芙美子の初恋|林芙美子 「放浪記」を創る(4)
だぶんやぶんこ
約 8038
芙美子が小林先生に夢中になっていた頃、間借り先の宮地醤油店の親戚、忠海中学に通う岡野軍一を知る。
かっこいい美男子で、欲しかった兄のようだった。二歳年上だ。
芙美子には、初めて身近に見るあこがれの男子学生だった。
いつも知らん顔をしてちらりと見つつ、熱中して本を読んでいる風をした。
声がかかる時を待ち続けた。
ついに、岡野は、読書に没頭している芙美子の姿が可愛いらしくて、どんな本を読んでいるのか尋ねた。
ここから、話が始まる。
この時を待っていた芙美子は「ついに来た。やったぞ」と心のなかで叫びながら、ゆっくりと読んでいた本を見せながら感想を語る。
それから、お互いの読んだ本について話し出した。
以来、二人は楽しそうに語り合い時を過ごす。
小林先生とは違う淡いときめきを感じた。
さよならをした後も、一人でニコニコしながら話したことを口にする。
もっとうまく話せばよかったとか、恥ずかしいことを言ってしまったとか、次はもっとうまく話すとか、恥ずかしくて赤面しながら、ニヤニヤしてした。
1918年4月、芙美子、14歳。
5番の優秀な成績で広島県尾道高等女学校に合格し、入学する。
小林先生の教える横顔を見つめたり、岡野の兄さんとの出会いにドキドキし、好きな本を読みながらの合格だ。
同級生には小さいときから家庭教師が付いたり、勉強を頑張り続けてきた子が多かったが、にわか勉強の芙美子がトップクラスの成績だった。
将来に向けて大きな自信となる。
岡野は忠海高校を卒業した。
さっそく父、宮田に合格の報告に行く。
父は、筑豊の石炭産業で栄える直方(福岡県直方市)に住んでいた。
芙美子の入学を祝い、たくさんの小遣いをくれた。
ついでに学費の援助を願った。
「わかった。わかった」と言ってくれたが定期的にお金を出すとは言わなかった。
その後も芙美子が遊びに行くと「小遣いだ」とお金をくれるだけだった。
父からの小遣いで、裕福な友達と卑下することなく対等に付き合えた。
芙美子にとって、父は、いつも小遣いをくれる大切な人だった。
芙美子はここで決意する。
生活費は母と沢井に任せ、学費は自分で稼ぎ、小遣いや特別の出費は父に頼ると。
すぐに学費のために働き始める。
働くのは慣れていて、新しい刺激があり苦にならない。
ただ、働いていることを級友や知り合いに知られたくなかった。
貧乏だと見なされるのは屈辱で、隠したい。
帆布工場の夜勤で働き、長い休暇には神戸に行き住み込みで蕎麦屋の女中をしたりして稼ぐ。
だが夢見た収入にはならず、学費には足らず、結局、母に無心するようになる。
母は学資の工面に走り回るが、仕入先、宮地質店に頼むことが多かった。
尾道は、鋼鉄製大型船舶の建造が増えていくが、帆を張って風を受けて進む商用帆船の造船もまだ多く、帆布の製造は盛んで仕事はいくらでもあった。
それでも、芙美子が夜勤で稼ぐ収入は、わずかだった。
芙美子の担任は、国語教師、森要人先生だった。
すぐに、森先生は芙美子の文才に目を留め、芙美子を誉める。
そして、読書とはただ読むだけでなく、作者や書かれた背景を学ぶことも必要であり、そうすればより奥深く読め、感動も大きいと教えた。
芙美子は、森先生の言葉が心にズシンと響き、すごく納得した。
この頃から、作家に興味を持ち、どうすれば作家になれるのか、なりたいと漠然と思い描くようになる。
ついに、あこがれていた図書室に堂々と入ることができる日が来た。
胸の高鳴りを抑えられなかった。
女学校合格を目指した一番の理由が実現したのだ。
合格した喜びを噛みしめる。
想像以上に本があった。
最初は圧倒されながら読みたかった本を見つけそっと読んだ。
入学当初は、行事も多く、暇を見つけては本を読むしかなかった。
学校に慣れてくると、図書室に入り浸った。
時間割通りの勉強は性に合わなかった。
特に嫌いな科目の授業の内容は頭に入らない。
そんな時は、授業をさぼって図書室に直行する。
母と沢井は相変わらず行商生活を続け貧しい暮らしだった。
沢井は遠方まで行商の足を延ばしお金が貯まると戻って母に渡す。
母はお金が無くなると沢井の元に行き手伝い、お金を持ち帰る。
この暮らしが続く。
母と沢井の苦労がよくわかり、女学校に行くのが心苦しい。
それでも、学生生活は至福の時だった。
感謝しつつ、当面は甘えるしかないと、何を言われても我慢しようと思う。
本を読むことの次に興味があったのが、級友や先生を観察することだった。
芙美子なりに、級友や周りの人達を見る。
級友は豊かな商人の娘が多くおっとりとしていて育ちの良さがにじむ。
のんびりとした性格だ。
それでも、新しいものへの好奇心や未知の恋愛に胸ときめかす文学少女の一面もあった。
文学少女、芙美子は、読書量に自信があり、多くの恋愛小説を読んでいる。
そこで、級友たちの期待に応えて恋愛小説のあれこれを話す。
恋愛に興味津々の級友たちが集まり、うっとりと話を聞く。
その中心で話し続ける。
読後感想だけでなく、音楽・絵・文学など話し出せばきりがない芙美子の博識に級友は感心し、魅了され聞き入る。
人生経験の豊富さがにじみ出た芙美子を、知らない世界を知りたい好奇心がいっぱいの級友は、心酔する。
人気ものになり、芙美子の周りに級友が集まる。
次第に、ほとんどの級友より二歳年上の芙美子は、気取って悩みの相談に乗るようになり、頼りにされていく。
図書室にはない新刊の本を級友が持っていることを知る。
芙美子には新刊の本を買うなど考えられない。
読みたくてたまらない芙美子は、馬鹿にされないように借りるのはどういえばいいか何度も頭の中で考える。
まず、買えないことが知られないように軽く頼む。
友は疑いもなくあっさりと貸してくれた。
育ちの良さとは、疑うことを知らないことだと知る。
今の時代を切り取る新刊本は新鮮だった。
新しい世界に入り込み、むさぼるように読み、気に入った個所は暗記した。
うれしくなって、大胆に、新刊本が読みたいと話すようになる。
貸してくれる級友があちこちにいた。
夢中になると線を引いたり書き加えたり、してしまう。
自分と友の境がなくなって、その本の世界に入り込んでしまうのだ。
芙美子が読むとページをめくる跡が付き、本が汚れてしまうと嫌われたが止められなかった。
それでも、貸してと頼むといつも貸してくれる優しい友ばかりだ。
芙美子は、ありのままの自分を見せれば必ず馬鹿にされ嫌われると身構えて生きてきた。
ところが、何の屈託もなく素直に生きている人がいた。
新たな発見に表情が和む。
1919年、二年生になってしばらくすると、森先生が転任してしまう。
「女学校での楽しい日々は終わった。この世の終わりだ」と芙美子は落ち込んだ。
岡野との連絡が途絶えがちになっていたこともあり絶望感に浸る。
新任の国語教師は今井篤三郎先生だった。
早稲田を出たばかりの都会のにおいがむんむんする先生だった。
美男子でありクラスのだれもが騒ぎ立てた。
そんな雰囲気がいやで、芙美子は先生に対しそっけない態度をとる。
「今井先生なんか気にならないよ」と森先生に教えられた本を読みふける。
嫌いな科目は全然勉強しないが、国語は群を抜いている自信があり、今井先生がほめてくれるのを待った。
だが、先生は何も言わず生徒の一人として接するだけだ。
「私の国語力は抜群だ。認められないはずがない」と自意識過剰の芙美子だ。
なぜ先生は褒めないのか、先生がどこを見ているのか、わからず焦った。
今井先生は余裕がなく、芙美子の力が明らかでも対処法がわからなかったのだ。
まったく新米の国語教師であり、緊張で、がじがじになりながら授業していた。
思い描く教師像はあったが、どう教えるべきか、生徒に受け入れられるか自信がなかった。
「生徒の人気は抜群だよ」と同僚の先生から聞き、自らも生徒から好感を持たれていると感じ始める。
ようやく、思い通りの授業を始めることができ、元気が出る。
今井先生は歌人だった。
国語の教科書ではなく、短歌・詩による表現方法を教えたかったのだ。
先生は短歌・詩による表現方法を教え、短歌・詩を作り持ってくれば添削すると言った。応える生徒は少なかったが。
真に受けたのは芙美子。
ようやく先生の意図が分かったような気がして、にっこりだ。
得意な分野であり喜んで詩を作り先生に見せる。
先生は、真面目に批評し添削し返した。
それからの芙美子は毎日24時間、いつも頭の中に短歌・詩を思い、浮かんだ言葉を書きとめる。
そして意気揚々と毎日、短歌・詩を先生に見せ教えを受ける。
芙美子のあまりの熱心さに今井先生は、タジタジで困った風だったが、恐るべき才能を感じ教師らしく指導を続けた。
そのうち、芙美子の家庭環境を知る。
そこで教師として芙美子を支えたいと学用品をさりげなく用意して使うよう言ったり、余っていると言いながらノ-トや鉛筆など自由に使うようにと渡した。
芙美子が負担に感じない方法で勉強の手助けをする。
先生のさりげない優しさがうれしく、大歓迎だ。
なによりも、今井先生に嫌われていないと確信できたことが素晴らしかった。
芙美子の良さをわかってくれていたのだ。
学校生活での大きな自信となる。
先生の教え子になってよかったと胸を熱くする。
この自信で、岡野とも新しい展開となる。
小林正雄先生に好かれた。
今井篤三郎先生からも好かれている。
芙美子の積極的アプローチは皆、成功したのだ。
思い通りに胸張って生きれば、うまくいくと知った。
今井先生との交流で、自信を得た芙美子は岡野にも積極的になる。
岡野は、中学校を卒業後、明治大学の予科に入ったが、しばらく音さたはなくどうしているかわからなかった。
そこで岡野がいつ帰省するかを調べ、知ると待ち構えた。
偶然会った風に芙美子は出迎え、熱心に東京の話を聞く。
岡野は、付き合い始めの頃は兄貴ぶって文学についても話したが、今では文学の世界とは縁遠かった。
反対に芙美子は文学への、東京へのあこがれが抑えがたいほどになっていた。
芙美子は岡野に東京の文学がいかに優れているかを話す。
岡野は自分の住む東京を自分以上に知っている芙美子に目を見張る。
どうすべきか悩むが、芙美子と話すと楽しい。
ずっと話していたい想いを抑えきれず、芙美子の想いを真正面から受け止め、うなづく。
「うまくいった。(岡野は芙美子のことを)好きなんだ」と喜んだ芙美子は、尾道では入手が難しいはやりの文学書・話題の本を送って欲しいと頼む。
岡野は送ってくれた。
お金のことを言わずに送ってくれる岡野は、うらやましいほど裕福なのだと確信する。
芙美子のわがままを聞いてくれ、何でもしてくれる岡野こそ、恋人だと決めた。
初恋の人は、岡野軍一で決まった。
こうして芙美子は東京から発信される新しい情報を得て、文学に関して級友を寄せ付けない見識を持っていく。
鼻高々でますます国語・英語・音楽・美術など文学者として必要だと思う勉強しかしなくなる。
女学生、芙美子は忙しい。
父、宮田に会いに行っては九州近郊を巡り歩き、愛媛の祖父の葬式にも一人で出かけた。
もう大人気取りだ。
父の生家近くの小高い丘、佐々久山に登って壬生川を見下ろし、詩を作る。
葬式への参列が目的だが、詩人になった気分での一人旅だ。最高だった。
旅で感動するとすぐ頭の中に詩が浮かび、その詩が独り歩きする。この瞬間がたまらなく好きだ。
旅での出会いが芙美子の作家人生の一番大切なものとなっていく。
父との親子の絆は変わらず続いていた。
女学校に通う芙美子は、父が店の者に自慢できる賢い娘であり、会うと喜んだ。
そんな時、今井先生が結婚する。
以前から許嫁がいたのだ。
小林先生・今井先生と必死で愛のアプロ-チをしたつもりだったが、失敗だった。
芙美子が関心を持って欲しいと書き続けたが、先生が芙美子を女性として愛することはなかった。
生徒であり、関心を持たなかったのは当然だった。
自分でもよくわかっていたが、何処かに生徒以上の関心があったのを感じていた。これで良いと諦める。
毎日毎日、詩を書き先生に渡しドキドキした日々を思うと、馬鹿みたいだった。くすくす笑ってしまった。
クラスのほとんどが先生と仲よくなりたいと競ったが、学生時代からの婚約者がいて、最初から見込みがなかったと知りがっかりだ。
芙美子は、先生の結婚相手がどんな人か、馴れ初めはなにかを少し聞いていた。ほとんど教えてくれなかったし、断片的なことしか聞いていないが、今井先生に関しての情報は、級友に勝っていると思えたのが嬉しい。
芙美子と今井先生とは、文学を通じて固く強く結ばれている。それは、疑いのない事実だと胸張った。
物は考えようだ。
今まで先生の本を借りるのが楽しみで、家に行ったが、独身で、一人で住む先生の家に入るのは気が引けた。
同時に、ドキドキ感があり、たまらない刺激だったが。
これからは、堂々と大手を振って借りにいけるのだ。
また、今まで、先生の気に入りそうな詩ばかり作っていたが、これからは芙美子のより正直な思いで詩が書けるのだ。
「良いことも多い。先生の結婚を許そう」と、お日様のような余裕で微笑む。
芙美子には、岡野が居るのだ、幸せだった。
芙美子は多くの本を読みたいし、いろんな旅もしたいとお金のないつらさを情けなく思う。
裕福な級友と同じような学用品も欲しい。
芙美子は望みが高く欲張りだ。
母は芙美子のために一生懸命働いている。
それでもとても埋まらない差がありすぎるのだ。
苦しさの中で天性の作家魂が開花していく。
今まで向島の帆布工場で隠れて働いていた。貧乏であることをだれにも知らせたくなかったから。
それでも、どこかで誰かに知られた。
「働いているの」と聞かれた。
すると、文学者としての社会勉強だと澄まして言うことができた。
文学者として積むべき経験を滔々と述べた。
お金のないことを知られないために自分を飾り装うのは、役者になったようだ。
いろんな理由を付けては、けむに巻くことも覚えた。
おかしくてニヤニヤしてしまうが、演じている気分は愉快だ。
好きな絵の時間、なぜかいつも絵の具を忘れる芙美子がいた。
毎回違った理由を付けては友から借りる。
それでも、筆だけはいつも持っている。
描き始めるとのめり込み、絵の具をめちゃめちゃに使いまくり知らん顔で友達に返す。
友も芙美子がお金に余裕がないことは知っていても、まさか絵の具を買えないとまでは思わない。
無頓着な人だから、忘れたのだろうと、なぜか納得してくれた。
あんなこんなで忙しい女学生の芙美子だった。
読書や会話を通じて、空想力が自由に跳ねていく。
そして、生き生きした文章が書ける。
すると今井先生が詩を少女雑誌・新聞社に投稿するように言う。
今井先生は、芙美子をよく見ており指導も的確だった。
芙美子は「恥ずかしいな。恥をかくだけかも」とおどおどしながら投稿を始める。
すぐに、「山陽日日新聞」「備後時事新聞」に短歌・詩が掲載され、以後も、たびたび掲載される。
特に注目されたのは作詩だった。
予想外の反応に有頂天になる。
得意になって少女雑誌・新聞にも投稿を始め、度々掲載される。
次第に、芙美子は知る人ぞ知る有名人となっていく。
名前が何度も掲載され、気分は作家だ。
尾道在住の投稿する人たちと連絡を取り合い、会う機会を作る。
とても楽しい。
尾道商業高校(私立尾道商法講習所)の学生と文学論争をしたりもした。
それだけでは収まらず、都会から帰省中の学生を訪ね、文学について話し合ったりもした。
都会の学生と話すと、新しい知識を得て、心に響く刺激があり、有意義だ。
都会の風・都会の雰囲気が大好きで、しかも、男子学生と会うことは五感を掻き立てる興奮がありたまらない。
こうして、交際範囲を広げていく。
好きだった今井先生が結婚し、岡野がなかなか帰省しないのが好都合だった。
芙美子は本で読む恋愛に憧れ、実際はどうなるのか自分で確かめようとした。
好奇心旺盛で、自身で確かめないと収まらない性格だ。
幾人かに恋心を滲ませてラブレターを送る。
効果は絶大で複数の人と疑似恋愛が成就して相思相愛の親しい仲となる。
おかしくて楽しい時間だったが、文学を志す同志としては物足りない人ばっかりだった。
将来の満ち足りた幸せを保証する伴侶としてもいまいちで、ラブレターの効果にニンマリするだけで終わる。
期待したが岡野以上の人は現れなかった。
やっぱり岡野が一番だと、一途な初恋に心を戻して、手紙を書く。
幾人かの相手に強烈な思い出を残し「良いことをしたのだ」とつぶやき、きれいさっぱり忘れ、思いは東京の人、岡野に飛ぶ。
そんな時、級友からラブレターの代書を頼まれる。
何度も書いており、簡単なことだ。
女人らしく、控えめでさりげないラブレタ-を書く。
級友が涙を流して喜ぶほどの効果があり、芙美子の文才を見せつけ大成功だった。
それからは、いろんな級友の熱い思いを手紙にし喜ばれ、頼む人が増えていく。
幾通も書くと「代書やさん」と尊敬の意味を込めて呼ばれるようになる。
代書が得意になって、文章力を自画自賛する。
有形無形の益も大きい。
そんな、あぶなっかしい芙美子を冷静に見つめる今井先生は、真剣に作家になることを勧める。
芙美子が待っていた嬉しい言葉だった。
ずっと、なりたいけれど、なれるはずがないと不安だった。
ここで意を強くし、自分の文学の才能を信じ東京で作家になると決める。 尾道での六年間は、天からの贈り物が次々届く、天使がいた日々だった。