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直虎、井伊谷に立つ

だぶんやぶんこ


約 24387

井伊家に迫る存亡の危機。
やむなく直虎は、井伊家を守る戦いに立ち上がる。
祖父の妹、直の方(家康の妻、瀬名姫の母)を心の支えとし、直政を守り家名・伝統を引き継がせ、井伊家の反転上昇の機運を創る。そして、井伊家の飛躍を家康に賭ける。
揺るぎない信念を持ち続け、大きな実を結ばせる。

滅亡目前の関東武士の頂点に立った足利氏姫。
関東足利氏嫡流の血を受け継ぐ唯一の人として、気高く不退転の決意で足利氏を率い、喜連川藩を起こす。
江戸幕府将軍、家光を育てた春日局。
優秀な近習を配し、彼らと共に厳しくも優しく育てた家光は、江戸幕府を盤石にする将軍となる。
幾多の絶望の淵を乗り越え、思い切りよく生きた足利氏姫・春日局の先駆けとも言えるのが、直虎だ。
 
 

目次

一 直虎、出家する
二 直盛の決断
三 直(なお)親(ちか)、当主に
四 直虎、当主に
五 追い詰められる直虎
六 井伊谷城主、直虎の治世
七 井伊谷城を奪われる直虎
八 直虎と直政
 

一 直虎、出家する

一五四三年、井伊家嫡流の一人娘、直虎は七歳で父のいとこ、一歳年上の直(なお)親(ちか)を婿養子とする婚約をした。
ところが婚約後、二年も経たない一五四五年、直虎は、九歳で直(なお)親(ちか)と離れ離れになる。
直(なお)親(ちか)の父、直満が一五四五年二月四日謀反の罪で殺され、謀反人の嫡男、直(なお)親(ちか)も同罪だと追手が迫ったからだ。

父、直盛は、今川氏・小野氏の動きをすべて把握し、秘密裏に直(なお)親(ちか)を逃がすよう命じた。
直虎には心配させないよう何も告げなかった。直(なお)親(ちか)の逃亡の成功を知ると今川義元に「直(なお)親(ちか)の死」を報告する。
詳しい話を聞かされなくても、直虎は家中のざわめきと近くの直満の屋敷の動きから何かあったとは分かった。
直満・直義の葬儀が行われたことを知り、事件の概要を徐々に理解し直(なお)親(ちか)は生きていると思う。
 
戦いに明け暮れ駿府に居る時も多い父だが、以前と変わらず武芸・兵法など武将として身に着けるべき事を教えてくれた。
また、学問にも励むようにと識者が招かれ、井伊家を受け継ぐ姫として備えるべき教養も変わらず学ぶ。
母からは、女人としてのたしなみも教えられ、花嫁としての心構えも教えられた。
直(なお)親(ちか)がいなくなっても変わらない暮らしが続き、直(なお)親(ちか)は生きていると確信する。
 
 間もなく義元は、直虎を人質として駿府に送るように告げる。
かって井伊家は今川家と戦いを繰り返し、義元に対しても家督引継ぎの時・北条氏の河東侵攻の時・直満らの謀反と裏切った。
その為、父、直盛から直盛の母、浄心院へ、父の叔父たちへと代わりながら駿府に人質を出し忠誠を誓った。
そして、直虎が望まれたのだ。
父、直盛は、祖父、直宗・曾祖父、直平と違い駿府での人質の暮らしが長く、義元の信頼を得ており高圧的ではなかったが。
 
直虎は、中野氏・小野氏の女人を守役側近としている。
特に中野直(なお)由(よし)の妻や娘は身近で家族のようだ。直虎が直(なお)親(ちか)と婚約しても、皆、直虎側近として変わらず仕え、和気あいあいと良い雰囲気が続いている。
武芸の大好きな直虎は、おとなしく気取ったように見えた直(なお)親(ちか)とは違和感があり、話が合わなかった。直(なお)親(ちか)が居なくなっても特別な感情は起きなかったが、詳しい様子を知りたかった。
父、直盛に直接聞きたいが、父が話題にすることはなく聞くべきでないと感じ、そっと胸にしまったままだった。
そこで、思いのままに話せる守役の中野直(なお)由(よし)の妻に直(なお)親(ちか)への不可解な思いをぶつけ、次第に全貌を知っていく。
直満・直義らが殺されたこと、直親が隠れていることなどなどだ。
 
ここから、直虎は、室町幕府末期の政治情勢、井伊家の置かれている立場を学び理解していく。
そして、母、千賀に慌てて逃げた直(なお)親(ちか)の真摯な思いを聞きたいと迫った。だが、母は答えなかった。
母、千賀は、新野親矩(にいのちかのり)との仲が良く、今川氏よりの考え方をしている。
その為、父、直盛は母を悩ますようなことは伏した。
 
だが、直虎は、探求心が旺盛で納得しない。
直(なお)親(ちか)に父、直満の死をどう受け止めているのか、井伊宗家に対する忠誠心はどうか、直虎に対する想いはどうか、などなど知りたくてたまらない。
直(なお)親(ちか)は、直盛の指示で逃げており今後に対する指示を待つべきだと、分をわきまえたつもりで何もせず、ひたすら待っていた。
 
井伊家中は義元の意向を重んじる七人衆が仕切っており、直盛は死んだはずの直(なお)親(ちか)の話はしない。直(なお)親(ちか)を安全に守るよう命じたが、その先はまだ見通せず、謀反人の子となった直(なお)親(ちか)の処遇、井伊家の進むべき道をどうすべきか迷った。
それ以上に、直虎を人質に出さない方法に頭を悩ました。
今川勢の一翼を占め果敢に戦い井伊家の力を見せることで、のらりくらり逃げるしかない。
 
直虎と直(なお)親(ちか)は、意思の疎通がないまま、時が過ぎる。
直虎は、後継に悩む父を見かねて「父上の跡継ぎは私しかいない。任せてください」と笑って力づけ、文武の修行に励む。
父は嬉しそうに、にっこりとうなづくが、義元の考えは変わらない。
 
一五五〇年、直虎が直(なお)親(ちか)と離れ離れになって五年が過ぎた。
一四歳の大人となった直虎は「次郎」として生きる事は難しいと悟る。成長と共に父母や今川家・小野家・奥山家の考えを理解できるようになったのだ。
自分は女人であり井伊家を継ぐのは難しい。血縁の濃い男子、直(なお)親(ちか)が継ぐべきだと、悔しいが納得した。
 
直(なお)親(ちか)は今でも、義元から見れば謀反人、直満の子だ。
直虎は、直(なお)親(ちか)の松源寺での暮らしの様子を密かに逐一知っていたが、直(なお)親(ちか)が戻れるかどうかはわからない。直(なお)親(ちか)から直接、近況を伝える便りもなく、苛立つことも多くなる。直盛の庇護で直(なお)親(ちか)の暮らしは成り立っており、直虎に便りを出したい想いが強ければ、道はあるはずだが便りはない。
しかも、直(なお)親(ちか)には伴侶同様の女人がいると知る。
 
今川義元が直虎の駿府入りを迫っていることを知り、父、直盛が義元の追及をかわす為に苦労しているのを肌で感じる。
何をすれば井伊家の為に、父母の為になるのか、悩む。
そこで、亡き人の供養に行くとの名目で井伊家の菩提寺、龍潭寺(りょうたんじ)に再々お参りに行き、南渓瑞聞(なんけいたんぶん)住職に相談し「亡くなった直(なお)親(ちか)の菩提を弔う」との口実で出家するのが一番良いと考える。
「いずれ、直(なお)親(ちか)殿が戻れる日が来るはずだし、家督を継ぐのが一番良いのだ。このままでは、駿府に行かなくてはならないし、義元様から婿を決められる。それだけは避けたい」と覚悟を決めた。
こうして、直虎は、父母に井伊家の家督争いから身を引く決意を話す。
父母も、当面は仏門に入ることが良いと考え南渓瑞聞(なんけいたんぶん)と打ち合わせており、直虎の決意を待っていた。
 
南渓瑞聞(なんけいたんぶん)も何度も話し合ったうえで直虎が出した結論に、大きくうなずき喜んで受け入れる。
ただ出家名は「次郎法師」とした。「いつでも還俗(げんぞく)出来る名です。このことを忘れられないように」と南渓瑞聞(なんけいたんぶん)は念を押した。父、直盛と母、千賀のたっての願いだった。
直虎は、還俗(げんぞく)出来る男子名で僧となることを了承した。
 
それでも直虎は「誰とも結婚しません。家督を継ぐ意志はありません」と父母に固い覚悟を話した。
心中「家督を継げないならば井伊家に居る必要はない。尼僧として(南渓瑞聞(なんけいたんぶん)のような)名僧になる」とさばさばしていた。
人生最初の大きな選択だった。
 
がっくりしたのは、嫡男、政次と直虎の結婚を望んでいた義元の付家老、小野政直だ。
政直は義元から筆頭家老に抜擢され、今川家に絶対的忠誠を誓い井伊家のために懸命に働いた。
義元はその働きを評価し強力な後ろ盾となったが、直虎と政次との結婚を後押しすることはなかった。
 
それから四年が過ぎる。
政直は筆頭家老としての役目を果たしつつも、直虎は出家し直(なお)親(ちか)を殺すことも出来ないままの状態にイライラが募る。
「いくら努力しても井伊家を率いることはできない」とため息をつくことも多くなっていた。
そんな中、一五五四年、亡くなる。二三歳の嫡男、政次が継ぐ。
 武田信玄の信濃侵攻に合わせたように気力に溢れていた壮年の筆頭家老、小野政直が亡くなった。
出来すぎた不思議な話だ。
直虎は父の企てだったのかもしれないと思う。
同じ頃、直(なお)親(ちか)から、井伊家に戻りたいとの必死の嘆願が届く。
直盛は、武田氏に刃向かい負けて従った松岡貞利が直(なお)親(ちか)を匿うことは難しいと、よくわかっていたのだ。
今川氏と武田氏は固い同盟で結ばれていた。
 
直盛は、政直が亡くなり悲しむそぶりを見せつつも、ようやく時が来たとの思いだ。政直の行政力は認めたが、井伊家中への影響力を伸ばしていく様子を苦々しく感じていたのだ。
また、直満・直義を殺したのは許せず、直(なお)親(ちか)を殺そうと追い詰めたのには怒った。
当主としての地位を取り戻すべく、政直に従った家臣を排除し一掃していく。
今川義元は直満・直義を謀反人として罰し謀反人の子、直(なお)親(ちか)の処罰は命じたが今川勢を派遣してまで捕えることはなかった。
政直の一存で直(なお)親(ちか)を追い殺そうとしたのだ。
直盛は、政直が亡くなった今、直(なお)親(ちか)を連れ戻すチャンスだと思うが、直(なお)親(ちか)が井伊家にふさわしいかどうかまだ、思案していた。
 
それでも、小野氏の影響力を排除し当主としての落ち着きと余裕が出ると、直(なお)親(ちか)を呼び戻そうと決める。
直虎と結婚させ井伊家らしい独立性のある治世を共に行い引き継がせることができる気がしたのだ。
直(なお)親(ちか)の日ごろの行状も知っており、腹立たしい思いもしていたが「まだ若い、やり直させる」と思いを新たにした。
一五五五年、直(なお)親(ちか)は近従を伴い、松源寺を出立し一〇年ぶりに故郷の地に戻る。
 
直盛は、ひとまず、直(なお)親(ちか)を井伊谷の北方、渋川の地にある東光院で待つように命じた。
家中での調整がつき次第、本丸屋敷のある井伊城に呼び、じっくり今後のことを話し合うつもりだった。
直(なお)親(ちか)には、父の死を聞かされ今村正美の言うままに逃げ込んだ東光院だ。かっての衝撃がよみがえる。
いらいらしつつ、直盛の命令を待つ間に、奥山氏の娘、ひよと結ばれてしまう。
怒った直盛は、直(なお)親(ちか)にひよとの離縁、直虎との結婚を命じる。
だが、直(なお)親(ちか)は「長年井伊家を離れていた私には当主の任は重すぎます。(直虎に)良き婿をお迎え下さい」と断わる。
直(なお)虎(とら)の婿に選ばれた為に義元が怒り父、直(なお)満(みつ)が殺されたのだ。そこには、直盛の影があると感じており精一杯の抵抗だった。
 
直(なお)親(ちか)は井伊谷城に入ることを許されず、祝田(浜松市北区細江町)の屋敷に住まうよう命じられた。苦労を重ねて耐え戻ったのにこの仕打ちはひどすぎると、がっくりだ。
それでも、奥山朝利・朝宗(ともむね)に励まされ、精一杯の威厳をもって屋敷に入り、結婚式を挙げた。
朝利は自信にあふれた口調で「しばらくの辛抱。必ず時が来ます」と長期間の留守を埋めるように井伊家の置かれている状況を話す。そして、当主として知っておくべき種々の情報を教えていく。
 
直(なお)親(ちか)はその言葉を信じ身の安全に気を配りつつ将来に希望を持ち、新婚生活を楽しもうとするが、心中は複雑だった。
だが、権謀(けんぼう)術数(じゅつすう)は苦手で花鳥(かちょう)風月(ふうげつ)を愛(め)で笛など吹いて過ごすときが一番和む性格だ。文人として教養を積み、自分を活かした井伊家当主としてのあるべき姿を描いており当主になりたかった。
主君、直盛を裏切った思いは心の奥底から離れず、許されないことをしてしまった後悔の念も持ち続ける。
 

二 直盛の決断

直盛は、直(なお)親(ちか)を井伊谷城に迎え、心弾んでいた。
井伊家の為に苦労を重ねて耐え、今川勢の一角を担い戦い続け、義元の信頼を得た。直(なお)親(ちか)を義元に引き合わせ許しを得て、直虎と直(なお)親(ちか)の結婚を願い実現させる自信があった。
その前に、直(なお)親(ちか)に当主としての心構えを理解させようとしたが裏切られたのだ。直(なお)親(ちか)を、即刻、追放処分にすると怒りに震えたが、後継に一番ふさわしい人物であるのは確かでどうすることもできず、苛立ちが残る。

直盛は、直(なお)親(ちか)と歯車がかみ合わなかった。直(なお)親(ちか)と井伊家の為に良かれと考えたことがいつも予想外の結果となるのだ。
運命の皮肉を呪いながら、直虎を呼び「後継は姫しかいない」とため息をつく。
直虎も父の期待に応えたい思いで胸いっぱいだが、口には出せない。
出家しても自由を束縛されることはなく、再々井伊谷城に戻って父母との時間を過ごし、家中の様子、重臣のそれぞれをよく見ている。
 
かって、父は「直(なお)親(ちか)はあきらめた。義兄(新野親矩(にいのちかのり))の嫡男との結婚を考えた」と話した。
今川氏に縁のある直虎のいとこであり、義元が納得できる婿になるはずだった。
だが新野親矩(にいのちかのり)には姫ばかり生まれ、嫡男はなかなか生まれず、ようやく生まれた嫡男、甚五郎は直(なお)虎(とら)より一〇歳も年下だった。
そこで、父は、新野親矩(にいのちかのり)に「相応の養子を迎えて欲しい。(直虎の)婿にする」と打ち明けていた。
主君筋の養子であれば、実子を差し置いて嫡男とすることはよくある事であり、義元も納得することだ。
 
新野親矩(にいのちかのり)も合意し義元に養子を願うが答えはなかった。ただ直虎に「人質として駿府で住まうように」言うのみだった。
義元は自分の目で「(直虎が)どのような姫か」と確認したかったが、仏門に入り機会を失った。
現在、直盛と新野親矩(にいのちかのり)は力を合わせて義元に忠誠を尽くしており、義元に不満はなく井伊家後継を急ぐ必要もなかった。
万が一、当主が亡くなっても城代を派遣し治めればいいのだ。
それから当主を決めても遅くはない。井伊家を直轄領にしてもいいとの考えだ。
 
直盛も直(なお)親(ちか)と直虎との結婚が一番の望みだ。義元の対応は思い通りで、後継者の決定の先延ばしを喜んだ。
だが、井伊谷に戻った直(なお)親(ちか)に裏切られ、見限り後継から外そうと考える。
かって、一門、中野直由の嫡男、直之と結婚させたいと思った時もあったが、すでに結婚していた。
新野親矩(にいのちかのり)に養子を迎えさせて、その子と直虎の結婚で後継とするしかなかった。
意を決して直盛は義元に井伊家の内情を話し「娘と新野親矩(にいのちかのり)の子の結婚」を願う。
義元は、直(なお)親(ちか)を隠していた不満はあったが自明のことであり、直(なお)親(ちか)が後継から外れることに納得した。
すると、また、井伊家後継を急いで決める必要がなくなった。
直盛に何かあれば、新野親矩(にいのちかのり)を城代にし、ゆくゆくは井伊家を除き、今川家一門の支配下に置けばいいのだ。
 
直盛は、義元が動かないことにいらいらしつつ、時間がたつ。直虎は次第に結婚適齢期を過ぎ、子を産むには遅い年になっていく。どうしても直虎に婿養子を迎えさせたくて、新野親矩(にいのちかのり)に養子を急ぐように強く言う。
家中には直(なお)親(ちか)を後継とするとは言わず、直(なお)親(ちか)を直虎の婿養子とすると表明したままの状態が続く。
直(なお)親(ちか)の結婚は公にはなっていない。直盛が認めていないからだ。
 
直虎は、僧として生きるもよし、還俗して結婚するもよしと、気にしない。
南渓瑞聞(なんけいたんぶん)のすべてを学びつくすと、悠々と修行を続けた。
中野直由の妻や娘らが常に側におり、父母との連絡は絶やさず、再々会いに行く暮らしは変わらない。
 
直盛と直(なお)親(ちか)に緊張感が続いたまま、五年が過ぎた。
そして、一五六〇年、桶狭間の戦いが起きる。
直盛は、今川義元に従い、先鋒の大将となり出陣した。義元の信頼の高さであり、井伊勢の強さゆえだ。
だが、義元は織田信長勢により殺される。
直盛は生きていた。逃げ切れる可能性に賭けるべきだと考えたが、義元の信頼を得て今川勢の重要な一翼を担っていた。
織田勢に囲まれており、与えられた役目を全うする責務を捨てきれなかった。
中野直由に井伊谷城を守るように言い残し、信長勢に戦いを挑み死ぬ。小野政次の弟、朝直も奥山朝利の嫡男、朝宗(ともむね)も共に討ち死にした。
桶狭間の戦いは、信長を天下人にする道を作ったが、井伊家の屋台骨が崩れた。
 
直盛が亡くなり、直虎と新野親矩(にいのちかのり)の養子との結婚は、消えた。
 

三 直(なお)親(ちか)、井伊家当主に

中野直由は主君の遺命だと井伊谷城代となり、井伊家を率いる。
直盛は後継を指名せずに亡くなった。後継当主は誰がふさわしいか、家中は紛糾する。
 
奥山氏・鈴木氏・新野親矩(にいのちかのり)らが、すでに二五歳になっている直(なお)親(ちか)を当主とし、井伊城本丸屋敷に迎えるべきだと強く求める。直盛は、直(なお)親(ちか)を養子とすることなく、ずっと不安定なまま捨て置いていた。
多くの意見が出たが、直盛の意向がどうであれ後継は直(なお)親(ちか)しかいないと家中は一致した。
 
直虎には、父の死は受け入れられないほどつらく、悲しかった。どんなに無念だったかと思うと胸が張り裂けるようだ。
そして、井伊家当主への道を断ちけじめをつける。父ではなく家中の望みを素直に受けるべきだと考えた。
直(なお)親(ちか)が当主になる事に賛成した。
二四歳で人生最大の別れを経験し、世の無常を知り、信仰への思いを深くする。
出家してよかったと思う。
 
直(なお)親(ちか)は井伊家当主として井伊谷城入りをする。
いつかこの日が来ると信じてはいたが、あまりに急な展開で信じられない思いだった。
喜びがこみ上げ、待った甲斐があったと、ひよや奥山氏一族と共に祝う。
一番信頼していた朝宗(ともむね)を亡くしたことはつらかったが、朝宗(ともむね)が死と引き換えに直(なお)親(ちか)を当主としたのだと心する。
 
直虎は、父が悩んだこの五年間を不思議な思いで見つめる。
直(なお)親(ちか)がなぜひよと結婚したのか、今もはっきりとはわからない。
直(なお)虎(とら)との結婚に息苦しさを感じ、結婚なしに当主になれると確信したのだろうが、井伊家の為には父の意向を大切にすべきだ。直盛の意向に沿い家中の総意を得て当主となることが、直(なお)親(ちか)の目指す名君の第一歩のはずだ。
 そして、奥山朝利の底知れない野心をあちこちに見る。朝利は縦横無尽に見事な結婚を実現し、井伊家中の大半に影響力を及ぼしていた。
井伊家中で重要な位置にいる叔父(母の兄)新野親矩(にいのちかのり)の妻は朝利の妹。
最も気が合った筆頭家老の弟、小野朝直の妻は娘。
父が婿養子としたいと考えた中野直之の妻も娘。
彼らの結婚は、直虎が出家してからだが、父、直盛は、事後承認しただけだ。
この頃、直盛は直虎を直(なお)親(ちか)と結婚させようと考えており、朝利のあまりの手回しの良さに驚くことはあっても、別段、井伊家に不利益はないと結婚を認めた。
いずれ、直虎・直(なお)親(ちか)の家老となる二人であり、井伊家一門として結束を強めることになると疑いを持たなかった。
 
ところが、直(なお)親(ちか)は直虎と結婚せず、朝利の娘、ひよと結婚した。
直盛は怒り直(なお)親(ちか)に別れるよう命じたが応じなかった。その時、父は、朝利の野心を腹立たしく知った。
 
一方、出家した直虎の元に、中野直之・小野朝直がよく来ていた。一族が直虎に仕えているからだが、世の情勢・義元の近況を話し、井伊家の戦いぶりを自慢する。彼らとの話は面白い。
また、彼らの義兄、朝宗(ともむね)も直虎に会いに来る。
朝宗(ともむね)は「(直盛が)直(なお)親(ちか)を正式に養子にするように口添えして欲しい」と頼むが、直虎は何も答えない。
中野直之・小野朝直は直虎を裏切った直(なお)親(ちか)に許せない思いを持っており、知らん顔だった。
 
直(なお)親(ちか)は、直盛の養子になりたかった。井伊谷城にも入りたかった。家中に後継だと表明して欲しかった。
時が経ち焦り始め、朝宗(ともむね)ではらちが明かないと自ら龍潭寺(りょうたんじ)にいる直虎を訪ねるようになる。
直虎には直(なお)親(ちか)を当主に推す気はなく世間話しかしない。静かに父の決定を待つだけだ。
直(なお)親(ちか)は不安定な身のまま、いらいらと時を過ごす。
 
天は直(なお)親(ちか)に味方し、直盛は亡くなり、義元も亡くなった。
今川家中が混乱している最中、直(なお)親(ちか)が井伊家当主となり既成事実を作った。
 
直政が生まれる前年、一五六〇年の正月、直親はひよとともに龍潭寺(りょうたんじ)の南渓瑞聞(なんけいたんぶん)の元で子が授かるよう祈願し、以後も観音様にお願いし、授かったという話が伝わる。
井伊家の始まりと共通する微笑ましい夫婦愛を物語る奇跡のお話だ。
だが、直政が生まれたのは一五六一年三月四日。
義元と共に直盛が亡くなったのは一五六〇年六月一二日。
妊娠期間は一般的には二八〇日、直盛の死を聞き感動し思わず抱き合っての受胎としても、わずかの早産とすれば可能だ。
 
直(なお)親(ちか)は逃亡先で生まれた二人の子を我が子と認めたが、それ以上に子が生まれた可能性が高い。
女人との逢瀬は盛んで、子だくさんなのだ。
井伊谷に戻って結婚した五年間は、ひよとの仲も不安定だった。
なかなか子に恵まれず、結婚生活八年で直政だけしか生まれないのは不安定な精神状態の証だ。
直(なお)親(ちか)は母の実家、鈴木家・直盛に付けられた松下清景などを中核に強力な家臣団を作り上げたかったが、できなかった。
父の家系は断絶し、奥山一族を頼るしかなかった。
自力で道を切り開けないもどかしさを引きずり、精神の不安定さはどうしようもなく妻との仲も熱い日ばかりではなかった。
直盛の死で、ひよとの仲も熱くなり、直政が授かったとするのが自然だ。
直(なお)親(ちか)が、ひよを伴って龍潭寺(りょうたんじ)に参ったのは、直虎を味方としたかったためだ。
 
ついに、直(なお)親(ちか)は、ひよと共に井伊谷城に入った。ここで初めて、ひよが妻として家中にお披露目された。
悲願の成就に天にも昇らん嬉しさだ。
下伊那で共に暮らした塩沢氏の娘に別れを告げ、男子は塩沢氏で育て、娘、高瀬姫を引き取ると決める。
 
当主としての夢を描き続けた直(なお)親(ちか)だが、肝心の統率力が不足した。
婿養子でもなく、長年井伊家を離れていた直(なお)親(ちか)に今川系家臣が冷ややかだったのだ。譜代の臣も直(なお)親(ちか)のおとなしさに当主の器にあらずと考える者も出てくる。
直(なお)親(ちか)は嫡流ではない出自であり周囲の顔色を窺い、和を重んじる性格が身について、井伊家を率いる力強さがなかった。
 
義元は、小野政直の死後、嫡男、政次を井伊家筆頭家老とし強力に支えた。
だが、直盛は政直の死に乗じて小野氏に従う側近を除いた。その為、若き政次を支える人材が不足し、直盛に太刀打ちする政治力を持ちえなかった。
直盛は、政次を適当にあしらいながら当主としての力を奮い、しかも、義元の意に叶う働きをした。
 
義元の死で今川家は嫡男、氏真が継ぎ、井伊家は直(なお)親(ちか)が当主となり、新しい世代となる。
すると、小野政次が息を吹き返す。
氏真は、承諾を得ることなく直(なお)親(ちか)を当主にしたと井伊家中に憤り、政次の強力な後ろ盾となり、干渉を強めていく。
直(なお)親(ちか)と比べ政次の政治的力量は上だった。
政次は見違えるように指導力を発揮し、井伊家を率い、直(なお)親(ちか)に対抗するすべはない。
氏真は、直(なお)親(ちか)を思うままに動かせると安堵する。
当主の交代よりも、このまま井伊氏の戦力を有効に使い、今川家を守るのが得策と頭を切り替える。
義元亡き今川家は凋落していくが、桶狭間の戦いの後しばらくは、健在だった。
 
 だが、今川氏と決別した家康が一五六二年、織田信長と正式に同盟を結ぶと事態は変わる。
信長・家康連合軍は、飛躍的に力を増し氏真は追い詰められていく。
直(なお)親(ちか)は当主として家中の信頼を得られず、政次の専横を防げず、ストレスが溜まっていた。
その時、家康から再々臣従するようにとの申し出を受ける。
氏真と離れ家康に従うことは井伊家の安泰に通じ、当主としての権威を見せることになると考え始める。
家康方との接触が始まる。
直(なお)親(ちか)の動きは、すぐに、氏真の耳に入る。小野政次に直(なお)親(ちか)の行状を詳しく問いただす。
筆頭家老として井伊家中をまとめた政次は自信をもって「直(なお)親(ちか)殿は家康に内通している」と報告する。
そこで、氏真は、直(なお)親(ちか)に「駿府城で身の潔白を示すよう」命じる。
 
直虎は「行くべきではない」と引き留めるが、直(なお)親(ちか)は「いまだ氏真殿に目通りしていない。井伊家当主として会う必要がある」と政次の勧めを受け入れ氏真との対面を決めた。
家康の申し出を聞いただけであり、氏真を裏切ったわけでなく、釈明が受け入れられると信じていた。
主従一九人の少人数で駿府に向かう。氏真との対決姿勢を避け友好的関係を築くとの思いを込めて少人数にした。
兵の少なさを確認した今川家重臣、朝比奈泰朝は駿府城まで待つ必要なしと、兵を率い領地の掛川城下で取り囲んだ。
「直(なお)親(ちか)を殺せ」との氏真の命令だった。
ほとんど無防備の直(なお)親(ちか)は一五六三年一月、満足に戦うことも出来ず殺害される。
 
直政は、二歳になる前に、父、直(なお)親(ちか)を亡くし、父の記憶はない。
 
この報を聞いた直虎は冷静だった。
直(なお)親(ちか)は争いを嫌い戦うことを避けていた。逃亡中、十分な教養を積み、天賦(てんぷ)の才にも恵まれ文人として誇りを持ち、名君になる自信を持っていたのだ。
井伊家存亡の危機に、井伊勢を率い戦い乗り越える気概がなかった。
家康との同盟を望み、緊張感なく家康の使者と会い、政次に筒抜けだった。
家康方と接触するだけでも裏切り行為と見なされるのだとの緊迫感と責任がなかった。
井伊家の戦力は価値があり、氏真に殺される理由はないと、楽観して出向き、無様(ぶざま)に殺された。
 
直虎は、義元の死後、井伊谷をめぐる状況は刻々と激しく動いており、いつ何が起きるかわからない状況だと知っていた。
危機意識の少ない直(なお)親(ちか)に注意を促したが、直(なお)親(ちか)は奥山朝利を信頼し、直虎の言葉を軽く聞き、状況認識が甘かった。
そして、のこのこ出向き殺された。
氏真は、直(なお)親(ちか)の殺害だけでなく、謀反人の遺児、直政は同罪であり、殺せと命じた。
心配し行方を見守っていた城代、中野直由は知らせを受けるとすぐに、直政母子を奥山氏の屋敷(浜松市北区引佐町奥山)へ逃れさせた。
小野政次の追手がすぐに来た。当主、奥山朝利は自ら奥山勢を率い戦うも討たれて亡くなる。
 
 井伊家を率いる中枢の武将と婚姻網を築き上げ井伊家中に怖いものなしと、豪語した奥山朝利だが、あっけなく、直(なお)親(ちか)の後を追うように殺された。
 

四 直虎、当主に

直虎は、中野直由からの知らせに慌てた。井伊家の後継は直(なお)親(ちか)嫡男、直政しかいないと思い定めている。
何があろうとも、直政を守らなければならない。
織田・徳川(松平)による今川家臣への調略・領土侵攻は次々成功し、氏真は追い詰められ凶暴性を帯びていた。
 
直虎は、すぐに動き、政次が奥山屋敷を襲う前に、朝利と仲が良い新野親矩(にいのちかのり)の名を使い、ひよと直政を引き取った。
母子を直虎の母、千賀の住む庵、松岳院(龍潭寺(りょうたんじ)内にある塔頭)に匿う。
政次が、直虎・千賀の住まう龍潭寺(りょうたんじ)に攻め込むことはないからだ。
それでも、奥山屋敷を占拠し勢いのついた小野政次は、謀反人の子、直政の引き渡しを龍潭寺(りょうたんじ)に求める。
直虎は、南渓瑞聞(なんけいたんぶん)らと直政を守るすべを話し合う。
 
直政を捕えようとしているのは政次だ。命令を出した氏真は、直接手を下す気はなくすべて政次に任せている。
氏真は直(なお)親(ちか)を殺し満足しており、幼い直政への関心は少なかった。
そこで、直虎と母、千賀は、氏真の祖母、寿(じゅ)桂(けい)尼(に)に嘆願するしかないと考える。
 
今川一族であり井伊家への監視役でもある新野親矩(にいのちかのり)は、井伊家重臣の一角を占めていた。直虎の思いを理解し今川一門として氏真に忠節を尽くすが、直政を殺させないと確約した。
そして、「直政の助命」を寿(じゅ)桂(けい)尼(に)に直訴した。
寿(じゅ)桂(けい)尼(に)は、井伊家の今川勢に占める価値をよく知っている。直政を殺せば必ず家康方に取り込まれるはずだ。それより味方に留める事がより有効だと了解した。
氏真も祖母の命令には逆らえず、渋々了解した。
直政は氏真の一存でどうにもできる謀反人の子であり、井伊家当主とはなれないと言い渡される。
新野親矩(にいのちかのり)は井伊谷の屋敷に本拠を移しており、その屋敷に直政母子を引き取り育てることを許される。
客観情勢は予期できないほど動いている。直政を養子とし父として井伊家を率いる日が来るかもしれないと密かに心躍らせる。
 
小野政次は一段と力を増し、井伊家筆頭家老として家中を牛耳っていたが、内紛が起きれば責任を問われると氏真の命令を受け入れ直政を追うのを断念する。
井伊家当主は形式的であっても必要だ。嫡流の血筋を継ぐ者は直平と直虎のみで当面、二人が当主と見なされる。
実質、直虎が、高齢の直平と中野直(なお)由(よし)を後見に、井伊家を率いることになる。
政次も直虎なら扱いやすいと賛成だ。
 
この頃の政次は、氏真と謀り近親の者を氏真の養子とした上で、直虎二七歳の養子とする考えだった。
大義名分を得て、井伊家を乗っ取るのだ。
直虎も政次の考えが分かっており、寂しく笑った。直虎と結婚して井伊家を率いたいと思う者はいなくなったのだ。
覚悟はしていたが、当主となっても我が子を抱く夢は実現しないと宣告されたのだ。孫を望んだ父に申し訳なく思う。
それでも、直虎はきっと唇を結び重々しく井伊家当主になる事を内諾する。
直政が成長し引き継ぐまでと心に誓う。いずれこんな日が来る予感があった。
家中は、直(なお)親(ちか)を無残に殺した氏真への憎しみが渦巻いていく。

直虎も、直(なお)親(ちか)の無念さを思うと耐えがたかったが、直政の助命嘆願を受け入れた氏真を直ちに裏切ることは出来ず、今川氏忠臣の風を装う。
また、直(なお)親(ちか)が無防備に家康に近づいていた事実もしっかり受け止める。
政次を許すことはできないが、事実を氏真に告げただけであり、謀反の動きは間違いなかった。
 
 直虎が脅威に感じた奥山朝宗(ともむね)は、父と共に亡くなり、続いて朝利が亡くなり、奥山家の柱が急に居なくなった。朝利の後継、朝忠はまだ幼い。ここで、奥山氏は直虎の脅威ではなくなった。
朝宗(ともむね)の叔母は、叔父、新野親矩と。
朝宗(ともむね)の姉は、井伊氏筆頭家老でもあった鈴木重時と。
朝宗(ともむね)の妹は、直(なお)虎(とら)と気の合った小野政次の弟、朝直と。
同じく朝宗(ともむね)の妹は、父、直盛が後を託そうとした中野直(なお)由(よし)の嫡男、直之と。
末の妹ひよは、直(なお)親(ちか)と。それぞれ結婚した。
こうして、奥山氏は、井伊家を支える主力武将と縁続きとなり覇権を確立した。どうしてこのようなことが実現したのか、朝利・朝宗(ともむね)の手腕と野心の大きさに驚いていたが、二人とも志半ばで直虎の前から消えた。
井伊家一門に直虎に敵対する者はいなくなった。父との冗談が現実となったのだ。父の愛に包まれながら進むしかない。
 

五 追い詰められる直虎

直虎が井伊家当主になる事に暗黙の了解をした氏真は、直虎と井伊家の忠誠心を試すべく攻勢に出る。
まず、直平に、氏真を裏切り家康に従った今川家重臣、天野氏を討つように命じる。
直虎は直平の体調を気遣い「出陣すべきではない」と止めるが、直平は笑いながら「大丈夫だ」と答えた。
そして、井伊勢を率い天野氏居城、犬居城(浜松市天竜区)攻めに出陣する。
 
途中、曳(ひく)馬(ま)城(浜松城)(浜松市中区)で休憩する。
戦う意欲のない高齢の直平をもてなしたのが、曳(ひく)馬(ま)城(浜松城)主、飯尾連(いいおつら)竜(たつ)の妻、椿姫(お田鶴の方)。
飯尾家にも、井伊家にも家康からの調略の使者が、次々来ていた。
直平は、飯尾連(いいおつら)竜(たつ)が家康に臣従するべく内々に打ち合わせをしているのを知っている。
そこで「井伊家も氏(うじ)真(ざね)殿と合い入れないものを感じている。両家の思いは同じだ」と暗に氏(うじ)真(ざね)を裏切りたい思いを示しながら、天野氏を討つことに力が入らないと話し、くつろいだ。
直平の晩年の妻は、飯尾一族、貞重の娘で、この時も側におり気を許したのだ。
 
お田鶴の方は「直平殿は今川家を裏切ろうとしている」と感じた。そこで直平の油断に乗じて毒を盛る。
一五六三年一〇月五日、直平は、八四歳で急死した。直平の妻は、直平の死後、自殺した。
お田鶴の方は氏(うじ)真(ざね)から飯尾家と今川家とを繋ぐ役目を命じられ嫁ぎ、今川家のために働くことが誇りだった。
夫、飯尾連(いいおつら)竜(たつ)が家康に傾いていくのを必死で引き留めていた。
家康に従う武将はすべて敵だ。
 
犬居城攻めは、天野一族の景(かげ)貫(つら)が宗家の城主、天野景泰を攻め追放し、代わって城主となり氏真に忠誠を誓い終わった。
 
 直虎は、支えとしていた直平のあまりに急な死に動揺した。井伊家の生き字引として尊敬し、亡くなることはないのだとまで思うほど長命で元気だった。
父を思えば当主の道が開いていくと考えた自分の甘さを思い知る。どこにも敵は入る、誰を信じるべきか、不安におののく。
尼僧として修養を積む日々からのあまりの変わりように、直虎は当主としての任を果たせるか、確信が持てなくなる。
信頼すべき重臣は誰なのか、井伊家をどう率いて行けばいいのか悩む。
その時、南渓瑞聞(なんけいたんぶん)が父に成り代わったように暖かく「大丈夫。大丈夫。当主になるべき素晴らしい能力を持っておられます」と励ます。長年側で暮らした南渓瑞聞(なんけいたんぶん)に肩を押され気を確かにしなくてはと、前を見つめる。
すぐに、直政の元気な様子が伝えられ、次第に、自分のなすべき役目が見えてくる。「勇気を持たなくては」とつぶやく。
直平亡き井伊家を立て直し、いずれ直虎の子とする直政に引き継がせるのが父の望みだと。
 
 翌一五六四年、氏(うじ)真(ざね)は、新野親矩(ちかのり)に家康に与した曳(ひく)馬(ま)城(浜松城)主、飯尾連(いいおつら)竜(たつ)攻めを命じた。
氏(うじ)真(ざね)は、守役であり今は父とも兄とも慕う三浦正俊に兵を預け、新野親矩(ちかのり)・井伊勢と共に出陣させる。大軍で城を包囲し攻め滅ぼすはずだった。
だが、直政を育て井伊氏を背負う気概を持つ親矩(ちかのり)には氏真への忠誠心は失せており、和議を求め円満に事を収めようとする。
その弱気を見た飯尾連(いいおつら)竜(たつ)は、城から討って出て猛反撃を始めた。戦う意欲のない井伊勢は翻弄され、井伊勢の大将、中野直(なお)由(よし)ら井伊家重臣と三浦正俊・新野親矩(ちかのり)は戦死する。
死を恐れず突撃する飯尾連(いいおつら)竜(たつ)は強く、戦う体制を整えられないまま中野直(なお)由(よし)らは討ち死にしてしまった。
三浦正俊は監視役だったが戦死し氏真は大きな衝撃を受けた。兵を引く。
 
喜んだのが筆頭家老、小野政次。
直虎の後見人ともいうべき中野直(なお)由(よし)・新野親矩(ちかのり)が亡くなり、井伊家中に怖いものはなく覇権が出来上がったと大満足だ。
頼るべきものをすべてなくした直虎だが、悲壮な決意で立ち上がる。もはや信念が揺るぐことはない。
曾祖父、直平・祖父、直宗・父、直盛・許嫁、直(なお)親(ちか)・叔父、新野親矩(ちかのり)らを失った恨みを身体中に刻み込み、今川氏・小野氏からの決別を誓う。
もう失敗は絶対に許されない。まずは、政次との対決を避け、良好な関係を保つ。
二五年来の長い付き合いの政次だ。気心は知れている。当主になる事は了解済みだが「(氏(うじ)真(ざね)から)正式に認められたい」と丁寧に取次ぎを頼む。
氏(うじ)真(ざね)は「井伊家が離反しない為なら」と了解する。次々起きる謀反の動きに対応するのが精いっぱいであり、今川家を守ることしか頭になかった。
 
こうして、一五六五年、直虎は、還俗(げんぞく)し正式に井伊家当主となる。
名乗りを直虎とし、再び、対外的には男子となった。
まずすべき事は、直政を守ることだ。
直政を預けていた親矩(ちかのり)は戦死した。その時、親矩(ちかのり)の妻は「直政殿の命が危ない」と急いで親矩(ちかのり)の叔父、珠源和尚が住職の曹洞宗浄土寺(浜松市中区広沢)に直政母子を移らせ匿った。
直虎は「浄土寺に直政を置くのは、あまりにも危険すぎる」とより安全な地を探すよう松下清景に命じる。
直(なお)親(ちか)亡き後、松下清景を直政の筆頭家老とし、命を懸けて直政を守り抜くように命じていた。以来、緊密に連絡を取り合った。
氏(うじ)真(ざね)も直政の動きを知ってはいたが「珠源和尚は今川一門であり、直政はどうにでもなる。井伊氏を丸ごと乗っ取ったようなものだ。後は、政次に任せればいい」と、厳しく直政の命を狙うことはなかった。
 
井伊谷七人衆の一家が、松下氏だ。
井伊谷七人衆は、筆頭家老、小野氏。続いて井伊家一門の中野氏・鈴木氏。そして松井氏・松下氏・近藤氏・菅沼氏と続く。
松下氏は三河国碧海(へきかい)郡(ぐん)松下郷(愛知県豊田市)を発祥の地とし嫡流が今川家重臣の之綱だ。遠江頭陀寺(ずだじ)城(じょう)(浜松市南区)を居城とした。
松下清景は分家だが、妹が之綱に嫁ぎ義兄弟であり強く結ばれている。義元から井伊家に付けられ、直盛から直親との取次ぎの家老を命じられ、直親が当主になると家老として勢力を強めた。
また、弟、松下常慶は優秀な修験者であり、家康の側近くで秘密裏の役目を果たすことになる。
 
義元は、松下之綱を飯尾連(いいおつら)竜(たつ)に付けた。
その為、松下之綱は飯尾連(いいおつら)竜(たつ)に従い今川勢の主要な一翼を占め歴戦を戦い、戦果を挙げた。だが、義元死後、飯尾連(いいおつら)竜(たつ)は家康の調略に乗り一五六四年、氏真に疑われ攻め込まれた。
 その時、松下之綱は飯尾連(いいおつら)竜(たつ)と同心と見なされ、居城、頭陀寺(ずだじ)城(じょう)は今川勢に襲われ、放火され、城は燃え落ちる。
松下之綱は、やむなく城を捨てて、松下家に縁のある三河鳳来寺(愛知県新城市)に逃げた。帰る城をなくした松下之綱は、以後、家康に従う。
松下一族、松下清景は、井伊家重臣であり妹婿とは同心せず氏真に反旗を翻さなかったが、氏真の信頼は失った。
以後、直虎の命令で直政の守役に徹し、側近くを離れず守る。
 
ここで、直虎は家中を集め「私、次郎法師直(なお)虎(とら)が井伊家当主となる」と宣言。
家中皆、待ち望んでいたことが正式に実現したのだ。
 

六 井伊谷城主、直虎の治世

直虎は、今川氏との決別を決めている。
今川一門に通じる寺、浄土寺にいては直政の命が危険だ。直政を早く安全な地に移らせなければならない。
直虎は、松下清景に直政が安全に過ごせる地を探すよう命じた。
松下清景は珠源和尚・南渓瑞聞(なんけいたんぶん)らと協議し、山深い真言宗三河鳳来寺(愛知県新城市)を勧める。
直虎は、三河鳳来寺は氏真の勢力範囲でなく安全だと納得した。だが、無断で直政を移したことが知られると氏真の仕返しが怖い。三河鳳来寺に移す時期を、慎重に見定める。
 
 三河鳳来寺は、家康の母、お大の方が子授け祈願し家康が授かったことで有名だ。

直(なお)親(ちか)は家康に傾き殺された。
以後、天野氏・堀越氏(遠江今川氏)・飯尾氏という遠江の有力国人衆も、氏真を裏切り攻められた。
遠江で今も氏真に従っている国人衆の多くは氏真に見切りをつけていたが、人質を出しており人質に危害が及ぶことを恐れ、やむなく従い、人質を取り戻し離反の時をうかがっていた。
氏真の政治手腕は、義元の比ではなく人望はなかった。
直虎の心も家康にあったが、直政の為・井伊家の為に慎重に、本心を見せることなく氏真に従った。
井伊勢は、劣勢になった今川勢の一翼を担い戦いを続ける。
 
直虎は、氏真にできるだけ逆らわず意に沿った施策をとりつつ、井伊領の内政に政治手腕を発揮していく。
生まれ育った高台にある井伊谷城から毎日見た井伊谷は豊かで美しく、特色も知り尽くしている。
本来、領民は豊かに暮らせるはずであり、そのための施策を行っていく。
だが、戦いが続き、井伊家の財政は底をついていた。
領民の犠牲も大きく、農地は荒れ、収穫は減り、暮らしが生き詰まり、借金でしのぐ農民も増えていた。
直盛の積極的な経済政策を見て育ち、その政策を引き継いだ。
ところが、父の代からの借財は、軍備・兵力・領内の土木事業、開発に使われ、莫大となっていた。
 
政次は井伊家の借財はあまりに多く徳政令を出し出直すべきだと考えた。そこで、氏真の了解を得て一五六六年、発令した。
徳政令とは債権放棄の命令であり、井伊家などが今まで商人などから借りていたお金を一方的に返済しないという命令だ。
その時は借金がなくなり良いが、次に策がなければ貸した方は立ち直れず井伊家は借金が出来なくなり、今以上に首が絞まる。
 
直虎は、政次の勝手な仕置に怒る。
井伊家の窮状、政次の専横を知る直虎は当主になると先手を打って一五六五年一〇月、南渓和尚に寺領を認める黒院状(当主発行文書)を出し、徳政令免除とし保護した。
それは、直虎が次郎法師としての宗教的権威を持ちつつ、井伊家当主としての権限を持つことを内外に示すものだった。
直(なお)親(ちか)の死後、当主としての役目を直平や中野直由と共に担い、準備してきたことの表れだ。
直虎は龍潭寺(りょうたんじ)、南渓和尚を後ろ盾とし、小野政次を立てつつ、父を継承し自分らしさを発揮し、井伊家を率いる。
南渓和尚は、直平の庶子だが、非常に多才で優秀で、師匠であり参謀でもあり、守るべき存在だった。
 
政次は、直虎の政治力が発揮されて行く姿に恐れをなし、氏真に願い徳政令を出したのだ。
ところが、直虎は、井伊家当主として拒否し、凍結する。
主君、氏真が出した徳政令だが、井伊領地内の事であり直虎の承諾が必要と体制が整うまで延期させたのだ。
氏真から付けられた井伊主水祐(孕(はらみ)石(いし)元泰)は、直虎の考えに賛同し氏真の徳政令を凍結した。
 
 孕(はらみ)石(いし)元泰は人質として駿府にいた家康に意地悪くつらく当たり、家康が恨んだことで有名だ。
だが、直虎の味方でもあった。
 
政次は、井伊領内での政治を取り仕切り、代々続く商人や祝田禰宜ら本百姓との結び付きが強かった。
彼らの願いもあり徳政令を発布したのだが、凍結され面目をつぶされた。
ここから今川家重臣、匂坂(さぎさか)直興を取り込み協力し「一刻も早く徳政令を出し、領民の苦境を救い、井伊家の経済再生を図るべきだ」と再三、直虎に進言し実行を迫る。
直虎と政次は、表立って対立していく。
 
直虎は、父が引き立てた新興の商人を引き継いでいる。
彼らや寺や武家や名主など銭主方と呼ばれる資産家からの借金をなくすのが徳政令だ。
いずれは実行せざるを得ないが、できうる限り先延ばしし領内の活性化を図り徳政令の影響を少なくしなくてはならない。
そこで、瀬戸方(ほう)久(きゅう)ら井伊領内の経済に通じ重用した商人に、今後の策を出すように言う。
 
井伊谷七人衆の一人に松井氏がいる。
遠江国城東郡平川郷(菊川市下平川字堤)を領した宗家の分家になる。
宗家当主、宗信の居城は堤城だったが、遠江支配の拠点、二股城(浜松市天竜区二俣町二俣)を与えられ移っていた。
遠江支配を任された今川家屈指の重臣だ。

義元が井伊氏に付けたのが宗信の弟、松井助近だ。直盛は、助近が打ち出した経済政策を気に入り取り立てた。
助近の後ろ盾で松井氏一族でもある商人、瀬戸方(ほう)久(きゅう)が業績を伸ばした。
瀬戸村(浜松市北区細江町中川)で生まれた瀬戸方(ほう)久(きゅう)は、浜名湖が海に繋がった恩恵を受けてこの地の経済活動が盛んになった頃、商人となり急成長した。
そして、遠江松井氏の財力を支えつつ、井伊氏への経済的影響力を高めていった。
 
小野政直・政次は旧来の本百姓・商人との取引を重視し続けた。
瀬戸方(ほう)久(きゅう)がまとめる新興勢力は、商品調達力・資金調達力が優れ、武具・兵糧から家中の土木事業などまで広く請け負った。井伊家の戦力を保持することに役立つが、借金も増やした。
こうして直虎が当主となった頃、瀬戸方(ほう)久(きゅう)は、井伊家の経済を左右する力を持ち、井伊家の経済は破たん状態となり、年貢を上げるしかない状態となったのだ。
 本百姓は、年貢の引き上げに反対し、徳政令の実施を願った。
 
直虎は、方(ほう)久(きゅう)らの進言を聞き井伊領の経済再生の対策を練り、方(ほう)久(きゅう)には氏真との直接交渉を許す。
方(ほう)久(きゅう)は、松井宗家を通して「堀川城普請を自らの資金で行いたい」と、氏真に申し出る。
資金提供の見返りに氏真に「徳政令免除」を願ったのだ。堀川城(浜松市北区細江町)は今川氏に必要だった。
 
一四九八年の明応地震によって浜名湖が海に繋がり堀川は交通の要所となり遠江支配の重要地点となっていた。
その堀川に今川領としての支配権を確立し交易の利益を得るための築城だ。方(ほう)久(きゅう)の申し出は時期を得ており、氏真は許した。
方(ほう)久(きゅう)は、周辺の農民を総動員し自己資金で築城を完成させ新田喜斎と名乗り城主となる。堀川城は、故郷に感謝する方(ほう)久(きゅう)や地侍や農民らの希望と汗の結晶だった。氏真に利益をもたらす。
 
後に、家康の怒涛の遠江侵攻が始まるが、皆、堀川城への愛着が深く開城できないまま戦い、無残に敗北し、虐殺された。
方(ほう)久(きゅう)は、皆に開城を訴えたが叶わず、すべてを投げ捨て隠棲する。後に、捕まり殺される。

 氏真は、新野親矩の死後、重臣、井伊主水祐(孕(はらみ)石(いし)元泰)や関口氏一門、関口氏経(築山殿の父、関口親(ちか)永(なが)の親戚)を直虎の目付とし、井伊家への今川家からの監視役とした。
彼らは、井伊家の縁者であり、直(なお)虎(とら)の治世を助ける。
 
関口氏経は、井伊谷城に来た当初から、直虎にやさしい視線を向け、勇気づけた。
それは、関口義広の妻となり氏真によって自害させられた直虎の大叔母、直の方の存在があったからだ。
直の方は、関口宗家の束ねとなり、瀬名姫を育てた。
その姿は、氏経のあこがれだった。
 
また、祖母、浄心院も直虎の施政を助ける。
直宗の妻、浄心院は、直盛が結婚して井伊谷に戻ると、代わって今川氏の人質となり駿府城下の屋敷に住まう。
そこで、義妹、直の方と力を合わせ、井伊家と今川家を繋ぐ役目を果たした。
直宗が亡くなると、直宗の弟らが人質となり浄心院は井伊谷城に戻る。
隠居領として引佐町東久留女木(浜松市北区引佐町東久留女木)を得て、この地に如意院を建立する。
直宗や自身の菩提寺とし、側近、仲井氏を従え出家し住まう。
一五五〇年、亡くなるまで、井伊氏・伊平氏の行く末を見守りつつ、この地の人たちと共に暮らす。
 
浄心院を迎えた農民は心を込めて世話をする。駿府で長く暮らした浄心院は、知性にあふれ、皆の自慢の藩主の母だった。
浄心院は、この地の人たちに読み書きを教えたり、昔語りをし喜ばれる。その上「老いの身を生きるだけです。食べるだけあればいい。年貢は必要ない。自由に田地を使うがよい」と話す。
喜んだ領民は浄心院の篤い心に応えようと、自由な発想で幾つもの棚田を創り田地の開発をし浄心院に米や農産物を届けた。
 
後に直虎が財政再建の一環として田地の開発を命じると、今こそ領主に応えるときだと培った開発力を駆使して直虎に尽くし、経済再生の見本となる。
直虎は祖母の偉大さを知る。
井伊家の長い歴史の流れを実感し、先人の苦労で今があることに感謝するのだった。
自分も務めを果たさないといけないと決意を新たにし、家康との交渉に力を入れる。
直虎は三二歳。ようやく城主として、自信が出てくる。
 
直虎は、徳政令の影響を最小限に抑える方策を種々実行した。
また、領民の耕作地を守り作物収穫を手助けする為のきめ細かな施策を行い、産業振興の政策も次々編み出し、領民にやる気を起こさせる。こうして、棚田が縦横に作られ米や農産物の収穫は増え、豊富な材木も活用し利益を生みだし、画期的な衣料素材となる綿花栽培も広める。
直虎の誇る故郷がよみがえっていく。
 
故郷の素晴らしさを再確認しながら、氏真の徳政令命令を二年以上引き延ばし、財政好転のめどを立てた。
一五六八年一一月九日、関口氏経と連署で氏真との約束「徳政令」を出す。
 

七 井伊谷城を奪われる、直虎。

一番待っていたのは、後がない小野政次だった。
氏真は力をなくしていたが駿河・遠江守護の権威を振りかざしまだ命令書を出していた。実質守られることは少ないが。
直虎が徳政令を出すと、氏真は直虎から領主権を取り上げ政次を井伊領代官に任命する。政次の懇願に応えたのだ。
 
幼い頃、直虎は、政次と仲が良かったが、直政を敵視し滅びゆく今川氏に寄り添う姿を許せず敵対した。
政次は直虎を押さえきれないと悟ると、井伊領を氏真の直轄支配領とし自らが代官になることで治めると決めたのだ。
そして、氏真の命令を振りかざし、直虎らを井伊谷城から追放した。
 
その前、一五六八年四月一一日、寿(じゅ)桂(けい)尼(に)(義元の母)が亡くなる。家中を率いる力を持ち氏真と並ぶ力を持っていた。
その死で、雪崩を打ったように、今川家重臣らの離反が進む。
寿(じゅ)桂(けい)尼(に)と親交の厚かった武田信玄も、重しが取れ攻撃的になった。武田信玄は以前から「今川氏は凋落した。我が領地とする」と今川領に侵攻していたが、寿(じゅ)桂(けい)尼(に)には遠慮があり真正面からの侵攻は避けた。
亡くなるとすぐに、氏真に「手切れ」を宣告し、堂々と駿河侵攻を始める。
 
 今川領侵攻を進めていた家康も、武田信玄と思いは同じで、瀬名姫を我が子同様に可愛がった寿(じゅ)桂(けい)尼(に)に遠慮があったが、吹っ切れた。すぐに、信玄と同盟を結び、共に今川領を奪っていく。
家康は、破竹の進撃で、氏真を追い詰める。
武田勢・徳川勢に攻め込まれ今川家は風前の灯となった時の政次の窮余の一策だった。
 
直虎も氏真に従いつつ情勢を見ながら信玄・家康の申し出に耳を傾け、家康に臣従する手続きを進めていた。
冷静に心中を見せることなく政次と協調する風を装いつつも時には一歩も譲らない覚悟も示し、井伊領を治めた。
 政次は氏真の後ろ盾で権力を握ったが、今川氏の時代は終わりつつあり自力で井伊家を取り仕切るしかないとひしひしと感じ覚悟を決め、不安ながらもやむなく直虎を井伊谷城から追い出した。
 
直虎は、この時を予期し万全の備えをしていた。
政次謀反の動きを察知すると「氏真から離れる好機だ」と待っていたように井伊谷城から逃げる。
かねてからの申し合わせ通り、家康に「極悪非道の小野政次」の成敗を頼む。
すでに、井伊谷三人衆(七人衆の三家)菅谷忠久・近藤秀用・鈴木重時(直政の父方の祖母の実家)は家康に寝返っていた。彼らの仲介で、直虎は家康に従う話を進め基本的な合意をし、小野氏排斥の体制を整えていた。
 

八 直虎と直政

直虎は、直政を忘れてはいない。
寿(じゅ)桂(けい)尼(に)の死で混乱する今川家を見て「今が好機」と七歳の直政を浄土寺から龍潭寺(りょうたんじ)に呼び寄せた。久しぶりに会い成長した姿に目を潤ませる。
共に呼んだ、学びの師となり直政を守り続けた珠源に感謝し、鳳来寺に連れて逃げるよう頼む。
いつか氏真・政次と対峙する時に備え直政を守る為だ。
同時に「(直政を)鳳来寺に移す時が来ました。頼みます。直政の父となり守るように」と直政家老、松下清景に強く申し付け、清景とひよの再婚を決めた。
直政を清景の養子とし井伊家との縁を切ることで、氏真の不信感をかわす大義名分とするのだ。
 
予期した通り政次が謀反を起こすと、直虎は、すぐに、長年住まいした龍潭寺(りょうたんじ)に入る。
家康は間髪入れず一二月初め、井伊谷城奪還の兵を送る。井伊谷三人衆が先陣となり、家康勢が井伊谷城に突撃した。
政次は、あまりに早い直虎の反撃に驚くが、共に戦う家臣団も少なく応戦せず城を明け渡し、謹慎する。
こうして、城を出てわずか一か月で直虎は井伊谷城を取り戻し、城主の座に返り咲く。
 
 井伊谷城を取り戻した井伊勢は、家康勢の一翼を占め積もり積もった怨念を氏真にぶつけ追い詰める。
一五六九年一月の終わりには、氏真は駿府城を放棄し、掛川城に逃げる。
政次は、進退窮まり逃げることもできず、ひたすら許されることを願い謹慎した。
だが、直虎は、直政の将来を思い許さず、捕えた。
一五六九年四月、家康の命令だと、小野政次とその長男と次男の三人を獄門はりつけにする。
 
直虎は、戦国の世のむごさに涙する。
小野政直は、政次と直虎の結婚を夢見たが望みを絶たれると、井伊家の祖、共保の母の実家、二宮神社(浜松市北区引佐町)の神主、三宅氏の娘と結婚させた。
かって二宮神社は、三宅氏の始祖、多道間(たじま)守(もり)(記紀伝説上のお菓子の神)を祀る神社だった。
一三八五年、宗良親王が亡くなられ葬送の御儀を執行し合祀(ごうし)したため、二つの祭神を祀ることになり二宮神社と名を改めた。
政次は、井伊家一族に繋がる結婚をし筆頭家老としての職務を万全にするはずだったが、叶わなかった。
しかも、直虎は無慈悲に父祖につながる子たちも共に殺した。小野政次親子を処刑し空しくつらかったが「井伊家は新しい道を踏み出した」と悔いることはない。
父祖の地を治め続け井伊家を守る為に、まだまだすべきことは多い。家康の力で井伊谷城主に返り咲いたが、勝者、家康の考え次第で城主が決まる不安定な身なのだ。
大きく息をし井伊谷城主として、家康に一歩も引かない覚悟を決める。
身体中から井伊家当主としての威厳がかもし出されていた。
 
直虎は、井伊谷城に戻ると、すぐに、直政を呼び寄せる。
直政の力量により今後の井伊家が決まると、直政の教育のための環境を整え、自らの手で育てていく。
まず、直政の近習に小野朝之・中野直之・奥山朝忠を加える。皆優秀であり、学問・武芸を共に学ばせ競わせていく。
直政に井伊家の歴史すべてを教え引き継がせることを急ぎ、近習三人には主君の為に死をも辞さない覚悟を持つことを教える。
 
小野家を政次の弟、朝直の遺児、朝之に引き継がせ、奥山家を朝宗の子、朝忠に引き継がせることを許し、直虎を苦しめた小野氏・奥山氏を完ぺきに配下に置いていた。
両家への許しがたい思いを引きずることなく、直政の腹心としての役目を与え再生させたのだ。
 
直虎には、皆可愛くて仕方がない。
直政も小野朝之も中野直之も、もしかすると我が子だったと、元気に武芸に励む彼らを見つめ、胸を熱くする。
皆に母のように慕われほおが緩むが、心して我が子のように厳しく教える。
「どんな状況となっても父の違う三人を産むことはできなかった。これで良いのです」と井伊谷の空のかなたにいるはずの父に向かい話しかける。父も納得しているはずだ。
井伊領は減ってしまったが、井伊家は続いている。
最大時に比べ少なくなった井伊勢だが、直虎や直政の為に家康勢の一角を担い戦い続けており、強い。
直虎には、生き残る自信がある。
 
後には、武田信玄の侵攻が始まり井伊家の危機は続く。
直虎は明日を信じて、家康に井伊領を安堵され、直政主従をお目見えさせる日まで、井伊家当主であり続ける。