で上がっていて、結構うまいと恭平は言った。アメリカで食べるパスタは、とかく茹で過ぎで食べられたものじゃない。
 
1時半頃、一旦19号線を北に向かった二人はアカカフォールズにいた。緑豊かなハワイの自然に会いに行った。アカカ滝に向かう道の両端に様々な植物が生い茂っている。美奈がかわいい赤い花を拾った。
「それはね、エンジェルイヤリングって言うんだよ。」
「かわいい名前・・・ハワイの人たちって自然と向き合って暮らしているのね。そうでなきゃそんなかわいい名前なんて付けられないもの。」
そういうと、耳にぶらさげておどけてみせた。恭平は、すかさずシャッターを押した。
滝を見た後、19号を南に戻り11号線を走ってキラウエアに向かった。ビジターセンターの駐車場に車を停めた。
「わぁ、すごい!」
美奈は、思わず息をのんだ。
パノラマに広がるというより、3Dのライダーに乗ってる感じだ。自分たちがちっぽけな存在に感じると美奈は言った。自然の営みに今更ながらに驚かされるのだ。
このまま、宙に浮き上がり、クレーターの上を浮遊しそうな錯覚に陥る。
「寒くないかい?」
「だいじょうぶ。すごいね。この景色は、なんて言えばいいんだろう? 吸い込まれていきそう。」
美奈の目は、瞳が黒く輝いている。そして、白目の部分は、少し青味がかかっているくらいに白い。あらためて見ると、美奈の魅力は、目だと恭平は思った。その目が、感動の度に、大きく見開く。瞳がまるでスクリーンのように、感動を映し出し、記憶として正確に脳へ転送しているのだ。脳の中では急速に感動のデータベースが作成されている。
「あそこに見えるクレーターに火の女神ペレが住んでいると言われている。ペレは、気まぐれで短気で嫉妬深い神様でね・・・怒ると噴火するんだ。」
「ひどい!」
「しーっ、聞こえるよ。でも、いままで一人も噴火の犠牲になった人はいない。噴火の前にペレが姿を変えて噴火を知らせてまわったって言われているんだ。そんなに悪い神様じゃないのかも知れないな・・・」
恭平は、小声で話を続けた。
「昔、オヒアというハンサムな酋長がいてね、ペレが彼のことをいたく気に入ったんだ。それで結婚しようって迫ったんだけどオヒアには、思いをよせているレフアという女性がいたから断ってしまった。」
「それで怒って噴火したの?」
「そうじゃなくって、木に変えてしまったんだよ。ほら、あそこに見える溶岩のところどころに木がたくさん生えているだろ・・・あの木がオヒアだ。」
「かわいそう・・・」
「そうだな・・・それで、ペレの弟がそれじゃあまりにもかわいそうだと言って、二人がずっと一緒にいられるようにレフアを赤い花に変えた。だから、オヒアの木には、真っ赤なレフアの花が咲くんだよ。・・・美奈・・・泣いてるのか? ばかだな・・・」
「良かったなって思ったから・・・だってずっと一緒にいられるんだもん・・・」
恭平は、美奈にオヒアレフアの木を近くで見せてやりたくなった。オヒアレフアの森が広がるサーストン溶岩トンネルに移動して車を停めた。小鳥の声が聞こえてきた。
「ほら、見てごらん、あの赤い花がレフア・・・あ、今見えた? 右・・・」
「どこ?」
「もっと右・・・ほら、赤いやつ・・・」
「鳥?かわいい声で鳴いてるね。」
「そう、あれはアパパネと言って、レフアの蜜を吸って生きているんだ。その時オヒアレフアの雄花の花粉を雌花に受粉することになるから、また新しい生命が宿るってわけ・・・それを繰り返しているんだ。オヒアレフアは、アパパネがいなくなると生きてゆけない・・・そしてアパパネは、オヒアレフアがいなくなると生きてゆけない・・・お互いがいなくなるといきてゆけないんだ。」
「私が、アパパネ?」
「アパパネは、俺・・・一生甘い蜜を吸って生きていくんだ・・・」
「つまり、私がいないと生きてゆけないのね・・・あーかわいそうなアパパネ・・・」
いたずらっぽく美奈が笑った。
 
二人は、かつてあった海岸沿いの道に向かって走った。周りは溶岩だけのチェーンオブクレイターズロードという道だ。この辺りは未だにマグマが活動をしている。1983年から突如としてはじまった噴火は未だに続いている。
「ほら、もう少しすると、この道路は突然途切れて行き止まりになるんだ。流れてきた溶岩が住宅や道路を焼いて、埋め尽くしてしまったんだ。美しいカラパナの村が一瞬に。」
やがて、たくさんの人たちが溶岩の上を歩いている姿が見えてきた。車を停めた。サンドウィッチや水を売っている白いバンが停まっていた。ミネラルウォーターを1本買って、歩き出した。
「ほら、あそこを見て。」
「あれは、蒸気?」
「そう、真っ赤に焼けた溶岩が海に流れ出しているからね。」
しばらく歩くと、熱い熱風を肌に感じるようになった。
「見て!今溶岩の下に赤い炎が見えたの。」
「この下を溶岩が流れているってことだよ。」
「でも、随分先をあんなに人が歩いているっていうことは、このまま歩いて行っても大丈夫ってことよね。」
「そう・・・、でもこの辺で引き返そう。」
「こんなに大きな地球が一生懸命に生きているんだね。私の命って、ちっぽけだね。」
美奈の首筋を汗が流れ落ちた。
「でも、大事な命だ。」
恭平は、日本から持ってきた溶岩のかけらを、ポケットから取り出してそっと置いた。横を見ると美奈が十字を切って祈っている。
「女神ペレの怒りがおさまりますように、そして朝子さんが静かに眠れますようにお祈りしたの。」
天使の笑顔に、恭平はただうなずいて応えた。
 
 
18
今日の朝はゆっくりだった。波の打ち寄せる音も、小鳥たちも恭平を起こしてはくれなかった。ラナイに美奈の後ろ姿が見えた。木で作られたシンプルな椅子に深く腰掛けている。素足をテーブルの上に投げ出してmacと遊んでいた。
「起こしてくれれば良かったのに。」
「だって、気持ち良さそうだったから・・・私が、キスしたのも気づかなかったでしょ?」
「それは、もったいないことをした。」
恭平は、笑ってビーチの方に目をやった。すでに10時を過ぎているのだろうか、太陽が結構上まで上っていて、砂浜を歩く人々の影が短い。巨大なモンキーパッドがラナイに大きな影を作ってくれているので、ここはいつも風が通って心地いい。恭平はラナイにいるのが好きだ。ラナイには時間というものが存在しない。風を感じて、海を感じて、空の青さを感じているだけでいい。何もない無の空間に流れる充実感がいい。
「気分はどうだい?昨日は疲れただろう。」
「少しね。でも大丈夫。」
美奈は、決して疲れたとは言わない。言うと旅が終わってしまうことを知っているからだ。
だから、恭平は美奈のちょっとした変化も見逃さないように、常に気をつけていなければならなかった。
「今ね、ネットの掲示板に書き込みしていたの。」
「いつのまにそんなことしていたんだ?」
「私たちのこと、いろんな人が応援してくれているんだよ。」
美奈の書いた書き込みにいくつものレスがついている。
『未だに、手も握ってくれないなんて、わたしならがまんできない。でも、それは、彼があなたのことを本当に愛してくれているからなんだと思います。早く、虹の生まれる里で、虹に出会えるといいですね。』
「怒った?」
「そんなことで、怒らない。」
恭平は美奈の手に、そっと手を置いた。美奈は手を返して握りしめた。
愛している・・・の言葉は温もりで伝わる。
「あったかい・・・やさしくて、大きな手・・・はじめて手を握ってくれた。」
あわてて手を引っ込めようとする恭平の手を美奈は放さなかった。
美奈が、いたずらっぽく舌を出した。
「hawaii-fan.comっていうサイトなんだけど、みんなすごくやさしいの。本当にハワイが好きな人ばかりが集まってるコミュニティで、いろいろハワイ情報を教えてくれるんだ。私もハワイが大好きだから、会員になっちゃった。」
「そうか、みんなが美奈の味方をして、俺は孤立無援という訳だ。」
「そういうこと。」
 
 
19
ビッグアイランドから戻って3日後、恭平はマウイ行きの前に病院を訪ねた。やはり、美奈の病状が進んでいる。恭平は、マウイ行きを止めようか、決行するか迷ったあげく、ラナイ島の1泊を含めて5日間のタイムスケジュールを作成した。まずホテルハナマウイに4泊することにした。到着した翌日の朝は、ハレアカラに登る。3日目は、クジラに会って、4日目にラナイに渡る。ラナイへは、マウイからのフライトがなくなったので船で渡ることにしたが、帰りはアロハエアラインで直接ホノルルへ戻ることにした。
空港は、たくさんの日本人でごった返していた。特にマウイは人気の島なので、混んでいた。朝日本から着いたばかりの乗り換えなのか、みんな一様に疲れた顔をしている。恭平は、美奈のことが心配だったので、ファーストクラスを予約した。たかだか35分程のフライトだし、ファーストクラスといっても、重役の座るような大きなレザーの椅子というだけで料金に見合ったサービスがある訳ではない。しかもエコノミーでさえレザーだ。でも、マウイ行きは特に混みあっているので、一番前にゆったりと座れる方が、少しでも美奈への負担を減らせると思ったのだ。
太ももの裏に、レザーが冷たい。恭平は、毛布をもらって、美奈に渡した。機内サービスと言っても、コーヒーかグアバジュースが選べるだけだ。なんらエコノミーとは変わらない。寒いのでコーヒーを頼んだ。恭平は、周りを見回した。ファーストに座っているのは、ファーストでさえ狭く感じるような太った人たちばかり。ファーストクラスというよりファットクラスと言うべきだ。この椅子は、二人には大きすぎる。
カフルイ空港に着いた二人は、エイビスでレンタカーを借りた。北側の海岸通りをひたすら走る。そして東へ大きく回り込んでゆく。約80キロ強を3時間のロングドライブだ。というのも600カ所ものカーブがつづくので、アクセルとブレーキを交互にひっきりなしに踏まなければならない。しかも狭くて、対向車とすれ違うのも緊張する。道路脇には天然のグアバの木が延々と続く。たくさんの熟したグアバの実が落ちている。初心者マークのドライバーは景色など見る暇もないだろう、絶対に自分で運転しない方がいい。ただ、どうしてそうまでして行くのか。それは、ハナがヘブンリーハナと言われるくらい別天地だからだ。『天国のようなハナ』 ハワイは常に魅惑の言葉で二人を誘惑する。恭平はホテルハナマウイを過ぎてオヘオプールまで一気に走った。
「路傍のマリア像が右に見えるから、見逃さすなよ。」
「あ、あった!」
美奈は、あわてて十字をきった。
そこから約5マイルほど行くと、7つの聖なる池と呼ばれるオヘオプールがある。
「リンドバーグは、晩年をハナで過ごしたんだよ。この近くに彼の墓があるんだ。」
「そうなんだ・・・でも、ドラマチックな人生を送ったリンドバーグが、ここに住みたいって思った気持ち、よくわかる。」
この池より先は、もうレンタカーでは行けない。しばらく歩き回ってから、ホテルへ向かった。
恭平がチェックインしている間、美奈はホテルのブローシャーを見ていた。恭平に近づいてきて、小声で言った。
「ね、4泊で1300ドルもするよ。高くない?」
「4泊で1300ドルなら、安いよ。今日、俺たちが泊まる部屋は1泊625ドルだから。」
「え?そんな、もったいないよ。」
「それだけの価値があるってこと。見栄なんかじゃないんだ。もし、見栄をはるんだったら、1泊2000ドルの部屋を頼んださ。」
恭平は、またここへ来れるとは思っていなかった。前回泊まった時は、仕事だったので、プライベートでは、こんな贅沢は出来ないと思っていた。でも、人生を見つめ直すのに、これ以上のホテルがあるだろうか? その価値がここにはあるのだ。
「すごい、スパまで付いてるよ。」
海に向かって白い板張りのラナイが張り出している。椅子が2脚、その間に小さなテーブル。テーブルの上には花が飾ってある。そのラナイにジャクジがあるのだ。
「のんびりと命の洗濯をすればいいよ。後で星を見ながら、一緒に入ろう。水着は持ってきただろ?」
「あ、忘れた。じゃぁ、裸で入るしかないか・・・」
恭平は、美奈のおでこを指ではじいた。
「痛っ、ひどい!」
ハナは、東側に位置しているので、サンセットは見れない。だから、ワイレアやカアナパリから比べると日が暮れるのが早い。
夕食の後、空港近くで買ってきたカリフォルニアのワインを開けて、ジャクジに入った。二人だと狭い。たまにはスキンシップも必要だ。ジャクジはライティングされていて、お湯が青々としていて幻想的だ。美奈のきめ細かでつややかな肌が妖艶に恭平を誘っている。
恭平は、目を空に向けた。今日は満月、月明かりが平和に海面を照らしている。
「あれは、カシオペアだよ。あのWの形をした星座。」
「すごい、星のことも詳しいんだ。」
「そうじゃなくて、大学の時に、俺はヨット部にいてね、その時のヨットがカシオペアクラスと呼ばれるヨットだった。セールに、星でWの形にデザインされたマークが入っていたんだ。だから空を見上げると、カシオペアだけは、すぐに見つけることが出来る。世界中どこに行っても、空を見上げると、いの一番にカシオペアを探すんだ。」
「じゃぁ、私、死んだらあそこに行く。カシオペアを見つけたら、私のこと思いだしてもらえるように。」
「どうして、そうネガティブに考えるんだ。」
「違う、私にとってはポジティブだよ。死ぬことをちゃんと前向きに受け止めているでしょ。」
美奈の目から涙がこぼれ落ちた。
「美奈、俺が絶対に死なせない。死ぬなんて二度と言うな。」
ふたりが険悪なムードになりかけていたその時・・・シャワーが降ってきた。熱帯の雨は心地よい・・・どうせもう濡れているのだ、そのままジャクジに留まっていよう。雨が通過する間、二人はお互いにだまっていられたからクールダウンするにはもってこいだった。もう美奈の涙も洗い流されただろうと思ったその時だった。
「美奈・・・あれ」
美奈に後ろを見るように促した。
「何、あれ・・・?」
月明かりに照らされて半円の光の帯が宙に浮いている。夜なのに満月のせいで空が濃く青い。帯の外側には雲だろうか・・・薄いもやもやとしたものがあるけれど・・・あれは虹だ。
「多分、虹だ。」
「えっ? 夜なのに?」
「ムーンボウ・・・聞いたことはあったけど・・・初めて見た。」
「ムーンボウ・・・なんて素敵な虹なんでしょう・・・月から生まれた虹。」
白く控えめに光る虹は神秘的で、二人に何かのメッセージを残したかったのではないだろうか。そのまま月の使者が虹をつたって下りてきて、美奈を連れて行ってしまうんじゃないか・・・それが運命なら従わざるを得ないと恭平は思った。月のパワーは、潮の満ち引きを作るだけではなかった。
美奈はあわててビデオを回した。恭平もデジカメのシャッターを切った。
 
 
20
朝3時にドアを開けると前もって注文しておいたピクニックバスケットが置いてあった。藤のバスケットにあったかいコーヒーの入ったポットとオレンジとバナナ、それにサンドウイッチが入っている。できるだけの厚着をして15分後にホテルを出た。早めに着かないと駐車場がなくなってしまうからだ。
車の中では、美奈は黙って一心に空を眺めていた。昨夜の感動が、まだ心の中にあるようだ。優しい言葉をかける必要はない。恭平も黙っていた。
「ね、今見た?星が流れたの。」
美奈は興奮して窓を開けた。
「すごーい! 何この星。満天の星って、こういうこと?星空に吸い込まれそう。こんな気持ち、今まで体験したことないよ。」
「願いごとは言えたかい?」
「あ〜あまりにも驚いてそれどころじゃなかった。」
「また、流れるさ。」
「お願いすること考えてあったのに・・・だってひとつしかないもん。・・・あっ」
美奈は、目を閉じてぶつぶつと何か言っている。
「今ね、また流れたの。すごく長い尾をひいたから、今度はちゃんとお願いできたよ。」
よかったなと恭平は言った。
「ほんとに、星の降る山だね。」
 
5時頃に車を駐車場に入れた。あたりはまだ真っ暗だったが、すでにたくさんの車が停まっていた。二人は、寒さをしのぐために展望台の中に入った。外にいるよりはましだったが、とにかく寒く、恭平は美奈の状態が心配だった。ホテルから持ってきた毛布で美奈をくるんだ。
「もう少し、車にいようか?」
「ううん、ここにいたい。みてあの人。寝袋で寝てる。根性入ってるね。」
「ちゃんと起きれるかな?・・・しっかり、寝ちゃってるぞ。」
空が、白んできた。外に出ると眼下に広大な『月面』が広がっている。東の空の低い位置から、赤く燃えた太陽が顔をのぞかせるまで、思ったより時間がかかった。突然大きな拍手と口笛がまき起こる。感動の一瞬だ。パノラマに広がる雲海をかき分けて朝が生まれる瞬間だ。その昔、神マウイにつかまってしまった太陽が美奈の顔をピンク色に染めてゆく。冷たく澄んだ空気が少しづつ溶けてゆく。西日ならぬ東日が美奈の美しさを際立たせてゆく。恭平は、思わずビデオを回した。そして、美奈の後ろに回り込んで両腕をまわし、長く伸びた影とのコントラストが美しい『月面』をしばし眺めた。
「朝を迎えることが、こんなに厳かなことだったなんて・・・」
「そして、同じ太陽がどこかで、今まさに沈もうとしている。」
「太陽を見るって生きている証なのよね。朝、太陽を拝んで、太陽が沈むとともに一日を終える。ただ、それだけのことに幸せを感じて生きていけたら・・・」
二人が太陽のサンライズに感動しているこの時間に、この太陽はどこかに夕日を作って、誰かを感動させているのだ。人の感動は、コンサート会場のウエーブのように、太陽によって繋がっている。
「来てよかったね。」
「うん。」
気がつくと、太陽は夜から朝への分岐点を通過してすっかり所定の位置についていた。
「あ、さっきの人起きたかしら?」
行ってみると、人でごった返す展望台の片隅で、高いびきをかいてまだ眠っていた。
 
 
21
ホェールウォッチングも朝がいい。二人は、今日も早起きしてマアラエラ港に向かった。白くペンキで塗られた木製の小さな小屋が案内所だった。たくさんのパンフレットが整然と並べられている。太った白人の女性が手慣れた様子で丁寧に説明をしてくれる。恭平は、そこで1時間後の船を予約した。もし万が一、クジラを見ることができなくても、別な日に再度乗せてくれる保証付きだ。ただ、この時期にクジラが見られないことはほとんどない。乗船までの時間、海が見渡せるカフェで軽い朝食をとることにした。天井一杯まで窓がある気持ちのいいカフェだ。その窓にウエイターたち数人が集まってきた。一人が恭平達を手招きしている。彼らが見ている方を見ると、2頭のクジラが見えた。美奈はビデオを回し始めた。
1時間後に、乗船を開始した。船はカタマランと呼ばれる双胴船だ。二人は操舵席の前にあるデッキに陣取った。日本のツアー客がたくさん乗っている。ということは、日本語のガイドがいるということだ。案の定、英語と日本語で交互に解説が始まった。クジラの種類はザトウクジラ。夏の間アラスカで暮らしている彼らは。出産、育児、交尾をするために、この暖かいハワイにやってくる。その距離約4000マイル、キロに直すと約6400キロだ。広大な海で壮大な一生をかけたドラマが繰り広げられるのだ。
大きな歓声が上がった。右を見ると200メートルくらいのところに親子クジラが並んで泳いでいる。しかし、すぐ潜ってしまった。美奈は興奮している。
「こんなに近くで見られるなんて、すごい!」
ガイドがすかさず、今のは親子で、その横をエスコートと呼ばれる若いクジラがガードしていたと説明した。一度潜るとしばらくは上がってこない。船長は、方向を変えた。美奈はあちらこちらに目をやるが、クジラらしきものはいない。すると、ガイドが右1時の方向と叫ぶ。客が『テールアップ』とクジラに要求する。
「テールアップって?」
「クジラが潜る時に、シッポがTの字に上がるんだよ。クジラの象徴的な姿。それを要求しているんだ。ビデオに撮れるといいんだけど。」
「私、絶対に撮る。」
前方にクジラが現れた。
「テールアップ!」
今度は、それが聞こえたかのようにテールアップした。客から拍手が起きる。
「撮ったよ!見て!」
再生してみると、ブレてはいたが確かに映っていた。恭平はうれしかった。何よりも美奈が輝いている。この大自然の崇高な営みをどう捉えているのだろう。恭平は、美奈の脳のデータベースに蓄積されてゆく思い出が、過去の不幸な思い出と入れ替わるまで、一緒にいたいと思った。
それから、二人は何頭ものクジラに出会った。親子もいたし。恋人同士?あるいは、ナンパ?・・・そんなカップルクジラもいた。
エンジンが止まった。しばらくここで休憩すると言う。先頭にあるステップが降ろされた。すると外人たちは、着ているものを脱ぎだし、水着になった。そして、次々に海に飛び込んでゆく。その度に歓声が上がる。はやしたてられ、しぶしぶ飛び込むやつもいる。こういう時に日本人は絶対に参加しない。
「ね、私たちも行かない?」
「だめだ。急激な運動は止められているだろ?オレを困らせるな。」
「生きている実感を味わいたいの。感じたいの、この一瞬を。」
美奈は、やりきれないもどかしさを感じていた。
「・・・わかった。でも、俺一人で行く。ちゃんと、ビデオ回しておけよ。」
恭平は、着ていたTシャツを脱いで美奈に渡すと、階下に下りた。デッキの先まで来ると、美奈に向かって手を振った。美奈もビデオを回しながら手を振った。はじめて飛び込む日本人だ。みんなからも注目されている。上から覗き込むと3メートルはある。目の高さからだと5メートル弱。一気に頭から飛び込んだ。足が離れた瞬間、スローモーションで落ちてゆく。腕を前にのばし、そして手を組んで手のひらを前に向けた。着水は完璧。海面に顔を出すと拍手喝采が起こっている。少し照れたように、手を振って応えた。美奈を見るとガッツポーズで喜んでいた。
「すてき。美奈のヒーローさん。」
戻ると美奈はそう言って、恭平のほっぺたにキスをした。ハワイでは普通の挨拶だ。なんてことはない。
2時間半のクルーズが終わって、港に戻った二人は、ラハイナのチーズバーガーインパラダイスでランチをとった。海に面した席に案内してもらった。目の前にラナイ島が見える。
「明日は、ここからラナイに渡るんだ。船で50分くらいかな?」
「明日は、どんな感動に出会えるんだろう?楽しみ。」
美奈は、今日出会った出来事を延々と話し始めた。よっぽど美奈の脳に、強烈な印象として刻まれたに違いない。
そんな美奈を、恭平はボーッと見つめていた。
「あの・・・もしもし? 穴が開いちゃうんですけど?」
「あ、ごめん・・・考え事してた。」
「もっと素直にならなきゃだめですよ。心に思っていることは、言葉に出して言わないと後悔しますよ。」
美奈は笑って言った。
「今日は、きれいだなって・・・」
「そう、それでいいの。」
ラハイナもまたノスタルジックなオールドタウンだ。でもヒロとは違ってスポットライトをあてられたように明るい。あまり雨も降ることがない。最近は、ワイレア地区が主人公の座を奪ってしまったが、今でもここが一番マウイらしい場所である。ラハイナ、ワイレア、カアナパリ、ハナ、カパルア、そしてサーファーに人気のキヘイと、ホテルライフも遊ぶことにもことかかないマウイが、ハワイ諸島の中で一番人気のある島だということは納得できる。
その後二人は、ラハイナでショッピングをしたりして時間を過ごした。美奈が、かわいいアクセサリーの売っている店の前で立ち止まった。
「これ、かわいい!」
クジラの親子がデザインされたシルバーのリングだった。
恭平は、美奈のためにそれを買った。
「ね、つけて。」
と言って、左手を差し出した。
「違う、薬指。」
恭平は、反論もせずに美奈の薬指にリングをはめた。
「やったぁ!やったぁ!」
と、飛び跳ねて、おおはしゃぎ。
「ほら、あんまりはしゃぐと体に悪いぞ。」
後ろを向いてしまった恭平の背中に向って、ベロを出して悪態をついている美奈の姿が、しっかりとウインドーに映っていた。
 
 
22
ホテルのフロントで、美奈が見知らぬ男に声をかけられた。
「佐伯さんの、お嬢様ですよね?」
「・・・はい。」
「私、お父様には大変お世話になっておりまして、権藤ともうします。」
名刺には、取締役社長とあった。
「お嬢様がいなくなったっていう噂を聞いておりましたが、間違いだったんですね。こうしてお元気なお姿を拝見して安心いたしました。」
「そうなんです。いつもは旅行に出かけても気にもしないのに、今回は大騒ぎをして、私も驚いているのです。本当に、皆様にご心配をおかけしましてお恥ずかしい限りです。申し訳ありません。」
その場は、うまく切り抜けたように見えたが、夜中過ぎに電話がかかってきた。
「どうしたの?今になって心配するなんて・・・大丈夫だから、私は元気だってば・・・もう、放っておいてよ・・・こちらの病院で診てもらっているから・・・どうせ自分は来ないんでしょ・・・明日はもうここにはいないよ・・・家に帰る気はないの・・・どうせ世間体を気にしてるだけなんでしょ、もう切るよ。」
美奈は、それから眠れなくなったらしく、ラナイの椅子に座った。ジャクジから放たれるライトで、水の模様が美奈の体にゆらゆら揺れている。
「眠れなくなったか?」
「ごめんね、起こしちゃって」
「いいんだ。」
「誰か、私を追ってくるかもしれない。捕まったら、連れ戻される。私絶対に帰らないから。今さら、父親ぶったって、絶対にあの人のところには帰らないから。」
「俺には、父親の気持ちもわかるよ。許せる気持ちがあると、もっと楽になれると思う。責めているだけでは、何も変わらないよ。」
「だって、お母さん自殺したんだよ。お父さんのせいなんだよ。どう、許せって言うの?」
「もちろん、簡単なことじゃない。今すぐじゃなくていいんだ。そのためにハワイに来たんだから・・・」
 
 
23
たった50分の船旅も、美奈にとってはきつそうだった。ただでさえ疲れやすいのに昨夜は一睡もしていない。波頭に当たる度に、船はバウンドを繰り返した。
「大丈夫か?」
「なんか、恋の逃避行って感じになってきたね。」
「そんな冗談が言えるようなら、まだ大丈夫だ。」
ラナイは、もともとパイナップルアイランドと言われた島だったが、今はパイナップル畑は閉鎖されている。しかし、ラナイ島はハワイ最後の楽園なのだ。船を降りるとレンタカーなど借りる必要はない。船着き場、空港、そして二つのホテルと二つのゴルフ場はシャトルによって結ばれているのだ。今日恭平は、山側のホテル、ロッジアットコエレに予約を入れてあった。昔はパイナップルがたくさん実をつけていたであろう広大に広がる畑を見ながら、シャトルバスに揺られた。
ロッジアットコエレは、コロニアル風の外観なのに、一歩中に入るととてもシックな佇まいで、威厳をもって堂々としていた。ハワイというよりカナダと勘違いしそうだ。ここは、恭平にとって究極の隠れ家。だから誰にも教えたくないと思っている。ロビーにある二つの暖炉では、パチパチと薪が燃えていて、そこに座っているだけで至福の時を過ごせるのだ。
二人が通されたのは、とても落ち着く部屋だった。統一された花柄のクッションやベッドカバー、そしてカーテンは、カントリー調のしつらえだ。外には小さなラナイがあってテーブルと椅子がある。
「朝はここで、食事しようね。」
そこから見える庭は、よくデザインされたイングリッシュガーデンという感じだ。例えばカナダのビクトリア島にあるブッチャートガーデンズのような。貴族になった、そんな気分にさせる。二人は、外を散策した。ホテルの前に馬が放牧されている。美奈が、むしった草を柵越しにやると、近づいてきてむしゃむしゃと食べた。
「かわいいね。ほら、もっと食べて。」
「ここの馬たちは幸せだな。優雅でのんびりとしていて・・・」
「本来、こうあるべきなのにね、動物も人間も。」
「昨日までと違って、僕たちものーんびりだな。」
「今日は、何かするの?」
「なーんにもしないよ。散歩して、お茶をして、優雅にディナーを楽しむだけ。」
「すてき。」
夜になって、二人はドレスアップした。そうしないとレストランに入れないからだ。美奈のドレスは素敵だった。
「惚れ直した?」
「惚れ直すという言葉は、おかしいよ。もともと惚れていた場合に使うんだよ。」
美奈は、口をとんがらせている。
「だから、惚れ直したんじゃなくて、惚れた・・・かも?・・・と言うべきだろうな。」
「ほんとに、素直じゃないんだから・・・でもそこが好き。」
「美奈は、簡単に好きって言い過ぎる。」
「だって、本当だもん。出会った時から、ずっと好きだったよ。橘さんは?」
「ま、好きって言う定義は、何なのかによるけど・・・俺の勝手な定義によると好き・・・と言えるんじゃないかな。」
「うんうん、それで?」
「以上。」
「えーつまんない!」
そこに、タイミングよくレッドワインが届いた。グラスをぐるぐる回して、鼻を近づけて香りを感じて、一口口に含んで舌の上でころがす。
儀式が終わる頃には、美奈もすっかりさっきの話題を忘れてしまっていた。
「周りを見てみて。素敵な老夫婦が多いだろ?」
美奈がぐるりと見回す。
「リタイアして、残りの人生を楽しむためにやってきた裕福な人たちなんだ。」
「みんな、幸せそうな表情をしているよね。おたがいにいい夫婦を続けてこられてありがとうって、顔をしてる。そうやって、選ばれた夫婦だけが、ここに来ることを許された人生の到達点なんだね。」
「俺たちも、また来れるかな?」
「来たいよ。また、連れて来て。」
「いい子にして、ちゃんと病気を治したらな。」
「いい子にしてるじゃない。」
「だから、病気をちゃんと治そうな。」
「わかってる。」
 
 
24
恭平は、5日も病院に行けなかったので美奈の病状が心配だった。
「ここに、入院させられないんだったら、そろそろ、日本に連れて帰った方がいい。貧血もひんぱんに起こっているはずだ。このままだと慢性期どころか、一歩進んで急性転化期に進んでしまう、なんてことになりかねないんだぞ。」
「気がつかなかった・・・そんなに悪いのか。」
「彼女は、わかっているはずだ。」
「・・・わかった。でも、もう少し待ってくれないか?」
「待つって何を?」
「カウアイに連れて行くって約束しているんだ。そもそもそれが、旅の目的だったから。」
「信じられない。何を考えているんだお前は!そんな無茶を医者として認めることが出来ると思うか・・・入院させないで、こうやって出歩かせる事自体問題なんだ。それに、週に2日は通院させると約束したから、目をつぶっているんだぞ。」
「わかってる。約束を破ったことは謝る。あと1週間、いや3日でいい。」
「そんな危険なこと、俺は許可できない。」
「・・・わかった。・・・お前の言う通りだ。」
「そう言えば、さっき彼女の父親から電話があった。彼女がここに来ていること、知らなかったぞ。随分方々を探したそうだ。親にも知らせないで連れてくるなんて・・・」
語気の強い田中の口調が少しだけ和らいだ。「いろいろ事情があったんだ。とにかくできるだけ早く連れて帰るよ。」
「治療代は、彼が払うそうだ。」
「そうか、どちらにしても、あまりここにはいられないな。」
 
 
25
「美奈、もう帰ろう。ムーンボウを見たんだ、それで十分だろ?」
「わかってる。本当に来てよかったよ。でも、このままでは帰れない。だって、もう二度と来れないんだよ。虹の生まれる里に連れてって! 後、少しじゃない!」
「治れば、必ずまた来れるよ。だから、一度日本に帰って、また来よう。」
「もう治らないって、わかっているくせに・・・帰ったら、もう戻れないよ・・・」恭平は、連れて行くべきじゃないことはわかっていた。それから二日間というもの、美奈とも随分話し合い説得も試みた。当然のことながら美奈の決心はかたかった。
 
三日後、二人はAQ109便のリフェ行きに乗った。10年前、ハリケーンイニキによって壊滅したかに思われたカウアイも、完全に復活していた。ただ、ブルーハワイで有名になったココパームスリゾートは閉鎖された。ウエスティンカウアイも名前をマリオットに変えた。でも、ココパームスリゾートのパームツリーは、今でも健在だ。恭平は、今でもガーデンアイランドと呼ばれる美しい島、カウアイが大好きだった。
今回の目的ははっきりしている。七色に輝く虹の誕生を見に行くのだ。それに、美奈に負担をかけたくない。だから、寄り道はしない。シダの洞窟にも行かない。ポイプビーチにも行かない。ミニグランドキャニオンと言われているワイメア渓谷にも行かない。恭平は、ひたすらハナレイに向かって運転した。二人は、ハナレイの手前にあるプリンスビルリゾートに宿泊する予定だった。パヒオというコンドミニアムを借りていた。左にグアバカイプランテーションが見えて、右にプリンスコースというゴルフ場が見えるともうすぐだ。上りだった道が下りになる。そうすると、右に洗練された広大なリゾートが見えてくる。ここは、JALと三井不動産などが共同で出資して開発されたのだが、幸いなことにあまり日本人を見かけない。敷地内に入ってしばらくすると右側にパヒオの看板が見えた。29Cそれが、二人の借りた部屋だった。70平米ほどのラナイがついている。ラナイだけで約20坪だ。ラナイに出ると目の前はゴルフ場のフェアウェイで、その向こうには海が広がる。部屋には主寝室に、キチネット付きのゲストルーム、そしてそれぞれにジャクジがついている。
「素敵な、キッチン。あなた、今日は何を召し上がる?」
「ばか。」
「もう、つまんない。」
「あそこに切り立った山が見えるだろ?その裏がナパリコースト。」
「あれが?」
「そう、あの麓までたくさんのビーチが続いているんだ。『南太平洋』というミュージカル映画が撮影されたルマハイビーチもある。」
「ね、虹はどこで見れるの?」
「どこでもさ。」
「え、どこどこ?」
「雨が降らないと見れないさ。」
「あーん、雨、早く降らないかなぁ・・・世の中には、私みたいに雨を待っている人もいるんだよ。」
「あわてない、あわてない。だから、いつでも虹に出会えるように、なるべく外にいた方がいい。」
ラナイにデッキチェアを並べて二人で青い空を恨めしそうに眺めていたが、雨雲が現れる様子はどこにもなかった。
夕方も5時半になったので二人は、プリンスヴィルホテルに向かった。6時半を過ぎた頃から始まるサンセットショウを見るためだ。車でたった5分の道のりだが、ここは早めに来ないと駐車場が一杯になる。海の真ん前に車を停めてしばらく待っていた。やがてたくさんのカップルが集まりだした。手をつないでいるもの、抱き合っているもの、やがて落ちる太陽に何を思うのだろう。みんな西日を真正面から受けて一斉にバリハイの方向を見ている。影が長く伸びている。芝生の陰も伸びて鮮やかなグリーンを際立たせる。太陽は、バリハイの付け根の少し右側に沈む。二人も車を降りた。バレイパーキングの車置き場になっている広い芝生の上を崖ぎりぎりのところまで歩いていった。足下の可憐な黄色い花がとてもきれいだ。海がきらきらと銀色に輝いている。数隻のヨットのシルエットが見える。やがて落ちるであろう水平線には雲がある。恭平は、今までに何回もここを訪れたがそこに雲がなかったことは一度もない。でもその雲が重要なのだ。雲はあった方がいい。恭平は、少し前に出て美奈の写真を撮った。西日に浮かび上がった美奈はきらきらと輝いていた。隣にいたアメリカ人の老夫婦が一緒に写真を撮ってあげましょうと申し出てくれた。バリハイの方ではなく、西日を浴びた写真を一枚お願いした。もちろん恭平も二人の写真を撮ってあげた。ハワイでは当たり前の交流ができあがる。太陽が雲に隠れると雲の輪郭に沿ってダイアモンドの輝きが現れる。太陽は水平線に近づくとあっという間に海に呑み込まれる。たくさんの人の思いや願いを抱えて消えていった。恭平は、沈んだあとの余韻が好きだった。沈んだ太陽は空の色、雲の色を変えていつまでも楽しませてくれる。赤くなり、そして紫色に変わり濃く赤みを帯びたブルーになる。少しずつ星の瞬きが参加し始める。その間その場を離れる者はいない。恭平は美奈を後ろから抱きしめてそっとキスをした。
「愛してる。」
長い、長いキスだった。
 
次の日の朝、二人はまずハナレイの街に行くことにした。途中のルックアウトに車を停めて、ハナレイの街を眼下に眺めた。目の前の山にいく筋もの滝が見える。
「いくつ滝を数えられる?」
「えっと、4つかな?」
「だめだ、それじゃ出発できない。・・・ここの言い伝えに滝を17数えてから出発しなさい、というのがあるんだよ。」
「うそぉ、どうしよう?」
「ははは、俺だって4つしかわかんないよ。」
「もう!」
「前に、あの山をバックに虹を見たことがある。」
「え、ほんと?」
「大丈夫、必ず見れるから。」
いくつかのカーブを曲がり、ワンレーンブリジを渡るともうすぐハナレイの街だ。川沿いに素敵なレストランが立ち並ぶ。
「あの木、見て・・・面白いね。トランペットのような花が逆さにぶら下がっている。」
車を降りてみた。香りがいい。
そこへ散歩をしていた女性が話しかけてきた。
「今日はいい天気ね。」
島の人たちは、本当に気さくな人が多い。
美奈が尋ねた。
「この木は、なんという木なんですか?」
「エンジェルトランペットって言うの。」
「えっ本当?・・・イメージ通りの素敵な名前!」
「朝早く来て、隠れて見ていてごらんなさい。エンジェルたちが集まってきてトランペットを吹いているから。」
そう言って彼女は、笑いながら行ってしまった。
「夢のある素敵なお話ね。」
「きっと、他にもそういう話がたくさんあるんだろうな、ハワイには。」
 
街を過ぎていくつものワンレーンブリッジを渡ってゆくと右側にビーチが点々と現れては消える。一番どん詰まりがケエビーチという、シュノーケリングに最も適したビーチがあるのだが、恭平はとっておきのビーチを知っていた。少し山を登ったあたりの崖っぷちに何台かの車が停まっている。そこは、ビュースポットという訳でもない。好奇心で獣道のように足で踏みしめられた跡を辿って下りてみて見つけたのだ。美奈を背中におぶってゆっくりと下りた。南国特有の木々の中をくぐり抜けると、真っ青な海と白い砂浜が目の前に広がった。まさしくそれは、プライベートビーチだ。それでも今日は5組ほどが日光浴をしていた。ここならゆっくりと過ごせる。
「すてき。誰もいなければ、貸し切りなのにね。」
美奈がサングラスをはずして言った。
「これくらい人がいる方がいいんだよ。何かあっても安心だしね。」
恭平は、美奈にだけ影がかかるようにして、木の下にシートを敷いた。もう一度車に戻ってクーラーボックスを持ってきた。氷とミネラルウォーター、そして軽い食事が入っている。お昼頃までそこにいたら、コンドに戻るつもりでいた。美奈がローションを恭平の背中に塗った。マッサージをうけているみたいで気持ちよかった。強い日差しを相殺するように、風が肌をかすめて心地よかった。恭平はそのまま眠ってしまった。目が覚めたとき、時計を見ると1時間が過ぎていた。隣に顔を向けると、美奈が苦しそうにうずくまっている。顔から血の気が引いていた。
「どうした!具合が悪いのか?」
「大丈夫。大丈夫だから。ちょっと、めまいがしただけ。」
恭平は頭が真っ白になった。よりによってこんなところで。カウアイで大きな病院と言えば、空港近くにあるウイルコックス記念病院だけだ。ここから飛ばしても2時間はかかる。それに、今美奈を動かすことが正しいのかさえもわからない。恭平は、美奈を連れて来たことを後悔した。
とりあえず、美奈が落ち着くのを待って、車に戻った。
「美奈、具合はどうだ?」
「ずいぶん、よくなった。重かったでしょ、ごめんね。」
「もし、状態がいいようなら、これ以上悪くならないうちに、明日ホノルルに戻ろう。いいね?」
美奈は、黙っている。恭平は美奈の返事を待たないでエンジンをかけた。
美奈の背もたれを、後ろに目一杯倒した。
地元のラジオ局KINEにチューニングされたラジオからは、軽快なハワイの音楽が流れている。明るい曲がせめてもの慰めだ。
部屋に戻るとすぐに病院に電話をかけた。美奈の状態を伝えた。とりあえず今出来ることの指示を受けた。やはり明日戻った方が良さそうだ。
美奈は、ラナイのデッキチェアに休んでいる。
「サンシャインスペシャルを作ったよ。」
美奈は黙って受け取った。
「わたし、帰りたくない。」
「美奈、もう帰ろう。せっかく楽しみにしていたのにかわいそうだけど、もうあきらめよう。美奈に何かあったら、俺は一生十字架を背負って生きていくことになる。連れてきたこと、後悔させないでくれ。」
「そんなことない。こんな経験、一人じゃ絶対にできなかった。感謝してる。わがままだってわかってるの。生きていたことを後悔させないで、お願い。もう少しいさせて、虹が生まれる瞬間を見れるまでがんばるから。」
美奈は、懇願するような目で恭平を見て、そして手を強く握りしめた。恭平は、答えなかった。
美奈は、体を半分起こしてあたりを見回している。恭平は、背中に手を回して美奈の体を支えた。一回り小さくなったような気がする。諦めさせることが出来なくて、ずっとそばに付き添った。
いつもは、山に黒い雨雲が必ずかかっているのに、今日も雲一つない。昨日、今日と雨が降る兆しはまったく見られなかった。
やがて、空が紫色に染まっていった。これでもう今日は、虹は出ない。日焼けした美奈の顔に西日があたって、一筋の涙が光った。
 
 
26
朝、二人はすさまじい雨の音で目が覚めた。雨が窓をたたき、屋根をばたばたと打ち付けている。時計は7時を過ぎたばかりだ。カーテンを開けて外を見てみると、海の方には濃い青空が広がっている。泣きすぎて目を腫らした美奈も起きてきた。目に見えて辛そうだ。恭平は、美奈の体を両手で支えた。そして、二人でラナイに出た。プーンと南国特有の雨のニオイがしている。少し空気も湿った感じだ。ちょうど頭の真上に、低くて真っ黒い雨雲がある。すごい勢いで通過してゆく。雨は5分ほどで止んだ。モノトーンの景色に色がつき始め、フェアウェイの芝生に木の影がくっきりと見え始めた。溶けた蒸気が地中から空に向かって舞い上がってゆく。木陰に雨宿りしていた色鮮やかな小鳥たちが一斉に飛び立つ。一瞬の風が雨の残り香を連れてゆく。きらきらと宝石のように輝く木の葉の滴が光を放って落ちてゆく。
「虹!・・・二つあるよ!」
美奈が、指差した方向に鮮やかな虹が二つかかった。双子のダブルレインボウだ。
「生まれる瞬間を見たよ。ちゃんと、七色に見える!こんなにきれいな虹を見たの、はじめて!」
美奈は興奮している。今までで、最高の表情をしている。そしてまた、涙がこぼれた。
「なんだよ、美奈。笑うのか、泣くのかどっちかにしろよ。」
恭平も泣いていた。
「私の涙から虹が生まれたんだよ!それも双子の虹だよ・・・私、幸せだったよね。」
「違う、これから幸せになるんだよ。」
恭平は、たまらず美奈をだきしめた。美奈の嗚咽が首の辺りから伝わってくる。
「私、生きたい。もっと生きたい。」
美奈の目から大粒の涙がこぼれ落ちている。
恭平はなんて答えていいかわからず、涙が止まらない。
「生きるんだ、美奈・・・俺のために生きてくれ・・・」
美奈を抱いている腕に思わず力が入る。
「もっと生きたい。もっと生きて、もっと愛されたい!」
恭平は、美奈を抱きしめてやるしかなかった。そして泣いているしかなかった。そして百年分の涙を流した。
美奈と恭平が流した涙は、蒸発して空に舞い上がり、川や木々や草花から発散され蒸発した水分と合流して雨となって落ちてくる。それは、また地中に入り木々や草花を育てるのかもしれない。あるいは飲料水として人間の体内に送り込まれるのかもしれない。滝となって川となって海に送り出された水がやがて大きなエネルギーとなりクジラを連れてくるのかもしれない。そしてまた巡り巡った水は雨となって虹を作るのだ。ハワイは、原始の時代そのままに生い茂っている苔やシダ、未だに流し続けている溶岩、風や海流が作った起伏、色鮮やかな鳥たち、クジラの壮大な子育て、そしてなによりも優しい人たち・・・地球規模の生命の営みを通して生きることの大切さを教えてくれた。
 
 
27
カウアイから戻った翌日に、二人は帰国の途に着いた。出発までの間、美奈を休ませるために、サクララウンジで過ごした。美奈は、愛用のMacでネットにアクセスしていた。
「また、何か書き込んでるのかい?」
「そう、みんな、私が虹を見たか気にしてくれているから報告しておかないと、と思って。」
「一躍人気者になっちゃったんだね。」
「そうじゃないけど、確かにたくさんの人に支えられてる。がんばらなきゃね。」
恭平は、今回の旅行は間違いではなかったと思った。はじめは、いつ危険な状態に陥るかわからない美奈を、こうして連れ回す罪悪感に悩み、そして、健気な美奈の愛も拒否し続けてきた。しかし、ハワイの大自然は、美奈を変えた。地球が生きていることを知り、宇宙が生きていることを知り、クジラの営みに接することにより、生きることのすばらしさを知った。ハワイは、美奈に生きることの意味を与えた。それが証拠に、美奈は、『死にたくない』とは言わずに、『もっと生きたい』と言ったのだ。この意味は大きい。
 
タイムマシンJAL071便は、眼下にワイキキを見下ろしながら離陸した。この旅で二人の未来は変わっただろうか。
機内では、美奈は自分で撮影したビデオを見ていた。2時間テープ3本はあるだろう。感動の一瞬一瞬が記録されているのだ。
「帰ったら、編集しなきゃな。」
「編集はしないの。もったいなくて、どこもカットするところがないから。」
「でも、もし人に見せるんだったら、こんなに一杯あったら見るの大変だよ。」
「うーん、そうかぁ・・・」
「じゃぁ、俺が編集しておいてやるよ。タイトル入れたり、BGM入れたり。」
「すごい、プロが編集してくれるなんて、感激!」
「業界じゃ俺、高いんだぜ。でも、特別にただにしてやる。」
「やった!」
恭平は、美奈からテープを預かり、バッグにしまった。
「私、帰ったら父に会おうと思ってる。許した訳じゃないけど、努力してみる。もっと自然体で生きてゆけるように、自分を変えなきゃって思うの。だって、人を変えることはできないんだから、自分が変わるしかないじゃない。」
「そうだな、それがいい・・・もう、疲れただろ。少しは寝た方がいい。」
恭平は、毛布を首までかけてやった。しばらくすると、小さな寝息が聞こえてきた。
成田までの8時間は、あっという間のフライトだった。通関もスムーズに終えて、荷物も受け取った。車を預けていたので、パーキングサービスに迎えに来るように電話を入れた。
「寒くないかい? 2、3分で来るから、もう少しがまんして・・・」
そのときだった。見知らぬ男が声をかけてきた。
「お嬢様、お久しぶりです。お迎えにあがりました。あちらでお父様がお待ちです。」
彼が向いた方を見ると、50メートルほど後ろに黒塗りのリムジンがエンジンをかけたまま停まっていた。外光を遮るためなのか、単に外から見えなくするためなのか、窓には黒いシールが貼られていて父親の姿は見えなかった。ただ、姿は見えなくても強烈な存在感を感じた。
「私は帰らない。」
美奈は、そう言い放って恭平の腕をぎゅっとつかんだ。美奈は、当然、恭平が連れて帰ってくれるものと信じている。
「美奈・・・お父様と一緒に帰った方がいい。」
「えっ?」
美奈は、恭平の言葉に耳を疑ったに違いない。
「帰るというより、ちゃんと病院に行って治療に専念しなきゃ。」
「でも、橘さんと離れたくない!」
「俺は、どこにも行かない。毎日美奈に会いに行く。だから、心配するな。俺のためにも、早く病気を治してくれ。」
「約束してくれる? 毎日病院に来てくれる・・・?」
美奈は、ここで別れたら、一生会えないとでもいうような、不安な顔をして何度も念を押した。
「当たり前じゃないか、約束する。」
美奈が恭平の腕を放したところを瞬時に見てとった男は、美奈からトランクを受け取った。美奈が男のあとを、後ろ髪を引かれながら着いてゆく。美奈は、不安そうに何度も恭平を振り返った。男が後ろのドアを開けた。美奈はずっと恭平から目を離さずに乗り込んだ。目の前を車が通過するとき、半分下ろされた窓から見えた美奈の不安そうな顔は一生忘れることはないだろう。
そして、恭平だけがその場に取り残された。
 
 
28
飯島治子から、連絡があった。
「さっき、美奈の母親と電話で話したわ。彼女、しばらく都立中央病院にいたらしいんだけど、おとといアメリカの病院に移されたんだって。向こうでドナーを探すしかもう方法はないって言ってた・・・」
「どこの病院?」
「教えてくれないの。とにかく治療に集中させたいからって・・・ね、あなたは大丈夫?」
「俺は、大丈夫だよ。美奈が心配なだけだ。連絡ありがとう。」
恭平は、美奈と空港で別れて1週間、放心状態だった。美奈の親には、面会を拒絶され、毎日面会に行くと約束したにもかかわらず会うことは叶わなかった。
仕事の依頼も断り続け、自宅に閉じこもった恭平は、美奈から預かったビデオを見て毎日を過ごしていた。美奈にとって、これは宝物のはずだ。早く編集して、美奈に届けなければならない。そう思った恭平は、テープをすべてベーカムにダビングした。それを、アビッド(編集ソフト)で編集するのだ。6時間分もある。大変な作業になるかもしれない。そこには、美奈が感じた感動が一杯映っている。恭平もたくさん映っている、恭平が撮った美奈の笑顔も映っているのだ。それから3日間、恭平はビデオの中の美奈とずっと一緒だった。
 
サンディビーチのラナイで美奈が朝食を食べている。美奈が手すりに置いたパン屑を、小鳥たちがついばんでいる。くせになるから止めろと言っても美奈はきかなかった。「この子とは、もう友達なんだよ。いまさら知らないふりなんてできないでしょ。」美奈は、小鳥たちだけでなく、木の葉や波や空や・・・あらゆるものと会話した。ワイメアビーチで出会ったウミガメの親子にも「ほら、お母さんにちゃんと着いていかないと迷子になっちゃうよー!」と大声で叫んで、本気で心配していた。ハワイ島の溶岩の上では、美奈が十字をきっている。朝子のために祈ってくれる優しい子だった。本当なら、美奈の顔のアップからヘリコプターでロングに引いていきたいところだ。広大な自然の営みに比べればちっぽけだけど純真な心を持って確かに存在している美奈を象徴的に捉えたショットが欲しいと思った。ハレアカラでの美奈は美しかった。朝日を一人で受けて輝いていた。荘厳な太陽の出現に神の存在を確信したに違いない。そしてハナで意図せず出会った幻想的で神秘的なムーンボウ。そのまま美奈が天国から差し出された虹の階段を上って、行ってしまうのではないかと恭平は思った。まるで映画『コクーン』のように・・・。ホエールウォッチングでの美奈は、生命そのものの偉大さを感じていたから、目に感動がしっかりと表れている。そして遠く離れてゆく親子クジラにも声をかけた。「幸せに生きてね。来年また会おうね。それまで元気でね。」ハナレイでの美奈は、ワンカットだけだった。虹に感動して、生きることへの執着を口にした時だ。恭平は、あわててビデオを取りに行った。そして、目を真っ赤に腫らした美奈を、ラナイに立たせた。虹の麓が、ちょうど美奈の頭の位置に来るように、アングルを整えた。恭平がしゃべっている。「ほら、笑えよ。虹の麓に立っているんだから、幸せになれるんだよ。」そう言ったら、一瞬ニコッとして、また泣き出してしまった。「なんだよ、泣いちゃダメじゃないか。笑って、笑って。」「そんなこと言ったって、涙が勝手に出ちゃうんだもん。」
 
そこで、テープは終わった。6時間分の素材を30分に編集した。美奈が言うように捨てるカットはどこにもない。恭平は、ただプロに徹してテンポを重視した。最後は美奈のいきいきした表情だけをカットバックさせてハレアカラの雲海に上る太陽にオーバーラップする。そしてバリハイに太陽が沈み、やがて空の様子が七変化し星が瞬きはじめたところで黒くフェイドアウトして終わる。
エンディングのBGMには平原綾香の『明日』を使った。
 
ずっとそばにいると あんなに言ったのに
今はひとり見てる夜空 はかない約束
きっとこの街なら どこかですれちがう
そんなときは笑いながら 逢えたらいいのに
もう泣かない もう負けない
思い出を超えられる 明日があるから
 
そっと閉じた本に 続きがあるなら
まだなんにも書かれてないページがあるだけ
もう泣かない もう逃げない
なつかしい夢だって 終わりじゃないもの
あの星屑 あの輝き
手を伸ばしていま 心にしまおう
明日は新しい わたしがはじまる
 
そして恭平は、編集したビデオとオリジナルを、美奈の継母である佐伯悦子に送った。美奈に渡してほしいと手紙を添えて。
 
恭平はひたすら美奈からの連絡を待った。携帯は常に手に握りしめていた。電波が届かないところには絶対に行かなかった。一瞬たりともミスしたくなかったからだ。美奈が電話をかけられる状態って、いつどんな時だろう。かけられないほど病状が悪化しているかもしれない。日に日にいらだちと不安がつのってゆく。
それから、2ヶ月ほど経った水曜日の朝、佐伯悦子から一通の手紙が届いた。中には手紙とともに、クジラの親子のシルバーリングが入っていた。
 
橘様
美奈が、3月26日アメリカのロチェスター病院で亡くなりましたことをお知らせいたします。告別式も、昨日青山で無事に済ませてまいりました。最後まで、あなたにお会いしたいと願っておりましたが、父親がそれを許さず、美奈はどれだけ苦しんだことでしょう。美奈は、あなたに送っていただいたビデオを、テープがすり減るくらい毎日見て過ごしておりました。ビデオに映っている美奈を見て、どれだけあなたを愛していたのか想像がつきます。ビデオの中にはオーラを放って生きている美奈がいました。そして、あなたと過ごしたハワイが美奈を強くしました。生きる希望を持ってつらい治療にも耐え、ドナーが現れるのを待ち続けたのです。私も、そんな美奈を見るのが辛く、心が張り裂ける思いで毎日を過ごしておりました。また元のように元気になったら、あなたに美奈を返してあげたかった。同封の指輪は、美奈からあなたに渡すように頼まれたものです。美奈の形見としてお納めください。
佐伯悦子
 
 
29
恭平は今、桜の舞う西富士霊園にいる。美奈は実母と同じ墓に埋葬された。手紙を受け取ってから今日までの間、どこにこれだけの涙があるのだろうと思うくらいに泣いた。今日は、朝子の命日だ。恭平は、こうやって朝子と美奈が隣同士で眠っていることに、不思議な縁を感じている。今頃、二人でハワイの話で盛り上がっているのだろうか。恭平は二人の墓の間に腰掛けた。
「美奈、会いたかったよ。ずっとそばついていてあげられなくてごめん。たった一度しか言ってあげられなかったけど・・・ずっと愛していたよ・・・。朝子、紹介する・・・彼女が美奈だよ。お前たち、似たもの同士だから、きっと気が合うと思う・・・朝子、美奈、俺もそっちに行っていいか?・・・俺、ひとりぼっちでさみしいよ・・・なんとか言ってくれよ。・・・お願いだから・・・ひとりにしないでくれ・・・」
涙が止まらない。涙があふれて止まらない。美奈の涙からは虹が生まれたけれど、恭平の涙からは何も生まれない。
満開のソメイヨシノが、少しづつ散り始めている。西に沈む太陽が,消え行く命に最後の光を当てている。桜の花びらが、紫色の空に白く舞っている。やがて、太陽は行ってしまうのだろう。そして、再びハワイの空に荘厳な神として現れ、明日も変わらずハナレイの里に、虹が生まれるのだ。