玉子誕生、伸びる光秀|明智光秀と愛娘、玉子(9)
だぶんやぶんこ
約 3653
与えられた光秀の役目は、文殊山(もんじゅさん)榎峠から一乗谷(福井市)の朝倉家本拠の大手道まで続く朝倉街道の守りだ。
一乗谷城・朝倉館・重臣屋敷などが立ち並ぶ一乗谷から四㎞ほど離れた東大味(ひがしおうみ)に領地を与えられた。
この地に、妻や子たち、ちりじりになっていた家臣を集め、住まいを建てる。
光秀32歳。積み重ねた軍事の知識を、実践で証明すると、朝倉街道に目を光らせ、一乗谷を守る鉄壁の防衛策を打ち立てる。
この頃、浅倉氏は強く、豊富な資金を与えられ、思う存分、攻め入る隙を与えない防備を築き上げる。
高禄の重臣として迎えられ、譜代の臣から妬まれ疑いの目で見られていたのを跳ね返し、力を見せつけた。
光秀が、朝倉家中にゆるぎない地位を築いた1563年、越前国、東大味(ひがしおうみ)(福井市東大味町)の明智屋敷で、玉子が生まれる。
明智家が未来に明るい希望を持った時、待ち望まれた子だ。
目鼻立ちの整った透き通るほどの肌を持って生まれた。
赤子というには惜しいほど光り輝いていた。大切な宝、玉子と名付ける。
一家は、玉子の誕生を祝し、にぎやかな宴を開いた。
主従共に結束が強まり、活気があふれていた。
玉子は光秀の3女になる。
すでに、二人の姉がおり、父母は男子であって欲しいと願っていたが、姫だった。
それでも、光秀は凞子(ひろこ)をいたわり、次はきっと男子が生まれると力づけた。
玉子を見ながら、顔を見合わせ、ご機嫌だった。
後に、光秀は、3男4女の子に恵まれる。
光秀は朝倉家重臣としての地歩を固めていく。
美濃では義(よし)龍(たつ)が亡くなり、信長の力が飛躍的に伸び美濃を攻め落とす勢いとなる。
光秀も時代の移り変わりに驚き、美濃の行く末が気になる。
いずれ戻る日が来るはずだ。きっと戻ると密かに思い定め、武将としての力を磨く。
そんな時、義昭がやってくる。
1565年、押し寄せる松永久秀と三好三人衆勢を防ぎきれず、将軍、義輝と愛し合っていた小侍従は殺された。酷いことに、小侍従のお腹の中には子がいた。
将軍、義輝は、塚原卜伝、上泉信綱の直伝を受けた剣の達人であり奮闘したが、支援が来るまでの時間を稼げず、愛する女人と我が子とともに死んだ。
次将軍を弟、義昭と遺命し、近習に逃げて義昭を将軍とするよう命じた。
義昭は、興福寺(奈良市)の塔頭一乗院の門跡だった。
義昭も、松永久秀と三好三人衆に襲われた。
兄と同じ運命になるはずだったが、松永久秀が、将来の役に立つかもしれないと、興福寺一乗院で幽閉・監視すると三好三人衆に伝え、自らの管理下に置いた。
この時、命は守られたが、いずれ殺されるはずだった。
そこで、義輝近習は、捕らわれの身の義昭を、脱出させる重い使命をひしひしと受け止めていた。
決死の策が練られる。
義輝の異母兄弟、細川藤孝(幽斎)のもとに、義昭から「病であること。とても苦しい」との書状が届き、具体的に救出策が動き出す。
医術の心得のある米田求政が、一乗院に出向き、要件を僧兵に伝える。
松永久秀の命令を受け、義昭を監視する番人は、米田求政を医師だと確認すると、診断治療を任せた。
こうして待っていた義昭に近侍している側近、一色藤長、三(み)淵(ふち)藤(ふじ)英(ひで)(藤孝の兄)らと米田求政らが合流し、義昭の側に集まり、逃亡作戦が始まる。
まず、米田求政の診察で、苦しんでいた義昭が静かに眠り始める。
その様子を確認した番人も安堵した。
ここで、義昭近習はホッとしたように番人も招き、歓談し、接待した。
その時、米田求政が、義昭を背負い、手はず通り、塀を乗り越え、待ちうけていた藤孝に引き渡した。
藤孝らは、義昭を連れて、奈良から伊賀へ逃げ、義輝の直属の部下、奉公衆だった近江甲賀郡(滋賀県甲賀市)の豪族、和田(わだ)惟(これ)政(まさ)のもとに向かう。
逃げ出してきた近習も揃い、惟政の案内で、用意されていた和田館に入る。
義昭近習の結束は強く、皆、決死の働きぶりで、義昭を脱出させた。
義昭を守った感激に浸る。
次は、義昭を将軍とすると意思一致している。
まずは、庇護者を見つけなければならない。
庇護者なくしては将軍になれず、見つけるのは至難のことだった。
近江守護、六角(ろっかく)義(よし)賢(かた)に詳細を話し、当面の間匿ってくれるよう願う。
六角(ろっかく)義(よし)賢(かた)は、快く応じ、領地内、琵琶湖のほとり矢島の里(滋賀県野洲市)に次期将軍が住むための屋敷を用意してくれた。
和田伊賀守惟(これ)政(まさ)らの資金で、御所としての機能が整えられ、義昭が移り住む。
ここから、義昭は、畠山氏、浅井氏、斉藤氏、織田氏、武田氏、北条氏、上杉氏ら有力諸大名に働きかけ、彼らの協力のもと上洛し、将軍となろうとする。
ところが、六角(ろっかく)義(よし)賢(かた)・矢島衆が三好三人衆と内通し裏切った。
義昭を拉致し殺そうとする軍勢が押し寄せ、命の危険が迫る。
急遽、逃げなければならない事態となり、暗夜に琵琶湖に出て妹婿、若狭武田家、義統を頼って落ち延びる決死の逃避行となった。
ようやくたどり着いた若狭だが、義統は家中の内紛に追われており、落ち着ける状態ではなかった。
義統は、朝倉家こそ義昭が頼るにふさわしいと、叔母、広徳院に受け入れを頼む。
広徳院は、子の朝倉義景に伝え、義景は丁重に迎えた。
義昭主従は、光秀と同じような経路で朝倉家に吸い寄せられた。
こうして、光秀は義昭主従と出会う。
特に、細川藤孝(幽斎)との出会いは、感動的だった。
最初の妻の妹の結婚相手、進士貞連の妹が小侍従。義妹になる。
小侍従と義輝の最後を聞き、沈んでいた光秀に死の詳細を伝え、義輝の願い、義昭を将軍にすべく働き、将来に明るい希望を持っていると話した。
光秀は、義昭主従に心から共感した。
光秀は義昭主従と、朝倉義景の対面が、成功するように心砕き、引き合わせた。
光秀の功もあり、朝倉義景は、にこやかに義昭主従を迎え入れ、越前一乗谷の浄土宗、安養寺北側に御所を築く。
光秀は、足利義昭と親しく話し、響き合うものを感じ、将軍家と光秀は繋がっていると震えた。小侍従のためにも良い働きをしたい。
義昭は、1567年から1年ほど、この地を御所とし将軍となるため盛んに書状を書き続ける。
光秀は義昭を迎え、旧知の仲と思えるほど、自然に接することができた。
朝倉義景もその様子に満足し、義昭主従の世話役・取次を命じ、任せる。
義昭も光秀の才知に魅せられ、深く信頼し、直臣に望むほどになる。
明智家は奉公衆の家柄であり、義景に仕えながら、義昭に仕えることに抵抗はない。今までもしてきたことだ。
道三が討たれた時、京で将軍に仕えたいと働きかけた時もあった。
その思いが実現したのだ。
ついに飛躍の時が来たと、胸を打つ感動だった。
義昭を室町将軍にする事が天から与えられた使命だと心に固く誓う。
義昭主従は、義昭を上洛させ将軍となる費用を用意でき、軍事力もある庇護者を必要とし、探し続けていた。
この時、光秀は、義景こそ義昭の将軍就任を実現すると確信し、懸命に取り次いだ。
だが、義景は義昭を将軍にするには今、京を支配している勢力を一掃する必要があり、時期尚早と動かない。
朝倉義景の優柔不断な態度にいらだつ義昭主従は、再び、信長に働きかける。
信長は、一度、義昭を擁して将軍にすると快諾していた。
義昭は、矢島御所で有力大名などに上洛と自身の将軍擁立を働きかけた。
その中で、信長が動き、細川藤孝が使者に立ち煮詰め、決めたのだ。
義昭は、信長と斎藤龍興との和議を成立させ、信長が背後の危険なく上洛できるように手を打っていた。
だが、龍興勢は、信長を襲った。
その上、道中通ることになる、信長上洛に賛同していたはずの六角(ろっかく)義(よし)賢(かた)の裏切りと思える不穏な動きもあった。
状況を冷静に見て、信長は上洛を取りやめたのだった。
光秀は、藤孝から今までの信長との交渉の経過を詳しく聞いた。
そして、客観情勢、朝倉家の状況を分析し、いとこ、濃姫や斎藤利治が側にいる信長こそが、義昭の庇護者になるべきだと結論を出し、取り次ぎを担いたいと申し出る。
光秀は濃姫や斎藤利治に会える不思議なめぐりあわせに、胸が高鳴った。
義昭からの熱心な誘いを一度は裏切った信長だが、取り巻く情勢は好転していた。
光秀は、決死の覚悟で信長の元を訪ねる。
義昭の今の状況、京の朝廷公家の動向を丁寧に、必死で伝え、助力を願う。
信長も自らの政権樹立の構想を煮詰めており、飛び込んできた光秀の申し出に快く応じた。いよいよ時が来たと奮い立った。
信長の意向を確認した光秀は、喜び勇んで将軍宣下のための策を具体化していく。