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映画のようなニューヨークの恋物語

隼人


約 40082

 

「そろそろ式場を決めないと、もう間に合わなくなっちゃうからさ・・・明日にでも会って打合せしないか。」

「任せるってば・・・私は、どこでもいいよ、友達が集まれるところなら・・・だから悟(さとる)が決めて。」

「頼むよ、香里(かおり)・・・そういう訳にはいかないんだから・・・俺たちが良くっても、お義父さんが納得しない・・・。」

「パパなんてどうでもいい・・・」

「式場だけじゃない。招待客のことや、誰にスピーチをお願いするのかとか、引き出物も準備しなければいけない・・・他にも決めることがたくさんあるんだ・・・だから、とにかく明日会えないか?」

「忙しくて、時間が取れないの。わかってよ。」

「ね、新婚旅行はニューヨークでいいんだよね?・・・もしもし?・・・香里?」

一方的に電話を切られた。僕は、しばらく受話器を見つめていた。耳の奥に香里の声がこだましている。言い足りなかった言葉が、頭の中で香里のこだまと言い争っている。

僕たちは、一事が万事いつもこうだった。

香里とは、僕たちがまだ大学生だった頃、コンパで知り合った。相手は歯科大の女子学生5人。こちらは、東大の学生4人に多摩美の僕を入れて5人。その中で僕だけが浮いていた。高校時代の同級生佐々木に、欠員が出たからと言って頼まれて、急遽参加することになったのだ。

東大生は、東大生に見える。でも美大生は、どうやっても東大生には見えない。彼らから見るとやはり一風変わっているらしい。でも僕は、多摩美生の中でもまともな方だった。ドイツ軍の格好をして通学してくるものや・・・そう言えば、そいつ友人の結婚式にも軍服着て出席してたっけ・・・将校の制服だと言ってエーデルワイスの紋章を自慢していた。それに、学食でいつもターザンのものまねをしているやつとか・・・そいつは結局役者になった。でも、自分ではまともだと思っていても・・・少なくとも東大生とはちょっと違う雰囲気を持った僕は、香里の興味を引いたらしい。一見ひ弱で、寡黙で・・・何か影を持つ男に見えたに違いない。ただ、僕は東大生に気後れしていただけだったのに。ただ、僕は彼らの話についていけなかっただけなのに。

彼女は、その日からしばらく僕のマンションに入り浸った。まるで、ペットでも飼うみたいに思っていたに違いない。彼女は僕に意思を与えなかった。僕たち美大生は授業に出席するだけの一般大学生と違い、常に課題と戦っていた。僕たちが習得するのは知識だけではなく実習が伴うのだ。こちらが課題制作で徹夜明けであったとしても、おかまいなしに彼女の大学まで車で送らされた。そうかと思うと2ヶ月くらいなんの音沙汰もなく帰ってこないこともある。考えてみるとあの日以来6年間、僕は彼女に振り回されっぱなしだ。

歯科大学を大学院まで卒業した彼女は、大学に残る一方で、空いた日は父親のクリニックを手伝っている。僕は、多摩美でグラフィックデザインを学び、今は青山にあるスタジオ・トイボックスというデザイン事務所で働いている。思えば、働きだした当初は大きな夢を持っていた。それは、ニューヨークアートディレクターズクラブの会員になること。世界で通用するクリエイターになりたかった。いつか必ずニューヨークに行くことを自分に言い聞かせてベルリッツにも通った。でもあっという間に5年が過ぎ、日々の仕事に追いまくられて、いつしかそんな夢を持っていたことさえも忘れてしまっていた。そしてこの春、僕はアートディレクターになった。当然給料も上がった。現実しか見えなくなっていた僕は、そのことがなんとなく香里との長過ぎた春に、男としてのけじめをつけるタイミングのように感じた。

僕たちは、録画と消去を繰り返したビデオテープのようなものだ。どこに録画のスペースがあるのかさえも、どのシーンを消去すべきなのかさえもわからなくなってきていた。すべてをやり直すために、すべてを消去すべきなのか・・・頭から新しい録画を始めるべきなのか・・・その時はわからないでいた。本当なら、香里との6年間をタイトルにした録画テープが、棚に整然と並んでいるべきなのに・・・。

 

2日後、香里に無理矢理時間を作らせた。それでも僕は20分ほど待たされた。いつものことだ。香里は、すぐテーブルには来ないで、直接コーヒーを買ってからやってきた。僕が待っているかどうかなんて確認などしない。僕が、後から来ることなど思ってもいないし、事実僕が彼女を待たせたことは一度もない。理由は簡単だ。必ず、彼女は遅れてくるからだ。

「10分しかないんだけどいい?」

「わかった・・・式場は、六本木のグランドハイアットにしようと思ってるんだけど・・・」

「ホテルじゃないといけないかなぁ・・・もう予約しちゃったの?」

「だって、俺に任せるって言うから・・・」

「例えばさ・・・羽澤ガーデンとか・・・」

「あのねぇ・・・そんなに具体的に希望があるんだったら最初から言ってほしかったな・・・」

「ごめん・・・でも、悟がどうしてもそこにしたいんならいいけど・・・?」

「いいよ、まだ今ならキャンセルできるから・・・香里に妥協して欲しくないんだ・・・じゃぁとにかく後で羽澤ガーデンに電話してみる。」

「悟は、本当にそれでいいんだよね?」

「ああ・・・俺こそ、はっきり言ってどこだっていいんだ・・・だから香里に希望があるんだったらできるだけ叶えてあげたい・・・ただ、お義父さんの関係の人って偉い人が多いだろ・・・だから、ホテルの方がいいのかなって思っただけなんだ・・・とにかく、香里がいいのならそれでいい。それと、旅行はどうする?ニューヨークで決定?・・・」

「ニューヨークっていうより、ヨーロッパがいい。スペインのパラドールとか・・・お城とか修道院に泊まるのって素敵だと思わない?・・・」

「・・・」

唯一楽しみにしていた行事だっただけに、言葉を失った。

「悟?・・・怒ってる?」

「怒ってなんかいないよ・・・ただ、前に聞いた時ニューヨークに行きたいって言ってなかったっけ?」

「そうだっけ?・・・」

僕が『ニューヨークで働くのが夢なんだ。』と言った時『じゃぁ、新婚旅行で行こうよ。』って、香里は確かに言った。でも、もうそのことを今さら蒸し返すつもりはなかった。

そのとき、香里の携帯が毒をもられた生き物のようにテーブルの上をのたうちまわった。

「ちょっと待ってね。あ、わかってる。今帰るから・・・じゃぁ30分後。・・・ごめん、何だったっけ?」

「いいよ、香里が行きたいところに行こう。それで、招待客なんだけどさ・・・」

香里はすでに立ち上がっている。

「悟、任せる・・・もう行かなきゃ。」

香里のまだ熱いコーヒーカップに残された真っ赤な口紅の跡が、みるみる乾いてひび割れてゆく。

「ふーっ」

僕は、一人取り残されたオープンカフェの片隅で六本木ヒルズ界隈を行き交う人たちをしばし眺めていた。昔からこうやってマンウォッチングをするのが好きなのだ。目の前の交差点の信号で、香里が運転するGMが停まった。香里は僕を見ることもなく、ルームミラーを見ながら口紅を直していた。

香里はいつも、いかにも金持ちでございますっていう服を好んだ。決して成金趣味のブランド好きな女という訳ではない。ある意味、香里は上品で派手な顔立ちだからそういった服しか似合わないのだと思う。ブランドものを着飾っても似合わない人っているけれど・・・香里は、その逆なのだ。僕は、どちらかというとシンプルな方が好き・・・本当は金持ちだったとしても、親近感があって普段の何気ない仕草は気取らず質素で人間的に魅力的。でも、いざパーティドレスを身にまとってみんなの前に現れた時に、はじめてため息が出るほどの美しさを知る・・・なんて女性に出会ってみたいものだ。

香里は、信号が変わったことも気づかずに、後ろの車にクラクションを鳴らされてせっつかれた。ルームミラーに向かって悪態をついている。これ見よがしに急発進すると、あっという間に見えなくなった。僕はそれを見届けると、隣接しているTSUTAYAでニューヨークのガイドブックを買った。いつかひとりで行くさ・・・最近、僕は独り言が多くなった気がしている。

 

「悟が結婚するなんて思わなかったよ。」

佐々木が言った。吐き出したタバコの煙が輪になってやがて消えて行った。

「どうして?」

「似合ってないもん・・・おまえたち・・・」

「ひでぇ・・・それ、ひどくない?いまさら・・・」

「どう見たって、悟の感性と香里ちゃんの感性は違いすぎてんじゃん。自分はどう思うよ・・・正直な話。」

胸に突き刺さった矢を、必死でひき抜くまねをして見せた。

「正直言って、マリッジブルー・・・でも、付合って6年だぜ。俺初めてなんだ・・・こんなに長く付合ったの・・・だから、このまま行くのかなって・・・」

たぶん佐々木は、僕の迷いを見透かしていたのだと思う。

「そんなに、あせんなくたっていいじゃん。この地球上のどこかにお前のジグソーパズルを完成させるピースが絶対にあるんだから・・・ぴったり当てはまる最後のピースがさ・・・今は、形が似ているからって無理矢理押し込もうとしてんじゃないの?・・・」

佐々木は、タバコを一気に根元まで吸いきって、大きく煙を吐いた。指ではじかれた吸い殻が、暗闇の中に火花を散らして消えて行った。

「みんなも、そう思ってんのかなぁ?」

「たぶんね。」

僕は、タバコを吸う女が嫌いだ・・・香里は、バージニアスリムを好んだ。僕は、イタメシが好きだ・・・香里は、どちらかというとフレンチが好きだ。僕は、トラッドだ・・・香里はヨーロピアンだ。僕は、ジャズが好きだ・・・香里はヘビメタが好きだ。・・・僕はいつかニューヨークで働きたいっていう夢を持っている・・・香里は・・・それを望んでいない。・・・これでよく6年も付合って来れたもんだ。あまりにも価値観が違いすぎる。

東大を主席で卒業した佐々木は当然財務省に入ると思っていた。しかし、友人たちと組んでベンチャービジネスを立ち上げた。今は平成の風雲児と呼ばれている。

「自分に投資しなきゃ・・・もったいないじゃん。」

佐々木のドライな分析力と先を見通せる冷静な判断力は、いつも僕の私生活までも正しく導いた。

「悟も、自分の10年先を考えてみろよ。それがビジネスの基本さ。10年後にどうなっていたいのか・・・」

「これは、ビジネスじゃないんだけど・・・」

「考え方は、同じだって。悟は今のことしか考えていないから、将来の二人のあるべき姿が見えていない。そこには、破滅しか見えないけどね・・・俺には、こんなはずじゃなかったって悔やんでいる悟が見える。・・・その横に、夢を捨てた魅力のない悟を悲しんでいる香里が見える・・・」

「ふーっ」

「また、ため息をついた。これで5回目だぜ。お前のため息で窒息しそうだ。」

僕は笑った。佐々木も笑った。

 

僕は、青山のオフィスにいた。四方を窓で囲まれて明るくて洗練された空間だ。10階に位置するミーティングルームからは、遠くに赤坂の御所が見える。雰囲気はニューヨーク。御所の緑はさしづめセントラルパークといったところだ。

ミーティングルームの壁一面に、サムネールが所狭しと貼られている。セントラルパークにしばし想いをはせていた僕は、現実に戻ることにした。

僕は、白内障の雑誌広告を作っていた。ニューヨークフェスティバルに出品するのだ。白内障は水晶体が濁る病気で、早い人は40歳頃から始まり、60歳になると70%の人に白内障による視力の低下が起こっている。だから早く眼科医に診てもらいましょうという啓蒙広告だ。ビジュアルはこうだ。渓谷を流れる美しい清流に木漏れ日があたっている。キラキラとして澄んだ川の水を通して透き通った瞳が合成されている。キレイで健康な目をシンボリックに見せるのだ。そして上流から濁った水が流れて来ていて、今まさにその瞳を汚そうとしている。非常にショッキングなビジュアルを考えていた。

「コピーなんだけど、どれもパワーが足りない。ひねったコピーより、直球でいいから、心臓を直接わしづかみにするような・・・衝撃的なコピーが必要だと思うんだ。確かにこれを見て何かを感じてくれると思う。でも、それだけじゃだめなんだよ。記憶に残してくれなきゃ・・・いや、それでも十分じゃない。具体的な行動を起こさせるほど影響力のあるコピーでなきゃダメだと思うんだ。つまり、実際に眼科医に行かなきゃ・・・と思わせるコピーってこと・・・そう考えると、物足りないと思わないか?」

「うーん・・・」

必死で反論の言葉を探している。

ADとコピーライターは、いつも戦いだ。

けんかをしている訳ではない、挑発しているのだ。お互いに褒め合っていたのでは、いいものなんか作れっこない。

「な、これ絶対に賞を獲れるぜ、狙おうよ。でも、まだ心臓に突き刺さってない。本当はお前だって、そう思ってんだろ?」

親指の上で鉛筆が一回転した。

「わかった。もう一日くれ。」

「サンキュ・・・じゃぁ、書けたらメールでいいから。」

後一週間に迫っていた。香里も相変わらず忙しく、そして僕も忙しく、佐々木の言葉が心にひっかかってはいたけれど、ページをめくるように時だけは過ぎて行った。

コピーがやり直しになったおかげで思わぬ時間ができてしまった僕は、外に出て骨董通りをぶらぶらしてみることにした。

最近、雑貨屋が面白い。いくつかの雑貨屋を次々と冷やかしながらウインドウショッピングを楽しんでいたら、マンションのゲートの前にイーゼルに置かれた黒板が目についた。おしゃれな貴金属が安いから見に来てって誘惑していた。ゲートをくぐるとパティオがあって真ん中に木が一本植えられている。真正面の木のドアの前にはイタリアワインの空になったボトルが並んでいる。イタリアレストランのようだ。右を見ると全面ガラス張りの5坪ほどの店があった。引きつけられるように入ってゆくと、そこは若い女の子で一杯のリサイクルショップだった。僕は、一通り見て回ると黒いケースに並べられた指輪に目がとまった。シルバーかプラチナかよくわからなかったけれど回りにサファイアが3個埋められていた。あまりにかわいかったので手に取ってみると、裏にS TO Kと刻印がしてあった。サイズは7。

それをケースに静かに戻して、外に出た僕は何かが気になった。そうだ、Sは悟でKは香里だ。偶然にしても何かの暗示かも知れないと思った僕は、もういちど引き返した。戻って指輪を手にしようとしたその時、横から女性の手が同時に伸びて来た。僕は、思わず手を引っ込めた。彼女も、どうぞと遠慮している。

「僕は、さっき見たから。」

「でも、気に入ったからまた見ようと思ったんでしょ、どうぞ。」

押し問答になってしまうので、僕は指輪をケースからはずすと彼女に渡した。

「ほら見て、これサファイアがかわいいよね。」

彼女の知的な笑顔に吸い込まれそうになった。しかも着ているものはシンプルだけど、さりげなくてセンスがいい。髪は短くて清潔感が漂う。いかにも育ちがいいという感じ。洗練された都会の女性という雰囲気を醸し出している。でも、たぶん僕より少し年下。まだ、25〜6といったところか・・・。

見とれていると、突然彼女の顔色が変わった。手を口にあてて目は見開いている。そしてその目から涙がこぼれた。突然のことに、僕はあわてて彼女の肩に手をおいた。

「どうしたの?だいじょうぶ?」

「あ、ごめんなさい。取り乱しちゃって・・・これ私が買ってもいいですか?」

「もちろん。もうとっくに君に譲ったんだから。」

「ありがとう。」

彼女が料金を支払っている間に僕は再び外に出た。さわやかな光がわずかな隙間をぬって。パティオに注ぎ込んでいた。

ゲートを出て、横断歩道を渡るといろんなカードを売っている店がある。外からそれを眺めていると、先ほどの彼女が追いかけてきた。

「あの、お礼にお茶でもご馳走させてください。」

「とんでもない。そんなことはいいから気にしないで。」

「いえ、私の気がすみませんから。」

「わかった。じゃぁ・・・」

僕たちは、ベルコモのカフェでお茶をすることにした。平日なのにそこそこ賑わっている。僕は、コートを脱ぐ彼女を手伝った。先ほどは気づかなかったがコートはマックスマーラだった。腕には、たぶん50年代のロレックスをはめている。決して華美ではなくさりげなく質のいいセンスに好感をもった。彼女はミルクティを・・・僕はブレンドコーヒーを注文した。そして、先ほどの包装紙を丁寧に開けた彼女は、指輪を取り出して左のくすり指にはめた。しばしそれを眺めていた彼女が言った。

「これ、もともと私のだったの。」

「えっ・・・?」

「これ、私が大学時代に付き合っていた1年先輩の彼からはじめてもらったプレゼントなの・・・ほら、裏の刻印のS TO Kが見えるでしょ?Sは祥夫、そして私の名前、梢のK。」

指輪をはずして僕に見せた。

「どうして、そんな大事なものがあんなところに?」

「この指輪は、私がまだ札幌に住んでいる頃、友達に頼んで処分してもらったの・・・それが、まわりまわって東京に・・・」

「札幌で処分した指輪が東京で?・・・すごい偶然だね。」

「この指輪を手放したこと、ちょうど後悔していたところだったから・・・ほんと、驚いちゃった。」

「でも、手放すにはそれなりの理由があったんだよね?」

「卒業して東京に就職した彼とはしばらく遠距離恋愛を続けていたんだけど、あるとき他に好きな人ができたから別れようって言われたの。あまりにも突然で・・・その時はショックで、自分を見失った・・・それで、自暴自棄になった私は友達に指輪の処分を任せちゃった。でもね、そうじゃなかったの・・・好きな人ができたんじゃなくて、本当は彼、膵臓癌に冒されていたの・・・もう手遅れだってわかっていたみたい・・・だから、私を悲しませたくなかったんだと思う・・・愛しているのに、その人がいない・・・一人残される私のことを考えてくれていた。早く自分のことを忘れさせて、私に幸せになってもらおうと考えて・・・それであんなウソをついたんだと思う・・・。私は、そんなこと知らないから・・・彼を早く忘れたくて指輪を処分して、卒業と同時にニューヨークに渡ったの。感傷にひたっている暇なんてなかった。狂ったようにテキスタイルデザインを勉強した。去年就職してなんとかがんばれる自信がついたところに、彼が亡くなったって連絡が・・・それが4日前。もうすっかり彼のことも忘れてた。」

彼女の話に聞き入っていたせいで、とっくに飲み物が運ばれてきていたことに気がつかなかった。一口だけ・・・そしてできるだけ音を立てないようにすすった。

「すごいね・・・そんなことってあるんだ・・・ほんとはね、君に会わなければ・・・その指輪、やっぱり僕が買っていたと思うんだ。僕の名前は悟・・・彼女の名前が香里・・・ね、僕たちもSとK・・・最初はデザインに少し惹かれてどうしようか迷ったんだけど、イニシャルが偶然同じだったから・・・とにかく、僕が買わなくてよかった。」

「本当にごめんね。」

「いや、いいんだ。それは、君が持っているべきだし、彼も、それを望んでいるよ。」

「ありがとう。」

彼女は、あらためて自分の指に戻った指輪に目をやった。そこで、二人の会話が止まってしまった。彼女は指輪を意味もなく回したりしている。僕は、話を途切れさせたくなかった。

「彼のお葬式には出席できたの?」

「一昨日、札幌で・・・」

「そう・・・じゃぁ、もうニューヨークに帰るんだね?」

「今日の夕方のJALで・・・」

少しがっかりした。

録画した最終回のドラマが野球の延長で切れてしまったような・・・盛り上がりを見ることができないままドラマが終わってしまう。

「僕も、デザイン事務所で働いているんだ。すぐこの近く。最近ADになったばかりでまだまだだけど、僕もニューヨークで働きたいって夢を持っている。」

「私は失恋から逃げてきただけ。夢なんかじゃなかったわ。その時の傷が深かった分、がむしゃらに勉強して、がむしゃらに働いた。ただそれだけ・・・」

「僕も君みたいにがむしゃらになりたい・・・今までそうじゃなかった。どこかで妥協してきた。」

「確かにニューヨークって刺激的なところ。絶対に妥協を許してくれないところ。でも、実力次第では夢を叶えてくれる。」

「もうニューヨークに住んで長いの?」

「卒業してすぐだから・・・そうね、もう3年になるかしら。最初の2年間は、アルバイトしながらアートスクールに通って、今はその時に知り合ったテキスタイルの先生のところで働いてる。」

「家賃とか高くない?」

「うん、さすがに高いよ。だから、私の場合はルームシェアしてる。その方が効率がいいの。お互いにルールさえ守れば、何かと心強いし。」

「そうか、君の指輪も運命だけど、僕が君と出会ったことも運命かもしれない。」

僕は彼女の指輪の話を聞いて、自分も運命に従おうと思った。

「つまり、君と出会ったことで決心がついた。君が僕の背中を押してくれた。」

「私が?・・・もしそうだとしたら責任が重いけど・・・確かに夢は、見ているだけだったらただの夢・・・実現することはできないわよね・・・」

「そうだね・・・ずっとどうしようかって悩んでいたんだけど・・・僕もニューヨークに行く。たった今決めたんだ。どこまでやれるか試してみたい・・・そう、妥協を許してくれないニューヨークでね。」

彼女は、夢を思いだした男にエールを送るような優しい目で、僕を見てくれていた。すごく、心強くてうれしかった。

「それに・・・今探している本があるんだ。Andy Warholの1983年に刊行された本なんだんだけど、日本ではどうしても見つからない。それがさ、つい最近僕の大学時代の友達がニューヨークの古本屋で見つけたって僕に見せびらかすんだよ。それを、僕もどうしても欲しくってさ。だから、もう絶対にニューヨークに行く・・・そのためには、いろんなものを捨てなきゃならないけど・・・」

「捨てるものが大きすぎなきゃいいんだけど?」

「もちろん大きいよ。でも、目先のことより10年先のことを考えるべきだと思った。」

「うん、そうだね。でも、さっき彼女がいるって言ってなかった?」

「そう、来週結婚式。」

「えっ!彼女を置いていけるの?もしかして、捨てるって彼女のこと?」

「捨てるって言うと、すごく誤解が生じる。でも結婚が決まってから、ずっと悩んでた。それは、単なるマリッジブルーなのかもしれないって自分に言い聞かせていた。彼女とは、6年も付合っていたのに、考え方や価値観が全く違うことに今まで気がついていなかったんだ。僕はいろんなことをがまんして心の中に閉じ込めていた。もちろんそんなことをしてるって意識はなかったんだけど・・・僕はやっぱりニューヨークに行きたい。それをはっきり言うべきだって・・・君と出会ったことで確信したんだ。」

「この指輪って、いろんな人の運命に関わってるって訳?」

「そうみたい。」

「そうみたいって・・・私は少し怖いな。」

「でも、少なくとも誰も不幸にはしていないよ。」

「彼女は?」

「たぶん彼女もね。ただ、今は気づいていないだけ。彼女が僕にこだわる理由なんて何もない・・・例えば君の場合、亡くなった彼は、本当に君を愛していたでしょ?そして君が手放した指輪もちゃんと戻って来た。それって、説明のつかない運命の糸で結ばれていたってこと。死ぬまで添い遂げることができれば最高なんだろうけどね。少なくとも彼女にとって僕は運命の人じゃない。」

「じゃぁこれからの私は?指輪が戻ってきたことで・・・もうこれで終わりなの?」

「そうじゃない・・・うーん、まだ続きがあるんだよ。むしろ、今始まったばかりなのかも知れない・・・今はわからないけどちゃんと最高の結末へ導いてくれているんだと信じるべきじゃない? 指輪が戻っただけじゃストーリーは完成されていない。そんな結末の映画じゃつまんないじゃない。」

「映画のような感動的な終わりってどういうの?」

「それは、僕にもわかんないよ。優秀な脚本家なら、誰にも想像できないようなハッピーエンドにしてくれると思うけど。」

「私には、想像つかない・・・でも、楽しみだな。そう考えたら、きっとこれからもがんばれるね。」

「そうだよ・・・ね、今日は何時の飛行機?」

「夕方の5時55分」

「まだもう少し時間あるよね。僕が車で送ってくから、もう少しつき合ってもらってもいい?」

「私がつき合ってもらってるんだよ。」

「あ、そうだった。」

「でも、まだホテルをチェックアウトしてないの。」

「じゃぁ、今からチェックアウトしよう。」

 

僕たちは、お台場の自由の女神の前にいた。

「ぷっ・・・何よこれ?」

「ちょっと、ニューヨーク気分でしょ? これでも実際にフランスから送られたものなんだよ。」

「そうなんだ・・・知らなかった。ただのまねっこかと思っちゃった。」

「やっぱ、ニューヨークに行ったら、見に行くべきなのかな?」

「私は、まだ行ったことがないの。エンパイアステートビルの屋上から見たことはあるけど・・・東京タワーは登ったことある?」

「ない。」

「でしょ・・・案外そういうものよ。」

「でも、エンパイアステートビルには、登ってみたい。『めぐり逢えたら』って映画、見た?」

「もちろん! 運命の恋ってきっとあるって夢を持たせてくれた。」

「『めぐり逢えたら』もそうだけど『めぐり逢い』もエンパイアステートビルが運命の場所として描かれていたね。」

「そうね、もともと映画の中で『めぐり逢い』のいろんなシーンを利用していたじゃない?」

「役名は忘れたけどメグ・ライアンが・・・」

「アニーよ。トム・ハンクスがサム、息子がジョナ。」

「すごい!良く覚えているね。」

「何回も見たもん。」

「それで、アニーがエンパイアステートビルの守衛のおじさんに時間が過ぎてエレベーターに乗せてもらえなくて『待っている人がいるから』って泣きついたとき『ケーリー・グラントかね?』って言って行かせるでしょ?それでも、エレベーターがすれ違って逢えなくて・・・でも、息子のジョナが忘れたリュックをまた取りに戻ってくる・・・」

「結末はわかっていても、そこで鳥肌がたっちゃう。」

「きっと、エンパイアの屋上で愛の告白をするカップルって多いんだろうな。」

「たぶんね。私が登った時も抱き合っているカップルをたくさん見た。」

「君は?」

「残念ながら一人だったから。」

「それは、かわいそうに・・・ははは」

「私、メグ・ライアンとトム・ハンクスのコンビって好き!『You’ve Got Mail』も良かったよ。」

「もちろん見たよ。あれもニューヨークが舞台だったね。大人の恋って素敵だと思った。あの本屋・・・なんてったっけ?」

「『街角の本屋』」

「そうそう・・・『街角の本屋』って本当にあるのかなぁ・・・? 行ってみたいと思わない? あれもある種の運命の恋だった。二人は最初・・・お互いを知らないメル友でさ。メールでバーチャル恋愛をしてゆく。しかも仕事上は敵同士なのにね。実際の二人はいがみ合ってゆくけど、バーチャルではおたがいに惹かれ合ってゆく。」

「キャスリーンが思い切ってメル友と会う決心をして約束の場所に向かうシーン・・・待っているのがジョーだって当然私にはわかっている訳だけど、会って驚いているキャスリーンに心の中でジョーで良かったねって言ってた。」

「そう、犬を連れたジョーがとてもかっこよかった・・・それと僕がもう一つ好きなのが『セレンディピティ』ジョン・キューザックとケイト・ベッキンセイルの映画・・・」

「私も好き!これはまさしく運命がテーマだったよね。別れる時に、せっかく彼が連絡先を聞いたのに、運命だったらまた会えるはずだって言ってわざと教えないの・・・連絡先くらい教えてあげれば・・・って思ったけど・・・実際に会えるのには、それから数年もかかるんだよね。」

僕は、何を隠そうケイト・ベッキンセイルが大好きなのだ。そう言えば、梢は彼女に似ている。でも、残念ながら僕は、ジョン・キューザックには似ていないと思う。

「そう、会えたから良かったけど・・・映画だから逢えないはずないか・・・」

「うううん、映画でなくても逢えてたよ。絶対に。映画の台詞じゃないけど、運命はサインを送って導いてゆくってね・・・お互いを引き寄せるのよ。」

「あれ? さっきは、映画みたいな感動的な結末は想像できないって言ってなかったけ?」

「それは、私の場合でしょ・・・でも、そんなことあるかもって信じてみようかな。」

「そうだね。」

「そう言えば、出会い方が私たちに似てない?彼女たちは、手袋を同時に手にするのよね。」

「じゃぁ、僕たちの出会いは、運命ってこと?」

「そうかも・・・なぁんちゃって。」

僕たちは、ほんの2時間前に会ったばかりだったけれど、随分昔から知り合いだったような気がしていた。映画を通して、すでにニューヨークの町並みも歩いていた。ある時は、僕はトム・ハンクスだったりジョン・キューザックだったり・・・でも彼女は常にケイト・ベッキンセイルだったけれど。

時計を見るとすでに3時を過ぎていた。僕は彼女を車に乗せると、成田に向かった。成田に向かっている間僕たちは、ほとんど口をきかなかった。何か話さなければと思うのだけれど、言葉が出てこない。不思議なことに住所や電話番号を聞く勇気さえなかった。彼女はどう思っているのだろうか? 残り時間が目にもとまらぬ早さで減ってゆく。映画なら後1秒というところで誰かがタイマーを止めるのだが・・・誰も止めてはくれなかった。料金所を過ぎてターミナル2に車を寄せた。

「ね、僕がニューヨークに行ったら会ってくれる?やっぱり僕たちそういう運命なのかも知れないよ。だって、僕と君もSとKでしょ。」

「もし、私たちの出会いが本当に運命なんだったら、『めぐり逢い』のように3ヶ月後の2月14日のバレンタインデーにエンパイアステートビルの屋上で会いましょう。私もこれが運命の出会いかどうか信じてみたい。」

「わかった、でも、僕は必ず行くよ。」

「もし逢えなくても、運命ならサインを送ってきっと導いてくれる。」

電話番号を聞く訳にはいかなくなってしまった。

「・・・送ってくれてありがとう。」

そう言うと彼女は、僕の手を取って手の甲にキスをした。その感覚は電流となって僕の体全体をしびれさせた。

僕は中まで送って行かなかった。頭の先に突き抜けた電流の余韻が消え去るまで身動きできなかったからだ。彼女が自動ドアに吸い込まれてゆくのを確認して、もと来た道を戻った。彼女は幻だったのだろうか・・・さっきまで横に座っていたような気がするのだけれど、今はもう存在の余韻すら残っていなかった。

 

「今から会えないか?」

「ごめん、今はちょっと手が離せない・・・何?」

「・・・」

「電話じゃ言えないこと?」

「うん・・・会って話した方がいいと思う・・・」

「じゃぁ、今夜・・・10時でもいい?」

「いいよ。」

彼女は、会う場所を指定しなかった。つまり、僕が彼女のマンションに行くっていうことだ。

僕は、そういうことで彼女に不満を言ったことはない。もちろん、不満に思っていた訳でもない。そして、男はこうあるべき、女はこうあるべきだと思ったこともない。

僕は、仕事になるとはっきりとものを言った。それは、出来上がりがはっきりと見えているからだ。もしくは、現状に満足していないからだ。でも、香里とのことになると、はっきりとものを言ったことがない。それは、妥協しているというより、前が見えていないからだと思う。香里がしたいようにすればいい。香里がしたいようにしていれば僕たちの間に問題はなかった。でも、梢と出逢ってしまった今、僕には、何をしたいかが、はっきりと見えている。

そのことを、香里に言わなければならない。

「飲む?」

「バクラーを・・・車だから。」

香里は、冷蔵庫からバクラーを取り出して栓を抜いた。自分は、グラスにゴルフボールくらいの氷の固まりを2個入れて、フォアローゼスのプラチナを注いだ。

「後1週間だね。ごめんね、何もかも悟に任せっきりで・・・。」

「それは、いいんだ。結構楽しかったし・・・」

「話って?」

「俺、ニューヨークに行こうと思ってる。」

「新婚旅行の話?」

「そうじゃなくって、向こうで働きたいんだ。」

「何それ? 新婚でいきなり別居? いつまで?」

「結婚自体を考え直したいんだ。」

その時、香里の口に運んだグラスが一瞬にして割れるかと思った。

「どういうこと?ちゃんと説明してよ。」

「前にも言ったように、ニューヨークで働きたいんだ。だから英語も勉強してきたし・・・どれくらいやれるのか試してみたい。それが、ずっと、前からの夢だった。」

「ニューヨークで働きたいだなんて・・・そんな話、悟から聞いたの初めてだよ。」

「香里・・・僕の夢の話を、君は今まで右から左に聞き流していたんだ。」

「自分の夢のために結婚をやめるっていうの?」

「・・・」

心の中では、『そうだ』と言っていたが声に出しては言えなかった。

「私と一緒にいちゃ夢は叶わないっていうの?ね、私に不満があるっていうの?」

「いや、不満を言っているんじゃないんだ。後悔したくないだけ。1週間前になってこんなことを言うのはどうかしてるって思う。だけど、僕たちの10年先はどうなっていると思う?」

「変わらないよ、何も・・・。変わらなきゃいけないの?」

香里の目が挑戦的に僕に向かってくる。今まで、こういう言い争いで香里をねじ伏せたことはなかった。いつも、僕が折れたからだ。

「変わりたいって思っている訳じゃない。今の自分は、本当の自分じゃないって思っているだけ。本当じゃない自分を10年後も続けていたくないだけ・・・わかるだろ? でも、今結婚して、夢を捨ててしまったら、一生後悔する。10年経った時、その後悔から立ち直れない自分がいると思うと、ぞっとするんだ・・・それに、香里に僕は必要ない。」

「必要よ!」

必要だなんて思ってくれていたんだ・・・それはそれでうれしかった。

「香里はもう、気づいているはずだよ。香里にとっての運命の人は、僕じゃないってことを。ただ、僕といると心地よかっただけ・・・」

「なんで、そんなこと勝手に決めるの?」

僕は、香里が泣いたのを今まで見たことがなかった。その場にへたり込むと、小学生がだだをこねるように泣きじゃくった。

僕は、香里のそばに座って肩を抱いた。香里の悲しみが伝わってくる。その悲しみは、きっと今だけのものだし、明日になれば薄まっている。そして、1年も経てば、僕と付き合っていたことさえ忘れてしまうだろう。僕は今にも『ごめん、冗談だよ。』と言ってしまいそうになるのをぐっとこらえた。

「ね、悟・・・正直に言って・・・女がいるの?」

「そうじゃない・・・」

それを、聞いて少しほっとした様子だった。

「自分に正直に生きたいだけ・・・それだけなんだ・・・」

「いつ決めたの?」

「・・・今日。」

「どうして? 今までは、そんなこと考えてもいなかったのに・・・今日、突然神様のお告げがあったとでも言うの?」

また、香里の感情が昂ってきた。

「さっきも、言ったようにニューヨークで働くことが俺の夢だった。こうやって結婚式が近づくにつれて、その夢をあきらめるのかって・・・それでいいのかって・・・自分で自分に問いかけて・・・その答えを出さなきゃならなかった。自分自身が納得のゆく答えを出さなきゃ前に進めなかった。そのことをごまかして前に進む訳にはいかなかったんだよ。それなのに時間だけは過ぎてゆく・・・だから、もう今日答えを出さないと一生後悔すると思ったんだ。」

香里は、もう反論する気力さえもなくしていた。僕はというと、自分の勝手な夢の話を持ち出したことに良心が苛まれていた。

「もういい・・・いつ、発つつもり?」

「まだ、決めていない。やりかけの仕事も残っているし、準備に2〜3ヶ月はかかると思うから・・・」

「ふーっ これから大変ね。式場のキャンセルしなきゃならないし・・・もう、招待状も出しちゃったし・・・」

「そうだね・・・それは、僕が責任を持つから・・・香里は心配しないで。」

帰り道、僕は車の窓を流れる街のイルミネーションを横目で見ながら、今日一日のできごとを振り返っていた。あまりにも長い一日・・・でも、80歳になった僕が自分の人生を振り返ったときに、今日という日が一番重要で、なおかつ正しい決断をした日であると信じたい・・・そう思った。

 

高校時代の友人たちが僕の部屋に集まっていた。

「お前は、正しいことをしたんだ。」

佐々木が言った。

「そうだよ・・・香里のためにも良かったんだ、落ち込むなって。」

君島が言った。

でも僕は、落ち込んでいた。本当なら今日は、香里と結婚式を挙げているはずの日だった。自分の気持ちは今でも変わらない。でも、香里はあの日以来誰とも会っていないらしい。正直言って、ここまで香里がショックを受けるとは思わなかった。

「でも、女性として言わせてもらうとね・・・香里ちゃんのショックは、相当なものだと思うよ。」

「ばか、そんなことわかってるから、悟は落ち込んでんじゃねぇかよ。」

君島が言った。

「ばかってことないじゃない!」

「いや、ばかは僕なんだ。僕が優柔不断だったから・・・」

「悟は、優柔不断だったんじゃないよ。優しすぎんだよ。」

佐々木は、僕よりも僕のことがわかっている。

「でも、それでも正しかったと思うよ。あの時点でそのまま結婚に踏み切っていたら、お互いにもっと不幸だった。そんなこと、美幸にだってわかるよな。」

「もちろんわかってる・・・でも、悟は自分で出した答えだからいいけど、香里は、納得するまで時間がかかると思う。それまでにどれくらいの時間が必要なのかが私は心配なの。」

「確かに・・・」

君島が誰に向かって言うでもなく小さくつぶやいた。

「俺は、結婚はやめたけど香里とは今まで通りに付き合えると思うんだ。」

「だめだよ、それは。かえって香里を苦しめることになる。それが、お前の優しいところだけど、ここはぐっと気持ちを抑えてがまんしなきゃ・・・だいたいニューヨークに行ってしまうってのにどうやって付き合うんだ?」

たしかに君島の言う通りだった。この曖昧さが、人を傷つけるんだ。

「そうね、香里のことは私に任せて。しばらく、そばに付き添うようにするから。」

「・・・ありがとう。そうしてくれると助かるよ。」

 

僕は、次の日に辞表を出した。といっても、やり残している仕事がある。それが終わるまで2〜3ヶ月はかかるだろう。梢との約束の日にニューヨークにいるかどうか微妙になってきた。それまで何も考えずに仕事に没頭することにした。

2ヶ月経ったある日、ニューヨークフェステイバルでシルバーアワードを受賞したという知らせが届いた。

「いいコピーだな。」

「いや、お前のデザインがいいんだ。」

僕はパートナーの有田の肩をたたいて言った。

「ま、いいじゃないか。俺たちいいコンビだったよな。」

「向こうに行っても、がんばってくれよ。」

「ああ」

「ところで、具体的にどうするか、決めてるのか?」

「いや、結構行き当たりばったりになると思う。」

「でも、これが勲章になるんじゃないか?」

「そうだな・・・グレイ(ニューヨークに本社のある広告代理店)に友達がいるから、彼に連絡をとってみようと思ってるんだ。ま、なんとかなるだろ。」

「いつ、出発するんだ?」

「一応、2月14日のJALを押さえてあるんだけど・・・理由があってさ、どうしても14日には着きたいんだ。」

 

結婚までの3ヶ月とは違って、ニューヨーク行きの準備のための3ヶ月はあっという間に過ぎた。マンションも引き払って実家に帰っていた僕は、パッキングも済ませ佐々木が迎えにきてくれるのを待っていた。そのときだった。胸にぶら下がった携帯が心臓を震わせたのは・・・。

「もしもし・・・悟?」

「香里?」

「まだ、日本にいたんだ。」

「あぁ・・・でも、今日の夕方の便で発つつもり・・・元気か?」

「元気じゃない・・・会えないかな?」

「香里・・・もう、会わない方がいいだろ・・・」

「会いたい。」

「・・・悪いけど・・・もう時間がないんだ。もうすぐ佐々木が迎えにくる。」

「会えないなら・・・私死ぬよ・・・」

「香里は、死なない。そんなやわな女の子じゃないもん・・・香里?」

なんてことだ・・・もう必要ないのに、僕はどうして携帯を持っているんだろう? ・・・後悔しても遅かった。

僕は、佐々木に電話した。

「ごめん、今日は中止だ。」

「どうした?もう着くぞ。」

「香里が・・・少し変なんだ。放っておけない・・・行って見てくる。」

「大丈夫か? 俺も行こうか?」

「ありがとう・・・でも、もうタクシーに乗った・・・大丈夫、俺一人で。それより、頼みたいことがあるんだ。とりあえず今日のフライトをキャンセルしといてくれないか?」

これでもう梢とは会えない・・・それが運命だったからだ。ただ、それだけのことだ・・・それに、ニューヨークに行く目的は、梢に会いに行くことじゃない。本当の自分を見つけに行くことなんだ。一日や二日、遅れたって問題はない。

 

マンションには、4時に着いた。今頃はちょうどJALのカウンターにいるはずの時間だ。

もう合鍵は持っていなかったので1階のオートロックのインターフォンで香里を呼び出した。

「・・・はい。」

「俺・・・」

すぐにガラスのドアが開いた。

彼女の部屋は東京湾を見渡せる24階にあった。ドアには鍵がかかっていなかった。

香里は、ベランダの椅子に腰掛けて海を見ている。ちょうど船の汽笛が聞こえてきた。

僕は、黙って香里の後ろに立って小さくなった香里の肩に手を置いた。香里は振り向きもせずに手を重ねた。

「私たち、もう元には戻れないの?」

「うん・・・戻れない。」

「そう・・・初めてだね。悟が自分の意志を貫き通すなんて・・・」

「俺も、少しはおとなになっただろ?」

「うん、見直した・・・っていうか惚れ直した。・・・でも、もう遅いか・・・」

「香里・・・大丈夫か?」

「大丈夫じゃない・・・悟が会いにきてくれたから・・・本当に優しいから・・・また、一からやりなおし・・・少しはあきらめかけてたのに・・・どうしても声が聞きたくって・・・もう一度顔を見たくって・・・でも、また一からやり直し・・・3ヶ月会わないでいるのがこんなに苦しかったのに・・・また今日からそれを始めなきゃなんない・・・ごめんね・・・私、今まで本当にわがままだったね・・・悟に甘えてた・・・ごめんね。」

「香里・・・あんまり自分を責めないで。・・・香里が悪いんじゃないんだ。俺が、もっとしっかりしていれば、こんなことにはならなかった・・・謝るのは、俺の方なんだから・・・」

「悟が私のそばにいてくれるのは当たり前だと思っていたから、いなくなっちゃうことにすごく違和感を覚える。」

「香里・・・俺は今、前を向いている。ただ、香里が見ている方向とは違うんだ。だからつかんでいる手を離さなくちゃいけない。手を離さないで、どちらかが自分の行きたい方向に強くひっぱったらお互いに痛い思いをする。苦しいのは今だけなんだよ。香里も自分が向かっている方向を見てごらん。そこではきっと俺は必要ない。」

「必要ないとは絶対に思わない。でも、それは悟が望んでいることとは違うってことがよくわかった。・・・乗り遅れちゃったね。」

「いいさ・・・今日も明日も変わりはないから・・・」

その日は、ずっと香里に付き添った。6年も一緒だったんだ、別れを急ぐ必要はない。香里の気持ちが落ち着くまで一緒にいるつもりだった。

 

二日後の2月16日10時、僕は成田のJALカウンターにいた。いつ行けるかわからなかったので、少し高かったけどチケットをオープンにしておいてよかった。おかげでキャンセル料を払うことなくフライトの変更ができた。

 

JAL006便は予定通り離陸した。数分で雲の上に出た。もう一度自分の人生をやり直すのだ。しばらくすると日付変更線を超えるだろう。僕は待ちきれなくて時計を14時間巻き戻した。そして、昨日までの僕を捨てた。

 

10

ニューヨークでは、ESSEX HOUSEに泊まることにしていた。映画『めぐり逢い』のリメイク版でマイクが定宿にしていたこのホテルも今ではESSEX HOUSE A WESTIN HOTELとなっていた。といっても変わったのは名前だけである。目の前に広がるセントラルパークの眺めはさすがに圧巻だ。青山のオフィスから見ていた御所とは比べ物にならない。

今回僕はスーツケース一つでやってきた。いつまでもホテル住まいというわけにはいかない。早くアパートを借りなければならなかった。落ち着いたら日本から荷物を送ってもらう手はずになっているのだった。アンパッキングした僕は、まず大学時代の友人浅川翔(あさかわしょう)に電話をした。翔は、GREYでアートディレクターとして働いていた。もともと彼は、父親がワシントンDCの世界銀行で働いていた関係でアメリカで生まれ育った。2人の姉がいて末っ子の長男として大事にされたらしい。ただハイスクールに入る直前に両親が離婚して、母親と一緒に日本に帰ってきた。センスは母親から受け継いだのだと思う。僕は翔とは気があった。翔にとって僕は、唯一心を許せた友人だったと思う。翔と会ってこれからのことを相談するつもりでいたので夕食を一緒にとることにした。

僕らは、グランドセントラルステーションで待ち合わせた。

「遅かったね。」

「あぁ、いろいろあってさ。」

翔は、相変わらず少年のようなきれいな顔をしていた。ほとんどの女は母性本能をくすぐられて翔のことを放っておけない。

型通りの握手をして3年ぶりの再会をした僕らは次の瞬間思わず抱き合った。ほほをなぜた翔の艶やかな長い髪、小さな肩はまるで女のようだった。目の前の髪を右手でかきあげる仕草は、男の僕でもぞくっとくる。翔もニューヨークで寂しかったんだと思う。まるで久しぶりに恋人に会ったようにうれしそうだった。

翔が連れて行ってくれたのは『オイスターバー』。ニューヨークではあまりにも有名なレストランだ。ツアーガイドにも載っている。いろんな種類のオイスター、とりあえずのシュリンプカクテル・・・そしてアムステルをオーダーした。

アムステルは一度飲んでみたかった。僕の大好きなパーカーの小説で主人公のスペンサーが好んで飲んだビールがアムステルなのだ。僕にとって彼こそがニューヨーカーだった。

翔はレストランの中でも注目の的だった。

ウエイターはいちいちウインクする。隣の席の女は、ボーイフレンドの話なんか聞いちゃいない。物欲しそうに色目を使ってくる。胸の第二ボタンまで開いたシャツからのぞく夏の名残りの陽に焼けた肌が、ニューヨークの冬を挑発する。でも、翔はもう慣れっこになっているらしく意に介さない。

「相変わらず、女が放っておいてくれないみたいだな。でも、女の扱いは慣れてるだろうけど・・・男はやっかいだな。」

「相手にしなきゃいいんだ、問題ないよ。それより、悟のこれからのことだけど・・・僕とルームシェアしない?」

「えっ!」

突然の申し入れに驚いた。

「いや、こっちでは当たり前のシステムだから驚くことじゃないよ。今まで一緒にいた奴が田舎に帰るって言うんで、その方が僕にとっても都合がいいんだ。それに、こっちはよっぽど成功しない限り一人で家賃を払うって大変なんだ。」

「それは、助かる。何も考えずに飛び出してきたから・・・」

「じゃぁ話は決まった。早速大家に言っておくね。それと仕事だけど、僕が一緒に組んでるデザイン事務所がアートを探してるんだ。ニューヨークフェスティバルでシルバーを獲ったって言ったら、すぐにでも会いたいって・・・作品は持ってきているよね?」

「あぁ・・・」

「OK・・・じゃぁ明日とりあえずうちの会社に11時半に来てよ。一緒にランチをしよう。でも、心配いらないよ・・・僕がいちばん悟の実力を知っているから・・・。」

「じゃぁ、今夜は再会を祝して飲み明かそう。」

 

11

ニューヨークグレイは映画『クレイマークレイマー』で妻に出て行かれたダスティン・ホフマンが再就職する広告代理店のモデルになった会社だ。実際に撮影もそこで行われたと聞く。確かではないが『エイジェンシー』もグレイだったと記憶している。今では、その伝統あるあこがれの会社も売りに出ているという噂が流れた。アメリカの会社はすべてが投資対象だ。大手では唯一WPPやIPGなどという投資グループに属さない会社だったのだが、ついに時代の波に呑込まれていってしまうのだろうか・・・といっても僕の活動の場がなくなってしまう訳ではない。もちろん翔にとっても同じだ。古いものが新しく形を変えてゆく・・・ただそれだけのことだ。

 

翔がすべて準備しておいてくれたおかげで、僕の新しいニューヨークでの生活はスムーズだった。就職先も決まった。しかし、翔のアパートに移るまで1週間待たされた。前のルームメイトが引っ越すのに時間がかかったからだ。後で聞いた話だが、その彼はゲイだったらしく・・・もちろんニューヨークではめずらしくない話だけど、毎日のように男友達が入れ替わり立ち替わり訪ねてきて、どうもその来客の一人にしつこく言いよられ、その趣味がなかった翔がルームメイトを追い出したというのが真相だった。その点僕はストレートだから心配はない・・・と、思う。でも、日本からニューヨークに渡ったカメラマンやデザイナー、ヘアメイクアーチストって、必ずと言っていいほどゲイになってゆく。そういえば、あの有名なヘアデザイナーもエイズで死んだっけ・・・。

引っ越しまでの1週間、僕はホテルライフを楽しんだ。といっても、翔が紹介してくれたデザイン事務所での採用が決まっていたので観光気分でいられる時間はあまりなかった。できるだけ有意義に過ごすためにMOMAやメトロポリタン美術館などなど一生懸命に見て回った。MOMAには僕の大好きなプロダクトデザイナー、ル・コルビジェの作品が数多く展示されていた。いいものは時代を超えて記憶に残ってゆく。僕もそういうデザイナーになりたかった。そう、建築家で言うとフランクロイド・ライトのように・・・。

翔が仕事を終え帰ってくる金曜日の午後、スーツケース一つで引っ越しをした。昔日本では土曜日は休みではなく、午後になると休みになる半ドンと呼ばれているシステムがあったそうだが、アメリカでは金曜日の午後がそれに当たる。午前中は仕事をし、午後は仲間とゴルフをしたりテニスをしたりして過ごす。昔の日本もそうだったのだろうか?想像がつかない。翔のアパートは89th Stにあってウエストエンドとリバードライブの間にある。いわゆるアッパーウエストと言われる最高のロケーションだった。3メートルほどの歩道に面していて階段を数段上がると重厚な木のドアがある。左にインターフォンがあって住人を呼んで開けてもらう。映画などで見るいかにもニューヨークといった感じだ。翔の部屋は3階にあった。中に入ると広くて明るかった。個室が2つありそれぞれのプライベートは十分に守れる。部屋は、通りに面していて目の前がちょうど木の高さと同じで窓一杯に緑が広がる。窓は、出窓になっていて出っ張った部分に何かを置こうと思った。ベッドも家具もすでに入っていた。

「いいところでしょ、気に入った?」

「最高!思ったより広いし、環境もすごくいい。」

「『You’ve Got Mail』観た?」

「もちろん!」

「隣のアパートって映画の中でメグ・ライアンが住んでたアパートなんだ。」

「え?本当、すごいじゃん。俺、映画好きだから、時間が出来たらいろんな映画の撮影場所を見て回ろうって思ってたんだ。」

僕は、この1週間ニューヨークが舞台になっている映画のDVDを買いあさっていた。もちろんDVDは、すでにたくさん持っていたが、アメリカのリージョンコードは1なので日本で購入したDVDは、こちらのDVDプレイヤーでは見ることが出来ない。まだ字幕なしで映画を楽しむ自信はなかったけれど、英語の上達にも役立つと思った。運良くリビングには30インチのテレビとDVDプレイヤーがあった。おかげで翔が留守にしているときや一人でどこにも行きたくない時などは、ほとんど映画を見て過ごした。

 

12

僕が勤めることになったデザイン事務所はいわゆるSOHOの一角にあった。一時は芸術家の集まる街として注目を集めた場所だが彼らはまた違う場所を見つけたらしい。ボブ・ウォーレンとジョン・ファーレルが作った事務所はウォーレンアンドファーレルと言った。通称W&F。アメリカでは創業者の名前を会社の名前にすることが多い。スープ会社のキャンベル、ジョンソンエンドジョンソンみんなそうだ。でも翔の勤めるグレイは、壁の色がグレイだったことに由来する珍しい例と言えるだろう。そのW&Fが入っているビルは、外観こそ古めかしいが中はすごくモダンだった。まさに映画の世界。スタッフは20人くらいだがひとりづつゆったりとしたスペースで仕事をしている。創業者のボブとジョンはもともとエージェンシーで働いていた。ボブはアートディレクター、ジョンはコピーライターだった。そして、二人で独立して成功した。もう10年になるという。ニューヨークのクリエイターはジューイッシュが多いと聞く。たぶん彼らもそうだと思う。二人ともあごひげがかっこいい。でも、そんなこと聞く訳にも行かないし・・・また、そうだとしても何が変わる訳でもない。僕だって日本人だ。僕がチャイニーズだろうがコリアンだろうがニューヨークで生きていくのにさほど影響はない。人種は関係なく優秀なやつは成功し、ダメなやつは平等に落ちこぼれる。彼らは成功の象徴として窓際にとてつもなく広い部屋を持っていた。アメリカ人は出世にこだわる。まず、最初はただの椅子に袖が付く。次に部屋が与えられる。そして窓が一つずつ増えてゆき、角部屋が与えられ両角に窓があると最高の出世となる。彼らの場合フロアの両端に各々の部屋があった。でも、彼らとスタッフの間を遮るものは何もない。壁は一面ガラスなので常にオープンだ。会議室もゆったりとしている。そして僕も日本では考えられないほど広いデスクをもらった。しかも最新のMACと20インチの液晶ディスプレイが備え付けられていた。

 

そして、その日からエキサイティングなニューヨークでの記念すべき生活が始まった。W&Fはエージェンシーとの付き合いもあったがクライアント直の仕事もたくさん持っていた。僕は、翔との関係を考えてグレイの仕事からははずしてもらってIT関係、ファッション関係、車関係などを担当することになった。ビルボード、雑誌、ポスターの仕事を無我夢中でこなしていった。

そして瞬く間に半年が過ぎ、夏も終わりになる頃、僕の手がけた広告があちらこちらで露出し始めた。自分の作った広告がペイントされたバスに乗ることもしばしばだった。

 

13

僕は、翔とウエストブロードウェイのインディペンデントでよく食事した。

「今度、女の子紹介するよ。今年入った子なんだけど、すごくいい子なんだ。」

「翔は、どうなんだよ。」

「僕は、そういうの面倒くさくってさ。悟は、そろそろ仕事も慣れてきたみたいだから、もう解禁だろ?」

「あのねぇ・・・ボジョレイヌーボーじゃないんだから、解禁ってことはないんじゃない?」

「ははは、ま、一度会ってみてよ。」

本当はあまり気乗りがしなかった。もちろん、もう梢とは会えないとわかっていた。運命の出会いだったと信じて連絡先を聞かなかったからだ。わかっているのは梢という名前とテキスタイルデザイナーということだけ。彼女も映画が好きだと言っていたから、ひょっとして偶然どこかの映画館で会うことがあるかもしれない・・・でも、それは奇跡に近い。

「そうだ、今度アパートにみんなを呼んでパーティをしようよ。スタイリストやカメラマンと知り合っておくのもいいんじゃない?」

「いいね。そうしよう。」

「そういえば、ボブが褒めてたよ。悟は感性がするどいって・・・」

「お前に言われると、照れるな。」

「僕が言ってる訳じゃないよ。だいたい僕は、最初から悟の才能は認めているじゃないか・・・どちらにしても勧めた甲斐があって僕もうれしいよ。」

「ありがとう・・・ところでさ・・・お前、最近何か悩んでないか?」

「・・・べつに。」

「そっか・・・それならいいんだ。」

翔は確かに元気がない。それはずっと前から感じていた。翔は、何か言いたげにワイングラスをぐるぐる回して落ち着かない。

8年程前、僕たちがまだ大学に入ったばかりの頃、翔に入れあげていた女の子がいた。名前を明菜といった。大学近くの都立高校に通う、まだ17歳の少女だった。裕福な家に育ちながらも家族の愛に餓えている、現代によくありがちな家庭環境にある彼女に偏執的につきまとわれていた。翔は相手にしていなかった。ほとんどストーカーと化していたその子は、自殺未遂を何度も繰り返した。翔は、その度に病院に呼び出された。それでも、彼女に文句一つ言わずに病院に通った。愛はなかったが、自分と同じく父親の愛を受けられなかった彼女に同情していたのだ。ある時、翔がチンピラに絡まれた。相手は刃渡り20センチの出刃包丁を持っていた。たまたま、その現場に居合わせた僕が止めに入ったが、遅かった。右腕を深くえぐられたのだ。僕は、かろうじてチンピラから出刃包丁を取り上げると股間を蹴り上げた。その様子を泣きながら見ている女がいた。明菜だった。はらまされて捨てられたとチンピラに嘘をついたのだ。そのおかげと言ってはなんだが、その日から翔とは友達になった。今でも翔の右腕には傷が残っている。

「また女か?」

ワイングラスを見つめたまま顔を上げずに言った。

「いや・・・男・・・」

「えっ?」

「僕・・・ひょっとしてゲイかも知れない・・・」

「かも知れないって?」

「自分でもよくわからないんだ・・・ただ、前のルームメイトはゲイだった。マルチェロっていうんだけど,一度誘われたことがある。本当は、それがいやで追い出したんだけど・・・あいつのことが今でも頭から離れないんだ。」

僕の反応を伺うために、やっと顔を上げた。

「・・・」

「軽蔑した?」

「いや・・・でも、正直驚いた。」

「まだ、理解できないよね・・・それが、ニューヨークさ。」

「そうだな、自由の国アメリカのしかもニューヨークだ。悩まないで自分の気持ちに正直に生きろよ。いろんな愛の形があるってことだろ?」

「うん・・・悟に告白して、なんか少し気持ちが楽になった。」

「よかった。じゃぁ今度のパーティにマルチェロも呼んだらどう?」

「来るかな?」

「きっと来るさ。」

翔はかわいくはにかんだ。

「翔・・・おまえ俺のこと好きになったことあるか?」

「前から好きだったよ。」

「そっか・・・でも俺のことは、真剣に好きになるな。傷つくだけだ。それに俺はお前にとって運命の人じゃない。」

お互いに吹き出した。

「ははは、わかってるよ。でもさ、悟は僕にとって運命の人さ。僕の人生において出会った人は、すべて運命・・・だろ? それに悟からはずいぶん影響を受けた。だから、やっぱり運命の人さ。」

「うん、そうだな。確かに俺も翔と出会ったことは運命だと認めるよ。」

お互いに影響を与え合う人々と、どれだけ出会えるか・・・それには、自分の努力も必要なんだ。自分を磨くこと・・・それが運を引き寄せる。

 

14

僕たちは、SOHOのDEAN&DELUCAで買い出しをした。ケイタリングを頼むという方法もあったが、僕はここのイタリアチックな総菜が気に入っていた。シャンパンとワイン、ビールとともに配達してもらうように頼んだ。

 

夕方の5時になるとアメリカ最先端の広告業界の連中がぞくぞくと集まってきた。

カメラマンのニックは、ファッション界では超一流の売れっ子だったし、スタイリストのマギーもこの時間ここにいることさえ奇跡と言えた。ヘアメイクのビリーはしきりに翔を気にしている。でも、それは翔個人の問題だったので放っておいた。こういうパーティでは日本のように特にイベントはない。ノリのいい音楽がかかり、あちらこちらで会話が弾む。6時を過ぎた頃、ボブが僕を呼んだ。そして、手を挙げてみんなの視線を集めた。

「紹介するよ。日本から来てくれたSatoru Katsuragi 」

拍手が起こり、口笛が鳴った。

そしてボブが続けた。

「これからの広告界を背負って立つ優秀なアートディレクターだ。」

聞いていなかったので驚いたが、小さく右手を上げて拍手に応えた。

みんなからスピーチを求められた。

「はじめまして。僕のことはSatoruと呼んでください。今日は、みなさんとお会いできて本当に光栄に思っています。そしていつかみなさんから、Satoruと一緒に仕事がしたいと言ってもらえるように、これからひとつひとついい仕事を積み重ねて行きたいと思います。今日のところはまず、Satoruという名前だけでも覚えておいてください。ありがとう。」

また拍手が起こり、そして彼らはそれぞれの会話に戻った。ボブは、僕の肩をたたくと、笑顔をくれた。翔は遠くから僕を見ていてグラスを上げた。隣にはマルチェロがいた。彼は、テレビ局のプロデューサーだった。イタリア人特有の甘くて精悍な顔立ちをしていた。

翔は、マルチェロに耳打ちをして彼から離れると、ひとりぼっちでウォールフラワーになっていたイタリア系の女の子に声をかけ、彼女を連れて近づいてきた。

「彼女は、アニータ。今年入ったデザイナー。さっきからずっとひとりぼっちだから、少し話し相手になってあげて。」

「ハァイ。」

「ハイ。私はアニータ・モニチェリ」

イタリア系だけど少しジェニファー・ロペスに似ている。いかにもエクササイズで鍛えた体と陽に焼けた肌が健康的にセクシーだった。翔が小声で言った。もちろん日本語だった。

「ニューヨークでは、セックスは挨拶みたいなもんだから、気軽に考えて・・・」

それだけ言うと、またマルチェロのもとに戻って行った。僕は、彼女のためにシャンパンを注いだ。細長いグラスの中で金色の液体がはじけるように踊った。

「悟って呼んでいい?」

「もちろん・・・じゃぁ僕はアニータって呼んでいいの?」

「いいよ・・・ここ、いいところよね。」

「うん、隣が『You’ve Got Mail』の映画の中でメグ・ライアンが住んでたアパートだったってこと・・・知ってた?」

「へぇ・・・そうなの?私あまり映画見ないから・・・」

「そうなんだ・・・じゃぁ音楽は何系が好き?」

「ヘビメタかな・・・」

「あ・・・そうなんだ・・・」

このたった二つの質問で、彼女が僕の運命の人ではないと悟った。

「悟は?」

宙をさまよっていた目があわててアニータに焦点を合わせた。

「ジャズ系かな・・・でもヘビメタもよく聞いたよ。」

「過去形・・・?」

「あ・・・て、いうか最近忙しくて聞いてないから・・・そうだ、今度ニューヨークの街を案内してよ。まだ、あんまり良く知らないんだ。」

「いいよ。ディープなところに連れてってあげる。」

「はは・・・なんか怖いな。」

翔を見た。いなかった。マルチェロも・・・いなかった。アニータとの会話が続かない。

「翔もいなくなっちゃったみたいだし・・・この後うちに来る?」

「あ、でもこれ片付けなきゃなんないし・・・」

「私、手伝うよ。」

「え?あ、ほんと? ・・・助かるよ。」

翔・・・どこに行ったんだ?

 

夜も12時を過ぎていた。彼女のアパートは近かった。僕たちのアパートよりセントラルパーク寄りにある。アパートの前に車が停まっていた。運転席には、夜なのにサングラスをかけ黒っぽいスーツを身にまとった男が座っている。こちらを見ながら携帯で誰かと話している。とてつもない威圧感に本物のマフィアを感じた。アパートに入った僕がもう一度ドア越しに車を振り返るともうそこにはいなかった。

彼女の部屋からはパークとハドソンリバーが見えた。つまり最上階にあるペントハウスだった。

「すごいね。ここに一人?」

「そう、パパがリッチだから・・・」

この質問は、今までにうんざりとするほど繰り返されたに違いない。それなのに、バカな質問を続けてしまった。

「じゃぁ働く必要なんてないじゃない・・・」

「悟はお金のために働いているの?」

「いや、そうじゃないけど・・・」

「でしょ・・・私だって同じ。たまたま、親がリッチだったってこと。ただ、一人娘だから・・・いろいろと干渉してくるの。頼んでもいないのに、いつの間にか就職先が決まっていて・・・そして、アパートとポルシェの鍵を渡された。結局自由じゃないのよ。」

羽をもぎ取られたかわいい小鳥が必死で抵抗している。好きと好まざると関係なく無理矢理えさを与えられている小鳥なのだ。

「でも、親って多かれ少なかれそういうものだろ?特に娘ともなると・・・」

「さっき、アパートの前に車を見たでしょ?あーやって私は、毎日監視されているの。だから私はもう好きにするの。なんか飲む?」

「うん、じゃぁビールを・・・」

とてつもなく大きな冷蔵庫だった。ビールを二つ取り出すと右足でドアを蹴って閉めた。そして、テーブルに置くと僕の横に座った。

なんとなく居心地の悪い僕は、部屋の中を見回すしかなかった。イタリア家具でまとめられたとてもセンスのある部屋だった。広い部屋をひとりで持て余している感じがした。特に複数の男たちが出入りしているような乱れた生活を送っている訳ではなさそうだ。

「アニータ・・・僕でよければ君の友達になるよ。」

僕は、彼女に第一印象とは違う印象を持ち始めていた。裕福ではあるけれど満たされない寂しさを持っている。翔を偏執的に愛した明菜を思い出していた。だから、本当の友達になってあげたいと思ったのだ。

「じゃぁシャワー浴びてくるね。」

「違うよ、アニータ・・・そうじゃない。本当の友達になろうって言ってるんだよ。友達の間にセックスはいらない。」

彼女とは、間違ってもそういう関係にはなりたくなかった。彼女の寂しさにつけいりたくはない。

「だって、君は自由になりたいんだろ?自由になって本当の恋がしたいんじゃないのか? 」

「悟は、今恋をしてる?」

「してない。」

僕は、梢のことを話した。

「でも、どうやって彼女と会うの?」

「わからない。でも運命のサインが導いてくれる。」

「その出会いが運命だったら・・・でしょ?」

「そう・・・確かに、彼女とは運命じゃなかったのかもしれない・・・それはわからない・・・彼女に、指輪をただ引き合わせる役割を果たしただけだったのかもしれない・・・それもわからない・・・ひょっとして彼女は、帰りのJALで本当の運命の人に出会ってしまったかもしれない・・・でも、もし僕の運命の人が彼女じゃなかったとしても、この地球上のどこかにきっといるはず・・・ アニータにだって、きっといる。それを信じて・・・たくさん恋をして運命の人を探さなきゃ・・・」

「運命の出会いって何? 出会いがドラマチックじゃないといけないの?」

「出会いはすべて運命さ・・・確かにドラマチックである必要なんかない・・・当たり前のように自然に引き寄せられてゆく・・・決してムリをしちゃいけない。それが運命だったなんてずっと後になって気づくことなのかもしれない・・・ただ、どちらかが死ぬ時に『生まれ変わってもまた君と一緒になりたい』って言えるような・・・そんな恋が運命の恋なんじゃないかなと思う・・・」

「じゃ、悟が運命の人かもしれないじゃない・・・」

「もちろん、そうじゃないとは言い切れない。この出会いが恋に発展することだってあり得る・・・だから・・・だから、どんな出会いも大切にして欲しい・・・僕は、少なくとも君との出会いを大切にするよ。」

「ありがとう・・・悟は、女と寝ることだけを考えているような普通の男じゃないのね。・・・私ね、本当は好きな人がいるの・・・でも、彼は私のことを振り向いてくれない・・・」

「それは・・・翔だろ・・・?」

「わかってたんだ・・・」

翔は、本当にこの手の女に惚れられる。僕には、何もしてやれない。恋をするべきだって言っておきながら、その相手はゲイかもしれないと悩んでいる。

「それが、恋なら・・・大切にしろよ。今は、片思いでも・・・いずれ破れる恋でも・・・しないよりは、した方がいい。・・・でもその前に、今度映画を見せてあげる。」

 

15

僕は、梢のことを忘れた訳じゃなかった。あれから何回かエンパイアステートビルにも登ってみた。彼女との会話の中で手がかりになるのは映画だけだった。『You’ve Got Mail』も『めぐり逢えたら』のロケ現場にも何度も足を運んだ。今日は『オータムインニューヨーク』のリチャード・ギアにでもなったつもりで紅葉の美しいセントラルパークを歩いてみることにした。プレイボーイのリチャード・ギア演ずるウイルとウイノナ・ライダー演ずる死を間近にしたシャーロットとの儚い恋の物語。梢とはこの映画については語り合わなかったけれど、間違いなく見ていると確信している。

映画は、セントラルパークにある大きな池の上を飛ぶヘリ撮から始まる。そして鮮やかな色に染まった木々が見えてくる。秋晴れの美しいセントラルパークだ。ニューヨーク中を歩き回っても秋を体感できるところはここ以外にはない。そういえば、映画の中の秋はイントロ以外今日のようにどんよりと曇っていた。僕はアスファルトにへばりつき湿った黄色い落ち葉を足の裏に感じながらゆっくりと歩いた。こういう天気がそうさせるのか、まわりを行き交う人々もまるでスローモーションだ。やがて映画で見たように冬へと変わり、辺り一面が雪で覆われるのだろう。もし雪が降ったら、僕は朝早く来て誰も歩いていない雪の上に足跡を残したいと思った。

映画はオータムインニューヨークと言いながら、後半は冬だ。短く幸せな日々を秋に例えて、冬になるとシャーロットは死ぬ・・・映画は悲しみのまま終わらない。それでも明るい春はやってくると言わんばかりにエンディングでは、春の日差しの中でボートに乗ったリチャード・ギアと彼の娘・・・そして彼が抱いているのは娘の赤ちゃん・・・つまり孫? そう言えば赤ちゃんにミルクをあげていたっけ・・・もうプレイボーイはやめたってこと?確かにシャーロットがウイルを変えたんだと思うけど、こんなエンディングにする必要があったのだろうか? 僕は梢の意見を聞いてみたかった。・・・今どこにいるのだろう・・・彼女に、もう一度逢いたい。

 

16

梢だけでなく、探している本も未だ見つかっていない。暇を見つけてはニューヨーク中の古本屋に足を運んだが見つからない。今日も朝から歩き疲れた僕は、最近お気に入りのカフェに立ち寄った。ソーホーのブロードウェイとスプリングストリートの角地にある『バリ』という店だ。窓際に座ってコーヒーとサンドウィッチでランチにした。僕はここで街行く人たちを眺めているのが好きだ。日本からの観光客もたくさんいる。僕はまだニューヨークの四季をすべて経験した訳ではなかったがこの時期がいちばんいいらしい。夏は暑すぎ、冬は寒すぎるからだ。

 

4時になってアニータのアパートを訪ねた。手にはポップコーンと『めぐり逢い』のDVDを持っていた。とりあえずラブストーリの入門編だ。部屋に行くとアニータはリラックスした格好で僕を待っていた。Tシャツに短パン。おへそが丸出しでずいぶんと肌が露出している。窓からはまだ明るい日差しが差し込んでいた。アニータが壁のリモコンを押すと電動でカーテンが閉まってゆく。代わりにフットライトが点灯した。そして別のボタンを押すと天井からプロジェクターが下りてきた。スピーカーも5.1チャンネル・・・まるでホームシアターだ。

「アクションムービーを見る訳じゃないんだから・・・」

「だって最初から付いていたんだもの仕方がないじゃない。」

そりゃそうだ。

アニータは冷蔵庫からダイエットペプシを二つ持ってきて僕の隣に座った。僕の横が彼女の指定席とでもいうように・・・。

 

僕はずっとアニータの表情の変化を見ていた。ある意味彼女の表情は豊かだ。というより感情が露骨だ。ニッキーのプレイボーイさかげんに鼻を鳴らし、テリーの美しさに目を輝かせた。そして、アニータの頬のカーブに添って一粒の涙が緩やかに下りていった。エンドタイトルが流れる間もずっと画面から目を離さない。彼女は僕の手を握り、僕は彼女のおでこにキスをした。愛とは与えられるものではなくて、与えあうもの。いつかアニータにもきっとわかる日がやってくる。

「さてと・・・来週は『Sleepless In Seattle(めぐり逢えたら)』だからね。」

アニータは、何も答えずただ大きく伸びをして立ち上がるとボタンを押した。電動カーテンが明日から始まる彼女の恋物語の幕を開けるかのようにゆっくりと開いていった。

 

17

僕とアニータは、翔とハドソンストリートにあるNOBU NEXT DOORで8時に待ち合わせていた。さすがに人気の日本のレストランだ。すでに行列ができている。3人だと予約をとってくれないので少し待たされたが仕方がなかった。アニータは、ディナー用のドレスに着替えていた。ドレスは白いのでかえって褐色の肌が強調されていた。僕は、アニータの七変化にいつも驚かされるが、翔は全くと言っていいほど気にかけていない。それは、女性に興味がないからなのか、あまりにも言いよる女性が多いからなのかよくわからなかった。

「翔、マルチェロとはうまくいってるの?」

思わず口に含んだ日本酒を吹き出すところだった。いきなり確信をついてきた。

翔は、ゆっくりと顔を上げた。両目の下の筋肉がかすかに動いてやわらかい笑顔を作った。

「アニータ・・・僕はゲイじゃないんだよ。」

「そうなの?」

二人の会話の間に入り込めない。

「うん・・・確かにゲイかもしれないって悩んでいたけど・・・今はそうじゃないってはっきりと言い切れる。たぶん自分が頼りないから、しっかりとした人に、ただ憧れていただけなんだと思うんだ。」

「そう確信した何かがあったの?」

「ははは、触られて鳥肌がたった。」

「ワォ・・・決定的。」

「翔・・・だけど、この前俺が好きだったって告白したじゃないか・・・」

冗談で言ったのにアニータが反応した。

「えっ、そうなの?」

「今でも好きだよ・・・だから今言ったじゃないか。しっかりした人に憧れるって・・・」

「そう・・・じゃぁゲイじゃなかったってこと、お祝いしましょ。」

「待って。 しばらくはゲイだってことにしておいてよ。結構この自由さ加減が気に入っているんだ。」

「翔も愛のないセックスばかりしているから、そうなるんだ。ちゃんと恋をしろよ。」

「わかってるよ。でも、しばらく休憩。」

「翔にも恋の手ほどきが必要なのかも知れないな。アニータも近々素敵な恋をする予定だし・・・」

「あのねぇ、恋は突然やってくるんです。仕事の予定組むみたいにはいかないでしょ。」

3人で大笑いした。

「僕が知る限り、悟だって恋の達人なんて言えるほど恋はしてないじゃないか。女の子みたいに運命の恋なんか信じちゃってさ。」

「言ったな、こいつ!」

翔が笑ったのは本当に久しぶりでうれしかった。

「なぁんだ、悟って恋の達人じゃなかったんだぁ・・・」

「うるせぇ、いつ俺が恋の達人なんて言った。俺はいつでもいい恋をしたいと思っているだけなんだよ。」

「映画のような・・・でしょ。ね、来週翔もおいでよ。」

「そうだよ。翔も来いよ。アニータのアパートで『Sleepless In Seattle』を観る約束をしてるんだ。」

「行く行く!」

僕たちは、その後店を変えて遅くまで飲み明かした。その時は、この日が3人にとって最高に幸せと言える最後の日になるなんて思ってもいなかったのだ。

 

18

アニータから今にも気が狂わんばかりの電話を受けた時、僕はちょうどスタジオで撮影中だった。

「翔が、翔が・・・!」

「落ち着け!アニータ!翔がどうした!」

「刺された・・・どうしよう・・・死んじゃうよ・・・」

「容態はどうなんだ!」

「わからない、おなかを刺されたって・・・それに顔をずいぶんやられてるって・・・」

アニータの震えが受話器を通して伝わってくる。

「お願い、早く来て・・・」

撮影を任せて病院に飛んでいった。夜も9時を過ぎていたから病院は静まり返っていた。その静けさのせいで、僕の足音と心臓の音が病院中に響き渡っている。すでに眠りについた患者たちを起こしてしまうのではないかと本気で思った。翔はまだICUに入っていた。アニータはベンチにへたり込んでいた。僕に気づいて力なく立ち上がった彼女を僕は抱いた。彼女の震えが止まらない。涙が止まらない。

「マルチェロが刺したの・・・」

小さな声だった。

「奴はどうした。」

「すぐ警察に連れて行かれたって。」

翔にふられた腹いせに刺したのだ。翔の少年のようにきれいな顔をめちゃめちゃにした。

「失明するかも知れないって・・・」

「なんてことを・・・ちくしょう!」

僕は怒りで震えた。そして、僕の涙も止まらなかった。

「どうしてぇ!」

アニータの泣き叫ぶ声が病院中にこだまする。看護婦がナースステーションから顔を出してこちらの様子をうかがっている。僕は、足下に崩れ落ちた彼女の体を支えてベンチに座らせた。

「アニータ・・・祈ろう・・・翔のために祈ろう・・・今僕たちにできることをしよう。絶対に助かる。それを信じよう。」

翔の事件を聞いた仲間たちがぞくぞくと集まってきた。僕たちの表情から最悪な状況を感じ取っているようだ。僕はみんなに向かって言った。

「翔は死なない。絶対に死なない。今、翔は必死で戦っています。向こうに行ってしまわないように翔のために祈ってください。お願いします。」

「おい、みんな輪になろう。」

誰かが言った。

「そうだ、輪になって手を繋ぐんだ。」

20人ばかりの人たちが輪になり両隣の人と次々に手を繋ぎ始めた。僕とアニータもその輪に加わった。僕たちは気持ちを一つにして目をつぶり・・・そして祈った。死ぬな、翔。

 

19

マルチェロは残忍だった。愛が憎しみに変わったのか、それともプライドがそうさせたのか、わからない。脇腹をひとつきに刺した後、倒れて苦しんでいる翔に馬乗りになり顔を傷つけた。左手で翔の長い髪をつかんで床に押し付け、右手に持ったナイフでいたぶった。それは、聞くに堪えない残忍な行為だった。翔は、命こそ取り留めたが両目を失明した。顔にも深い傷跡が残るだろう。とにかく生きているのだからそれを幸いと言うべきなのか・・・それは10年経ってみないとわからない。顔を包帯でぐるぐる巻きにされた翔に会えたのは、1週間後のことだった。東京から母親も駆けつけていた。アニータは、ずっと翔に付きっきりであまり寝ていないようだ。僕は、翔の手を握った。本当に女の子みたいに細くて柔らかくて優しい手だった。包帯で表情がわからない。息をするために鼻と口にわずかばかりの隙間が開いているだけだった。でも手から皮膚を通してくやしさが伝わってくる。

「翔、ごめんな。俺・・・責任を感じてる・・・」

無責任にも、マルチェロに近づかせたのは僕だった。それを、悔いていた。翔の手に一瞬力が入った。そして僕の手にもう片方の手を重ねた。

 

アニータが、僕を手招きした。翔の手をそっとどけた。

「翔、すぐに戻ってくるから・・・」

翔がうなずいた。

母親を残してアニータとカフェに行った。

「私、翔の面倒を見ようと思うの。」

「アニータ・・・気持ちはわかるけど、そんなに簡単なことじゃない・・・中途半端な気持ちでできることじゃない。これからの翔の人生をすべて背負うってことなんだよ。」

「わかってる・・・でも、決めたの。翔のママもわかってくれた。日本に連れて帰るって言ってたけど、翔の気持ちを優先するって。」

「翔には、話したのか?」

「今は、その時じゃない。とにかく、翔が本当に私を必要と思ってくれるまで言わないつもり。」

「そうか・・・アニータ、俺もうれしい。もちろん俺だってできるだけ翔の手足になるつもりだ。俺たちは3人で一人だ。いいな、それを忘れないでくれ。」

「ありがとう。・・・悟、これが私の運命だと思うの。これからのことすべて受け入れてがんばってみる。」

「忘れるな、君は一人じゃない。俺もそばにいるから。」

アニータの手を握りしめた。彼女は、目に溢れんばかりの涙を溜めている。それが耐えきれずに落ちた。涙を手で拭うと精一杯明るく言った。

「うん・・・じゃぁ、さっそく車を売ってミニバンに買い替えなきゃ・・・ポルシェじゃ狭すぎるもの。」

僕は、ありがとうと声に出さずに言った。アニータは、軽くうなずいた。その目はもう泣き虫の目ではなかった。いつの間にかアニータの恋は、愛に変わっていた。

 

20

秋が終わり、季節は冬へと移って行った。その頃の僕は、翔とアニータの支えになることを生き甲斐としていた。だから、かえっていい仕事ができていたと思う。僕の活躍を二人が喜んでくれたから。僕は、時間があるかぎり彼らと過ごした。翔に仕事上の意見を求めることもあった。アニータは会社を辞めて献身的に翔に尽くしていた。彼女は、金銭的なことを決して親に頼らなかった。食事も自分で作っているようだった。そんな彼女を見て僕は、彼女の覚悟が本気だと感じた。

 

翔の傷は、まだ痛々しく、そしてサングラスをいつもかけていた。

「悟、そろそろ映画を観ようよ。」

アニータと僕は、顔を見合わせた。

「『Sleepless In Seattle』を観るって約束だったじゃないか・・・僕は音だけで情景がわかるから気にしないで。」

「わかった、観よう。」

僕は急いでDVDを取りに戻った。ついでにすべてのDVDを持ってきた。もちろんポップコーンも。映画には必需品だ。いつものようにアニータが冷蔵庫からダイエットペプシを3本持ってきて、そして翔と僕の間に体をくっつけて座った

「わからないところは、俺が説明してやるから・・・」

「大丈夫、勝手に想像するから・・・主役は誰なんだっけ?」

「そうだな、簡単に登場人物だけ説明しておこうか。トム・ハンクスがサム、その息子がジョナ、彼らはシカゴから引っ越してシアトルに住んでいるんだ。そして遠くボルチモアにいるアニーがメグ・ライアン。」

「『You’ve Got Mail』と同じふたりだね。オーケイいいよ、はじめて。」

この映画は、小高い丘の上にある墓地でサムが息子のジョナに妻の死を説明しているところから始まる。というより自分に語りかけているのだ。サムは妻の死を現実として受け入れられないでいる。僕は、この映画を何度も見ている。目を閉じてみた。翔が音だけで何を感じるのか自分も理解したかったからだ。今どこにいるのか、誰と話しているのか、たぶん翔にはわからないだろう。でも言葉には気持ちがある。感情は伝わってくるのだ。物語が進むに連れて翔なりの設定がされて、僕たちとは少しだけ違う物語を空想して楽しんでいるようだった。それでも時々今誰が言ったの?とか、どんな表情をしたの?とか聞いてきた。

いよいよ物語も佳境に入ってきた。最初にアニータの目から涙がこぼれた。今回の涙は今までと違って清々しい涙だ。翔のサングラスからも涙がこぼれ落ちる。それをそっとアニータが拭き取ってやった。

「悟も逢えるといいね。」

翔が言った。

「ああ・・・」

電動カーテンが開いてゆく。このカーテンが開くたびにドラマチックな物語が始まりそうで怖かった。外は、雪が舞い始めていた。今年はニューヨークでホワイトクリスマスだ。

 

21

僕は相変わらず忙しく、クリスマスどころではなかった。それでも、僕の作品が街を埋め尽くしてゆくのは快感だった。

ニューヨークの街はイルミネーションできらきらと輝いていた。買い物客で、そして観光客でごった返していた。なんとなく映画『セレンディピティ』を思い出していた。セレンディピティは幸せの偶然とでも訳すのだろうか?運命とは少し違う。運命だとディスティニーだろうし、それでは重すぎると思ったのか?この辺のニュアンスは僕の英語力ではまだ、理解できない。そう言えば、クリスマスの買い物客でにぎわうデパート、ブルーミングディールズでジョナサンとサラが最初の運命とも言える出会いをするのだ。僕たちが出会ったのは東京のリサイクルショップだった。僕は、二人の二度目の出会いをすることになるセントラルパークのスケートリンクに行ってみたくなった。アニータと翔が待っていると思ったが、どうしても行きたかった。クリスマスだというのに大勢の人たちがスケートを楽しんでいた。僕はしばらくそれを見た後、二人が腰掛けていたベンチを探して座った。サラがころんでジョナサンが手当のためにサラの腕をまくると腕のソバカスがwの形をしていた。『これはソバカスじゃない、カシオペアだ』と言ってカシオペアにまつわる話を聞かせる。ふと。そんなジョナサンとサラの会話を思い出した僕は、空を見上げた。そこには、確かに星座カシオペアがあった。

二人が再び出会う時の運命のサインの一つだ。僕たちにはそれがいくつあるのか、もう記憶も薄れてきていた。

 

「遅かったね。」

「ごめん、まだ仕事が終わってなくってさ。」

「今日はもうクリスマスイブなのよ・・・日本人て本当に仕事が好きよね。」

あきれかえったようにアニータが言った。

「これ、クリスマスプレゼント.メリークリスマス。」

「素敵! 翔、お揃いの手袋。すごく、かわいいよ。・・・悟、ありがとう。」

翔が笑っているかは口元と頬の動きでわかる。

「これは、僕たちからのプレゼント。」

翔が言った。

「なんだろう?」

結構重かった。

「早く開けてみて。」

アニータがいたずらっぽくせかした。

包み紙をビリビリに破ると1冊の本が出てきた。

「うそ!どこで見つけたの?」

僕は興奮していた。これまでどれだけ探しても見つからなかったアンディ・ウォホールのイラスト集だった。

「この間ね、チェルシーの古本屋で見つけたの。」

「すごい!すごいよ、ありがとうアニータ。ありがとう翔。」

僕たちは、その後遅くまでクリスマスの宴に酔いしれた。でも12時を過ぎたころ、そろそろふたりきりにしてやりたかったので自分のアパートに戻ることにした。

 

僕は、ベッドにあぐらをかいて座って本をぱらぱらとめくった。結構大切に扱われていた。それでもこの本を手放す理由が僕には理解できなかった。そして最後のページをめくったそのときだった。裏表紙に万年筆で書かれた文字を見つけた。漢字で“梢”そしてその下に、一緒に電話番号も記されていた。本を見つけた彼女が連絡先を書いた後、改めて売ったに違いない。興奮状態に陥った僕はほとんど冷静さを失っていた。急いで電話した。呼び出し音が鳴っている。なかなか出ない。心の中で“早く、早く”と叫んでいた。今日はクリスマスだ、出かけているのかもしれない。

「ハロー?」

男性の声だった。

「あの、梢さんと話したいんですが?」

「梢?・・・そんな奴はいないよ。あんた誰?」

電話番号をお互いに確認した。間違ってはいない。

「ありがとう・・・失礼しました。」

そう言って、受話器を下ろした。ものすごい脱力感だった。しばらく書かれた文字を見ていたが、もう一度かけてもあの男性が出るのは明らかだった。梢が自分の電話番号を書き間違えるなんてことあり得るのだろうか。でも、僕に連絡を取ろうとしたことだけは間違いない。

 

22

僕は、今年の正月は日本に帰らないことにしていた。できるだけニューヨークの四季を肌で感じていたかったからだ。それに、休み明けにラスベガスでのロケが控えていた。その準備もあったので、翔たちと新年を迎えた。

僕たちは新年早々映画三昧だった。翔も映画に慣れてきていた。アニータもさりげなくフォローしてやっていた。僕は『セレンディピティ』が見たかった。この映画と、梢と僕との共通点はたくさんあった。ジョナサンも彼女の名前と電話番号の書かれた本を見つける。でも、彼がその本を見つけたのは出会ってから7年後のことだったから、すでにその電話番号は他人が使っていた。それでも彼らは逢うことが出来る。ジョナサンの電話番号が書き記された5ドル紙幣がサラの手に戻るからだ。所詮、それは映画の話。そうなると運命を通り越して奇跡に近い。いまさらこんなことを認めたくはないが、脚本家の都合のいいマジックによって彼らは感動的な再会を果たすことができる。そんな運命のサインなんて現実には存在しないのだ。実際、僕たちは運命に導かれる唯一のサインをすでに断ち切られてしまっていた。

 

ラスベガスでは、ベラッジオに泊まる予定だった。空港から相乗りのシャトルバンに乗った。往復で8ドル、ホテルが立ち並ぶストリップまでは本当に近い。シャトルは途中いくつかのホテルで客を降ろしながらまわるが、ベラッジオに到着したのは意外に早かった。フロントでチェックインの手続きをした。手書きで2435と部屋番号が書かれた紙でできた二つ折りのカードケースを受け取った。中にプラスティックのカードキーが挟まれている。少し早く着いたので、まだ部屋のクリーニングが終わっていないという。僕は荷物を預けて少しスロットで遊んでみようと思った。初めてであまり勇気がなかったので5セントのマシンで遊んだ。20ドル紙幣を右上の挿入口に入れるとデジタル表示で枚数が記されてゆく。つまり400枚だ。ドラムが横に5列並んでいる。縦には3列。いくつもの可能性にチャレンジするためは5セントと言いながら1回に35枚をベットしなければならない。しかし、なぜかどんどん増えてゆく。どういう組み合わせになると当たったことになるのか最初はわからなかった。しかも、枚数がデジタルで表示されるだけなのでお金という実感がわかなかった。でも、しばらく遊んでいるとなんとなく仕組みがわかってくるものだ。5列のドラムにパーティと書かれたマークが3つ並ぶと音楽とともに画面上に30個のリボンに結ばれた箱が並ぶ。それを一つずつ指でタッチしてゆく。すると300とか75とか書かれた数字が出てくる。これがなんと当たった枚数なのだ。30個の箱のうち6個にはずれが入っている。つまり、はずれを引かない限り箱を開けることが出来る。確率80%だ。結局、1時間で4000枚になった。そろそろ、クリーニングも終わった頃だったので、係を呼んで精算してもらった。200ドル・・・5セント4000枚がたったの200ドル・・・感覚的にうまく結びつかなかった。思ったより少なくてがっかりしたが、もとは20ドルだから、時間つぶしとしてはいい稼ぎになった。

部屋は2435だ。エレベーターホールではガードマンがいちいちキーをチェックする。24階にエレベーターで登った。そしてカードキーを差し込んだ。ランプがグリーンに変わらない。何度かやってみたがドアが開かない。僕は、フロントに戻ってクレームをつけた。

「おかしいですね。このキーに異常はないのですが・・・」

そう言うとベルボーイを無言で手招きした。僕は彼の後に着いて行った。彼はエレベータに乗り込むと26階を押した。

「24階だろ?」

「いえ、お客様のお部屋は26階でございます。」

僕は、部屋番号の書かれたカードケースを改めて見た。そこで、はじめて自分のミスに気がついた。アメリカ人の書く数字の6は4に見えるのだ。はずかしくなった僕は、ベルボーイにチップを渡して帰ってもらった。部屋に入った僕はテーブルにカードキーと部屋番号の書かれたケースを投げた。今度は間違えないようにと頭に数字を叩き込んだ。2635・・・2635・・・待てよ?僕は、さらにとんでもない間違いに気がついた。梢の電話番号は、どうだっただろうか?

確か数字の4が入っていたような気がする。いや彼女は日本人だから、たぶんそんなややこしい数字は書かないはずだ。僕は、確かめたくて、アニータに電話を入れた。そして、電話を確認するように頼んだ。30分経って電話が鳴った。やっぱり間違えていた。8427だと思っていた番号は8627だったのだ。僕は、焦る気持ちを抑えて電話をかけた。

「ハロー?」

女性だ。でも、日本人じゃない。

「あの、梢さんとお話がしたいのですが・・・」

「梢は、今日本です。来週まで帰ってこないんです」

「そうなんですか・・・僕は、悟と言います。僕も今仕事でラスベガスに来ていて1週間はニューヨークに戻れません。再来週の土曜日の夜8時にセントラルパークのスケートリンクで待っていると伝えてくれますか?」

「もちろん」

「それとセレンディピティと伝えてください。そう言えば彼女はわかります。」

セレンディピティ・・・それは、幸せの偶然。

僕はあえて自分の連絡先を伝えなかった。もう必要ないと思ったからだ。

 

23

僕は2時間も前からこうしてベンチに座っている。ヤンキースのウインドブレイカーだけではさすがに寒い。僕はベンチから腰を上げるとリンクの真ん中まで歩いて行った。朝からの雪はもうすっかりあがり、空には満天の星が輝いている。神々を怒らせたエチオピアの女王カシオペアが、海神ポセイドンによって玉座ごと逆さまにされて永遠に天空の彼方につるされてしまった。そんな映画の中でのジョナサンとサラの会話を思い出しながら僕はカシオペアを探した。でも澄みきった冬空に自分の吐く息が白く幕を張り邪魔をする。息を吸っている間に急いで探す。それを何度か繰り返してやっと見つけた。

「やっと、逢えたね。」

目の前に息を切らした梢が立っていた。走ってきたのか、上気した梢の体から白く湯気がたっている。まっすぐ僕を見つめる輝いた梢の瞳は、東京で出会った時とまったく変わらない。僕は、彼女をゆっくりと引き寄せると抱きしめた。頬がひんやりと冷たかった。僕は、梢の温もりが服を通して自分の肌に伝わってくるまで、何も言わずに抱きしめていた。

「僕たち、やっぱり逢えたね。」

体を放すと僕は言った。

「うん・・・」

僕たちの恋は今から始まる。でも、もうずいぶんも前から愛し合っていた気がする。長い間離れていた時間を、梢に対する気持ちが埋めていた。

「君にプレゼントがあるんだ。」

用意していた空色の紙袋を渡した。

「ティファニー・・・開けていい?」

「気に入ってくれるといいんだけど・・・」

空色の小さな箱にかけられたリボンを外すと言った。

「・・・素敵。」

そして彼女は例の指輪をはずそうとした。

「はずさないで。」

僕は、彼女の手をとって指輪を元の位置にもどした。

「これは、僕にとっても大事な指輪なんだ。君と僕を結びつけてくれた・・・そうだろう?だからはずさないで・・・」

僕は、彼女の同じ左手の薬指に重ねてもう一つの指輪を押し込んだ。

彼女の指輪にはプラチナに三つのサファイアが埋め込まれている。僕が贈った指輪には、同じプラチナに小さなダイアモンドが二つ埋め込まれている。

そしてそれが重なったとき、彼女は思わずつぶやいた。

「・・・カシオペア・・・」

「ふたつで一つ・・・」指を広げてしばらく指輪を見ていた彼女の目からひと粒の涙がこぼれた。

「ありがとう・・・彼があなたを選んでくれたのね。」

僕は、もう一度彼女を引き寄せた。

とても長くて、柔らかいキスだった。

 

僕たちは、アニータと翔の待つアパートに向かって歩いていた。

「ね、『オータムインニューヨーク』って観た?」

「もちろん。もう何回も観た。でもね、私は最後まで観ないの。彼女が死んでゆくの、わかっているし・・・それに、おじいちゃんになったリチャード・ギアなんて見たくないもん。」

思わず、笑ってしまった。

「何がおかしいの?」

「別に・・・」

「ねぇ言ってよ。」

「僕と同じ意見だったからうれしかったんだ。あのシーンをどう思うか、君に聞きたいってずっと思っていたから・・・あーすっきりした。」

「へんなの。」

そう言って梢が笑った。

どんな理由だろうと笑えばいい。僕なんかさっきからずっと顔がニヤついている。

映画『卒業』で花嫁を奪い取ったダスティン・ホフマンがバスの後部座席でニヤついていた。きっと、今の僕と同じ気持ちだったに違いない。