道三の家族|明智光秀と愛娘、玉子(7)
だぶんやぶんこ
約 4671
道三の子達は多い。養女も含めると数えきれないほどだ。
小見の方を大切にはしたが、束の間の恋を楽しむことは忘れず、小見の方との団欒の時は少なかった。
姫は政略結婚の大切な駒で、道三の国盗りに必要不可欠であり、子は多ければ多い方が良いという考えで、愛する女人も多かった。
子たちは皆、道三の野望の実現のための役目を負い見事に果たす。
だが、最も期待した嫡男に殺される結末となる。
1521年、長女誕生。
初婚の西村氏との間の子とされる。道三は生母をはっきりとはしないが。
長じて、土岐政房の7男、土岐頼満に嫁ぐ。
頼満は、1544年道三に殺される。
1523年、次女誕生。
初婚の西村氏との間の子とされる。道三は生母をはっきりとはしないが。
長じて、土岐政房の8男、土岐頼(ときより)香(たか)に嫁ぐ。
頼(より)香(たか)は、1544年道三に殺される。
1525年、3女誕生。
初婚の西村氏との間の子とされる。道三は生母をはっきりとはしないが。
長じて、土岐頼武の嫡男、頼(より)純(ずみ)と1546年結婚。
頼(より)純(ずみ)は、1547年道三に殺される。
3人の娘は、美濃守護一門に嫁ぎ、それぞれ相手を油断させる功があり、道三の美濃統治の役に立ち、政略結婚は成功だった。
皆、伴侶の死を見つめ、複雑な思いだったが、皆生き残り、義龍・龍興に庇護され、斎藤家滅亡後は、出家する。
深芳野を母として生まれたのが。
1527年生まれの義龍。
嫡男として大事に育てられたが、道三を殺すことになる。
道三以上の統治力で美濃を治めるが、5年間と短期間で不可思議な急死だった。
1529年生まれの次男、利堯。
斎藤家滅亡後、信長に従い信長後継、信忠が岐阜城を継ぐと利治と共に家老となる。
小見の方を母として生まれたのが。
1532年生まれの3男、斎藤孫四郎龍重。
道三から家督を譲られた1年後、1555年、兄、義龍が、殺した。
1533年生まれの4男、斎藤喜平次龍定。
道三から家督を譲られた1年後、1555年、兄、義龍が、殺した。
1535年生まれの4女濃姫。
信長と1549年結婚。
1541年生まれの5男、利治。
道三死後、信長に仕え、信忠に仕える。信忠と共に戦死。
生母が定かでない子。
1535年、5女が生まれる。
斎藤利三と結婚。
斉藤家との通婚が続いており、味方とするためだ。
1540年、6女が生まれる。
姉小路頼綱と結婚。
飛騨の有力国人、三木氏が、1558年、国司、姉小路氏を乗っ取り、名とした。
この間、道三が支援し、同盟を結び、結婚を決めた。
飛騨からの安全を確保する、政略結婚だ。
1544年、7女が生まれる。
一鉄の嫡男、稲葉貞通に嫁ぐ。
道三は、最後まで、深芳野の一族を大切にした。
8女は、美濃の有力国人、大沢正秀に嫁ぐ。
9女は、将軍家の家政を担う重臣、伊勢貞良と結婚する。
10女、紀伊は、河内守護、畠山昭高に嫁ぐ。
信長養女として結婚した。
6男、日饒(にちじょう)。道三の国盗り物語の出発点となった名刹、妙覚寺住職となる。
7男、日覚。道三が菩提寺とした常在寺住職となる。
8男、松波政綱。道三の実家の名を継ぎ、江戸幕府旗本として続く。
かりそめの愛で生まれた子たちが多いが、道三にはすべて必要な子たちで、覇権確立のためによく働いた。
子たちを利用するばかりで不幸な結婚となることが多かったが。
志半ばで道三は、亡くなり、信長・濃姫が行く末を決めた子たちもある。
道三が心ときめかせ伴侶とした女人は、深芳野と小見の方。
深芳野との熱烈な愛が、道三に自信を与え、小見の方との静かな愛が、道三の心を落ち着かせ国盗りの終焉に向かわせた。
子は多く、かりそめの逢瀬は多々あったが、西村家の娘、深芳野・小見(こみ)の方(かた)とそれぞれを大切に尊重し多情ではなく、他に側室として稲葉山城に迎えた女人はいない。
主君から得た深芳野との間に生まれた義龍を嫡男とし、その取り決めを疑うことなく貫くが、義龍には通じなかった。
道三が溺愛したのは1535年生まれた濃姫。
濃姫は、道三が一番輝いていたときに正室、小見の方との間に生まれた。
父母に望まれて生まれた濃姫は、恵まれた環境で育った。
成長の中で、道三の国盗りを見続け、父から多くを学び、父、道三を喜ばせる賢い姫だった。
1548年、道三は、信秀嫡男、信長と濃姫の結婚を条件に、織田信秀と和睦する。
美濃の国盗りを終え、尾張、織田家と末永い同盟を結び、美濃の繁栄を成し遂げると決めたのだった。
濃姫は父から「信長が尾張を支配するだろう。優秀な武将だ」と聞かされ、確信して嫁ぐ。「私が嫁ぐからには、美濃・尾張の頂点に立つ斉藤家と織田家とが末永く同盟が続くよう働きます」と胸を張って言った。
母の血を引く愛くるしく素直な姫だった。
天真爛漫で自信に満ちて成長しており、その姿に道三は目を細め溺愛した。
小見の方も「私にはもったいないほど素晴らしい娘」と嬉しそうに愛おしんだ。
光秀との仲もよかった。
濃姫と結婚後の信長の成長は素晴らしかった。
父、信秀の死を乗り越え、織田家をまとめ、尾張を平定し駿河の大大名、今川義元に真正面から対峙するまでになる。
その間いくつもの危機があるが、道三が後ろに控え、時には兵を出し信長を守った。
「良き婿だ。安心して濃姫を任せられる」と道三は、信長の躍進ぶりに満足して、家督を義龍へ譲る。
斉藤家の末永い安泰と繁栄の為により広い見地から、美濃尾張を見るつもりだった。
だが、道三の思いと現実とは乖離していることを、理解しきれていなかった。
深芳野は、土岐頼芸の仕打ちに納得していなかった。
頼芸の美濃守護に懸ける思いは理解できても、許せることではなかった。
それでも、稲葉家の立て直しが第一と、心を決め、道三に嫁いだ。
道三の愛は激しく、深く、目くるめく時を過ごし幸せだった。
稲葉家の再生のための気配りに、愛されていると実感した。
義龍が生まれて間もなく、弟、一鉄が召し抱えられるよう願い、いずれ義龍の側近としたいと話すと、道三も「もちろんだ」と応えた。
1527年、一鉄12歳の時だった。
その後、しばらく、深芳野は幸せを謳歌したが、そのときは短い。
道三は、1532年、土岐一門明智家の小見の方を正室とした。
戦乱で疲弊した美濃の再生に賭ける道三の悩み苦しみは知ってはいたが、明智家の小見の方との結婚は、筋が違うと許せない。
義龍5歳を抱きしめ「この子の成長にすべてをかける」と決意する。
以後、一鉄の庇護者であり、義龍と1537年生まれた利堯の母として生きる。
義(よし)龍(たつ)は、成長と共に、本当の父はだれかと聞くようになる。
深芳野は笑うしかないが、子の心をつかみきれない不安が残る。
「父は(道三に)決まっています。それゆえ嫡男となったのです」と答え、義(よし)龍(たつ)が納得するよう祈るが、思いは通じなかった。
道三に仕える女人は多く、すぐ変わり、誠実さを信じることができなかった。
土岐家に対する仕打ちに怒りを持つ土岐一族や譜代の臣がおり、彼らは義(よし)龍(たつ)に、父は土岐頼芸だと言い続ける。
成長した義(よし)龍(たつ)は、道三の力を冷静に見るようになり、美濃の支配者には自分の方が相応しいと考え始める。
密かに、土岐一族や譜代の臣と、道三亡き後の美濃の治世の構想を練っていく。
そして、なぜ母、深芳野を正室として迎えなかったのか思い巡らす。
父に可愛がられた記憶がなく父の愛を信じられない。
小見の方に生まれた弟たちを偏愛している父の姿も許せない。などなど。
義(よし)龍(たつ)は父とは思えない道三の仕打ちを思い浮かべ、父は頼芸だと決める。
そして、静かに家督を引き継ぐ日を待つ。
1554年、重臣たちの進言に従い、道三は義(よし)龍(たつ)に家督を譲った。
待ち構えていた義(よし)龍(たつ)は、家督を継ぐと、道三を無視し土岐家旧臣を重用していく。
父子は対立し、父は追い詰められていく。
義龍が、決起するときが近いと、道三は信長に助力を求め、信長も応じた。
1556年5月、義龍は決起した。
すぐに信長に知らされ、濃姫も必死に信長に支援を頼むが、間に合わず道三は、殺される。同母弟2人も殺された。
ここから、濃姫は、義龍を兄とは思わず、父の敵討ち、稲葉山城の奪還が使命と悲壮な決意をする。
深芳野は、義(よし)龍(たつ)の心の傷の深さを理解していなかったと悔いたが、道三の生きざまからすれば当然の報いだとも思う。
義(よし)龍(たつ)は、家中の大半に支持され、周辺国・将軍とも有効な関係を築いていく。
道三の能力を受け継ぐ非常に優秀な子だったが、父の死を乗り越え名を残すと踏ん張りすぎ、また、家中を信じすぎた。
信長を敵視し慎重に対峙したはずが、どこか油断があり、道三の死から5年後、名を残す名君になる前に、急死した。
深芳野は、悪夢の中にいるようにうなされ、義(よし)龍(たつ)の死を受け入れられない。
人生、苦難を乗り越えホッとしたら、また次の苦難に襲われる。
何度も何度も危機が襲う、耐えられないと、泣き続けた。
小見(こみ)の方(かた)は、名門の誇りをもって育ったが、道三の正室になることは予想外の快挙だった。
土岐一門であり、道三への忠誠心が評価されたのだと思うが、容姿端麗・並外れた智謀の人が結婚相手となったことが信じられない。
それでも、嬉しくて、弾む心で嫁いだ。
子たちが生まれ、道三と仲睦まじい暮らしが続き、愛される幸せを満喫する。
ただ、道三から奥を任すと言われても、充分に仕切ることは出来なかった。
道三は生母を屋敷に迎えることを好まず、小見の方との暮らしを大切にした。
だが、道三の期待に応えたいと思いつつも、道三の考えが理解しきれない。
自分の子でない道三の子がおり、また次々生まれ、子たちの面倒を見るのに、追われる。子たちの行く末、養子に出すか、僧にするか、自ら育て一門重臣とするかを子たちの資質を見極めながら決めなくてはならない。
家中すべての信望を得ているとは言えない小見の方には難しい役目だ。
自身にも政治的才はなく、奥を取りしきることは難しく、道三の決めたことに従うしかなく、振り回されることばかりだ。
明智家にも、小見の方を支えるほどの政治力はなかった。
ここで、小見の方は、明智家の後ろ盾になり、斎藤家中で動かしがたい力を持つ筆頭重臣にすると決意。
1538年、甥、光秀10歳を道三に仕えさせた。
孫四郎・喜平次の側近とし、道三の重臣とするつもりだ。
道三も、にっこりとうなづいた。二人を良く可愛がる理想的な父親だった。
道三は、濃姫と信長の結婚で尾張織田家と末永い縁を結び、美濃の支配をゆるぎないものとした。
次いで1552年、頼芸を追い払い土岐氏の足跡を消し、完璧な美濃の支配者となる。
義龍の父は、疑いようなく道三であり、親子関係はゆるぎないと言い続けたが、疑いを持つ義龍を納得させることはできなかった。
やむなく、家督を譲ることで、父としての証を見せた。
だが、通じず、あえなく62歳で、わが子に殺された。