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恋文

安藤邦男


約 7044

プロローグ

ある夏の一日、わたしは数年ぶりに、母校であるK高校の同窓会に出席した。
同窓会は、毎年、K高校のあるK市かその近郊で行われていた。ほかに用事もあって、少し遅れて会場のホテルにつくと、会はすでに始まっていた。
今回、参加した目的の一つは、もうだいぶ会っていない親友の健一に会うことであった。ところが健一はあいにく欠席で、幹事の話によればなんでも自転車事故で左足を骨折し、家で寝ているという。そこで、会が引けてから、同じK市のホテルからあまり遠くないところに住む彼を見舞うことにした。
あらかじめ電話しておいたので、奥さんが門の外まで出迎えてくれ、彼の寝ている寝室に案内してくれた。見ると、思ったより元気そうで、すぐベッドに起きあがり、旧友たちのニュースを尋ねてきた。わたしは、今しがた知った彼らの現況を聞かせたりした。
その夜、夫妻に請われるままに、わたしは彼の家に泊まることになった。夕食後、彼のベッド横の長椅子に横たわりながら、寝物語に遅くまで話しこんだ。幼年時代や少年時代、大学生活、職業のことなど、彼はいろいろなことを語ってくれたが、わたしにもっとも興味のあったのは、彼ら夫婦の馴れそめから結婚にいたるまでのいきさつであった。

 

次は、その夜彼の語った話である。やや物語風の体裁をとってはいるが、脚色などは一切なく、あくまでも事実であることをお断りしておく。

 

拾った封筒

土曜日の夜、《インスピ会》が終わり、仲間の者たちが帰った後、健一はひとり残って牧師と話し合った。以前から頼まれていた家庭教師の件の詳細を、打ち合わせるためであった。

《インスピ会》というのは、健一の住む地区の自治会に所属する組織で、そこには20人ほどの若い男女の会員が所属し、その地区のキリスト教会の一室を借りて、文化懇談会を持っていた。毎週土曜日の夜、文学、哲学、人生など、それぞれが自分の得意とするテーマを発表しあったり、ときには講師を招いて話を聞いたりしていた。
この会の存在を健一が知ったのは、自治会のチラシからであったが、直接加入のきっかけになったのは、幼友達の美代の勧めによるものだった。美代とは中学までは同じクラスで席を並べた仲であったが、高校と大学は別々になったため、あまり顔を合わせる機会もなくなっていた。それがある日、バス停で偶然出会って誘われるままに、美代の所属している《インスピ会》に入会したというわけであった。
健一が教会の外へ出ると、夜はかなり更けていたが、礼拝堂から表門まで延びた砂利道は満月の光りを浴び、真昼のように明るかった。
健一が砂利道をちょうど真ん中あたりまで来たとき、足許で何か白い物が目を引いた。立ち止まってみると、一通の白い封筒が青い月の光を浴びていた。たぶん、誰かが落としたのであろう。
拾い上げてみると、それはきちんと糊づけされており、中には二、三枚の便箋が入っているようだ。封筒の紙質はいかにも高級感をただよわせ、上品なシマ模様に四つ葉のクローバーが描かれている。しかし不思議なことに、宛名が書かれていない。
《なにか大事なものらしいなー。まてよ、ひょっとすると恋文かも?》
そんな考えが脳裏をよぎったのは、恋文を書くとき幸運を願って四つ葉のクローバーの封筒を使うという話を、週刊誌などで読んだことを思い出したからだ。
だが次の瞬間、健一はそんな子供じみた空想に思わず苦笑した。封筒を牧師に届けようと思い、引き返そうとした。するとそのときである。ほのかな香水の匂いが鼻を打った。匂いはどうやら、封筒からのようである。
ふたたび、先刻と同じ疑問にとらわれたが、健一はもう笑わなかった。彼は封筒をポケットに入れると、本能的にあたりを見まわした。四囲にはなんの異変もなく、ただ青白い月光が木々に砕けているだけである。彼は逃げるようにして、表門を出た。
教会から家に帰るまでには、途中で大きなY川の堤防沿いの道を通らなければならなかった。その川底に沈んだ幾千もの星くずを眺めていると、いつもは議論の興奮が覚めやらぬままに、文芸や学問の悠久の世界が偲ばれ、学ぶ意欲や生きる希望が沸々とわき起こったものだ。
しかし、その夜は違っていた。星くずは、まるで彼を地の底に引きずり込むように、不気味な光を放っていた。暗い堤防を歩むにつれ、健一は次第に気が滅入ってきた。むろん自責の念もあったが、それよりも、こうせざるを得なかったことに、自分の意志ではどうにもならない、大きな宿命的なものを感じていた。
そのせいか、部屋にもどるとすぐに開いた手紙のなかに、万年筆ながら水茎の跡うるわしい、控えめではあるがはっきりした愛の告白を読みとったときも、彼は割に無感動だった。予感が的中したことにも、たいした興奮はなかった。心にみなぎっていたのは、索漠とした虚無感であった。
ところが、最後の行に目をやったとき、それまでの醒めた感情は一瞬にして吹き飛んだ。眼に飛びこんできたのは、
「健一様まいる 美代」
という文字であった。

 

揺れる心

数日が過ぎた。 その間、健一の脳裏には二つの矛盾する思いが渦まいていた。ひとつは、彼のロマンチックな気質がそうさせたのであろうか、あの手紙はじっさい美代が書いたのではないかという憶測であった。もうひとつは、彼の現実的な判断が示唆するもので、だれかいたずら好きの友人が偽造したのではないかという疑惑であった。
しかし、この疑惑は不愉快であった。こんな手の込んだいたずらをして陰でほくそ笑んでいる友人がいると想像すること自体が、健一にはやりきれなかったのだ。
それよりは、美代がじっさい書いてくれていたほうがよい。事実、そう考えられないこともないと思った。つまり、美代は健一に手渡す前に不注意にも落とした、もしくは健一に拾わせるように故意に放置しておいたのだとー。
しかしそれは、いかにも的はずれの考えのようであった。というのは、たとえそう考えられたとしても、果たして彼女がそれを書いたかどうかという肝心なことになると、依然として藪の中である。彼女の筆跡を健一が知っていれば問題は一挙に解決されるのだが、残念ながら健一はそれを知らなかった。
考えあぐねた末、健一はきまって美代のありのままの姿を思い浮かべるのであった。彼女は《インスピ会》の例会で、愛とは何か、人はいかに生きるべきかなど、さまざまな問題について健一と議論を闘わせたものである。仲間の下馬評では、勝敗の帰趨は明らかに彼女のほうに分があった。それほど頭の回転も速く、男勝りの彼女ではあったが、また反面、やさしく繊細な神経も持ちあわせていた。
日ごろの美代を考えれば、あのような形で愛の告白をする女性とはとうてい想像できない。必然、これは健一をからかうために誰かの仕組んだ悪戯と取らなければならない。そう思えば救われた気持ちになるが、その反面少々寂しくもある。そんなとき,健一は美代を一種の二重人格者に見立てる。すると、胸を躍らせながら恋文を書き綴る美代の姿が、彷彿として目に浮かぶ。

 

黒い疑惑

ある夜、健一は大学の先輩で、すでに社会人である木村を下宿先に訪ねた。木村はプレーボーイの噂が高かったが、健一とはウマが合うというか、一脈相通じるものがあって、《インスピ会》の席でもよく彼とは語り合ったものだった。
木村を見るやいなや、健一は尋ねた。
「かりに女性が男性と恋に落ちたとしたら、女性はすっかり理性を失うものですか」
それは、あの夜から健一の心に去来していた疑問であった。
「そうだね、女性といってもひとりひとり違うから一概には言えないよ。しかし、これだけは言えるね。女性は燃えるまでは冷ややかだが、いったん燃えると理性も何もかも失うものだ」
美代は、あるいは木村の言うごとく、燃え上がった状態にいたのかも知れない。だとすれば、彼女が恋文をしたためるのに何の不思議もない。が、木村の言葉も、結局は空しいものであった。どう見ても、美代がそんなに燃えているはずはなかったからだ。
「では、女性が自分を慕っているかどうかを見分けるには、どうすればいいのですか」
「恋愛で頼りになるのは、理性ではなく、直感だよ。直感が及ばなかったら、詮索したって無駄だよ。これが僕の意見さ」
こと女性問題になると、木村はなかなか雄弁になる。
「ところで、きみ、だれか好きな人が見つかったかね」
「そんな人、いませんよ」
不意をつかれて、健一はどぎまぎした。
「ムキになるところを見るとあやしいな。でも、いてもいなくてもいいや。とにかく勇気を出して進むことさー」
そう言いながら木村はニヤリと笑い、健一の肩をたたいた。
木村の家を辞したときは、もう10時を過ぎていた。途中で降り出していた雨は、次第に激しさを増していた。ときどき、暗い路地を稲妻が照らした。その光りを追って、雷鳴が轟いた。
走りながら、健一はふと思いついた。あれは、木村の仕業ではないだろうか? そう考えてみれば、先ほどの木村のからかうような口ぶりには、疑わしい節がないではなかった。それに、最近休みがちな木村は、あの晩久しぶりに《インスピ会》に出席していたではないか。
《まさか?》
健一は、吐き出すように言った。しかし、いかにもそれは木村の仕兼ねまじき振る舞いのように思えた。
《そんなはずはない》
健一はその考えを振りはらうように、雨のなかを夢中に駆けた。だが、いったん生じた疑念は、うち消してもうち消しても不気味に頭をもたげた。激しい風雨に混じって、ときおり響く雷鳴は、まるで木村の高笑いのように健一には聞こえた。

 

心は晴れたがー

台風一過、翌朝の空は透明なほど澄みわたっていた。健一は駅で電車を待っていた。
「健一さん、お早う。今日はどこへ?」
ふり返ると美代であった。健一もお早うといったが、その声は引きつった喉の奥で変にしわがれた。
「いやに沈んでいるのねー。どうかした? あなたの大学はもう夏休みでしょ」
「うーん、・・・でも今日は野暮用さ。できの悪い子の家庭教師だよ」
「いいわね、あなたは英文科だからー。国文科のわたしなど、家庭教師の口なんて、頼んだってないわよ」
美代の口調には、何のわだかまりもなかった。健一は、思わず苦笑いを浮かべた。そして、なんだか晴れ晴れとした気持ちで、反対方向の電車を待つ美代と別れ、改札口を出た。
恋文はやはり、木村のやったことに違いなかった。それはほとんど動かしようのない確かさで、健一に迫った。彼はここ数日、胸中にくすぶっていた不安と疑惑が消え去るのを覚えた。
それから数日後、健一は木村の退社時間を見計らって、勤め先の新聞社に彼を訪ねた。
「木村さん、あなたでしょう、手紙を書いたのはー」
単刀直入であった。
「おや、おや、何をいうかと思ったらー。でも、やっぱりバレるよな。あんな幼稚なことはー」
悪びれた様子もなく、木村は言ってのけた。
「ひどいですよ。何故あんなことをしたのですか。ぼくは痩せる思いでしたよ」
「ごめん、ごめん。きみがあんまり真面目だったものだからー。つい悪い癖が出たよ。ぼくは偽悪趣味でね。なんでも聖らかなものを見ると、つい汚したり、からかったりしたくなるのさ」
そう言って、木村は健一の許しを求めた。木村に悪意のないことは判っていた。許すも許さぬもなかった。このとき、健一はもうそんなことには拘泥しておれない気持ちになっていた。

 

これが恋か

それまで、健一は美代を異性として意識したことはなかった。美代は、純粋無垢という言葉は彼女のためあるのではないかと思わせる女性であった。むろん、健一はそんな彼女が好きだった。しかしそれは、友情以外の何ものでもなかった。
だが、知らないうちに、そんな情況に変化が生まれていたのである。たとえ誤解であったにせよ、一度は美代に愛されているかも知れないという意識を脳裏に植えつけたときから、彼の深層心理は微妙に変わりはじめていたのだ。美代を意識すると、われ知らず心臓が高鳴ったり、ときには胸を締め付けられたりするような感じがした。
健一には、そんな感情に覚えがあった。それは、小学生二、三年生のころ、同じクラスの副級長をしていた女の子に抱いたのと似た感情であった。その子も利口な子で、健一とは学業成績のトップ争いをした相手であった。あれは、自分の初恋であったかも知れないと、健一は思った。すると今度のこの気持ちは何だろう、二番煎じの初恋か。いや、あれは疑似恋愛で、これこそが本当の恋ではなかろうか、健一の心は揺れつづけていた。
ある夜、愛読する作家の随筆を読んでいるとき、次の文章が目に留まった。
「事実をありのままに書いても、それは真実にはならない。真実というものには、人を納得させる仕掛けが必要である。それがフィクションである。フィクションは単なる嘘ではない。夢を見るからこの現実は美しくなる。フィクションがあるからこそ、この人生はいっそう真実味を増す」
〈フィクション・・・〉〈真実・・・〉無意識に、健一はそれらの言葉をノートに書き写していた。
そのときである、数日前から心の一隅にくすぶり続けていたある考えを、実行に移そうとする勇気が湧いたのはー。

 

乾坤一擲の大勝負

翌日、健一は美代といっしょに近くの田舎道を歩いていた。 沈みかけた太陽が西の空を赤く染めている。頭上には二、三羽の雁が舞っていた。西の地平線に近づくと、雁は影絵のように黒くなっていく。
「美代、きみは覚えているかい、ぼくにくれた手紙のことをー」
「手紙のこと? ああ、中学時代に一度あなたに絵葉書を送ったことがあったけど、あのこと?」
「いや、違う。この手紙なんだがー」
健一は少なからず慌てて、あの夜拾った手紙を取り出した。無論、木村の書いたものだ。
「実は、ぼくー、ゆうべ夢を見たんだ、きみがこの手紙のことをすっかり忘れてしまったというー。何だかこう、不安になってね。それで聞くんだけどー」
しどろもどろだった。怪訝な面もちで封筒を眺めていた美代は、健一の言葉が終わると、落ち着かない様子で言った。
「・・・・夢の話ね、じゃあわたし、知らないはずだわ。」
「いや、手紙そのものは、夢の話ではないんだー。やはり、きみは忘れたんだ。ねえ、これー読んでくれないか。そうしたら、書いたこと、思い出すよ」
「・・・・でも、わたしー」
「と、とにかく、読んでくれよ。きみが書いたに違いないんだ。」
健一は、必死であった。
美代は、なおも躊躇するようであったが、それでもやがて意を決したかのように、立ち止まって封を開いた。
彼は、ほっとして暮れ初めた西の空を見上げた。体はしかし、おかしいほどぶるぶる震えた。
間もなく、美代は読み終わったらしく、健一の後ろへ近づいた。それが、背中に集まった全神経によって感じられた。
「・・・・読んだ?」
増えゆく星屑を眺めながら、彼は思いのほか淡々と尋ねた。
「・・・・ええ。」
「・・・・やっぱり?」
「・・・・やっぱり、思いだしたわ。わたしがー、わたしがー、書いたのよ」
美代がつぶやくように言ったとき、流れ星がひとつ、宵空に長く尾を曵いた。

 

エピローグ

健一が語り終わったとき、すでに深夜を過ぎていた。しかしわたしは眠くなるどころか、頭は冴えきっていた。拾った恋文から二人が結ばれるにいたった恋の曲折に、わたしはいたく感動していた。
しばらく沈黙が続いたあとで、わたしは口を開いた。
「禍いを転じて福となしたね。他人に焚きつけられた恋の炎に、身を焼かれたというわけか。でも、ニセ手紙ぐらいで、本当の恋が芽生えるものかな?」
「そうなんだ。実はね、おれもそう思って、昔のことをふり返ってみたんだ。するとやっぱり、中学時代から彼女が好きだったんだ。それに気づかなかったーというより気づかない振りをしていたね、若さの見栄かもー」
「うん、わかる。でも、思い切ったことをしたもんだ」
「そうだよ、ねつ造した手紙をもとに芝居仕立ての愛の告白ー、人にはねつ造の屋上屋に見えるかもね」
「でもさ、お前がさっき語った『真実はフィクションだ』という言葉、いちばん当てはまるのはやはり男女関係だね。というより、男女の愛はフィクションそのものよ。フィクションなしには結婚もあり得ないしね」
「うん、その通りだ」
「ところで、ふと思ったんだが、ひょっとしたら木村さんは、お前の潜在意識に気づいて、二人を結びつけようとしたのではないかね」
木村さんはいたずらピエロではなく、愛のキューピッドにわたしには思えた。
「うん、あるいはそうかもね」
「そうだとしたら感謝しなくちゃー。彼には、ニセ手紙の後日談を報告したの?」
「いや、してない。・・・・また、することもない」
健一はしばらく目をとじてから、ゆっくり言葉をつづけた。
「われわれが愛を告白し合ったあの日の夜だった、木村さんが交通事故で亡くなったのはー」
わたしが運命の残酷さに震撼したのは、後にも先にもその時以外にはない。

 
―終わりー