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壊れたこころ

江見幸司


約 7449

都会に憧れる若者が多い。ジャパニーズドリームが都会にあるというのか?。幸司には全く分からない。

幸司は大学院を修了後、大手企業に就職した。東京本社に出てきて、一週間の研修を終え、今日から本格的な業務が始まる。幸司は電車を乗り継ぎ、会社へと向かっていた。

今日は、なんだか足取りが重い。幸司の心を重苦しい気持ちが占拠していた。一歩歩くごとに不安の感情、一歩歩くごとに恐怖の感情が顔を出していた。何故、そういう感情に支配されるのか、幸司にすら分からない。

会社を目の前にして、幸司は、同じ新入社員に声を掛けられた。

「おはよう!」

その言葉を聞いた瞬間、幸司の心が弾けた。全ての悪い感情が噴出したように、落ち着かなくなった。幸司は、会社に背を向け、狂ったように走り始めた。なにが起きているのかさえ、幸司には分からなかったが。

幸司は、意味も分からず、逃げていた。何から逃げているのかは分からないが、とにかく遠くへ逃げていた。押し寄せてくる不安というか恐怖というか、幸司の心を壊す何かが心底から込み上げてくる。幸司は走った。過呼吸も起こっていたが、その苦しさを忘れるほどのスピードで、都会から逃げている。どうなっているのか?。

幸司は東京駅から新幹線に乗り込んだ。どこに向かう新幹線かは分からない。とにかく遠くへ逃げたかった。

新幹線は定刻通り走り始める。大都会の東京を出発しても、幸司は落ち着かなかった。幸司の心は壊れ、身体には震えがきていた。

幸司は、一万円を放り投げ、車内販売で買えるだけのビールを買った。ビールをごくごくと一気飲みで次々飲み干していく。空になったビールの空き缶が、幸司の足元に転がっていく。その数は、どんどん増えていく。一本が二本に、五本が六本に。幸司は下戸だが全く酔いはしなかった。ビールを飲むという行為で、幸司は落ち着きたかったのかも知れない。

足元の空き缶が十本を超えた頃、幸司の心は少し冷静になってきた。全く酔ってはいない。だが、昔から、アルコールは世界最古の精神安定剤と言われる。幸司の心をアルコールが冷ましてくれたようだ。

少し冷静になった幸司は、辺りを見回す余裕が生まれた。幸司は博多行きの新幹線に乗っていた。出張であろう、スーツを着た、たくさんのビジネスマンが乗っている。幸司の行動に驚いているのだが、我関せずと、見ない振りをしている。幸司には、その視線が非常に痛かった。

幸司はネクタイを乱暴に外し、スーツを脱ぎ捨て、Tシャツになった。ビジネスマンと一緒にされたくなかった。都会で働くビジネスマンと同類と見られたくなかったのだ。

新幹線は走り続ける。富士山など素晴らしい景色を横にしながら。しかし、幸司には、そんな景色を見る余裕もない。アルコールで冷静さを、少し取り戻したのだが、心底から湧き上がってくる、得体の知れない怪物を退治するには至っていなかった。怪物がなにかさえ、疑問に思わないほど、幸司は、とにかく遠くへ遠くへ行きたかった。

幸司の心は壊れている。ガラスが木端微塵になるように。しかし、どうしてだろう?。これだけ心が壊れ悲鳴を上げているのに、眠気が襲ってくる。眠る余裕なんて全くない。しかし、眠気が幸司を包んでいる。分からない。アルコールのせいか。心がSOSを感じているのか。眠気が、幸司の破壊された心より勝っていく。幸司は、静かに、静かに、目を閉じた。

幸司はぼんやり眠っていた。熟睡でなく、外の声がなんとなく聞こえるような眠りだった。静かな車内だ。誰も声を出さない。仕事の戦場に向かうビジネスマンは、侍のように 戦の時を待っているようだった。

突然、新幹線が急ブレーキを掛けた。幸司はイスから転げ落ちた。車内アナウンスが聞こえる。

「お客様の中で、お医者様はおられませんでしょうか?」

急病人が出たようだ。幸司はイスに座り直して、辺りを見た。右斜め後ろに座っている老紳士が、死んだように眠っている。車掌が声を掛けている。「お客様、大丈夫ですか!」老紳士のそばには、たくさんの錠剤が転がっている。

「自殺か?」

幸司の脳裏に、突然、その言葉が浮かんだ。錠剤は睡眠薬か?。睡眠薬の多量摂取で、老紳士は自殺したのか?。幸司は、怖くて仕方なかった。

幸司は錠剤を拾いに行こうか葛藤した。俺も、あんなに安らかに眠れるのなら、自殺し たいという、とてつもなく恐ろしい考えが芽生えたのだ。だが、その瞬間、母の顔が浮かんだ。母は、いつものように、にこやかに笑っている。母の悲しむ顔は見たくない。幸司の恐ろしい自殺願望は、母の笑顔が消し去ってくれた。

幸司は自殺なんて考えたことがない。自分で自分を断つことは、絶対許されない。どんなことがあろうとも、人間は、強く強く生きていかなければならないのだ。この時、幸司は、自分の心が弱りに弱っていて、完全に壊れていることを自覚した。

幸司は都会を恨んだ。都会という不条理が自分の心を壊したのだと。そこにしか、怒りを持っていけなかった。都会を恨むことでしか、今の自分を、幸司は肯定できなかったのである。

次の駅に止まった。そこは岡山だった。ぐったりとした老紳士を運ぶため、救急隊員が乗り込んでくる。老紳士を運ぶには、ある程度の時間が必要だった。幸司は、窓の外を見ていた。プラットホーム越しに、大きなビルやたくさんの人々が見える。都会と一緒じゃないか。幸司がそう思った途端、心に、また得体の知れない怪物が大きく顔を出した。幸司は震えた。新幹線に早く動けと祈った。しかし、老紳士の搬送に手間取り、時間が止まっている。幸司は、どうしようもない大きな焦りが生じた。その焦りが、救急隊員の一人を蹴飛ばし、幸司を外に出した。走る幸司。逃げる幸司。幸司の目に、発車寸前の電車が飛び込んできた。幸司は、訳も分からず、その電車に飛び乗った。

幸司は、また同じ行動をした。ビールを一気飲みし、空き缶が幸司の足元にどんどん転がっていく。幸司には、そうやって、壊れた心から逃げるしかできなかった。幸司は、少し冷静さを取り戻した。

その電車は津山行きだった。津山市は、聞いたことはあるが、訪れたことはない。都会か田舎かさえ分からなかったが、幸司は、津山まで逃げようと決心した。

電車から見る風景は、幸司の壊れた心を癒すかのようだった。山々に河川、雄大な自然が、次々と現れてくる。幸司は、アルコールには全く酔っていなかったが、この雄大な車窓の風景に完全に酔っていた。

約二時間で、津山駅に着いた。津山に降り立った幸司。壊れた心は、冷静さを大分取り戻していたが、津山も幸司の心の焦りを解消できるところではなかった。ビルは立ち、人々は動き、たくさんの車が流れていた。幸司の心に、得体の知れない怪物が顔を出そうとしている。

都会じゃないのか?。都会が俺をくるしめているのじゃないのか?。幸司は葛藤した。津山は田舎ではないが、都会とも言えない。そんな町の雰囲気にさえ、幸司の壊れた心は飲まれている。幸司は、自分の心を都会が壊したと自覚していたが、もしかしたら違うのかも、他の何かが…と疑念に駆られ始めていたのだった。

幸司は、また逃げ始めた。津山駅から、暗い方へ暗い方へと走り続けた。誰も存在しない、何もない、自分だけの世界に行きたい。そう考え、とにかく、逃げに逃げた。

暗くなってきた。太陽も幸司を助けてはくれなかったらしい。幸司は一日中、得体の知れない怪物から逃げ回り、非常に疲れていたが、壊れた心が叫ぶのだ。逃げるんだ、もっと遠くへ逃げるんだ!。幸司は、真っ暗な場所に向かって、真っ暗な場所を求めて、走りに走り続けた。

幸司は何時間走り続けただろうか?。とうとう幸司の体力の限界が、壊れた心を超え、幸司は倒れこんだ。うつ伏せに倒れた幸司の心がヒリヒリと痛みを訴えた。だが、幸司はもう動けなかった。

幸司は、倒れたまま顔だけを横に向けた。一軒の家の前だった。その家の電気は全て消え、真っ暗。おそらく深夜だろうと推測される。外灯が表札を照らしている。「和田」と書かれていた。住所は鏡野町。幸司には聞いたことのない地名だった。

幸司は、温かい家族の匂いを感じ取っていた。和田さんの家族は、きっと温かい心の素敵な家族なんだ。幸司は、急に、父や母に会いたくなった。今の自分を見て、父や母は、温かいスープをくれて、黙って、俺を抱きしめてくれるだろうなぁ。いや、情けない俺を見て、父は思い切り俺を殴り、母は泣き続けるのかなぁ。幸司の頬を涙が一粒つたった。

鏡野という地名を見たからか、幸司は、今の自分の姿を鏡で見てみたいと感じた。壊れた心の人間の顔には生気があるのか?。壊れた心って鏡に写らないのだろうか?。今の俺って惨めなんだろうな。幸司の頬を、また一粒の涙がつたった。

幸司は、ぐるっと身体を回転させ、仰向けになった。満天の星空が幸司に微笑みかけてくれる。幸司は思った。今まで空なんて見ることなかったよなぁ。星がこんなに美しいなんて初めて知ったよ。都会では、星空なんて存在しないし。俺の心も、この星のように、美しく輝かないかなぁ。

最も明るく輝く星は、月よりも美しく輝いていると幸司は感動した。そして、幸司の心には、今が、これまでの人生の中で一番幸せな時かもという気持ちが。幸司は、星がかすんで見えるほど涙を流し号泣する。幸司は、美しく輝く星に心を盗まれていたのだ。

幸司は、時が止まって、いつまでも、この幸せが続くことを祈っていた。その時だ。和田さんの家のドアが開いた。三歳くらいの小さな男の子が出てきた。倒れている幸司の傍に来て、

「この水を飲みなさい」

幸司は不思議な感覚に襲われていた。月や星の輝く光しかない真っ暗な場所に、小さな幼児。その幼児が、幼い声で、しっかりとした言葉を話している。

幸司は、少し恐怖を感じながらも、立ち上がり水を飲んだ。その水の美味しいこと!。こんなに美味しい水は飲んだことがない。

「あなたを助けに来た神です」

小さな男の子は言った。

「神?」

幸司には信じられなかった。神様の存在は信じているほうだったが、こんな幼児が神様だなんて。

「私は、あなたを見守っている神です。あなたを助けるために、和田海斗くんの身体を借りて現れました」

幼児の声質と神様の口調がアンバランスで、普段の幸司であれば、おそらく、目の前の現実を信じられなかっただろう。しかし、心が壊れた今だから、その言葉が信じられ、神様に助けて頂こうと素直に思えた。

「俺はどうなっているんですか?」

幸司は、あまりにも抽象的な質問をした。それだけ、心が、今の自分に対する答えを、一刻も早く欲していたのだろう。

「あなたは、大人になるのが怖いんです」

「大人になるのが怖い?」

幸司は疑問だった。自分では、自分というものが、すっかり大人と思っていたからだ。だから、都会が心を壊したのでは?と疑っていた。だが、それは大間違いだった。

「大人になるには、大人のルールがあるんです。常識や知識、言葉遣いなどです。あなたは、それらはできていますが、精神的な面で子供なのです。精神が、大人になるなと言います。でも、あなたは大人になろうとしています。その狂ったバランスが、あなたを怯えさせてしまっているのです」

幸司には、精神が子供ということが、よく分からなかった。社会人にもなったし、仕事に対する責任感も持っている。どうして、俺は大人ではないのか?。

「例えば、あなたの前に花瓶があるとしましょう。その花瓶をどうしてもいいですよと言われました。あなたなら、どうしますか?」

「割ります」

幸司は即答した。

「そこが、あなたの精神的な子供の部分なの

です。大人の社会とは、花瓶を割らないルールがあるんですよ」

「どういうことですか?」

幸司にはさっぱり見当もつかなかった。

「どうしてもいいと言われ、破壊や壊滅などの感情を描くということが、子供なんです。大人は、破壊や壊滅の精神を持っていないのです。大人は、自分や家族を守れる存在ですから。あなたは、身体的に周りを守れる大人ですが、精神的には、周りを破壊し壊滅する子供だということです」

破壊?。壊滅?。

「俺は、大人になりたくないって思ったことはないです。でも、破壊させる勇気や壊滅させる度胸は持っておくべきではないでしょう か?」

「そこが子供なのです。子供のように、夢を自由に語れる人間ならば、自分の考えを破壊したり、壊滅させたりしてもいいのです。ですが、大人は、自分の考えに責任を持って、周りの人々を守らなければなりません。その時に、破壊や壊滅の感情が出ると、世界は精神の戦争だらけになってしまいます。大人の感情に破壊や壊滅は不必要なのです」

「破壊や壊滅の感情は、個性ではないのでしょうか?」

「あなたは、個性と言って、いつも逃げますね。大人になりたいのであれば、個性を伸ばすのではなく、協調性を磨きなさい。それに破壊や壊滅が個性になるならば、世界は、怯えて暮らす人間ばかりになってしまいます」

幸司は、しっかりと分からないまでも、神様の言うニュアンスに納得していた。身体と精神のアンバランスが、得体の知れない怪物の正体。大人になれない子供の精神が、今回の幸司の奇妙な行動を起こさせたらしい。幸司の幼稚な弱弱しい心。個性と言い、自分を正当化していた心。幸司には思い当たることがたくさんあったのだった。

「でも、破壊や壊滅の心を持った大人は、たくさんいると思いますが?」

「そのような人間を大人と言うのはどうかと思いますが…。確かに、あなたの言う通り、身体的には大人でも、精神的には子供の人間はたくさんいます。だから、世の中から、争いや信じられない程の惨事がなくならないのです。破壊や壊滅の心は、自分だけでなく、他人にも害を及ぼしますから。ただ、私は、あなたを助けに来たのです。あなたは、精神的にも大人になれる存在だから。そして、本物の大人になったあなたに、世界を救ってほしいのです」

「俺みたいな小さな人間が世界を救う?」

「小さな人間かどうかは分かりません。ですが、本物の大人になったあなたが、そして、 そのような本物の大人たちが増えれば増えるほど、世界は救われるのです。身体的にも精神的にも大人である人間が増えれば、破壊や壊滅が少なくなり、世界は少しずつ平和に近づきます。これからは、あなた次第です。今のまま、花瓶を割る子供でいるのか?、花瓶を守る大人になるのか?、よく考えなさい」

すると、小さな幼児は、家に入っていった。神様が、空へお帰りになられたのだろう。

幸司は、全てを把握したわけではなかったが、神様が言われたニュアンスは理解した。幸司は、今まで、自分が良ければ、他の人なんてどうでも良かった。自分が成長すれば、飛躍できれば、他の人を簡単に踏み台にしてきた。自分だけでなく、他の人の気持ちも考える。これこそが、花瓶を守る大人ではないだろうか?。幸司の心は、成長しつつあったのだ。

幸司は、空を見上げた。非常に美しい星空が広がっている。だが、非常に明るく輝く星 と、ぼんやりと輝く星があることに、幸司は気付いた。空にある無数の星を、世界に住む人間としたら、明るく輝く星は身体的にも精神的にも大人。ぼんやりと輝く星は子供、あるいは、精神的に子供な大人。俺は、非常に明るく輝く星になりたい!と幸司は思った。

この世の中、見えないものを考えると、きりがないくらい答えがあり、そして、その正解は見つからない。幸司は、見えない精神について、難しいことではあったが、神様に、有難い言葉を頂いた。見えなかった精神、つまり、自分という存在が、幸司にはなんとなく見えてきたように思えた。

幸司は、以前、読んだ新聞記事を思い出していた。それは、心の病の患者が過去最高になり、今もまだ増え続けているというもの。幸司は、心の病になったことがない。いや、今日、心の病になったのかも知れないが。精神的に大人になれない大人が増えてきて、心の病が増えてきているとしたら、世界は、破滅や壊滅への道を辿っている。幸司は、そのことを考えるだけで、震えがくるほど怖くなった。

幸司は、今、非常に静かな心で安定していた。今だったら、都会も怖くない。大人になることに怯えることもない。だが、自分のように苦しんでいる、精神的子供の大人が、たくさん存在する世界にだけは恐怖を覚えていた。

自分は小さな人間。だから、自分ができることを、しっかりとやっていこう。そして、花瓶を守る精神で、他の人のことを大切に考えていこう。俺は、精神的にも大人になり、本物の大人として、世界を見守っていこう。幸司が、そう決心して、空を見上げると、流れ星がスーっと流れた。幸司に対して、神様が、それでいいんだと、オーケーサインを出してくれたのかも知れない。

翌日、幸司は、大都会東京に戻った。自分だけでなく、会社のため、同僚のため、上司 のためという、他の人を思いやる気持ちが芽生えていることに、幸司は気付かない。しかし、幸司は、他の人を笑顔にする行動をしなければならないと肝に銘じていた。

都会に、ジャパニーズドリームがあるかは分からない。だが、若者の多数が、都会を目指す。都会には、魅力的なことが無数に溢れているのは事実である。成功する若者、失敗して故郷に帰る若者、様々であろう。だが、忘れてはならないのは、都会に浸りすぎて、花瓶を割る人生に没頭してはいけないということだ。花瓶を割る人間は、必ず、破壊・壊滅行動に出る。そして、都会をダメにする。苦しい時、辛い時、空を見上げてほしい。できれば、幸司が見た鏡野の空を。そこは神秘的で、神様に出会える場所。そして自分を見つめ直せる場所。自分を見つめ直せたら、人間は、花瓶を割らない、花瓶を守れる人間になれるのではないだろうか?。

都会にいようが、田舎にいようが、本物の大人に、誰にでもなれる。本物の大人になってから見る都会は、きっと、非常にやさしいものだと思う。幸司もそう感じているだろうから。

幸司は、本物の大人になって、今日も元気に、自分ができることを、精一杯、しているよ!。

 

〈終わり〉