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小さな声

安西厚


約 88152

 

第一話

~アイとうつ病と~

一つ、また一つとベランダから遠くに見える高層ビルの灯りが消えていく。

今日もアイはヒトリ、ぼんやりとそのうつろい行くさまを眺めていた。

もう何時間くらいこうしているのだろう。多量の精神安定剤と三本目の缶ビールを手に。次第に時間の感覚を失いつつ、それでも心地良さを感じながら。

アイは全身にひんやりとしたものを感じながら、今日も底が見えない思考の深淵へと落ちていく。

みんなと同じように生きること。それがひとり娘であるアイへの両親からの唯一の教えだった。彼女はその教えに何ら疑問を抱くことなく‘普通’にランドセルを背負い、セーラー服に身を包み、そしてキャンパスライフを謳歌し大手家電メーカーの職を得た。自らが思い描いていた履歴書通りの道のりであった。しかし、先日、三十一回目の誕生日を乗り越えたアイは‘普通’という“彼女の中の定義”が全く見えなくなったのだ。

―私なんて居ても居なくても同じ―

彼女の思考の深淵はいつも同じ所へ辿り着く。無邪気に共に過ごしたランドセルは実家の納屋の奥に、初めて異性を感じたセーラー服はタンスの底に、そして熱かった友情の証しは卒業写真の中に刻み込まれている。自由がこんなにも不自由だと感じ始めた現実との対面。その意味すら消化できないまま時間だけが過ぎていく。

しがらみ? 男女の区別? 本当の恋愛? 理不尽な世界?

‘普通’に生きてきた証しに得た過程だけはようやく理解できた。

しかし、アイは現実から得た明確な答えに実感が持てないのだ。

特別に何かがあった訳ではない。突然襲ってきた吐き気と頭痛そして強度の不眠症。内科医の診断では健康そのものだった。

―単調な毎日にうんざりしているから―

アイは自分でそう思い込んでいた。それを一変させたのがニュースで耳にした「うつ病で三十五歳のOLが自殺」という一つの小さな事件だった。それが彼女を心療内科へと駆り立てたのだ。果たしてアイは、そこで過度のストレスによるうつ病だと診断された。そしてその日を境に彼女と抗精神薬との関わりが始まったのだ。

この病の底は深い。感情障害といった精神科医の判断基準も曖昧なもので、決して自己の内因的要素だけで発症するとは断定されていない。例えばリストラなどで発病してもそれが内因性のモノなのか外因性のモノなのか明確に区別されているわけではなく、たとえそれが特定できたとしても治療に際しては全く無意味だという議論もある。この病に冒される可能性は5%~25%。そして発症率が1対2の割合で女性に多いということが、DSMI‐SMII‐III‐R(米精神障害の為の診断と統計マニュアル)の報告で先頃明らかにされた。アイもそのヒトリなのである。自分で処理しきれない色々な出来事が知らぬ間に蓄積し、気が付けば薬付けの日々だ。

この障害の基本的症状は、気分の変化とそれに伴う活動性の変化である。うつ状態の時には全ての気力が失われ、躁状態の時には派手に動き回るという具合で、簡単に言うと自分を自分でコントロールできずにその症状に苦しむのだ。悲観的になったり、非現実的なほどモノの見方が変わったり、不眠や食欲低下という植物的機能(自律神経機能)さえも冒されてしまう。先のアメリカ研究機関では幾つもの症例を分析しているが、結局アイにとってそれらのあらゆるデーターや研究などどうでも良いのだ。彼女にとって必要なのは日々精神の均衡と安らかな眠りだけ。

アイは思った。

心療医師自体に経験のない脳内に起こる解明不能な病を誰が治療できるというのだろう。たとえその経験を持つ医師の診断すら本当に効果があるのかどうか疑問である。休養と環境が薬以外に必要とされる有効な治療法だとか、他人から見れば「甘えているだけだ」と言われ兼ねない病に、どれほど多くの人々が苦しんでいると思っているのか。そして、病に冒されている全ての患者には、各々の生活という借財があり休養などという余裕が持てないというのが実態である。

結局、葛藤やストレスを自ら克服しない限り悪循環を繰り返し、自死へと向かう者さえいるのだ。

―このままの生活が一体いつまで続くのだろう―

残念なことにその答えを導き出してくれるものなど今のアイには思いもつかない。いや、その実行力がないのだ。例えば結婚? 相手がいないしその気もない。転職や趣味に生きること? ストレスの上塗りになることが必至だ。海外へ脱出? そんな勇気があればこのような病に冒されることなどないであろう。そして、何よりも彼女自身それら漠然と思いつく全ての事柄が、自分の求めている答えだとは到底思えないでいる。つまり、やりたいことや夢中になれるモノが何もなく、自分を満たしてくれるモノが何なのか分からずに震えている。アイの実感。

―日々生きるために生きる―

毎日垂れ流される情報の大雨。今日も紛争や飢餓、そして災害などで多くの命が奪われている。今のアイにはその惨状や大事も、どこか遠い出来事のようで、ぼんやりと霞んだ別の世界のようにしか感じられない。

―やっぱり私は異常なんだ―

携帯電話の着信音がアイの耳へ微かに聞こえてくる。同期入社のカナ専用の音だ。重い気分で液晶画面の着信ボタンを押した。週末の合コンの確認であった。アイは気怠さを悟られまいと努めて明るいいつもの自分を演じた。そして、「うん…分かった」と、参加する意思を伝えた。

‘この微かな安堵感と相反する苛立ちは一体何だろう’

薬の効力とアルコールの酔いが激しい勢いで迫ってくる。ようやくアイの一日が終わろうとしている。

彼女は、今日と同じ明日のためにベッドへ倒れ込む。眼を閉じれば違う世界が自分を待っているはず。そう願いながら眠りにつく。

―夢の中での私は、本当の私なのかなあ―

 

こめかみを刺激する電子音が鳴っている。

‘あぁ、もう起きなきゃ’

そう思えば思うほどベッドから出られない。

少し冷たくなっているアイの足先が秋の訪れを感じさせる。あと5分だけ。アイは嫌味な音を発し続けている目覚まし時計の頭を押し、しばしまどろむ。

‘今日は何を着ていこうか’

まだ昨夜の薬が残っている。全身が重い。

二度目の電子音が鳴りだした。いよいよタイムアップ。ポジティヴ。自分に言い聞かせる。重い足取りでバスルームへと向かい赤いコックをひねる。シャワーから飛び出す冷たい水が、徐々に暖かくなっていく。その間隔が、明らかに数日前とは違う。アイは自分にとって一番嫌な季節がやってくることを肌で実感させられる。

素早く身支度にかかる。アイが1日の中で最も女性であることを意識させられる時間だ。自己嫌悪と自信。相反する事実が鏡に映し出される。ノーメイクの彼女は何日も放置された果実のように張りを失いかけ、それでもまだ懸命に食べ頃であることを主張しようとしているかのように見えた。そして、それが紛れもなく30を超えた女の素顔であることをアイに再認識させる。常に綺麗でありたいと思う。

‘私だってオンナなのだ’

しかし、いかにも努力していますというスタイルはアイにとって一番許せないことの一つ。そのくせに実は猥雑なフェロモンを感じさせる同性に対しては、言いようのない嫉妬と魅力を感じているのだ。

アイは鏡を見つめ愚痴る。

‘目だって二重だし、鼻だって人並みの高さを持っているのに’

彼女の自負ではないが、今まで数少ない恋愛経験の中でその容姿について非難されたことなど一度も無い。それだけは両親の言う「普通」に感謝している。そして、それが三十路に突入した彼女の唯一の防波堤になっている。

アイのメイクはここ数年変わっていない。化粧水をコットンに染み込ませ優しく丹念に顔全体を叩いていく。その上に乳液をのせ、薄くファンデーションを塗る。慎重にマスカラをつけアイラインを入れる。眉は自然体を意識し描きこんでいく。チークは頬の高い位置にのせ、丸く広めに指のはらで軽く叩きこんで馴染ませる。肩まで伸びた真直ぐな髪にオーガニックオイルをつけ軽くブラッシング。テレビのワイドショーで時間を確認しながら素早く今日の衣装に身を包む。黒のアンサンブルニットにグレーのストレートパンツ。最後に透明に近いルージュを引く。足元は、先日衝動買いしたTODSのドライビングシューズ。アクセサリーは指輪一つ着けない。GOYARDのトートバッグを右肩に掛けいざ出陣。いつもの時間通りの電車に乗り込む。車内での三十六分間、アイはうつ病を発症してから周りのモノを見ないようにひたすら目を閉じている。車窓から流れ過ぎ去っていくいつもの景色。車内の吊り広告。乗り合わせている虚ろな目をした人・ヒト・ひと。自分もそのヒトリにすぎないと実感してしまうことが怖いのだ。それが彼女を卑しめる。呼吸困難に陥る。薬に手が伸びそうになる。

 

「おはよー」

更衣室でアイとカナはいつもの挨拶を交わす。カナから昨日の電話の念押し。アイは懸命に愛想笑いを作る。心中「やっぱり気が重いなぁ…」

今度の相手は二流商社マンだとカナは懸命に男達の詳細を説明している。彼女の同窓生の紹介らしく、カナに見せられた写メールには見知らぬ男女が肩を組んで微笑んでいた。アイもその同類であることを改めて認識させられる。「思い切って断ろうか」アイの脳裏を不思議な感覚が通り過ぎていく。しかし、それを口にして、はしゃいでいるカナを失望させたくないという気持ちが勝っていた。

「そんな勇気があれば自分の人生も少しは違うモノになっていたのだろうか」と、アイは心の中で呟いた。そして、男女の縁とは摩訶不思議なものなのだと改めて感じるのである。どうみてもカナよりイケていない同期や後輩が寿退社していくというのに。もっとも、取り残されているという実感がないのが二人の共通点かも知れない。

アイのいつもの一日が始まった。当番制になっているお茶を入れるポットの水の入れ替えから、掃除、新人社員のケア、既に分析済みである売れ筋商品のデーター確認とそのコピー。上司から渡される会議用の資料まとめなど。ひたすらこなしていく。何も考えない。何も感じない。このオフィスの中だけが今のアイの全世界である。生きがい、希望、そんなものはここでは全く意味を持たない。意志を持たず体だけが動いている。

気が付けばブラインドの隙間から夕陽が差し込んでいた。時は確実に刻まれていく。終業まであと一時間足らず。アイの精神の不均衡は、いつも定刻通りにやってくる。最も苦痛を強いられる時間だ。その思いは日増しに強くなる。そこには理屈などない。アイにとって、ここでこうしていることがただただ苦痛でたまらなくなるのだ。限界。一錠…一錠、一錠だけ。この苦痛から少しでも逃れられるのであれば。アイは自分でさえ理解出来ない薄い感傷から逃れるために階下の給湯室へと駆け込む。ハルシオン0・25mg。青い楕円形の錠剤を喉の奥へと流し込み大きなため息をひとつ。

アイはデスクへ戻ろうと階段を重い足取りで一段また一段と上って行く。その背後で扉の閉まる鈍い音と共に勢いのよい靴音が耳に響いてきた。アイは何気なく振り返った。目に飛び込んできたのは社内で好感度ナンバーワンと多くの女子社員から評価されているムラカミだった。入社五年目の彼は音響機器を扱う営業二課で、アイとは部署もフロアーも違う。顔を見かけるのは社員食堂か月例朝礼くらいのものだ。入社したての彼を、カナと共に冷やかしに行った記憶がぼんやりと思い出された。それ以来、彼と話をすることなど一度も無かった。ムラカミは背後からいきなりアイの肩を突いた。「えっ?」アイは薬を飲んでいた所を見られたのかと思い咄嗟にその言い訳を探した。久しぶりに間近で見る彼は一回り大きくなったように感じられた。それが、精悍さを増し大人の男になっていく過程なのだろうか。

ムラカミはアイと肩を並べるように歩をゆるめた。思っていたより背が高い。アイは彼の目を避けるようにうつむきながら階段をゆっくり上がって行った。

「お疲れさまです。何だか元気ないっすね」

快活に社内の階段に響くムラカミの声。

「そう?」

アイは即座につぶやくように答えた。彼が給湯室での自分の光景を見ていたのではとそればかりが頭の中を支配していた。

「あの~、突然なんですけど、今度メシ行きませんか?」

ムラカミは、アイの目を窺うように明るい声で言った。

「はぁ?…年上の女性をからかうもんじゃないわよー、ったくー」

アイは自分の憂鬱が思い過ごしであることに内心ホッとしていた。絶対に他人には知られたくない。変な言い訳がまたストレスを生むからだ。

「それってオーケーってことですよね。改めて日時連絡しますから、決定ですよ。マジ、絶対ですからね」

ムラカミは、笑顔でアイにそう言い残し颯爽と階段を二段ずつ飛び上がって行った。何が起きたのか把握しきれないアイは、薬の効力を少しずつ感じながら呆けたように階段の踊り場で立ちすくんでいた。

 

鼻の奥に全てが枯れていくような匂いが広がっていく。かろうじて緑色を残している木々の葉がぐったりとして見える。

アイはいつものようにベランダから遠くに見える街の灯りを眺めながら頬に冷たくなった風を感じていた。いつもより多量に摂取したデパスとアルコール。薄れていく時間と記憶の中、ふと数日前のムラカミの言葉を思い出していた。年下の男からの誘い。初めてという訳では無いが、気にならないと言うとウソになる。

「どういうつもりなのだろう…」挨拶代わりの言葉? 興味本位? 何だかモヤモヤする。

「どうでもいいか…」それより、いよいよ明日はカナと約束のコンパの日。憂鬱でたまらない。カナに電話しよう。アイは握りしめていた携帯電話の液晶画面をスライドさせた。薄暗い闇の中にカナの番号が浮かび上がる。何度も発信ボタンを押そうと試みるが、カナの落胆した顔が脳裏をかすめる。全てが面倒だ。

「たいした事じゃないわよね」

アイはヒトリつぶやきながら電話をクローズさせた。

薬の効力が全身を支配する。そして大きなため息をついて、ベランダから見えるいつもの景色に向かい囁いた。

―ここからは何にも見えないなあ―

まだ睡魔はやって来てくれない。誰にも見せたくない心のどこかが疼いている。

―私の存在って何―

いつもの薄氷な感傷がアイの頭を支配しようとしている。目の前の景色が次第にぼやけていく。仕事も、恋愛も、食べることも、寝ることも、この世に生を受け、こうして生きていること全てに苛立ちを感じる。一体生きることの価値を決めるのって何だろう。

アイは自分の中にその答えを見いだせずにいる。そして常に他の何かにそれを求めようとしている。 取り止めのない自問自答。今日は重症のようだ。人は必ず誰かと、そして何かと関わりを持って生きている。与えられた時間は二十四時間。それだけが全ての生物にとって唯一の平等だ。アイは遠のいていく意識の中で思った。

―結局人生って暇つぶしなの―

色々な人々がその環境によって時間を浪費している。例えばお金のため、享楽のため、世のため、人のため、愛する人のため。あるいは病苦や貧困、自思では解決できない困難と戦うため。その浪費の方法が違うだけでみんな生きることに懸命になっている。いや、それぞれの‘生きがい’に向い戦っている。自らの存在に自慰しながら。あるいは誰よりも‘美味しい’位置へ辿り着こうと。そしてそれらは常に誰かに評価され、その誰かの価値観によって善し悪しが決定される。まるで通知表のト書きのように。全ては結果が重視され、本来評価されるべき経緯はいつも後付けだ。そしてその誰かの評価が少しでも悪意を持ったものならば、その結果すらも否定されてしまうのだ。

権力、権威、信用する、されるという錯覚。国家、組織、社会、家族、友人。 それら全ての内側では常に争いが絶えることはない。

 

午後八時十分前。アイとカナはコンパの待ち合わせ場所に到着した。赤い縁取りの大きな看板には白抜きで飲み処・食い処と書かれた大きな文字。精一杯に今風にしてみましたという居酒屋のチェーン店前。週末の盛り場は、人の渦と激しいネオンがこれでもかというくらいにひしめいていた。先着のカナの友人たちに初めましての挨拶。アイは自分と同じ年齢ということ以外なんら彼女たちに興味を得なかった。

細かく仕切られた店内。カナを先頭に彼女たちは座敷の個室へと案内された。既に自称商社マンたちは勢揃いしていた。平均年齢では私達のほうが勝っているかもしれないとアイは感じた。一同初めましての挨拶も適当に早速乾杯の儀式に自己紹介。気分が乗らないアイはなんとなく落ち着かない。

堰を切ったようにチーム男子の質問攻撃。仕切り役と思われるマツヤマが、ひときわ大きな声を出しあれこれとみんなに指示を出している。時間が経つにつれて男たちの目が変化していく。それはまるで、神経質な主婦が食材の良し悪しを見るような目だ。そして、女たちの目は媚びるような澱んだものになり、宴は訳の分からないゲームへと進展していく。会ったばかりの男たちは、入れ替わり立ち代わりアイの横に座り、あたかも旧知の仲であったかのようにやたらと乾杯を要求してくる。アイはその度に小さく会釈をして、グラスに注がれたビールを舐めるように啜る。趣味は? 休みの日は何しているの? 好きなタイプは? 聞き慣れた質問に曖昧な返事。笑えない冗談に愛想笑い。アイはひたすら時が過ぎていくのを願った。

そして、二度目の化粧室で黄色の円形をした精神安定剤トリプタノールと白い楕円形のベンザリンを三錠ずつ飲んだ。今日はこれで処方指示の四倍の服用量になる。しかし少しも楽になれない。手を洗い鏡で目の充血をチェックする。そしてそこに写っている自分に向かって言った。

‘あんたどうしてそんなにつまんない顔してるの? 予想してたじゃんこの展開’

時計の針が十時を過ぎている。二軒目に行こうとマツヤマが言い出した。珍しくカナも同調している。

「ねえ、オガワくんって良い感じだと思わない?」

アイのうんざりした顔を察知したのか、カナが声をかけてきた。紺のスーツに白いシャツ、グレーのレジメタイ。ひょろりとした

体つきに頼りなさそうな顔立ちは確かにカナのタイプにはまっている。

「う~ん、どうだか。っていうか、マジ、私なんだか疲れちゃった。いい男もいないし今日は帰るね」

「え~もう1軒だけ、ね、いいじゃん。明日は休みだし。ねえ~お願い付き合ってよー」

カナの目がすわっている。いつにない懇願である。

「おいおいそこ~、何こそこそやってんの。次行くよ、次」

仕切り役のマツヤマが、カナの友人の一人を抱きかかえるようにして既に立ち上っている。押し出されるように店外に出たアイは、ひんやりとした空気を深く吸い込みカナに言った。

「分かったよ。でもホントに次で帰るからね」

「ありがとー、そう来なくっちゃね」

「勝てないよ、カナの笑顔には」

その無邪気な姿にアイは観念した。

八人もの男女が夜の盛り場をぞろぞろと徘徊している。アイにはすれ違う人達の視線がやたらと痛く感じられた。

「あぁ、また自己嫌悪だ…」

薬とアルコールの効力がアイの思考を少しずつ感傷的なモノへと変化させていく。明らかにうつ症状の始まりだ。カナがお目当てのオガワと、じゃれ合うようにアイの前を歩いている。一同は小さくBAR HALL B1Fと書かれた、地下へと続く細く長い階段を一列で降りて行った。厚い木製のドアは開かれていて、アイは最後尾のマツヤマの誘導で店内に入った。

「マスター、今日は美女四名様ご招待だからね。特別サービスで宜しくね~」

マツヤマは、真っ白い口ヒゲをたくわえた初老の店主に目で合図を送りながら言った。どうやら男たちの行きつけの店のようだ。

「え~っと、まず席順を決めるから。ボクちゃんの独断で」

マツヤマはおどけるような声で言った。

「意義なーし!」

男子たちの気勢が上がる。

「マスター、取りあえずビールね。ピッチャーで」

まるで台本でもあるかのように宴は進行して行く。店内には心地よい音量でビリー・ホリデーの悲しげな歌声が流れていた。貸し切っているわけでは無さそうだが先客はいなかった。二十坪ほどの狭いスペースに六席の短いカウンター。その奥には瓢箪を変形させたようないびつな形をした一枚板の八人掛けのテーブルが一つ。その上を手のひらにのる小さな金魚鉢のようなガラス細工が四つ。その中には水に浮かんだローソクの炎がBGMに乗って踊っていた。

「さーてと、まずヨシモトはここね。その横がユミちゃん。オガワはそこでいいや。カナちゃんはその横で、え~ここはボクちゃんね。で、となりは…」

マツヤマはアイを指名した。カナはお目当ての傍でいつもの屈託のない笑顔を浮かべてはしゃいでいる。ほどなくして目の前にはビールグラスが並べられ男の酌で白い泡と濁った金色の水が女性たちのグラスに注がれた そして再び乾杯の儀式。

マツヤマの「よ~し、今日はとことん飲むぞ~」という掛け声に男子たちやカナまでが「おー!」と気勢をあげそれまでの静けさが完全にかき消された。

アイは左右からの歓声をどこか遠くに感じていた。酔ったかもしれない。

「ヤバい」トイレに向かう足取りの重さが薬の効力を知らせてくる。

再び鏡で自分の顔を見つめ「バカ」とつぶやきながら青い楕円形の錠剤をひとつ流し込んだ。心が泣いている。

―私は漂いたいだけなんだ―

 

嫌味な目覚まし時計は既に午後一時を回っていた。

優しげなアイボリー色の陽が、レースのカーテンをすり抜け小さなリビングに溢れている。アイはひどい頭痛と胃の不快感でいつまでもベッドから出られずにいる。良く眠ったはずなのに気分がすぐれない。トイレに行くのさえ億劫だ。紛れもない薬とアルコールによる二日酔いである。アイは、ベッドの横に放り投げられるように置かれたバッグからペットボトルの水を取り出し一口飲んだ。そして、薬入れにしているプラスティックのシガレットケースを開けた。一週間分の安定剤と三日分の睡眠誘導剤が消えていた。

「やっちゃたなぁ…」

昨夜の記憶がぼんやりと蘇ってくる。

たしかカナは三軒目でアイに何も告げずにオガワという男と姿を消した。その後がうまく思いだせない。一体何軒もの飲み屋へと引きずり回されたのか。とにかく最後はカラオケ屋で、外に出た時には夜が明けようとしていたこと。そして、マツヤマがアイを家まで送ると強引にタクシーに押し込み、その車中でディープなキスをされたこと。マツヤマの短く濃いヒゲが頬に痛かったこと。アイは、自制出来なかった自分への後悔が、悲しいくらいに自分の心の柔らかい部分を締めつけていることに懺悔した。

「もう少し眠りたい、もっと深く、深く、深く」

アイは残り二日分の睡眠薬を一気に飲みこんだ。

何時間くらい経ったのか、すっかり暗くなった部屋の中に、濁ったオレンジ色の間接照明の灯りがアイの目に映った。突き刺さるカナの着信音がバッグの中から響いている。アイは、重い頭で携帯電話を取り出した。

「アイ、大丈夫? 今日、何回も電話したのよ」

「…」

朦朧としたアイの意識の中、高揚したカナの声が耳の奥に飛び込んで来た。

「昨日は先に帰っちゃってごめんね。あれからどこに行ったの?」

「…」

「ねえ、アイ。どうしたの? 怒ってるの?」

「ううん…今まで眠ってた」

アイは、精一杯の声を振り絞り答えた。

「えー、うそー? っていうか、ホントに大丈夫なの?」

「うん、何とか…」

「今から行こうか、アイのお家に」

「ううん、ホントに大丈夫だから。心配しないで」

「何か責任感じちゃう。ホントに具合が良くないなら絶対連絡してね」

アイは、何の断りもなく勝手に消えたカナに、少しの苛立ちを感じながら曖昧な応答を繰り返し早々に電話を切った。もとより彼女の相手を出来るような精神状態ではなかった。もっと、もっと、もっと深く眠りたい。その時間だけは全てのモノから解放される。そう信じて。

―もう無理だよ…―

彼女は再び眠りに落ちた。そして、普段では記憶にすら残らないような夢しか見ない彼女は異様に鮮明な夢をみた。

 

アイは機関銃を手に白昼の繁華街にいる。大勢の人波に押し流されるようにして、スクランブル交差点の真中に立っていた。行き交う人々は、明らかに異常なその姿を気にする風でもなく通り過ぎて行く。アイは無意識に銃口を天に向け引き金を引いた。その銃の扱いは信じられないくらいに様になっていた。乾いた音と出弾時の衝撃が生々しく彼女の全身に響いている。肩越しを黒服のホストのような男が通り過ぎて行った。アイは、その男に照準を合わせ引き金に手をかけた。三発の乾いた銃声。その音と共に男は嗚咽すらあげられず膝からその場に崩れ落ちた。しかし周囲は何事もなかったように、その様だけが、アイの目に映っていた。その真横を派手な化粧をした制服姿の女子高生たちが、楽しそうに奇声を上げながら歩き去ろうとしている。再び乾いた出弾音が響いた。折り重なるように前のめりに倒れ込む女子高生たち。彼女たちの背中からは噴水のように湧き上がる鮮血。それは、この世のどんな赤い色よりも神々しく見えた。その彼女たちの上を何台もの車が踏みつけて行く。同時に激しいクラクションの嵐がアイに襲いかかってきた。アイはその嵐に向かって弾が無くなるまで引き金に全身の力を込めた。凄まじい銃声の後も周囲からは悲鳴すら聞こえず静寂だけがアイを包んでいる。彼女はその光景を恍惚とした表情でいつまでも眺めていた。

 

目覚めたアイの手には握りしめられていたはずの携帯電話が、道に吐き捨てられたガムのようにねっとりと床にへばりついていた。

 

週末の四十八時間という不自由の中の自由の後、生活のためという苦しみの百二十時間が始まる。

アイは薬の残った重い頭でいつもの身支度を整え、いつもの電車に乗り込み目的駅まで懸命に目を閉じ職場へと向かった。更衣室ではカナがアイを待ち構えていた。あれこれと質問攻撃。必要以上にコンパ後のことを話題にしているが、カナの目がいつになくどこか浮ついている。アイは直観した。実は自分のことよりカナ自身の事後を聞いて欲しいのだと。決して隠し事のできないカナの愛らしさ。アイは心の中でつぶやいた。

「本当、憎めないなぁ…」

帰りにいつもの所でということにしてアイはその場を逃れた。昼休みには薬の補充に薮クリニックへ行かなければ。それを動機にアイはまた完全な機械に変身する。ひたすらいつもの作業をこなしていく。アイは終業前にいつもより多くの精神安定剤を喉の奥へ流し込んだ。今夜のカナとの会話に備えてである。嫌な頭痛も治まり、心が楽になっていく自分を確認しながら「今日はホステスか」と心の中で思った。

フロアーの違うカナがニコニコしながらアイのデスク横に立っている。お迎えである。彼女に促されるようにデスクの上を素早く整頓し「お疲れさまでしたー」という大好きな言葉を残して二人は更衣室に向かった。いつもより素早く身支度を整え、会社近くの唯一アイとカナの行きつけと呼べる居酒屋へ直行した。

安さだけが取り柄のその店は六時過ぎだというのに満員御礼だ。ドブネズミ色のスーツに奇妙な柄のネクタイ。みんなが同じ素振りのオヤジたちの声、こえ、コエ。店内は仕事の愚痴と今日の出来事で溢れていた。アイには、いつもそれがある種の宗教的な意味合いを持つ光景のように思えてならない。

二人は馴染の店員に誘導され店内中央の席へと腰を下ろした。

「先に帰るなら、そう言ってくれてからでも良かったんじゃないの~」

席につくなりアイは、少し意地悪な表情を浮かべ切り出した。

「うん。ごめん。悪いとは思ったんだけど、彼がそっと抜けようって言うもんだから。っていうか、あの後ホントに大丈夫だったの?」

「んん…すごい二日酔いだったけどぉー。もちろん大丈夫だったよ。これで今日はカナのおごり決定ね」

「うん」

カナのお目当てはすっかり‘彼’に変わっていた。彼女の頬の緩み。この素直さが憎らしくもあり可愛らしさでもある。とにかく彼女のオンナとしての最大の武器であることに間違いはない。

「すいませーん! ここ生中二つお願いしまーす」

アイは周りの喧騒をかき消すように大声で言った。

「さーてと、今日は何をたべようかなぁ~、エへへ~。出し巻き卵に、揚げ出し豆腐。エイのひれ、塩焼きそばに、ポテトサラダよね」

カナをからかうように、アイは二人のいつもの定番五品を素早くオーダーした。

「それでどうなったの、抜け出したあなたたちのその後は」

「それが…」

もじもじしているカナ。ビールが運ばれてきた。アイは、二人だけの恒例である視線だけの乾杯を送りジョッキに口をつけ言った。

「寝たんでしょ?」

カナは手にしたジョッキを煽るように飲み、アイを見つめ小さくうなずいた。みるみるカナの頬が赤みを帯びてくる。

「そっか。一目惚れかぁ。良かったじゃん。好きになれる人が見つかって」

「…」

カナはうつむきながらジョッキを所在なく回している。

「どーしたのよの。何だか急にしょげちゃって」

「…」

「だから、どうしたのよ!」

他人には滅多なことで干渉しないはずのアイの好奇心が疼きだした。

「…実は…」

ようやくカナは顔をあげ、アイの目を見つめ小さな声で話し始めた。

「昨日も電話があって、また会いたいって言われたの。で、確かに好きになったって。でも彼には彼女がいるみたいで。腐れ縁だから別れるタイミングを計ってるところだって」

「はあ~? ちょっとカナ、あんた歳いくつよ。それってまんまと嵌ってんじゃん」

「でも、彼のこと好きになっちゃたんだもん。嵌ってるとか自分でも分かってるけど、どうしていいか分かんなくて。っていうか、話してるだけでもドキドキして、どんどん惹かれていくの」

「…全くー」

男っていつもこう何だからという思いがアイを苛つかせた。

「もうブレーキかけられないんでしょ?」

「うん…、ちょっとヤバいかも」

「そっか、じゃあもう行くとこまで行くしかないじゃん」

「でも、ホントにいいのかなぁって」

「ん、何が?」

「だって、その彼女のこと考えたら」

いつしかテーブルいっぱいに、いつもの五品が並んでいる。アイは塩焼きそばを口いっぱいに頬張りながら言った。

「ねえ、カナ。それって私にしてみれば羨ましい話だよ」

「えっ?」

「いいじゃん。そんな女のこと。だって好きなんでしょ、彼のこと」

「う、うん」

二人のジョッキが空いた。

「すいませーん! ここ生中二つ!」

アイの声がひときわ大きく喧騒の店内を突き抜けた。カナは、所在ない表情で出し巻き卵を突いている。

「私だって偉そうなこと言えないけど、その彼女は彼女、カナはカナ。でしょ? あきらめることが出来ないんだったら奪っちゃえばいいじゃん」

アイは喉を鳴らしビールを胃袋に流し込んだ。アルコールと薬の効力が頭の中で暴れ出している。自分にとってどうでも良いはずの恋愛話にいつになく興奮していた。遂には箸をマイク代わりにしておどけながら「愛は奪うモノなりー」と芝居掛かった調子で言い、カナはそのアイの表情に思わずクスリと笑みをこぼした。

「私ってかなりオヤジ入ってるよね」

アイの言葉に二人は声をあげて笑った。カナは、エイのひれを引き裂きながら言った。

「だって私たちアラサ―だもんね」

「そうだ! 入って悪いか! 三十路組!」

二人は更に大きな声で笑い合った。

「よーし決めた。奪い取ってやるー。だって、会うのが遅いか早いかってことだけだもんね」

「そうそう、その調子だよ」

「深刻になるだけ損だよね。ねぇ、アイ、そうでしょ?」

「っていうか、アラサ―に怖いモノなーし!」

「アイ、そればっか言い過ぎ」

お互いに笑いが止まらない。アイはこの奇妙な盛り上がりに、言い知れぬ自分の思いを重ね合せていた。どれほど飲んだだろう。気がつけば二人ともすっかり出来上がった状態である。

「アイ、ありがとう」

突然のカナの神妙な言葉にアイは我にかえった。そして必死に同じ言葉を心の中で繰り返していた。

―それが生きがいになっていくんだ―

 

カナとの一件からちょうど一週間。アイのデスクの内線電話が鳴った。果たしてそれはムラカミからであった。今度の週末に食事に行こうという約束の履行を求める内容であった。咄嗟にアイの頭の中に色々な思いが駆け巡った。同じ社内の後輩、後々面倒なことになりはしないのか、どんな会話が成立するのだろうか。やっぱり断ることが賢明なのか、あれこれ悩んだあげく、アイはムラカミの誘いを承諾することにした。それは、何よりも年上ということを意識して、気取っていると思われるのが嫌だったからだ。アイ特有の奇妙なプライドがそうさせたのだ。

当日、アイはいつにも増してマンニッシュなスタイルで家を後にした。彼女は、ムラカミが同じ会社であるということから薬の服用を抑制した。抑うつ作用で何を言い出すのか分からないという怖さ、そして、澱んでいく自分の心の内側を悟られはしないかという危惧があったからだ。

「普通にかぁ…」

アイはため息交じりに呟いた。

待ち合わせ場所へは、予めムラカミから聞いていた通りの道筋を辿った。そこは閑静な住宅街の真中で、一軒家を改装した一風変わった数奇屋造りの建物であった。

入口の格子戸を入ると小庭があり、そこに広がる一本松の木が心地良く客人を迎え入れてくれるかのように大きく枝を広げていた。足元の川砂の上に対角状に敷き詰められた石の上を歩いて行く。アイは観音開きの扉を開けた。真っ先に目に飛び込んで来たのは外観からは想像もつかない近代的な内装であった。大きな柱となっている檜が、縦横無尽に釘後もなく配されており、それを囲むようにして内壁や天井が擦りガラスで覆われている。天からは暮れいく自然な陽と隅々に置かれたガラス棒の灯りが柔らかく店内を照らしている。その空間はアイに透明感ある温もりを感じさせた。彼女は感嘆の声をあげた。そして心から願った。

‘今夜は薬に頼らずに過ごしたい’

気さくで小洒落たウエイターがアイを席まで導いてくれた。檜のテーブルの上には信楽焼きのいびつな形をした灰皿に吸い殻が六つ。

「こんばんは」

ムラカミの自然な挨拶は、社内での評判通り好感ナンバーワンを裏付けるに等しいものだった。

「ごめん、待たせちゃった?」

「いいえ、ボクが早く着き過ぎちゃって。それに無理やり誘ったのはボクの方ですから」

確かに時計は約束の七分前だ。

「すごく素敵なお店ね」

「気にいってもらえました?」

「うん。だってこんなに閑静な住宅街にあるレストランなんて、今まで行ったことないし、心地良過ぎちゃってびっくりしちゃった」

「あぁ、良かった」

ムラカミは安堵の表情を見せ続けた。

「実はこの店ボクの父がオーナーなんです。って言っても料理なんて全く出来ない人なんですけど。母が八年前に死んじゃって、父はそれからは外食ばかりで、それならいっそのこと自分でレストランを造っちゃえって。とにかく食べることが好きなんです。ボクの父は。だから、ここへ誰かを招待するなんて何だか照れくさくて。でも今日は特別です」

彼は少し頬を赤らめタバコに火をつけた。

「でも、すごく趣味が良いお父さんなのね」

「やっぱり照れくさいなぁ。とりあえず何か飲みましょう。何だかホっとしたっていうか、嬉しくて。んー、リラックス、リラックス」

ムラカミは、少し肩を上下させながらウエイターに目配せをした。

ほどなく灰皿が撤去されテーブルの上にはバカラのシャンパングラスが運ばれてきた。ウエイターは慣れた手つきで気泡を発した黄金の液体を二つのグラスに注ぎこんだ。アイはムラカミの言動の全てから育ちの良さと人あたりの良さを感じていた。そして世の中を斜めに見ている自分とは正反対なのだと心の中で思った。

二人はグラスを重ね合い目だけで乾杯と挨拶を交わした。アイはまだ照れた表情をみせているムラカミに世間話を振った。

「ねえ、その食通のお父さんのお話面白そう。良かったらもっと聞かせて」

「え、ええ。でも特別語るほどりっぱな父じゃないんですけど」

「いいじゃん。私の父は中学に入る前に死んじゃったから興味あるんだ。父親の存在に」

ムラカミは、アイの唐突な言葉に複雑な表情を見せながら答えた。

「そう、そうだったんですか…。ん、えーと、ボクの父の本職は弁護士なんですけど、終戦で幼かった頃、食べることでひどく苦労したらしくて、とにかく、食うってことだけはって言うのが口癖なんです。特に母が死んじゃってからは本職よりこっちの方に身が入ちゃってて。ここは彼が築き上げた生き甲斐の場なんです」

アイは感嘆した声で答えた。

「ふーん、そうなんだ。でも優雅よねー。こんな素敵な空間のオーナーで弁護士なんて。何だかムラカミくんって私の想像してた感じと全然違うから…ホント、別世界の人って感じだよ。で、ムラカミくんって兄弟は?」

「ボク、一人っ子なんです。でもその期待の一人息子は、子供のころから父の期待を裏切り続けて、結局二流の大学出て、家電メーカーなんかに就職したものだから…。父が、ボクにまともに話かけてくれるようになったのもつい最近ですから」

二人のシャンパングラスが空き、ウエイターが絶妙なタイミングで、キャラフに入った赤ワインとグラスを運んできた。そして、大きく口を開けたそのワイングラスに血の色より鮮明な赤い命の水を注ぎこんだ。

「ワイン、赤で良かったですか?」

ムラカミの問いにアイは軽くうなずき、擦りガラス越しにかすかに見える小庭の松の木に目をやった。すっかりと陽は落ち、庭に配された丸いガラス玉のオレンジ色が、ぼんやりとアイの目に映る。二人は、グラスの足を持ちくるくると二、三度回し同時に一口飲んだ。濃厚で芳醇な味わいが食道を通り過ぎ胃の中へ吸い込まれていく。そして、テーブルには楕円形をした青磁の皿に盛りつけられた料理が運ばれてきた。

「ホタテ貝と秋茄子の前菜です」

ウエイターは料理の簡単な説明を残しさり気なく去っていく。この皿だけでもアイの年収はありそうに見える。

「わぁー、すごーい」

「さぁ、食べましょう」

二人は、料理とワインに舌鼓を打ちながら、会社での共通の話や世間話に花を咲かせた。アイは、自分の心がこんなにも素直になれるということに驚きを感じていた。

「色が鮮やかですごく素敵なテリーヌ。食べるのがもったいないって感じ」

アイは、思わず次なる料理にも感嘆の声をあげた。それに呼応するかのように、そのテリーヌがオヴェールニュ地方の豚の肝臓を使っていること、そしてそれを粗挽きにして網脂をした後オーブンで焼き、冷やしたジュレを添えてあるのだとムラカミは説明してくれた。

「ねえ、ムラカミくんって、毎日こんな素敵な料理を食べてるの?」

「まさか! ボクの主食はコンビニ弁当ですから」

二人の顔から笑みがこぼれた。更にかぼちゃの冷製スープが運ばれ、その上品な味にアイは何度も「おいしい」を連発し、メインの子羊のソテーのオレンジソースの鮮やかさに胆を奪われた。OL駆け出しの頃、雑誌で拾ったグルメ情報を元に、散々食べ歩いた経験値はもはや忘却の彼方である。アイはデザートの木苺のシャーベットを食べ終え言った。

「私感動しちゃった。ホントに美味しかった。ムラカミくん、ありがとう」

アイは、テーブル越しに深々と頭を下げて二軒目の誘いをムラカミに促した。

‘何かに渇望している私’

‘全てに絶望している私’

‘そして薬物依存である私’

誰にも知られたくない自分だけのつまらない感傷たちから解放されている。その刹那にさようならと言いたいと心から思った。もはやムラカミの本意はどうでも良かった。今日が彼にとって特別な日ではなく、自分にとって薬など必要としない特別の日になろうとしていたのだ。アイは、真摯にそう願い、そう思った。

 

少し酔った二人は頬に心地よい夜風を受け、たわいも無い話で盛り上がりながら肩を並べて歩いた。大通りに出てタクシーを捕まえ、アイはとっておきの店へとムラカミをいざなった。

「こんばんは」

彼女はいつになく元気な声で‘DO-TSUBO’と書かれたバーの扉を開け、馴染であるマスターへ挨拶をした。

「いらっしゃい」

軽く会釈で交わす店主。アイはいつものカウンター席ではなく、その奥にある静かなテーブル席が空席であることを確認し言った。

「マスター、奥のテーブル席良いですか?」

「どうぞ」

いかにも気難しそうな店主は、いつものようにアイを迎え入れ言葉少なく答えた。背後にいるムラカミの存在には目もくれない。アイにとってその言葉数の少なさと気難しさがお気に入りであった。

ここで何度涙を流したことか。しかし、今日のアイは明らかにいつもとは違う。精神安定剤も睡眠誘導剤も睡眠薬も服用していない。

そう、シラフなのである。

腰を下ろしたアイは、ムラカミの表情がくもっていることに気がついた。

「どうしたの? 車の中からずっと無言だけど。何か気にさわった?」

店主がアイのマッカランのボトルと炭酸水、そして氷にグラスを運び無言で去って行った。

「ムラカミくん、ソーダ割りで良い?」

彼は無言で軽くうなずいた。アイは二人分のハイボールを作りながら言った。

「ここが私の特別な場所なの。誰かと来るのなんて初めて。ひょっとして嫌だった?」

「いいえ…そんなこと…」

振り絞るようなムラカミの声。

「じゃあどうしたのよぉ? 何だか急にシリアスな顔しちゃって。あっ、ひょっとして恋の悩み? それならこのアイさまが何でも聞いちゃうわよ」

おどけて見せるアイにムラカミは言った。

「あの…、突然なんですけど、どうしても聞きたいことがあって」

「へへーん、やっぱ恋の相談ね。今日はとっても楽しかったから、そのお返しに私がなんでも解決してあげる」

アイは、ムラカミにグラスを渡し目配せで乾杯をした。彼はそれを一気に飲み干しゆっくりとした口調で言った。

「これだけは消し去りたいっていう思い出ってありますか?」

ムラカミの唐突な質問に、アイは自身の問題である薬物依存を意識しながら努めて明るく答えた。

「そりゃー山ほどあるわよ。っていうかあり過ぎ。これでも私アラサ―なんだから。もう誰か私をもらってぇーって感じ」

ムラカミの表情が更に険しくなっていく。アイはムラカミに二杯目のハイボールを渡した。彼はそれをまた一気に飲み干し、深く考え込むように眉間に緩いしわをよせ、大きくため息をついた。

「実は…今日、どうしてもアイさんにボクの忘れ去りたい思い出を聞いてもらいたくて」

アイは、ハイボールをすすりながら聞いている。

「さっきボク、今日は特別な日って言ったのを憶えてますか?」

「う、うん」

「今日は母の命日なんです」

「えっ…そ、そうだったの?」

「ボクのせいで死んだ母の…」

アイの目から笑みが消えた。

うつむいているムラカミの姿は、明らかに怒りに耐えかねているように見えた。

「実はボクの母、殺されたんです」

アイはムラカミが何を言わんとしているのか理解できなかった。つい数分前までは楽しく過ごせていたのに。

「あれは確かにボクのせいだったんです。母は物静かで愚痴一つこぼさない、優しさだけが取り柄のような人でした。ボクに何かを強要するようなことも無く、今思えばあんなに優しい女性はいなかったのに」

彼は、自分に言い聞かせるように話し続けた。

「一人っ子だったせいもあって母には甘えっぱなしで、っていうか我儘放題で。当時の父は仕事仕事で、ボクはあんまり家に寄りつかなくて。五人組っていう仲間がいたんだけど、そいつらの家を転々と泊り歩いて。何が不満だったのか、ただ同じような毎日が堪らなく嫌で、いつも何か夢中になれることを探していたっていうか…」

ムラカミの語気から力が抜けていく。

「ごめんなさい。やっぱり、こんな話しするべきじゃないですよね」

アイは、ずっとうつむき必死に言葉を探していた。

「うっ、ううん。そんなこと…ただビックリして。っていうか心臓が…」

咄嗟に返答したアイは、かぶりを振り語気を強めて再び答えた。

「ほんとよ。つまんないなんて、そんな問題じゃないよ」

ムラカミはさみしげな表情でマッカランのボトルを手に自分のグラスに注いだ。それを煽るように飲み干し、グラスの底を見つめて話を続けた。

「高二の夏休みでした。その日は特に蒸し暑くて、何だかボクたちの苛立ちもピークに達していました。その日はボクが言い出したんです。河川敷のホームレスタウンを襲撃に行こうって。ボクたちは、バットや棒切れを手に次々と罪のない無抵抗な人たちに暴力の限りを尽くしました。力の続く限り。誰かが逃げろー!と、大声で叫ぶまで。時間の感覚もなく、見渡せば薄い月明かりの下、血と呻き声の修羅場でした。逃げようと走り出したボクは、一人の男に足首を捕まれたんです。それを振りほどこうと、その男の手にバットを思い切り振り降ろしました。バクっていう鈍い音がして、その男の手が放れていきました。その瞬間の顔を、目を、ボクは冷ややかに見降ろしていました。苦渋と怒りに満ちたその形相を…」

ムラカミは、時折咳き込みながら、そして目に涙を浮かべながらマッカランを煽り、ひたすらグラスの底を見つめていた。アイは、うつむいたまま全身に薄らと汗がにじみ出る嫌な感覚に縛りつけられていた。

「事件が起きたのは大学の入学式の帰り道でした。駅から商店街へと家路に着いていたボクと母の前に、突然あの時のホームレスの男が現れたんです。その手に出刃包丁を光らせて」

アイの体が小刻みに震え出した。もはや声どころか顔さえ上げることも出来ない。

「ホームレスの男はあの時と、あの時と全く同じ形相でボクを睨みつけていました。ボクは硬直してしまい、呆然と立ちすくんでしまって。あっという間もなく男はボクに包丁を振りかざし襲いかかってきたんです」

ムラカミは、目頭を押さえながら嗚咽を発した。ようやく顔をあげたアイは、ムラカミの姿を見てそっとハンカチを差し出した。ムラカミの嗚咽は更に加速し、その声は店主に届くほどだった。それまで流れていたアイの大好きなハーレムブルースから一転して激しいツービートのリズムを刻むボブ・マーレイに変わった。

「本当に、本当に一瞬の出来事だったんです。横にいた、ボクの横にいた母が、呆然としていたボクを、ボクを突き飛ばし、その兇器が、その刃物が、母の胸に、ボクの母の胸に突き刺さったんです。ボクは、こめかみに熱いものを感じて、その場に倒れ込んでしまって…憶えているのは血まみれになった母の、ボクの母の胸に突き刺さっていた刃物の鈍い光だけだったんです。周りを取り囲んでいた人達の悲鳴も、取り押さえられた男の姿も、ボクを抱きかかえてくれた人たちのことも、何もかもがスローモーションみたいで…母は即死でした…」

 

その後、アイはムラカミとどんな会話を交わし、どうやって家まで辿り着いたのか全く思い出すことができない。

―私は日々ヒトリで感傷にひたり、薬を頼り、そして生きることに自虐的だった―

アイは心を閉ざして他人を受け付ける心の余裕が持てなかった自分を憂いた。

アイの薬物依存が解消されたわけでは無いが、心の中にはそんな自分が一体何者なのか、誰かを愛するという本当の意味が少しだけ分かった気がしていた。それだけが鮮烈に胸に響いていた。

何故、彼が自分の忌まわしい過去を自分に話したのか。それは、フタリで暮らし始めて半年を経た今も謎である。

アイは、それを明日こそムラカミに聞いてみようと思っている。

カナとオガワの披露宴のあとに。

 

第2話

~理想と現実と~

裏地のグレンチェック柄が表地からも確認できるほどほころびた、紺のトレンチコートに膝の抜けたベージュのコットンパンツ。両手をコートのポケットに突っ込み肩を丸めながら、コージはヒトリ、死人のように透き通った顔色で千日前商店街の外れを夢遊病者のように歩いていた。時折茶褐色に変色し、あちらこちらに穴があいたアーケードを仰ぎながら「何が大麻取締法や」と、同じ言葉を繰り返しつぶやいている。

残暑が残る9月末の金曜日の夕刻。商店街の人出は普段よりも多く、明らかにその筋の人と分かる強面やこれからバカな男どもを手玉にとって稼いでやるわよと言わんばかりのケバケバしい化粧をした女たち。皆が携帯電話を手に足早に行き交っている。

大阪の繁華街‘ミナミ’の東側の一角でありながら、場外馬券場やパチンコ屋、風俗店が軒を並べる決して上品とは言えない地域である。

「おーい!」と、コージの背後で大きな叫び声が聞こえた。コージは、ひたすら独り言を繰り返し、すれ違う人と何度もぶつかり、その度に罵声を浴びながらよたよたと歩いている。

「コージ!!!」

今度は、はっきりと自分の名前が聞こえた。

「ん…?」、振向いた彼に身覚えのある顔が目に映った。

「やっぱりコージや! お前の結婚式以来やからちょうど十年ぶりやないか!」

果たしてそれは、幼馴染のホンダであった。コージは彼に一瞥をくれたまま所在なく立ちすくんでいる。ホンダはコージとの距離を詰め言った。

「お前一体どないしとってん? 全然連絡無いし携帯かけても不通やし、会社に電話したら辞めましたって言われて、めっちゃくちゃ心配しててんぞ」

二人の実家は、秋になると紅葉があでやかな山手の振興住宅街のお隣さんだった。幼稚園から高校を卒業するまでは、ほぼ同じ環境で育ち同じ道筋を辿ってきた。決定的に違っていたのは、容姿の出来具合と偏差値の差であった。ホンダは、決まってテスト前にコージのノートを借り、おかげで東大阪にあるK大学に進学できたようなものである。コージはいわゆるできる子であり、さしたる努力もせず京都の国立大学に進学した。ホンダは、勉強ができ容姿端麗なコージにぴったりと寄り添い、事あるごとに何でも相談していた。学校で起きた些細な出来事、悩み事、家族の内輪話や恋愛話まで。

コージは、その度に的確なアドバイスをしていた。

二人の絆の深さを決定的なものにした思い出の一つに‘和歌山御坊事件’という出来事があった。いつもどこかに厭世感を漂わせていたコージは、ホンダ以外にこれといった親しい友人を持っていなかった。「オレ、ヒトリで訳の分からんこと考えてる時が一番幸せやねん」というのがコージの口癖だった。

高三の夏休みが明けて最初の週末であった。ホンダは先に帰ろうとしていたコージを捕まえた。

「一緒に帰ろうや」

コージは、ホンダの言葉に耳を貸すことなく沈んだ声で言った。

「なぁ、お前、今なんぼ持ってる?」

「ん、何でや?」

「ええから、金、持ってるかって」

コージは、急き立てるような口調でホンダの質問に答えようとはしない。

「四千円ちょっとくらいかなぁ」

「四千円か…。なぁ、どっか行こう。出来るだけ遠い所に」

「どないしてん、急に。何かあったんか?」

コージは、立ち止まり天を仰いでいた。

「なあ、遠いとこってどこやねん?」

「だから、遠いとこや」

いよいよ不信に思ったホンダは神妙な面持ちで言った。

「やっぱり何かあったんやろう?」

「…」

「何か言えや。ひょっとしてお前、遂に好きな女が出来たんやな? そうや、絶対そうや。ほんで失恋か。水くさいのー、聞かせなさい、女の達人ホンダ様に」

「何にもないんや。何にも…」

ホンダは、コージに促されるまま、JR天王寺駅から所持金で買える限界だった御坊行きの片道切符を買った。二枚で三千九百八十円。

「精一杯の距離がこれか…」

コージは、吐き捨てるように言った。

「ホンマにどないしてん? なぁって?」

「さっき言うたやろう。何にもないんや、全く何にも…」

その言葉を最後に二人から会話が消えた。そして列車は動き出した。所要時間二時間五分。二人共に車窓から流れる景色だけを無言で見ていた。御坊駅に近づくにつれ時折海が見えた。残り少ない夏の陽が海原にたつ浪間を白く光らせている。

「さあ着いたぞコージ」

「あぁ、着いてもうたなぁ」

二人してあてもなく駅へ降り立った。

「コージ、ところでお前帰りの金持ってるよなぁ」

「無い。でも心配すんな。何とかなる、何とかなるもんなんや」

「はぁ? アホかお前。一銭も無くて片道切符で和歌山くんだりまで来て、何がなんとかなるや! お前ホンマに頭おかしなったんちゃうか?」

「オレがおかしいのは、今に始まったことやないやろ。大丈夫やから心配すんなって」

あきれ果てたホンダは大きく伸びをした。

「あ~、どうでもええけどオレ腹減ったわ。今日朝から何にも食べてへんねん。コージ、お前は?」

「オレもや。腹立つけど、腹減ったわ」

「腹減るのに腹立つって、何やねんそれ。訳わからんし面白ないわ。とにかく何か食わなもう動かれへんぞ」

陽が西に傾き空の色が橙色を帯びてきた。二人は駅前のバスターミナルでベンチに腰をおろし、あれがこれがと食べたいものをお互いに話し続けていた。

「なぁ、ホンダ、まだ金なんぼか持ってるやろう?」

「あぁ、ジャリ銭だけ、百二十円や」

「十分や。とりあえず駅の売店でパン買えるぞ」

「っていうか、お前ホンマに一銭も持ってないんか?」

「うん、情けないけど1円もない。今日に限って財布忘れてきたんや」

コージは覇気のない声で言った。ホンダは、大きくため息をついて言われるがままに残金でクリームパンを買った。ぴったり百二十円。彼はそれを等分にして言った。

「よし、じゃんけんや」

二人は、その勝敗でどちらを食べるのかを決めた。勝ったのはコージであった。無言で若干小さく見える方を選んだ。コージが気を使っている。ホンダは普段ではあり得ないことだと一抹の疑問を抱いたが、クリームパンの魅力の前ではそんなことに構っていられない。二人はズボンに落ちたパンくずを指先で丁寧に拾いながら、あますところなく食べきった。そして、少し汗ばんだ手と顔をトイレで洗い流し、喉を鳴らせながら思い切り水を飲んだ。コージは妊婦のようにお腹を擦りながら、

「ちょっとは腹の足しになったなぁ」と、満足げに言った。

「どこがやねん。更に食欲に火がついたわ。それよりこれからどないすんねん。ついに二人して一文無しやぞ」

「海や。太平洋を拝みに行くんや」

コージは、ホンダの不安を省みることなく一人先へ先へと歩き始めた。ホンダは仕方なく引きずられるようにコージの後に従った。二人は右も左も分からず道行く人に尋ねながら、海岸を目指しひたすら歩いた。すっかり陽は落ちた。残暑の蒸し暑さが二人の全身を包み込んでいる。田舎町特有の薄暗い街灯の中、疲れと空腹にうんざりしていたホンダが口を開いた。

「なぁ、コージ、さっきもここ歩いたんちゃうんか?」

「うん。分かってる」

平然と答えるコージにホンダは遂にキレた。

「なんやと! お前しばくぞ! 分かってるってなんやねん。ほな、お前わざと同じ道をぐるぐるしてたって言うんか。えー加減にせーよ。大体なんでこんなとこまで何しに来てん。何があったか知らんけど、もうこれ以上お前には付き合いきれんぞ。帰る! 金、何とかするって言うてたな。約束通り今何とかせーや!」

時刻は午後八時を回っていた。薄暗い小道には、ひと気も無く遠くから車のエンジン音だけが微かに聞こえる。

「すまん。ホンダ…」

「やかましいわ! もう四の五のいらんねん。謝ってもいらん。帰りたいだけや。何とかせーや」

ホンダの怒りは収まらない。更に激しい怒声をあげた。

「いつもお前に合わせて付き合ってきたけど、今日という今日は許せん。大体ちょっと勉強が出来て、ルックスがええからって調子に乗りやがって。お前、友達いうたらオレしかいてへんやないか。みんな陰でお前のことなんて言うてるか知ってるか?‘ジャニーズづらしたオタクでキモい’って。お前のせいで塾までサボらなあかんはめになってまたオカンにガタガタ言われるやないか。我儘もたいがいにせーよ!」

「…分かった」

「何が分かったや! ふざけんな!! このボケ!!!」

「いや、お前を巻き込んでもうて、ホンマに悪いと思てるんや。帰りの電車賃何とかしてくるから、さっきの駅前のベンチで待っといてくれ」

コージはそう言い残し猛然と走り出した。まだ怒りが収まらないホンダは悶々としながら駅への道を歩き始めた。

「ホンマ、コージのボケが」

一時間ほどが経った。バスターミナルのベンチで一人、ホンダは時の経過と共に心細さとコージの心境を思った。

「あ~あ、もう九時過ぎてるやん。電話する金もないって。オカン心配してるやろうなぁ。しかし、コージにはちょっと言い過ぎたなぁ。ついてきたんはオレやし断られへんかったんもオレやもんな」

手持ち無沙汰なホンダは、しきりと時計と時刻表を眺めていた。

大阪行き最終は九時三十四分。

「あの~これ…」

突然ホンダの前に制服姿の女の子が、小さな紙切れと大阪私立N高校と黒いカバーに金文字で刻印された生徒手帳を差し出した。

「えっ…これオレに。キミは誰や?」

「海岸通りで、コージっていう人から、駅前のベンチに座ってる学生服の人に、これを渡して欲しいって頼まれて」

女の子は、それだけを伝え足早に去って行った。ホンダは訳が分からず、その紙切れに書かれてある文字を追った。

“ホンマにごめんな。この生徒手帳持って、派出所に行って、経緯を説明したら何とかしてくれるはずや。オレは帰れへん。付き合ってくれたこと、ホンマに感謝してる。マジでごめんな”

「何やねん、これ」

ホンダは、慌てて女の子の後を追いながら必死に叫んだ。

「おーーい、待ってくれー! これ受け取った場所教えてくれー」

その声に驚いた女の子は、恐る恐るその場所が、駆け足で行けば5分程の距離である事とその道筋をホンダに説明した。

「その人、優しそうな感じで、私、断られへんかったから」

と付け加えた。

「ありがとう。とにかくオレ急いでるから。ほな」

ホンダは‘まさかコージ…’と不吉な予感を抱きながら、教えられた道順を全力で走った。潮の香りが、徐々にホンダの鼻から口へと抜けていく。街灯の無い海岸沿いの国道へ出た。時折行き交う車のヘッドライトを頼りに、ホンダは懸命にコージの姿を探した。何台かの連なった車が通り過ぎたその先に、ホンダは防波堤の上に座っている人影を捉えた。

「コーーージーーーーー」

張り裂けんばかりの声が寄せては返す波の音に混じっている。2度目に叫んだその時、防波堤の人影が動いた。「おった。コージや!」ホンダは更に足に力をこめ走った。

「ホンダ…。お前帰れへんかったんか」

コージは、防波堤から降りながら言った。ホンダは、息を整える間もなく「このドあほがー!」という罵声と共に、思い切りコージの左頬を殴りつけた。アスファルトに倒れ込んだコージは、頬を押さえ無言のまま立ち上がろうとしない。大型のトラックが三台連なって大きな警笛を鳴らし、二人の横を爆音と共にすり抜けて行った。

「もうええから、立てや」

ホンダは、コージの手を取り引き上げるようにして体を起こした。二人はその夜、猫の額ほどの砂浜で、潮風を肌で感じながら夜が明けるまで海と空を眺めて過ごした。

「心配させやがって。でもさっきは言い過ぎた。ごめんな。それに思わず殴ってもうたことも」

「…そんなんええねん。悪いのは全部オレの方やから」

コージは、いつにない弱気な声で続けた。

「そんなことよりなぁ、ホンダ、お前の夢ってなんや」

「夢?」

「うん。将来の夢や」

ホンダは、少しはにかみながら考えこむようにして、指先で砂に円を描きながら答えた。

「夢かぁ…そやなぁ。オレ映画がめちゃめちゃ好きやん」

「うん…」

「って言うても、オレの顔やったら、俳優どころか吉本でも通用せんやろう。そうやから作る側の人間。んー、そうやな、映画監督になれたらなぁ」

「そーか、映画監督か」

コージは、手の平で砂をすくい上げては、水道の蛇口から押し出される水のように、その砂を手の平から滑らせている。波音が間断なく優しげなBGMのようだ。

「コージ、お前は?」

「オレには何もないんや。何も思いつかんねん」

「何言うてんねん。お前めちゃめちゃ頭ええし、背も高いし、男前やんけ。お前やったら何でもできるやろう」

「ホンダ、お前、オレを見ててホンマにそう思うか?」

「あぁ、マジで悔しいけどな。いつもお前のこと羨ましいと思てるよ。オレには理解不能な変な性格以外はな」

欠けた月灯りが、優しく真っ黒な浪間を照らしている。

「なぁ、あの地平線を超えたら何かあるんやろうか?」

ホンダはその問いかけに答えず、腫れ上がったコージの左頬と、何かを射るような眼光だけを直視していた。その痛々しいコージの顔は、この世の者とは思えないほど美しく見えた。

そして、その光景だけは、今もホンダの胸に焼き付いている。

 

「コージ、お前ヨレヨレやんけ。どないしてん」

「何が大麻取締法や…」

「はぁ? とにかく茶でも行こう」

ホンダは、目の前にあった喫茶店に、コージを促し引きずるようにして店内に入った。

「お前、何があってん。ほんで何やねん、いきなり大麻取締法って」

「…」

コージは、顔を歪ませうつむいていた。

「ひょっとしてお前、警察に捕まってたんか?」

「…あぁ、二十一日間も拘留されてた」

ホンダは声を失った。コージはコーヒーに口をつけ更に肩を落とした。

「タバコ持ってるか?」

ホンダは、ジャケットの胸ポケットからタバコを取り出しコージに差し出した。

「嘘やろ、なぁ」

「…」

「ホンマにマジか…。そりゃ連絡取れんはずやわなぁ。で、会社もクビか…でも何でこの歳で麻薬なんかに、お前ホンマにアホ丸出しやないか」

突然コージは顔をあげ、怒りと苦渋の表情をホンダに向け、マシンガンのように言葉を連射した。

「麻薬? 何が麻薬や! あんな法律。終戦後勝手にアメリカが持ち込んだもんや。それで三年の執行猶予に一年の懲役やって。おかげでりっぱな犯罪者や。お前の言う通り、ホンマにアホや。そやけど大麻ってハーブやぞ。アロマにも、繊維にもなる天然植物やぞ。当のアメリカやヨーロッパでは、合法として解禁してるところがいっぱいあるやないか。加えてや、癌やエイズ治療の副作用軽減のために医薬品として扱ってるちゅうねん。何が薬害やねん。証明されてへんわ、そんなもん。おまけにその違法性についても言及されてへん。オレには考えられん法律や。三十年ほど前に北大の教授とか前達の色んな人が訴訟を起こしてるけど、どーにもならん。オレがアホならこの国の刑事罰はクソ以下や」

コージは、その内容の知識に詳しくないホンダに賢明に虚しい熱弁を振るった。

「簡単な話で言うと、タバコの葉を食べ続けると確実に死ねるけど、大麻草をいくら食べてもせいぜい下痢を起こすくらいや。ましてやなぁ、世間は覚醒剤とかその他のトランスする化学薬品と同じ認識や。論外やっちゅうねん。ほんであいつらの審判はダメやからダメって、江戸時代の会津藩か! ホンマ訳わからんわ。何が青少年の育成上とか暴力団の資金源や? オレは、そんなもんに加担してないぞ。捕まえるならそいつらにせんかいちゅうねん。オレは、被害者のない加害者や。なぁ、ホンマの刑事罰って、他人に悪影響を及ぼすもんなんちゃうんか? 思えへんか? 人の金盗んだり、騙したり、殺したり、それがホンマの刑事事件っていうもんやないんか?」

誰にも理解されるこのない、コージの自己弁護は止まらない。

「ほんでやな、オレより明らかに若い担当の検察官との最初の事情聴取中や。オレが大麻のうんちく教授してたらこの件は次回にって、逃げ出しやがって。何も知らんねん、あいつらは。二回目の事情聴取の時や、きっちりその検察官勉強してきて、オレのうんちくに対抗してきたんや。そやけど、最終的にオレが論破したらいきなりキレやがって、死ね!って言いよってん。たかが草ごときで。昨日まで善良なる一納税者やった、四十一歳のこのおっさんに向かってやぞ。天然植物を持ったり、喫煙したら死なんとあかんらしいわ。笑かしよるで。ほな何か、昔の木こりさんたちは、全員死刑か。大麻と人間の歴史が、どんなもんかも知らんアホどもが。もしそれでホンマにオレが自殺でもしてたら、このくだらん事件もちょっとは脚光を浴びてたんかって、真剣に考えてもうたわ。もちろん、この国が法治国家でありその法律に違反したということを決して肯定してるわけやない。ただ、やりたいなら合法な国外でやれってことや。とにかく、この国での大麻の文化は絶滅してんねん。太古からの長い付き合いがあった、かわいい白い小さな花と人との歴史が」

コージはつい先日まで誰もが羨むエリートだった。大手商社の看板を背負い世界中を飛び回っていた。特に欧州担当になってからの彼の功績は、上司からだけではなく先輩社員からも認められる存在であった。彼が三十二歳になった春に、オランダ支社へ五年間の出向の辞令が下りた。彼は、それをきっかけに自然と大麻と関わりを持った。

周知のごとくオランダは自由貿易国である。そして、ハードドラッグの蔓延を防ぐため、ヨーロッパでは一早く大麻解禁という路線を取った。つまり個人の営利目的以外であれば合法なのだ。首都であるアムステルダムでは街の至る所にコーヒーショップというカフェで、日本では麻薬と呼ばれている大麻が堂々と売買されている。

規定は、年齢制限と所持するグラム数、そして屋外での喫煙禁止や車の運転だけである。

あるのどかな日曜日の昼下がりである。コージはそのコーヒーショップでC&Aの買い物袋を提げた母娘が、仲睦まじく炭酸水を飲みながら、軽く一服している姿を見た。その何とも形容のしようがないその光景が、ゴッホやフェルメールの数々の名作よりも彼に衝撃を与えた。現在全てを失った彼は、向精神薬、危険ドラッグ、そして、アルコールという合法薬物中毒者である。明らかに身体に変調をきたすこれら全てが、この日本ではリーガルなのだ。

ホンダは理解不可能なコージの話を聞きながら、哀れという言葉以外に何も感じなかった。

表沙汰にしたく無かった会社は、コージを懲戒解雇にせず自主退職という形でけりをつけた。彼は前科一犯の中年失業者という今の肩書を臆することなく、懸命にホンダに語った。

「でもな、オレ全然後悔なんかしてへん。むしろやっと辿り着いた気がしてんねん。なぁ、お前知ってるか、ラ・ロシュコフっていうフランスの詩人」

ホンダは知る由もない。

「己が心に安静をたがわずば、それを他者に求るは徒労なり、ってな。オレは、留置場の中っていう想像を絶する世界で初めて気がついたんや。今までオレが探し求めてたのはこれやって」

「…なぁ、コージ。申し訳ないけど、そのフランスの何とかっていう詩人の小難しい話なんかどうでもええやろう。それより今のお前の姿を見てみろ。もう四十一やぞ。オレら」

「…お前なぁ…」

コージはその言葉を残して黙り込んでしまった。

「コージ、お前の別れた嫁さんと子供はどないしてんねん。今のお前の状況を知ってんのか?」

「…」

ホンダはコージの家族を憂いた。彼には、離婚したとはいえ元妻とまだ小学生の男の子がいるのだ。

「猿まねのジャパニーズカルチャーや…」

「ん、何やねんそれ。オレが聞いてんのは、お前の家族の事やぞ」

ホンダは、完全にあきれ顔になった。

「別れた嫁が、オレの息子を洗脳してんねん。あんなもんが、この世の中を狂わしてるのに、何でそれが分からんねん」

コージは、昔から絵空事のような恋愛話や子供、動物、弱者、そして、病苦を主人公にした、お涙頂戴的ストーリーのドラマ、映画や明日を歌うメッセージソングを、頭ごなしに否定していた。

「お前は、単なる変人や。オレは、そんなこと何とも感じへん。それこそ人の好き好きやろう。それに、犯罪者のお前が言うても全然説得力ないぞ。だから、そんなことよりお前の元嫁は知ってるんかって、今のお前のヨレヨレの悲惨な状況を」

「…それがなぁ…」

コージは再び頭を垂れた。

そこには彼のかつての端麗な姿はどこにも見えなかった。

 

ホンダは、ふと、コージの発した言葉を思い出していた。

―心の安静―。

彼は、そんなことを考える暇もないほど疲れきっていた。毎日満員電車に揺られながら妻や子供のため、そして自分のために懸命に働いている。それが当然のことであり、安静はそこに存在していると思い込んでいた。遠い過去に描いていた、夢や希望はもはや忘却の彼方である。この先の自分自身に何があるのだろう。平穏無事にだけがテーマのような人生である。それを保ち続けていくことだけが、彼の全世界である。この国の現状や未来、隣で起こっている悲惨な災害や止むことのない紛争、そして、あらゆる理不尽な出来事の数々。働き盛りの四十一歳。彼は先日読んだ経済紙のコラムを思った。二十代から五十代の人に渡り、うつ病が蔓延しているという記事だ。現在、潜在的患者も入れると約四○パーセント、つまり、五人に二人の割合で発病の危険性を孕んでいるという。

 

「なぁ、ホンダ、お前、今幸せか?」

コージの突然な問いに、ホンダは苦笑しながら「あぁ、もちろんな」と、力なく答えた。

人は皆、社会や組織という大きな歯車の一つだ。それは、たとえ夫婦や家族、友達との間にでも存在する、自我の許されぬ世界の一つのモノでしかない。目の前に見える視野だけに汲々として生きている。いかに美味しい位置に入り込もうかと、虎視眈々として。十年ぶりにコージに会ったホンダは、まだ自分の中に残っている脳内の柔らかい部分を刺激させられた。

二人の目の前のコーヒーは、カップの底に円状にへばり尽きていた。ホンダは、会社に電話を入れ、取引先から直帰する旨を伝えた。顔を上げようとしないコージにホンダは言った。

「コージ、飲みに行くぞ」

「マジか?」

ようやく顔を上げたコージの瞳に、ホンダは‘御坊’の潮風と白い砂、そして月明かりが照らしていた海原を見た。

 

ミナミの夜は、昼間とは全く違う姿に変身していた。御堂筋から一本入った通り。難波から心斎橋へと向かうメインストリートの商店街が、徐々にシャッターを閉め始めている。コージとホンダは、難波の名所である道頓堀に架かった、通称‘引っかけ橋’を渡った。二人の左手後方では‘グリコの大きな看板’が大きく手を挙げ今日も元気に輝いている。その橋にたむろしている若い男たちは、あたり構わずに行きかう女に声をかけていた。

「なぁ、なぁ、これからどこ行くの?」

「…」

「無視せんでええやん。なぁ、どこ行くのって」

「うざいわぁ…」

「一緒に遊ぼうや。なぁ、ええやん」

「うちら、これからニューヨークいくねん、ニューヨーク!」

「なんやねんそれ。気取りやがって、このブスが!」

「ふん、ダッサ~!」

大阪ならではのナンパのやり取りである。その光景は、二人が若かりし時から全く変化していない。変わったのは道頓堀川沿いが整備され、そこに小洒落たオープンカフェやレストランが軒を並べ、それが観光客の名所の一つになったという点である。

二人は、その雑踏から逃げ出すように北へと歩を進めた。二つ目の十字路を右折。車一台がようやく進行できるほどの狭い一方通行。

大人のネオンが二人を包む。いかがわしいキャバクラの呼び込みがしきりに声を掛けてくる。

「よっ! 男前のお兄さん。今なら三千円ポッキリで一時間飲み放題。若い、え~姉ちゃんが特別サービスしまっせ」

コージは、目を真っ直ぐに向け全く相手にしない。ホンダは、その呼び込みたちに手だけでNGのサインを送り、更に三分ほど歩いた。

「コージ、着いたぞ。ここや」

「ん…」

ホンダは、京料理‘鈴’と書かれた暖簾をくぐり、障子の扉を静かに右から左へと滑らせ店内に入った。

「毎度」と、女将へいつもの挨拶を送る。

「あら、ホンダさん、いらっしゃい。久しぶりやないの。もう~、ほかの店で浮気ばっかりして」

女将は微笑みながら、ホンダの背後に亡霊のように、うつろな目をして立っているコージに目をやり言った。

「珍しわね、男前のお兄さんと一緒やって」

「あぁ、こいつ、オレの幼馴染やねん。大学出てずっと東京と大阪で離ればなれで、今日、十年ぶりに偶然会うたんや」

「ホンマに~。それはそれは、ようこそいらっしゃいませ。こんな狭いお店やけど、ゆっくりと楽しんでおくれやす」

店内は、カウンターだけの八席の狭いスペース。その上には大きな器に盛られた小魚の煮付けや焼き魚、根野菜の煮物や揚げ物がぎっしりと並んでいた。先客は仕事帰りの常連らしい中年客が三人。思い思いに、ちびりちびりとビールを飲みながら、女将の手の込んだ料理を口に運んでいた。ホンダはいつもの席に座り、コージをその横へと促した。

「コージ、ビールでええか?」

「アルコールやったらなんでもありや」

「ほな、女将さん、とりあえず生でええわ」

「はいはい」

二人の前に白い泡を積もらせたジョッキが素早く置かれた。コージは、ホンダには一瞥もくれず勢いよく一気にジョッキを空けた。

「かぁ~、美味いな~。やっぱり生ビールはホンマにうまいわ。近頃、粗悪な安酒ばっかりやったからなぁ」と、感嘆の声を上げ勝手にお代わりを頼んでいる。

「お前、どんな生活してんねん。ちゃんと食べてるんか? 家は? それよりお前の嫁さんと子供の話や」

「…それがな…」

コージは、二杯目のビールを前に、おもむろにコートのポケットから薬袋を取り出しベゲタミンとういピンクの錠剤を二錠ビールと共に飲み干し黙り込んだ。

「なんや、その薬は?」

「向精神薬や」

「…」

ホンダは大きくため息をもらしながら言った。

「おいおい、コージ…お前なぁ。ホンマに…言うてもしゃーないか…勝手にせーや」

「…分かってる…」

ホンダは目線を女将に変え言った。

「まだオレのボトル残ってたかな?」

「はいはい。ロックでよろしおす?」

「うむ。それから適当につまむモノも一緒に」

二人は、焼酎を片手に女将の料理をつついた。しばらくの沈黙の間を、店内に備えつけてある小さなテレビが、今日の出来事の数々を知らせていた。コージは、三杯目のロックを飲み干し、突然ホンダの目を見据えて言った。

「オレなぁ、留置場の中で、百万回くらい自ら死ぬっていうことを考えてん」

「ん、なんやいきなり」

「今まで散々やりたい放題やってきたし、会社の力でちょっとはええ思いもさせてもーたしなぁ。でも、やっぱりこうして生きてるやん」

「あぁ、そやからなんや?」

「それはな、自殺ってなんかインチキ臭い気がしてな」

「何が言いたいねん」

「自死っていう行為は、人間だけに許されたもんやろう。ほんで、

それを毎日実行してるやつが世界中にめちゃめちゃたくさんおるや

ん。しかも集団でとか。そりゃ当の本人らは、已むに已まれぬ事情

とか、衝動的にとか、理由はどうあれ年食えば放っといても確実に

死ぬのに。そう思ったらなんかものすごインチキくさい行為やなっ

て」

ホンダは聞く風でもなく、アルコールが全身に広がっていく感覚とコージの家族をひたすら憂いた。コージは、天井に向けタバコの煙を吐き出しながら呟いた。

「お前、自分には縁のない話で理解不能やって思てるやろう」

「ふざけんなよコージ。それはないぞ。オレは毎日死にたいって思うほど汗水流して働いてるんや」

「ふ~ん。何のためにや?」

コージは、ホンダをあざ笑うかのような目で見つめている。

「だから、オレは、そんなアホらしいこと考えられへんぐらい毎日働いてんねん。もちろん、オレだけのためやなくて家族のために。社会人としての自覚とか責任感とか、ちゃんと常識を踏まえてな。大体オレはお前と違ってマトモで善良なサラリーマンなんや」

「善良なるサラリーマンか。それはそれは、さぞかしお偉いことでんな」

「やかましいわ! ええかコージ、よー聞けよ。お前の哀れさは何となく理解できる。でもな、アカンことはアカンねん。分かるか? マトモな道から外れたお前の無念さとか屁理屈なんか要らんねん。お前は昔からそうや。アウトロー気取りでいつも上から喋りやがって、禅問答してる場合やないやろう」

コージの目の色が変わった。

「ほ~、禅問答か。それは興味深い話やな。ホンダ、聞かせてくれや、お前の人生観を」

ホンダは、身体をコージに寄せ目を見据えて答えた。

「それはな、日々起こる色々な出来事を受け入れていくっていうことや。常に前向きにな。その上にこそ、生死っていう問題が存在してると、オレはそう思ってる。例えばや、もっと生きたいと懇願しても、それが成就できん不幸な事実が数限りなくあるやろう。その反対に、自ら死を選択するやつもいてる。それも紛れもない事実や。つまり、人は、それぞれに色んな問題を抱えて、必死にあがいてる生きモノなんと違うんか」

「なるほどな。もっともらしい意見や。ほな聞くけど、物事を肯定することから全ては始まって、それを理解しながら、もがいて、あがいて生きていくのがお前の言う真の世界感やっていうことか?」

「…ただこの世に生を受けて、生きていくっていうことで、十分幸せなことやないんか。 なぁ、コージ。みんな、それぞれの生きがいや楽しみを見出しながらな」

「お前はやっぱり相変わらずのアホや」

「何やと、それどういう意味や! お前こそ未だにガキみたいな戯言ぬかしやがって」

先客の三人は既に居ない。女将は空気を察してか、いつの間にか姿を消し、店内は二人だけになっていた。いよいよ、今にも掴み合いの喧嘩でも始めそうな勢いである。

コージは、口論になるとその場の風囲気や相手の気持ちなどお構いなしである。あたかも、自分自身が絶対的存在であるかのように、相手を論破するまで徹底的に語る。例えばそれが、相手を深く傷つけてしまう行為や自分勝手な意見であったとしても。

そして、気が付けばいつもヒトリなのである。

「ホンダ、オレな、毎日安酒の買い出しの道すがら、暢気に面白い自慰を繰り返してんねん」

「はぁ? 自慰?」

二人は酩酊しながらお互いの老いた顔を見つめ合った。

「ホンダ、お前マジで、哀れな奴やな」

「それはお前やろう」

「あのなぁ、街中で、くそ暑いのにスーツ着て、ネクタイ絞めてるお前みたいなオッサンとか、買い物カゴ提げたお前の嫁はんみたいなオバはんとか、アホ丸出しで、自分の立ち位置すら確認できんガクセイとか、やたら顔に何か塗りたくって、エロさ満々のオネーちゃんとか。いじめる子供側といじめられる子供側。色んなやつおるやん。ウジャウジャと。オレ、いつもそいつらに向かって叫んでんねん。お前らホンマに幸せかってな。オッサンどもは、人の足引っ張てでもオイシイ位置ばっかり探して。オバはんどもは、そんなオッサンどもの金で、楽しくグルメにショッピングや。ガクセイどもは、ネットでしか自己表現できずオナニーにふけりやがって、極めつけはオネーちゃんどもや、平気でいかがわしい場所であぶく銭欲しさに自分を売りやがって。ちびっこギャングは傷つけ、傷けられることの恐ろしさも分からず…。オレは思ってる。生きるってな、結局与えられた宿命みたいなもんを背負って、その日その日の二十四時間を如何に浪費していくかってことやと。それは悲しい喜劇みたいなもんや。初めから台本があって、その通りに生きていくイキモノやって、笑えんセリフとアドリブの連続を繰り返しながらな。因果や。結果の前には必ずその原因が存在してる。なぁ、ホンダ、お前は、昔からいつも正論ばっかりや。追い立てられる毎日からか? マトモ? 常識? 善良? なんやねん、そんなもん。お前は、そんなアホどもに向かって言えるか? オレは、そんなお前らを心から愛してるって? オレは言えるんや。断言できるんや。愛してるぞって。もし、お前が言うことが正しいとしたら、なんで戦争なんか起こるんねん。なぁ、ホンダ、だから聞いてんねん。お前、今、ホンマに幸せかって」

 

―主観のみに生きようとしているコージくん、刹那に理想だけを追いかけ生きているコージくん。哀れな中年失業者のコージくん。ごめんなさい。ボクには理解不可能です。そして、ボクは幸せです。多分―

 

ホンダは、タバコの煙と一緒に吐き出すようにそう心の中で呟いた。そして、囁くように言った。

「コージ、お前はホンマに変わった奴や」

「…なぁ、ホンダ、今日はとことん付き合えや。これでお前と会うのも最後になるかもしれん」

「ん…? なんや、最後って? お前まさか…」

時刻は午前一時を回っている。こうなったらとことん行くか。ホンダは、哀れなコージの行く末が本当に心配になっていた。「しゃーないか…」彼は、おもむろに携帯電話を取り出し、妻へ今夜は接待で遅くなる旨を手短に説明し、コージに追い立てられるように、‘鈴’をあとにした。御堂筋に並ぶ大阪の大動脈の一つである堺筋までは徒歩で三分ほどだ。二人は、その大通りを縦横無尽に占領して、長い列を連ねているタクシーの群れの先頭の一台を捕まえた。

ホンダが、「新地まで」と、言うと運転手はミラー越しに嫌そうな表情を見せ、「三十分も客待ちして新地かいな…今日はついてへんわ」と、一人ごちていた。それを尻目に、なぜかコージは、意気揚々とした表情を見せている。酩酊しているせいなのか。ホンダは、コージの横顔に目をやりながら増々不安を募らせた。車は、堺筋から北へと真直ぐに進路を取った。長堀通りとの大きな交差点を左へおれ、四ツ橋通りへ出る。新地までは目と鼻の先だ。月末の金曜日は、大通りがタクシーと乗用車で渋滞している。運転手は、ここぞとばかりに車線変更を繰り返しプロのテクニックを発揮した。ミナミと並ぶ大阪の歓楽街である‘北新地’は、大人の社交場を固持するかのように無限の色をちりばめたネオンでひしめいている。ホンダは、‘新地’の東の外れの雑居ビルの前へと車を横づけさせ、「釣りは良いから」と、気前よく千円札を四枚運転手に渡し、領収書だけはきっちりと財布に収めた。

辺りは、黒いスーツに身をまとった男たちが、忙しなく客を店内へといざなっている。ホンダは、その見慣れた光景に一瞥をくれ、そのビルの2階の隅にある全く風囲気の異なる、‘モルトオンリー’と小さく書かれたBARの重厚な木製のドアを引いた。

「いらっしゃい」

と低いトーンながら礼儀正しい声が二人の耳に心地よく響いてきた。

「ええ感じや」

子供のような笑みを浮かべたコージが静かに囁いた。店内は、幅だけが異様に広いカウンターしかない。足だけが長いアンティークの木製の椅子が七席。かき入れ時だというのに客は一人もいない。二人は入口から一番奥の席へ腰を下ろした。カウンター越しには、眩いほどの灯りに後押しされた、ラベルさえない、限りなく透明に近い金色のシングルモルトのボトルの群れが整然と並んでいる。照明はそれ以外に何もない。ホンダは慣れた口調で「いつものやつを」と、初老の店主へ素早くオーダーした。店主は、真っ白いシャツに黒い蝶ネクタイだけというクラシックなスタイルで、眩く照らされたその群れから丁重に一本のボトルを選び出した。そして、ゆっくりとボトルの頭のコルクを抜き、足の短いチューリップ型をしたグラスに20mlほどだけその液体を注いだ。

コージが思わず口を開いた。

「この世とあの世の間に流れる川の水や」

しばし二人は、天からのプレゼントを眺めていた。そして、グラスの短い足を持ち、鼻に近づけ何度もその麗しい匂いを吸いこみ、ゆっくりと口をつけ舐めるように一口味わった。喉の奥からメラメラとした炎がせりあがってくる。二人がグラスをテーブルの上に置き直したその瞬時に、店主がほんのわずかな水を注ぎ足す。すると、増々芳醇な香りがグラスから溢れ出してくる。二人は再びグラスを持ち、今度はグビリと口に含み、数回口の中で遊ばさせたあと飲みこんだ。二人の全身を、アルコール度数四十八度の鋭利な電流が駆け巡る。紛れもないシングルモルトの香りが鼻から抜けていく。

「んんん…」

と、二人は同時に唸り声をあげた。

「ホンダ、ありがとう」

コージは、たったヒトリの友へ礼を述べた。

「ん、何や? お前らしくないぞ。っていうかな、本題はこれからや」

「これ以上の合法な至福がどこにあんねん」

「その話はもうええ。だから、お前の別れた嫁さんと息子は、今どないしてんねん」

「…それがなぁ…」

コージは、店内を静かに流れるビル・エバンスにしばし耳を傾け、観念したのかゆっくりとした口調で話し始めた。

「もちろん、捕まったオレに非があるのは十分承知してる。でも、嫁はんも嫁はんやで。オレが、捕まったのは去年のクリスマスイブや。それから、二十一日間の拘留で、保釈された時には息子の十歳の誕生日も過ぎてて、クリスマスどころか、誕生日すら祝ってやれず終いでなぁ。東京を引き上げて来たのは、裁判が終わった二月の下旬やった」

コージの話では、逮捕された直後、警察から身上調査のための連絡先を聞かれ、大阪にいる元嫁の電話番号を告げた。その時の彼女はたった一言「そんな人は知りません。縁も所縁もありません」というものであったらしい。当然であろう。それはコージが招いた、無情な離婚に至った経緯が物語っている。

コージは入社から七年目に、大阪支店に二年間ほど出向していた。そして、取引先で知り合った彼女と、いわゆる出来ちゃった結婚をした。無事に出産を終え一児の父になったコージ。彼にとっての人生の新しい一ページであったはずである。それにも関わらず彼は新婚当初から社内不倫を楽しんでいたのである。離婚に際してコージの妻には、何の非も無かった。単にコージのその浮気が顛末だったのだ。結婚二年目の夏。それは、まさにドラマのようであり‘真実は小説よりも奇なり’という言葉がぴったりの事件だった。

 

「明日から一週間、香港出張やから。これスケジュールと滞在先」

コージはいつもの海外出張と変わらぬように、さりげなく、自らが偽造した予定表を妻に渡した。

「香港? めずらしいわねぇ」

彼女は女の感であろう、何かを察知したのだ。コージは曖昧な返事で受け流し出張の話題をそらした。そして、用意は自分でするからと言い残し、食事も摂らずに早々と床についた。

翌朝コージは、小ぶりのボストンバッグに簡単な着替えだけを詰め、「ほな、行ってくるわ」と、いつもの時刻に家を出た。午前中は会社でその日の雑務を簡単に済ませ、夕刻に不倫旅行の待ち合わせ場所である新大阪駅に向かった。

「奥さん、大丈夫だった?」

「あぁ、完璧や。いや~、しかし久しぶりのグアム楽しみやなぁ」

「うん。私も。思いっきり羽伸ばそうね」

すっかり旅行気分で浮き足だった会話を交わしながら、二人は関西空港行きの切符を買おうとしていた。その時だ。コージは背後で聞き慣れた声を耳にした。

「楽しそうな出張やね」

まさか…。コージの背中に悪寒が走った。果たしてそこには彼の妻が立っていたのだ。そこからは筆舌し難い修羅場であった。彼女は、周囲を気にすることなく、大声でコージと不倫相手の女性に、罵詈雑言の数々をまくしたてた。券売機周辺は、たちどころに人の輪ができ、次第にその輪は広がり、好奇の目とヤジが飛び交い大騒ぎである。コージは周りの視線と我妻の鬼のような形相、そして、不倫相手の女の恐怖におののいた顔を交互にみながら、発すべき効果的な言葉を懸命に探していた。何も浮かばない。まさにパニック状態である。

「絶対行かせへんで!」

コージの妻は、ひるんだ彼の手からバッグを奪い取り、周囲に向かって叫んだ。

「あんたら、見せ物ちゃうで! そこどかんかいなー」

彼女は奪ったバッグを手にその場から走り出した。コージは慌てふためきながら嗚咽をあげている不倫相手に「ごめん、こんなことになって。でもこうなったら何が何でも行くから、先に空港でチェックインしといて。絶対に間に合うように行くから」とそう言い残し妻の後を追った。不覚にも奪われたバッグには、コージのパスポートが入っていたのだ。彼の頭にはそれさえ取り戻せばという思いしかなかった。

コージは駅構内を出た所で、タクシー乗り場にいた妻の姿を捉えた。彼は持てる全ての力を足にこめ全力疾走。発車すんでのところで、そのタクシーの前に回り込みボンネットに向かって大きくジャンプし、腹這いになりながらも見事に身体を乗せたのだ。人は、パニックに陥るととんでもない力を発揮するものである。タクシーの中では、妻と運転手のやりとりしている大声が、ボンネットに這いつくばっているコージの耳に届いてきた。

「何ごとでっか?」

「振り飛ばしてもえーから、早く車だしてー」

「そない言うたかて…」

運転手は困惑しきっている。

「もし、怪我でもさせたら、私の首に関わりますやん」

「ええからー、はよ出してー」

運転手は、窓から顔を出し、ボンネットに腹這いになっているコージへ、大声で怒鳴った。

「あんた、そんなことしてたら怪我するがな。はよ、そこから降りんかいな。営業妨害もええとこやがな。警察呼ぶで、警察!」

後続のタクシーからはクラクションの嵐である。

「ケガー? 知るかボケ! 警察? 呼べるもんやったら呼んでみー。オレはここから絶対動かんぞ!」

「あんた、そんなん無茶苦茶やがな。どないな事情か知らんけどお客様が神様や。それに、他の車も往生してるがな」

「何が神様じゃ! その女はオレの女房や。他の邪魔になってんねやったら、車から降りるようにその女を説得せんかい!」

「そない言うたかて…」

運転手もパニックである。そして、今度はそのタクシー乗り場周辺が騒然となった。

‘はよ、行かんかい!’、‘何してんねん。アホか!’外野の怒声が勢いよく飛び交っている。

「お客さん、あの人ホンマに旦那さんかいな?」

「違います。私を追いかけてくる変態です。お願いですから早く車を出してー」

運転手は、大きくため息を漏らしながら車から降り、コージの腕をつかみ言った。

「あんた、お客さんが旦那やないって言うてはるがな。ホンマ、ええ加減にしてーな。とにかく、危ないさかいここから降りなはれ」

「イヤじゃー! その女が車から降りるまでオレは絶対に動かんぞ」

コージは、狂人のような形相で運転手と押し問答を繰り返している。見かねた妻は、虚をつくように車から飛び出した。それを見たコージは、ボンネットから飛び降り懸命に後を追った。

「待たんかい、泥棒!」

やじ馬をかき分け大声を張り上げるコージ。逃げる妻も負けてはいない。

「助けてー、殺されるー。変態が追い駆けてくるー、誰か助けてー」

長い追走の果て、遂にコージは駅中央出口階下の人気の無い駐車場前で妻を捕えた。二人ともに汗まみれになり、肩で息をしながらその場に倒れこんだ。

「もーええやろう。これだけ暴れたら。頼むからそのバッグをかえしてくれ」

「嫌やー!絶対にイヤやー」

「なんでそこまでこだわんねん。それにこんな修羅場まで演じて。もう十分やろう。全部終わりにしよう」

「当たり前や! 離婚に決まってるわ! でもこのまま行かすのだけは絶対許されへんねん。あんたこそあきらめ!」

妻の目からは止めどなく涙と鼻水が溢れだしている。コージはがっくりと肩を落とし、妻の横顔を見つめていた。短い結婚生活の一コマずつを思い出しながら。しばしの沈黙が二人の間に流れた。そして、コージは怯んでいる妻の手からバックを奪い、すかさずタクシーに飛び乗った。我に返った妻もタクシーに乗り再びの追走劇である。

関西空港でチェックインを済ませた不倫相手は、青ざめた顔を忙しく左右に振り、コージの姿を懸命に探した。午後十時発のグアム行き最終便。時刻は既に九時四十分を過ぎようとしている。ゲートをくぐりイミグレーションを抜ける時間を入れるとこれ以上の猶予はない。空港内はひと気もまばらになり、最終搭乗のアナウンスが何度も繰り返し流されている。遂に女は搭乗口前の職員にチケットを見せ、一人遅れているのだと説明し最後まで待ってくれるよう懇願した。職員はトランシーバーでその状況を機内へと説明している。まさにその時である。コージが息をきらせ必死に走ってくる姿が見えたのだ。

「来た! 来ました。あぁ良かった!」と、思わず女は奇声をあげた。

しかし、その喜びも束の間。コージの後ろから妻が鬼のような形相で追い駆けて来るのが目に映った。

「その飛行機待ってくれー!」

ひと気の無い空港にコージの大声が響き渡った。

「この二人はキャンセルですー!」

間髪入れずに嫁の怒声が響く。何事かと空港職員は互いに顔を合わせ、目を白黒させている。

「これ以上は待てませんよ。他のお客様や運航上の問題がありますので」

「はい。分かっています。必ずのりますから」

女は最後まで諦めない。搭乗口まであと5メートル。

「早く、頑張って!」

女の声がコージの耳に入った。

「やった!」と、コージがそう思った瞬間、あぁーなんという悪戯か、アクシデントは起きた。彼は不覚にもゲート3メートル手前でつまずき、きれいなヘッドスライディングを決めたのだ。そして、大事なバックは、きれいな放物線を描がいて彼の手から放れていった。追いついた妻は、倒れこみ膝を押さえて立てない様子のコージの横をすり抜け、バッグを拾い上げ、搭乗口前へと進み女の左頬を思い切り張り倒した。

その見事な音は辺りに響き渡った。崩れ去る女。妻は平然とした表情で、何事かと驚いている職員たちに告げた。

「この二人はキャンセルしますから」

そう言い残し、妻はバッグと共にその場から足早に消えて行った

同時にゲートは閉じられ、体を寄せ合い放心しうずくまっている二人に、熟年の職員のリーダーらしき男が悲哀をこめた声で言っ

た。

「人生色々あるから」

コージは万事休す。買ったばかりのマンションのローンと慰謝料、そして養育費を支払う責務を負った。

「離婚したんは結婚して二年目やった。嫁はんは事件以降音沙汰なしや。会社をクビになったことも全部知ってるはずや。連絡がないのは元気な証拠っていうか関わりたくないっていうのが本音やろう。オレの唯一の気がかりやけど、自分でまいた種やからなぁ。ひたすら二人の幸せを陰で応援するしか今のオレにはできん。もっともあの嫁はんやったら猿まねのジャパニーズカルチャーで息子を洗脳して、お前のいう立派な社会人に育てあげるやろう」

 

現在コージは大阪西成区のスラム街で一泊五百円の四畳一間で生活をしているという。彼は離婚への経緯を一気に話終えた後、コートのポケットから薬袋を取り出し、黄色やピンク、白い錠剤を三杯目のシングルモルトと共に胃に流し込みひたすら真正面の一点だけを見つめていた。

「お前なぁ、薬止めろや。なんぼ医者から処方されたもんでも、オレには寿命を縮てるようにしか見えん。気ぃ悪いぞ」

「…ほっとけや。オレはオレや。しかもこれはリーガルなもんや。なぁ、全然話変わるけど、今、職安のことハローワークって言うやん。オレ自分がこんな身になって‘こんにちはお仕事さん’のお世話になってな、面白い光景を目にしたんや」

コージは現在直面している失業保険に関する手続きの煩雑さと時間のかかり方、そして生活困窮者に追い打ちをかけるが如きオートマティックな行政作業を罵り始めた。

「処理する者、される者、どっちも機械や。信じられんこの国の面白いシステムやぞ。訪問して来る多くの人たちが、昨日までお前の言う善良なる一市民で納税者やったにも関わらずや。自己都合で組織を離脱した者には格別な手法で対応してくれんねん。まず最初にやな、二枚の離職届を出しにわざわざ交通費かけて‘こんにちはお仕事さん’に行くねん。ほんなら、何や認定日っていうスケジュールを渡されてその二週間後に説明会。で、実際に金が支給されるまで三ヶ月やって。アホらしい。今、現在やぞ、困窮してどうしようも無い時のためにオレらは毎月失業保険って収めてたんと違うんか? それを何で直ぐに出さんねん? その間に餓死でもしたら誰が責任とってくれんねん。これも自己責任か? みんな‘何々をしなければならない’っていう迷信みたいな教育しか受けてなくて学校卒業したら‘さぁ皆さんこれからは自由ですよ’って、いきなりリアルな金儲けの歯車になって。ニート、フリーター、プー太郎、そんなん増加して当たり前やっちゅうねん。自分の立ち位置を確実に把握出来てるやつがエリートって言われて、結局自己利益しか頭にあれへん。オイシイ位置へ、もっとオイシイ位置へって。だから、金・カネ・かねの発想しか出てけーへん。儲けた者勝ちみたいに。ホンダ、お前も気がついてるやろう。金が全てみたいな情け容赦のないこの社会のシステムを。多くの人たちが政治に無関心? 当然やろう。利害関係なき政治家や政党、行政、いや人間関係なんか一体この国のどこにあんねん? まだまだあるぞこの国の興味深いシステムは。戦後米型路線をまっしぐら。それを更にいじくりたおして、それはもう半端やないがな。大体なんでホームレスや人種差別が横行してる国を未だにお手本みたいにしてんねん。例えばやサラリーマンから何やかんやで37%くらいの‘社会保障料’みたいな金を搾取しやがって、山ほど矛盾と重複が山積してる恐ろしい税金のシステムを見事に構築してるやないか。年金問題もそうや。社会に貢献してきた暁の老後はどうや?英国や北欧は50%近い‘社会保障料’を取ってるけど、医療費や学費で法外な金なんか取らんぞ。老後も病に対しても手厚くケアしてくれる。つまりこの国のシステムをあの手この手で作りあげ続けて、なんか都合が悪くなったらどいつもこいつも‘記憶にございません’って、とてもやないけど人間業とは思えん。もっと最悪なのはそいつらが確信犯やってことや。福利厚生や社会保障だけの問題やない。本来生活に関する国民全ての人が享受するべきシステム全てがそうや。間違いなく狂ってるのはそれに甘んじて安穏としているお前でありオレやろう。なぁ、ホンダ、オレ、ホンマに訳わからんわ」

訳が分からないのはホンダのほうである。内心「ちぇっ、また独演会始めやがって」と、混濁した頭の中で彼はそう思いながらスコッチを啜っていた。

「3・11がええ例や。被爆大国日本は当事者の言い訳とウソにうんざり。国家的危機やのにまだ何か隠そうとする東電って何やん? 考えられへんぞ。あいつらも各々家族があるやろうし子供たちの未来が心配なはずやろう。だけど平気でカメラに向かって調査中をくりかえしやがって、最前線で情報掴んでることなんか、今時小学生でも気がつくぞ。国はステルス戦闘機一機に何十億も金出すくせに何で未だに仮設住宅や明日の生活に不安だらけの人たちのために金出さんねん。セシウムは地層深くに浸食して遂には海へ流れだして。この事態をあいつらは想定してたはずや。それをまたしても先送りにしてこの様や。除染に金と時間がかかるって? そんなん当り前やろう。ほな、他の予算を割いてでも汚染地域に注力するべきなんちゃうんか? 何でホンマのこと言うて弊害があんねん。少なくてもオレらには真実と現実を知る権利があるはずやろう。今の政治の世界も同じや。憲法第九条。ぐちゃぐちゃになってる有事の問題。何が憲法改正やねん。テロの脅威? 他国からの侵略? 笑かしてんのか。ホンマは自衛隊、いや軍隊や。その擁立と行使権を国民や世界中に認めさせたいだけやろう。それに大きな利権を生み出す武器輸出や。そもそも憲法って国民が然るべき国家権力っていうもんを抑制させるためにあるもんやないんか? そんなに軍隊持ちたいならとっとと改正でも何でもしたらええねん。それを議員の何割以上の賛成がとか、国民投票がとか、九十六条に拘りやがって。四の五のいらんねん。過去にこの国でホンマに民意なんかが政治に反映されたケースなんて一体幾つあんねん。いつもゴリ押しして来たんがこの国の政治の根本やろう。それに異論を唱えきれん羊さんの群れがオレらや。二言目には日米安保って、未だにアメリカにおんぶに抱っこの弱腰外交や。北朝鮮の問題もそうやろう。拉致? アホか! 誘拐やぞ。ゆ・う・か・い。信じられん行為を犯しておいて謝るどころか自分たちは知りませんって、平気な態度や。それどころか逆に金よこせとか、食いもんよこせ! って。極めつけはミサイルに核乗せて飛ばしたろうかって。自国の民を飢え死にさせて平気な顔してるやつらが、そんなもんで威嚇しやがって、まさにシャブ中に刃物やないか。国家としての自殺行為か気が狂ってるのか、悪魔の仕業としか思えんやろうが。言うとくけどオレは右でも左でもない。そやけど、そんなもんにアメリカや韓国までビビり出しやがって、アホかっちゅうねん。日本も核の一つや二つ朝飯前に作れるやろう。それをこの国の長は対話による平和的解決をって、出来るもんならとっくに出来てるわ。さも最もらしいことを言いやがって。オレは思っている。北朝鮮のやつらは人間やない。悪魔によって造り出されて、悪魔の魂を埋め込まれた機械やってな。そんな奴ら相手に何が対話やねん。会話にすらなるか! 大体やな、この国はアジアのリーダーにならな話にならんのに、近隣国との信頼関係どころか中国や韓国にまで遅れをとって、それを政治家のアホどもは官僚どもに任せきりで、国益よりも手前らの利権闘争にあけくれて、未だにアメリカ様さまや。当のアメリカが中国との関係強化に本腰入れてるっていうのに。尖閣諸島でもめてる最中に飽きもせんと靖国参拝やって。中国との貿易収支が五十パーセントを超えてるにも関わらずや。TPP参加? この国は一体どこ見て走ってんねん。アホなオレでも察しがつくのに。このままやったらアジアの中での日本はもっと孤立して、アメリカにも見放されて中国の一部分になってるかもな。日本省って。ホンマに笑えるわ。それに深刻な食糧自給率の低さも大問題や。今や輸入品の食材が家庭に並ばんなんてこと無いやろう。虫も食わん薬付けのな。役人どもは政治背景ばっかり気にしやがって、最終的には手緩い対策でお茶濁して、真綿で首絞めるってこのことやろう。本来一番安くて美味しいはずの天然モノが今や高級食材やって。まるでコントやないか。アメリカのイラクとの戦争がえええ例や。9・11の報復? 核保有の疑惑? 最初から武器調達による国内景気への刺激と石油の利権争い丸出しのくせに。大義はいつも捻じ曲げられて、破滅を目指すみたいな歴史の繰り返しや。あの時のドイツやフランスの不参戦は湾岸戦争で懲りたからやろう。その背景には食料自給率の問題があって否応なく参戦したっていう苦い経験があったからや。欧州のホンマの強さは食うってことに対する意識の高さや。それに比べて何やこの国は。経済的豊かさと引き換えに心の豊かさや戦後食べていくための基本やったモノを作るっていうことを放棄して、今や何でも外注、刹那に儲けて大正解。なんでもコンビニエンスや。なぁ、ホンダ、教えてくれ。この国だけやなくて先進国にこれ以上の高度な文明の発達ってホンマに必要なんか?」

「なぁ、コージ、お前毎日そんなことばっかり考えてんのか? お前は学者か? 評論家か? 単なる中年の失業者やないか。しかも前科付きの。お前、毎日暇でしゃーないんやろう。それに毎日しんどくないか? 誰にも届かんくだらん愚痴をタラタラと。しようがないやろう、結局成るようにしか成らんねんから。で、お前の言うように全てがそうやないしな」

「…」

二人共に完全に泥酔状態である。コージはホンダの横顔に目を向けた。

「そやな。ホンマにお前の言う通りや。実はそんなことよりお前に言いたかったことは、これからのオレの人生を決定つけるかもしれん出来事があったんや。‘こんにちはお仕事さん’のおかげで」

「ん? 何やそれ?」

ホンダはドロドロの意識の中、改めてコージと対峙し目を見つめ返した。二人の横顔が面前のボトルの棚から放射されている光と反面の闇に浮かんでいる。

その彼らの瞳は水平線の向こうを眺めて過ごした‘御坊の浜辺’そのものであった。

 

第三話

~優しさとアイの心と~

アイにとって心身ともに苦手な寒い季節も終わりを告げ、ムラカミとの生活もようやく自然なものになりつつあった。しかし、彼女の薬物依存は一向に減速する気配がない。何も見えなかった彼女の日常にほんの少しだけでも明るい光が灯っているはずなのに。ムラカミはアイが薬物依存であり、うつ病だということに気付いていない。彼女は自らそのことを言わずにいた。特別な理由があったわけではないが、優し過ぎる彼に要らぬ心配をかけたくないという思いが頭の片隅にあったからだ。

連日の雨に紫陽花の優しげな紫色もいささかうんざりしているように見える。アイの気が滅入るのはその天気だけのせいではない。やはり彼女は心のどこかで、何か物足りなさを感じていたのだ。ムラカミの優しさは全く変わらない。カナの結婚式の後、彼に尋ねた特別な日の意味は、彼の母の命日に自分がため込んでいたアイへの思いを告白するという彼女にとっては単純なものだった。

 

「何だか今日も元気ないなぁ」

ある日曜日の夕刻である。

「今日は外食にしよう」

ムラカミの提案で二人は近所のイタリアンレストランで食事を摂ることにした。

黙り込んでいるアイにムラカミはいつもの笑顔で話しかけた。

「ねぇ、悩み事があるなら何でも言って欲しいんだ。最近明らかにおかしいよ。今日だって朝からずっと喋んないし、もしボクに原因があるなら…」

「ううん。そんなことない。私はいつもと同じだよ」

アイは目の前のパスタを食べる風でもなく所在なくフォークを回しながら、ムラカミの言葉を遮るように即答した。

「考えすぎだよ。何でもないって。いいからムラカミくんは食べて。私あんまり食欲ないから。私の分も、ね」

薬とワインが効きはじめている。アイは精一杯の笑顔を作り窓の外へと目線を移した。

ムラカミは納得しきれないような素振りをしているが、それ以上は決して深く干渉しない。そのことによりアイが一層心を固く閉ざしてしまうことを肌で感じていたからだ。

二人の、最近の会話はいつもこんな調子だ。アイが感じている彼の誠実さや優しさ、こんな三十一の女の何が良いのか、そう尋ねる度に「さみしそうだから放ってはおけない」というのがいつものムラカミの答えだった。アイは彼と居ることで自己嫌悪に陥る。しかし、やはり傍にいて欲しい。身勝手な彼女は健在だ。

事件は翌日に起こった。アイは薬の補充へいつもの薮野クリニックへ行った。それを会社の後輩たちに目撃されたのだ。その病院が精神科専門であることは周知のことである。その出来事は何の楽しみもない社内の恰好のゴシップとなり、終業前にはアイ本人やムラカミの耳にも入っていた。

アイはその夜、いつもより多い量の向精神薬を服用し重い足取りで家へと辿り着いた。ムラカミは既に帰宅しアイの帰りを待っていた。

「おかえり」

リビングから聞こえた、いつにない彼の沈んだ口調は、アイのぼんやりとした意識を覚醒させた。

「ただいまぁ。今日も一日おつかれさまだね。どしたの、着替えもしないで。夕飯まだでしょ。今日はすき焼きにしようと思って、お肉奮発しちゃった。すぐ支度するね」

アイは重い気分を悟られないように努めて明るく言った。

「それより先に聞きたいことがあるんだ。こっちに座ってくれないかな」

「どうしたの? 改まって。なんだか目がこわいよ」

間違いなく昼間の件だとアイは直観した。

「いいから、座って」

「…うん。その前に何か飲ませて。ノド乾いちゃった。今日も蒸し暑かったもんね。ムラカミくんも飲む?」

彼は首を横に振った。アイは缶ビールを開け、思い切りよくノドを鳴らせて飲んだ。

「さてさて、神妙な顔しちゃって、どうしたの。聞きたいことってなあに?」

アイはムラカミの正面に座り、わざとおどけたように言った。

「今日会社でキミの噂を聞いたんだ。精神科に通ってるって」

「な~んだ、そのことなの。着替えもしないで怖い顔してるから何事かと思っちゃた」

「ふざけてないで、真面目に答えてくれないかな」

アイは二本目の缶ビールを開けながら答えた。

「うん。その噂ホントだよ。もう三年近くになると思う」

ムラカミの顔が険しくなった。

「そんな大事なこと、どうして今まで言ってくれなかったの?」

「…変に心配させたくなかったから、それに何だか言い出し辛くて…」

アイはムラカミには理解されることはないだろうと思いながら、今までの自分の病についての経緯を仔細に説明した。何も見えない単調な毎日に対する苛立ち、普通に生きるということへの違和感、物事を素直に受け取ることが出来なくなってしまい、自分という存在を見失ったこと。それら様々な要因が、うつ病や不眠症に繋がったのだろうことなど。そして、誰にも知られたくなかった自分の性格の弱さについての全てを話した。

アイは混濁とした意識の中一つのことだけを思っていた。

―漂いたいだけ―

「そうだったんだ…う~ん、参ったな。それがキミのさみしそうな目の理由だったんだ。でも、もっと早くに話して欲しかったよ。多分ボクの頼りなさが理由の一つだと思うけど」

ムラカミは、さみしげな表情を浮かべ呟くように言い、それ以上のことを深く聞こうとはしなかった。そしてその夜、彼は食事も摂らずソファーで眠った。

翌日の朝、彼はアイを初めて誘った父のレストランへ来るように言い残し出勤した。アイは昨夜飲み過ぎた薬のせいで、いつもより激しい頭と体の重さを感じながら「うん」と虚ろな返事をした。

会社での彼女はいつにも増して緩慢だった。思考能力ゼロである。昨日の噂通りかとアイは自分に突き刺さる好奇の目を感じていた。彼女は重い気分をはらすため安定剤を胃に流し込み、今朝のムラカミの言葉通りレストランへ向かった。

「ムラカミ様とお待ち合わせですよね。伺っております。こちらへどうぞ」

彼より早くに到着したアイは初めて訪れた時と同じ席に案内された。その時のことをぼんやりと思い出しながらムラカミを待った。

「お先に何かお飲みになられますか?」

アイはキールロワイアルをオーダーした。それが運ばれてきたのと同時にムラカミが現れた。

「ボクも同じものを」

彼は席に座るなり素早く注文し、食事はあとでいいからという合図を店員に送った。

「ゴメン、遅れちゃったね」

ムラカミは昨夜と違い、いつもの優しい目でアイへ軽く会釈をした。

「今日も薬飲んでるの?」

「うん。飲んでる。でも意識は鮮明だし、かえってリラックスしてるよ」

「昨夜ほとんど寝ないで考えたんだけど…で、ボクなりに答えを出したんだ。半年も一緒に暮らしていて、キミの精神的支えになれていなかった自分の無力さ。その情けなさに自己嫌悪っていうか」

「…」

アイはここへ来る前から彼が自分から離れていくものと覚悟を決めていた。誰だって嫌なはずだ。薬物依存の三十を過ぎた女なんて。

「その答えなんだけど、キミの心の病っていうのかな、ボクにも理解できないことは無いなぁって」

「えっ…」

「ボクは母をあんな形で失ってしまったから、それが逆にボクの精神力を強くしたのかなって。だから、母の分まで前向きに生きていかなきゃいけないって、いつも自分にそう言い聞かせてる。何かにへこんでる時なんて特にね。それでボクが出した結論なんだけど、キミの力になれるように、今度こそ支えになれるようにって」

思いもよらなかったムラカミの言葉にアイは動揺した。それは彼の言葉に感激したというものではない。やはり、彼に今の自分を理解することは不可能だと感じたからだ。

「ボクじゃ役不足かな…」

アイの怪訝そうな表情を察知したのか、彼は言葉を続けた。

「救い出したいんだ、キミを。もちろんキミへの愛情が大前提だけど、これはボクの母に対する懺悔でもあるような気がするから」

ムラカミは黙り込みうつむいたままのアイに真直ぐに自らの気持ちを語った。アイを心から愛していること、今まで以上にもっとお互いの距離を縮める機会だということ。アイは二杯目に頼んだ白ワインでハルシオンを流し込んだ。濁った心が泣いている。

「ムラカミくん、ありがとう。でも…」

アイは振り絞るような声で言った。彼の優しさが彼女を更に追い詰めるのだ。

「戦おうよ、二人で。キミのために出来ることって、正直何も分からないけど、そばにいて支えることには絶対の自信があるから」

ついにアイの涙腺が堰をきりとめどなく涙が溢れた。ムラカミはアイの傍らに席を移し、そっと肩を抱いた。彼女は彼の胸に顔をうずめ嗚咽交じりに言った。

「ごめんね…ごめんなさい…」

「辛かったんだよね、今まで一人きりで全てを抱え込んで。キミは必死に戦ってるんだ。自分の心の闇と」

アイは涙と共に心の中の強固な自分勝手な岩石のようなものが崩れていくのを感じていた。

「これ、ボクが今日会社で考えたこれからの二人の戦略」

ムラカミは三枚のコピー用紙を取り出しアイへ差し出した。そこには、これからの彼女の毎日の行動予定が詳細に書き込まれていた。就寝・起床時間、食事のメニュー、散歩や行楽、そして、一日に服用する薬の量など。

「全くキミの病についての知識がないから、今朝友達の内科の医者に連絡を取って相談してみたんだ。そいつが言うには、とにかく一番身近な人が細かくケアしてあげること、理解してあげることが一番の治療法だって。そして、がんばってはダメって。だから勝手にキミのスケジュールを考えてみたんだ。無理強いするわけじゃなくて、今から出来ることを少しずつ始められればって思って。なんだったら会社だって辞めちゃえばいいんだし」

アイは今更ながらムラカミの思いやりや優しさが本当のものであることに更に涙が溢れた。彼の提案にアイが逆らう理由や力などあるはずがない。止まらない涙は彼女の化粧を流しさりまともに顔を上げることができなかった。アイは懸命に彼の胸の中で囁いた。

「私、あなたのこと本当に愛しているかもしれない」

「今更なんだよ。ホント相変わらず厳しいなぁ。でもそれがキミだから。そう、だからこそ愛してるんだ」

アイの脳裏にムラカミの眩しい笑顔が浮かぶ。彼女はすっかり忘れていた素直な気持ちが蘇ってくるのを微かに感じていた。

「…ありがとう。ムラカミくん」

翌日から早速二人の戦いが始まった。三枚のスケジュール表は、いつでも目に入るリビングの中央の壁にピンで留められ、アイにはそれが聖書のごとく神々しく見えた。誰かが言っていた、人は誰かの愛情の深さに気付いたとき、何をも恐れず生きていける。アイは自分にも出来るかもしれない、信じてみよう、心からそう思っていた。

ムラカミが立てたスケジュールは想像以上にハードなものだった。しかし、アイは必死に自分と向き合い、ムラカミの愛情に精一杯答えようと懸命だった。決められた食事やお酒の量、睡眠時間。ただどうしても一つだけ、彼女は既定量の薬を減らすことができなかった。その自分自身の心の弱さが自己嫌悪に変わり、それがまたストレスの原因となって薬への依存を加速させるのだ。この悪循環を断ち切らなければと思えば思うほど意志の弱い、情けない自分がどうしようもない人間に思えてしまう。そして、自分勝手な心が泣き出すのだ。声をあげて涙を流すという行為があの日からずっと続いている。

 

二人の戦いから三週間を経た。

「ムラカミくん、ごめんなさい。私やっぱり…これ以上この生活が続くなんて、やっぱり無理だよ…」

「ちょっとハードすぎたのかなぁ」

ムラカミは硬い表情で答えた。アイは首を左右に振りながら言った。

「正直に言うね。薬の量減らすどころか、全然そうはなっていないの。やっぱり私には無理っぽい。それにこれ以上ムラカミくんに迷惑をかけることも」

アイは溢れそうな涙腺を必死に抑え言葉を続けた。

「やっぱり、普通になんかできないよ。ムラカミくんの愛情の深さを感じれば感じるほど自己嫌悪で、もう私死ぬしかないのかなって」

「死ぬなんて…そんな…大袈裟だよ。それに自殺なんて絶対許さない。だって始めてまだ三週間だよ。もう少し頑張ってみようよ、ね」

遂にアイの涙腺がきれた。

「…ごめんなさい…」

彼女はそれだけを言うのが精一杯で、その言葉を残し衝動的に家を飛び出した。あてもなくなく夜の街を彷徨いながら、混濁してどうしようもない自己嫌悪に苛まれながら、脳裏に浮かんでくる‘生きることの意味’‘生きているという証’その実感を自ら得る方法。そして、弱すぎる自分の心。アイは何度も心の中で叫んでいた。

「ムラカミくん、愛してるよ。ホントに。こんな気持ち忘れてた。でもね…」

どこをどう歩いて来たのかアイは公園のベンチに座り思考の渦に一人呆然としていた。疲れ果て気がついたときには深夜の二時を回っていた。

「どうしたのかな~、お姉さま。こんな時間にお一人なのかな?」

アルコールの臭いを漂わせ、見知らぬ若い男二人が声をかけてきた。

「あれ~泣いてるのかなぁ~。そっか、彼氏にフラれちゃったんだ」

長髪の屈強そうな男が、うつむいているアイを値踏みするかのように覗きこみながら言った。

「うん。これは間違いないな」

続けざまに、もう一人の小太りで髪を赤く染めた男が、バカにするかのような声であいづちをうった。

「じゃあ、ボクちゃんたちが優しく慰めてあげなきゃな。言っとくけどこれボランティアだから、ボランティア! 有難く思えよ!」

恫喝する声がアイの耳に響いた。早く逃げなきゃ、しかし、足が思うように動かない。あっという間もなく彼女は二人の男に両腕を捕まれ、口をふさがれ公園の茂みへと引きずり込まれた。アイは抵抗する力もなく二人に凌辱された。

男たちの恫喝する声とアルコールの臭いだけがいつまでも漂っている。アイは時間の感覚も、自分の身の上に起こった出来事も、現実として理解することができなかった。涙すらも出ず全てが崩れ落ちて行く、その感覚だけが心の中に残っていた。ひたすらムラカミの笑顔だけが脳裏に浮かんだ。

いつからか降り出した雨が、アイの汚れた肌を容赦なく打ちのめしている。明けていく曇天の下彼女は思った。

「この先、もう私には帰るべき所なんてないんだ」

アイの決意は逃げることだった。ムラカミへ短い手紙を残し、会社へは書面で退職する旨を伝えた。そして、アイはキャスターバッグに身の回りの物だけを詰め全てのものから姿を消した。

 

第四話

~奇妙な出会いと約束と~

ドロドロの意識の中、コージは正面の一点だけを見つめ、彼の言わんとする運命的な出会いについて語り始めた。

「その日もオレは朝から薬ぶち込んで‘こんにちはお仕事さん’へ行ったんや。その帰り道やった。ものすごくええ天気でな、オレは早く帰って安酒と薬でガツーンと頭の中を整理しようと思ってて、のんきに駅へと歩いててん。三つ目の信号に捕まった時や、三十前後の女が赤信号やのにフラフラ歩いて横断歩道を渡ろうとしとんねん。危ないって、なんかその時オレの身体が咄嗟に動いて。ほんまにオレがその女を引張ってなかったら完全に違う世界へ行ってたな」

「咄嗟に体が動いたって、お前のことやから、どうせスケベ根性が働いたんやろう」

「まぁ、聞けってそれが実は劇的な出会いやったんや」

「お前はとことんアホか? 四十一のおっさんが、なにが劇的な出会いや。劇的なのは今のお前の生活やろう」

コージは横目使いでホンダの表情を窺い苦笑いをうかべながらスコッチをあおり、白い錠剤をチェイサーで飲みこんだ。

「なんかな、白昼の路上でその女を抱えるような格好になって周囲のやつらが奇異な目で見てたわ。突然やその女、オレの胸に顔を埋めて嗚咽しだしてな、何が起こったんか理解できんオレは‘どないしてん’って繰り返し聞いてた。でもその女はただひたすら泣くだけで、人目もあるし、なんかオレが悪者みたいな空気感で。しゃあないからそのまま抱きかかえるようにして目の前にあった公園のベンチへ連れて行ったんや」

「ほんでどないしてん、その女」

「ふん、しばらく気まずい沈黙があって、オレこれ以上ややこしいことに巻き込まれるのが嫌やったから、そのままそっと帰ろうとしてん。その時や。その女バッグの中から見慣れた青い楕円形の薬を一気に五錠も放り込みよってん」

「なんや、その青い楕円形の薬って」

「オレも飲んでるハルシオンや。向精神薬で本来は睡眠誘導剤に使うもんやねんけどな」

「ふん、なんや。お前と一緒の薬物中毒の変な女やないか。車に引かれて自殺でもしようと思ってたんやろうが」

「お前は心が病んでる者の気持ちなんか理解できん心ない奴やな。でもオレには分かるんや。漂ってるだけやって。このクソみたいな世の中を」

「漂う?」

「そうや、漂ってたんや。とにかく、ちょと面白そうやったからオレはその女にお天気会話でもってしばしその女を観察してたんや」

コージはその時の記憶を整理するかのようにホンダに切々と話し始めた。

 

「もうすっかり梅雨も明けていよいよ夏やなぁ。青いわ。真っ青やで、眩しいなぁ」

しばらくの沈黙があって、その女のか細い首が縦にゆれて、やっと口が動いたんや。

「眩しすぎる…」

「なぁ、ねーちゃん漂うてんのか?」

「…」

「クソみたいな世の中やもんな。漂うしかあれへん。右も左もアホばっかりやしな」

「あの~、さっきはありがとうございました」

「ひょとしてホンマに死ぬつもりやったんか?」

「…」

「まあ、オレにはどっちでもええけど。でも自殺ってあんまりええもんやないと思うで」

「…」

「あっ、これ変な説教やなくて持論。自殺って結構サムイ行為やと思うんや。すごい目立つやん。ほんでその行為によって、なんかみんな私を見て~みたいな。大した理屈やないけど」

「変わってる…」

「えっ、何がや? オレか? そうやなぁ、まぁ普通とは言い難いわなぁ。自分で言うのもなんやけど」

「あの~今日これからってお暇ですか?」

「ん? なんでや?」

「お酒飲みに行きませんか?」

いきなりや、いきなり飲みに行こうって。さすがにそこまでわなぁ、これ以上関わりたくない気持ちもあるやん。そやから一応丁重にお断りするつもりで言うたんや。

「嬉しいお誘いやけど、恥ずかしい話、オレ金ないんや」

「お金? そんな。私がご馳走します。させてください。ご迷惑をかけたお礼に。お願いします。少しの間付き合って下さい」

コージは、ホンダに目を向け言った。

「その懇願する目に負けてな。浮浪者でやな、金もない、ただ時間だけを持て余してるオレにタダ酒の誘いや。一人で家に帰って安酒飲むよりちょっとは健康的な酒やろう。断る理由なんかないなぁと思って」

「ほんでお前飲みに行ったんか、その訳わからんねーちゃんと」

「ああ」

「やっぱりお前は変態や」

オレは先々と歩いて行く彼女に吸い寄せられるようについて行ったんや。どこにでもある赤提灯の飲み屋やったわ。外はまだ陽が高いっていうのに、店の中には客が結構おって、で、その女は一番奥のテーブルに座ったと同時に丁寧な大きい声で「生中二つお願いします」って。それから注文のビールが運ばれてくるまで会話ゼロや。オレはなんか、変な空気がたまらずどうでもええ質問をしたんや。

「ところで、ねーちゃん名前聞いてなかったけど何ていうの?」

「…」

「いや、別に言いたくなかったらええねんけど」

「…アイ…です」

あっ、喋ったと思ったら運ばれてきたビールを一気飲みや。しかも煽るようにな。

「アイちゃんか、ええ名前やがな」

反応ゼロや。なんぼタダ酒でもちょっとは楽しく飲みたいやん。そやからオレ嫌な空気を打破すべく、ここは一つ‘よいしょ’攻撃やと思ってその連打や。

「かわいい顔して、そない細い体でなかなかのええ飲みっぷりやなぁ」

「…」

「アイちゃん、仕事は何してんの?」

「…」

「よっしゃ、当てるわ。それだけの容姿や。う~ん、CAさんかな?」

「…」

「違うか…まさか女優さんとか?」

「…」

「分かった歌手や。歌手。演歌かなんかの。で、地方回りの営業やな。なぁ、当りやろう」

「…」

「まぁ、どうでもええか。とにかく飲も。せっかくのご馳走やもんな。オッサンのつまらん話なんかいらんわなぁ」

何を言うても酒の注文以外は口を開こうとせん。もう自爆や。オッサン丸出しのサムサだけが残って、ねーちゃんは酒のあてを注文することもなく、無言で三杯目のジョッキを飲み干して、オレはすっかり手持ち無沙汰で、冷酒をあおってタバコばっかりふかしてた。ねーちゃんの頬がほんのり赤みがさしてきたときや。沈黙を破ってねーちゃんが口を開いたんや。

「お名前…なんて言うんですか?」

「えっ、オレか? コージって言うねん。幸、二つと書いてコージ。皮肉な名前やねんこれが。幸、一つすらないのに。ウケるやろう」

「…」

「えっ、面白んないか…」

「…」

「これ、オレの鉄板ネタやのに」

「…お仕事は?」

「仕事かぁ…」

「…ええ」

「無職や。四十一歳で。情けないやろう」

「そうですか。実は私もなんです。でも無職って言うかそれ以上に最悪で…」

その言葉を最後にまたねーちゃんの表情が硬くなって、飲み始めてまだ三十分も経ってないのに四杯目のジョッキが半分以上なくなってたんや。なんかいよいよ変な空気になって、オレはホロ酔い気分も手伝って思わずつまらん鼻歌を口ずさんだり、くだらんダジャレを言うたりで、ねーちゃんはクスリともせんと更に無言で飲み続け。もう最悪や。オレもさすがに自分のサムサにお手上げで、ガンガン冷酒をグラスで飲みまくりや。

長い沈黙が続いて、もうええ加減疲れて帰ろうと思ったら、ねーちゃんがおもむろにバッグからプラスティックの小さなケースを取り出して黄色い錠剤をビールで流し込みよってん。

「それ、精神安定剤やろう。セルシンか?」

その時や。ねーちゃんの目つきが変わって、キッっていう感じで。

「違います。胃薬です」

「ええやん、別に隠さんでも。さっきは公園でハルシオンの大量摂取」

「…」

ねーちゃんが明らかにうろたえた表情になって、真昼間から薬に酒って、なんか哀れに思えてきてな。オレは、え~いとばかりにポケットに詰め込んでた薬の束をテーブルの上に投げ出したんや。

「薬物・アルコール依存、中年失業者っていうのがオレの紛れもない実態なんや」

「…それで私が漂ってるとかって…」

「まあなぁ」

「エチカーム、デパス、セルシン、レキソタン、ハルシオン、ベンザリン、ドラールまで。しかもこんなにたくさん。コージさんってもしかして怖い人ですか?」。

「そう見えるか? それは笑えるわ。実はサラリーマンやってる時に離婚や過度のストレスで眠れんようになって…そうやなぁ、もう十年以上になるかなぁ。こいつらのお世話になって」

「そうなんですか」

「ところで、あんた関西人やないやろう。東京からか?」

オレはなんかもっと酔いたい気分になって五杯目の冷酒でデパスっていう精神安定剤ワンシート十錠を一気に胃の奥へ流し込んだんや。他人が見てたら変態カップルやで、マジで。

「なんや、あんたの目って世界の不幸を全部ヒトリで背負ってるっていう感じやな。みんなそれぞれに色々あると思うけどな、明日何が起こるか分からんやん。そう考えたらそんなに深刻なこと、このクソみたいな世の中にはあんまりないと思うけどなぁ。明日核が飛んでくるかもしれんし、いや、ひょっとしたら事故にでもあってぽっくり逝ってるかもしれんしな。大体こんな安酒なんか美味いもんやないやろう。好きやって言うやつって大抵アホやとオレは思ってんねん。一日の疲れやストレスがこんな安酒で癒されるってオレにとっては嫉妬以外感じられへんねん。ものすごく幸せな人生やなぁって。ほんま、酒って全身の血液循環を良くさせたり、胃の中を刺激したりするためのモノやろう。習慣性や依存性の高い危険なリーガルドラッグやっていうのに。酒で人生潰したやつってよーさんいてるやん。何かに勘違いして。ちなみにオレは酔いたいだけ。漂いたいだけ。いつも思てるねん。水とかお茶で酔えたら最高やのにって」

くだらん話が止まらんようになって、多分オレ、相当酔ってたと思うねん。

「どうでもええけど、アイちゃんやったけ、さっきから黙ってグイグイ。人を誘っておいてそれはないで」

「コージさん…」

「ん、何や? 言い過ぎたか。気ぃ悪くせんといてな。オレいつもこの調子で周りからスポイルされるんや」

「あのー、ドラールもらって良いですか?」

「あぁ、好きなだけ飲んだらええねん。いくら飲んでも死なんしな。それに、何せ合法やからな。そやけどさっきもハルシオン飲んでて、ドラールって寝てまうで。オレ、人の介抱とかできんから、それだけは予め言うとくわ」

ねーちゃんは、テーブルの上に無造作にぶちまけられた薬の中から数種類を選んでビールで流し込みよった。オレはいよいよ薬と酒が回ってきて、らしくない自分の身の上話を始めてもうたんや。いや、ホンマにねーちゃんが世界の不幸をヒトリで担いでるみたいに見えてそれがあまりにも哀れに思えて。

「実はオレなぁ、最近釈放されたとこなんや。罪状は大麻取締法っていうアホいたいなもんで、りっぱな前科一犯。れっきとした犯罪者や。今は三年の執行猶予中やねんけど、それまでは一応社会人として、いや、サラリーマンとしては結構オイシイ生活しててんけど。ちょっとは名の知れた商社で、欧米を飛び回ってて。オランダに駐在員で派遣された時に大麻の素晴らしさを知ったんや。それがいつしかオレにはかけがえのないモノになって、遂には日本に持ち帰るようになって、家で栽培まで始めて。仕事上敵が多かったから誰かの密告なのか官憲のお手柄なんかは分からんけどあえなく逮捕や。それで全てを失った。それまでのオイシイ生活もキャリアも社会的なんとかやらも」

「大麻…それって麻薬なんでしょう?」

「アホなこと言うたらあかん。大麻って草木科に属する立派な天然植物。太古から繊維として活用されてたモノや」

オレは大麻についての、くだらん講釈をここぞとばかりに語ってもうたんや。

「例えばこれ、この薬。明らかに副作用とか体に良くないって分かってるやん。人工的に作りだされた化学薬品やん。元来自然界には存在しないモノやん。酒もタバコも肝臓や胃とか肺を悪くしたりって科学的に証明されてる危険極まりない嗜好物やん。それが高い税金乗せられて合法や。大々的な広告までうって。でも大麻は違う」

「違うって、でも覚醒剤とかコカインと同じなんでしょう?」

「全く違う。無理もない理解度やと思うけど少なくとも非合法やという点では同じやわなぁ。とにかく何回も言うけど大麻は人の命を縮めるようなモノやない。太古から人間とは深い関わりのある自然なモノなんや。それを他のドラッグと比較するなんて元々論外や」

「…全然知らなかった。っていうかやっぱり私には無縁で別世界の話って感じがする」

「っていうか、怖いっていう感じなんちゃうか?」

ねーちゃんは怪訝そうにオレを見てたなぁ。っていうか観察してたんかなぁ。

「じゃあ、例えばその大麻を摂取するとどういう風になるんですか?」

「なんて説明したら理解されるのかなぁ…その人によって捉え方や感じ方は色々やろうけど、オレは全てが許せるようになるんや。ホンマの意味でのポジティヴな気持ちになるっていうか…」

「ホントの意味でのポジティヴって?」

「平和や平穏ってホンマに大切なものやってこと。心からそう思えるようになるんや。生命の尊大さやそれに対する感謝の気持ち。全てから解放される安らぎとか、自然な眠りへのいざない。それら色んなもんが、自然の力で得れるっていうこと。例えば、レゲエミュージックで有名なジャマイカって知ってるやろう。国の面積が秋田県とほぼ同じで、人口は三百万人にも満たない島国。主要な産業はボーキサイトにコーヒー、そして観光業。元々英国領で、ネイティヴは抹殺されてアフリカからの奴隷でもって、1962年に独立するまで約三百年間もの虐げられた国民の生活があったんや。もちろん、今でも国内での治安の悪さは否めん。でも、それもこれも仕事がないからや。働きたくとも働けん。貧富の差は想像を絶するもんがあって、それでも彼らは逞しく前向きに生きてる。それは虐げられてきた中で育った独自の文化があるからや。それが彼らの特有の音楽であり、それには大麻が大きく影響を与えてたんや。つまりそれが絶望の今日から明日への希望になってたと思うねん。奴隷制度が現存してた頃、酒なんか高価で手に入らん。それで彼らは一日のつらい労働や言われもない差別から自らを解放するために自生の大麻を吸引してたんや。自然な植物でありハーブである大麻を。実際オレにはその過酷な生活が如何に厳しいものやったのか想像もつかんけど。でも、その虐げられてきた彼らの歴史の中に古くから大麻が生活に欠かせぬものとなって、それが彼らの社会や文化に大きな影響を及ぼしてるってことだけは確実やと思うんや」

ねーちゃんの表情は真剣そのもので、オレのくだらん講釈を必死に聞いてたわ。

「なんかちょっと脱線したけど、要は明日も元気に生きてやるぞっていう実感を大麻は与えてくれるってことなんや」

ねーちゃんの目に好奇以外の何かが見えて「それって今手にはいるんですか?」って。

「この国ではチンピラか密入国の外国人、へぼサーファーぐらいしか持ってないやろう。それに犯罪であること。おまけにオレは逮捕されてこの様や。この国で大麻に関わることは金輪際ごめんや。そやなぁ~、一番安全でお薦めはやっぱりアムステルダムかな。

あそこなら街中至る所にある‘コーヒーショップ’っていうカフェで堂々と自由に手に入るし吸い放題やからな」

それからまた長い沈黙があって、ねーちゃんは更にビールを煽りオレは冷酒に薬をガンガンぶち込んで、意識が朦朧としはじめた時や。急に凛とした口調でねーちゃんが話し出したんや。

「突然で驚かないで欲しいんですけど…」

「ん、何や? 大抵の事なら驚かんと思うけど」

「行ってもらえませんか? 私と一緒にアムステルダムへ」

「はぁ~?」

オレは一瞬耳を疑うたわ。面食らうってまさにあんな感じやろう。その日会ったばっかりで、しかもお互い泥酔状態で。オレは思わず大笑いしてもうた。酔った上での気まぐれやろうって一笑に付したんや。

「アイちゃん? やったっけ。何があったか知らんけど飲み過ぎちゃうか。真剣な表情でその冗談はかなり笑えたけどな」

でも、増々ねーちゃんの表情が険しくなってきて、その瞳は真剣そのものやった。で、更に語気を強めてきっぱりと言いよってん。

「いいえ、冗談なんかじゃありません。酔った勢いとか、薬の抑うつ作用での安易なお願いでもありません。むしろシラフでいる時より冷静です。お願いです。今日一命を取り留めたこと、それにこの出会い。私には偶然とは思えないんです。お金ならあります。私のナビゲーターとしてアムステルダムへ連れて行って下さい」

その何かを思いつめた表情にオレもだんだんと真剣になってきて。オレは忙しなくタバコをいじりながら言うたんや。

「本気かアイちゃん? こんな見ず知らずの中年男とアムス行こうなんて。興味本位の旅行気分やったらオレはごめんや。止めた方がええ。知らんで世界は五万とあるしな」

多分オレの方がビビッててん。あの時のあの女のあまりに真剣な目に。

「理屈なんかどうでも良いって言ってたじゃないですか。それに明日何が起ころうと不思議じゃないって。私は本気です。お願いします」

確かに人生何が起こるか分からんもんやけど、オレはただ自分の人生がどこか変だと思うしか術がなくて彼女の懸命な懇願に負けたんや。

「アイちゃん、パスポートは持ってるんか?」

「はい。いつも持ち歩いてますから」

「分かった。ほな、明日この銀行口座に旅費を振り込んで。一週間後、関西空港のKLMのチェックインカウンターに午前八時集合や」

その言葉を最後にオレらはお互いふらついた脳と体を揺さぶりながら別れたんや。

「あ~酔―たなー」

朦朧とした意識の中でオレは全く彼女の言葉を信じてへんかった。オレは自分に言い聞かせるように声に出して呟いてた。

「しかし、酒は怖いな~。変なねーちゃんやったけど、ルックスは結構イケてたなぁ。

独りよがりの悲観論は更なる悲劇を生むだけやっちゅうねん。でも久しぶりに面白い一日やったな。ホンマ、色んなやつ居てるよなぁ。まぁ、どうせ明日になったら全部忘れてるやろう。どーでもええわ。はよ帰って寝よ」

翌日、念のため銀行へ行って残高確認しに行って、オレは我が目を疑った。ホンマに金が振り込まれてて、いよいよ本気なんやと認めざる得なくなったんや。オレは腹をくくって、約束通り旅券や滞在先の手配をその日のうちに済ませたんや。

 

「ホンダ、実はその出発日が明日なんや」

「なに~、コージお前正気か?」

「しゃーないやろう。乗り掛かった船や」

「コージ、ええ加減にせーよ。さっきから黙って聞いてたらなんやそれ。明らかに狂ってるとしか思えん」

「確かに狂てるかもしれん」

「お前マジでそんな訳のわからん女のこと信用してんのか? っていうか嘘やろう。ホンマは全部作り話やろう。しょーもない冗談ぬかしやがって、だまされへんぞ」

「たとえオレがのたれ死んでも誰も悲しまんやろう。オレがおらんでも誰も何とも思わんやろう。正直、お前みたいに前向きにこの国のシステムと戦っていけるやつが羨ましい。でも、オレには無理や。それにあの女の目はそうやなかった。何かオレと同じ匂いを感じたんや」

「お前思いやりとか誠実さとか、誰かに迷惑をかけるっていうことに何の罪悪感も感じてないやろう。お前は昔からそうやった。全く成長してない。クソガキと同じや。だから今日が最後になるかもしれんとか言うてたんか? そんなこと聞かされた俺はどうやねん。大体、お前そのこと家族には言うたんか?」

「…いや、誰にも言うてへん。執行猶予取るために嘆願書のお願いを頼んだきりや。親不孝はオレの専売特許やろう。ホンダ、最後の頼みはお前からオレの家族に伝えておいて欲しい」

「イヤじゃ! そんな役回り。いくら親友でもそんな話聞かされて、あ~そうですか、後の事は任せて行ってらっしゃいって言えるか! このドあほが。六年ぶりに会って散々お前のバカ話聞かされて、もう四時過ぎてるやないか。お前はチェーホフか! 何が生きる意味や。ええ年こいで。俺は今日も仕事やぞ。その日々の積み重ねが生きるってことや。人生なめやがって。とにかく俺は知らん。ホンマに知らんからな!」

ホンダは泥酔状態の中、吐き捨てるようにコージに告げトイレへたった。そして戻った時にはコージの姿が消えていた。

 

 

第五話

~アイと両親と~

全てのものから逃げ出したアイは、とにかく西へと進路をとった。もちろん行くあてなどない。ただ寒そうな北へ行くより少しでも暖かい所へと思い南下したのだ。名古屋、京都そして流転の先は大阪だった。そこで彼女は浮浪者であり前科一犯と自称するコージという中年男と出会った。死んでもおかしくなかった状況からその男に助けられた。

彼の目はどこか自分に似ているように思えた。もし人生に勝ち負けがあるなら間違いなく後者であろうことが共通点だという気もした。

この偶然の出会いは、アイ自身の人生に少なからず刺激をもたらした。もとより、自分の行き場所を失ってしまった人生である。怖いものなど何もない。ただ、アイの脳裏にはムラカミへの思いがいつも離れず、二人の見知らぬ男に凌辱されたという事実だけが拭い去れない忌まわしい過去として心を苦しめ続けた。忘れられるわけがない。今のアイには世界中が敵に見える。自分を含め何もかもが許せない。

確かに彼女の思いに大義や奥深いものなど何も無いかもしれない。結局弱すぎる彼女の心は、ひたすら向精神薬とアルコールで、悲劇のヒロインよろしく嘆いているだけかもしれない。しかし、それを彼女はしっかりと自覚している。まだ狂ってはいない。そうやって自己を慰める以外にどうしようもない自分がいるのだ。それが単なる我儘で大人になれないバカな自分自身であることも含めて。

普通であることにこだわっていたアイの父は、彼女が小学校の卒業式前日に他界した。

肺ガンであった。半年余りの闘病の末逝ってしまった。答辞を託されていたアイは母に促されるまま通夜にしか出ず骨を拾うことが出来なかった。一日に三箱のハイライトを喫煙していた父の前歯はヤニで黄色く変色していた。アイの脳裏に残っている父の唯一の記憶である。そして今、彼女も父親同様ハイライトを愛煙している。母は二年ほど前に重度のアルツハイマーを患い施設で余生を送っている。入院費は父が残した遺産で賄っている。アイは変わり果てた母の姿を見ることができず見舞いにも行っていない。

‘お願いお父さん、早くこんなバカな娘を迎えに来て! それが父としての愛情であり努めでしょう!’

初夏だというのになぜか寒々しい。窓すら開かない空港近くのビジネスホテルで、アイはヒトリ、マッカランのボトルを片手に叫び大声で泣いた。

できることなら父と代わってあげたかった。ずっと心からそう思ってきた。彼女にとって父の死は生命の重さを知らされた衝撃的な出来事だった。残された母のためにも、やり残したであろう無念の死を遂げた父親のためにも、それを思うと生きているということ、生きるということ、生きる意味について疑問を抱かずにはいられなかった。死を望む自分が生かされ、生を望む者が死んでいく。

高校の教師であった父が闘病中に書いていた日記には、生への執念と自己への責任感、そして一段一段と階段を登るかのような半生が簡潔に記されていた。

○月X日

明日から二学期末の試験が始まる。生徒たちにとっては正念場になるであろう。一人の落伍者も出さず、皆の望む道に進ませてやりたい。ベッドに張り付いている自分がやりきれない。早く教壇に戻りたい。

○月X日

今日は午後から放射線治療を受けた。痛みは日を追うごとに増していく。副作用による脱毛や虚脱感は、私から生気を奪い取るようだ。いつまでこの生活が続くのか、家へ帰りたい。こんなところで浪費する時間の余裕など私にはないのだ。

○月X日

家内は一人懸命に介護してくれている。心から感謝している。好物のアジフライに涙が溢れそうになった。ありがとう。アイは大丈夫だろうか。もうすぐ中学生になる。いよいよ多感な思春期を向かえる。真直ぐに生きて欲しい。そして普通の幸せを掴んでほしい。苦労をかけている二人のためにも必ず病を克服しなければならない。

○月X日

三年生担当主任のマツモト先生とハマダ校長が見舞いに来てくれた。二人声を揃えて次期教頭はキミしかいないのだから、病気なぞに負けている場合ではないと、激励の言葉をもらった。来年の検定に向けての準備は万全だ。その為にこうしてベットの上でも勉学を怠ったことなどないのだから。必ずや突破してみせる。ガンが不治の病などという言葉を私は絶対に認めない。私は決して負けない。

○月X日

今日主治医から退院はまだまだ先だと告げられた。私のクラスは大丈夫なのだろうか。心配で堪らない。私が受け持つ卒業生を見送ることが出来ない。こんなに歯がゆく悔しいことはない。明日、卒業式への出席のための一時退院を申請してみよう。

○月X日

窓から見える景色は平和そのものでいつもと変わらずゆっくりと時間が流れていく。出たい。ここから。そして、私もあの内庭を歩いている人のように外気をいっぱいに吸い込み、家内と共に歩きたい。一念だ。この運命を変えてみせる。最近涙腺が弱くなった。負けたくない。負けるわけにはいかない。アイと家内のためにも絶対に負けるわけにはいかない。

○月X日

この日記を書くことすらつらくなってきた。遂に吐血が始まった。化学療法の効果もない。副作用の脱毛は激しさを増している。ダメだ。こんな弱気では。アイ…。

○月X日

死にたくない。家内とアイを残しては逝けない。誰かこの吐血と背中の痛みを和らげてくれ。

○月X日

今日はモルヒネで痛みから少し解放されている。しかし、思考力が追いつかない。意識が朦朧としている。アイ、お父さんはもうダメかもしれない。

○月X日

きょ うは 5かいの とけつ が モル ヒ ネの こうかも うす れて いる わた しは こ のまま しん でしま うのか いや だ しに たくない こわ い きょう ふだ こ わい こ わ い

○月X日

め が かすん でいる みえ ない な にも みえ ない か な いは どこ だ こ こは どこ だ… … …

○月X日

いた い ぜ ん しん が じぶ んの から だが ………じぶ んで………

臨終の際に発した最後の言葉が「アイを頼む」の一言だった。

 

気丈なアイの母は涙一つ見せず告別式の一切を取り仕切った。父親が残した遺産で食べることには不自由しなかったが、彼女は昼夜を問わず働いた。

一周忌の真夜中、アイがトイレへと目を覚まし、居間を抜けようとした時に嗚咽が聞こえた。母が一人テーブルに伏して声を押し殺し泣いていたのだ。アイは母にかける言葉が見つからず、その半生を考えずにはいられなかった。

―一体、母の人生ってなに―

まだ中学生の子供を抱え、それを支えに生きている彼女の半生を思うとアイは涙が止まらなかった。それは彼女に対する尊敬や有難さではなくひたすら母が哀れに思えたからだ。この先の彼女の人生に一体何が待っているというのだろう。それでもアイを育て生きて行かなければならない。アイは思った。私の成長だけが楽しみと母は心からそう言えるのだろうか? 母自身の生きがいは?

アイが幸せというものに疑問を抱き始めたのはその夜からである。少なくともアイ本人は自分の捻じ曲がった性格を作り上げたきっかけだと今でも思っている。

自由気ままに生きている今のアイの感傷癖とも呼べる強度のうつ病。全てから逃げ出し自ら狂わせてしまった半生。それでもまだ生きている。生きようとしている。何かと戦おうとしている。自我? 自慰? 未練? 他界した父のため? アルツハイマーになってしまった母のため? 死への尊厳は、そんな安易なものではないと信じたいから?

薬の効力がアルコールの勢いと共に猛然と襲いかかってきた。アイは様々な記憶の渦に巻き込まれながら意識を失い眠りについた。

 

第六話

~先輩と後輩と~

京都の国立大学を卒業したコージは、大阪を本社とする大手商社の一つであるM商事に入社した。そして数ある部門の中、第一志望に繊維部1課を選んだ。その理由は就職活動の際、同じ出身校で同じ学部のタケダという10年先輩に「お前さん採用決定。俺の一存で決める。人事には俺が根回ししておく。他社を受けるのは止めろよ」と言われ、コージはその場で「はい」とあっさり答え全てが決まったのだった。

コージにはタケダのサバサバとした態度と度胸の良さが妙に心地良かった。そのタケダが東京支社繊維部の部長であることから配属先もおのずと第一志望に決まった。

入社後、初めてのゴールデンウイークの前日にコージはタケダから「今日飲みに行くからついて来い」と有無を言わさぬ口調で言われた。入社して間もないコージは内心びくついていた。自分が何かやらかしたのか、それとも社内の派閥争いに巻き込まれるのではと様々な憶測を巡らせていた。

2人は定時ピッタリに会社を後にした。大通りからタクシーに乗りタケダは運転手に「赤坂の羅荘苑まで」と告げた。車中でタケダは不敵な笑みを浮かべコージに言った。

「さーて、今日は思いっきり食って飲むぞ。まずは肉だ。肉」

「は、はい」

「なんだよお前さん、さっきから元気ねーな。五月病か?」

「いえ、すいません。なんだか緊張して」

「緊張? オレ相手にそんな遠慮なんかいらねーよ」

「はい。でもボクたち一年目の社員はゴミですから」

その言葉にタケダは、特有の豪快な笑い声をあげた。

「ひゃあははは、確かにな。お前らはゴミだ。でもよ、みんな最初はゴミから始まってんだよ」

店内に入るとタケダはまるでそこが自分の家でもあるかのように「いつもの部屋空いてるよな」と、入口の店員に告げ一人先へ先へと歩いて行き一番奥の小部屋に入った。コージは遅れないようにと後に従った。

「タケダさん、いらっしゃい。またお腹が大きくなったみたいね」

「おう、オモニ。相変わらず嬉しい挨拶じゃねーか。俺は今が成長期なんだよ」

タケダは豪快に笑い、上着を脱ぎながら「オモニ、とりあえず瓶ビールでいいや。それからいつものコースでじゃんじゃん持ってきてくれよ」と、頬を緩ませ素早く注文を告げた。

「あっ、それからこいつ、うちの新人。これからちょくちょく来させるからよ、憶えておいてやってくれよな」

「いつもありがとうございます。新人さん背が高くて男前ねぇ。タケダさんとは大違いだわ。お名刺頂いてもいいかしら」

二人の会話に聞き入っていたコージは慌てて、おたおたと上着の内ポケットから名刺入れを出し両手で慇懃に自分の名刺を差し出した。

「名刺の出し方くらいは覚えたみたいだな、ゴミ男。ひゃははは。好きなものがあったらテメーでどんどん注文しろよ」

ほどなくしてビールが運ばれてきた。コージはすかさずタケダのグラスにビールを注いだ。

「おう、ありがとよ」

タケダはコージに返盃し「ほんじゃまぁ、お疲れさん」という言葉をかけ一気にグラスを空けた。まだ四月末だというのに、室内はクーラーが効きすぎていてコージは肌寒さを感じていた。二人が二杯目のビールに口をつけた時にはテーブルいっぱいに宮廷料理が並んでいた。そしてひときわ大きくあでやかな皿の上には数種類の肉が鮮やかに盛られていた。

「さぁ、食うぞ。お前もガンガン食え」

「はい。頂きます」

タケダは自ら限りなく薄くスライスされたタンに箸をつけ鉄板の上にのせた。ジュー、という肉の焼ける小気味良い音と香ばしい匂いが一気に部屋中に広がっていく。

「うめー、やっぱり肉だよな。ここ東京にゃあ数限りなく焼肉屋があるけどよ、俺はここが一番だと思ってるんだ」

「はい。うまいっす。ボク、こんなに敷居の高い焼肉屋って初めてですから批評なんてできませんが、とにかく最高にうまいっす」

コージはその肉の柔らかさとタレの絶妙な味わいに感嘆した。ひとしきりタケダは食べては飲み、話し続けた。それは商社マンとしてのプライドや社内で生き抜くノウハウをコージに指導するかのようであった。

「所詮商社マンなんてよ、とんでもねー勘違い野郎の集まりだぜ」

「…」

「オレたちは商社マンって名前のポン引きだな。ポンビキ。客のためにゃメシや酒の手配。極めつけは女の手配までなぁ。接待接待で、ウザいバカ話にあいづち打って、とことんまで気ぃ使ってよ。客を気分良くさせてサインさせるのがオレたちの真の姿、仕事の実態だからな。オレが繊維を選んだのは官庁とつるむことってまずねーだろうと思ったから、ただそれだけの理由なんだよ。他の部のやつら見てりゃぁ気の毒になるぜ。メシ、酒、女に汚れた金だもんな。うちも裏じゃ結構ヤバイことやってるしよ。それで飛んでいった奴も数知れずだしな。まぁ、これからお前さんも覚えていくことだろうけど、一つだけ忘れんなよ。オレたちはポンビキでもよ、そのプロフェッショナルだってことを」

「は、はい!」

「よーし、腹もふくれたことだし次行くかぁ」

コージにはタケダの言わんとすることの半分も理解出来なかった。ただ、今までに出会ったことのない男気を持った人物だというこ

とだけは、しっかりと確認できた。タケダは歩いても5分とかから

ないクラブへタクシーを使い、赤坂では4軒のはしご酒である。し

こたま飲まされたコージは、ろれつも回らない位に泥酔していた。タケダの言われるままに名刺を出しては頭を下げ「よろしくお願

いします」を繰り返していた。ドロドロの意識の中で何故自分がタ

ケダに引きずり回されているのか理解出来なかった。そして、その

真意に気がついたのは5軒目になる銀座のクラブであった。

「どーだ、参ったか?」

タケダはホステスにヘネシーの水割りを作らせている間に、コージに問いかけた。

「えっ…」

「酔ったかって聞いてんだよ」

「はい、もう限界です。タケダさんは酔ってないんですか?」

「プロのポンビキがこれくらいで酔うなんて、けっ、やっぱりゴミ男だな、お前は。ぎゃはははは」

「はぁ…」

「まぁ、これがオレからの洗礼ってやつだよ。おい! ネクタイ曲がってるぞ! ってな。ぎゃはははは」

タケダはコージをからかいながら、何度も特有の豪快な笑い声をあげた。

「あと2、3年もすりゃぁ、お前さんも海外デビューだ。うちの部だとヨーロッパになるだろけど、それまでに赤坂と銀座だけは教えてやんねーとな。先輩として」

「い、いえ、タケダさんは先輩ではなく上司ですから」

「はぁん? 上司?」

「はい。上司です」

「てめー、こんな席で今度オレにその言葉を使ったらタダじゃおかねーぞ!」

「えっ、でも事実ボクにとっては雲の上の人のような…」

「ゴミ男! 嫌いなんだよオレは。その上下関係ってやつが」

 

コージは、その日を境にプロの商社マンになるべく懸命になった。

周りの社員の一挙手一頭足も見逃さず、全てを吸収するかのように仕事へとのめり込んでいった。元来、要領と頭の回転が早いコージは、1年後には同期の誰からも一目置かれる存在になっていた。更に2年後には先輩社員からの信頼も厚く感じられるほど、商社マンとして急速に成長していた。社内研修である英語の授業も一度の欠席もなく半年で最終過程を首席で終えた。そして、3年目には4件の都内大手の百貨店の担当を任されることになった。

コージが配属されていた繊維部1課の主な業務は衣料や雑貨の輸入である。とりわけ、毎年欧米で春夏モノ・秋冬モノとそれぞれ行われるメンズ・レディスのファッションショーや展示会へ日本のクライアントを引き連れ、新しいファッションブランドを紹介し、独占販売契約を取り付けることが最大のミッションであった。

コージは、そのビジネスプラン作成のため、常に欧米の市場動向や調査に注力し、衣料・靴・バッグ・アクセサリーやインテリアなどのトレンドを的確に把握しなければならなかった。そして、日本国内で次なるトレンドとなる欧米ブランドの商材を絞りこみ、取引先と欧米各社双方が納得できる契約条件を立案する。

その条件に両社が興味を示せば双方担当者とのスケジュール調整や滞在先、接待先の手配などを行う。当時のコージの年間の海外出張日数は日本に滞在している日数を遥かに上回っていた。彼はその激務を全身で楽しんでいた。

それは、彼の功績でいくつもの欧米ファッションブランドが日本で展開され、その大半がヒット商材となっていたからだ。それが会社にも認められ、コージは入社7年目に大阪本社へ出向となり担当取引先は10社を超えるほどになっていた。結婚、不倫、離婚と慌ただしい時期を過ごしたのもその間である。彼は2年間の出向を終え、満を持して5年間のオランダ支社赴任の辞令を受けた。それは、同期でも異例の出世であった。

そして、赴任間もない頃に大麻と出会い、共に彼はポンビキとしての試練を初めて経験する事となった。

 

マロニエの白く大ぶりな花が満開のパリ。この時期限定の空が抜けるようなブルーと白いマロニエの花とのコントラストが、モネの絵画を思い起こさせる。

いよいよファッションウイークも終盤である。残すはあと1件の商談。東京の新規得意先であるH&H社というディストリビューターだけとなった。その契約締結を終えればアムステルダムから出張に来ていたコージの任務は完了である。しかし、このディストリビューターの代表であるエンドウという50歳半ばの男が曲者であった。

それは、同業の商社間でも有名で、例えば、ベッドが柔らか過ぎるから部屋を変えろ、コンシェルジェの態度が気に入らないからホテルを変えろと緊急時の電話番号へ真夜中であろうと平然と電話をかけてくる。レストランでは何を食べても、まずい、まずいと横柄な態度で暴言を連呼し、そのくせ金にはドがつくほど女々しく、お土産代や移動時に使用する車代や休憩時のコーヒー代まで商社に請求してくる。コージはエンドウと今回の契約のため3度のミーティングを持ったが、その印象は、いわゆる‘ヤカラ’というものであった。

大切な商談を数時間後に控えた深夜の1時過ぎ。パリ支社オフィスに1人残り雑務を終えたコージが身支度を整えているその時に緊急用の電話が鳴った。こんな時間に何事かと思いながらコージは受話器を取った。

「MCC, Paris. Bon Soir」

「H&Hのエンドウだが、うちの担当者をお願いしたい」

果たして声の主は‘ヤカラ’であった。コージは嘆息を押さえながら言った。

「エンドウ様ですか、私です。何か問題でも起きましたでしょうか?」

「うむ、キミかね。タイミングが良いね~。それにこんな時間まで仕事とはキミも大変だね」

声色が甘くいつもの横柄さが感じられない。コージは怪訝に思いながら、「いいえ、要領が悪いものですから」と手短に答えた。

「実はね、キミに折り入って頼みたいことがあるんだよ」

コージは増々甘えるようなエンドウの声に嫌な予感をおぼえた。

「はい。何なりと申しつけ下されば」

「うむ。すまんがこれからホテルに来てくれんかね。そこでじっくりと話したいんだよ」

「了解いたしました。すぐにオフィスを出ますので10分ほどでそちらへ伺います」

「そうかね。では、ロビーで待っているよ」

こんな時間に一体なんだろう。明日の予定ならすでにミーティング済みであり、午後からのフランスメーカー1社との商談だけである。コージは背中に冷たいものを感じながら社用車でエンドウのホテルへ向かった。

エンドウはコージが到着する前にロビーでコヒバを1人くゆらせていた。白のポロシャツにベージュのコットンパンツというラフなスタイルで革張りのソファーにどっかりと座っていた。そしてコージの姿を捕えると満面の笑みを浮かべ

「いやぁ、こんな時間にすまないね」と普段の彼ではあり得ない、媚びるような声で言った。

「おつかれさまです。お待たせして申し訳ございません」

エンドウはかぶりをふり

「ここではなんだから、1杯飲める所へ連れて行ってもらえんかね」

「はい。分かりました。では、参りましょう」

コージは彼を車まで先導し助手席のドアを開け、自分は素早くボンネットを回り込んで運転席に乗り込んだ。エンジンをかけるのと同時にエンドウが独り言のように口を開いた。

「できればだなあ、フランスの女性と飲めるところがいいんだがね…」

「了解しました。ではピガールへ行きましょう。あの地域なら遅くまでやっていますし、きれいな女性もいますから」

「いいねー、頼んだよ」

エンドウはそれっきり口を閉じ車窓のパリの街並みに目をくばっていた。その横顔は中年のいやらしさであふれている。

やれやれ狙いは女かよ。コージは心の内でぼやいた。

ピガールはムーランルージュで有名ではあるが、その周辺はポルノショップやいかがわしいBARが軒を連ね‘立ちんぼう’と呼ばれている売春婦が道端で堂々と客引きをしている。夜のピガールは、市内でもかなり下品な地域なのだ。

コージは道中何度も商社マン必須アイテムのレストラン、バーの店名、住所が書かれたナビ用紙を指で追いながら行先に目星をつけた。

「さぁ、着きましたよ」

コージは‘エロティカ’という電飾の看板が点滅している店の前で車を止めた。ナビ用紙通りなら大丈夫なはずだと心に言い聞かせている。エンドウは「いいね~」といやらしさをむき出しにして飛び出すように車から降りた。コージも素早く車から降り、エンドウを先導し屈強そうなドアマンに2人だと告げた。

ドアマンは、トランシーバーで店内としばしやりとりをして、赤い革張りの分厚いドアを開け、2人を店内に案内した。

薄暗い店内に入ると「BONSOIR」と、甘ったるい声と強烈な香水の匂いがコージとエンドウを包み込んだ。次の瞬間に女たちは2人にディープなキスの洗礼を放った。そして、しなだれかかりながらテーブルへと誘った。さすがにコージも度胆を抜かれた。2人は6人の女たちに挟まれる形で、深く沈むソファーに座った店内にはスイングする軽快なジャズが大音響で流れている。その音量で女たちの会話がうまく聞き取れない。注文もしていないピンクのシャンパンが素早くテーブルに運ばれてきた。エンドウは「いいね~、いいね~」と1人何度も繰り返しつぶやいている。女たちは妖艶な視線を2人に注いでいる。

エンドウの横に座っている女は大胆に両足を広げ彼に絡みつきシャンパンを次々に飲み干していた。コージはここが明らかにボッタクリバーだと察知し「エンドウさん、ポケットの貴重品だけには十分に注意してください」と大声で言った。しかし、エンドウはその場に酔っているのか、全く反応しなかった。それどころか通じもしない言葉でブロンドの女の耳元で何かをささやき、右手でその女の膝をなでていた。

コージは彼にとことん付き合う覚悟を決めた。彼自身は嫌なやつだが、会社にとっては重要なクライアントの一つだ。

1時間くらいが経過した時、きっちりとブラックスーツに身を包んだ男が

「時間だ。清算してもらう」と一方的に白い紙切れを手渡した。コージは薄暗い中その紙に目を凝らし、自分の予想が的中したことを認識させられた。その紙には3000ユーロと書かれてあったのだ。

有無を言わさぬそのスーツ姿の男の目には一瞬の隙間もなかった。コージは立ち上がり、その男に目配せを送り入口脇の比較的明る

い場所まで歩いて行った。エンドウには気付かれぬよう、そこでカードを渡し金額を確認しサインした。

「やられた…」コージはがっくりと肩を落としエンドウに目を向けた。何も知らない彼は1人また1人と消えていく女に怪訝な表情を浮かべコージの姿を懸命に探しているように見えた。

2人は追い出されるように‘エロティカ’を出た。お互い無言で車に乗り込んだ。コージは、精一杯の営業スマイルで「楽しんで頂けましたか」と尋ねた。車内の時計は午前3時を過ぎている。

エンドウは突然大きな声で「あれ、おかしい…ない!ないぞ!!ここ、この後ろポケットに入れておいた財布がない!!!おい!キミすぐに戻って私の財布を探してきてくれ!!」と叫んだ。

事態は最悪である。コージは「だから言ったじゃないか」と思いながら車から降り、再び屈強なドアマンと対峙した。もちろん財布が戻ってくるなどとは思ってもいない。車から凝視しているエンドウへの一応のパフォーマンスである。5分程のやりとりの後、コージは車に戻りボッタクリバーであったことなどを含め事態の一部始終を正直に説明し謝罪した。エンドウは苛立ちをあらわにコヒバに火をつけ「もういい!早く車を出せ!!」

と、ダッシュボードを蹴りあげた。コージは疲労とエンドウに対するやりきれなさで、キレかかっている自分を必死にこらえ、ひたすら車を無言で走らせた。

深夜のパリはいつもの美しさを保っている。昼間の喧騒と交通量が別世界のようで、オレンジ色の街灯が薄い霧に包まれ深閑とした街中を踊っている。車はストラスブール通りからノートルダムの交差点を右折しリボリー通りに出る。エンドウの宿泊先はこの通り沿いのルーブル美術館の西側の端、斜め前である。コージは「あと2分の辛抱だ」と心の中でささやいた。

「今日のことは忘れよう。キミにはすまないことをした。しかしねぇ、どうしても気がおさまらんのだよ。分かるかね」

「え、いえ、私の不注意でこちらこそ申し訳ありませんでした」

コージ懸命の営業トークである。

「もうホテルに着きますので今日はゆっくりとお休み下さい」

「…いや、私はどうにかこの苛立ちを静めんことには眠れそうもないんだよ」

「しかし時間も時間ですから、明日の商談にそなえて」

エンドウはコージの言葉をさえぎり

「商談なんてどうでもいい!分からんのか若造!!女を手配しろと言ってるんだ!!!」

と大声で怒鳴り、再びダッシュボードを蹴りあげた。

「んんん…」

コージがキレそうになったその時だ、彼の耳にはっきりとタケダの声が響いた。

「オレたちはプロのポンビキなんだよ」

コージは大きく深呼吸をした。

「分かりました。とにかくホテルまでお送り致しますので、お部屋でお待ちください。すぐに手配させて頂きます」

 

その一件以来コージはますます仕事に打ち込んだ。無我夢中で5年間の任期を果たした。

そして、自他ともに認めるプロの商社マンになったという誇りを得た。彼は帰国前にミラノ支社に駐在しているタケダへ挨拶するため1週間の休暇をとった。コージは、タケダの前では子供のようにはしゃぎ、5年間の経験を懐かしむように語った。ポンビキであることの誇り、商社マンとしての誇り、そして、会社への忠誠心。

特にミスをおかしヘコム度にタケダへ泣きの電話をいれ、ミラノ出張の名目をもらい窮地を救ってもらったこと。タケダは、逞しく成長したコージの話に一喜一憂し、時折、帰国する後輩にさみしそうな笑顔を見せた。

「ところで、どうして次の任地を大阪本社にしたんだ。東京にしてりゃあ出世頭じゃねーか。しかも4課じゃなく1課ってどういうことなんだ?」

「はい、実は4課で物販をやってきて思ったんですが、出来上がったモノをただスルーさせるだけっていう業務になんとなく物足りなさを感じて。じゃあいっそのこと、モノ作りの世界に飛び込んで、今までの経験値が活かせればと思い決めました」

「モノ作り?お前が?」

タケダは大きく首を傾けながら続けた。

「オレとしちゃあ、もったいない気がしてならねーけど。っていうか、オレの課から離れていくわけだしよ。おまけに1課ってイガラシのところじゃねーか。あそこはお前さんも知っての通り3期連続のへこみ組だぞ。イガラシのバカが殺気だって統率できねーもんだから、部下のやつらみんなで手柄の奪い合いになってるらしいじゃねーか。今ならまだ撤回できるぞ」

「ありがとうございます。自分がここまでやってこれたのはタケダさんの計らいなしではあり得ませんから、お言葉マジでうれしいです」

「だったらよー…」

「もう決めたことですし、へこみ組の方がテンションあがりますから。絶対に結果出します」

「…そうか…しかたねーな。まあイガラシにはオレからよく言っといてやるよ。お前さんのことだから何やっても上手くやるだろうけどよ。でも。嫌になったらいつでもオレんとこに帰ってこいよな」

「はい」

コージはタケダへの感謝の言葉を飲み込んだ。感涙で声がでないのだ。タケダにとってはそのコージの表情だけで十分であった。タケダの目にも光るモノが溢れそうになっている。

彼はそれを抑え込みながら言った。

「変わったやつだよ、お前って」

 

第七話

~逃避行と不思議な感覚と~

「ホンマに行くねんな。今やったらまだ取り消せるで」

午前8時5分。関西空港、KLMカウンター前。すでにチェックイン待ちの乗客が列を作っている。コージはアイに最後の意思確認をした。

「荷物はスーツケース1つとこのトートバッグだけ。これが私の全てよ。もうチェックインできる時間でしょ?」

それが彼女の答えだった。

コージとオランダ航空との付き合いは、かつての仕事を通してかなり深い。プラチナのマイレージカードを係員に見せると、2人は長い列を横目に素早くチェックインカウンターに誘導された。

「本日はエコノミーの座席が満席ですので、ビジネスクラスの座席をご用意させて頂きますが、よろしいでしょうか?」

2人はカウンター越しにアップグレードの申し出を受けた。良いも悪いもない。座席など彼らにとってどうでも良いことなのだ。

「お願いします」

コージは短く答え2人分の荷物タグと搭乗券を受け取った。

「こんなところであんまりツキ使いたくないけど、エコノミーよりましやろう」

コージは誰に言うでもなくつぶやき、アイと肩を並べてイミグレーションへと向かった。

アイの表情がいささか強張っているように見える。

「アイちゃん、緊張してんのか?それとも後悔か?今にも泣きだしそうな感じやで」

「…さすがに緊張してるみたいで、実は昨日から色んな思いが込み上げてきて」

「んん、アイちゃんもやっぱり女の子やな」

「やっぱりって…」

「いやぁ、相変わらず大袈裟やなと思って。嫌やったらすぐ帰ってくればいいやん。12時間ほどの距離やで。念のためチケットは3ヶ月のフリーにしてるから」

それ以降、搭乗までの間2人から会話が消えた。

「んんん~、この感じ、久しぶりやな~。さぁ、早速シャンペンでも飲んでドーピングしよう。アムスまでの12時間何も考えず眠れるようにな」

アイは1点を見つめ言葉を発しようとしない。

「すいません、シャンペン頂けますか。それから機内食は結構ですから寝かせておいてください」

コージは、アイのことなどお構いなしに慣れた口調でCAにリクエストしている。

彼の英語には少しの衰えもなかった。

「Sure」

ふくよかなオランダ人CAは快い笑顔で答え、ほどなくその巨体を揺らせながらモエのミニボトルを2本とグラスを運んできた。

「アイちゃん、とりあえず漂うことからはじめようか」

コージは、手荷物のバッグから薬の束を出し、睡眠誘導剤と睡眠剤を大量にシャンペンで流し込んだ。アイは無言でコージの座席テーブルからいくつかの薬を取り、同じようにシャンペンで流し込んだ。

「これで飛行機が上に上がったころには気絶してるはずやわ。あっ、ところでアイちゃん言葉は大丈夫なんか?」

「…」

アイは無言でうなずいた。

「ほな、ボンボヤージュってことで、途中薬が必要ならこの座席ポケットに入れておくからお好きにどうぞ。では、おやすみなさい」

「あの…」アイが口を開いた。

「ん?なんや?」

「いえ、何でもないです」

「なんやねんな~、言いかけてやめるって、気になるやん。なんかオレに気を使ってんのか?」

「いえ、ただお礼が言いたくて」

「はぁ、お礼?何のお礼や」

アイはコージの目を見据えて言った。

「こんな私に付き合ってもらって、なんだか申し訳なくて」

「今更みずくさいな~。っていうか、こっちこそ感謝してるよ。しらけた毎日、北京ダックみたいに食って寝て、1人ガアガア騒いで。そこから解放してくれたのはキミやから」

「ありがとう」

アイの最後の言葉は飛行機のエンジン音にかき消され、コージは口の動きでその意を察した。やがて爆音とともに機体は動きだし2人は眠りにおちた。コージは、飛行中何度か目が覚めたがその都度シャンペンで薬を流し込み、アイの寝顔を確認しながらまた眠りへとおちた。

そして、飛行機はオランダ・スキポール空港にその翼をおろした。

世界でも屈指のハブ空港は迷子になるほど広い。コージはこの空港へ降り立つと常に感じる。この国が自由貿易を柱としている所以がここに集約されていると。

かつては船舶を自由自在に操り世界を縦横無尽に走り回り、席巻し、商いの国としての地位を確立させた。そして、時代の変遷と共に柔軟に国益を得るために対応し、合理性を追求し続けたその進化の過程が垣間見えるように感じるのだ。

コージは、大量の睡眠薬摂取による不快感を味わいながら、ふらついているアイを支えイミグレーションを出た。

コージの心中はひたすらこの不快感から逃れるための唯一の特効薬である大麻だけを求めていた。列をなしているタクシーを捕まえアムステルダム市内を目指した。

わずか20分の我慢である。コージは湧き上がる興奮を必死に抑えた。

「アイちゃん大丈夫か、顔色が悪いぞ。もうすぐ聖地アムステルダムや。辛抱してくれ」

「うん、大丈夫。ただ頭痛がひどくて」

「オレもや。あれだけ薬飲んだらさすがにつらいよな」

「…」

「どうした、まだ緊張してんのか?」

「分かんない、分かんないの。今更だけどホントに来ちゃったんだっていう思いと、右も左も分からない不安で、なんだか…」

「うむ。特にあの空港は広いし、アムスはニューヨークやパリ顔負けくらいの人種が混在としてるからなあ。ベトナムやアフリカの難民を積極的に受け入れた歴史があるから。黒・白・黄色。まさにオランダの縮図。まぁ、とにかく任かせてくれ、ここはオレの庭みたいなもんやから」

車は中央駅からダム広場へと通じるダムラック通りから3本目の路地のような脇道を抜け、ラファイユ通りへ出た。コージはその一角に車を止めさせた。小洒落た赤いハザードに星が4つ、‘HOTEL  MEVIUS’と書かれてある。そこはかつて彼が商社マン時に顧客用に使っていたホテルである。客数は20部屋ほどだが建物自体が異様に高く幾分右に傾いている。宿泊者にとってはプライベートホテルのようなもので、フロントの紳士的な振る舞いやセキュリティーに長けている。

「さぁ、着いたぞ」

「ここですか、ホテル」

「うん、ここがオレのホンマの家みたいなもんや」

ドアマンが素早く車に近づき2人のバゲージをホテルの中へと運び込み先導している。

果たしてフロントマンは、コージをフルネームで覚えていた。そして、コージがいつもリクエストしていた角部屋の一番見晴らしの良い17号室を用意してくれていた。

窓が大きくハイシーリングであり60㎡の広さは快適この上ない空間である。アメリカンスタイルの室内は清潔で日本人には使い勝手の良さでも秀でていた。

コージは何とも形容のできない優雅さを感じていた。

「ここに2週間ほど滞在する予定やけど、アイちゃん、ええかな?」

半ば放心状態の彼女に一応の断りを得た。

「ええ、すごく綺麗だし、天井が高くて窓の大きさも眺めも良い感じ。それより、私なんだかすごく疲れてるような、体が思うように言うことを聞いてくれないって感じなんです」

アイの頬は幾分こけているように見え、目も充血している。

「うん、無理もないわ。あれだけ薬飲んで、ほとんど食べずで、疲れて当然やろう。薬の副作用もあるやろうし。しばらく安静にな」

「うん…」

「ところで、大事なことやから聞くねんけど、アイちゃんの所持金はいくらなんや」

「えーと、私の貯金がシティーバンクに600万円ほど、カードはAMEXとVISA。今手持ちの現金は50万円ほど。出発前にも言った通りお金の心配は要らないと思うんだけど」

「分かった。これからの滞在期間や当面の生活に大いに関係するから念のために知っておきたかっただけや。情けないけど今のオレはスカンピンやから、しばらくはアイちゃんに精一杯お仕えさせてもらうつもりで…」

「本当にお金のことは心配しないで、それよりも私が求めているのは、生きているという…いや、こんな私でも、‘生きていていいんだ’っていう証しなの。心からそう思える自分を。それは、決して私一人では成し得ないと思ったから。だから、コージさんの力を借りようと…」

最初の出会いからは想像もつかないほど素直で不安そうなアイの言葉だった。

「海外初めてじゃないよな?」

「ええ、何度かあります」

「ヨーロッパは?」

「これで2度目です。って言っても初めての時は、パリ・ミラノ10日間っていうツアーで。ショッピングをしたこと以外ほとんど記憶にないの」

「で、いつまで滞在するつもりなんや」

「今ははっきり答えがでないの。でも気持ちはさっきも言った通り生きている証しが得られるまで」

「ん~、ってことは長期滞在ってことやなぁ」

「分かんない。その可能性は大きいけれど、っていうか今は意識も体も朦朧としていて…」

「よっしゃ、分かった。とりあえずアイちゃんはゆっくり休んでてくれ。オレは大麻の調達に行ってくる」

コージはアイから20万円ほどの現金を受け取りホテルで換金を済ませコーヒーショップに向かった。頭痛をよそに自然に足早になっている。コージの脳内は大麻を吸引することで支配されていた。

陽は落ち、少し肌寒さを感じる。コージは改めて運河の匂いを胸いっぱいに吸い込み、王宮の裏道を抜けスパイ通りの入口から2つ目の路地を入り、広いショッピングロードへ出た。コージの目にかつて行きつけであったコーヒーショップ‘KANNA’が視界に入った。表通りに面した3階建てのそのコーヒーショップは1階がプールバー、2階はヘビーなロックを頭が引き裂けるような音量で流しているダンスホール、3階がリラックススペースでガラス張りに各テーブルが仕切られていた。階段を上がった1番奥の小さなカウンターには大麻、ハシシのメニューがあり、それらを販売している。目を充血させた若い店員が体をスイングさせながら大麻をくゆらせていた。

「Hi!How‘re u doing」コージの挨拶に店員は会釈で答え言った。

「What do u want」

「Well, I’ll have a SS for 30g please」

「Ha? It’s impossible man!」

店員は大袈裟に両手をあげ、それは販売規定のMAXを超えているから無理だとコージに説明した。もとよりコージはその規定量が10gmだと知ってのオーダーである。

「What is your problem? Han? I have many friends over there, u see? Come on man! Just let me have a good staff」

店員は苦笑しながら30グラムの黄金の草を、無造作にビニールの小袋に詰め始めた。

SSとはアムステルダム特産のスーパースカンクと呼ばれるモノで、その特性は他に類をみないほど強烈に脳へズシリとくる。コージは過去にタイ、ハワイ、アフリカ、アフガニスタン、ジャマイカ産など全メニューを制覇したが、その結論がスーパースカンクだった。

彼にとってはその感覚が世界の不条理を全て超越させ肯定へと誘う唯一無二のモノだった。店員は不器用な手つきで計算機をたたき、コージは210ユーロを払い巻紙3束をつけさせ合法である大麻を手にした。そして、窓際の静かなスペースへ座り大きく深呼吸をして、ゆっくりと1本目のジョイントを巻く作業にかかった。豊満な胸をしたウエイトレスが注文を取りに来る前に彼の人生を根底から変えてしまった大麻が巻き上がった

「素晴らしい美しさや」

自画自賛である。確かに彼の巻くジョイントは太く長く美しい。コージはゆっくりと火をつけ1服目を思い切り肺へ浸み込ませる

ように深く吸い込んだ。数秒間息を止め十分に煙を肺に吸収させ一気に鼻から吐き出す。粗悪な大麻はノドに不快感を与え、時には咳がとまらないほどの苦痛を及ぼすが、スーパースカンクにそんな危惧はない。

「う~~ん、うまい!」

コージは思わず感嘆の声をあげ余韻を楽しんだ。そして、たて続けに2服、3服。体が次第に重みを感じ意識に変化が表れた。逮捕された瞬間や留置場での筆舌し難い屈辱、毎日垂れ流される情報の中で見た日本という国の現実。ここ数か月で彼の身に起こった数々の信じられない出来事の全てが浮かんでは消えていった。

コージは、オランダに降り立った自分が以前にもまして期する気持ちの強さを深く感じた。

「やっぱりオレは後悔なんかしてない。お前らが一生理解出来ん味わうことのないであろう至福の刹那をオレはこうして味わってる。今はっきりと言える。オレはホンマに自由で幸せや」

止めどもない思考の渦が脳内を支配している。

うたかたの夢、和み、コージは1人柔らかな気分に包まれながら無意識に独り言を口にしていた。

「なんでこれが非合法やねん。なんでこれが多数に理解されへんねん。依存性、たしかに否めん。でもそれはたばこや酒、チョコレートもおなじやろう。しかもオレが大麻を愛用するようになって仕事に穴をあけたことがあったか。失敗したことがあったか。それどころか会社に対する貢献度はみんなが認めてたやないか。なぁ、オレ大麻で誰かに迷惑かけたことがあるか?アホな常用者が他の犯罪と一緒にやるから誤解が生じるだけやないか。脱法ドラッグっていうもっと危ないもんが合法でなんで平和をもたらす大麻が違法やねん。

頼む、誰か教えてくれ!別に全面解禁なんて望んでない。ただ嗜好品の一つとしての扱いを求めてるだけや。せめて欧米並みの寛大さを。クソー、やっぱり理解不能や」

2014年1月アメリカの首都ワシントンでは大麻の所持、喫煙が解禁された。

「もうええよ。すべて許す。…結局オレは1人強がってるだけなんかなぁ」

コージは改めて仕事のへの未練を心の片隅で噛みしめながら、したたかに和み、残りの大麻を無造作にポケットに押し込んだ。そして、愚痴を吐きながらゆっくりとした足取りでホテルへと戻った。

「アイちゃん、戻ったよ」

その問いは、アイの寝息にかき消された。コージは、苦しそうな顔で眠っているアイのベッドサイドにコルビジェのレプリカであろうスティールパイプの椅子をたくしよせ、彼女が夢で戦っている光景を想像した。

「オレがキミのために出来ることなんて一つもないんや。誰もキミを救うことなんてできん。結局は自分で自分が輝ける何かを見つけて、そいつと対峙して自分自身でケリをつけんことにはな」

コージは、アイの寝顔に向かって囁くように言った。

コーヒーショップで巻置きしたSSに火をつけ、これからの生活について考えをめぐらせた。いつまでもアイの世話になるわけにはいかない。彼はここに再び来ると決断したときから日本には2度と戻らないとある覚悟を決めていた。

「オレの死に場所はここなんや」

彼は深い和みの中、近日中には自分が在籍していた職場を訪ねることを思った。それは、彼の唯一の良き理解者であったタケダが2年前からCEOとして赴任していたからである。今やタケダは繊維だけでなくヨーロッパ全域で扱う商材の一切を取りまとめるポジションにいた。コージはタケダに会い今回の顛末を素直に謝罪し彼が心に決していた‘ある’ことを伝えるためである。

「今何時ですか?」

アイが目を覚ませた。

「午前1時23分」

「私、5時間くらい眠ってたんだ」

「あぁ、何かにうなされているような苦しげな顔でな」

「えっ…ってことは私の寝顔を観察してたってこと?」

「なかなかの可愛さがある良い寝顔やったよ。思わず襲いかかろうかと思ったもん」

アイは少し恥ずかしげな目をコージに向け言った。

「ノドがカラカラ。お水もらえませんか」

コージは、帰り道に買ったSPAのミネラルウォーターを手渡した。アイはゴクゴクとノドを鳴らせて一気に飲み干した。

「コージさん、街中には行ったんですか?」

「うん、ほら」

コージは無造作にビニール袋に詰められた黄金の草を彼女のベッドへ放り投げた。

「…これが大麻…」

「あぁ、正真正銘の極上の大麻。マリファナ、グラス、ハッパ、クサ、ガンジャ、カンナビス・サバ・エル…色んな呼び名がるけど」

「大麻かぁ…これで本当に楽になれるのかな」

「それよりアイちゃん体調は?」

「ええ、少しでも眠ったせいか楽になりました、変な頭痛は残ってますけど」

「お腹は減ってないんか?」

「ええ、今は大丈夫です。それよりもこれが気になって」

「ほう、ほな1服いこか」

「え、えぇ…」

アイの表情は大麻への好奇心と不安が入り混じった感じだった。

「初めてやもんな、そりゃあ罪悪感とか刷り込まれた麻薬っていう概念との葛藤はあるよな。でもこいつの正体は酒やタバコと同じ嗜好品の一つにしかすぎん。出会った時にも言うたけど感じかたって人それぞれやからなあ。ただ、少なくともホンマの薬害、向精神薬がいかにヤバイものかは体感できると思う。それから今までの己の人生観がいかにクソみたいなモノかってことも」

コージは初めての大麻吸引が賛否2つに分かれるという光景をなんども目にしてきた。

うまく和める者とそうでない者。それがファーストタッチで決まってしまう。そして、彼はその後者に‘残念なやつ’だと思ってしまう。決して責めているわけではない。簡単な話である。例えば酒が好きな者とそうでない者、愛煙家か嫌煙家か、嗜好品とはそういうものである。好きな者が好きなだけ自由にやれば良いと言いたいだけなのだ。

「まあ、アイちゃんのことやから、笑い転げるか、食べまくるか、それとも眠ってしまうのか。この3つの内のどれかやと思うわ」

コージは巻置きのジョイントに火をつけて深く吸い込んでからアイに手渡した。彼は鼻から煙を吐き出しながら言った。

「タバコを吸う感じでええねん」

アイは小さく頷き、メラメラという大麻草が燃える音をたて大きく1服目を胸の奥へ送り込み一気に口から煙を吐き出した。

「そうそう、そんな感じでええねん」

「大麻ってこんな味がするんだ」

「苦いんか?」

「ええ、少し。っていうか確かにタバコとは全然違う味わいで、だけど別に違和感がないっていうか…」

「ふ~ん、そうか。でも、むせたり、咳き込んだりって、フィルターがない分かなりきついからな。でもアイちゃんはハイライト吸っててんから大丈夫やろう」

そんな感じなのかという面持ちで、アイは軽くうなずきながら2服目を吸引しコージへ手渡した。2人はしばらくジョイントのキャッチボールを行い、しきりに水を飲んだ。

「コージさん、私何にも変化がないんですけど…」

コージはしたたかに和んだ優しい目で少しいたずらっぽく言った。

「それは残念やな~、アイちゃんは大麻にも嫌われて、お気の毒な感じに仕上がってるんやわ」

「えっ…そんな」

コージは必死に笑いをこらえていた。

「アイちゃんは睡眠薬と酒で頭がいかれてもうて、手遅れやったんやなあ。これは明らかに天罰やな。まあ、あきらめてスコッチでも飲むことやな」

アイは、コージの言葉には全く反応せず、突然立ち上がり内庭の見える窓越しのソファーへ腰をおろした。そして、ぼんやりと窓の外へ目をくばり、すっかり慣れたような手つきで大麻をくゆらせている。

「綺麗、素敵、この光景って。この空間すごーい」

どうやらアイも和みはじめたようだ。

「月ってあんなに綺麗だったんだ」

「どれ、うん、確かにきれいな月夜や」

コージはアイの肩越しから空を見上げた。

オランダにしては珍しく、薄い雲が満ちた月に遠慮をするかのように、穏やかに流れている。そして、深閑としたその空間を鈍い青さが無限に広がっているように見えた。時折、妖艶に映るその光景は、確かに綺麗という表現がぴったりであった。

「…っていうか…」

「ん、どないしたんや?」

アイの目が三日月のように変形している。明らかに酩酊しているのだ。

「えっ、私、なんだか…どうしたんだろう。言葉にならない」

「ん、そやからどないしたんやって」

コージは更にいたずらっぽくアイに問い返した。

「…そっか、この感覚が…コージさんの言ってた心の変化なんだ」

「さあ~、何回も言うけど感じかたは人それぞれやからなあ。言えることはただ一つだけ。ポジティヴな気持ちになれるってことかな」

「ポジティヴ。うん、確かにその言葉がぴったりな気がする。今なら色んな事柄が肯定できるような…」

「無理に言葉にする必要なんかないよ。今日は1人でゆっくり和み~。今までの半生でもゆっくり振り返りながら。オレは本日閉店や。悪いけど先に寝かせてもらうわ」

懐かしく心地よい睡魔がコージの全身を包んでいる。

「ええ、ゆっくり休んで下さい。あっ、コージさん…」

「ん?話しは明日ゆっくりな」

「…ありがとう。お休みなさい」

「礼なんかええよ。こっちの方こそや。まあ、お互いさまってことで。ほな、おやすみ」

アイの実感として、大麻の効力を一言でいってしまうと、肉体的には地に吸い込まれるような強烈な重力を感じ、思考面では深刻な事柄を和らげてくれる。そんな感覚だった。

彼女は、まだ得体の知れない中年オヤジの寝息をBGMにひたすら夜空を眺めていた。

この心の安静は何なのか。味わったことのない不思議な多幸感。いつしかアイは、今まで思ってもみなかった平和であることの尊さ、生命の神秘とその大切さを感じていた。そして、いつもの薄い感傷が消えていることにさえ気がつかなかった。過去の忌まわしい出来事を含めて。

「世界が平和でありますように」

アイの口から不意に信じられない言葉がこぼれた。アイはそれを自覚している。

「これが大麻による思考の変化だとすると…」

アイはそんな自分自身に驚愕した。

「た・い・ま」

言葉にしてみた。1本のジョイントを半分吸い終えた彼女は不思議な多幸感に誘われるように、自然にベッドに体を横たえた。数秒後には薬や酒で味わったことのない自然な眠りにおちていた。そして、その夜は夢すら見ないほど熟睡した。

 

 

第八話

~アイとアムステルダムと~

「おはよう。よー寝てたなー」

アイが目を覚ます前からコージは朝の一服を楽しんでいた。既に目が三日月のように変形している。

「う~ん、おはようございます。えーと今って何時頃ですか?」

「その時間を気にするのってサラリーマンの特性みたいやなぁ。10時5分前」

「お腹すいたー」

「そらそうやわな。オレら丸2日間ほとんど食べてないもんなぁ。散歩がてらブランチと行きますか」

「ええ、是非。すぐに支度しますから」

「あぁ、でもまさか日本でしてたようなメイクしようと思ってないか?」

「えっ…」

「もしそうやったら必要ないと思うで。ここは日本やないし、まして誰も見てない。気にすらとめてない。飾る必要なんか全くないねん。だから素顔のままでええと思って」

「でも、習慣だし、一応女ですから…これでも」

「そうか。まあどっちでもええねんけど。アイちゃんが街にでたら何か気がつくとおもうねん。何でもそうやけど、結局自分自身が認識せんことには何も変わらんやろうし、ましてや人のアドバイスほどあてにならんもんもないしなあ。ほな、ロビーで待ってるわ」

くもりと晴れを繰り返す空。気温は高く鼻をつく運河の臭いが改めて2人をアムステルダムに居ることを実感させる。

「アイちゃん、この運河の臭い気にならんか?」

「ええ、私は大丈夫です。でも確かに悪臭ですね」

「まあ、これも名物やと思って。そのうち慣れてくるやろうし。何せこの季節がここでは一番やからなあ。さて、アイちゃん、何食べたい、好き嫌いは?」

「特にありません。何でも大丈夫です。昆虫以外は」

「わらかすな~、そうかぁ、ほなアムス名物クロケットにしようか」

「クロケット、それってコロッケのこと?」

「そう、明治5年ころにはすでに日本でも食されてたらしい。由緒正しきコロッケ」

「楽しみです」

「あんまり期待されてもなあ、ほとんどが冷凍もので何がはいってるか実はオレもよー分からんねん。味は思い切り濃いしな。こいつら、オランダ人って食に関して、っていうか味覚の問題かな。腹にはいってそれがコンビニエンスなもんやったら何でも良いっていう感じやから。食べることだけやなくて全てにおいて超合理的主義者の集団やから」

「それを食べようって?」

「これは、オレからの洗礼」

「…」

「っていうか、オレは結構気にいってるから」

「もう!どっちなんですか」

「街中にある自販機のモノはあかんけど、ちゃんと手作りの美味しいモノを食いにいくから大丈夫」

アイには、初めてのアムスの街中で緊張と不安なのか、目だけが忙しく動かせている。コージはいたずらっぽい表情でアイをからかうように言いアイの表情から少しだけ笑みがうかんだ。

「わあ、すごい、あれ、まるで東京駅の拡大版みたい」

アイは、ネオ・ルネッサンス様式の赤レンガの建物を指さしながら言った。1889年にオランダの玄関口であった旧港に代わって建てられた、アムステルダム中央駅である。それは街のシンボルの一つでもあった。その外観は中央入口に二つの塔がそびえ、東京駅のモデルとしても有名である。

2人はダムラック通りからダム広場の方向へ向かった。そして広場の小物売りや大道芸を横目にラートハウス通りへと入り2本目の路地を出た。そこは閑静で小さな公園がありそれを囲むようにオープンカフェが軒を並べている。コージは行きつけであった1軒のカフェに腰を下ろした。

「ここでええかなあ」

「ええ、とっても静かでびっくりしました。さっきの大きな通りや広場の喧騒がウソみたい」

「うん。さっきの大通りが一応メインストリートで、大きな広場がダム広場。今は鳩と子物売りと大道芸人の集会所みたいになってるけど、その昔、13世紀にアムステル河の氾濫を止めたダムの跡地。それを広場に整備したっていう歴史があって、まさにダム広場ってわけ。その後、広場を中心にして街が放射線状に発展していってんけど、実はアムステルダムっていう名前もあそこを起点にしたからこそ名づけられたらしいわ。あの大通りから左側に空を突き刺すように建ってた大きな塔は、第二次世界大戦の戦没者と、ナチスへのレジスタンス活動を忘れまいと建てられたものなんや」

コージは吸いかけの大麻に火をつけて大きく吸い込みアイに手渡した。本来屋内以外での喫煙はご法度である。しかし、そんなことで誰も文句を言う野暮なやつなどいない。ここは自由の国、オランダなのだ。彼女はジョイントを受け取り1服深く吸い込みながら言った。

「なんだかコージさんってホントのガイドさんみたい」

「っていうか、私アイ様専属のガイドですから」

2人はクスクス笑いながら、少しづつ和んでいく感覚を味わっていた。

ほどなくウエイターが注文を取りに来た。コージはいつも食べていたこの店の名物であるクロケットのサンドウィッチとガス入りの水を、アイも同じものにハーブティーをオーダーした。コージは、初めて耳にしたアイの以外にまともな英語に安心した。

「さて、アイちゃん、昨夜の和みは?大麻初体験の感想でも聞かせてもらおうかな」

「なんていったら良いのか、とにかく想像していたものとは全然ちがっていて、これが麻薬だなんて信じられない感じです。っていうか、もう心に変化を感じてるんですけど」

「どんな変化なん、それって」

「えぇ、とっても落ち着いている気分でぼんやりしてるようなんだけど、頭は冴えていて、でも体にはズシリとした重みが感じられて」

「気持ち悪くなったりは」

「ノドが乾く以外は特に…っていうかその逆で気分爽快なんですけど」

「そっか、そりゃ結構、結構。初めてでそんなにたくさんのことなんか理解できるわけないし、要は上手く和めたかどうかってことやから」

コージは満面に笑みを浮かべながら、アイが大麻にたいして決して否定的ではないということに安堵を感じた。

「でも、コージさんの言う和みってまだ良く分かりません、とにかく食欲がわくってことに関しては間違いないと思いまず」

アイは満面の笑顔で早くサンドウィッチが来ないかなあと独り言のように囁いた。

「ほな、憶えてること一つでいいから聞かせて。何度も言うたけどあの煙に対する感じ方って人それぞれやから」

「一つどころか全部覚えてます。月夜がすごく綺麗だったこと。ノドの渇き、心からリラックスしてた自分自身。自然な眠りへの誘い。それから、得体の知れない中年男のイビキも」

「それはウケるわ。中年おやじのイビキ。いやあ失礼しました。得体の知れんっていうのも笑えるわ」

「で、真面目な話なんですけど、とりわけ信じられなかったのは、あれだけ生きることに否定的で、いや、この世界が滅んでしまうことさえ思っていた自分が平和の尊さを心から実感できたこと」

明らかに出会った頃のアイの言葉とは思えない。ここが海外であり、その解放感という事実を差し引いたとしても、大麻草の不思議さは全てを超越する。

「まだ薬が必要と思うか?」

「いいえ、それどころかあれだけ重度の依存症だった私がウソのようで、そのことに関しては自分自身が一番驚いているんです」

「そうか、それは何よりや。そのうち耐性ができて全て自分でコントロールできるようになる。これが単なる嗜好品の一つってことも自然に理解できるようになると思うわ。憎むべしは日本のクソ法や」

「善悪はともかく何となくだけど理解できるような気がする。私のようにうつ病に苦しみ自殺さえしかねない人を思うと…切ないですね」

2人の前に注文のモノが並んだ。2人は無言でむしゃぶりつくように食べつくした。

「あーうまかった」

「ホントにすっごく美味しかった。まだまだ食べれそう、信じられない。これも大麻の効力なの」

「その旺盛なる食欲もそのうちにコントロールできるようになるわ」

それから2週間。2人はアムステルダムの街中をくまなく散策した。

 

ベアトリクス女王即位の舞台になった、後期ゴシック様式の代表的建築物である新教会の繊細な美しさにみとれ、17世紀のルネサンス様式の豪華絢爛なオランダ独立の象徴である王宮の圧倒的威厳に敬服し、かつて他国から侵略を受けた時の見張り塔であったムント塔から毎日定期的に聞こえる美しい鐘の音に酔い、カフェやクラブが軒を並べ週末になると若者で大賑わいのレンプラント広場ではフレンチフライを頬張ってオランダ人になりきり、ライトアップされたマハレのはね橋の美しさに涙腺をきらせ、街を一望できる西教会へ登りこの街を征服したかのような錯覚を味わい、アンネ・フランクの家やユダヤ歴史博物館で戦争の悲惨さと平和の尊さを改めて認識し、レンプラントの家では彼のエッチングや素描に感動しここがかの‘夜襲’が完成されたことに思いを馳せ、リードフェルドが設計したゴッホ美術館では彼の数奇な運命や我々が批評することがおこがましい数々の作品に一庶民で生きることへの尊厳を感じた。

そして、アイもすっかり大麻というものが、嗜好品の一つに過ぎないという思いに辿り着いた。2人共にしたたかに和んだチェックアウトの前夜である。

 

最終話

~アイの決意とコージの宿命と~

「アイちゃん、いよいよ明日チェックアウトやけど、これからどないする?」

「…この2週間があまりにも楽しくて先のことなんて何も考えてなくて。っていうか、ただこのまま永遠に時が止まればって。1日でも早く死にたいと思っていた自分がウソのようで、今一つだけ言えるのは日本へは帰りたくないってこと」

「そうかあ、帰りたくないかあ」

「私がコージさんを誘ってここへ来た目的はただ一つ。生きるということの意味を明確にすること。それは観念的なものではなくて体感すること。変な言い方だけど‘生きてるって楽しいんだ’っていう当たり前のことを心から肯定できる自分を見出すことなの」

「つまりまだそれが不十分ってことなんか?」

「事実として、この2週間で薬やお酒に頼らず、生きることへの前向きさが芽生えてるっていうことは確かだと感じているの。こんなことがあるなんて私の想像をはるかに超えていて…」

「ほな、もしそれが実は大麻の不思議な力や観光者気分を満喫してるだけの勘違いやったとしたら?」

アイは大麻の紫煙を深く吸い込み言った。

「今までの私は全てが中途半端で、自分をさらけだすことがすごく怖くて、普通に生きる本当の意味すら良く理解できないままで。これでも必死に生きてきたつもりだったのに、気がつけば30を超える年齢になっていて普通に生きてきた結果がこれなのっていう、うまく言えないけど、いつからかこれで幸せになれるってのって疑問を感じるようになって」

傍らでコージはアイの言葉に耳を傾けながら、ひたすら大麻をくゆらせていた。

やれやれ、今度はガイドからカウンセラーかとコージは心の中でつぶやいた。元来他人の過去の話や苦労話は苦手なのだ。

「とにかく眠れなくなって、でも明日は続いていくし、生活のために食べるために生きているっていう妄想みたいなものにとらわれて、毎日が苦痛で薬にたより、見知らぬ男たちにレイプされて、救いの手を差し伸べてくれようと必死になってくれた人も裏切って…全てから逃げ出してきたのが今の私なんです」

何かを思いだすように、アイは天井を見上げ紫煙を大きく吸い込みため息まじりに吐き出した。

「分かったアイちゃん。もう十分や。アイちゃんが満足するまで付き合うから、明日からはアパート探しや。それまではここに延泊するとして。それでええかなあ?」

小さく頷いたアイは誰に言うともなく独り言のようにつぶやいた。

「今の私を含めて、世界中で起こっている全ての事柄が紛れもない現実なのよね」

翌日コージは、アイをホテルに残して、出発前の計画であった元の職場であるオランダ支社へと向かった。ホテルからは小さな通りを二つ隔てた徒歩5分ほどの距離で、アムステルダム特有の傾いた細く背の高い最上階がそのオフィスである。入口の扉が異様に大きく右手の壁にテナントの社名が書かれた札が小さく貼り付けられ呼び出しボタンがついている。コージは緊張感を指先にこめMCC,s.p.aと書かれた名札のボタンを押した。

すぐさまに「JA」と聞きなれたしゃがれ声のオランダ語がインターフォンから帰ってきた。受付のマチルダに間違いない。

「Goeden morgan」

コージはこんにちはと少しうわずった声で答えた。そして自分が何者かであるかを告げた。マチルダの歓声がインターフォン越しに聞こえてきた。ドアは開かれコージは慣れた風景をいつくしむかのように一歩一歩、建物内に入った。店員3名の観音開きで鉄をクロスさせたエレベーターの扉を開け今にも壊れそうな箱に乗り込んだ。

コージはひたすら自分の思いがタケダに届くことだけを祈るような思いでいた。エレベーターがガタガタと震えるように一つまた一つとフロアーの番号を示すライトと共に上がっていく。それと比例するかのようにコージの緊張感が増幅されていく。

チチーンと間の抜けた音を残し最上階に着いた。コージは、手動の扉を開け高ぶる気持ちを必死に抑え、オフィスの見慣れた木製のドアの横に据えられたボタンをかすかに震えている指先で押した。

ビビーという鈍い音と同時にドアが開かれた。そして、その瞬間にコージはかつての戦友マチルダにサバ折りのようなハグを受けた。

「Hello! How long have you been Mr.Koji. You’re OK?」

マチルダはコージの突然の訪問にいささかの懸念も見せず、つまらぬ質問もせず、ひたすら満面の笑顔でコージを出迎えてくれた。もちろん彼女とて彼の退職理由を知らぬはずがない。コージがこのオフィスで現役だったころ、マチルダにフランス人の友人を紹介した。その後めでたく2人は結婚した。そういう経緯を差し引いてもコージは彼女から少しばかりの勇気をもらった。積もる話はまたの機会にとマチルダに告げ、コージはタケダの部屋の扉をノックした。心臓の鼓動が激しくなっているのが自覚できる。

「開いてるよ」

ドアの向こうから懐かしい聞き慣れた言葉が返ってきた。

「失礼します」

「おう!久しぶりじゃねーか。元気そうで何よりだ」

コージは彼の変わらぬ態度と独特な話し方に更なる心の高ぶりを感じた。

「お久しぶりです、タケダさんもお元気そうでなによりです。っていうか、また一回り大きくなってません?」

「おいおい、いきなり本人が気にしてることをズバリと言いやがって。何せ成長期がとまんないもんだからよ。ってかコロッケの食い過ぎかな。まあ座れよ」

タケダはコージの緊張を和らげるように、おどけた口調で言った。

「はい、失礼します」

コージは促されるままに40㎡ほどのスペース中央に置かれている来客用のソファーに腰をおろした。タケダは窓際のデスクから立ち上がりマルボロを口にくわえコージの対面に座った。

「これ、いつものやつですけど」

中身は日本製のタバコと数種類の週刊誌である。

「おう、ダンク、ダンク。ありがてーよ。お前さんの一件以来よ、ここにはあんまり出張者を出さねーから、こっちじゃ和ものが一番ありがてー」

コージはタケダの笑顔に入社以来の思い出を見た。

「タケダさん、今回の一件本当に申し訳ございません。全く情けない限りで、お詫びのしようもありません」

「ああ、マジでなあ。洒落になんねーもんな。ホント、バカなことやらしたもんだよ。おかげで社内はえれー騒ぎだったんだぞ。よく新聞に載らなかったもんだぜ。まあ、今更だけどな」

「何とも申し開きもありません」

コージの全身が小刻みに震えている。

「お前さん確か40過ぎてたよな」

「はい、今年で42になります」

「その年齢じゃろくな仕事もねーだろうによう」

「…はい」

コージは背中に冷たい汗が流れていくのを感じながら、予想されたタケダの言葉の一つ一つを現実として受け止めていた。

「で、どーしてまたアムスくんだりまで来たんだ。まさか、まだ懲りずに大麻か。今度はそれを商売にでもしようってんじゃねーだろうな」

タケダは特有の豪快な笑い声を上げたが、その眼光に笑いはなかった。コージは覚悟を決め姿勢を正し言った。

「実は今日ここへ来たのはボクの人生最後の賭けなんです」

「おいおい、どうしたんだ。急にそんなに改まって。それに人生最後の賭けってなんだか穏やかじゃねーな」

「タケダさんにはどうしても聞いて頂きたいお願いがあります」

「うむ。お前さん今日はそのために来たんだろうよ」

「ありがとうございます」

「で、何なんだ用件は」

コージは正直に今までの経緯を簡潔にゆっくりと震える声で話し始めた。

「逮捕されて以来、かつて経験をしたことがない屈辱と自己嫌悪に苛まれ自らの情けなさに自殺も考えました。しかし、死にきれずで厭世観と鬱屈した気持ちを持ち続けて日々悶々としていました。そして、おそらくこのままボクの人生は終わってしまうだと自暴自棄になり、酒と向精神薬におぼれていました」

タケダは目を閉じ、両手を組んだ姿勢で身じろぎひとつしない。

「新しい生き方や社会復帰など微塵も考えませんでした。しかし、そこへ最後のチャンスを与えてくれた人が現れたんです。そして何の因果か自分の人生を砕けさせた発端であるこのアムステルダムへ誘われるようにやってきました。日本を発つ前に気がついたのです。これがボクの宿命だということに」

タケダは沈黙を続けた。コージは小刻みに震えながら懸命に話を続けた。

「ボクの決意は、このアムステルダムという地に骨を埋めるということです。そのためにはどうしても滞在許可証が必要です。タケダさん、あつかましいのは十分承知のお願いです。どうかその取得のためにお力添えを頂けないでしょうか。お願いします」

しばしの沈黙のあと、タケダが目を開けた。その眼光は鋭くコージの目の奥を凝視している。いや、心の奥を凝視しているのだ。

コージは全身から溢れだしてくる冷たい汗を感じていた。そして、決してタケダの目をそらすまいとその鋭い眼光に耐えた。もし、タケダにノーと言われれば全てが終わる。それは、コージにとって自死を意味することだったのだ。最後の審判を受ける瞬間とはこういうものなのかもしれないとコージは思った。

どれくらいの時間が流れたのだろう。突然タケダが立ち上がり無言のまま貿易に関する資料が整然と並べられている本棚に向かい、そこから1冊の青いファイルを取り出しコージに差し出した。

「うーん、お前さんの決意はなんとなく理解できたよ。でもな残念ながらオレごときでは大した力にはなれんよ」

タケダは目を窓の外に向け小さく嘆息しながらつぶやくように言った。

「まあ、精々このファイルをコピーさせてやるぐらいだな」

「こ、これは」

コージは感嘆の声をあげた。タケダの目がやさしく諭すようなものになっている。

「そこにはお前さんがこれから成すべきことが書いてあるはずだよ。そいつを生かすも殺すもお前さん次第ってことだ。まあ元先輩として出来るのはこれくらいのもんだ」

「タケダさん…」

コージの声は嗚咽交じりで言葉にならない。

「お前さんのその固い決意とやらで大好きなアムスに骨埋めればいいさ。オレは1日でも早く日本に帰りたいけどよ。先週本社からあと2年車検が残ってるって話がきたところだからな。オレもう52だぜ。オレの方こそここに骨埋めるみたいで、全く皮肉なもんだ」

コージは目の前に差し出されたファイルの題字を何度も確認した。

~日蘭輸出入商材一覧予定~

つまりこれを活用し再びMCC蘭社に自分のアイデア、商材となるべきものを持ちこめば、再びタケダは何とかしてやるという意味合いのモノだったのだ。

事実上会社をクビになった者とはいえ、デベロッパーとなれば全く別の次元である。ここは、自由貿易の国オランダなのだ。

「お前さんの屈辱的な日々って結構興味深いよ。今度ゆっくりメシでも食いながら聞かせてくれよ。まあ、とにかく頑張んな」

「ありがとうございます」

コージはその言葉を発するのが精一杯だった。何度も頭をさげ感涙した。

マチルダと連絡先を交換し、大切なファイルのコピーを胸に抱きしめホテルへの道を急いだ。

 

「さーて、アイちゃん、いよいよ生きることへの戦いの始まりや。これからアパート探しに行くでー」

ホテルに戻ったコージは滞在許可証取得への道が開かれたことで大きな安堵と言い知れぬ喜びにひたりながら大麻をくゆらせていた。

そして、大麻がもたらす多幸感が胸の内で大きく膨らんでいくのを満喫していた。

「どーしたの。すごい上機嫌なのね。何か良いことでもあったの?それに生きることへの戦いって?」

「うん。気分は最高や。アイちゃんの言う生きるって素晴らしいっていうことを今実感してるところや」

「えっ、それって…」

アイの顔色が変わった。

「ゴメン、ゴメン。1人で盛り上がって。昨日のアイちゃんの話やないけど結局生きる証しっていうか、そのことへの満足感って各々自分の内でしか判断できんもんやとオレは思てるんや」

「ええ、だからこそ私はそれを求めて…」

アイの表情が切なく悲しげに、そして何かにすがるように見える。コージはアイの目を見据えながら凛とした口調で言った。

「アイちゃんの気持ちは痛い、痛いほどわかんねん。それは大麻取締法で逮捕されて全てを失った代わりに自分が何のために生きてるのかっていうその答えを自分自身で手にいれたからなんや」

「教えて下さい!その答えを」

「さっきも言うたけどそれは自分自身で掴まなあかんってこと」

「それは私だって理解してるつもりなの。だからこそ教えて欲しいのコージさんの答えを。あなたが何のために生きてるのか」

アイの目はうるみ、声がうわずっている。コージは優しい口調で言った。

「アイちゃんは今まで自分の心の中に安静っていうもんを感じたことってあるか?」

「…ここへ来るまでは一度もなかった。っていうかそれを探して…」

「アイちゃんはそれを得るために常に何かに頼ってきたってことやろう」

「ええ、確かに」

「それが大麻によって簡単に得られるようになった。違う?」

「…すごく影響を受けてるっていうことは確かです。でもそれは私が探しているものとは根本的に違うって。だからこそまだここに留まってその答えを見つけようと…」

「確かに大麻は多幸感や安静を与えてくれるけど、それは美味しいものを食べた時の感覚と同じや。つまり刹那でしかない。それで心の安静を埋めきれるなんてとんでもない勘違いや」

アイはうつむきながら深く紫煙を吸い込み黙りこんだ。コージはそんな彼女を尻目に、窓の外に目を向け独り言のように言った。

「何の因果かあんたと会ってオレを破滅させた発端の地であるここへ来ることに宿命みたいなものを感じたんや。実はオレ死ぬつもりでここへ来てん。オランダで死のうって。ここにはかつての仕事を通じてできた信頼できる人たちが居て、その人たちの救いがなければその時が死ぬタイミングやって。大袈裟なようやけど真剣にそう思ってここへ来たんや。オレの答えってもんも結局あんたと同じようなもんで、生きる証しやってん。オレの場合、己の内に安静を得るっていうすごいシンプルなもんで、なんか陳腐やけどオレにとっては命題であり宿命なんやって。ただそれだけ、ただそれだけやねん。オレの得た答えって」

うつむいていたアイが顔をあげ、か細い声で言った。

「それでコージさんはそれを掴んだっていうことなの」

「う~ん、それがまだよ~分からんねん。でも確かに手ごたえは感じとったんや。だからこれからがホンマに生きていくこととの戦いやって。で、それがその証しになっていくような気がして」

時間の感覚すら分からないほど、お互いに呆けたようにひたすら窓の外を眺め大麻をくゆらせていた。

「この窓からは何かがみえるわ」

アイが突然口を開いた。その口調は軽やかで、なぜかとても明るいものだった。

「ん?何かが見える?何かって何や?」

「ううん、いいの。私だけの秘密。それより昨日も言ったけど私も日本に帰る気ゼロだから、コージさんにはとことん付き合ってもらいますからね。私が生きることの意味を体感できるまで」

「えっ…」

「なので、これからも、どうぞよろしくお願い致しまーす」

「えっ、え~~…」

コージは虚をつかれまともに答えることが出来なかった。アイは明らかに浮き足立っている彼を見ながら満面の笑みで言った。

「さあ、早速アパート探しにでも出かけましょうか。アイ専属のガイドさん」

2人はお互いの顔を見つめ同時に同じ言葉を発した。

「三日月みたいな目で?」

そして2人はベッドの上をトランポリンのように跳ね合いながら、どちらからでもなく着地に失敗し床に転げ落ちた。そのまま2人は部屋中を右に左に転げまわりながら飽きることなく大声で笑い続けた。