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流浪の光秀|明智光秀と愛娘、玉子(8)

だぶんやぶんこ


約 4835

1554年、義(よし)龍(たつ)27歳は、道三から家督を引き継いだ。

ここから、長年の秘めたる思いを、思い切り道三にぶつけていく。

 

第一の協力者が、長井道利だった。

義(よし)龍(たつ)大勝利の一番の殊勲者だ。

長井道利は、道三が主君として仕え、共に歩んだ長井長弘の次男だ。

時を経て、道三は長弘を誅殺し、長弘の嫡男、景弘を後継とし、その景弘も殺し自ら、長井家を継いだ。

その景弘の弟が、長井道利だ。

道三の身近で仕えたが、道三への思いは義龍と同じだった。

父・兄を殺された憎しみを持ち続けていた。

2人の思いが結びつき憎しみの塊となり、家中の賛同を得たのだ。

道三への憎しみ以外は、二人とも人徳のある優秀な武将であったゆえだ。

 

1556年、道利は、道三を亡きものとするため入念に準備し、決行を決めた。

慎重に、義(よし)龍(たつ)の弟、孫四郎・喜平次をおびき出し、義(よし)龍(たつ)側近、日根野弘就が殺した。

義(よし)龍(たつ)が弟を殺すことを予期していなかった道三は、義(よし)龍(たつ)の決意に驚きながらもすぐ兵を集め迎撃の体制を作ろうとし、信長に援軍を求めたのだ。

 

信長の援軍も予期し準備を整えていた義(よし)龍(たつ)は、道三に猶予を与えなかった。

すぐに、美濃衆を引き連れ道三を討つべく長良川に陣を敷く。

道三は態勢を整えられないまま戦い、62歳で殺された。

救援を頼まれた信長は、間に合わず、道三の死後、美濃に到着した。

 

 1540年頃から、光秀は、小見の方の側にいる時が多かった。

道三との間に生まれた3人の男子と濃姫の守役でもあった。

光秀の勉強熱心さ、博学に一目置いた小見の方は「きっと斎藤家になくてはならない武将になります。(道三)殿の側を離れないように」と温かく見つめ褒めた。

 

道三は、まだ武将として育てるには早いと、光秀を小見の方に付けた。

光秀は、身近な人に仕え、和やかな雰囲気の中で武将として成長していく。

斎藤家は素晴らしい人たちばかりだと、彼らに仕えることを楽しみながら道三の偉大さに触れていく。

次第に、道三も光秀の文武両道の並外れた力を見抜き引き立てていく。

こうして、光秀は群を抜く戦いぶりを見せるようになり、道三の期待に応える。

明智家は、石谷家・鷲見家とともに、道三が、最も頼りとする重臣となっていく。

 

1546年、光秀18歳は、婚約していた進士山岸家、光信の娘、16歳と結婚する。

進士山岸家との通婚は、絡み合っているが、

光秀の祖父、光継の妹が、進士山岸信連と結婚。

生まれた娘は、光秀の父、光綱の弟、進士山岸光信と娘婿養子入りで結婚。

そして、生まれた娘と、光秀の結婚だ。

光秀の又従兄弟(またいとこ)であり、光秀のいとこでもある親戚だ。

 

光秀は、道三・小見の方から、濃姫と信長の結婚を成功させるために、濃姫の嫁入り支度やその思いを信長に伝える取次の役目を命じられる。

斎藤家家老、堀田道空など織田家と交渉する取次ぎは決まっているが、光秀もその一員に加えられた。

1549年3月23日、嫁ぐ濃姫を送り届けた。

 

その直後、光秀の妻、進士山岸氏は、亡くなる。

すぐに明智一門、妻木範煕の娘、煕子(ひろこ)が再婚相手に推される。

妻木氏は、明智家から美濃国妻木郷を得て分家し、妻木を名乗り始まり、共に道三に仕える近い親戚だ。

煕子(ひろこ)が病に伏せる予想外の出来事もあり、再婚したのは、1550年、光秀22歳・煕子(ひろこ)16歳だった。

こうして明知城での新生活が始まる。

熙子は、先妻との子、倫子を育て、次女が生まれる。

夫婦仲睦まじく、子が生まれ、光秀の妻として、充実した暮らしだった。

 

だが、義(よし)龍(たつ)は、明智家にも恨みを深く持っていた。

明智家は、小見の方の実家であり、その力で道三の重臣となった憎むべき家だった。

道三を倒すことと明智家を殲滅することは、同列のなすべきことで準備していた。

道三を倒すとすぐに明智城を攻めた。

このような事態を予期していない明智家は、急いで集めた兵で戦うしかなかった。

 

一族郎党をかき集めたが、800人だった。

押し寄せる義(よし)龍(たつ)の軍勢4000人を迎え討つ。

籠城するしかなかった。

奮闘はしたが、多勢に無勢、明智家を率いた光綱の弟、光安が戦死。

妹、小見(こみ)の方(かた)と道三の結婚を契機に、道三に見込まれた光安は、明智家を大きく飛躍させたが、明智城を守ることはできなかった。

 

土岐明智氏初代、頼(より)重(しげ)が1342年、築いて以来214年間、居城とした明智城(岐阜県可児市)が奪われ、7万5千石(1万5千貫)の領地がなくなった。

弟、光久以下明智勢の主だった武将も殺され城を奪われ、一族は離散する。

光安は、光秀に光安の後継、秀満・叔父、光久の子、光忠を託し再興を頼み逃がす。

光秀はその時、小見の方の側にいた。

孫四郎・喜平次が殺された時は、利治と共に居り生きていた。

すぐに、小見の方と利治を安全な地に移し、共に野に潜む。

 

まもなく、信長が美濃に入り、その後ろ盾で利治が、道三後継となり義(よし)龍(たつ)に弔い合戦を仕掛けるが、義(よし)龍(たつ)は、すでに美濃を治め、すべての実権を握っており、付け入る隙きはなかった。

戦い続けたが、じり貧で、勝てる見込みはない。

やむなく美濃を離れ姉、濃姫の元、信長の庇護下に入る。

 

 妻木家は、明智一門であり、斎藤家に仕えたが、道三とのつながりは深くなく、義(よし)龍(たつ)から軍勢を送られることはなく、従うよう命じられる。

家中は、紛糾したが、明智家に忠誠を尽くすべきで義(よし)龍(たつ)に仕えることはできない、と結論を出し、信長に仕える道を選ぶ。

後に、光秀が再起すると、信長家臣として、光秀与力となり、最後まで尽くす。

 

光秀も織田勢とともに戦うが、勝利は望めず不毛な戦いだと見定め、利治を信長の元に送り出すと、信長からの利治に従い仕えるようにとの申し出を断わった。

道三にすべてをかけて尽くしたが、あっけない幕切れだった。二度と落城の憂き目には会いたくない、二度と負けないと心に固く誓う。

義(よし)龍(たつ)・家中の動きを理解していなかったと悔いが残る。

もっと大きな視野で世の情勢を見極め、失敗のない悔いのない生き方をしたい。

志を高く持ち、将来を見定める旅に出ると決めた。縁者を頼ってのことだが。

再び会う日のために、当面の明智家家臣の行く末を伝える。

 

それぞれの領地を守る者もいた。利治に従う者もいた。信長に従う者や尾関氏を頼る者、三宅氏を頼る者、進士家を頼る者、妻木家を頼る者などなどだ。

必ず呼び戻すと再会を誓い別れる。

残った家臣と一族と共に、1556年、美濃を離れる。

 

光秀は、頼るべきは母だと、越前大野にいる母、お牧の方を訪ねた。

お牧の方も、道三の死に心痛めていたが、光秀が元気で生きていることに喜びを隠さなかった。

 どんなに心配したことかと、笑顔で迎え入れた。

そして、光秀から事の仔細を聞くと、越前長崎(福井県坂井市丸岡町)時宗、称(しょう)念寺(ねんじ)の園阿(えんあ)上人(しょうにん)を紹介した。

母は、離縁後、称(しょう)念寺(ねんじ)の末寺、西福庵(小浜氏)に帰依しよく詣でており、称(しょう)念寺(ねんじ)の園阿(えんあ)上人(しょうにん)と親しい仲だった。

 

母に言われ訪ねた称(しょう)念寺(ねんじ)は、広大な寺だった。

住職、園阿(えんあ)上人(しょうにん)との出会いは、忘れがたいほど感動的で、光秀の心情すべて知っていたかのように意気投合した。

「いつまでも居てください」と歓迎され、用意された住まいに落ち着く。

 

そして、寺子屋を開くことで生計を立てる風を装う。

ここで、先妻の子、倫子と二度目の妻、凞子(ひろこ)と幼子の娘と近習を預けることにする。

凞子(ひろこ)は、逆境の中でも、近習をうまく使い寺子屋を続けることが出来、家政を上手に仕切る才知があり、安心して子たちを任せることができた。

 

こうして、いよいよ少人数での旅に出立する。

まず、叔父、進士山岸光信を訪ね、将軍に仕えるべきかを問う。

光信は、将軍、義輝側近として力を持っていたが、将軍家の不安定な状況を事細かに話した。

光信の娘、小侍従は将軍、義輝に仕え、進士家すべてで義輝を支えていた。

だが、京は内乱状態で、光秀が仕えても力の発揮できる役目はないと話し合い結論を出し、京を離れる。

 

若狭・越前の様子をつぶさに見て回り、近江・尾張・三河・駿府・甲斐・信濃・越後と諸国を回る。

光秀は側近と共に、諸国の状況をつぶさに見て、称(しょう)念寺(ねんじ)に戻る。凞子(ひろこ)の変わらぬ笑顔が待っていた。

凞子(ひろこ)は、窮地に追い込まれても、静かで取り乱すことはない。その姿で、子や近習は心落ちつく。

皆が、一丸となって、時が来るまで耐える体制ができていた。

 

光秀は妻に支えられ、旅で学んだことをまとめていく。

興味を持った兵器を実際に試し、軍備についても、兵法・戦術に関しても、理論を作り上げた。特に、鉄砲とその使い方・仕組み・軍装などをじっくり研究し、今後の戦いを有利にすすめる自信を持つ。

軍学を極めつつ情報を集め、天下の戦略・戦術を考えた。

 

そして、今の状況では、朝倉氏に仕えるのが一番だと決めた。

園阿(えんあ)上人(しょうにん)に思いを打ち明けると、頷き「知り合いの朝倉家臣がいる。会う機会を創ります」と連歌の会を催す。

こうして、何度も連歌の会を開き、朝倉家重臣と昵懇の仲となり、推挙することを確約してくれた。

園阿(えんあ)上人(しょうにん)も推挙してくれた。

光秀は、ようやく未来に向けて自信を持つ。

「いつまでもゆっくりしていられない。主君を決める時が来た」と凞子(ひろこ)の労をねぎらいながら笑顔で話すようになる。

 

まず、若狭守護、武田義統を訪ねる。

母、お牧の方が武田一族でありその縁を頼るのが、早いと考えたのだ。

1559年、勇んで若狭に行くが、家督を継いだばかりの武田義統は、家中をまとめるのに必死だった。

わかっていたことだった。

 

武田義統は、越前守護、朝倉義景に仕えるのが良いと話した。

将軍、義輝の妹を妻にし将軍家との縁が深く、進士家との付き合いもあり、光秀をよく知っており、喜んで朝倉家に推挙した。

重ねて、母、お牧の方は「妹、広徳院は、越前守護、朝倉孝景に嫁ぎ、当主、朝倉義景の母です。力を尽くしてくれるはず」と連絡を取ってくれた。

光秀の思い通りにうまく進んだ。

 

美濃守護代、斎藤妙純の娘が朝倉貞景に嫁ぎ、孝景を生んでいる。

妙純の弟、長井利安の妻は、光秀の叔母だ。

明智家・斎藤家・進士家と若狭武田家・朝倉家・将軍家とのつながりは重層的に入り組み強く結ばれている。

 

光秀は、朝倉家に仕官する道はできていると、嬉しくなり、胸を張る。

自然の流れが出来ていたように朝倉家に吸い寄せられていく。

ここで、連歌の会の友に、朝倉家に仕えたい思いを堂々と話し、取次を願う。

その時、朝倉家重臣を称(しょう)念寺(ねんじ)に招き、歓待した。

将軍家の料理作法等を司る進士家から前妻を迎えており接待は得意だ。

集まった友の嬉しそうな顔を心地よく感じる

ここで、凞子(ひろこ)の黒髪が役に立ったという逸話が残る。

 

いよいよ、義景に対面する時が来た。

得意の戦略戦術軍事の持てる知識を披露する。

義景は、面白そうにうなずき、光秀の才に強く惹かれ1560年、鉄砲指南役、5千石という破格の厚遇で召抱えた。

4年に及んだ「流浪の旅」は終わった。