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信長との出会い|明智光秀と愛娘、玉子(10)

だぶんやぶんこ


約 5517

天下人を目指していた信長は、自らの意向に沿って、義昭と取り次ぐ人材が必要だと探していた。

その時、光秀が現れ、光秀なら安心して任せられると即座に見抜いた。

濃姫のいとこであることも大きかった。

 

信頼され、任された光秀は、上洛の段取りを信長の思うように進めた。

その手際の良さを気に入り、信長は上洛すると改めて宣言し、トントン拍子で上洛の日取りが決まった。

ここで、信長は「今(義昭家臣)のままでは信用できない。直臣になれ」と言う。

光秀も信長の性格を知り、中途半端な形では信長に仕えることができないと分かっていた。

それでも今は、義昭を将軍とすることが第一と信長に「今しばらくの猶予をください」と願い了承される。

こうして、朝倉義景にいとまごいし、義昭に仕えつつ信長に仕えることで許された。

 

信長は岐阜城下に広い屋敷を用意し、1567年、光秀は家臣と共に入る。

実質、信長直臣として働き始めた。

この時、玉子は、4歳。

母、凞子(ひろこ)と家族と共に屋敷に入る。

皆、故郷に戻った喜びに包まれ、明智家を再興すると意気盛んだ。

 

光秀は、信長家臣として義昭を将軍にすべく働き、翌年、義昭を奉じて上洛した。

義昭は将軍となった。

光秀40歳、懸命に働き、大きな使命を果たしたと、自分を褒めた。

この間、義昭に従っていた家臣と実の家族のように親しくした。

特に、細川藤孝(幽(ゆう)斎(さい))とは、共に働くことが多く意気投合した。

 

明智家は、京に在する時が多かった為、文人としての教養も備えている。

光秀も、幼い頃より茶道や華道、短歌、俳句を学び、才能豊かでそれぞれに精通した文化人だった。

藤孝にはかなわないが、文化教養でも臆することなく話し合えた。

 

明智一族、母、凞子(ひろこ)も、教養を積んでいる。

岐阜城下に落ち着くと、玉子ら子たちの教育に本格的に取り組む。

明智家・妻木家に繋がる学者に引き会わせ学ばせる。

玉子は、信長に信頼される武将の娘として、贅沢な知的環境の中で育つ。

次第に、明智家の文化を受け継ぐ女人として成長する。

文学をはじめ、茶道・華道などに興味を持ち、一流の文化教養をすばやく身につける賢さを発揮し、父母を喜ばせた。

また、織田家中で、類まれな美貌が話題になり注目されていく。

玉子は、知性が輝き、正義感が強く意志のはっきりした光秀の自慢の娘となる。

 

信長は義昭を将軍にすると同時に、自らの政権を樹立した。

思い通りに事を成し遂げ満足した信長は、光秀に義昭の護衛を命じ尾張に戻る。

ところが、この時を待っていた三好三人衆が1569年1月31日、義昭宿所の本圀寺を急襲する。

三好三人衆は、信長が上洛するまで三好長慶亡き後の三好政権を率いていた。

小侍従・義輝を殺した憎き旧勢力だ。

 

義昭を守る信長勢は、主力が光秀であり従うのは若狭国衆などわずかだった。

しかも、防御機能のない本圀寺であり、占領されるのは時間の問題だった。

光秀は死を覚悟して、わずかの兵を率い防戦、策を弄し時間稼ぎにすべてをかけ、日没までどうにか守った。

三好三人衆は、翌早朝には義昭を討ち果たすと勝利を確信し、兵を休めた。

 

この時、危急を聞いた細川藤孝や摂津衆が夜を徹して駆けつけた。

こうして、三好勢の攻撃が始まる前に本圀寺前に着き、明智勢と呼応し挟み撃ちにした。三好勢は予想外の信長勢の到着の速さに慌て、戦線を保てないまま、ばらばらに戦うしかなくなった。

決死の覚悟の信長勢は強く、勝利。義昭を守り抜いた。

信長は、三好三人衆を蹴散らす強さを見せつけし、京の民の信頼を得て、京での覇権を確立する。

光秀の大手柄だった。

 

大喜びした信長は、秀吉・丹羽長秀・中川重政と共に光秀に京都奉行職を命じた。

信長の信頼する重臣と共に、京の治安・政務の責任者となったのだ。

信長の手厚い取り立てに、認められたのだと心を熱くし、涙ぐむほどだった。

光秀は、将軍宣下に果たした功と義昭を守り抜いた功で一気に信長の重臣となった。

 

だが、将軍として力を奮いたい義昭と、傀儡で良しとする信長の対立が始まる。

義昭は、将軍宣下を受けると、兄、義輝と同じように、幕府の政治機能を復活させ、領地も確保していく。

信長の庇護を受けながらも、将軍としての権威を持つと張り切った。

 

主要大名に将軍に従うよう書状を送り、島津氏・毛利氏などが将軍、義昭を祝し、金や領所を献上したりする。

義昭は、将軍となった喜びをかみしめる。

信長は、すべての資金手配をして義昭を将軍とした。

義昭が感謝してもしきれない恩人であり、当然、手の内にいるべきだと考えていた。

義昭の勝手な動きが気に入らず、1570年には、義昭の権限を規制する5か条「殿中御掟」を通告する。

義昭は承諾せざるを得ず、屈辱で、耐えられないほどだった。

 

ここで、光秀は、義昭を将軍にすることが天命だと考え、信長の力を信じ従うと決めた時は終わったと思う。

義昭への忠誠心は変わらないが、自分の進む道を決めなければならない時が来た。

義昭では、明智家の再興は出来ないのがはっきりしていた。

義昭の譜代衆にさえ、充分な禄を与えられないのが実情だ。

明智家の再興のためには、武将として飛躍し、明智家縁の家臣をすべて呼び寄せ、今までの苦労に報いたい。

主君は信長しかいないと心を決める。

 

義昭を規制すると同時に、信長は「禁裏と将軍御用と天下(てんか)静謐(せいひつ)(安定した平和な世)のために信長が上洛するので、共に礼を尽くすため上洛せよ」との触れを諸大名に出す。

信長は諸大名の上にあることを公言し、呼び出しの命令書を出したのだ。

ここから、信長の天下布武への道が始まる。

 

義昭とは別に、朝廷より天下(てんか)静謐(せいひつ)執行権(本来は将軍職に伴う権限だが、将軍代理の資格)を得て、天下を治めていく。

諸大名、もしくは代理の者が上洛した信長の元に祝儀を持って参上した。

思い通りの展開だった。

 全国を平定したとは言えないが、京を制し、諸大名が信長の下位に着くことを表明し、挨拶に来るのは、満足できることだった。

 

だが越前守護、朝倉氏は呼び出しに動かず、重ねての呼び出しにも応じなかった。

信長は、怒り不信感を持ち朝倉攻めを決意、同じ年1570年、越前に向け出陣する。

光秀は板挟みの苦悩を味わう。

かっての主君を、信長に従わせることが出来なかった罪は重いと。

 

朝倉義景は、受けて立った。

浅井氏との連携を確認し、信長勢に楽勝で勝てると、出陣した。

浅井氏の裏切りを知らない信長は、浅井勢に後ろを守られており、朝倉勢を難なく倒すことができると勝利を確信し、悠々と兵を勧めた。

その時、背後の同盟軍、浅井勢が裏切り信長を襲った。金ヶ崎の戦いだ。

朝倉勢と浅井勢に挟まれた信長勢は、総崩れとなる。

 

危機的状況の中、信長はどうにか京に逃げる。

その時、命がけでしんがりを務め信長を逃がしたのが秀吉・光秀・池田勝正勢3千。光秀はどうしても務めなければならない役目だと、死を覚悟し朝倉勢を食い止めた。     運良く食い止めただけだが、信長は高く評価した。

 

この頃から、秀吉とライバルとなり、静かな火花が散るようになる。

義昭は、朝倉氏の勝利を願っていたが、敗北を知ると、光秀の戦いぶりを褒め、所領として山城国久世荘(京都市南区久世)を与える。

まだまだ信長との取次、光秀が必要だと考えたのだ。

光秀も義昭を守りたいと喜んで受けた。

信長は、気分を悪くしたが。

 

絶対的に優勢だった金ヶ崎の戦いで、信長を逃がした浅井・朝倉勢は、士気が落ちた。体制を立て直した信長は、2ヶ月後には、浅井氏を殲滅すると、憎しみを込めて侵攻する。姉川の戦いが始まる。

意気盛んな信長・徳川勢と守りに入ろうとする浅井・朝倉勢の戦いとなり、信長は勝利した。

以後、浅井・朝倉勢は、劣勢となるが、本願寺や、義昭を中心とする反信長勢と連携し、優位性を持つべく戦いを続ける。

 

起死回生をかけて、本願寺勢と呼応し、浅井・朝倉勢は、琵琶湖西岸を南下、京都への入り口にある信長勢が守る宇佐山城を攻撃する。

信長勢は敗北し優秀な武将を多数、失った。

勢いに乗った朝倉勢が京に入るが、すぐに、信長勢の反攻が始まり、勝てず追われ後退する。

やむなく、比叡山に逃げ込み、体制の立て直し挽回を図る。

 

本願寺勢を殲滅すると燃える信長は、比叡山延暦寺に逃げ込んだ本願寺勢・朝倉勢らを追い出し、信長に味方するよう命じた。

ところが、比叡山延暦寺(滋賀県大津市)は、拒否した。

怒った信長は、比叡山延暦寺を敵とみなす。比叡山での攻防戦、志賀の陣が始まる。

 

信長は、比叡山延暦寺は信長の命令に従う、と考えていた。

だが、予想外の強気に対策を考える時間が必要と、正親町(おおぎまち)天皇(てんのう)に調停を願う。

正親町(おおぎまち)天皇(てんのう)は、弟が延暦寺門跡であることから、願いを受け、比叡山延暦寺も戦いを望まず、いったん兵を引くという和睦を結ぶ。

 

信長の決意は変わることはない。

反攻を開始するまでの時間の猶予を得たと、策を練る。

光秀は、宇佐山城(滋賀県大津市)を任され、滋賀郡と周囲の土豪の懐柔を担当。

反比叡山勢力をまとめていく。

義昭は、信長の命令に従わず性懲りもなく信長包囲網を作り続け、信長政権も危機的状況になっていた。

近江の平定と比叡山の無力化で力を誇示する必要があった。

 

そこで、光秀を見込んで、周辺の調略を任せたのだ。

光秀は信長の命令を実現するために働き、万全の態勢を作り、比叡山は孤立した。

1571年9月30日、比叡山の東麓を3万の兵が隙間なく取り巻き、逃げられない状態とし、攻め上がり焼き討ちにした。

信長の恐ろしいまでの無情な覚悟を見せつけ、信長を取り巻く状況が変わった。

 

信長は、比叡山延暦寺の軍事的無力化に成功し、喜び、最大の殊勲者、光秀に、京に近い近江滋賀郡5万石を与える。

光秀は、琵琶湖の湖畔に坂本城(滋賀県大津市)の築城を開始する。

信長に仕え4年も経たないのに、家臣の中で最も早く一国一城の主となったのだ。

このことは、織田家中を震撼させた。

光秀が、異例の出世をしたのは、信長の能力主義の表れであり、長年仕えた譜代だからと、うかうか出来ないと重臣のそれぞれが肝に銘じる。

同時に、織田家譜代の臣には、許せない思いも残る。

 

光秀は良き主君に巡り合えたと幸運に感謝し、調略・取次ぎ能力、行政手腕が冴えていると自分自身を褒める。

玉子ら家族も、信じられない思いを持ちながらも光秀の飛躍を喜んだ。

玉子は、父母姉弟と共に弾む思いで坂本城の築城を見守る。

 

1572年、玉子9歳。築城が完成。

父が誇らしく、胸を張って一族と共に坂本城に入城する。

坂本城の姫として、1569年に生まれた弟、光慶のはしゃぎ声を中心に、母、凞子(ひろこ)の元、幸せな家族の暮らしを満喫した。

 

義昭は、反信長勢力となるだろう武将全てに、共に闘うよう呼びかけ続ける。

次々信長に撃破されても、くじけることなく、続けた。

信長は、義昭の行動を規制する命令を連発したが、指示に従わない。許せない思いが沸き上がっていた。避けがたい対立が表面化する。

 

光秀は、出来うるならば避けたいと間に立って調整を試みていたが、義昭の信長への不満・将軍として何もなし得ない苛立ちを抑えることはできなかった。

義昭が、耐えるべきだと思い定め、たちまちの別れを決意し、信長に従い義昭派の切り崩しに掛かる。義昭の側近を信長方に調略していく。

正攻法ではなく調略で義昭の力をなくすのが、義昭の延命につながるとの思いで、必死で工作した。

ここでもまた、信長も褒める成果を挙げた。

 

中でも、細川藤孝が説得に応じたときは「これで義昭様もおとなしくされるだろう」と大きな安ど感で、成し遂げた思いだった。

1573年、藤孝は、信長に従い、義昭と離れる。

信長は藤孝に桂川の西、山城国乙訓(おとくに)郡(京都西部)長岡(長岡京市)を与えた。

以後、藤孝は長岡姓を名乗り光秀に従う与力として信長のために戦う。

 

城持ちとなった光秀だが、新参ゆえ織田家重臣の中で軽く扱われる。

織田家重臣として一派をなすために、有力家臣団を形成する必要を痛感する。

明智家縁の美濃勢を束ね家臣団を作ったが、織田家重臣の一角を占めるまでにはならない。

この年、義昭は、京から追放される。

そこで、家臣団の層を厚くするために、義昭家臣・将軍家に縁ある武将を積極的に召し抱えていく。

 

親交を深めていた伊勢貞興ら伊勢一族・諏訪盛直など義昭の臣を召し抱える。

信長重臣の地位を固めるべく一歩一歩進む。

細川藤孝は、光秀の力になるべく積極的に働き、義昭重臣の取り組みがうまくいく。

光秀は、細川藤孝の力に感心しつつ、良き友を持ったと、嬉しかった。

信長重臣の地位を確保したと自信満々だ。

 

 光秀は、比叡山焼き討ちから、浅井氏・朝倉氏滅亡まで、戦勲を上げ続けた。

こうして1575年、旧幕府支持者が多く、反信長の勢力の強い丹波攻略を任される。

役目は重いが、避けては通れない役目だと肝に銘じて、かっては同僚だった丹波衆に戦いを挑みつつ、配下にしていく。

細川藤孝や川勝継氏ら丹波衆を与力として与えられ、従える。