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小見の方と深芳野|明智光秀と愛娘、玉子(6)

だぶんやぶんこ


約 13347

美濃国を制覇した斎藤道三。

だが、そのときは短く、斎藤家は滅亡する。

その主因が、小見の方と深芳野の対立だ。

そこには土岐家と斎藤家。そして土岐氏一族、明智氏と守護代家、斎藤氏と結んだ稲葉氏の熾烈な戦いがあった。

 

複雑な人脈の中での争いであり、繰り返しとなる部分もあるが、小見の方と深芳野の覇権争いとは。

 

1513年、明智家に末の姫、小見の方が誕生。

父は明智光継。

母は、前妻、武田信豊の娘・進士氏亡き後、後妻となった尾関石見守の妹、尾関氏。小見の方は、光秀の叔母になる。

 

尾関氏は、後に福島正則の家老となり力を奮う尾張の豪族だ。

古く、平安時代から尾張大森城 (愛知県名古屋市守山区)を築き勢力を持っていたが、1467年、水野勢に攻められ落城。

同族の小関源五左衛門を頼り、その居城、鍋屋上野城(名古屋市千種区)に身を寄せ、織田家に仕える。近隣に勢力を持った明智家との縁もあり、その縁を頼り仕えた一族もおり、明智光継に嫁ぐことに繋がる。

 

明智光継もその嫡男、光綱も若狭武田氏から妻を迎えている。

明智家は、奉公衆として将軍の側近くに仕え、将軍の指示で戦い、京に在することが多かった。

そんな中、親しくしたのが将軍お気に入りの若狭武田氏と進士家。

 

明智家は、同僚の美濃衆でもある進士家と共に戦い、通婚を繰り返し、深い縁で結ばれていく。

進士家は、将軍家の食膳を司る役目を持ち、将軍の側近くにいることが多い。

進士流という包丁道を創り饗応も任せられ、将軍の人脈づくり・権力者との交友に深く関わった。

 

その中で若狭武田氏との親交があった。

若狭武田氏は、1440年、将軍、義教の命令に応え、前守護、一色氏を追い払い若狭守護職と尾張国智多郡を得て始まった。

明智家は率先して若狭武田氏とともに尾張国智多郡で一色勢と戦い、勝利に大きく貢献した。

こうした繋がりで、光継・光綱は若狭武田氏から妻を迎えた。

 

光継は、初婚の若狭武田家から迎えた妻・再婚で進士家から迎えた妻を亡くす。

そこで、側近くに仕えていた尾関氏を後妻に迎えた。

1513年、小見の方が生まれる。

 

 光秀が生まれる3年前、1525年、道三は、土岐頼(より)武(たけ)の住まう守護館、福光館(岐阜市長良福光)を奪い、頼(より)芸(のり)を迎え入れ、頼(より)芸(のり)の居館とした。

以後、波乱はあるが、対外的には、頼(より)芸(のり)が美濃守護として、美濃を治めた。

 この時、道三は、まだ長井家家老であり、まだ実質、守護となったばかりの頼(より)芸(のり)だが、戦功第一の道三を深く信頼した。

この後、道三なくしては守護であり続けることはできないと思い定めて、道三を頼る。すでに、道三は、美濃一国の実権を掌握する力を漂わせていた。

 

守護館の主となった頼(より)芸(のり)は道三に上機嫌で話した。

「恩賞を与える。思うがままに何でも言うように」と。

その言葉を待っていた道三は、迷うことなく憧れの人、頼(より)芸(のり)の愛妾、深芳野との結婚を願う。

頼(より)芸(のり)も快く応じた。

守護職を守るのに価値ある女人との結婚の必要を感じていたからだ。

道三は、すぐに、西村氏の娘と離縁し、道三、33歳で、深芳野と結婚する。

 

深芳野は1507年生まれた。

父は、稲葉通則。

母は、一色義遠の娘。

 

稲葉氏は、河野通貞(塩塵)(1448-1538)が、西美濃に在住し勢力を持ち稲葉家を名乗り始まる。

河野氏は、天皇を元祖とする古代豪族「越智氏」を受け継ぐ四国の名族であり、伊予(愛媛県松山市)を本拠とし強力な水軍を持った。

次第に全国各地の湊で交易をしていく。

そして、有力な湊に一族が在地していき、一門が広がっていく。

 

越前・美濃にも一族が、交易の為住まうようになっていた。

美濃守護、土岐家と河野氏とは、鎌倉幕府により、土岐一族が河野氏の統治下だった浮穴郡(愛媛県)を得て地頭となり、在地し治めて以来、縁がある。

その繋がりで、河野氏は、凋落していくと土岐氏を頼った。

以前から美濃に一族がおり、手引している。

 

1461年、河野通直の四男、通貞(塩塵)が、土岐氏に召し抱えられ美濃に入り、小寺城(揖斐郡池田町小寺)を築き本拠とし、稲葉氏を名乗る。

そして、嫡男、通則が継ぎ、稲葉一鉄へと続く。

通貞・通則は、優れた軍事力を持ち巧みな戦術で、歴戦を戦い、頭角を現した。

それでも、この地の圧倒的有力豪族、本郷城の国枝氏には及ばず、通婚で、同盟を結び共に戦うことで、勢力を強めていく。

 

稲葉通則は、国枝正助の娘と結婚。

正助の嫡男、通勝も国枝氏の娘と結婚。

結婚政策は、成功で、両家の同盟は固く、共に伸びた。

 

美濃守護は、成頼だった。

4男の元頼を溺愛し、嫡男の政房を廃嫡して元頼に家督を継がせようとしていた。

そのために先頭になり戦い、勝てる力があると見込んだのが、小守護代、石丸利光。

斎藤家、第一の臣で、守護代を上回る武力も知力も備えた、斎藤家一門だ。

石丸利光は、妙椿とは非常に良い関係だったが、後継、斎藤利国(妙純)との相性は悪く、対立した。

そこで、斎藤家に代わり守護代に成ろうと守護に取り入り、元頼擁立の主力となる。

石丸利光を支える主力の重臣の一人が、国枝氏だ。

 

こうして、元頼対政房の守護職をめぐる内紛が、始まる。

石丸勢は、守護、成頼に鼓舞され一時的には勝利するも、斎藤利国(妙純)に敗北。

1496年、元頼と石丸利光は自害して果てた。

副将として共に戦った国枝氏も一族全員討ち死。美濃国枝氏は滅亡した。

 こうして守護は、嫡男、政房となる。

稲葉氏は、中立を保ち、難を逃れた。

 

土岐成頼は1456年、美濃守護代、斎藤利永に擁され、強引に守護となった。

前美濃守護、土岐持益は、嫡男、持兼の死後、その子、亀寿丸を後継ぎにしたかったが、斎藤利永が横槍を入れ、拒否し、成頼を守護とした。

 

成頼は、尾張知多郡分郡守護、一色(いしき)義(よし)遠(とお)の子だ。

一色氏は、室町幕府開府に貢献し若狭・三河・丹後などの守護となり、強大な権力を持った。

以来、将軍の命令に素直には従わない独立した統治を行い、将軍は、苦々しく思い、力を削ぎたいと考える。そして、策略を用い、若狭武田氏らに攻め込ませた。

1440年、勝利し、一色氏の勢力を削ぐことに成功する。

 以後も、一色氏と若狭武田氏の戦いは続く。

 

1467年、応仁の乱が起きると、若狭武田氏が東軍に属したため、若狭武田氏になんとかして勝ちたい一色氏は西軍で戦った。1477年、終結。

一色家宗家は、丹後守護を取り戻したが、一色氏の勢力を挽回するまでにはならず、一色氏分家で、尾張知多郡分郡守護、一色(いしき)義(よし)遠(とお)は、分郡守護を解任され、尾張知多郡も若狭武田氏らに没収され、1478年、尾張知多郡を去る。

 

一色(いしき)義(よし)遠(とお)の本家領地、丹後国に戻る。

その後、一色(いしき)義(よし)遠(とお)の嫡男、義有が本家を継ぎ1498年、丹後守護となる。

以後も戦いは続き、勝ったり負けたり、守護も解任されることもあり、勢力も次第に衰退していくが、足利一門の名家としての権威はあった。

 

一色(いしき)義(よし)遠(とお)は、美濃守護となった長男、土岐成頼(1442-1497)と生まれたばかりの娘を残し、本拠に戻る。

娘は、稲葉氏に預ける。生母が、稲葉氏に近い女人だったためだ。

 

成頼は、生母を土岐氏とするが、一色氏が去ると、守護に擁立した功労者、利永の後継、利藤の後見人、持是院家、斎藤妙椿の力が増す。

土岐家を思い通りに仕切るようになるが、1480年亡くなる。

引き継いだのは、養子の斎藤妙純(利国)。

 

この頃、成頼に生まれたのが、元頼。

斎藤妙純(利国)の力が増していき、苦々しく想う成頼は、元頼を溺愛し、ついに、1494年、元頼を守護にしたくて立ち上がった。

だが、思いは実らず、斎藤妙純(利国)の推す成頼嫡男、土岐政房が勝利する。

 

土岐成頼は隠居させられ、政房が美濃守護になった。

戦いの主力、石丸利光は自害、その主力、美濃国枝氏は、1496年、敗北滅亡した。 稲葉家は、動かず、生き残り、稲葉家内の国枝氏は、隠された存在となる。

ここで、稲葉家で成長した娘が、稲葉通則の妻となる。

 

こうして、稲葉通則と一色(いしき)義(よし)遠(とお)の娘の間に、小見の方や一鉄が生まれる。

妻の兄、土岐成頼は、隠居し甥、政房が美濃守護となり稲葉通則は義叔父となった。

以来、通則は、積極的に、守護、土岐政房を支える。

こうして、政房が信頼する重臣の一人となり、稲葉家は勢力を伸ばす。

 

 土岐氏は、美濃源氏の嫡流。

平安時代、摂津源氏を初めとする源頼国が美濃に土着して以来、代々続く。

だが、力を持ちすぎ将軍に恐れられ、一色氏と同じような経過をたどった。

1388年、美濃・尾張・伊勢守護、土岐頼康(1318-1388)は、亡くなる。

死の前、養子とした甥、土岐康行に引き継ぐ手はずを整えていた。

ところが、室町幕府将軍、義満は、横やりを入れ、尾張守護を康行の弟、頼忠と決め、対立させ、争いを起こさせる。

 

康行は、挑発に乗り蜂起してしまう。

この機を待っていた将軍、義満は、弟、頼忠らに討伐を命じた。

頼忠は、将軍の命令であり、尾張守護は魅了的であり、受けて戦う。

だが、自力で康行に勝つのは難しく、周辺の国人衆に味方となり戦うよう命じた。

本家に敵対するのを拒む一門衆が多く、外様の国人衆を味方にするしかなかった。

代償は、勝利の時の恩賞だ。

ここから、頼忠らは有利に戦いを進め、康行と従った土岐氏一門家臣は、反将軍派となり敗北し、没落する。

 

1390年、義満は、勝利した土岐氏分家、西池田氏、頼忠を美濃守護とした。

思うように土岐家の権力を削いでいく。

伊勢守護は、土岐康行から嫡男、土岐康政と受け継がせた。

尾張守護は、土岐康行から弟、土岐満貞へと受け継がせた。

土岐家の再編をうまく成し遂げ、非常に満足した。

 

分家を継いでいた頼忠は67歳で美濃守護となった。

甥を裏切ったが、土岐氏の主流になった嬉しさもあった。

だが恩賞を約した国人衆からの要求が激しくなる。

彼らの要求に応えて、大判振る舞いせざるを得ず、最大の功労があった国人、冨島氏に守護代の役目を与える。

 

頼忠は、頼康、頼雄、明智頼兼、康貞、直氏と兄が5人いた末っ子だった。

嫡男、頼康が、土岐家を継いだが1388年亡くなり、すでに亡くなっていた次男、頼雄の嫡男、康行を養子とし後継とした。

だが、康行は、将軍と戦わざるを得なくなり、敗北し、伊勢守護職だけは守ったが、1404年、失意の中で死ぬ。

3男、明智頼兼は明智家に養子入りし、家督を継いでいた。

4男、5男は庶子。

そこで、末っ子、頼忠が、将軍の命令で、美濃守護を継いだのだ。

将軍の命令に従って戦い、勝利し、美濃守護を勝ち取ったのだ。

 

明智家と土岐家の関係の強さを示す事件でもあった。

こうして、頼忠が継いだ土岐氏西池田家が、美濃土岐氏の嫡流となる。

高齢の頼忠は、4年足らず守護を務め、1394年、嫡男、頼益に譲る。

 

ただ、分家が本家に取って代わり、外様衆を優遇していると、土岐氏庶流・一族の不満が募り、反発が大きくなっていく。

頼益は、将軍の後ろ盾で、美濃土岐家嫡流となったのであり、正当な後継だと主張するしかなかった。

将軍を支え、幕政に加わり、重要な地位を担い、幕府のために戦い、戦勲を上げて自らの正当性を示していく。

諸将の筆頭としての特別の栄誉を与えられ、幕閣の要人となる。

 

だが、美濃国内での評価は上がらず、内紛が続き土岐一族の力は落ち、頼忠が引き立てた国人衆が力を持つようになっていく。

美濃の統治は、外様の守護代、冨島氏が主導し、次席の守護代となった斎藤氏が、その元で仕切る。

 

美濃斎藤氏は、越前斎藤氏の庶流であり、鎌倉時代に国司の代官となり美濃に入り、政務を取り仕切り、土岐氏に仕える重臣となったが、この頃は次席家老だった。

 

1414年、頼益が亡くなると嫡男、持益が8歳で守護となる。

ちょうど、冨島氏も代変わりし、幼い守護と守護代の誕生となった。

美濃斎藤家の当主、斎藤祐具は働き盛りの野心家だった。

幸運が舞い込んだと、美濃の政治を主導し、力をつけていく。

そして、嫡男、斎藤宗円(1389-1450)に引き継ぐ。

 

智謀に優れ権力志向の強い宗円は、1444年、京の土岐屋敷で冨島氏を謀殺した。

この時、守護、土岐持益は斎藤氏を支持し、宗円を守護代とする。

 富島氏一族をすべてを抹殺するはずが、逃亡に成功した一族がいた。

彼らが、美濃に戻り、復讐心に燃えて、土岐氏・斎藤氏に戦いを始める。

勝敗がつかないまま、内紛は続く。

 

そんな時、1450年、宗円は、京都の近衛油小路で富島氏の刺客に殺される。

受け継いだ嫡男、斎藤利永は、激しい怒りを富島氏にぶつけ、熾烈な戦いを始める。

そして、卑怯な富島氏を成敗するとの大義で、富島氏を討ち果たし、美濃守護代家として美濃の治世の実権を握る。

美濃守護、持益は、斎藤氏の台頭になすすべがなかった。

 

不甲斐なくやるせない思いの美濃守護、持(もち)益(ます)(1406-1474)に追い打ちをかけるように、1455年、期待していた嫡男、持兼が亡くなる。

がっくり来つつも、庶子だが持兼の子、持(もち)益(ます)の孫、亀寿丸がおり、亀寿丸を引き取り育て、家督を譲ると決めた。

 

すると、美濃守護代家、利永は「庶子であり幼なすぎます。美濃守護は務まらない」と猛然と反旗を翻した。

そして、持(もち)益(ます)の養女ともいえる土岐氏を母とする一色(いしき)義(よし)遠(とお)の長男、成頼を養子にし後継にするよう申し出た。

 

持益は譲らず争いになるが、守護代、斎藤利永(宗円嫡男)はねじ伏せ押し切る。

美濃守護代家、利永は、1456年、持(もち)益(ます)の娘(養女)と一色義遠の間に生まれた土岐成頼を守護とし、斎藤家の覇権を確立し1460年、亡くなった。                    

 

この後、稲葉通則は、土岐成頼の妹、一色(いしき)義(よし)遠(とお)の娘と結婚する。

守護の妹婿となった。

斎藤家と稲葉家と土岐成頼は緊密な関係となる。

 

斎藤利永死後、嫡男、利藤が継ぐが、まだ幼い利藤の後見人を弟、斎藤(さいとう)妙(みょう)椿(ちん)とし、利藤を託した。

斎藤(さいとう)妙(みょう)椿(ちん)は、まれに見る教養のある知略に優れた武将だった。

守護代、利藤の後見として持(じ)是院家(ぜいんけ)を名乗り、守護代家と斎藤一門を仕切っていく。

あわせて、室町幕府奉公衆となり、都で独自の勢力を持つとともに、美濃周辺での支配地を広げていく。

 

守護代、利藤の妹が、土岐成頼に嫁いだ。

成頼は公私ともに監視されていると感じ、美濃守護として力を発揮することがない。

鬱積した日々を送り、正室から離れ、側室を愛し次々子が生まれる。

生まれた次男を近江守護、六角高頼の元に人質も兼ねて猶子として送る。

六角氏との縁で、我が身を守り、守護代の力を弱めようとしたのだ。

4番目に元頼が生まれると溺愛するようになる。

 

持是院家、斎藤(さいとう)妙(みょう)椿(ちん)は、1480年亡くなるが、美濃守護代家、斎藤利藤の弟、妙(みょう)純(じゅん)利(とし)国(くに)を養子としており、引き継がせた。

今まで妙(みょう)椿(ちん)の思うままに操られ不満が鬱積していた守護代家、斎藤利藤も、息を吹き返す。

だが、斎藤(さいとう)妙(みょう)椿(ちん)は、妙(みょう)純(じゅん)の資質を早くから見抜き薫陶を与え、名将に育てていた。

 

死後、まもなく守護代家、利藤対持是院家、妙純の領地をめぐる争いが起きるが、守護代家、斎藤利藤のかなう相手ではなかった。

妙純は、勝利し、利藤を美濃から追い出した。

越前守護、朝倉氏の覇権確立のために力を貸し、朝倉氏とは友好な関係だった。

そこで、より強く結びつきたいと、1491年、娘、祥山禎公を朝倉貞景に嫁がせ、朝倉氏との連携を深め、後顧の憂い無くし、ますます強力に美濃を治める。

 

この間、土岐成頼は、小守護代、石丸利光(斎藤一族)との関係を深めると共に、利藤の美濃守護代復帰を目論む。

守護代、小守護代の力で、元頼を守護とするためだ。

1487年、利藤を美濃守護代に復帰させ、元頼に美濃守護を継がせるよう命じる。

利藤は、守護代復帰を喜んだが、戦力はかってほどのことはない。

成頼に忠誠を誓い、元頼を守護とするために戦う。

 

ここから、嫡男、政房対成頼・元頼の後継者をめぐる争いが激化する。

元頼を推すのは、近江守護、六角高頼・尾張下四郡守護代(清須織田氏)、織田寛村・伊勢有力国人、梅戸貞実(六角一族)。

成頼は、万全の準備ができたと1494年、元頼を後継者と公にする。

嫡男、政房を推す妙純は、全てを見通し、近江守護、京極高清・尾張織田宗家、織田寛広(岩倉織田氏)・越前守護、朝倉貞景を味方につけていた。

こうして、優勢に戦いを進め、成頼は、あえなく挫折。

あきらめきれない成頼は、再び、1495年戦うが、また負けて、守護を政房に譲り隠居に追い込まれた。

 

妙純は、ここで、内紛を終わらせると、止めを刺す。

元頼を挑発し戦わせ、勝利し、1496年、殺す。

美濃守護代、利藤は隠居した。

政房は、この年から美濃守護となる。

 

妙純は、妹の子、政房(1457-1519)を自らの力で美濃守護とし、思うがままに美濃を治める。

成し遂げた満足感で、最高の時だった。

そこに、六角氏と戦っている娘婿、京極高清が、救援を求めてきた。

敵なしの軍事力を持っており、気楽に応じ近江に出陣し勝ち、強気の和議を結んだ。

 

意気揚々と美濃に戻る途中、予期しない郷民・馬借による土一揆の標的となる。

慌てふためく中で、1497年1月、妙純・嫡男、利親は討ち取られた。

妙純・利親の予想外の死で、持(じ)是院家(ぜいんけ)は、大混乱となる。

次男、又四郎が後を継ぐが、まもなく、1499年急死。

3男、彦四郎が後を継ぎ、美濃守護代となる。

 

土岐政房(1457-1519)は、妙純・利親の死を喜び、美濃守護として自ら力を奮うと張り切る。

妙純に大恩があるとわかっても、傀儡は嫌で守護として力を奮いたかった。

この頃、彦四郎の弟、長井利隆・長弘親子が土岐政房の側近くで仕えた。

政房は、守護代、彦四郎より、長井利隆・長弘親子を能力があると重んじた。

 

政房は、妙純の推した女人との間に頼武が生まれていたが仲が冷えていた。

それを見ていた長井利隆は、政房好みの縁者を政房に仕えさせる。

思いどおりに愛が生まれ、1502年、頼芸が誕生した。

政房は、頼芸母子に夢中になり、この縁でも長井利隆・長弘の重要性が増していく。

 

稲葉家もまた、一色義遠の長男が、1460年、美濃守護、土岐成頼(1442-1497)になったことで、大飛躍した。

 

土岐成頼は、斎藤妙純(利国)の妹と結婚し、斎藤家とも親しい関係だった。

だが、斎藤妙純(利国)が仕切る藩政に嫌気がさし、妻との仲も悪くなる。

そんな時、斎藤利藤が推す女人を気に入り、召し抱え、4男、元頼が生まれる。

元頼を溺愛し、嫡男の政房を廃嫡して元頼に家督を継がせたいと思う。

 

斎藤家と縁を結ぶ必要があると考えた稲葉家は、斎藤妙純(利国)の弟、長井利安と稲葉家の娘を結婚させた。

成頼を全面支持していた稲葉氏だが、家督騒動が起きると、静観しつつも、斎藤妙純(利国)を支持した。

 

元頼を擁立する守護代、斎藤利藤・小守護代石丸利光は、政房を推す妙純と戦う。

斎藤妙純(利国)側が勝利し、守護代、斎藤利藤は敗れる。

こうして、美濃守護、政房(1457-1519)となると、稲葉氏も率先して従う。

だが、斎藤妙純(利国)も嫡男、利親も1497年亡くなる。

 

以後、長井利隆が台頭し、稲葉氏も従うようになっていく。

そして、長井利隆と嫡男、長弘が推した女人が政房と出会い、仕え、愛妾となる。

1502年、頼(より)芸(あき)が生まれると稲葉通則は、守役となる。

 

頼(より)芸(あき)は、稲葉通則を信頼していく。

そして、稲葉通則と一色義遠の娘の間に、1507年、深芳野が生まれる。

稲葉家が安定している時で、両親に、慈しまれすくすく育つ。

 

深芳野は幼いときから評判の可愛さだったが、成長とともに、その美貌が近隣に知れ渡るようになっていく。

その評判を聞いた頼(より)芸(あき)は、稲葉通則に出会いを頼み、対面し、召し抱える。

こうして、稲葉家の重要性が増す中で、絶世の美女の誉れ高い、深芳野が、1522年、15歳で、いとこ、土岐政房の子、頼(より)芸(あき)に嫁ぐ。

 

頼(より)芸(あき)は、美濃守護の父から溺愛され、次男だが後継として育ち守護になると確信していたが、1519年、父が亡くなると兄、頼武が守護を引き継ぎ、苦渋の時だった。

癒してくれる女人を求めており、深芳野は美貌と行き届いた心配りと優しさで頼(より)芸(あき)を魅了し、二人は愛し合った。

深芳野は正室となってもおかしくない出身であり、守護になれず兄に監視された暮らしの頼(より)芸(あき)に嫁ぎ、支えた。

当然、正室だと思っていた。

 

1525年、頼(より)芸(あき)は、道三らの力で、守護館に落ち着き、実質守護となった。

その時、浅井勢・朝倉勢が美濃に侵攻し、牧田の戦いが始まる。

守護の義父となった通則は、稲葉家の力を見せたいと、張り切って一鉄を除く5人の子と共に出陣し戦うが、牧田(岐阜県養老郡養老町)でことごとく討死した。

稲葉家壊滅の危機となる。

 

たった一人残ったのが6男、一鉄。

臨済宗妙心寺派、崇福寺(岐阜市長良)に入り僧としての修行中で生きていた。

わずか10歳の一鉄だったが、事態をすぐに理解し、はっきりと稲葉家を継ぐと宣言し、還俗して稲葉家に戻る。

父の遺領を継ぎ、新たに曽根城(大垣市)を築き移り一族を無残に殺された恨みをばねに飛躍していく。

光秀の生まれる前だが、同じように崇福寺で学んでいたのだ。

 

 期待していた稲葉氏の脆さを知り、弱体化を見た頼(より)芸(あき)は、がっかりして、長井長弘・道三に頼り切りとなる。

稲葉氏を重用する意味を失ない、道三に夢の実現を懸ける思いが一層高じた。

また、美濃守護として生きる覚悟をし、ふさわしい妻を迎えたいとも思う。

そこで、結婚はしたが、深芳野の処遇をあいまいにした。

 

頼武は、義父、朝倉氏の支援を得ており、今でも脅威であり、戦いは続くはずだ。頼(より)芸(あき)が、完璧な守護となるためには、六角氏や織田氏など味方にする必要があった。

結婚は、我が身を守る大きな武器だ。

 

深芳野も、そんな頼(より)芸(あき)の変化を見逃さなかった。

頼(より)芸(あき)に尽くしたが、物足りないところもあり、守護の妻として、力を発揮できるか不安になっていた。

 そんな時、道三の深芳野を見る熱い目に気づき、快く感じていく。

 

頼(より)芸(のり)は、実質、守護となり成し遂げた満足感に浸り、第一の功があり今後も頼るしかない道三に「恩賞は思いのままにと」と話した。

道三は深芳野に強く惹かれており、深芳野を得ることを願う。

頼(より)芸(あき)は、正式な美濃守護となるために有効な結婚を模索しており、道三が深芳野と結婚することは、両者にとって良い取引であると、快諾。

1526年、道三と深芳野は結婚。

翌年、1527年6月10日嫡男、義(よし)龍(たつ)が生まれる。

 

結婚してまもなくのあまりに早い義(よし)龍(たつ)の誕生で、父親が疑われるが、稲葉家の姫、深芳野は堂々と道三の子だと言い、道三もうなずき嫡男とする。

美濃で一番の実力者と確信し選んだ道三の嫡男を生んだのだ。

深芳野は成し遂げた思いで紅潮した。

道三と嫡男誕生の喜びを分かち合った。

愛する人、道三に愛される喜びを体中で感じた。

分身であり、宝である赤子を抱きしめることができた。

一鉄の将来を輝かせることができる。

などなど思い、感無量だ。

 

 すっきりと背が高く絶世の美女ともてはやされ、容姿には多少の自信はあったが、どこか自分に対して自信を持てなかった。

祖父、尾張知多郡分郡守護、一色義遠は1430年代の生まれ。

一色義遠の嫡男が、丹後守護となる1487年生まれの義有。

一色義遠の長男の美濃守護、土岐成頼は、1442年生まれ。

深芳野の母は、稲葉氏出身で、父が三河を去る1478年の生まれ。

深芳野の母は、稲葉通則と結婚。

1507年、深芳野を生み、1515年、一鉄を生んでいる。

かなりの高齢出産だ。

 ありえないことではないが、どこかつじつまが合わない気がしていた。

 

稲葉家は、1578年、尾張知多郡分郡守護、一色義遠の娘、美濃守護、土岐成頼の妹を預かって以来、守護の側近くで仕え、優遇されていた。

これは事実であり、そのまま信じて良いと思う。

深芳野が生まれたときには、土岐成頼(1442-1497)は、亡くなっていたが。

 

稲葉氏は、1496年、土岐政房が守護となると、重臣の一角を占める。

1502年、頼芸が生まれると守役の一人となり、稲葉家上げて仕える。

そして1507年生まれの深芳野と頼芸に愛が生まれる。

1522年頃結婚。となる。

 

深芳野は、成し遂げた喜びにひたり、嫁いだ。

その時、母もすでに亡く、結婚で一人前になった喜びと、守護家と稲葉家を繋ぐ役目の重さに身を引き締めた。

稲葉家は、家中を上げて祝福し、守護となるだろう頼芸の義父となることで、稲葉家の明るい未来を見た。

頼芸に従い戦い続けて得た深芳野と頼芸の結婚だった。

 

なのに1525年、稲葉家の命運が尽きたかのような事件が起きた。

深芳野は、父、通則や兄たちの戦死が信じられなかった。

それでも、一鉄が当主になると受け入れ「かっての稲葉家はなくなったのだ。弟をもり立て、稲葉家の未来を築いていくしかない」と思い定める。

弟のために、稲葉家の再興に力を尽くしたい。

頼芸は、稲葉通則とその子たちの死を、武将としての力の無さと厳しく見た。

それゆえ、頼りにしていた稲葉勢の軍事力を失い、怒りさえあった。

深芳野との愛も冷めていく。

 

そして深芳野が、恐れていたことが現実となる。

1526年、深芳野は、道三に嫁ぐよう命じられる。

道三からの羨望の目は感じていたし、望まれて、愛されて嫁ぐのだから、満足だが、頼芸の愛はもうなくなっていたのだと、寂しかった。

一鉄を守り稲葉家の復権を果たすために、道三との結婚がより価値があるはずだ。

そう納得し、受け入れる。

 

頼芸も道三も、深芳野の悔しさがよくわかっていたが、やむを得ない選択だった。

深芳野も、理不尽に思いながらも、愛情がある選択だったと気持ちを切り替える。

翌1527年、嫡男、義龍を生み、道三は喜び感謝し、一鉄を召し抱えたいと頼む。

とても嬉しい申し出だった。

頼芸に仕えるより、道三に仕えるほうが、一鉄にも稲葉家にも価値があると思えた。

結婚してよかったと思う。

 

一鉄は、姉の変遷を理解できなかった。

頼芸も道三の姉に対する処遇を納得できず、情けなく辛かった。

すべきことが山積みで、深芳野とゆっくり話すこともないまま、日が過ぎたが。

だが、道三に仕え、近侍するようになると、次第にわかっていく。

斎藤家中で仕えるべき人は道三であり、道三から望まれて仕えるのは稲葉家にとって価値があると。

その道三に引き合わせてくれたのは、姉、深芳野だと。

一鉄は、道三に仕え、引き立てられ、軍事の才と豊かな学識で文武両道の名将として名をはせていく。

 

深芳野は、嫡男の母であり、道三の正室としてふるまっていたが、深芳野に夢中だった道三が、冷静に深芳野を見つめるようになっていくのを感じる。

道三の心変わりを感じたが、一鉄を支え、稲葉家を復権させる覚悟は変わらず、なんとしても踏ん張りたいと、客観的状況の変化に敏感になっていく。

一鉄を重用する道三は、深芳野には大切な夫だ。

 

道三は、土岐家を乗り越え美濃を支配する野望に燃え、相応しい女(ひと)を探していた。下剋上を繰り返した道三にとって、斎藤家に近い女人は、裏切りの可能性があり避けたかった。

そこで、土岐家と繋がる家系の姫であり、有力美濃衆で、道三に忠誠を尽くす、明智家の姫、小見の方に目を留めた。

小見の方を正室に迎えれば、土岐家中も道三が土岐家を引き継ぎ後継になったことを納得するはずだ。

 

こうして、深芳野との関係はそのままに、1532年、小見の方を正室に迎える。

深芳野は、唖然として言葉も出ない。

小見の方を選ぶとは思いもしなかった。

明智家と稲葉家は同格もしくは稲葉家が上だと思っており、屈辱だった。

 

 深芳野は、頼芸と道三の裏切りに、人間不信になるほど打ちのめされた。

小見の方が正室となるのは耐えられない思いだが、一鉄のために、稲葉家のために変わらず仕えるしかない。

耐えるしか解決法がないのが、あまりに辛い。

この悔しさを生涯忘れないと、心に刻み込んだ。

 

その思いは、一鉄も同じだ。

道三への忠誠心はなくなっていく。

義龍を守り、強い母子関係を築き、存在価値を保つしかない。

後に、義龍と道三の内紛が起きると、一鉄は、義龍を支え、道三を見限る。

 

一方、明智光継・光綱は、若狭武田氏から離れると、美濃守護代家と縁組を結ぶ。

そして、頼芸を支持し、道三と共に頼武勢と戦った。

1525年、長井長弘が稲葉山城に入ると、家老、道三の要求により国人衆は城下に屋敷を建て、住まうようになる。

明智家は、率先して屋敷を建て、小見の方ら一族が住む。

道三に従うことを表明した証だった。

 

隠居した光継は末娘、小見の方12歳を可愛がり、共に住む。

小見の方は、若さが弾けるはつらつとした表情で動き回り、皆の笑顔を誘う。

稲葉家を訪れる人達と、率先して会い、話をよく聞き、質問したり、答えたりする。

稲葉山城下の暮らしを謳歌し、賢い姫だと人気者となる。

 

家督を受け継いだ光綱が、若狭武田氏から妻、お牧の方を迎え光秀が生まれる。

明智家は守護、土岐氏・美濃斎藤家に仕えていた。

そして、頼芸を擁する道三に従うようになり、頼武を擁する朝倉家との戦いが始まった。若狭武田氏は朝倉家の影響下に入り、朝倉勢とともに戦った。

ここで、明智家と若狭武田家は敵対した。

光綱は、お牧の方を離縁した。

 

道三は、明智光綱を再々呼び、小見の方と顔を合わす機会を作り、以後小見の方を招くようになり、光綱に思いを告げ、1532年、小見の方と結婚。

 

結婚で明智家も張り切り、頼芸を守護とする取次を、進士家を通じて行った。

道三の意向を受けて、六角定頼の娘と頼芸の結婚の取次にも、明智家は活躍する。

1536年、かねてより話し合いを続けていた六角定頼の娘と頼芸は結婚。

ここで、六角氏を味方とした。

すぐに六角氏の推挙を得て、将軍、足利義晴は、土岐頼芸を正式に美濃守護とする。

 

1538年、明智光継が亡くなり、光秀10歳が道三の小姓となり仕えるようになる。

小見の方が、兄、光綱・父、光継と亡くなり、明智家の将来を光秀に託したいと考えて、道三に仕えさせたのだ。

 

道三は、明智家を重んじ、光秀を可愛がる。

稲葉家、深芳野・一鉄とも変わらず接し敵対する気はないが、稲葉家は、距離を置くようになる。

深芳野・一鉄のやるせない行き場のない怒りを受け止めるには、余りに忙しかった。優しく、人心をつかみ、細やかな人間関係を築くのは不得手だった。

 

小見の方も、道三から奥を任されたが、分家にしか過ぎない明智家の姫が、土岐氏・斎藤氏すべて見渡しながら、奥を仕切るのは限界があった。

道三の支えが必要だったが、道三には、奥に目を配る余裕もなかった。

それどころか、小見の方を正室として遇し、愛していたが、女主として一族の束ねになるための力を与えることはなかった。

それどころか、結婚後も、女人との付き合いは派手だった。