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「放浪記」を創る女(ひと)林芙美子

だぶんやぶんこ


約 27655

芙美子は「花の命は短くて苦しきことのみ多かりき」と好んで歌う。

だが、人生の大半を経済的にも、作家としても、恵まれ苦しくはない。(常識的にだが)

 

この言葉は、自分をイメージさせたい、芙美子の心を現すフレーズでしかない。

現実の芙美子は、悲しみ叫び絶望しても来るなら来いと必ず乗り越えた。

人生にあきらめはない、才能ある私は必ず花が咲くと揺るぐことのなく思い、前向きなたくましい女(ひと)だった。

 

命を削って書いた晩年の作は、負け戦に翻弄され傷ついた人々を冷たく描く。

これが現実だよ。よく見ておきなさいというように。

生身の人間はどのような現実が迫り来ても、したたかに明るく楽しく生き抜くことを知っていたゆえだ。

 

「いつどこで死と巡り合っても、それでいいじゃない」と悟る稀有な天才だった。

 

目次

一 芙美子の生まれた時

二 芙美子の放浪の始まり

三 芙美子尾道へ

四 芙美子の初恋

五 芙美子東京へ

六 芙美子と大震災、そして尾道に

七 芙美子再びの東京

八 芙美子、放浪の終り

一 芙美子の生まれた時

芙美子は、一九〇三年(明治三六年)生まれた。

母、林キクは三六歳、父、宮田麻太郎は二二歳だった。

父と父より一四歳も年上の母との間に生まれた。

生まれたまんまの芙美子を、母はほっとし、父は物珍しそうに、のぞき込む。

父には初めての子で面白そうに見続けた。

 

二人は、キクの兄、久吉の営む古里温泉宿(鹿児島市)で知り合い、恋に落ちた。

古里温泉は、桜島を背にし南側、鹿児島湾に面し薩摩半島と大隅半島に挟まれた、のどかで雄大な景色の中にあった。疲労回復に効果のある温泉だ。いつも、湯治客でにぎわっていた。

大海に繋がる眺めのいい露天風呂のある小さな温泉宿だが、心まで温かくなり仮初めの恋が、よく生まれる。

 

父は愛媛県桑村郡(くわむらぐん)吉岡村(周桑郡次いで東予市から西条市)の雑貨商、扇屋の長男で、伊予紙や呉服などを扱う行商をしていた。

古里温泉に泊まり周辺に行商に出た。

 

キクの実家は鹿児島市内で漢方薬を扱う薬種商だった。

一通りの教育と教養を身に着けキクは年頃になると親の決めた結婚をした。

だが、飽き足らず、すぐに別れた。

 

ひとり身になると「雄大で素朴な美しさと熱い怒りを秘めた桜島が大好き」と兄の温泉宿に押しかけ、ルンルンで働き始めた。

実家が火事になり古里温泉に避難した時、林一家は家を買い住んだ。キクも一緒だ。

キクにはとても楽しい思い出だった。

その後、市内の家を建て替え家族は戻るが、兄が古里温泉の家を引き継いだ。そして広げ温泉宿にしたのだ。

キクが笑顔を振りまき、客をもてなし人気者となる。すると温泉宿は繁盛していく。

 

その宿で、キクは多くの恋をする。

人目を惹く凛とした美しさがあり、涼しげな目元、引き締まった唇は、知的で、もてた。

自炊もできる安さが売りの温泉宿なのに、キクは必ず身支度を整えて仕事を始め隙のない身のこなしをした。

育ちがよく、一流の宿の女将が似合いの風情だった。

 

「熱い恋をして都会に出たい。おもいきり大きく生きる」との思いを忘れられず、最初の結婚に失敗した。

そして幼い頃から好きだった古里温泉に賭けたのだった。

「うちの露天風呂に入ると心まで熱くなり恋が生まれる」と劇的な出会いを信じた。

 

二か月三か月泊まる商用の客も多く、顔なじみになり幾つかの恋をした。

キクは、熱く強い男と一緒に故郷を離れるはずだった。

ところがキクを都会に連れ出す人とは巡り合えず、恋した人は鹿児島を離れる気がないか、キクを残し去った。

結果はむごく、三人の子を身ごもり生まれただけだった。

実家に戻り密かに生むと、何事もなかったかのように古里温泉に戻った。

二人は父親が引き取り一人は実家の籍に入れ預けた。

両親は何とか落ち着かせたいと、また結婚させたが、また別れる。怒り嘆いたが、ついにはあきらめた。

キクが、望まない子を産んでも、引き取る父親、守る実家があった。

 

キクは温泉宿で働くことが好きだった。くじけることなく、劇的な出会いを信じた。

それでも、月日が経ち、キクの若さが色あせ苛立ちを感じ始める。その頃、父、宮田に出会った。

宮田は忙しく行商に出ては戻り、キクに声をかけた。

「下関は戦争景気でにぎわっている。次に行くつもりだ」と。キクに商売の面白さを話した。

キクを好きになったのだ。

キクの目が輝く話をして喜ばせ、長く逗留する。

キクも「この人しかいない」と胸打つところがあり思い切りぶつかった。そして芙美子を身ごもる。

宮田は、妊娠を聞くと「ここを出て下関で一緒に商売しよう」と言い、また母を喜ばせた。

 

キクには、待ちわびた展開だが、宮田はあまりにも若かった。

実家に残す子も不安になってくる。

心残りは尽きないが、商売がうまいと見込んだ宮田に愛され共に故郷を離れるのは、信じられないほどの幸せだ。

キクは接客や行商の仕事が好きだった。宮田の力になる自信がある。

すべてを捨てて悔いはない。

三五歳にしてやっとつかんだ幸せだと、二人で手に手を取って港、下関を目指して行商を続ける。

 

だが、その途中の五月、門司で、思いのほか早く芙美子が生まれてしまう。

それから、父は門司と下関を往復しながら下関で店を開くために、知恵を絞る。

 

父、宮田の実家は母との結婚に反対していた。

母は父、宮田の実家が結婚を許さないと知ると法律上の結婚をあきらめる。

実家もいやがり、やむなく、分家した林家の戸主である兄、久吉の籍に芙美子を入れることにする。

母を愛する若き父、宮田は結婚にこだわらなかった。

ただ、下関で商売を始めることに夢中だった。結婚はいつだってできることだ。

芙美子を可愛がり「儲けるぞ。不自由させないから安心しろ」と抱き上げる。

 

父、宮田は豊前田(ぶぜんだ)(下関市)の質屋の質流れ品の競り売り(せりうり)の手伝いをしながらめきめき腕の良さを見せつけていく。そして、質流れ品の販売を任される。

朝鮮半島や中国大陸との交易の玄関口であり、日清日露戦争の出撃基地となりごったかえす下関で、質物を扱う店「軍人屋」を開店することができた。

喜んで、母と芙美子を下関に呼び、一家を構えた。

実家から持ってくる品物と質物を売るのだ。

 

下関に落ち着くと半年遅れで芙美子の出生を届け出る。母は、つらく情けなかった。

半年間、頼み続けたが、宮田の実家は受け付けず、父、宮田も動かなかったのだ。

母は、芙美子に申し訳なく、生涯、出生の経緯を詳しく話すことはなかった。

 

「軍人屋」は好調だった。

品不足の下関では何でも売れたのだ。商売は瞬く間に大繁盛だ。

父と母では追い付かず、実家から商品をもって行き来する弟や友人が店を手伝い、若松・長崎・熊本に支店を出す。

母は、帳簿を付け、儲かりお金が残っていくのを実感する。

よちよち歩く芙美子を見つめ「夢が実現したんだ」と喜びの涙を流す。

 

だが、日露戦争は思ったより早く終わり、戦争景気が去る。

父は、すぐさま下関に見切りを付け、石炭景気でにぎわう若松市に本店を移した。

父の見通しは正しかった。商売は繁盛しますます店は大きくなる。

芙美子は、何の不自由もない豊かな暮らしの中で伸び伸び育つ。

 

ところが、父は余裕が出ると芸者遊びを始め、あげくは芸者ハマを家に連れて来るようになる。

ついには家に入れた。

母は、父と共に古里温泉を離れて以来、一途に父を愛し、父と共に店を大きくしている。

妻として店を切り盛りしてきた自信があり、一四歳も年下の父の遊びにこだわる人ではなかった。

だが、遊びは容認したが家に入れ共に暮らすことは侮辱であり、恥をかかされて我慢する人ではなかった。

父母との家庭的な幸せは、芙美子六歳で終わった。

 

二 芙美子の放浪の始まり

母は父と別れると決意する。目の前に、沢井喜三郎がいた。

沢井は父の行商仲間で父に呼ばれ手伝い、頭角を現し番頭となった。以来、母と一緒に仕事をすることが増えた。

母は、沢井のきびきびした動き、働き振りを気に入っていた。

沢井も面倒見が良く店を清潔に保ち手際よく働く母を慕った。

 

父のあまりにひどい仕打ちを嘆く母に同情した沢井は「一緒に商売しよう」と言い出した。

沢井の真剣な顔を見つめ、母は待っていたように晴れ晴れとした笑顔でうなづいた。

味方を得た母は、目の前で繰り広げられる父の裏切りに決別を宣言し、一九一〇年二月、家を出る。

母は父の恋に対抗し、一九歳も年下の沢井と燃える恋をしたのだ。

誇らしげに沢井と手に手を取って芙美子を連れ、家を出た。

芙美子の放浪の時が始まった。

 

沢井は岡山県児島の出身だった。

児島から海を隔てて前にある四国高松で商売をするつもりだが、まず、暮らしを立てるため土地勘があり仕入れもできる「軍人屋」の長崎支店の近郊で行商を始める。

 

四月になり、母は芙美子を長崎市勝山尋常小学校に入学させた。

芙美子は木賃宿から学校に通うことになる。

お嬢様として欲しい物は何でもあった暮らしから、身の回り品だけしかない暮らしとなっていた。

級友はいろいろ学用品を持っていた。ところが芙美子は、学用品がほとんどなく、恥ずかしく耐えられない。

母には言えず、黙って、登校を拒否した。

 

母は一人っ子の女の子であり、学校になじめないのだと佐世保に移って行商を始め、女の子だけの佐世保市八幡女児尋常小学校に転校させる。

だが、芙美子は「木賃宿から学校に行く子はいないし、行ってもいじめられる」とまた、登校を拒否した。

今度は、母に当たり散らし怒りをぶつけた。

ようやく、母も理解し「落ち着き場所を探さなくては」と沢井と話す。

 

父、宮田は、伊予木綿(白木綿)の産地、東予地方(四国中央市など含む)に生まれた。

その為、扇屋は伊予木綿の扱いが多く、一番人気だった。

一時期、この地は木綿栽培に従事する家ばかりで綿打ちの音が高らかに響いた。そして全国に出荷した。

全国で求められるほどの良質の木綿であり、伊予木綿の名は知れ渡った。

廉価な輸入品が入り大量生産できる紡績工業が伸びると伊予木綿はすたれていくが。

伊予木綿で織られる伊予絣(いよかすり)も一世風靡した。

人々の洋風化と共にすたれていくが。

父は木綿の扱いが得意だった。

 

また、この地は、書にふさわしいにじみの少ない和紙、伊予紙の生産地だ。高い人気で、よく扱った。

 

近くの砥部(とべ)町は良質の陶石と燃料の松の木に恵まれて、砥部(とべ)焼茶碗や和食器が作られ一大産業となっていた。

そこで、陶磁器の販売もし、陶磁器への目も肥えた。

庶民的な商品で明治大正時代に一気に伸びたが、他地域の生産が増え競争が激しくなると勢いはなくなるが。

 

いろんな商品の中で育った父、宮田は、見る目を磨いた。時勢を見ながら臨機応変に扱う品々を変え、商売する素養を身に着けたのだ。

母と沢井も父の商売の方法をよく見ていた。

 

そこで、母と沢井は木綿の日常着が、扱いなれており売れると的を絞った。関後地村(せきうしろじむら)(赤間関市(あかまがせきし)から下関市)

一九一一年一月、本店を移し父、宮田がいなくなった下関市で「軍人屋」の経験を活かし古着商を開く。

ここでようやく、そこそこの売り上げを得て普通の生活が送れるようになる。

母は芙美子に「約束を果たしたよ」と下関市名池尋常小学校へ転校させた。

芙美子の学用品も揃えた。

 

芙美子の第一期放浪の時は一年で終わった。

 

やむなく芙美子はおとなしく学校に行く。だが、一年近く学校に行かなかった差は大きく授業がわからない。

負けず嫌いの芙美子は、頭を下げるのは嫌いで正直には言えず勉強しなかった。

級友に馬鹿にされるのは耐えられず、反対に級友を無視して勉強嫌いのふりをした。

 

読み書きだけは興味があった。母や沢井の手伝いをしながら時々本を見つけて眺めていた。読みたかった。

最初は先生の教えが分からなかったが、覚えこみ何とか読めるようになる。

すると楽しくなり、読み書きだけは頑張った。

記憶力はよく、勉強はしないが座っているだけで他の教科も普通並みになる。

 

そのうち、父の店が近くにあると知る。

この頃、父は九州一の貿易港として栄えた門司に戻り、本店も移し住んでいた。

海を挟んで下関の目の前に門司があり、船に乗り海を渡ると、芙美子でも簡単に行けるのだ。

遊びに行きたいと母にせがみ、船に乗る。

まだ九歳の芙美子だ。最初は門司港まで迎えを頼む。父と母は連絡を取り合っていた。

次からは一人で行く。一人前の大人になった気分で、嬉しくて胸を張って父に会う。

裕福な父は笑顔で芙美子を迎え欲しい物を買ってくれ、小遣いを渡した。

父のやさしさに触れ、さわやかな潮風は良いことを運んでくると、海が大好きになる。

 

一九一四年、芙美子一一歳、四年生の終り頃だった。

人の好い沢井は、掛け売りを増やしてしまい回収できなくなり、商売が行き詰った。三年続いた店が倒産し、母と沢井と芙美子は夜逃げする。そして、行商暮らしに戻る。

 

ここで母は悩む。

行商暮らしでは芙美子が学校に行かないことが目に見えていた。

父、宮田に預けてもいいが、意地でも、芙美子を渡したくなかった。

残るは、鹿児島の実家しかなかった。母が学んだ地であり教育環境はよかった。、

頭を下げたくなかったが、父よりまだましだと祖母に「必ず学校に行かせて欲しい」と頼み芙美子を預ける。

 

祖母は、会ったこともなかった孫娘をポンと渡され、ただ、驚いた。母は、すぐに沢井の元に戻ってしまった。

何の説明もしない母への怒りがこみ上げた。

そのこともあり芙美子を見て憎々しげに「親の言うことを何一つ守らなかったキクに生き写しだ」と嫌味を言う。

娘、キクのことをずっと心配し続けていた。それなのに今まで以上に心配させる顔で戻り、いらだったのだ。

 

祖母は山下尋常小学校への転入手続きをしてくれた。芙美子は五年生になる。

だが、芙美子は嫌われていると感じると、すぐに、自分の方から嫌う性格だ。

しかも、小学校の授業が面白くないことを知っていた。

祖母がなにを言おうとも無視し、学校には行かなかった。

母からの仕送りも途絶えがちで、あきらめた祖母も強くは言わなかった。

 

芙美子には、好き勝手な行動でわがままだと思う時もあるが、いつも気に掛けてくれる大切な母だった。

母を嫌う家は、芙美子が嫌う家だ。

 

仕送りが途絶えると、祖母は芙美子に「食い扶持ぐらいは働きなさい」と家事手伝いをするように命じた。

芙美子も世話にはなりたくなかった。働けることは働こうと思う。

女中代わりに使われ反発もしたが、芙美子は家事が嫌いではなかった。

特に、海の幸に恵まれた鹿児島での料理の手伝いは、楽しくて仕方がなかった。

 

母は芙美子の物覚えの良さを知っており勉強させたかった。

だが、芙美子が学校に行かずに家事手伝いをさせられていると知り激怒した。

母は飛んできて、祖母に「信頼していたのに情けない、もう二度と芙美子は預けない」ときっぱり言った。

芙美子は喜んで「母と居たい」としがみつき引き取られる。

春から夏へと短く熱い鹿児島の暮らしは終わる。

飛び跳ねるようににこにこと、母と沢井の行商についていく暮らしとなる。

 

二度目の放浪の時が始まった。

 

芙美子は澄まして母に「もう学校は卒業した。学校には行かない」と話す。

「好きな本を読む力はつけたし、行商もできるし計算は(母より)速い。もう十分だよ」と母を説得した。

きらきらと澄んだ目で真剣によどみなく話す芙美子を見つめ「母の気も知らないでよく言うよ」とため息をつく。

母に心配をかけまいと一生懸命話していることがよくわかり、胸にこみ上げるものがあった。

「まずは稼がないといけない」と決意し、芙美子を見てうなづいた。

 

芙美子は九州の炭鉱街で母と沢井を手伝う。次第に、行商の仕組みが分かってきて、要領をつかみうまくなる。

そんな時、木賃宿に置き忘れられた少女雑誌を見つける。

汚いぼろぼろの本だけど読みながら涙し感動は忘れられない。

母に「もっともっと本を読みたい」とせがんだ。

母は貸本屋を見つけ、借りてもいいと言う。

それから貸本屋を見つけては手当たり次第に借りすべて読む、木賃宿の楽しみを見つけた。

その様子を見て母は芙美子の為に「留守番をしていなさい」と時間を作るようにする。

両親が行商している留守に芙美子は木賃宿で本を読みふけり、最高の時を過ごす。

 

本を読みながら想像の世界に浸ることに夢中になる。

現実の孤独な生活が別世界に移って、芙美子のあこがれる自由で華やかな世界が生まれるのだ。

芙美子が主人公で何でも出来るのだった。悲劇の主人公になる時もよくある。

 

近くでの行商には、手伝うことも多い。

記憶力は抜群で、覚えたことはすぐに話したくなる性格だ。

愛くるしく輝く目で芙美子は想像の世界を一人で語る。すると、通る人がつい立ち止まり「なにしているの」と声をかける。

そうなると、何度も頭に描いた芙美子の世界を話し通行人を引き込む。芙美子の話術はこの頃から巧みになる。

通行人は芙美子の生い立ちから苦しい暮らしの話に引き込まれ、喜んで品物を買っていく。

 

こんな暮らしを続けて、芙美子は肉体的にも大人に近づく。

 

三 芙美子尾道へ

一九一五年、芙美子が一二歳になる年だ。

芙美子は的を得た話しぶりで客を集め、行商で稼げるようになった。その姿を母は嫌った。

沢井も目を見張る女らしいしぐさを見てはっとする。

二人は「浮き草暮らしでは芙美子がだめになる。落ち着く先を探そう」と決める。

 

母は「生まれてこのかた苦労の連続でひどい暮らしばかり。情けない。もう嫌だ」と大げさに嘆くときもあった。だが、苦労を苦労とも思わない楽天家だった。

父のことを「この人こそ待ち続けた人だとすぐわかった」と話していた。

なのに、けんかして飛び出し根無し草の渡り歩く日々を選んだ。それでも悔しそうでもなく見る目がなかったと嘆くわけでもない。

 

芙美子は、母には生きるための美学があり、その心意気が父や沢田の心をつかんだと知っている。

筋を通す生き方を曲げず生活臭さを嫌った。

木賃宿の暮らしでも、芙美子の起きる前に身支度し化粧をして、背筋を伸ばしてにこにこ働く姿は変わらない。

 

ただ、沢井との暮らしが続くと、父と大喧嘩し喚き散らした激情家の一面は影を潜め、行商もうまく儲けるときは儲けるが大儲けを狙い結局損をする沢井をやさしく見守るようになった。

沢井も母のやさしさに甘えながら、楽しくやっていた。

 

そんな時、沢井は同郷で、尾道(広島県)で店を開いている大林亀助に出会い、呼ばれる。

一緒に行商しようというのだ。

尾道は本州の東西(近畿と中国地方)南北(山陰と山陽)そして四国を繋ぐ交通の要所にある港町だ。

しかも尾道は造船ブームが起きており空前の活況だった。街には勢いがあった。

第一次世界大戦が勃発しヨーロッパ製の商品が減少すると日本が成り代わり輸出するようになる。その中心品目に造船があった。尾道の造船所にアジア・アフリカから、大型船の建造などの注文が相次いだのだ。

日本初の近代的造船所が因島に作られて以来、磨き抜かれた造船技術が花開き、尾道は造船の町となった。

 

母は「鹿児島桜島の美しい景色そして穏やかな海が同じだ」と気に入り、沢井もより故郷に近いと納得し、港町、尾道に落ち着くことに決める。

母キクは、五〇歳が近づいて後はない、芙美子のためにも最後の頑張りをしなければならないと覚悟していた。

これでだめなら情けないが、芙美子を父、宮田に渡すつもりだ。

 

芙美子の第二期放浪生活は、一年半年弱で終わる。

 

まず一間の木賃宿に入り、宮地質店から質物の呉服を仕入れ仲間と共に行商すると決めた。

すると、宮地質店主が親戚の宮地醤油店を紹介した。こうして、醤油店の二階の二畳と六畳、二間ある貸間に移る。

芙美子の部屋は二畳だ。

行商の荷を積み上げ、その隙間だけだが、芙美子は「自分の部屋ができた」と嬉しくて泣いた。

沢井は、倉敷から故郷、児島そして高松・徳島まで行商に出かけ帰らない日もあった。母は、近くで行商した。

 

母は、すぐに芙美子を尾道市第二尋常小学校に入れた。

当時は、義務教育といってもすべての子供が学校に行くという意識はなく、家の都合で学校に行かない子は多くいた。

だが、母は違った。芙美子に教育をつけさせるとこだわり、学校に行かせる。普通なら卒業の年だった。

進路の相談もかねて、学校に出向いた母は、芙美子の学力は劣っていると冷たく言われ、がっくりする。

だが、事実だった。学校にほとんど行かなかった芙美子は、二年遅れの五年生に編入された。

 

母は「芙美子がまた登校拒否になったらどうしよう」とドキドキしていた。これ以上遅れたら取り戻せなくなると。

「小学校を卒業しないと次の進路はないのよ。我慢して学校に行きなさい」とくどくど説教しながら、嫌がる芙美子を学校に連れて行く。授業の前に、これからの学校生活に関して話したいと言われ出向いたのだ。

 

母と芙美子は、担任の女教師、寺原に会う。

芙美子はしかたなしに先生の前の席に着く。そこで机の上にあった本に目がいく。

読みたかった少女小説があったのだ。嬉しくてじっと見つめた。

先生は、芙美子の目が輝いたのを見逃さなかった。

次の日、授業が始まる前に先生は芙美子が見た本を手渡した。夢中になって読む芙美子を咎めなかった。

 

母は一日中落ち着かず、芙美子が戻ってくるのではないかと気になって仕方がなかった。

だが、芙美子は元気よく帰ってきた。

それからの芙美子は本読みたさに、気取って学校に通うようになる。

母は気が抜けたように「尾道に来てよかった」と涙を浮かべた。

先生は次々本を渡してくれた。

芙美子は、すぐに、読んでしまい、芙美子から本をねだるようになる。先生は、機嫌よく次々、本を渡した。

 

授業は年下の子と一緒だ。

最初は嫌だったが皆あまりに幼く、競争相手とはならず、気にならなくなる。

寺原先生が気づかい、芙美子の不得手な学科を、恥をかかさないようにわかりやすく教えてくれた。

そのうち、話題が豊富で先生以上の話術がある芙美子の元に同級生が集まってくる。

芙美子は今までの旅のいろいろを話し同級生を魅了する。皆拍手喝采で応え、もっともっととねだる。

芙美子は学校に行くのが面白くなった。

 

瞬く間に先生の持っている本を読みつくす。

すると、寺島先生は芙美子の絵や作文を褒め、旅の絵や本の感想文を書くように言う。

そして「芙美子さんはすごいよ。先生こんなに早く読む子を見たことないよ」と褒め、読める本を見つけては渡す。

この頃から、芙美子は文を書き始め、先生に褒められると嬉しくてまた書きを、続けていく。

級友から一目置かれ表現する楽しさを知り、ルンルンで中学生のはずの芙美子は小学生生活を送った。

 

そして六年生になる。

この頃、母は沢井と一緒に遠方へ行商に行くことが増えた。

何日も芙美子一人で暮らすことになる。それでも、全然寂しくはない。

近所に友達もいれば知り合いも多くなり、毎日が忙しかった。

 

六年生になると寺島先生はいなくなった。寂しくて不安で、ドキドキしながら見つめた新しい担任は、新任の文学好きで海外生まれの小林正雄先生だった。

先生は、すぐに、芙美子の読書好きに気づき「優れた文学書を読むように」と本を渡した。

小学生には難しすぎる本だったが先生は渡すときに「こんなことが書かれているんだよ」と話して渡す。そして、読後は必ず感想を聞く。

すると、芙美子は先生に感動をうまく伝えたくて何度も繰り返し読み感想文を書き、それから先生に話す。

家で読後感想文を書くが時間がかかり大変だった。それでも、とても楽しくて日課となる。

 

また、海の幸の豊富な尾道での食事作りは、面白くて仕方がなかった。

鹿児島で教えられたことを元に、宮地醬油店の人たちに教えられながら、工夫しながら料理する。

ひとりでおいしいおいしいと食べ、母や沢井にふるまうことも出てくる。母や沢井に褒められるとますます頑張って作り腕を上げていく。

 

そのうち、小林先生は女学校で学ぶことを芙美子に勧める。

母は驚き経済的に無理だと思ったが、行かせたかった。

しばらく悩むが、たとえ、父、宮田に頭を下げることになっても行かせると決意する。

 

女学校に進学するのは一〇人に一人の時代だった。

尾道は好況で裕福な子が多い。その為、芙美子が通った小学校はそれよりは多かったが、恵まれたお嬢さんが行く学校には違いはない。

芙美子は行きたいし、行くべきだと思う。

女学校には本がいっぱいあると知らされたからだ。読みたいし読まなければならない本があるのだ。

試験に合格しなければ入学できない。だが、学校の成績は悪い。

芙美子は本を読みに学校に行っている。勉強しない学科もあった。

 

母が先生に「女学校に行かせたいです。よろしくお願いします」と言ってくれた。先生は「必ず」と答えた。

ここから先生の特訓が始まる。女学校への進学が可能な学力になるまで厳しく受験指導した。

芙美子は、放課後に先生に教えられ、休日は先生の自宅に通い教えを受けた。

 

どの程度の学力があれば合格できるのか何もわからなかったが、芙美子は合格できると簡単に思っていた。

ただ、先生にほめられたくて一生懸命勉強した。暗記力を磨いてどの学科も覚えこんだが、算数・理科はからきしだめで先生に真面目に学ぶしかなかった。

先生が大好きだったから嫌な勉強も耐えられた。

両親と一緒に住んでいて、若く颯爽とした素敵な先生だった。

先生に会いたくて自宅を訪れるが、それ以上に、先生の家にある多くの蔵書に惹かれた。勉強の傍ら読書に夢中になったりして、怒られる。

 

四 芙美子の初恋

芙美子が小林先生に夢中になっていた頃、間借り先の宮地醤油店の親戚、忠海中学に通う岡野軍一を知る。

かっこいい美男子で、欲しかった兄のようだった。二歳年上だ。

芙美子には、初めて身近にみるあこがれの男子学生だった。

それでもいつも知らん顔をしてちらりと見つつ、熱中して本を読んでいる風をした。

 

岡野は、読書に没頭している芙美子の姿が可愛いらしくて、どんな本を読んでいるのか尋ねたことから話が始まる。

この時を待っていた芙美子は、夢中になって読んでいた本を見せながら感想を語る。

それから、お互いの読んだ本について話し出した。

以来、二人は楽しそうに語り合い時を過ごす。

小林先生とは違う淡いときめきを感じた人だった。

さよならをした後も、一人でニコニコしながら話したことを口にしては、もっとうまく話せばよかった。とか

恥ずかしいことを言ってしまった、もっとうまく言わなくては、とニヤニヤする。

 

一九一八年四月、芙美子、一四歳で広島県尾道高等女学校に五番という優秀な成績で入学する。

小林先生の教える横顔を見つめたり、岡野の兄さんとの出会いにドキドキし、好きな本を読みながらの合格だ。

同級生には小さいときから家庭教師が付いたり、勉強を頑張り続けてきた子が多かったが、にわか勉強の芙美子がトップクラスの成績だった。

将来に向けて大きな自信となる。

岡野は忠海高校を卒業した。

 

さっそく父、宮田に合格の報告をするために行く。

父は、筑豊の石炭産業で栄える直方(福岡県直方市)に住んでいた。

芙美子の入学を祝い、たくさんのこづかいをくれた。

ついでに学費の援助を願った。「わかった。わかった」と言ってくれたが定期的にお金を出すとは言わなかった。

その後も芙美子が遊びに行くと「こずかいだ」とお金をくれるだけだった。

それでも、父の援助で裕福な友達と卑下することなく対等に付き合えた。いつもこずかいをくれる大切な父だ。

 

芙美子はここで決意する。

生活費は母と沢井に任せ、学費は自分で稼ぎ、こずかいや特別の出費は父に頼ると。

すぐに学費のために働き始める。

働くのは慣れていて新しい刺激があり苦にならない。

ただ、働いていることを級友や知り合いに知られたくなかった。

帆布(はんぷ)工場の夜勤で働き、長い休暇には神戸に行き住み込みで蕎麦屋の女中をしたりして稼ぐ。

だが収入はわずかで学費には足らず、結局、母に無心するようになる。

母は学資の工面に走り回るが、仕入先、宮地質店に頼むことが多かった。

 

尾道は、鋼鉄製大型船舶の建造が増えていくが、帆を張って風を受けて進む商用帆船(はんせん)の造船もまだ多く、帆布(はんぷ)の製造は盛んで仕事はいくらでもあった。

 

芙美子の担任は、国語教師、森要人だった。

すぐに、森先生は芙美子の文才に目を留め、芙美子を誉める。

そして、読書とはただ読むだけでなく、作者や書かれた背景を学ぶことも必要であり、そうすればより奥深く読め感動も大きいと話す。

この頃から、芙美子は作家に興味を持ち、どうすれば作家になれるのか、なりたいと漠然と思い描く。

あこがれていた図書室に堂々と入る。女学校合格を目指した一番の理由だ。

入学当初は暇があれば行って本を読みあさったが、次第に、入り浸った。

時間割通り通りの勉強は性に合わなかった。特に嫌いな科目の授業の内容は頭に入らない。できないのだ。

そんな時は、授業をさぼって図書室に直行する。

 

母と沢井は相変わらず行商生活を続け貧しい暮らしだった。

沢井は遠方まで行商の足を延ばしお金が貯まると戻って母に渡す。母はお金が無くなると沢井の元に行き手伝い、お金を持ち帰る。この暮らしが続く。

 

級友は豊かな商人の娘が多くおっとりとしていて育ちの良さがにじむ。

のんびりとした性格だが、それでも、新しいものへの好奇心や未知の恋愛に胸ときめかす文学少女の一面もあった。

本来は場違いだけど、芙美子は彼女たちの期待に応えて恋愛小説の感想を話す。すると級友が集まり、その中心で話し続けることになる。

音楽・絵・文学など話し出せばきりがない芙美子の博識に級友は感心し、魅了され聞き入る。

そして、ほとんどの級友より二歳年上の芙美子は、気取って悩みの相談に乗るようになり、頼りにされていく。

 

図書室にはない新刊の本を級友が持っていることを知る。

芙美子には新刊の本を買うなど考えられない。

ここで芙美子は馬鹿にされないように借りるのはどういえばいいか何度も頭の中で考える。

まず、買えないことが知られないように軽く頼む。友は疑いもなくあっさりと貸してくれた。

今の時代を切り取る新刊本は新鮮だった。

新しい世界に入り込み、むさぼるように読み、気に入った個所は暗記した。

 

ここで納得すればいいのだが、夢中になると線を引いたり書き加えたりもする。

芙美子が読むとページをめくる跡が付き、本が汚れてしまうと嫌われたが止められなかった。

それでも、貸してと頼むといつも貸してくれる優しい友ばかりだ。

芙美子は、ありのままの自分を見せれば必ず馬鹿にされ嫌われると身構えて生きてきた。

ところが、何の屈託もなく素直に生きている人がいた。新たな発見に表情が和む。

 

一九一九年、二年生になってしばらくすると、森先生が転任してしまう。

「女学校での楽しい日々は終わった。この世の終わりだ」と芙美子は落ち込んだ。

岡野との連絡が途絶えがちになっていたこともあり絶望感に浸る。

新任の国語教師は今井篤三郎先生だった。

早稲田を出たばかりの都会のにおいがむんむんする先生だった。

美男子でありクラスのだれもが騒ぎ立てた。

 

その雰囲気の中では、芙美子は先生に対しそっけない態度をとる。

「今井先生なんか気にならないよ」と森先生に言われた本を読みふける。

嫌いな科目は全然勉強しないが、国語は群を抜いている自信があり、今井先生がほめてくれるのを待った。

だが、先生は何も言わず生徒の一人として接するだけだ。

 

今井先生は余裕がなかったのだ。

まったく新米の国語教師であり、緊張でがじがじになりながら授業していた。

思い描く教師像を持っていたが、どう表現すべきか生徒に受け入れられるか自信がなかった。

それでも「生徒の人気は抜群だよ」と同僚の先生が話し、自らも感じ始めると次第に、思い通りの授業を始める。

今井先生は歌人だった。

国語の教科書ではなく、短歌・詩による表現方法を教えたかったのだ。

 

先生は短歌・詩を作り持ってくれば添削すると言った。応える生徒は少なかったが。

真に受けたのは芙美子。

得意な分野であり喜んで詩を作り先生に見せる。先生は批評し添削し返した。

それからの芙美子は毎日二四時間、いつも頭の中に短歌・詩を思い、浮かんだ言葉を書きとめる。

そして意気揚々と毎日、短歌・詩を先生に見せ教えを受ける。

芙美子のあまりの熱心さに今井先生は困った風だったが、恐るべき才能を感じ教師らしく指導を続けた。

そのうち、芙美子の家庭環境を知る。

そこで教師として芙美子を支えたいと学用品をさりげなく用意して使うよう言ったり、余っていると言いながら与えたりし、芙美子が負担に感じない方法で勉強の手助けをする。

 

岡野とも新しい展開となる。

今井先生への積極的アプローチで自信を得た芙美子は岡野にも積極的になる。

岡野は明治大学の予科に入っていたが、しばらく音さたはなくどうしているかわからなかった。

そこで岡野の帰省を調べ、知ると待ち構えた。

偶然会った風に芙美子は出迎え、熱心に東京の話を聞く。

 

岡野は、付き合い始めの頃は兄貴ぶって文学についても話したが、今では文学の世界とは縁遠かった。

反対に芙美子は文学への、東京へのあこがれが抑えがたいほどになっていた。

芙美子は岡野に東京の文学がいかに優れているかを話す。

岡野は自分の住む東京を自分以上に知っている芙美子に目を見張り、芙美子の思いを真正面から受け止めうなづく。

喜んだ芙美子は、尾道では入手が難しいはやりの文学書・話題の本を頼む。岡野は送ってくれた。

岡野は裕福だった。

 

こうして芙美子は東京の情報を持ち、文学に関して級友を寄せ付けない見識を持っていく。

鼻高々でますます国語・英語・音楽・美術など文学者として必要だと思う勉強しかしなくなる。

 

芙美子は忙しい。

父、宮田に会いに行っては九州近郊を巡り歩き、愛媛の祖父の葬式にも一人で出かけた。

もう大人気取りだ。

その時、父の生家近くの小高い丘、佐々久山に登って壬生川(にゅうがわ)を見下ろし、詩を作る。詩人になった気分で気持ち良い。

旅で感動するとすぐ頭の中で詩が浮かび、その詩が独り歩きする。この瞬間がたまらなく好きだ。

旅での出会いが芙美子の作家人生の一番大切なものとなっていく。

父との親子の絆は関わらず続く。女学校に通う芙美子は父が店の者に自慢できる賢い娘であり会うと喜んだ。

 

そんな時、今井先生が結婚する。以前から許嫁がいたのだ。

芙美子が必死で関心を持って欲しいと書き続けたが、先生が関心を持たなかったのは当然だった。

毎日毎日、詩を書き先生に渡したドキドキする毎日が馬鹿に思えくすくす笑ってしまった。

クラスのほとんどが先生と仲よくなりたいと競ったが、最初から見込みがなかったと知りがっかりだ。

 

それでも、物は考えようだ。

今まで先生の本を借りるのが楽しみで時々家に行ったが、独身で一人で住む先生の家に入るのは気が引けた。

これからは、堂々と大手を振って借りにいけるのだ。

また先生の気に入りそうな詩ばかり作っていたが、これからは芙美子のより正直な思いで詩が書けるのだ。

「良いことも多い。先生の結婚を許そう」と、お日様のように微笑む。芙美子は幸せだった。

 

それでも芙美子は多くの本を読みたいし、いろんな旅もしたいとお金のないつらさを情けなく思う。

裕福な級友と同じような学用品も欲しい。芙美子は望みが高く欲張りなのだ。

母は芙美子のために一生懸命働いた。それでもとても埋まらない差がありすぎた。

 

苦しさの中で天性の作家魂が開花していく。

今まで向島の帆布工場で隠れて働いていた。貧乏であることをだれにも知らせたくなかったから。

だが、見つかっても文学者としての社会勉強だと澄まして言えるようになる。

お金のないことを知られないために自分を飾り装うのは、役者になったようだった。

おかしくてニヤニヤしてしまうが、演じている気分は愉快だ。

 

好きな絵の時間、なぜかいつも絵の具を忘れる芙美子だ。

毎回違った理由を付けては友から借りる。それでも、筆だけはいつも持っている。

描き始めるとのめり込み、絵の具をめちゃめちゃに使いまくり知らん顔で友達に返す。

友も芙美子がお金に余裕がないことは知っていても無頓着なのだろうと、なぜか納得する。

 

こうして、芙美子の空想力が自由に跳ね生き生きした文章が書けていく。

すると今井先生が詩を少女雑誌・新聞社に投稿するように言う。今井先生はよく見ており指導も的確だった。

芙美子はおどおどと投稿を始める。

すぐに「山陽日日新聞」「備後時事新聞」に短歌・詩が掲載され、以後も、たびたび掲載される。

特に注目されたのは作詩だった。得意になって少女雑誌・新聞にも投稿を始め掲載される。

 

芙美子は知る人ぞ知る有名人となり、有頂天だ。

そこで、投稿する人たちと連絡を取り合い知り合いになっていく。

尾道商業高校(私立尾道商法講習所)の学生と文学論争をしたり、都会から帰省中の学生を訪ねたり、新しい知識刺激を求め交際範囲を広げていく。

 

好きだった今井先生が結婚し、岡野がいないのは好都合だ。

芙美子は本で読んだ恋愛に憧れ自分で確かめたかった。

幾人かに恋心を滲ませてラブレターを送る。

効果は絶大で複数の人と疑似恋愛が成就して相思相愛の親しい仲となる。

 

おかしくて楽しい時間だったが、文学を志す同志としては物足りなく、満ち足りた幸せを保証する伴侶としてもいまいちで、ラブレターの効果にニンマリするだけで終わる。

期待したが岡野以上の人は現れなかった。やっぱり岡野が一番だと手紙を書く。

相手に強烈な良い思い出を残したときれいさっぱり忘れ、思いは東京の人、岡野に飛ぶ。

 

そんな時が続き、ラブレターの代書が得意になってしまう。

級友の熱い思いを簡単に手紙にし喜ばれ頼む人が増える。

「代書やさん」と尊敬の意味を込めて呼ばれるようになる。

 

あぶなっかしい芙美子を冷静に見つめる今井先生は、真剣に作家になることを勧める。

芙美子が待っていた嬉しい言葉だった。

ずっと、なれるはずがないと不安だった。ここで意を強くし、自分の文学の才能を信じ東京で作家になると決める。

尾道での六年間は、天からの贈り物が次々届く、天使がいた日々だった。

 

五 芙美子東京へ

一九二二年(大正一一年)三月、芙美子は一八歳で尾道高等女学校を卒業した。

入学時はトップクラスの成績が二年以降最下位近くを低迷した。

今井先生の力でやっと卒業できたのだ。女学校のお荷物の生徒だった。

芙美子は、まったく気にしなかったが。

 

岡野は因島の実家から行商人の子、芙美子との交際を禁じられ、心が揺れていた。

岡野はあふれんばかりの笑顔でかいがいしく世話してくれる芙美子が好きだった。芙美子との会話は面白く引き込まれいつまでも一緒にいたかった。特に、帰省で帰ったとき、隠れるように会う時の興奮は忘れられない。

旅行に行った時の熱い出来事は「また行きたい」と思いを募らせる。

芙美子は「九州の父に会いに行く」と母に言い家を出て、父に会い小遣いをもらう。そして、約束した場所で岡野と落ち合い九州旅行をした。

 

逢瀬を重ねた二人は結婚の約束をした。

永久の愛を誓ったのは芙美子だけで、岡野は実家からの絶縁を恐れ、二股かけたままだったが。

芙美子も感じており次の相手を探したが、結局見つけられなかったのだ。

 

卒業後、芙美子はまっすぐに上京、卒業まで一年を残している岡野の小石川区雑司ヶ谷の下宿に行く。

芙美子は岡野と実家との葛藤を知っていたが、心をつかんでいる自信があり、ばら色の未来が大きく開き実を結ぶと確信していた。

岡野を一目見るなり少し違うと思ったが、思い切り抱きついた。

岡野も待ちわびたように抱きしめるが、どこかうつろだった。

 

そこで岡野の実家の手前、経済的迷惑を掛けないよう働き始める。

岡野の学業成績を上げ東京の一流会社に就職させることがすべてに最優先だと。

希少価値のある大学卒の夫に見合う女学高卒の芙美子にふさわしい仕事を見つけようと張り切って探す。

株屋事務員募集の面接で「帳簿付けの経験はありますか」と聞かれて、高給だしどうしても仕事を得たくて経験ありとうそをついて採用された。

数字がまるでだめな芙美子は間違いばかりで、すぐに首になる。

次々、優秀な女学校卒業生だと面接を受け就職を決めるが、すぐにぼろが出て続かない。

結局、風呂屋の下足番、出版社の帯封書き、セルロイド工場の女工など手当たりしだいに仕事をせざるを得なくなる。

岡野が就職し結婚するまでだと思えば苦にならない。

その間、自分の文才を開花するべく詩作にも励んだ。

 

しばらくすると、尾道から母と沢井が上京し、中野に住む。行商に失敗し逃げ出してきたのだ。

屋台の露天商などなど行商の仲間のつながりは縦横無尽にあり、商売はどこでもできると恥ずかしげもなく話す。

嬉しいような悲しいような三人での懐かしい行商生活が始まる。

だが、かっての愛くるしい芙美子に集まる大人はもういなかった。

興味本位に言い寄ってくる中年男ばかりになっていた。うんざりして行商はやめた。

以後、二度としない。母と沢井だけで、続ける。

 

一方、岡野は強烈な個性の芙美子と暮らし、文学に生きる芙美子をじっくり見た。

時たま会い、非日常の旅に出ての目くるめく愛は感動的だった。

だが、長い付き合いで芙美子を理解したつもりでいたが、何もかも忘れて詩作に没頭する様にこの世の人とは思えないすごさを見てしまった。

しかも、地方出身の青年が大学を出たからといって東京の一流企業がすぐ受け入れる状況ではなかった。

岡野は東京で望む就職はできず、このまま東京生活を続けることはできないし、続けたいとも思わなかった。

明治大学商科を卒業すると尾道の大阪鉄工所(日立造船)に就職する。

芙美子には東京での生活しかないことはよくわかっていた。芙美子との暮らしを終わりにすると決めたのだ。

 

芙美子は毎日が必死だった。

詩を作るのも大変。仕事を見つけ働くのも大変。母や沢井に東京暮らしのあれこれを言うのも大変。岡野との食事作りも大変。大変だらけで岡野の心の揺れを感じることができず、尾道に就職するとは思いもよらなかった。

だが、岡野は去った。

 

六 芙美子と大震災、そして尾道に

残された芙美子は、ありえない結末を理解できない。毎日泣いた。

尾道ではこのようなぶざまな敗北をしたことがなかったからだ。

しかも、芙美子を頼って母と沢井が東京に来ている。

岡野と芙美子が結婚し、岡野が得る収入を当てにしていたのだ。

プライドを傷つけられ、恥ずかしく情けなく、岡野に対する憤り、人生に対する絶望に打ちひしがれる。

 

同時に芙美子自身を客観視する余裕もあった。

幼少時より世間の表裏を見てきた芙美子だ。岡野の裏切りも理解できなくはない。

報われない愛に賭けた芙美子が愛しくて、泣く芙美子なのだ。そして、この思いは詩になると大笑いもする。

泣くのと笑うのは、芙美子にとって表裏一体でどうにでもなるのだ。

 

この時から、放浪記の原型となる「歌日記」を書き始める。

ひとりで生きる、わびしく苦しい生活が始まったが、岡野を気にしない暮らしもそれはそれで楽しい。

 

居直った芙美子は食べるためにカフェの仕事、女給を選ぶ。

カフェと言っても喫茶店のウエートレスからバー・クラブのホステスまでいろいろある。

この頃の女給は無給が多く、客が出すチップを頼りにし力次第でいくらでも稼げた。

芙美子にぴったりの仕事だった。

 

初めて本格的に取り組んだ女給の仕事にどぎまぎしながら働き、次第に収入も増えほっと一息ついた時、一九二三年九月、関東大震災が起きる。

本郷根津権現の下宿にたった一人で居た芙美子に大震災が襲ったのだ。

最初の大揺れに、この世の終わりが来たと思い、今まで世話になった人たちの顔を思い浮かべ、何も応える事のないまま死んでしまうのを許してと、しおらしく目を閉じた。

「もう死んでしまう。それもいい」と覚悟した。

次々余震が起きるが収まっていくと、五体満足で生き残っている事を感じ始める。

目を見開き、少しずつ周りの状況を凝視していく。

火の手が上がるのを、ぼーっと見ながら立ち上がり見渡すと、倒れている人々がはっきり見えた。

 

芙美子は耳元で「生きなさい。大丈夫」とささやく声が、聞こえた気がした。

しばらくぼんやりとなにがどうなったのか思い巡らす。より冷静になった。

「二度と出来ないかもしれない経験だ、すべてを目に留め書き残していこう」と意欲が湧く。

岡野が去って六ヶ月、たった一人のわびしい生活に嫌気がさしていた時だった。

あまりに悲惨な状況だが、芙美子に与えられた試練だと、どうにか受け止めることができた。

 

二度と帰らないかもしれないとぐちゃぐちゃになった住まいの整理を始める。

もう冷静だ、母と沢井が気になってきた。

一晩一人で明かし、必要なものすべてを身につけ母、キクと養父、沢井を探しに出発する。

 

歩き始めた。

そして、ただの物質と化した多くの人々を見、自分の身の回りに気を遣うこともなくただ生きることを願い我先にのたうち回る傷ついた人々をじっと見た。

見続けると笑えてきて愉快だった。

誰からも本当の自分を見透かされまいと、演技してきた自分がおかしかった。

吐き気がする涙があふれるあまりに悲しい状況だけれど、人は皆同じと思えた。

「明日を考えても何が起きるかわからない、今を生きるしかない」と余裕で悟る自分が頼もしかった。

 

歩き続けた。

母も沢井も亡くなってしまった気がした、それもしょうがないと思いながらひたすら歩く。

母と沢井の住む西新宿十二社に着くと、すぐに、元気な二人を見つける。

なぜか涙があふれた。だが、母と沢井はまだ恐怖におびえていた。

 

芙美子二〇歳で、母は五六歳。立場が変わったことをひしひし感じた。

母と沢井の面倒を見なければならないと思う。覚悟を決めると度胸が据わり、すごい元気があふれ出る。

 

芙美子が動き始めると早い。

すぐに、避難船として用意された灘の酒運搬船を見つけ大阪まで便乗し、芙美子は尾道にもどる。

母と沢井は、沢井の仲間を頼り四国高松に向かった。

 

芙美子の帰るところは岡野の住む、そして天使のいた尾道しかなかった。

この世のものとは思えない光景を見続け優しく抱きしめてほしかった。

しかし岡野はやさしく迎えてはくれたが、もう縁のない人だった。

もちろん芙美子には「会いたかった」と言いたい人は幾人もいた。

 

岡野からお金を借り旧友や恩師に会い世話になりつつ二ヶ月近く尾道にいた。だが、居場所はなかった。

それでも、尾道の景色はいつも変わらず優しくて、次第に落ち着きを取り戻す。

芙美子は恩師、今井に東京で綴った詩作を見せる。

今井は感銘し興奮して「きっと作家として成功する」と断言した。

先生の心のこもった情熱的な言葉で忘れていた自分を思い出す。勇気がよみがえった。

 

先生は作家としての名前を林芙美子とするよう勧めた。

戸籍名は林フミコだったが「漢字の芙美子のほうが作家らしい」と言ってくれた。

こうして作家、林芙美子が誕生する。

 

空気がぱんぱんに入り芙美子は四国高松にいる母のもとに行く。

母は東京での芙美子の八方ふさがりの状況を見ており、芙美子の顔をまともに見なかった。

思いのほか早く高松に帰れたことは感謝したが、失敗続きの芙美子が何を話そうと真面目に聞かない。

それでも芙美子は気にせず一方的に作家としてのバラ色の未来を話した。

芙美子が話し続けると、少しづつ母は納得し元気になっていくのだ。

 

母と沢井を元気にさせると、しばらく居候する。

母は迷惑がったが、芙美子は母と共にいるとのんびり過ごせ、心穏やかになりいい気分なのだ。

母と沢井の面倒を見ると決意しながら母の厄介になるが「まだまだ初まったばかりだ。先がある」とうなづく。

 

七 芙美子再びの東京

年が明けて一九二四年、東京に戻る。

「私はたった一人。ひとりで挑み必ず作家になり成功する。尾道のみんな見てらっしゃいね」と唄いながら孤独な暮らしを始め、一途に作家を目指す。

それでも食べなくてはいけない。

気分は作家だ。そこで、未来の作家にふさわしい仕事を探す。

書生気取りで文士や学者宅での掃除・洗濯に雇われるが、芙美子を認める人には出会わずすぐに辞めた。

 

生活が成り立たなくなり、玩具工場やカフェでも働き、産院の手伝い、毛糸売りと何でもありの生活となった。作家とは言えない仕事で暮らすしかない。

一日じゅう働いても、その日をどうにか過ごす収入しかなく「こんなはずじゃない。あまりにも理不尽だ」と嘆く。それでも「私は作家。生まれながらの才がある」と独り言をつぶやき、童話と詩を書き続ける。

 

最悪と思うときは、もう新しい道が始まっているのだと後で知る。

「市民座」劇団員募集の張り紙がふと目に付いた。朗読や音楽に自信のある芙美子は「女優になるのもいいかも」と劇団の門をたたいた。

作家になるのは大変だと、やけくそになっていた。

 

面接した小柳京二は芙美子の話を聞いて女優は難しいが詩人としての才を感じた。

そこで座長であり詩人で俳優の田辺若男に引き合わした。田辺若男は「芸術座」(松井須磨子と島村抱月が立ち上げ一世風靡したが二人の死で解散)俳優だったが、独立して劇団を立ち上げたのだ。

 

田辺は芙美子を見ると、詩やら文学の話を始める。二人は尽きることなく話し続けた。

田辺と意気投合した芙美子は「初めて志を同じくする人と出会った、運命の出会いだ」と胸震わす。

もう芙美子は止まらない。「(田辺の)生き様は私の目指す作家と同じだ。共に生き文学の道を突き進む」と決めた。

何のつてもない田舎娘の芙美子だ。どんなかぼそい縁でもしがみつくしか生き残りはないと本能的に感じた。

すぐに、押しかけるように田辺の田端(東京都北区)の家に入り込み同棲を始める。

田端は文士が多く住み、芙美子が憧れた地だった。

 

芙美子は相手を一目で見抜き決めつけるところがあり、この人だと決めたら迷うことなく突進する。

すると必ず愛が生まれる。自ら進んで愛をつかまなければ、愛は生まれないと肌で知っていた。

田辺も喜んで迎え入れた。芙美子の作った詩が心を打ち離れがたかったのだ。

芙美子を愛し、芙美子の才を見せたくて、すぐに文学仲間に紹介する。

 

田辺に連れられて文学仲間では有名な本郷白山上(文京区)の南天堂に行き、探し求めていた文学を志す仲間に紹介される。個性的な左翼思想の持主ばかりだ。

南天堂は一階が書店で、二階がカフェレストランとなっておりその奥に小さなスペースだが文学者のたまり場がありいつも誰かいた。

田辺の友人は萩原恭次郎・高橋新吉・辻潤・壺井繁治・岡本潤・小野十三郎・神戸雄一・友谷静栄・平林たい子らアナキスト(無政府主義者)やダダイスト(既成の秩序や常識を否定、攻撃する主義を持つ者)と称せられる多彩で優秀な面々だった。

思想史を飾る人々が出入りし震災後は先進的な表現を求めるシュルレアリスト(超現実主義者)と呼ばれる人々も集まり盛り上がっていた。

 

田辺は芙美子を自慢するように「妻であり、詩人だ」と紹介する。

初めて妻と紹介された芙美子は嬉しくてうれしくて、夫と共にこの場にいるのが信じられず夢を見ている気がした。

文学に情熱を燃やす面々との自由な論争に最初はおずおずと加わる。

過激な左翼思想に驚き、深い文学の知識を尊敬したり、生活感に違和感を感じたりと五感を強烈に刺激され面白くて仕方がない。しばらくすると入り浸る。

 

だが現実は甘くない。芙美子は劇団員にはなれずカフェで働くしかなかった。

田辺の詩は売れず劇団の収入も少なかった。

田辺との生活費を稼ぐのが、まず第一だった。

南天堂で得た刺激は大きく、前向きになり、芙美子は、田辺の為に、文学の為にカフェの女給で稼ぐと決めた。

目的を定めると驚異的な力を発揮する。すぐに売れっ子になり予想以上の高収入を得る。

 

職を転々と変え自活することさえ難しい収入にあえいだのは、岡野と別れ田辺と同居するわずか一年だけだった。 岡野と同居の時、働いたのは見栄が大きい。岡野には居候となっても暮らせる送金があった。

生活苦とは言えない。

 

美人でもなければ背も低い芙美子がなぜ高給を稼ぐのか皆は不思議がる。

だが、すっと相手の懐に飛び込んで心をつかむ話術は天才的だった。

芙美子に出会った客は、魅せられ指名しお金を貢ぎ、そのうち強烈な個性に打ちのめされるのだ。それでも憎めない。

それどころか満足感を与える不思議な魅力があった。

 

いつしか芙美子は田辺の収入を遙かに超える。生活費はすべて芙美子が出していたがそれ以上の貢ぐ女になる。

田辺はこずかいを十分に得て満足したが、芙美子の強い存在感に追い詰められていく。そして裏切る。

芙美子の鋭い感受性は公演を見て田辺と女優の恋を感じてしまう。

芙美子の収入を当てにして遊ぶ田辺を許さず追及する。だが、直ぐにあきらめた。

こうして、貢ぐ女の生活は数ヵ月で終わる。

田辺は、芙美子の文学の才を花開かせる出会いの場を作ってくれた恩人だ。それで十分だ。

 

田辺は芙美子との出会いで作家としての限界を悟り、俳優を主な仕事とし著作にも励む。

 

田辺は芙美子に評判の美貌の詩人、友谷静江を紹介していた。南天堂の華だった。

もてもての静江だったが、アナキスト詩人、東洋大学の岡本潤と同居した。

この頃、東洋大学は詩人の宝庫と言われるほど多くの逸材が出て南天堂に姿を見せていた。

芙美子は静江に近づき、共に詩を作るようになる。

 

そのまま、芙美子は東洋大学の詩人グループの輪の中に入る。そこで「(田辺に)裏切られて独りぼっち」と悲劇の主人公を気取り、南天堂で泣く。

そんな芙美子を慰め励ましたのが裕福な東洋大学生、神戸雄一だった。

芙美子は優しく慰められると弱い。再び、恋し、暮らし始める。

行く当てがないのだから仕方がない。

 

神戸との愛の暮らしが始まると、芙美子は突き動かされるものを感じる。

そこで「静江さんと共に作った詩を発表したい」と神戸にせがむ。

岡本潤や静江との付き合いが深い神戸は「いいよ」と軽く応えた。

神戸の資金援助で一九二四年七月、静江との共作、同人詩誌「二人」を刊行する。毎号八頁で三号まで作る。

静江を前面に出しての詩集だが、芙美子は活字となった詩を見て感無量だった。

これで、作家としての第一歩が踏み出せるのだ。

 

八月、南天堂に集まる作家が参加しプロレタリア文学(社会主義思想や共産主義思想と結びついた文学)誌「文芸戦線」を創刊する。

芙美子も詩を発表する。次いで「日本詩人」にも詩を寄稿した。

田辺・神戸との縁で、あれよあれよという間に作家になった。

お金にならないのが困るだけだ。

 

芙美子の目に見える仕事はカフェの女給でも、芙美子の文学の才を認める人が増えていく。

芙美子は手ごたえを感じ同人詩誌「二人」を持って「指導を受けたい」と一流作家を訪ねる。

今まで敷居が高くて訪ねることができなかった近くに住む作家に会う勇気が出たのだ。

自分の作品をもって売り込むことが作家の第一歩だと、元気よく歩き始めた。

その為の詩集の発行だった。

 

本郷の富士ホテルで寝ながら書くと評判の有名な詩人・小説家の宇野浩二を訪ねた。

宇野は詩を読み、まだ無名の芙美子に「話すように書けばいいんですよ」と先輩みたいに気さくに話しかけた。

芙美子の書き方と同じで「一人前の作家として認められた」と感激し涙ぐむ。

 

女性をうまく書くと有名な小説家、徳田秋声にも紹介状なしに、会いたくて行く。

秋声は驚くこともなく招き入れ、持参した詩を真剣に読んだ。そして涙ぐみながらいい詩だとほめた。

「いつでも来てよい」と言われ、以後もちょくちょく顔を出し、ごちそうになったりお金を借りたりもする。

秋声は、日本では現実を赤裸々に描くと解釈された自然主義文学(客観的な真実の描写を行う)作家として名高い。

芙美子の作風とも似ており、生涯の師とした。

 

一〇月、二歳年上の前衛詩人、野村吉哉が詩集「星の音楽」を出し、芙美子は面白く読む。

そして、野村に「素晴らしい」と話しかけると、野村も芙美子の詩をよく読んでおり誉めた。詩才を認め合い意気投合する。

芙美子に「同じ志を持つ詩人二人の運命の出会いだ」と稲妻が走り、結ばれる。

一二月には神戸雄一と別れ、多摩川べりの小さな借家で野村と暮らし始める。

 

神戸雄一は、芙美子を愛し、芙美子に作家としての道を開いた満足感で自分の進むべき道を歩む。

優れた詩・小説を刊行し、後には郷里、宮崎の日向日日新聞社(宮崎日日新聞社)に招かれて文化部長となり若い詩人の育成に努める。

 

友谷静枝は利用された思いだった。

だが芙美子とは育ちも違い、才能も違い、何よりもハングリー精神の差を見せつけられ納得する。

自分らしく生きると、後に、慶大教授、上田保と結婚し文学を趣味とし、豊かな暮らしを続けた。

 

野村の叔父は、評論家として名高い千葉亀雄だ。

早稲田を中退し、国民新聞、読売新聞、時事新報、東京日日新聞などの記者や学芸部長を歴任し、モダニズム(前衛的)文学を目指す横光利一、川端康成らを新感覚派と名付け後押し世に広める。時流を見る目が確かだった。

 

芙美子は恩師、今井が早稲田出身であり、早稲田大学に憧れていた。

千葉亀雄とのわくわくする出会いが生まれ、野村との新たな暮らしは楽しかった。

野村には高名な叔父が付いており、後押しされて作家として一流になるはずだった。

 

一九二五年、芙美子と野村は、渋谷区道玄坂へと引越し、そして四月には、世田谷太子堂の二軒長屋に移る。文学仲間の紹介だ。

隣は、壺井繁治・栄夫妻、近くには平林たい子夫妻が住み、文学仲間と親しい付き合いができる家だった。

同じ志を持つ作家夫婦として友人に恵まれ、充実した暮らしが始まる。

 

壺井繁治は香川県小豆郡苗羽村(小豆島町(しょうどしまちょう))の生まれで早稲田出身だ。同郷の妻、栄は遠縁だ。

栄は繁治と文通していた。役場勤めをしていた栄は、文学への熱い思いを募らせ文通だけでは物足りず、繁治と結婚し東京に住みたいと意を決して繁治の元に行く。驚き狼狽する繁治だったがやむなく受け入れた。

芙美子と栄はよく似た状況で上京し、芙美子は失敗したが栄は成功した。

 

栄は上京後に夫や芙美子ら女流作家に影響され、見よう見まねで文章を書き始める。

そして夫の力で作品が掲載される。芙美子から見ると何の努力もなしに、作家になっていくと複雑な思いがあった。

そのこともあり、芙美子は四歳年上の栄に甘え、よく物をねだった。

堅実な栄は、芙美子を「厚かましい」と思い理解できない。

愛情に満ちた児童文学を得意とし「二十四の瞳」など名作を残す。

 

芙美子は平林たい子と親しくし、共に詩・童話などの原稿を出版社に売り込みに行く。

だが、芙美子と野村の暮らしは、新居に満足したころから波風が吹き始める。

真っ向から詩人としてぶつかる時があるのだ。すると、またもや芙美子の存在感が大きい。

野村は肺病をわずらっており不安定な精神状態で、叔父の配慮で原稿を書き出版社から収入を得た。

だが、生活費の大半は芙美子がカフェで稼ぎ、わずかだが詩の原稿料も得るようになっており鼻息は荒い。

野村は経済を芙美子に頼りながらも癒しを求めた。得られないと他で遊ぶ。しかも機嫌のいい時と悪い時が代わる代わるあり極端に不安定だった。

芙美子にも余裕がなく、野村に対して芙美子への感謝といたわりを求める。

芙美子は、野村のいい加減さを許せず、何者にも動じない迫力で徹底的に相手を非難し鋭い言葉の嵐を投げつける。

野村は耐えられず暴力を振るう。

一九二六年一月、追い詰められた野村は新しい恋人に逃げ、一年二か月の暮らしは終わり、芙美子は別れる。

 

その間、芙美子は南天堂を起点とした交友関係をますます広げていた。

野村から詩人仲間、松下文子を紹介されて、親しくなる。文子に悩みを打ち明ける。

文子は、北海道旭川の大地主の一人娘で詩人を目指した。

尾道の裕福な友と似た包容力のある穏やかな性格で芙美子が一番気兼ねなく付き合える雰囲気があり大好きだ。

野村の暴力から逃れるためと称して、たびたび松下文子の家に転がり込んだ。

 

文子の家で度々、七歳年上の小説家、尾崎翠(おさきみどり)に会う。

芙美子は尾崎翠(おさきみどり)の天才的に鋭い感性に衝撃を受け、この独自の感覚には勝てないと思う。

以後、表立っては仲が良いが、密かに小説家としての火花を散らす。

 

八 芙美子、放浪の終り

一九二六年一月、芙美子と平林たい子は揃って結婚を解消した。

芙美子は本郷区追分町の大国屋酒店の二階のたい子の家に転がり込み、傷ついた二人の同居が始まる。

 

芙美子は同人詩誌『二人』を発行し売り込み「文芸戦線」「日本詩人」「文章倶楽部」に掲載されている。

たい子も同じように売込中だ。芙美子の方が、名が知られていたが、お互い、原稿料収入は少ない。

そこで「二人力を合わせて売り込み有名になり高額の原稿料を稼ごう」と苦しみを乗り越えバラ色の未来を手に入れると手を握り合う。

 

同時に、食べるために新宿のカフェーで一緒に働く。

暇さえあれば、二人一緒に詩や童話を書き出版社に売り込みに行く。

芙美子は「文芸戦線」「日本詩人」「文章倶楽部」「文芸市場」「文芸公論」への掲載を続けている。

 

平林たい子の一生は芙美子の比ではないほど波乱万丈だ。

諏訪郡中洲村(長野県)の生まれで、女学校卒業後、上京し電話交換手として働き左翼活動家と同棲、そして関東大震災で検挙され東京から追放となる。やむなく満州にわたるが、夫は逮捕、極貧の中出産、栄養失調で間もなく娘を亡くす。その時の壮絶な経験「治療室にて」を書く。以後も拘留されたり病魔に苦しんだりしながらプロレタリア作家として有名になり、ついには姉御肌の日本を代表する女流作家としての地位を築く。

男性遍歴も華麗だった。

アナキスト活動家、山本虎三・「のらくろ」作者の漫画家、田河水泡(たがわすいほう)・美術家、岡田竜男・アナキスト活動家の作家、飯田徳太郎・社会運動家の作家、小堀甚二などなど。

 

九月、平林たい子は芙美子との共同生活に疲れ、左翼活動家の小堀甚二と結婚する。

作家としての売り込みもカフェの稼ぎも芙美子が上だった。

天才的頭脳の持ち主であり時代を切り開きながら一直線に進む情熱の人、たい子には文子との暮らしは合わなかった。

たい子は芙美子とは生き方が違うとプロレタリア文学を目指し、同じ考えの小堀甚二との同居を望んだ。

芙美子は愛されるタイプだが、たい子は愛するタイプだった。

 

九月、たい子が幸せ一杯で去り、一人残された芙美子は意気消沈した。

寂しくなって尾道に帰りたくなった。

 

一〇月になると、故郷のない芙美子の故郷、尾道に帰った。

恩師や友人と会い、つらい思いを分かち合いたかった。

だが卒業して四年、皆それぞれの人生を歩み、思いを満たしてくれる友はいなかった。自分でもわかっていたが。

 

足取りは重くなったが、今井に作家としての道を歩き始めたことを報告する。

そして、尾道を舞台に書き始めた小説「風琴と魚の町」を見せる。

今井は芙美子らしい巧みな表現に「もう立派な文学者だ。すばらしい」と絶賛する。

今井の言葉はいつも重く響き、芙美子を勇気づける。尾道に帰ってよかったと涙する。

「尾道の芙美子は小説家だ」と海に向かって叫ぶとますますその気になった。

故郷(尾道)をつづり故郷(尾道)を卒業する日が来た。

 

十月の終り、東京に戻った。

日が短くなってうら寂しい思いもあったが「必ず小説家になれる。きっとなる」と自分を奮い立たせる。

文学仲間と再会し、新宿のカフェ「つる屋」で働くことにし下谷茅町(したたにかやまち)(大東区)に下宿も決めた。

そして、たい子の別れた夫、飯田に預けていた本を取りに行く。

預けていた本が少なくなっていた気がした。芙美子はたまらず「本を返して」とすごい剣幕で迫った。

 

その芙美子の剣幕をおもしろそうに見ていたのが同じ駒込(豊島区)の大和館の下宿に住む手塚緑(まさ)敏(はる)だった。

生涯の伴侶、画学生の手塚緑敏との出会いだ。

一九二八年一〇月から始まる「放浪記」連載の二年前だった。