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芙美子、東京へ|林芙美子 「放浪記」を創る(5)

だぶんやぶんこ


約 2943

1922年(大正一一年)3月、芙美子は18歳で尾道高等女学校を卒業した。

入学時はトップクラスの成績が、2年以降最下位近くを低迷した。

今井先生の力でやっと卒業できたのだ。

女学校のお荷物の生徒だった。

芙美子は、まったく気にしなかった。

一流商社員の妻で、人気作家の自分を連想し、満足していた。

未来はバラ色だった。

ところが一方の主役になるはずの岡野は悩み苦しんでいた。

因島の実家が、行商人の子、芙美子との交際を固く禁じ、心が揺れていたのだ。

あふれんばかりの笑顔でかいがいしく世話してくれる芙美子が好きだった。

芙美子との会話は面白く引き込まれいつまでも一緒にいたかった。

特に、帰省で帰ったとき、隠れるように会う時の興奮は忘れられない。

芙美子と旅行に行った時の熱い出来事は「また行きたい」との思いを募らせる。

芙美子は岡野が帰省するのを待ちわび、帰省が決まると「九州の父に会いに行く」と母に言い家を出て、父に会い小遣いをもらう。

その小遣いを持って、約束した場所で岡野と落ち合い、九州旅行をする。

そんなことが何度かあった。

逢瀬を重ねた二人は結婚の約束をしている。

芙美子は、永久の伴侶だと、岡野との結婚を決め、共に旅行したのだった。

ところが、永久の愛を誓ったのは芙美子だけだった。

岡野は実家から絶縁されることを恐れ、二股かけたままだった。

芙美子も岡野の揺れ動く思いは感じており、東京に連れて行ってくれる他の相手を探したが、結局見つけられなかった。

芙美子も揺れ動いていたのだった。いつものことだが。

最終的に、卒業時は、岡野しかいなかった。

「(岡野は)芙美子を好きなのだ。きっとうまくいく」と不安もあるが勝算はありと決意した。

卒業後、まっすぐに上京、卒業まで一年を残している岡野の小石川区雑司ヶ谷の下宿に行く。

岡野と実家との葛藤を知っていたが、心をつかんでいる自信があり、ばら色の未来が大きく開き実を結ぶと何度も自分に言い聞かせ、東京へ旅立った。

岡野を一目見るなり少し違うと思ったが、思い切り抱きついた。

岡野も待ちわびたように抱きしめるが、どこかうつろだった。

芙美子は、母の生き様を断片的に知っている。

実父と結婚できなかった負い目をずっと背負い、それをバネに頑張って働き、芙美子を育てた。

芙美子には、自分と同じような生き方をしてほしくない、幸せな結婚をし、子供を授かることを願っていた。

母の思いが痛いほどわかっている。

芙美子は母の思いを実現できる自信があった。

女学高卒の学歴を持つ、優秀で立派な女性なのだから。

母の生き様、仕事が、褒められたものでないとしても、芙美子は乗り越えたと、自負している。

芙美子と母は違うのだ。

岡野の実家が結婚を了解するまで、自立した素晴らしい嫁だと見せつけようと働くことを決意。

第一にすべきことは、岡野に経済的迷惑を掛けずに、岡野の学業成績を上げ東京の一流商社に就職させることだ。

そうすれば、東京に住み、結婚できる。

岡野の実家も認めるはずだし、認めなくても新しい暮らしを始めることが出来る。そうなれば、実家も認めざるを得ないはずだ。

希少価値のある大学卒の夫に見合うふさわしい仕事を、見つけようと張り切った。

株屋事務員募集の面接で「帳簿付けの経験はありますか」と聞かれて、高給だしどうしても仕事を得たくて経験ありとうそをついて採用された。

数学・簿記がまるでだめな芙美子は間違いばかりで、すぐに首になる。

次々、優秀な女学校卒業生だと面接を受け就職を決めるが、すぐにぼろが出て続かない。

結局、風呂屋の下足番、出版社の帯封書き、セルロイド工場の女工など手当たりしだいの仕事をせざるを得なくなる。

岡野が就職し結婚するまでだと思えば苦にならないが、学歴だけでは通用しないことを知った。

自分の文才を開花するべく詩作に励むことは怠れない。

最も価値ある楽しいことだから。

 しばらくすると、尾道から母と沢井が上京し、中野に住む。

行商に失敗し逃げ出してきたのだ。

二人は、申し訳ないとは言わず「屋台の露天商などなど行商の仲間のつながりは縦横無尽にあり、商売はどこでもできる」と恥ずかしげもなく話す。

嬉しいような悲しいような三人での懐かしい行商生活が始まる。

 岡野や岡野の実家にも知れ、眉をひそめさせたが。

芙美子のために頑張ってくれた母と養父だ。無下には出来ず、協力する。

だが、かっての愛くるしい芙美子に集まる大人はもういなかった。

興味本位に言い寄ってくる中年男ばかりだ。

うんざりして行商はやめた。

以後、二度としないと、母と沢井に宣言した。

養父の故郷、児島に戻ってほしかったが、母と沢井は東京で行商を続ける。

一方、岡野は、強烈な個性の芙美子と暮らし、文学に生きる芙美子をじっくり見て、衝撃を受けていた。

時たま会い、非日常の旅に出ての目くるめく愛は感動的だった。

長い付き合いで、芙美子を理解したつもりでいた。

だが、何もかも忘れて詩作に没頭する芙美子の異様な集中力に、この世の人とは思えないすごさを見てしまった。

しかも、地方出身の青年が大学を出たからといって東京の一流企業に就職できる状況ではなかった。

第一次世界大戦で巻き上がった好景気は過ぎていた。

日本の経済は苦しくなっていた。

岡野は東京で望む就職はできず、このまま東京生活を続けることはできないし、続けたいとも思わなかった。

実家に戻って、身の丈にあった暮らしをすれば良いと考えるようになっていた。

東京は疲れる街であり、芙美子を支える力は自分にはないと思った。

芙美子に相談すると、反論され、結局芙美子に言い負かされてしまう。

そこで、一人で、芙美子に隠して、尾道の大阪鉄工所(日立造船)就職を決めた。

実家、岡野家の勧めた会社だった。

岡野家は、自慢の息子が郷里のあこがれの会社に入社したと、大喜びで祝った。

岡野は、芙美子には東京での生活しかないことはよくわかっていた。

芙美子との愛や暮らしを終わりにすると決めたのだ。

明治大学商科を卒業すると、芙美子に詳しい説明をすることなく、尾道に戻った。

芙美子は毎日が必死だった。

詩を作るのも大変。

仕事を見つけ働くのも大変。

母や沢井に東京暮らしのあれこれを言うのも大変。

岡野との食事作りも大変。

大変だらけで岡野の心の揺れを感じることができず、尾道に就職するとは思いもよらなかった。

あらん限りの言葉で責め、東京を離れないよう説得したが、だめだった。

岡野は去った。