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ウォリーボックス

えどむらさきずきん


約 16714

真夏の太陽はじりじりと容赦なく照り付けていたが、川面はそんな太陽も落ち着いて受け止めていた。元気な子供たちが歓声を上げながら、水の中へ駈け込んでいく。ゴーグルをして網を片手に持った子、浮き輪をして浅瀬に浮かぶ子もいる。そうかと思えば海とは違う独特な川の雰囲気にのまれて、なかなか水に入れずにいる子供もいた。

「はるー、あっちの大岩のほうに行こうよ。」

「りょうかい!」

真夢(まさむ)と晴希(はるき)は小学5年生の夏休みを川辺で過ごしていた。真夢たちの地域の小学校の子ども会では年1回の恒例の遠足を毎年川辺のキャンプと決めていた。毎年同じ場所ということや、塾や自分自身の習い事で予定が重なる子も多く、高学年の参加者は年々少なくなる。真夢と晴希もサッカークラブの練習があったが、少ない高学年の中で保護者や自治会のおじさんたちがなんとなく自分たちに来てほしがっている感じ、今年も参加したのだった。低学年の頃は浅瀬で流れのままに浮かんだり追いかけっこしたり、水遊びを放棄して草むらでバッタ取に夢中になった。少し大きくなって川の様子も把握してくると、『大岩』と子どもたちによって命名された少し上流の大きい岩が重なり合うようにしてできた岩場から、急流すべりをまねて下流まで泳いだ。

「はやくはやく。」

晴希を急かして真夢が岩場を登っていく。まるでウォータースライダーのために階段を上がっていくようだ。二人とも真っ黒なのは日ごろのサッカーの練習に由来するものだ。真夢と晴希は幼馴染で、幼稚園に入園する以前から近所の公園でよく遊んでいた。やんちゃで活発な真夢とおっとりしているがやはり体を動かすことの好きな晴希はすぐに仲良しになった。真夢は男の子らしいあどけなさを持ち合わせていたが、成長するにつれ活発で無邪気な中にも周りの様子を何気なく感じ取れる感受性を持ち合わせるようになっていた。晴希はマイペースながらも友達を大切にする付き合いのいい穏やかな性格で、学校でも評判のいい人気者になっていた。二人で行動させることに安心感もあり、真夢と晴希の母同士も仲が良かった。

「滑りやすいから、気をつけなさいよ。」

晴希の母が離れたところから声をかける。保護者や自治会の引率者は川岸で弁当やおやつを広げたり、川から上がって来た子の体を拭いたりしている。

大岩の上にはもうすでに多くの子供が集まっていた。浮き輪をして流れの中に飛び出す子、ゴーグルをして流れの中に入っていく子、真夢と晴希は後者だった。この長瀞遠足も5回目になる二人は、慣れた様子で大岩の上にたどり着いた。川は例年変わらぬ様子で、自然の中の流れるプールのようだった。

「まさ、行こう。」

後から追いついた晴希がちゃっかり真夢の前に立って川の流れに入ろうとしていた。

「よっしゃ、行くぞー。」

晴希は岩に腰を下ろした姿勢からするりと川の流れに入った。川の水は少しひんやりした。海でも川でもそうだが、水の中に入った時に感じる温度差はなんだか別世界に入り込んだような不気味さを晴希は感じることがあった。久しぶりの川の流れに乗ろうと手足を動かした。その時晴希の足先にかすかに岩が触れるのと同時に今まで何度も泳いできたのに、感じたことのない強い流れが自分の体を押し流すのを感じた。晴希は足をついて立とうとしたが流れは速くそして川底の流れは思ったより遠く、晴希の足を川底に立たせることを拒んだ。

『ながされる・・・。』

顔をあげ呼吸をしようとしても流れにのまれ、あげることができない。

『く、くるしい・・・。』

晴希の目の前がまぶしい光に包まれた。それが水中から見上げた川面に光る太陽なのか、意識が遠ざかる時に見える光景なのか、晴希には定かでなかった。

『はるき・・・。』

ふわふわと漂う意識の中で、晴希はかすかに自分の名前を呼ぶ声を聴いたような気がし、手首を強く引かれる感覚がした。

『はる!はる!。』

水中で自分を呼ぶ声が本当にしていたのかよくわからなかったが、その声と自分の手首を引く強い力に自分を救い出そうとする意志をぼんやり感じていた。そして晴希の意識が薄れていった。

「晴希!晴希!」

晴希は母の声に気が付いた。そして自分を心配そうに取り巻いているみんなの姿が見えてきた。

「ああ、よかった。」

皆のよかったよかったという声が聞こえてくる。

「流れにのまれちゃったみたい。」

「いいよ、今すぐ話さなくても。」

自治会長のおじさんもすごく心配そうに優しく声をかけた。

「水を飲んじゃったみたいだったけど、すぐ助け出せたのが良かったんだな。」

「川は流れが速いのがちょっと見じゃわからないところがあるからなあ。」

子ども会の保護者や自治会の大人たちは川遊びの遠足を見直す必要があると思い始めていた。

「ほんとに、真夢ありがとう。真夢もおぼれなくてよかった。」

晴希は母が真夢に礼を言っているのを聞いていた。自分を助けてくれたのは真夢か。

「はる、よかったなあ。」

「まさが助けてくれたの?」

「ぼくが川に入ろうとした先に入った晴希が見えなくなったと思ったら、浮かんでこないからほんとにびっくりしたんだ。見たら、水の中で晴希がぐるぐる回転してただ。」

「真夢君も巻き込まれないでよかった。ほんとうにありがとう、真夢君。」

晴希の母が涙ぐんでいった。

「ありがとうまさ。」体を起こしながら晴希が言った。

「いいよ、寝てて。」

「もう、大丈夫。みんなごめんなさい。」

いいんだ、無事だっただけで、と皆口々に晴希を慰めた。

「さあ、じゃ、そろそろ片付けて、みんなそろって帰ろうね。晴希君は無理しないで。」お母さんたちの指示で子どもたちは後片付けやごみ拾いを始めた。

「はるはすわっとけよ。」そう言って真夢も下級生をまとめながら片づけを手伝った。

晴希は、そんなみんなを眺めているうちに、すっかり元気が戻って来た。そしてつと立ち上がり、河原のほうへ歩いていった。しばらく何かを探すように浅瀬を歩いていると真夢のところに歩いて行った。真夢は小さな子が浮き輪の空気を抜くのを手伝っていた。

「まさ。」

真夢は浮き輪をつぶしながら振り向いた。

「これ。」

晴希の差し出した手のひらの中には小さい石が乗っていた。

「これ、今日助けてくれたお礼な。」

晴希はすっかり元気になって、白い歯を見せて笑った。

「まじ?すっげ。サンキュー。」

真夢は小石を受け取るとニコニコ笑って太陽にかざしてみた。

「すけるわけねーじゃん。」と晴希は笑った。

「ちがうよ。こうやってよく見ると光ってるんだよ。」

真夢は石を見ながら言うと、笑った。

なんて石かなあ。この辺って有名な石もあるんだよね。」

「どんな石かわかんないけど。」

「いいよ別になんでも。でも乾いてるとこキラキラしてるよ。めっちゃきれいじゃん。」

真夢が言うと、ほんとだ、ほんとだと晴希も言って二人はその石に見入っていた。遠くから準備できた人からバスに乗るようにと声がかかった。

「行こう。」

真夢は小さい子に浮き輪を渡すと、その子の手を取って歩き出した。晴希は自分の事故でこの楽しい夏の遠足が来年からなくならなければいいとぼんやり考えていた。

 

プールの水面は真夏の太陽が照り付けて作り出すまだら模様がキラキラと光っていた。その網目を一気に突き破って、プールに飛び込んだのは真夢だった。網目模様はハサミを入れるように、一気に直線状に破られていく。50メートルのプールを真夢が一気にクロールで駆け抜ける。じりじりした太陽も周囲の友人がかける声援も遠くに聞きながら、真夢は自分の呼吸と体の動きに集中して泳いでいた。

「よし、このタイムならインターハイは間違いないな。」

ただでさえ地声の大きい顧問の千葉先生が、泳ぎ終わった真夢に嬉しそうに声をかけた。真夢は高校2年生の夏休みを迎えており、7月の終わりのインターハイをかけた県大会に向けて練習に励んでいた。試合を間近にひかえ調整期に入っていたが、練習の強度は高度なものを求められ、朝からの練習で体力には自信のある真夢もそこそこ疲れ果てていた。チームの仲間と部室でプロテインを飲んでから、部長の真夢は部室に鍵をかけ、職員室に鍵を返却に行く。

「先に帰ってて。鍵置きに行くから。」

「サンキュー。また明日な。」

「もうちょっとだからがんばろうぜ。」

同級生の杉崎と神原が手を振った。

「おう、また明日な。」

真夢は二人と別れると職員室に鍵を返しに行った。夏休みの夕方は校舎の中も静かで、出くわす生徒も少ない。職員室も千葉先生と他の部活の顧問数人がいるだけだった。

「ご苦労さん。いい感じで調整できてるから、あと少しがんばろうな。」

千葉先生は明るい大きな声で言った。

「はい、ありがとうございました。」

しっかり食えよ、と笑いながら言う先生の声を後にした。

真夢は校舎を出ると、校門に向かわず、校舎の裏手にある校庭へと向かった。そこではまだサッカー部が練習する声が響いていた。走り回る部員の中には、背番号10をつけた晴希がいるはずだ。晴希は相手チームから奪ったボールを巧みにさばいてゴール前の味方にパスを送っていた。子供だった頃、二人は同じサッカーチームに入っていたが、中学生になって泳ぎが得意なことを自覚し始めた真夢は水泳部に、晴希は今までやっていたサッカーを続けてサッカー部に入部した。

「まさは、小さい頃から泳ぐの得意だったよな。」

真夢が水泳部に決めた時、晴希は小学生の頃、川で急流に巻き込まれそうになった時、真夢が自分を助けてくれたことを思い出して言った。晴希はとんでもない水流にとらえられたという感覚を覚えているが、今から思えば、それほどの深みにはまったわけではなかったのかもしれない。おぼれる時は水の深さが膝丈くらいでもおぼれることがある。晴希が危機を感じた時、真夢の手が自分の手首をとらえたのだった。太陽が水面を照り付けるあの夏を記憶の中に遠景の様に思いだしていた。

高校生になってからもお互いに同じ部活動を続けていた。だからと言って疎遠になったわけではなく、運よく同じ高校に進学できた今も幼い頃から仲が良かった関係は崩れていなかった。味方がゴールを決めると、晴希は友達のそばに駆け寄り、嬉しそうに声をかけていた。真夢は晴希たちの練習を校庭の隅から見学していた。コートの近くには記録をつけたり飲み物の用意をして部員を見守る姿があった。サンバイザーをつけてまぶしい日差しがかわいそうなほど白い肌をしたマネージャーの雪乃の姿だった。

雪乃は真夢に気が付くと、微笑んで近づいて来た。

「水泳部終わったんだ。」

「うん、さっきな。今日は一日だったから疲れたー。」

「お疲れさま。水泳部はインターハイレベルだもんね。すごいよ。サッカーは負けちゃったからな。試合もう少しなんでしょ?がんばってね。」

雪乃は手を振ってコートの近くに戻っていった。

「あ、そうだ。」

雪乃は思いだしたようにもう一度真夢のところに駆け寄ると、

「チャム元気?」と聞いた。

「うん、元気元気。だいじょうぶ。」と真夢は笑って言った。

雪乃は真夢と晴希の同級生で、中学も同じだった。高校では1年生の時から、サッカー部のマネージャーをして、今は真夢と同じクラスである。雪乃は肌が白く、上品な小顔の中にそれぞれのパーツが配分されている。多くの人数の中にいても人目を惹く子だった。特にアーモンドのように大きく、目じりの端に知性を感じさせる目はひときわ美しかった。それでも雪乃は周りが自分の美しさについていろいろ噂しているのを知っているのかいないのか、全く無頓着であった。だれとでも態度を変えず接し、同性の友人も多くいた。これだけ美しかったら、思いを寄せる男子も多くいただろうが、雪乃はいったい付き合ったことあるのだろうかと、真夢も疑問を抱くほど、周りに男子の影がなかった。サッカー部のマネージャーも自分はサッカーが好きだけど、自分でプレイできるほど運動神経がないから裏方で頑張るという理由で始めたものだった。もちろん部員と浮いた噂などなかった。

とにかくひたすら縁の下の力持ちとして部員と共に埃だらけになりながら頑張っていた。そんな雪乃の心根は好感の持てるものだった。

練習が終わって軽く水分補給をしたものから片づけに入ると、晴希は校庭の隅にいる真夢に気が付いて、手を振った。

「おつかれー。」

真夢は晴希に大きく手を振り校庭を後にした。真夢の目にはみんなのゼッケンをてきぱきと回収する雪乃の姿が見えた。真夢はたまには晴希と帰ろうかと思ったりしたが、ふと思いなおして一人で校門のほうに向かった。真夢の後姿を雪乃は黙って見送っていた。

「あれ、まさ帰っちゃったな。」

真夢の後姿を見ていた雪乃に晴希が唐突に声をかけた。雪乃はちょっと不意を突かれて

「ああ、うんそうだね。」とありきたりな返事をした。

晴希は真夢が水泳部の練習の後、時々サッカー部の練習している校庭にきてくれるのを知っていた。幼馴染の自分の様子を伺いにきてくれると思う一面と、もしかしたら真夢は雪乃の姿を見にに来ているのかと思うこともあった。今も雪乃が真夢と立ち話しているところを、晴希はコートにいながらも気が付いていた。そして、時々二人が自分にはわからないある話題を共有しているように感じることがあっって少しあせる気持ちを認めていた。晴希にとって雪乃は中学生の頃から気になる存在であった。雪乃がサッカー部のマネージャーになってくれたのは嬉しいことだったが、まだ何も行動を起こせないでいた。

 

真夢は雪乃との間には忘れられない思い出がある。中学3年の1学期の期末テスト終わってから、真夢は解放された気分で海辺のサイクリングロードを走っていた。ふと前方を見るとしゃがみこんでいる女の子がいる。真夢はそれが雪乃だということにすぐ気が付いた。そして雪乃は目の前にいる子猫を心配そうに見ていた。

「何してるの。」

「ああ、真夢・・・。」

雪乃は今学校の帰りらしく、まだ制服姿であった。子猫を撫でながら真夢を見上げて言った。

「お母さん猫がいないのかなあ。だいぶ前にここを通り過ぎた時にも鳴き声が聞こえてたのよね。その時は草の中にいたみたいでどこにいるかわからなかったけど、今日通りかかったら、道の端でないてたんだ。」

子猫は雪乃に何かを訴えるようにみゃーみゃー鳴いていた。

「連れてってやりたいけど、うちのマンション動物飼えないんだよね。」

「ちょっと待って。」

真夢は自転車のスタンドを立てると、持っていたカバンの中から水筒をとりだし、小さいカップに麦茶を注いだ。

「飲むかなあ?」

子猫はのどが乾いていたのか、麦茶をおいしそうに舐めだした。

「牛乳ならもっと良かったか?」

真夢は子猫に話しかけた。

真夢は動物好きなのかな、と雪乃は思った。自分の水筒のカップを使って猫に飲み物をあげるなんてやっぱり動物が好きでないとできないんじゃないかなどと考えていた。二人は子猫が麦茶を飲むのをしばらく見ていた。

「これからどんどん暑くなるし、この子どうなるだろうな。でも、心配しても自分は結局何もできないんだよね。」

傾いてきた夕日に雪乃のつややかな髪がキラキラと光り、長いまつ毛に縁どられた黒く美しい瞳が心配そうに子猫を見つめていた。真夢は目の前の二つの存在を見ていた。

「おれ、連れて帰ろうか。」

「え、でもそんなの真夢が大変だよ。それにお母さんにも怒られちゃうよ。」

子猫はかわいそうだが、真夢に思いがけない負担を強いることになってしまいかねないと雪乃は思った。

「うん、まあでもうちは一軒家だし、かあさん生き物が好きだからな。たぶん自分が出くわしても連れて帰るタイプだぜ。」と言って笑った。

「よし、一緒に帰るか。」

真夢は子猫を片手でつかむと。ひょいと自転車のかごに入れた。

「ほんとにいいの。」雪乃は心配そうに言った。

「なんで雪乃が謝るんだよ。おれが勝手に連れて帰るんだぜ。」と笑って言った。

「ごめん。あのさ、たまに見に行ってもいい?餌とかも持って行こうかな。」

「いいよいつでもこいよ。」

なあ、と言って真夢は子猫のひたいをこすった。

 

日が傾き始め夕日が二人を照り付けていた。雪乃はまぶしそうに額に手をかざした。

「茜さす紫野行き・・・って古文でやったよね。あれみたい。」

「野守は見ずやってやつだよね。額田王の?」

「あ、そうそう。なんかそれっぽくない?ちがうかなあ?夕日まぶしー。」

雪乃は古文の授業で習った、知識があいまいな和歌を思い出して言った。夕日があまりに赤くまぶしいのでなんとなく思いだしたのだ。授業の時には時の権力者二人も夫にした額田王はめちゃ魅力的だったんだろうか、などと考えていた。

「そうだ、じゃあおれが預かるから雪乃はこいつに名前つけてやってくれる?」

薄い茶色の子猫はくりくりとした目が愛らしかった。雪乃はチャーミングな猫ということでチャムと名付けた。

雪乃は真夢に無理をさせてしまったのではないかと気になっていた。真夢の優しさはいつも自然で他人からの気遣いや心配を無言で拒絶するような確固たるものもあった。今回もこちらがありがたく受け取るしかないと思わせるようなものを感じさせた。真夢のやさしさは意志の強さでもあるのだろうか。雪乃は子猫を真夢に託すことが真夢の好意に報いるためにできる最大のこと感じられた。

 

行き場がなくわびしそうに鳴いていた子猫を真夢は大切に育ててやった。おかげでチャムは真夢を親と勘違いしながら元気に暮らした。まるで初めからこの家の飼い猫のようであった。チャムは真夢の部屋で過ごす時間も多く、膝の上に甘えて載ってくるチャムはこの上なくかわいい存在になっていた。雪乃は時々真夢の家に餌を持って訪ねて行った。やがてチャムも大きくなると、雪乃が真夢の家に立ち寄る回数も減っていったが、チャムの安否は時々真夢に尋ねた。この子猫事件は真夢と雪乃の間では別に秘密の出来事ではなかったが、なぜか雪乃は晴希にこのことは話さずに過ごしていった。そしてそれは真夢も同じだった。晴希は真夢の家にチャムという飼い猫がいることを知っていて、実際にチャムに会ったこともあったのだが、真夢はチャムの説明を晴希にすることもなく過ごしていった。

 

高校3年生となり、真夢も晴希も部活を引退し、正月明けには大学入試が迫ってきていた。雪乃は希望大学に学校推薦をしてもらえたおかげで年越しを待たずに進学が決定していた。真夢も晴希も勉強に集中しなければならない時で部活もなくなってしまった今は、雪乃は二人との会話の回数も最近は減ってしまっていると感じていた。来年の春になれば皆それぞれの道を歩き始める。その時までに雪乃は自分の気持ちをどう片づけていけばいいのか考えていた。雪乃はずっと前から晴希が好きだった。中学生の頃から少し気になる男の子だったが、高校生になり骨格も顔だちも少しずつ変わってたくましくさわやかに成長していく晴希が心を占める存在になっていった。でも一方で真夢のこともある意味気になっていた。真夢はいつも雪乃にやさしく接してくれた。そしてあのチャムの一件も雪乃の心に引っかかっていた。真夢がチャムを拾って育ててくれたのは、チャムがかわいそうという気持ちの他に雪乃への思いがあったのではないか。そんな気持ちが雪乃の心にふと浮かぶが、雪乃は自分の思いをあえてはっきり意識することを避けていた。晴希と真夢が親友だからである。もし真夢から思いをかけられていて、自分は晴希が好きなことを知ったら、真夢と晴希はどうなるのだろう。しかし、晴希が雪乃に必ずしも思いを寄せているかもわからない。晴希との恋に破れたら、なんだか真夢とも話しずらくなってしまうような気がした。雪乃が自分の気持ちに整理がつかないのをよそに、真夢と晴希は何とか志望大学に進学を決めた。何とか三人とも春から無事に大学生になれることになった。

卒業式を数日後にひかえたある日、晴希はあることを思い悩んでいた。それは雪乃への思いである。雪乃のことは中学生の頃から、気になる存在であった。それでも雪乃があまり異性と積極的に交際するタイプでなく、男女問わず誰とでも仲良く付き合うタイプだったため、晴希も中学生の時は良い友達関係を築いている一人という感じだった。晴希はサッカー部のレギュラーで快活な性格から、女子に注目されることも多々あったし、バレンタインデーや誕生日には多くの女子からプレゼントや手紙をもらうこともあった。それでも、特定の誰かと付き合ってこなかったのは、晴希の心に住んでいるのはいつも雪乃だったからだ。晴希の心にちょっとした変化を感じたのは高校に進学してから雪乃がサッカー部のマネージャーになったことである。マネージャーになってからも雪乃はどの部員に対しても同じように誠実に接していた。しかし晴希はもしかしたら雪乃は自分がサッカー部に入ったから、雪乃はマネージャーになったのではないか、そう思う自分の感覚を根拠なく信じられるような気がしたのだ。そのことを言葉にして雪乃に聞いたことも、また自分の気持ちを素直に伝えたこともない。しかし、卒業を目の前にして、晴希は一度雪乃の気持ちを確かめたいと思うようになっていた。ただ晴希の行動を躊躇させるものがあった。それは、真夢である。雪乃への自分の思いがはっきりとした輪郭を取るとともに、もしかしたら真夢も自分と同じように雪乃に思いを寄せているのではないかという不安があった。もちろん晴希と真夢の間で、雪乃を恋愛対象とした話をしたことは今までになかった。晴希から見て真夢と雪乃も自分と同様な友人関係と思えた。それでも、これも根拠のないことだが、真夢と雪乃の間には自分の知らないつながりがあるように思えることがあった。しかし、考えても思いつくはずもなく、ただなんとなく漠然とした焦りを感じてしまうことがあった。もし真夢も雪乃が好きだったら自分と真夢の関係は、そして雪乃を含めた三人の関係はどうなるのだろう。いや、そもそも二人のどちらも雪乃は関心がないかもしれないじゃないか。それでも晴希は自分が雪乃に思いを伝える前に、真夢と向き合わなければいけない気がしていた。

晴希は校門の横の棕櫚の木の近くで、真夢が来るのを待っていた。真夢と帰るのはせっかく久しぶりなのに、心が重かった。しばらくすると、何人かのクラスメートと並んで歩く真夢の姿が見えてきた。

「あ、晴希。」

真夢は明るく声をかけた。

「何してるの?」

「べつに。たまにはいっしょに帰ろっか。」

「うんそうだな。」

じゃあな、と他のクラスメートに手を振って別れ、真夢と晴希は歩き出した。進学する大学の話や、最近の音楽の話題など、たわいもない会話をしながら、晴希はいつ雪乃のことを話そうかときっかけを探していた。そうこうしているうちに二人は真夢の家の前まで来てしまった。

「そういえば晴希のタオルが部室に残ってたって雪乃が言ってたよ。」

真夢と雪乃は同じクラスなので、教室でそんなことを言っていたと晴希に伝えたのだ。晴希は雪乃の名前が出た今、話を切り出すしかないと思った。

「なあ、まさは雪乃のことどう思う?」

「え、どうって?」

「だから、好きかどうかとか・・・。」

真夢は少し黙って考えていた。

「晴希は?」

と逆に聞き返してきた。

「好きなの?」

「うん・・・。」

おまえはどうなんだ、という言葉までいえずに晴希は口ごもってしまった。

「おれは、・・・」

真夢が言った。

「おれも、好きだけど・・・。」

晴希は緊張しながら次の言葉を待った。

「でも、それは晴希のことが友達として大切っていうのと同じ意味だ。雪乃はいい子だからな。それにきれいだよな。」

真夢はにこやかに続けた。

「おれは、これはなんとなくおれの勘だけど、たぶん雪乃も晴希のことが好きなんじゃないかな。おれはずいぶん前からそんな気がする。べつに本人に聞いたわけじゃないけどさ。なんかな、そんな気がする。」

真夢は笑った。

「雪乃が好きなら、卒業前にこくっちゃえよ。雪乃は自分から積極的に言ってくるタイプじゃなさそうだからなあ。大学に行っちゃったらそれこそやばいぞ。」

晴希は雪乃に対して真夢の気持ちが恋愛に傾いていないのを知ってホッとするとともに、急に不特定多数のライバルを意識してあせる自分がおかしくなった。

「そうか、じゃあおれ、卒業までに雪乃に言ってみるよ。」

うん、うん、と真夢もうなずいた。晴希は緊張がほぐれてから少し饒舌になり、二人はしばらく他愛のない立ち話をした。真夢が家の前で晴希の後姿を見送っていると、

「真夢。」

二階のベランダから、いつからそこにいたのか姉の紫帆が真夢を見降ろして手を振っていた。真夢もただいまと言って、家の門をくぐった。

 

 

卒業式も無事終わり、真夢は部屋でチャムを膝に乗せながら、鉱物の図鑑を眺めていたが、ふと、机の上のちいさな箱に目をやった。箱の中には小さなガラス細工のかわいい天使の人形が三つ入っている。これは、ウォリーボックスというもので願い事を書いた紙を箱に入れると三人の天使が願い事を聞いてくれるというものらしい。占い好きの4つ違いの真夢の姉の紫帆が弟の卒業&進学祝いにくれたものだった。普通だったらもう少し気の利いた実用的なものや本人がほしがっているものをリクエストしてプレゼントしそうなものだが、真夢は子どもじみた贈り物をする性格の姉が好きだった。姉なりに何か思いを巡らしてくれたのだろう。こどもだましのようだが、天使の人形はなかなか可愛らしい。真夢はこの三人の守護天使に何を守らせようかと思った。

 

「まさおじちゃんに炭起こしてもらおう。」

雪乃が声をかけた。

「よし、いいぞ。」

晴希の家族と真夢が河原にキャンプに来ると、晴希はタープなどの大きい道具のセッティング、炭起こしや調理の手伝いは真夢が率先していた。

「まさおじちゃん、はやく。」

晴希と雪乃の7歳の長男の健人が、じゃまか手伝いかわからぬ様子で真夢にまとわりついていた。そこにさらにわけのわからぬ5歳の直人が加わってくる。真夢はこのやんちゃ二人のお気に入りの大きいお友達なのだ。

「二人とも、じゃましちゃだめよ。はやく食べたいでしょう。」

「よし、こっちはできたからぼくも手伝おう。」

テントを張り終えた晴希が炭起こしにやって来た。

「じゃあ、ここはパパにまかせて、おれは食事の準備を手伝おう。」

「おう、たのむ。」

晴希は真夢に代わって火をおこし始めた。真夢はテントの下でバーベキューの準備をする雪乃のもとに向かった。

「ごめんね。ありがとう。」

大きいクーラーの中から食材を取り出し、テーブルに並べながら雪乃は真夢に言った。

「いや、それより雪乃は家からずっと準備で一番いそがしかったろ。少しすわって休みなよ。」

真夢はそういうと、折りたたみいすを広げ、魔法瓶から熱いコーヒーを雪乃に入れてあげた。

「ありがとう。うれしいな。じゃあちょっとだけ」

真夢は微笑んで、待ったなしの子供たちのためにも準備を続ける。真夢は本当に昔から優しいな、と雪乃は思っていた。真夢が優しいのは雪乃だけでなく、晴希や自分たちの子供、世間一般に対してもそうなのだ。自分だけじゃないんだ。そう思っても雪乃は時々、真夢のやさしさが周囲に対するものとは若干性質を異にするものではないかと考えてしまう時があった。

高校を卒業する時、ふいに晴希から告白があった。雪乃自身も晴希への気持をどう持っていくべきか悩んでいたから、晴希からの告白は心が幸せで満ち溢れるものだった。お互いの気持ちがわかってしまうと、少し薄情なものでそれ以前少し気にしていた真夢の存在を二人の仲に新しくできた幸せがかすめてしまった。異なった大学に進学し、高校までのように頻繁に顔を合わせなくなったことも理由の一つだった。それでも家が近所なためにごくたまに出くわすこともあった。そんな時真夢は、雪乃の近況を聞きチャムの様子を話してくれた。真夢の聞く近況に、晴希との交際も含むべきなのか。頭の中でうっすらとそんなことを思いつつ、すべて順調だと雪乃は答えていた。そんな時真夢もなんとなく雪乃の気持ちを察しているように、いつも、そうか、よかったよかった、と言って優しく微笑んだ。そして雪乃も真夢のいつも優しい人柄に、心が和む気がするのだった。

炭をおこし終えると、やれやれと汗を拭きつつ、晴希はテントの中に目をやった。そこでは真夢が雪乃を座らせコーヒーを入れてあげている。晴希が雪乃に告白してから交際が始まった。交際は順調に続き、二人はお互いへの思いを実らせて結婚した。二人の子どもにも恵まれて、幸せな家庭生活を送っている。晴希も雪乃と一緒で、高校卒業以来、自然と真夢とは縁遠くなっていて、時々近所で出くわすくらいになっていた。会う時はいつも、

「雪乃と仲良くやってるのか。」

真夢は晴希の近況と共に、雪乃との交際が順調かさりげなく聞いてきた。そんな時は晴希も短く、

「うん、まあな。」と、笑って答えていた。真夢はそんな返事を晴希から受け取ると、そうかよかったと、笑顔になっていた。

晴希は大学卒業後、地元の信用金庫に就職し、就職後数年してから雪乃と結婚した。幼馴染であることに加え、雪乃への思いを初めに伝えた友人であり、何よりも幼い頃川でおぼれかけた自分を救ってくれた命の恩人でもある真夢を晴希は自分たちの結婚式に招待した。

「晴希君と雪乃さんは私のかけがえのない友人です。二人の幸せな姿を見られることが、自分にとってはどんな引き出物にも勝るものです。」

披露宴のスピーチでは真夢はそう言って祝福してくれた。

理系科目が得意だった真夢は大学の物理科に進学した。教員過程を修了してから、高校の理科の教員となり、今も独身でいる。主に地学や物理を教えているが、文系の晴希や雪乃にしてみると、物理に始まり地層や鉱物の何に興味を惹かれるのか理解できない。

「子供の時に行ったあの川辺も地質学的にすごい興味深いところなんだ。」

晴希にしてみれば、子どもの頃遠足で行きおぼれかけた場所だったが、真夢は自分の関心からか、時々足を運ぶこともある様子だった。

結婚式をきっかけに、二人と真夢との交友はまた少し復活したかのように続いた。子どもができてからは、独身という身軽さを活用して、晴希が長期の出張で雪乃が子どもを持て余して疲れ切っている時などに遊びに連れ出すなどして、力になってくれた。そんなことをしているうちに子どもたちがすっかり真夢と友達になってしまい、今回のようなキャンプにもお助け要因としてよく同行するようになっていた。

真夢は晴希や雪乃にも以前と変わらず親切で、子どもたちもすっかりなついている。それでも、二人の姿を目の前にすると、少しだけ不穏な気持ちが晴希の心を曇らせてしまう。真夢は今回のようなキャンプでもいつでもそうだが、自分たち家族すべてに親切で、自分の役割をしっかりこなし、晴希や雪乃に楽に楽しく過ごしてもらうように働いてくれる。車も運転してくれて、晴希が遠慮してもビールをすすめ、自分は飲まない。晴希たち家族を家に送り届けてくれたら、まっすぐ帰ってしまい、必要以上に晴希たちの家庭に立ち入らなかった。用事だけをきっちりこなしてくれたのだ。

「それなのに、気にするなんてよくないなあ・・・。」

自責の念にかられながらも、晴希が気になる一つの理由は真夢が独身であることだ。雪乃を失ったことがきっかけで、それ以来恋人が見つけられないんじゃないか、ついそんなことを邪推してしまう。いつか一度だけ真夢に結婚はまだしないのか聞いたことはある。

「うーん、まだもちょっと先かなあ。」

会話が進展しないでそれきりになってしまった。

そんな思いを巡らせていると、真夢が食材をもって河原にやって来た。雪乃も後からついてくる。

「おじちゃん、はやく。」

健人と直人が真夢にまとわりつく。

「おとなしくしてないと、野菜から食べさせるぞ。」

えーやだーやだー、と子どもたちは楽しそうにしている。

野菜や肉の香ばしいにおいがし始める。焼き肉のふりをして真夢が健人の皿にピーマンを乗せると、大はしゃぎで嫌がっている。和気あいあいとバーベキューの時間は過ぎていく。

今日はいい天気で、例年よりも気温が高い。足先くらいなら水に浸るのが気持ちいいと感じられる。長男の健人は運動靴を脱いで水に浸り何か面白いものはいないかとのぞき込んでいる。

「近くで遊ぶだけだぞ。川はちょっと先でも危ないからな。」晴希が注意する。

「おれが見てる。二人はゆっくりしてて。」

真夢は河原でバシャバシャ遊び始めた健人のそばに行った。弟の直人は足が水に濡れるのがいやなようで、虫網を草の生えた周囲でぶんぶん振り回している。

真夢は小さい頃、晴希が川でおぼれかけたことを思っていた。晴希がおぼれたところは深みではなかったのだが、水底の水流が急だったようで、子どもだった真夢が晴希の手みうまく引っ張れたのは幸運だった。今から思うと川の流れに流されたというより、急流に足を取られ体が回転するような形でもがいていたと思われた。足が立つような深さで、命を落としていたのかもしれない。目の前の健人に重なるのを忌み嫌うように、真夢は昔の嫌な記憶を追い払った。健人は水に浸るのは足首まで、という雪乃とのお約束には忠実だったが、川でかがんだ際にすでにズボンは濡れていた。

「やっぱり、着替え多めに持ってきて正解だったわ。」

雪乃がやれやれという調子で言った。

「あれ、直人、どこ行ったんだろう。」

晴希が近くの草むらを見ると、さっきまで虫網を振り回していた直人の姿が見当たらない。晴希と雪乃は立ち上がり直人を探し始め、それに気づいた真夢も健人を川から上げて、二人と一緒に直人を探し出した。

「なおくん、なおくん。」

雪乃と晴希の表情は青ざめている。草むらの少し奥には大きい岩場があり、5歳の子どもでもなんとか上ってはいけそうである。しかしその岩場の下の川のは子どもがもし落ちたら流されてしまいそうな急な流れが続いている。晴希と真夢は岩場の上まで行き、川を見てみたが、直人の姿は見当たらなかった。雪乃が上がってくるのを真夢は制した。

「苔も生えていてすべりやすい。直人の姿は見えないから、二人は下流を広く見渡して。」

「わかった。」

晴希と雪乃は岩を降りて行った。真夢はもう少しいわば付近の川をよく見てみようと川のほうに岩場を降りようとした。その時登って来た岩の隙間に直人のものと思われるサンダルが片方落ちている。やはり直人はこの岩を登って川に落ちたのか。真夢は川の近くまで岩を降りて行って、直人の形跡を探した。

「直人!」

真夢は祈るような気持ちで叫んだ。その瞬間足元の岩の苔が真夢の足をとらえて、真夢は川に転落した。泳ぎの得意な真夢はその窮地から脱しようとしたが、予想外な川の水の冷たさと、昔のように鍛えていない体のためか、右足のふくらはぎがつって全く自分の意志に従わなくなってしまった。

「はるき・・・。今度は君を救えないのか。」

苦しい意識の中で、直人と晴希が重なり、雪乃の心配そうな顔が浮かぶ。ただ自分の無力さを惜しむ中で真夢の意識は薄れていった。

 

「なお、あんたどこにいたの!」

雪乃は片方だけになったサンダルを履いて片手にギンヤンマをつかんで現れた直人に駆け寄った。

「おっきいカマキリがいて追いかけてたら、とんぼつかまえた。」

直人はカマキリを追って岩場のほうに行ったが、少し上ったところでサンダルを岩の隙間に落としてしまったらしい。サンダルはあきらめて帰ろうとしたところ、奥のほうの草むらにとんぼがいるのに気づき追いかけて、つかまえた。

「網はどうしたの。」

「戻るのにじゃまだから捨ててきた。」

晴希は直人に勝手に一人でみんなから見えないところに行ってはいけないときつく言い渡した。

「ねえ、真夢は?」

直人が見つかったことに気を取られていたが、二人は真夢のことを思い出した。

「直人が見つかったって、知らせに行かなくちゃ。」

「おれが行くから、雪乃はこいつらがまたどこか行かないように見張ってて。」

そう言いながら、晴希は真夢を探しに行った。しかし岩場のほうにも真夢の姿は見えない。下のほうの岩の隙間に、直人のサンダルがあった。真夢はこれを見て、岩場を上がった先まで真夢が行ってくれていると思い、何度か足を取られそうになりながらも岩場を上がっていった。そして岩場を登りきったところで、数メートル先の川面に真夢が浮かんでいるのが見えた。

 

真夢の葬儀から1か月がたった。自分たちの子どもを助けに行ったまま帰らぬ人となった親友の死から晴希と雪乃は立ち直ることができずにいた。真夢は以前自分を救い、今度は晴希の子どもを救おうとして自分が死んでしまった。これまでにしてくれた数々のやさしさに加え、晴希は真夢の命が自分たちに捧げられるように存在していたようで申し訳なく言葉がなかった。

真夢は自分たちの子どものためにその命まで投げ出してしまった。晴希は真夢に対して抱いた雪乃への猜疑心を恥じ入る思いでいた。

そして雪乃も複雑な思いを抱いていた。雪乃も命を落としてしまうまで自分たち家族を大切にしてくれた真夢に申し分けなさでいっぱいだった。

真夢の母親から、良かったら仲良くしてもらった思い出に、息子が大切にしていた品物の中から、何か遺品として引き取ってもらえないかという申し出があった。真夢の母は二人を責めたりは一切せず、優しかった息子が本当に尊いなくなり方をしてしまったと話した。晴希は、真夢のことを忘れることなど、一生ないと思ったが、真夢の遺品を大切にすることが、自分たちのせめてもの贖罪になればと母親の申し出を受け入れた。

 

よく晴れた日曜日の午後、晴希と雪乃は真夢の実家を訪ねた。晴希にとっては幼い頃よく遊びに来た、懐かしい家だった。

真夢の母は二人を真夢の部屋に案内した。

真夢の部屋は二階にあった。机の上には何年か前に死んでしまったチャムの写真が飾られていた。

「この猫のことは、本当にかわいがっていて。死んだときには、この子立ち直れるのかしらと、心配したくらい落ち込んでしまっていました。」

雪乃がチャムの死を知ったのは、死後しばらくたって真夢と偶然道で出会った時だった。チャムの死については、言葉少なにその事実を伝えただけだった。ずっとかわいがって世話してくれていたのだろう、そう思うと真夢が本当に痛々しく、でもこの感情を晴希とは共有できず、やりきれない思いがしていた。

「専門書だったり、堅苦しい本や私物ばかりですが、よかったらお持ちください。」そう言って真夢の母は部屋を出て行った。

傾いてきた西日が強く真夢の部屋の窓から差し込んでくる。晴希や雪乃にとって意外だったのは、理系オタクなのかと思っていた真夢の本棚に地学や物理の専門書や鉱物図鑑に混ざって、文学や万葉集などの古典の本もそこそこの冊数並べられていることだった。本棚を見るとその人の性格や趣味が見えてくるというが、長年の付き合いでありながら、晴希と雪乃はいったい真夢の何を知っていたのだろう、と思われた。自分たちに見せていた真夢の側面はほんの一部だったのか。理系、鉱物、地層おたく?それをもって真夢をわかっていたような気になっていたのかもしれない。実は文学青年だったのかもしれない真夢。やさしさの奥にあったかもしれないいろんな真夢を知らないうちに真夢は逝ってしまった。強い西日は書物が整然と並べられた本棚をますます朱く強く照らしていた。

真夢の姉の紫帆は自分の部屋で机に向かい、自分がかつて弟に上げた小さい箱を手にしていた。友人が遺品を見に来ると聞いて、紫帆は弟の部屋からかつて自分が真夢に上げたウォリーボックスを持ってきていた。自分が大事な弟に上げたものが遺品になってしまった。どうしてもそれだけは姉の自分が持っていたかったのだ。

口数が多いほうではなかったが、思いやりのある仲が良かった弟を失った悲しみは計り知れない。弟は自分が上げたプレゼントを机の隅に飾っていてくれた。少女じみているかもしれないと思いつつも、真夢は何か願い事をしたのだろうか。紫帆がそっと純白の小箱を開くと一枚の小さい紙が入っていた。紙は願い事を書いてあるほうが下に向けられ、その願い事を守るかのように三人の天使が収められていた。紫帆は弟が書いた何かの願いをこのままずっと天使が守り続けるようにそっとふたを閉め、自分の机の引き出しの中にしまった。

 

終わり