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本物の男はどこにいるの

太田春陽


約 10919

スペイン旅行のひととき、カジャオ、スペイン広場にて

 

翌日は快晴に恵まれ、睡眠を十分取った二人は青春の瑞々しさに満ち溢れ、マドリッドの中央通り、グランビア(大通り)を颯爽と歩いていた。

杉山は黒いTシャツに薄手のジャケット、ブルージーンズ、茶のシューズはカンペル。美穂の着こなしは板についてお洒落、ピンクのTシャツを着流しにして、その上から細めに仕上げたペールブラウンのスポーツスーツにブルージーンズ、そして、ミズホのシューズがよくマッチしている。

初めての海外旅行で、車、信号、ゴミ箱、青い空、人混み等、たわいのないものだけど、見るもの全てに興味があった。またそれ以上に、美穂など嬉しくてしようがないのである。ショッピングに目を煌めかせ意味もなく驚いて、弾ける喜びを杉山と分かち合う。充実感に浸る美穂は深呼吸をする。湿気の少ない空気はまるで吸い取り紙だ。過去の鬱積した湿気を肺臓から吸い取って、吐く息は、スペインの限りなく青い空に吸い込まれていく。

車の多いグランビアは、日本に比べ、クラクションの協奏曲も賑やかなもの、今日はガイドも何も付かないフリーな日、スペイン語の出来る杉山は、マドリッドの街中を歩くのに何も不自由しなかった。グランビアのキオスクで、マドリッドの地図を探す。

「いらっしゃい、地図を探しているのかい」

イケメンの東洋人に目のない店員は声を弾かせて、舐めるように二人を見ている。動物的感覚なのだろうか、店員の性癖を嗅ぎ付け、二人は笑った。

「ええ、マドリッドの地図を探しているのですが、見易くて良いのありますか」

流暢なスペイン語で応えた。

「いやーっ、これは驚いた、スペイン語が上手ですね、日本人?」

「はい、そうです」

「うわおーっ、日本のかっこいい男性、最高!」

店員は黄色い奇声を上げ、店員の喜びを見た美穂は「あの人、僕達と同じだね」

「そうみたい。このグランビアの裏手にホモ街があってね、スペインは結構多いらしいよ」

「そう、凄いね……」と言って、美穂はまじまじとキオスクの店員を見た。一見三十歳くらいの毛深い男性は、筋肉質でマッチョな身体つきだけど、眼差しと仕草に、どこか安心出来る優しさが纏わりついていた。

「地図、どこにあります」

「その横に地図がありますから、選んでください」と言って、彼は別な客の用件を聞いていた。示されたところを見ると、ポルノ雑誌が重ねてあった。いやがうえにも、猥らな写真が目に刺し込んで来る。ポルノ雑誌を見ないように目を背け地図を探すけれど、自然と目が元の位置に戻ってしまい、杉山はどきどきとしながらその雑誌を見た。と、美穂は何を思ったのかその雑誌を手に取り、

「杉山さん凄い、これ見て、こんなの挿し込まれたらお尻壊れちゃう」

整った顔を羞恥で染めた美穂は、それでも嬉しそうにその雑誌を見せた。そこには突き上げた尻を抱え込み、信じられないほどの巨根を挿し込んでいる男性二人の淫らな姿がアップで載っている……日本でもポルノ解禁になっていた。でも、そんな雑誌は見たことも手に触れたこともなかった杉山は、今、こうして間近にゲイポルノ雑誌を見ると、目眩がするほどのときめきに体が震えてくるのだった。

「地図、見つかりました」――店員の声で我に帰った杉山は慌てて、

「ええ、こ……これお願いします」

手に取った地図は小さくて見辛いものだった。その地図を元に、グランビアを下る。と、カジャオ広場に来た。グランビアを代表するクリスタルビルのキャフェ、ガイドブックにも紹介されていたところなので、スペイン広場はもうすぐ近く。カジャオ広場をプエルタ デル ソル(太陽の門)の方向に向かって下っていけば、レストラン街とガイドブックでは記していた。

「ねえ美穂君、お腹空かない」

「うん、空いちゃった」

腕時計を見ると、もう二時を過ぎて、お腹の空くのも無理はなかった。

まだスペイン料理に慣れない二人は、昼食メニューを探した。どれも肉食……あまり肉の好きでない彼等は、スペインレストランではなく食べられそうなレストランを探した。見慣れない通りを下る。と、日本語のレストランが目に入った。懐かしい長堤燈に武蔵と書いている。メニューを見ると日本レストランだった。

「杉山さん、日本レストラン」

「うん、ここにしようか」

二人はのれんを潜り中に入った。

「いらっしゃいませ! 何名様です」――元気な日本語が飛んで来た。

「二人です」

「じゃ、下のテーブルがいいですね」

言われてその方を見ると、なるほど一段下がったところにテーブルが並べられ、十人ほどの客がすでに食事を楽しんでいた。

二人は示されたテーブルに着いた。メニューを見る。三日間日本食を食べていないだけで、なにか、もう一ヶ月以上も食べていない気持ち……胃袋が、久し振りの日本食にきゅるきゅると鳴った。店員が注文を取りに来た。杉山はうな重と野菜サラダを頼んだ。美穂は盛り合わせ寿司に天ぷらそば。

「杉山さんとスペインにいるなんて、僕はいまだ信じられない」

二人とも海外旅行は初めてだった。しかし、友人のいなかった美穂は、杉山と共に海外旅行をしていることが信じられなく、その喜びを率直に伝えた。初めての友人、そして初めての海外旅行、昨日は、和田画家のプラド美術館の説明に聞き入り、メモするだけで夢中だったけれど、今、自ら省みる落ち着きを取り戻し、そのあまりにもかけ離れた現実に、美穂は戸惑うばかりだった。

「本当だね、僕も信じられないよ」

杉山も戸惑いながら、喜びを満面に表わす美穂を見ている。

「杉山さん……杉山さんも、友達はいなかったのですか」

「友達はいるよ。真紀ちゃんと言って、女性だけど、僕の親友」

「ああ、真紀子さん、活発で、素晴らしい女性ですね。でもあの時、彼女から杉山さんを紹介されて、付き合ってくれって言われたとき、意味がよくわからなかった」

「意味がわからなかった?」

「だって、他人から付き合ってくれって言われたのは、生まれて初めて……」

「わかるよ、その気持ち」と言って、杉山は両手で美穂の手を握った。氷に閉ざされた孤独から抜き出た喜びと暖かさが伝わってくる。

「そのかわり、今まで酷いこと言われたのだろう」

「うん。そんな事が続くと、自信喪失と言うか対人恐怖症みたいになって、引きこもっていたんだ」

悲しそうに話す美穂の視線は過去に彷徨い、思い出したくもない陽だまりに、理不尽な悲しみと憤りを見い出す。僕は男性、でも男性が好きなんだ、この事を素直に告げると、皆背を向け去って行っただけではなく、陵辱と無視と言う酷い仕打ちを受けた。この社会は『他人と違う』このことだけで、差別を受ける仕組みになっているのだろうか。綺麗な女の子がいじめに会う。正義感の強い男の子が集団でいじめられる。意思の弱い男の子がいじめの対象になる。ホモがいじめの生贄になる、個性の強い子供は嫌われる……それでは、自分を周りに合わせ、偽善の殻をかぶり上手く立ち回ることが、この社会では着実に生きる事なのだろうか。着実に生きても本物ではない生き方、周りに合わせ皆から好かれても美しくない生き方、美しくなることと本物になることは同義語だと、杉山は言った。美しくなくても本物でなくても、せめて自分に正直に生きたい、美穂の願望だった。

 

「で、引きこもっていた僕を見ておばあちゃんが心配して、あの店で働くように勧められたの」

「そうか……働き始めて、どのくらい?」

「まだ半年だけど、一生懸命仕事をしていたら、対人恐怖は無くなっていた」

「良かったね」

「うん。でも、これも杉山さんのお陰なんだ」

「え、どうして」

「真紀子さんと、時々、喫茶店に来ていたでしょう」

「うん……」

「杉山さんを一目見たとき、ぴーんと来るものがあったんだ」

「一目惚れって言うやつかい」

「それもあるけど、何というか、ほら、グランビアのキオスクのお兄ちゃん、すぐわかったでしょう。あんな感じで、杉山さんを見ていると、不思議と安心できるような、そんな気持ちになっちゃうの」

美穂は嬉しそうに話す。探し求めたものがやっと見つかり手に入った、そんな満足感と喜びが、整った顔から滲み出ていた。

「美穂君、僕も他人から美穂君みたいな事を言われたのは初めてなんだ。ありがとう」と言って、杉山は再び美穂の手を握った。握り合ったその手は、二人の体温を交流するかのように暖かい手だった。

「はい、おまちどうさま」

メニューが運ばれてきた。思わず唾液が溢れ出るほどの匂いに、二人の胃袋は早速協奏曲を奏でる。

「うわーっ、おいしそう」

「お腹空いた、さあ、食べよう」

二人は、大きな声でいただきますと言ったものだから、周りのスペイン人達が、不思議そうに見ている。

「久し振りの日本食、美味しい」

美穂も一生懸命盛り寿司を食べて、食事を楽しみながらテーブルに座っている人を見ると、ほとんどが地元の人スペイン人だった。ヨーロッパ、アメリカなどで日本食がブームになっていることはニュースなどで知っていた。でも、実際このように事実を見ると、空席がないほど繁盛してそのブームは大変なも、皆箸を上手に使い美味しそうに食べている。

「日本食、ずいぶん繁盛してる」

「雑誌で読んだとおり、日本食って健康にいいから、自然ブームになるんだね」

久し振りの日本食に杉山も美穂も大満足、盛り寿司を食べ終わり、天ぷらそばを一啜りした後、美穂は心の奥にしがみつく疑問を吐露するように、

「杉山さんは、恋人いるのですか?……」

緊張のためか鼓膜を押し付ける感覚の中、レストランの暖かいざわめきも消え、強張った静けさが二人の聴覚を覆う。刹那な静けさであるけれど、回答を待つ美穂にとってその静けさは、出口の見えない暗く長いトンネルを潜り抜ける静けさでもあった。

「いるよ」

ぽつりと言った杉山の短い言葉は、潤いを求めても、それが不可能な砂漠の渇きにも似た響きを美穂に与えた。肉体的な喉の渇きなのか、不安が的中した精神的渇きなのか、たぶん両方なのだろう、美穂は仕切りに唾液を飲み込みながら、美味しいはずの天ぷらそばも、砂を噛むほどの不快さを舌に残し、その動揺の中に、杉山を失いたくない不安が潜んでいた。

「杉山さんだったら友人がいっぱいいてもおかしくないし、恋人がいても当然だよね」と、精一杯平気を装って言ったものの、美穂の頬は強張り声の震えは隠せなかった。

「でも、彼とは別れるつもり……」

「え、別れる?」

「彼とはいろいろあって、精神的にも肉体的にも、もう疲れちゃった」

残った野菜サラダを摘まみながら悲しそうに話す杉山の目線は、目の前の美穂を虚しく撫で過ぎて、早川との過去に漂う。そんな杉山の気持ちを察して、

「話したくなかったら、その話は止そうよ」

「そうだね。個人的に嫌な思い出は、余り話さない方がいいよ」

「でも、我慢できなくなったら、何でも話して。僕でも、少しは役に立てるかもしれないから」と言って、美穂はおいしそうに天ぷらそばを啜った。喉をつるりと過ぎて行くそばの感触に、ほどよいてんぷらの歯応えと味が絡み、気分で味がこんなに変わるものかしらなどと思いながらも、これほど美味しい天ぷらそばは、初めてだった。

「美穂君……ありがとう」

美穂のさりげなく、それでいて思いやりのある言葉に、レストランの暖かなざわめきも杉山の傷ついた心を優しく撫でて、あちこちのテーブルから溢れ出る弾ける笑いに箸とフォークの協奏曲も加わり、早川との思い出を解してゆく。

「デザートは、何になさいますか」

「あっ、僕はお茶でいいです。美穂君は?」

「僕もお茶」

緑茶がテーブルに置かれた。急須から湯飲み茶碗に注ぎ、ゆっくりと啜る。

「緑茶の匂い、目を瞑って啜ると、外国にいるって感じしないね」

「本当だ。僕は、今日本にいます」と言って、心の奥にしがみついていた疑問を解消した美穂は、その整った顔から絹の白銀に輝く微笑を零し、日本を思い出すかのように目を瞑って緑茶を啜った。長い睫毛が影を落とし、見る角度では、女の子のような顔になる。

(日本か……)日本を思う杉山の瞼に、今別れると言った早川の顔が転がり込んできた。彼は、目の前にいる美穂と一八〇度対極にいる人だった。エゴに凝り固まり、理性と分析を重視し、感情というものを芸術表現の対象にしなかった。二年間も体を許し合った関係で忘れ切れない、未練は残るだろう、でも、彼の獣欲と欺瞞の愛の束縛から解放されるには、早川の言うとおり、情に流されてはだめだ。理性と分析で状況を知り、決断しなければならない――

杉山は緑茶を啜りながら、客で満杯になった日本レストランを見ることもなく見ていた。地元スペイン人が楽しい談話を交わしながら食事を楽しんでいる。スペイン人のバケーションは三十日間、一ヶ月の休暇。羨ましい限りだ。ここで食事をしている彼等は、家族連れは見えないものの、学生もいることだろうし、働いている人もいる。そして、一ヶ月の休暇を楽しんで。日本に帰ったら、就活しなければならない。自分が就職した場合、バケーションが十分取れる好条件の会社が今の日本にあるだろうか。一ヶ月の休暇があれば、画家として生活できるまで、休暇を利用して作品制作に集中することが出来る。

早川は夏休みを利用して卒業制作に集中しているはずだった。芸大の卒展は東京都美術館で行われる。この卒展で主席評価されれば、画家への第一歩を示すチャンスでもあった。エゴに凝り固まった冷徹な早川でも、彼の抽象表現センスは教授も唸るほどのものを持っていた。杉山も、そんな彼の才能に心を奪われた一人だった。早川のことを思うと、同時に不安も過ぎる。早川の獣欲と暴力のトラウマでオーガズムを感じられない体……恋人を変えても、感じないのは感じないのよ……真紀子の言葉が不安を掻き立てる。

目の前の美穂に目を止めた。喜びと安心し切った顔で、美味しそうに緑茶を啜っている。彼と愛し合えば、早川に植えつけられた暴力のトラウマは、癒されるだろうか……。

「どうしたの杉山さん、ぼーっとした顔で、食べた後眠くなったんでしょう」

「うん、ちょっと体を動かさないと、このまま眠っちゃうね。さあ、スペイン広場に行こうか」と、美穂が元気よく、

「お勘定お願いしま―す」

ここは僕が持つと言って譲らなかった美穂は、カウンターで勘定を済ませ、

「あの……ここからスペイン広場まで、どのように行けばいいのですか」

見辛い地図を示して言った。店員がその地図を見ながら、

「ああっ、スペイン広場はここからすぐ近くです。店を出て、グランビアを左にまっすぐ下りて行けば、十分程で着きます」

「ああ、そうですか、ありがとうございます」

店員の言うとおり、店を出て、車で渋滞したグランビアを左に曲がりしばらく歩くと、スペイン広場が見えてきた。

 

広場の周りは樹木が生い茂り、その真ん中に、記念碑が建てられている。正面にイザベル女王の像があり、裏にドンキホーテーとサンチョパンサがある。その両側に女性の像があり、右の像はなにやら箱のようなものを開き、左は平べったい籠を持っている。あの女性は、何故箱を開けているのかしらなどと思いながら、杉山と美穂は、馬に跨り片手を挙げ挨拶をする姿のドンキホーテーを見ていた。と、ドンキホーテーの頭に鳩が止まり、うんちをした。

「あっ、ひでえ! ドンキホーテーさんの頭に、鳩がうんちした」

美穂の言い方が可笑しく、二人は笑った。付き合い始めた頃の美穂の印象は、静かで憂いを漂わせた印象だった。それが、喉を弾かせてよく笑うようになった。友達が出来て嬉しいのだろう。よく笑う人は健康だと言われる。そうかもしれないなどと思いながら、杉山は、鳩のうんちで頭が白くなったドンキホーテーを見ていた。

「はーい、こちらでーす」

大きな声の日本語に、その方向を見た。バスから降りてくる団体客。いつの間にか、二人の周りには三十人ほどの日本人観光客が集まっていた。

日本人ガイドが、

「いいですか、添乗員さんが後ろにいますから、安心して私の説明を聞いてください」

団体客は後ろを見た。大きなバックを持った女性添乗員が、手を上げて応えた。

添乗員が後ろにいるから安心……その意味がわからず、美穂は小さな声で、

「なぜ添乗員さんが後ろにいれば、安心なのですか」

傍にいた男性に聞いた。

「スペイン広場は引ったくり盗難が多く、危ない場所なんですよ。だから添乗員さんが後ろから見張っているのです」と、腹が突き出て恰幅の良いおじさんは得意気に答えた。

「ああ……そういうことですか」

美穂は不安気に周りを見回しながら、後ろポケットに入れている財布を手で押さえた。彼のそんな仕草がおかしく、

「心配しなくても大丈夫ですよ。で、君は、一人でスペイン観光に来たの」

お腹の突き出たおじさんとなにやら話していた紳士風の男性が声をかけて来た。紳士風だけど、そのセンスは取って付けたように情けないほどで、頭は禿げてすがり付くように残った髪の毛は、もう風前の灯。

「いいえ、二人で来ました」

「二人?」と、おじさんの禿げ頭から疑問符が立ちあがり、その疑問符の中に、この野朗、彼女と来て、毎日楽しんでいるのじゃねえかとの言葉も含まれ、残り少ない髪の毛は風前の灯でも、好色で下種好きな疑問符ばかりは、その存在をしっかりと主張していた。

「ええ、彼と一緒です」と、グループの傍にいる杉山を示した。杉山はスペイン広場の周りにあるオリーブの木と建物に興味を示し、一生懸命写真を撮っている。

好色なイメージを崩されたその男性は、下種(げす)な探りを入れるように、

「ほーっ、あの人、綺麗な人だね」

「ええ、彼は画家志望で、僕の好きな人です」

適当に答えて、美穂はガイドの説明に聞き入っている。

「この広場の周りにある木、この木は、オリーブの木です。そして、両側にいる女性像の右の女性が箱を開けているでしょう、あれはパンドラの箱です」

示された方を見る。皆頷きながら――あれパンドラの箱だって、パンドラの箱開けるとどうなるの――などと囁いている。

(ああ……あの箱はパンドラの箱……それを開けてしまった)

美穂も一生懸命メモを取って、杉山を見ると、カメラワークを考えながらドンキホーテーを背景に団体客を撮っていた。と、

「女じゃなくて、彼と一緒に来ているんだってさ」

「それじゃ部屋も一緒で、ベッドも一緒って訳か」

「当然だろう、僕の好きな人って言ってたぜ」

「僕の好きな人? ヘッヘッヘッ、それじゃ、おかまじゃねえか」

「奴等おかまか、止してくれよ、気色悪い……」

「この社会では、ゲイって、迷惑なんだよな」

ガイドの説明を聞いている美穂の後ろから、先ほどのおじさん達のひそひそ話しが耳に刺し込んで来た。

美穂は悔しかった。トランスファーのガイドも、和田画家も、レストランの店員も、おおっぴらで優しく、自分達がゲイと知っていながら何も違和感はなかった。それどころか、二人の愛を慰撫するかのように優しかった。スペインにこんな人達がいる、美穂は嬉しかった。そんな嬉しさに、何の疑問も持たず彼等の前で、つい僕の好きな人ですと言ってしまった。でも、世間はそんな優しい人ばかりではない。陵辱と侮蔑、人前では悲しげに慈悲溢れた人を演じるものの、人の不幸を楽しむ人間は、この競争社会ではたぶん山ほどいるのだろう。彼等の無慈悲な囁きで、この数年間、知人学友から侮蔑され自らを保護するための孤独の殻が、再び美穂を包み始めていた。

「キャーッ! 泥棒! 助けてーッ」

喉を張り裂く絶叫だった。皆一斉に声の方向を見た。絶叫の主は添乗員だった。黒い大きなバックを必死になって掴んでいる。と、団体客の一人が、

「あのバックには、我々のパスポートが入っているんだ!」

喉を絞って叫んだ。しかし、泥棒は、大きなナイフを持っている。このまま添乗員が抵抗すれば、殺されかねない。しかも、三十センチものナイフを振りかざされれば恐怖が先立って、誰も泥棒に向かっていけない。

「これ持って行っちゃだめー!」

再び添乗員の絶叫。バックは添乗員が掴んで離さない。

「ケテマト! スエルタラ、ホデール! ――この女、命が惜しかったら手を離せッ。こんちくしょう!――」

怒鳴り声を上た。泥棒も生活がかかっているので、そう簡単にバックを手放せない。と、泥棒はショルダーをナイフで切り離した。自由になった。大きなバックを抱え、ナイフを振りかざしながら走り出した。ツアー客は悲鳴を上げ逃げた。当然年配の彼等は、尾を股間に巻き入れた臆病な犬さながら一目散に逃げた。杉山と美穂の方に走ってくる泥棒が間近に迫った。杉山は、ナイフからの防衛のため、樹木の後ろに身を隠し、

「美穂君危ない、逃げろ!」

しかし、美穂は至って落ち着いている。

「この野朗どけ! 邪魔すると叩き殺すぞ!」

当然スペイン語だけれど、こう言う時は全世界共通で、何を言っているか何となくわかるものである。もたもたしていると警察がすぐに来る。逃げている泥棒は必死だった。構えた美穂目掛けてナイフを振り回す。

「ああっ、殺されちゃう、美穂君逃げて!」

杉山は叫んだ。美穂は逃げない。目を泥棒に見据え攻撃の体を取った。

「野朗!」

泥棒は三十センチものナイフを美穂に切り付けた。と、ナイフを持った腕を掴んだ刹那、美穂は体をかわし、

「えあー!」

切り付けた動きを利用して大柄の泥棒を宙に浮かした。見事な一本背負いで、泥棒の頭と足が逆になったまま、みすぼらしい大きな靴を履いた足がゆっくりと弧を描き、泥棒はアスファルトに叩き付けられた。鎖骨を折り肩を脱臼した彼は、ナイフも持てず、その場で悶絶した。

美穂はバックを泥棒から取り返し、呼吸を整えている。

「す……凄い!」

ツアー客の一人が、思わず感嘆詞を放った。

「あ、ありがとうございます。お怪我はありませんか」

ふらふらとした足取りで、女性添乗員は礼を言った。よほど恐かったのだろう、顔面蒼白になって、唇がわなわなと震えていた。

添乗員を気遣って、ガイド、ツアーの人達も彼女に近付いてきた。

「大丈夫です。バックは何も被害が無くて、よかったですね」

「本当に、なんとお礼を言っていいのやら、この中には盗難を予想して、みんなのパスポートを入れていたものだから、私はもう必死になって……」

そこまで言って彼女は嗚咽してしまった。ツアーの人達も添乗員をなだめ、彼女は落ち着いてきたようだ。一呼吸して、

「本当に、ありがとうございました」

彼女は深々と頭を下げた。

「添乗員さんも、怪我はなかったですか」

「ええ、擦り傷くらいで、大丈夫です。あの……せめてお名前でも」

「美穂です。こちらは杉山さん」

美穂は添乗員に杉山を紹介した。

「あっ、ほら、もう警察が来ています」

ツアーの一人が言った。その方向を見ると、誰かが通報したのだろう、パトカーが二台早々に到着、そして、二人の警察が駆け足で近付いてくる。警官は手早く泥棒を取り押さえと言っても、鎖骨が折れて右肩を脱臼した泥棒は、無抵抗どころが情けない唸り声を上げ、医者を要求していた。

事情徴収と言うことで、添乗員は日本人ガイドと警察署に行かなければならない。その間、スペイン人ガイドが観光客をホロー、彼等は事情徴収が終わるまで、バスの中で待機しなければならなかった。

興奮も鎮まり、ベンチに座った二人は、

「凄いね、美穂君は柔道やっているの。でもあの技では、白帯ではないと見たけど」

「黒帯びです」

「黒帯びは何段から?」

「一段から」

「で、君は何段?」

「三段です」

「黒帯び三段か、さすが段持ち、あんな巨漢を軽々と投げ飛ばして、でも、恐くなかったかい」

「あんなナイフを振り回して来るんだもの、恐かったです」

本当は恐くて逃げたかった、しかし、悔しさがあった。あのおじさん達の目の前で、逃げたくなかった。ゲイを卑下した彼等に、自分の勇気を見せ付けてやりたい。美穂は恐怖の中踏ん張った。すると、不思議にも恐怖感は薄まり、目が泥棒に定まった。泥棒は、凄い形相で迫ってくる。しかし、彼の動きが手に取るようにわかった。でも、それだけではなく、次の動きでさえ予測できるのである。三十センチものナイフを振り回し迫ってくる泥棒を前に、美穂はゆっくりと構えた。

美穂はつい先ほどの格闘を思い返しながら、ツアーの乗っている観光バスを見た。添乗員の事情徴収を待っているのだろう、先ほどの恐怖をひそひそと話す人達、本を読んで興奮した気持ちを紛らわす人、もうその事件は忘れたかのようにキャッキャッとはしゃいでいる若者達が、バスの窓を通して見えた。

そんな中で、あの年配の男性が窓際に座っていた。彼等は何やら話している。話しは聞こえないものの、自分の事を話しているのは容易に想像がついた。と、彼等の一人が美穂を見た。何か言った。彼等は美穂を見た。ナイフを持った泥棒に怖気付き、一目散に逃げた彼等だった。ニヤニヤと笑い自らの恥を隠す者、目を逸らせ知らん顔をする者、その場を繕うため他の観光客に話しかける者さまざまな様子を示したけれど、それは、美穂の目の前で欺瞞と繕いに塗れた情けない彼等を曝け出すだけであった。

ツアー客の一人が美穂の目線に気が付いた。彼は頭を下げて礼を示した。美穂も頭を下げ礼を返した。何となく嬉しい気持ちになった。ただそれだけのことだけど、なぜか清々しかった。

「しかし、美穂君は本当に勇気があるよ。本物の男って、勇気のある男ってことかな」

杉山も、バスの窓越しに見える観光客を見ながら言った。

「杉山さんから本物の男って言われて、僕、凄く嬉しいです。でも、僕に勇気なんて無いですよ」

美穂は、この十九年間、羞恥と孤独の殻の中に閉じ籠っていた自分を思い出して言ったのだった。何気なく空を見上げる彼の目線は、青空にぽつんと浮かぶ白い雲を追って……。

「いやあ、勇気なんてものは簡単に出るようなものではなくて、必要肝心なときに出て、初めて勇気って言えるのだろう」

「必要肝心なときに出る勇気?」

「牙を剥き出した張子の虎と寝ている虎を比べてごらん」

「そう言えば、そうですね」

カララーン、カララーン……。

静かに話している彼等の耳に、教会の鐘が鳴り響いてきた。スペイン広場の近くにあるデスカルソス寺院からだった。

「今、何時かな」

杉山は腕時計を見た。

「あっ、もうそろそろ和田さんが来る時間だ」

二人はベンチを立ち、約束の場所に行った。