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ヌブロ-2

鄙村ゆとり


約 16096

 ヌブロによって二交代制の勤務が取れるようになり、賃金体系もどうにか世間に追いついた。労働組合が発足したことで労使関係に適度な緊張が生まれ、工員が簡単に辞めなくなった。それまでは東北の鄙びた寒村から名ばかりの教育を終えた男の子をかき集めて工場に入れていた。関東では人が取れなかったからである。親元を離れて出稼ぎに来るのは農村の次男坊かそれ以下の家督を継がない男子ばかりだった。彼等には帰る場所がない。だから過酷な工場勤めにも我慢できると思って採用していたのだが、うちの工場はそんな男の子でさえ逃げ出す始末だった。それが見事に変わった。
 私は飯山に「この機に生産ラインを増やしませんか。」と提案した。飯山は怪訝な顔をして言った。「パン種はほとんど作っている。」
「増やすのはパンではありません。和菓子と洋菓子です。」
「うちはパン工場だろ。どうして和菓子や洋菓子を作る必要があるんだ。」
「パン工場だから和菓子、洋菓子を作っては行けないという法律はありません。それに確かにうちはパンから出発していますが、何も酵母だけに狭めることもありません。」
 私が言いたかったのは、せっかく工員が定着するようになったのだからここで増資して新しい商品に手をつけることだった。いまだったら工員を募集しても必ず取れる。それはヌブロが作ってくれたチャンスだと私は思っていた。
「作る場所なんぞない、うちの工場には。用地を買うのか。それは駄目だ。金がない。」
 飯山の言いたいことは分かる。人件費が上がったということは、これまでのような資金が作れないということだ。そんな折、さらに増資する危険を犯したくない。彼が消極的になっていることを分かるからこそ、私は敢えて新ラインの提案したのだ。それはつまり、循環できる資金を増やし、会社経営を効率化するためだった。現在のパンラインでは昼夜竃からパンを排出し続けても、お客様のもとに届けられる製品数は限界に達していた。ラインを増やすしかない。しかしそうすれば飯山の言う通り、いまの用地では足りない。どこかの土地を購入するか、瓢箪池を埋めて社屋を広げるか、或は工場を二階建てにして上に竃を運ぶか、いずれかの選択肢が考えられた。ただパンラインは金がかかりすぎた。土地購入も、社屋の拡大も、設備投資に金がかかる。何より堅牢な建物でなければパンラインは増設できない。そこへいくと、和・洋菓子は設備投資に金がかからなかった。というのもほとんどが手作業だったからだ。大きな竃も要らない。私が考えるところは平屋建ての工場を二階建てに改造して、上層に和菓子と洋菓子のラインを増設するということだった。
 ところが、飯山は頑としてこれを受け入れなかった。パンと違って和菓子、洋菓子は三度の食事の主役にはなり得ぬ。この時代ではまだ贅沢品だ。売れる保証など何処にもない。作れる職人をどうして集める。一度に沢山作れるパンと違い利益率が低い。少々乱暴に扱っても復元力のあるパンと違い和菓子、洋菓子は形状にこそ意味があり運ぶのに神経を使う。積んだ番中が倒れたらどうする。云々・・・考えるところはどれもこれもマイナス思考が占有していた。彼は経営者としては極めて現実的で保守的な男だった。私の提案に動いてくれるような男ではなかった。またこの頃の私は上司に直接逆らってまで自分の考えを押せるほど気概のある男ではなかった。
 私がずるいのはこういった状況になると人を頼るところである。自分に突破する力がないから代わりにやってくれる人間を探してしまう。製造部長という立場にありながら私には統率力というものが全く備わっていない。実に情けない。(本心から情けないと思っているのかというときっとそうでもない。本当の私はこれさえうまい言い訳にしている。)それならおとなしく引っ込めればいいものを、どうもそこがいい加減なのだ。自分でできないのに大きな力に寄りかかって自分の思う通りのことが進んでいくことを期待している。
 私はヌブロを利用した。飯山に勝てるのはヌブロだけだと思い、自分より低い地位の彼に自分の考えを押し付けようとした。守ってやらなければならないと思っていた人間をいつしか私は頼るようになっていた。ひょっとしたら私はヌブロがこの工場に来た初めから、こうなる関係を期待していたのかもしれない。ずるい男だ私は。だが、まだその奥にこれは私利私欲ではないからいいのだと自分を正当化する自分を認めたがっている。どうにも遣り切れない。
 瓢箪池の東側に木造二階建ての独身寮があった。ひとつの部屋に二段式ベッドが左右に六つ並び、その奥には三畳の居間があったが、独身者の荷物が所狭しと積み上げられていて座る場所もない。まさに寝るだけの場所だった。そこでヌブロは起居していた。私は仕事を終えて独身寮に戻った彼を訪ねた。乏しい月明に潜む瓢箪池では牛蛙が野太い喉を震わせていた。ヌブロは私の話を黙って聞いていた。ひとつの質問もしないで私の瞳の奥を覗き込んでいた。同じことを何度か繰り返して話していたのは、完全にヌブロに飲まれていたからだろう。言葉が少ないというのはこれほど圧倒的であるのかと、自分の軽薄さにまた嫌気がさした。
 話の最後は予想したとおりで終わった。ヌブロが「わかった」と締めくくったところで私は大きく息をついた。脇汗が開襟シャツの袖を伝って肘まで流れ出していた。
 ヌブロが一枚上手だった。いや飯山に対してではなく、私に対してだ。あくる日、ヌブロは私のところへ来て、「いまから一緒に工場長のところへ話に行こう。」という。驚いたのはヌブロがこれほどはっきりとした日本語を使うことより、私を同行させるということだった。同行でもない。彼にすれば彼こそが同行する立場であり、私が先立っていくことを言外に含ませている。瞬間、「しまった。」と思った。ヌブロは飯山に直接話すつもりはない。私が話すのを後ろで聞いているつもりだ。で、どうする。その後どうする。こんな馬鹿げたことはない。恥ずかしいことはない。製造部長が班長補佐格の後ろ盾を頼みに直訴する姿を衆目に晒すのだ。私の愚かな考えをヌブロは木っ端微塵にした。ヌブロに新ラインの提案をしてもらいたい。労働組合執行委員長という立場を使ってもらいたい。そこに私の姿はない。ヌブロという大きな樹の陰に隠れて覗き見しているだけだ。これならもう一度自分一人で飯山のもとに行った方が遥かに気が楽だ。
 ヌブロはわかっていたのだ。“私が”何をしなければならないか。昨夜の「わかった」はそういうことだったのか。私はヌブロに詫びた。そのうえでこう言わざるを得なかった。「どうか私一人で行かせてくれ。」ヌブロは黙ったまま頷いた。そして何もなかったように作業に戻った。後味の悪い始末だった。
 しかしこのことが私を奮い立たせた。飯山にもう一度、和菓子、洋菓子ライン新設の必要性を説いた。神様は時々気まぐれな結末を用意するものだ。あまりにも呆気なく飯山は私の提案を飲んだ。この前と何が変わったのか、私自身の中で起きた小さな変革が飯山にも伝わったのか。彼は私に新ライン立ち上げの一切を任せてくれた。
 結局、和菓子ラインが一年後、洋菓子ラインが一年と二ヶ月後に完成した。ヌブロがうちに来て二年の歳月が流れていた。
 
 職安(公共職業安定所)を通して多くの求職者がうちにも来るようになっていた。東北の農村から少年工員をかき集める必要もなくなり、採用する工員のほとんどがいまや関東出身の者だった。私は採用面接にも関わっていたが、高卒の女子工員を大量に採ったのはこのときが初めてだった。和菓子ラインと洋菓子ラインが出来、これらのラインは仕込みを除きその工程はほとんどが手作業であり、手先が器用で迅速に働ける女性が欲しかったからだ。一気に二十人の若い女子工員を採用した。そのうち和菓子ラインと洋菓子ラインに七名ずつ配属させた。一名は総務課に、あとの五人を食パンライン、菓子パンライン、ハードロールライン、ドーナツライン、ペストリーラインに各一名ずつ配置した。パン工場の様子が一変した。とりわけ工場の二階は宛ら竜宮城の如き様相に変わった。
 男性と女性が入り交じることでこうも変わるものだと、私はつくづく思い知らされた。あれほど暗く陰鬱だったパン工場が、いまや仕事中に笑い声さえ聞こえて来る。何処をどう見ても活気のある職場である。
 ただ、一人採用を最後まで考えあぐねた者がいた。平山ゆかり。その名は通名で、本名を孫麗琴といった。在日朝鮮人の彼女は親を空襲で亡くし、荒廃した焼け野原の東京で生きるためのあらゆる手段を使ってきたと彼女は臆面もなく話す。その敵愾心に満ち引き締まった表情に私は圧倒され、くぐって来た過去を質す気さえ喪失した。歳は他の女の子と変わらぬ十八というが、明らかに違う湿った空気を帯びていた。それがうちの工場で使えるのか、私は迷った。が、私は平山ゆかりを使ってみることにした。飯山には人事の全権を委任されていたので、私が通すといえばそれで採用が決まった。配属も私が決めた。菓子パンライン。竜宮城には向かないことは明らかだった。
 私は、ゆかりにある者と共通した雰囲気を感じ取っていた。ヌブロである。彼が初めてここに来たときの、あのおどおどした表情とは全く正反対だったが、どこかその湿った空気にヌブロが持つ生臭さと繋がるものを感じた。一言でいえばゆかりにも守ってやらねばならないと感じさせる何かがあった。こんな卑怯な男がどうしてヌブロやゆかりにそんな感情を抱くのかその時にはわからなかった。
 瓢箪池の西側にあった倉庫を取り潰して女子寮を建築した。二十人の女子工員を雇ったのだ。それは当然である。このことを巡っても飯山と私はかなり口論した。「どこまで金をかけるのか。」と。しかし私は押し切った。「従業員の福利厚生に金をかけるのは会社の使命だし将来のためだ。」と。ヌブロに植え付けてもらった小さな変革が中ぐらいまで成長していた。ところがこの女子寮で問題が起きた。盗難事件が発生した。
 被害は新人女子工員の大半に渡った。盗まれたのはいずれも現金。給料日の翌日のことだった。被害額は35000円。中には畳の下に隠しておいた給料袋ごと盗まれた者もいた。通報を受けた警察が捜査したところ、盗人は彼女達が工場で働いていた昼間、ガラス戸を破って内部に潜入し現金を持ち去った。残されていた大きめの靴跡から男性であるらしきことが判明。内部と外部両面で犯人捜索を開始した。内部に至っては当日夜勤だった者に嫌疑がかかった。昼間の犯行が可能だからだ。そして容疑者は存外すぐに見つかった。持ち去った給料袋が出て来たからである。給料袋には名前が書いてあるので女子寮から盗んだものであると断定された。それは男子独身寮のヌブロのベッドの下から出て来た。警察はヌブロに任意同行を求めた。ヌブロは一貫して「ちがう。」と言い続けた。当時の警察だ。彼に口を割らせるため手荒なことも行っただろう。しかしヌブロは断固として「ちがう。」と否定した。
 ここで私がヌブロを守らなければならない。ようやくその機会が訪れたのだ。私はヌブロでないことを確信していたが、それを明かすためには真犯人を捕まえなければならない。私は考えた。ヌブロに罪を押し付けたのは誰なのか。ピンと来るものがあったが、私はそれを信じたくなかった。
 幸いヌブロには味方が多かった。彼の無実を証すために幾人かの証人が現れた。一人は残されていた靴跡からある者を推定した。そしてもう一人はヌブロと同室の男で、ある者の侵入を目撃している。そのある者は独身ではない。ということは独身寮にいるはずがない。靴跡はその男のズック靴と一致した。そこまでの証言を得て私は、真田徳一郎という菓子パンライン、成形班の班長を呼び出した。
 真田はあっさりと自供した。「盗んだのは自分です。」と。不審に思った私は、「どうしてそんなことをした。」と訊ねた。真田は、「どうしても金が欲しかったので。」と予想された答えを返す。
「金はどうした。」
「使いました。」
「何に。」私はさも自分が検察官にでもなったような嫌な気分になった。
「賭博で擂りました。」
「全く残ってないのか。」
 力なく首を振った真田に、私は勇気を出して頭に引っかかっていたある疑念を投げつけた。
「女じゃないのか。うちの。」
 隠していた捨て猫でも見つけられた子供のように、真田は気まずそうに目を伏せた。
「渡したんだろう。彼女に。」
 観念したのか、真田は首を竦めて項垂れたまま呟いた。
「すみません高樹さん。女房に知られたら離縁です。ね、黙っててください、このとおりです。」真田は地べたに土下座した。
「ヌブロはどうする。」
「このあと、彼女達に金返して、警察に行ってきます。」
「全部渡したんだろう。だったらおまえ金なんて持ってないんじゃないのか。」
「貸し金でなんとか・・・。」
 ここまでのやり取りを私は粗方想像していた。真田をこれ以上追い込んではいけない。私は黙って用立てしておいた35000円を真田に渡してやった。真田は涙ながらにそれを受け取った。
 信じたくなかったが、ことの真相は私の思った通りだった。ゆかりは、自分の上司を誘惑し體を売った。その見返りに真田に窃盗を強要し、やらなければ真田の妻に自分との関係を暴露すると迫った。追いつめられた真田徳一郎は、ゆかりに教えられたとおりに女子寮に忍び込み、これもまたゆかりから聞いた場所にある同僚の金を次々と盗み出した。嫌疑を被らないよう自分の給料も真田に盗ませた。そしてヌブロに罪を擦り付けさせたのも彼女の献策だった。給料袋だけをヌブロの部屋に持ち込んで置いて来てはどうかと指南した。もしもヌブロの疑いが晴れて真田の犯行だとバレたとしても真田は自分を売ることはない。そこまで計算した上での平山ゆかりの犯行だった。
 ヌブロは釈放された。代わりに真田が警察に拘留されたが、盗んだ金を全て返したこと、女子工員との示談が成立したことなどから真田も直ちに釈放された。真田は金が欲しくてつい出来心でやってしまったのだと自供しゆかりのことは一切口を割らなかった。ゆかりに渡った35000円は彼女の懐に入ったままだ。
 さて私はどうしたらいいものかと頭を悩ました。誰にも相談できない。ゆかりを呼び出して真田から聞いたことを突きつけたいが、真田からは黙っておいてくれと懇願されている。況してやゆかりが逆上して真田の妻に「あんたの亭主に抱かれた。」などと告げてしまっては、身代わりとなった真田の立つ瀬がない。ここは黙ってゆかりをこのまま放置したほうがよいのか。だが、私の中ではゆかりが次なる愚行を犯さぬよう正してやりたかった。それともうひとつ35000円を経理から引き出し工場に欠損を生じさせていることも拙い。これが飯山に嗅ぎ付けられてしまえば今度は私が新たな容疑者に上がる。ひょっとして、あとのことの方が私の頭を悩ましている主原因なのでは。私は自分を疑った。卑怯者だった自分を。
 自分の行動を自己救済だとは思いたくない。疑いは消えぬが私は自分のためにゆかりを呼び出したのではない。それが嘘なら私の中にもうひとりの違う私がいるとしか説明がつかない。どちらにせよ、私は真田を裏切ったことには違いない。今度は私が彼に土下座する番だった。それはゆかりとの話のあとだと決めていた。
 真田の名前を出した途端、ゆかりは態度を豹変させた。
「それじゃあ、あたいを首にしなよ。そんでいいじゃんか。」居直る姿態は彼女が如何にして生きてきたのかを垣間見させた。
「そういう話をしているんじゃない。」私もむきになって十八の娘に声を荒げた。
「簡単に辞めるなんて言うもんじゃない。平山はここで働きたい、まともな仕事をしていきたいと言っただろ。だったらあんな真似をしちゃあだめだ。」自分の声が微かに震えているのが分かった。ゆかりに気後れしているのか。するとゆかりはそれを見越したように、さらに太々しい態度で私を圧する。
「あんな真似ってどんな真似だよ。」そう言ってゆかりは片足を木机に蹴り上げ重心を前足に乗っけて私との間合いを詰めた。白衣の作業着の胸元がやけに開いているのが気になっていたが、それを注意する以前の話だったのでここでゆかりが前屈みになり、白い乳房を私の前に露に曝け出した時、真田の不覚が分かるような気がした。娘ほどの歳差がある目の前の女子工員は湿った空気を身に纏い、男を惑溺させる術を知っている。人目を憚って応接室に彼女を呼び出したのが却って彼女を助長させたと私は後悔した。
「ねえ、製造部長さん。これだってまともな仕事だよ。」急に粘っこい声を使い、ゆかりが私の首に腕(かいな)を掛けようとした時、私は咄嗟に身を引いた。ゆかりはバランスを崩し、私の足下に頭から転がった。
「なんだい、意気地なし。」見上げる瞳に精一杯恫喝している脆さが浮かぶ。十八の子供が顔を覗かせている。嗚呼これなのだ。私が守らなければならないのは。生きるために身に付けた身に付けざるを得なかった外皮。その内に閉ざされた純度の高い生命(いのち)。ゆかりにも、ヌブロにも奥底に塵埃と隔たれた若い生命が息づいている。誰にも触られぬよう堅い堅い外皮で守られている。ゆかりもヌブロも自分たちでそれを取り出せない。それが自分たちの躯に息づいていることすら知らない。だから破壊的なもので惹起する。ヌブロは無自覚に、ゆかりは自覚的に。
 私はゆかりの頬を打った。続け様こう叫んだ。「私は意気地なしなんかじゃない。なぜならおまえを守らなければならないからだ。」まだ自分の言い逃れから外れきれない嫌悪感は残るが、確かに自分の使命には気づいた。明確になった。ゆかりはなおも挑戦的であった。
「親にでもなったつもりかい。朝鮮人でもないくせにさ。あんたに守ってもらわなくてもあたいやってけるんだ。それとも何かい。patronになってくれるのかい。だったらブツ寄越せよ。その分あんたに抱かれてやっからさ。」
 私はにやけた彼女の頬をもう一度ぶった。ゆかりの顔が忽ち忿怒に変わる。「殺してやる。おまえを殺してやる。」徒手空拳私に向かって来る彼女に私は幾らか恐怖した。女でなければ私はそこから逃げ出していたかもしれない。いやまだ臆病をその身に宿している私だ。逃げ出したに違いない。
 彼女の拳を取り上げ、私は両腕で彼女の細い體を抱きしめた。相当力を入れていなければゆかりは抜け出して暴れ出す。だから私は彼女が呼吸出来ぬ程の力でもって抱きしめた。自由を奪われてもゆかりは殺してやる、と叫び続けた。私はその声を自分の胸で覆い逆に殺した。部屋の外に声が忍び出る体裁の悪さも手伝ってのことであったのは確かだが・・・。やがてゆかりの體から力が抜けていき、「殺してやる。」が「殺せ。」に変わった時、私は全身の力を緩めた。
 結局ゆかりから金は取り戻せなかった。聞けば彼女を囲っていた無頼漢の博徒から抜けるための手切れ金に使ったらしい。それが本当かどうか、私には確かめることはできない。正直そのような世界に首を突っ込むことが怖かったし、仮にゆかりが嘘をついていたとしても、ゆかりに返す気がないのなら、私はこの金を自分で埋め合わせるつもりでいた。勿論女房には内緒でだ。当時私の給料(月給32000円)では全額差し出しても足りぬ額だ。だから私は真田が実行しようとしていたあの手を使わざるを得なかった。月賦で闇金35000円を借り工場に何もなかったかのように戻しておいた。帳簿上は金の出入りは記録されていない。これで金の工面は付いた。あとは真田に詫びるだけだった。ゆかりに口を割ってしてしまったことを。
 翌日、私は真田の菓子パンラインに足を運んだ。真田に少し時間はいいかと訊ねると、「話したんですよね。」と先んじられた。
「真田君にはすまないと思ったが、平山ゆかりをどうにかしてやりたいんだ。」
 すると真田は首を振って言う。「そんなことをすればあなただって絡めとられますよ。」
「いや、平山はわかっている。だからここで働きはじめたんだよ。」
「わかっていませんよ。あなたはあいつの本性を。」
「まだ更生の道はあるさ。」
「その若さを真に受けてはいけない。金のためだったらなんだってする女だ、あいつは。」
「平山にゆすられているのか?」真田の言葉からゆかりが彼の家庭を壊しにかかっているのではと危惧した。
「高樹さんには感謝しています。だが、もうこれ以上あなたに話すことはない。」そう呟くと真田は伏し目がちに作業に戻った。私は真田の背に無言で頭を下げた。ラインの下手からゆかりが白衣と同じ色の歯を覗かせてこちらを見ていた。彼女の大人を食ったような態度から真田の言ったとおりまだ続いていることを悟った。もう一度真田を振り返る。彼の白衣はゆかりより汚れていた。
 ゆかりの無断欠勤が二日続いたので、ライン長に代わって私がゆかりに事情を聞くことにした。ライン長は、「女は使い物にならん。」と吐き捨てた。「高樹さんの失敗だぜ。あんなのはさっさと首にしてくれ。」苦々しい顔で彼は私を睨みつけた。和菓子・洋菓子ラインとは違ってここでは女子工員は歓迎されていない。もっともゆかりを他の女子工員と同じ扱いにしてはならないことは私が一番よく分かっていた。彼女は純粋な十八の女の子ではない。その何倍もの年月で固められたに等しい厚い外皮で澄んだ他人の情感を寄せ付けない。その外皮を私は剥がそうとしているのか。果たしてそんなことができるのか。真田の言葉が脳裏にこびり付いていた。
 昼間の女子寮は住人のいないもぬけのからだった。工場にはない若い女独特の甘酸っぱい匂いがした。ゆかりの部屋は二階の東端だった。再三のノックにも反応がなかったので、私は部屋の扉を開けて立ち入った。酸っぱい匂いがさらに強まった。それは汗の匂いではなくどちらかと言えば血の匂いに近かった。ゆかりのベッドは茶色のカーテンで閉ざされていた。その前で私は遠慮気味に声を絞り出した。「おおい。平山、いるのか?」返事はなかった。「いるのか?」もう一度カーテンに息を吹きかけたところで、向こう側から衣擦れの音がした。ゆかりがいることは確認できた。「話がある。起きて来なさい。部屋の外で待っているから。」私がベッドから離れようとしたその時、カーテンが飛ぶが如く開き、ゆかりが姿を現した。胡坐をかいて笑っている。だがその姿がいけなかった。全裸で下着一枚身につけていない。
「話ならここでしなよ。」ゆかりはあの時と同じ湿った空気を躯中に漂わせ挑戦的なまなこを向けてきた。視線こそ外していたが、私は存外動揺していなかった。気持ちの中にこうなることも予想していたからであろう。
「いや、ここではできない。服を着て部屋の外に出て来なさい。」私はゆかりの反応も見ずに部屋を出た。小さな勝利をはや覚えてしまった。
 待てどもゆかりは部屋から出て来なかった。女の着替えにどのくらいの時間を要するのかわからないが、さすがに四十分あたりを超えた頃、私は痺れを切らしてしまった。部屋の中に向かって、「まだか?」と尖った声を送り込んだ。返事はなかった。小さな勝利は虚しく消えていた。ここで焦ってはいかんと自分を諭してみるが「まだか」の自分の声だけが体内に谺する。これを抑制する力が次第に弱まって行くことをどうすることもできず、私はとうとう部屋の扉を開けてしまった。抑えていた「まだか?」もやはり漏れ出てしまった。ゆかりは全裸のままベッドの脇に足を組んで座っていた。身につけていたのは衣服の代わりに咥えたゴールデンバットだけだった。その余裕に歳差と我を忘れて彼女の頬をまた打ちたくなった。「殺せ。」と言った彼女の声が思い出された。
「まだ何か用?」細い煙を私に向かって吐き出しながらゆかりは言った。二つのことを諦めた。服を着用させることと、部屋から出すことを。
「おまえはどうしたいんだ?」何から訊ねていいのかわからなくなり、私は全部をひっくるめてこんな問いを発した。
「さあ、どうしたいんだろうね?教えてよ製造部長さん。」そう言うと、ゆかりは體を反らして、組んでいた足を外して、そして開帳した。十八の體は外皮に関わりなく生々しい。どうしてそこだけ剥き出しなのか、私は懊悩せざるを得なかった。
 だが、ゆかりに誤算があったとすれば、それは私が彼女の挑発で勃起しなかったことだろう。鼬のような素早さで私の股間に手を伸ばした彼女は、計算していた大きさの物がないことを知ると何とも不思議な顔でこう呟いた。「不能(インポ)?」・・・子供のような年齢の女に起つはずがない。もう起つ歳ではない。咄嗟にそう思おうとした。不能と言われるよりそちらの方が体裁がいいと。しかし考え改めた。いや違う。私は不能なのか。そうか、私は不能なのだ。だったらこの裸体に特段の警戒など必要ない。先ほど彼女に対し抱いた暴力的欲求も瞬時に萎んだ。凝視できなかったゆかりの裸体に一瞥を呉れて、私はこう呟いた。「私は不能だからおまえが思うようにはいかないよ。さあ、さっさと服を着なさい。」
 ゆかりを菓子パンラインから外さざるを得なかった。ライン長とこれ以上揉めるわけにもいかなかったし、一刻も早く真田からゆかりを遠ざけてやるほうがよいと思った。問題は彼女の次の持ち場である。入社後わずか2ヶ月での異動は例がない。飯山からは工員の人事配置を任されていたが、次問題を起こしたらゆかりを辞めさせると告げられていた。どこにゆかりを持って行くべきか悩んだ挙げ句、ドーナツラインに欠員が出ていたので暫くはそこに配置することにした。ゆかりに持ち場を変えることを告げた。彼女は踏ん反り返って白衣の胸元を張った。
「どこだってかまやしないけど、適当にやっていいんだろ。」それがゆかりの就業継続の条件らしい。
「いい加減にしろ。ここを出たら元の木阿弥だぞ。それとも何か、若さを元手に金を稼ぐのがおまえの本懐なのか。」
「不能にはわからないだろうけど、やりたい連中はそこらじゅうにいるよ。よっぽどこんなくそパン屋より稼げるさ。」
 それじゃあ、辞めるのか、と聞けばゆかりは即座に「辞めてやるよ。」と答えただろう。そうなればあとに引けぬ彼女はさらに胸元を大きく張って工場の門を蹴って出て行くに違いない。その短兵急な性向はいくら世智に長けたといってもまだ十八だ。私は彼女をそこに追い込まぬように慎重に言葉を選んだ。
「ここにいる限りおまえはひとりじゃないんだから、つらければ相談に来なさい。」
 ヌブロがここに来た時も同じような言葉を使ったが、彼は私を一度も頼ってくれなかった。言ったあとで私は急に自信を無くした。私にはヌブロとゆかりほどの瀬戸際での経験がない。それを見越してかゆかりは鼻を鳴らして言う。
「つらいことなんてあるもんか。あたいが過ごして来たところから比べればここは天国だよ。」
 これまで天国などという言葉をうちのパン工場で使う者は一人もいなかった。いつの間にかうちは労働者にとって天国になっていたのか。
「しかし、その態度では天国にいられないぞ。これ以上仕事に穴をあけるなら私もおまえを庇いきれない。」
 暗いベッドに座すゆかりの瞳の奥に少しばかり揺らぎが見えた。
「だったら好きにしなよ。」
 私に表情を読ませたくないのか、ゆかりは耳にかかる髪を払いつつ横を向き様呟いた。
「好きにしな。」
 さらにベッドを降りて下着を身に着け始めた。
「どうせあたいはひとりぼっちなんだから。」
 さきほどより酸っぱい匂いが鼻孔を刺激した。
 
 次の日、ゆかりは素直に職場に姿を現した。新しい持ち場であるドーナツラインに。またいつ欠勤するかわからないが、根本的にゆかりは辞めたくないのだろうという確信が私にはあった。それには彼女の悪態がひとつの根拠となっていた。彼女は誰かに構ってもらいたいのだ。お金もさることながら彼女が欲しているのは親を無くしたあとの寂寞感を埋めてくれる親類的意味合いを持ったpatronだろう。彼女を囲っていた博徒と縁を切り、真田を惑溺させたものの肉体関係以上のものは得ず、私を誘い込むつもりが不能であった。彼女にはいま寂寞感を埋める対象がいない。ここを出たら元の木阿弥という意味も彼女は理解している。體を売っても寂寞感は埋まらないことを。だからゆかりは刹那であろうと何であろうとここで働かざるを得ないのである。ひょっとしてそれは次の対象を見つけるまでの外皮がさせる仮の姿かもしれない。だとしても私は彼女がここに留まってくれることを願っていた。
 時に神は残酷な願いの叶え方をする。
 それから幾日か後の晩こと、ゆかりはドーナツを揚げるフライヤーに生地を流し込む作業を行っていた。不意に目眩を起こしバランスを崩した。ゆかりの体は熱油で満たされたフライヤーに傾く。反射的に彼女は防御姿勢を取った。しかし編帽が熱油に落ちたあと、それを追うように彼女の体が突っ張った両腕を先導にフライヤーに飲み込まれていった。白衣の上着がすっぽりと浸かる。餌を奪われた猿の奇声に似た女の甲高い悲鳴が工場の天井に突き刺さる。ゆかりは自力でフライヤーから抜け出た。半狂乱で叫ぶ。「熱い!熱い!熱い!熱い!」滴る油を飛び散らせながら悶え打った。170℃にも達した油は確実に彼女の肌を焼き揚げていた。ゆかりはその場に倒れ昏睡した。
 現場は騒然となった。ゆかりの意識が有る無しを確認しようと体を揺するドーナツライン長の横からホースを持って割り入ったのはヌブロだった。彼はゆかりとライン長に冷水をぶっかけた。ゆかりの体から油を流そうとしていたのだ。ライン長はゆかりの体から飛び退いた。ヌブロはゆかりの全身に冷水を掛け流しながら、彼女の白衣を剥いだ。真っ赤に腫れ上がった二つの乳房の上から濡れた手拭を何枚も重ねた。そうして彼はゆかりを背負うと走り出した。向かう先は工場から半里離れた市民総合病院だった。
 その事故を私が聞いたのはヌブロが工場を出た後だった。自宅に戻っていた私のもとに総務課長から電話があった。すぐさま私は寝間着の上からコートを羽織り病院に向かった。
 病院には既に飯山も到着していた。ゆかりの状況を訊ねると、「わからん。」と眉を寄せて声をくぐもらせる。
「どうしてフライヤーになんかに落ちるんですか?」このような事故はいままで起きたことがなかったので私は訊ねたのだが、訊ねてから飯山に訊ねても仕方が無いことを悔いた。飯山は現場のことをほとんど知らない。案の定、「それもわからん。」と唾棄された。
 ふと、飯山の影の向こうに目をやると、白衣姿のヌブロがまだ額に汗を滲ませて地べたに座り込んでいた。ゆかりを負ぶって半里を駆けたのだ。相当疲れていたはずだ。私はヌブロに近寄って彼の前で屈んだ。
「ご苦労だったな。総務課長から聞いたよ。平山をここまで連れて来てくれたんだってな。」
 ヌブロは黙ったまま頷いた。私は彼の汗で湿った白衣の肩のところをポンポンと二度叩いて言った。「あとのことは心配するな。おまえは工場に戻れ。」
 するとヌブロは言った。「真田だ。」
 肩に乗せた手を止めて、私はヌブロの瞳を覗き込んだ。彼はさきほど私が飯山に訊ねたことを代わりに答えたのだ。
「本当か?」
 ヌブロはまた頷いた。
「どうしてわかった?平山がそう言ったのか?」
 ヌブロは首を横に振った。
「ならどうして?」
「膝に餡がついていた・・・白い。」
 ヌブロがはっきりと喋ったことにも驚いたが、それにも増してヌブロの洞察力に驚嘆した。ヌブロが言う所はこういうことだ。ゆかりのズボンに餡がついていた。それは白餡だった。パン工場で餡が白衣につくのは決して珍しいことではない。だがその種類と場所と部位が問題だ。ゆかりの持ち場であるドーナツラインにも餡を使った製品はある。ただしそれは濃い血の色をした小豆からできるこし餡ドーナツだ。白餡を使った製品は作っていない。つまりドーナツラインにいる者の白衣に白餡が付着するはずがないのである。また膝というのが奇妙である。ヌブロはゆかりの白衣の上着を脱がせたがズボンは脱がせていなかった。とすれば白衣のズボンの膝に白餡が付着していたことになるが、普通そのようなところに着くことはまずない。およそ白衣の上着の袖やお腹部分に付着するのが常である。それが膝に付着していた。これは何者かに膝を掴まれた際、掴んだ者の袖や手に付着していた白餡が移ったと考えるのが妥当だ。そして白餡を使用しているラインと言えば菓子パンラインしかうちではない。且つ餡を触るところと言えば、生地に包み込む成形班である。フライヤーの側で生地を流していたゆかりの膝を掴み上げてフライヤーに突き落とした者がいる。それは菓子パンラインの成形班の者、即ち真田だとヌブロは言うのである。しかしヌブロはゆかりに冷水をぶっかけたはずで、その時に付着した僅かな白餡などは流されるであろうし、また識別しにくい白いあんこをよくぞ見つけていたものと私は感心した。
 おそらくヌブロの推理は間違っていない。だが、その証言で真田の犯行を断定するのは難しかった。目撃者がいない。唯一ゆかりが他人の犯行だと証言した上で背後に迫った真田の姿を目視していたならば真田を抑えることはできるだろうが、それにはゆかりの生きている声を必要とする。果たしてゆかりは生きていられるのか。私はヌブロの推理なんかよりそのことだけに気を取られていた。彼女が生存できることを願った。
 私なんかの願いが叶ったというには烏滸がましい。ゆかりの体内の生命力が外皮の損傷よりまさったというべきか。躯の半分ほどに重度の火傷を負っていたがゆかりは助かった。
 病床のゆかりを私は見舞った。両眼以外は包帯でぐるぐる巻きにされた彼女に私が最初に言ったのは、「おまえをドーナツラインにした私の責任だ。すまない。」結局のところ自分の罪を軽くすることばかり考えていた。何を期待していたのか、ゆかりに許すと言って欲しかったのか。或は真田の罪を自分が被って善い恰好したかったのか。私の外皮の中は、ヌブロやゆかりとは全く違った嘘で満ちあふれている。
 ところがゆかりはそんな愚かな私とは遠く離れたところにいた。
「オモニに近づけた。あたいオモニに近づいたんだよ。」彼女の謂わんとするところは空襲で焼け死んだ母親と自分が同じ苦しみを味わえたということだった。死ぬる程の熱さを同じ朝鮮人の躯で感じた。私には彼女の馬鹿げた言動を月並みな老婆心から諭すことしかできなかった。
「おまえは生きているんだ。せっかく生きているんだ。命を大切にしなさい。」私の浮いた科白が意味も無く消えて行った。
 ゆかりは濡れた瞼を細めて私を怨めしそうに見つめた。堪え難い呵責に私は思わず目を背けた。心で呟く。私に守れるのか、この清い命を。
 命は助かったものの包帯を取った後の彼女の皮膚は、幾箇所にも爛れてケロイドができていた。美しかった十八の顔にも赤く盛り上がったケロイドが飛散し、頭部の髪はほぼ抜け落ちていた。私は再び目を背けなければならなかった。
 ゆかりが退院するまでに私には片付けておかなければならない仕事があった。真田のことである。ヌブロの言うとおり真田がゆかりをフライヤーに突き落としたのか、それを私は調べなければならなかった。確かに疑惑を抱く点はある。ゆかりに弱みを握られ窃盗を行い罪を着せられ、なおゆかりの肉体に執着してきた男。それを断ち切るために眩惑の體を消してしまおうと思うのは道理がいく。ゆかりから確かな証言を得られればよかったのだが、彼女は私の「どうして落ちたんだ?」の問いに、「目眩を起こした。」としか答えなかった。目眩で落っこちるほどフライヤーは低位置になかった。目眩を起こしたならばフライヤーの淵で体をぶつけて脇で倒れたはずだ。自分から飛び込まない限り、或は誰かに放り込まれない限りフライヤーに体が嵌まり込むことなどあるわけがない。しかしゆかりは真田の名前はおろか、誰かに放り込まれたとは言わなかった。何をして、彼女は真田を庇うのか。
 その答えを彼女から得ることはできなかった。平山ゆかり、本名孫麗琴が自ら命を絶ったからである。
 半月の夜、病院の屋上に昇った彼女はストーブから抜き取った灯油を頭から被りマッチに火をつけたのである。火は瞬く間に彼女の渇いた躯を取り囲んだ。焼き爛れても助かった命を彼女はなおも焼いた。外皮を焼いただけでなく骨まで焦がした。明くる朝、屋上で彼女を発見した看護婦は、その黒い干涸びた物体が十八の少女であるとはとても思えなかった。
 ゆかりの焼身自殺で私は悟った。その仮説を正しいものにするためにも私は真田から直接聞かなければならなかった。私は彼を駅前の混み入った騒がしい飲み屋に誘った。人の耳目を気にしなくていい場所だからだ。
「ゆかりに頼まれたんだな。」
 果たして真田は私が思ったとおりの答えをした。
「もうここまで来たらあいつの走狗ですよ。頼まれればやるしかない俺には。」
「窃盗どころではなかったんだぞ。人殺しの罪になるところだった。」
「かまやしませんよ。どのみち俺には戻るところはない。」
「家があるだろう。どうしてそんな馬鹿なまねを・・・。」
「妻にも離縁されたんです実は。ゆかりのことで。だからあいつにどれだけ溺れてももうよかったんです。だけどあいつは死ぬことしか考えていなかった。」
 真田はコップを強く握って酒を呷った。
「ところがいざ死ぬとなると踏ん切りがつかないと言うんです。」
「当たり前だ。あの若さでどうして踏ん切りがつく?」私はそんな相談を真田にしていたゆかりに悋気を覚えた。死んでからの悋気?不能の私が?一体何故?
 私の内外の疑問などに構わず真田はゆかりとの間際のやり取りを想起する。
「それで、躊躇っていたら手伝ってくれと。」
「仕事中に死ぬ気だったのか?」
「どこでもよかったのでしょう。身を焼けるところなら。だけど初めは介添えが要った。だから工場でやった。」
「見てたのか?平山がフライヤーに身を落とそうとしていたところを?」
「ええ、少し離れてね。後ろに張り付いていたら怪しまれます。」
「それでも十分怪しかっただろうが。で、平山が躊躇っていたのがわかったんで手助けしたというわけか?」
 真田は充血した目で頷いた。酒も入り顔面は真っ赤に染まっていた。
「誰も見ていないのを確認して、あいつの足を掴んで投げ込んでやったんです。ですが、直後に大きな奇声を発して油の中から飛び出してくるじゃないですか。これじゃあまるで俺が一方的にやったかのようじゃないですか。慌ててすぐにその場を離れましたよ。俺はあいつに頼まれたことをやっただけなんだから。」
 これでゆかりが真田の名前を出さなかったわけは理解できた。死に切れなかった恥も感じていたのかもしれない。しかし未遂で終わらせるわけにはいかなかった。次は幇助を期待できない。だから単独病院での焼身自殺に至った。しかし何故ゆかりはそうまでして母親の後を追いたかったのか?