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道三、国盗り成功|明智光秀と愛娘、玉子(5)

だぶんやぶんこ


約 3579

万全の体制となり長井長弘、家老、道三が、立ち上がる。

頼(より)芸(のり)は道三にすべてを任せた。

道三の口から飛び出す美濃守護となる計画は、うなずくことばかりで、楽しそうに聞き、わくわくしていた。

 

1525年、頼(より)武(たけ)の住まう守護館を武力で襲い奪う。

意が通じている斎藤利茂は戦わずして逃げ、斉藤氏の居城、稲葉山城も奪い取る。

守護館の主は頼(より)芸(のり)。

稲葉山城の城主が長井長弘となる。

 

ここで、頼(より)芸(のり)は、実質、守護となり、成し遂げた満足感に浸る。

戦功第一の道三が、軍事においても、内政でも力を発揮し、頼(より)芸(のり)は道三を兄とも思い、ますます頼りきりになる。

 

翌1526年、頼(より)芸(のり)は、道三に望みのままに恩賞を与えると感謝を込めて言った。

待っていたように興奮し、道三は憧れの人、深芳野を願い出る。

道三は主君の命令だと、西村家の妻と離縁し、深芳野を妻に迎える。

 

頼(より)芸(あき)は、正式な美濃守護となるために必要な女人との結婚を模索しており、道三は深芳野に強く惹かれており、両者にとって良い取引だった。

愛する女人を得て道三の才は冴える。

翌1527年6月10日、嫡男、義(よし)龍(たつ)が生まれる。

嫡男の誕生で、道三33歳の力はみなぎる。

 

長井長弘が稲葉山城に入ると家老、道三は家中に城下に屋敷を構えるよう命じた。重臣らは、道三の指示通り、城下に与えられた土地に屋敷を構え住まいとした。

城下に人質を置き、道三に忠誠を誓う証でもある。

明智家屋敷も建てられ、小見の方が住まう。

頼(より)芸(あき)と道三のコンビで美濃を取り仕切っていく。

道三の得意絶頂の時だった。

 

内紛はまだまだ続くが、道三は優勢に戦いを進めており、美濃国第一の実力者として、疲弊した美濃を豊かにすべく内政に積極的に取り組む。

ここで、美濃に居る頼(より)武(たけ)の存在は目障りとなる。また、長井家、長弘の家老の身分は道三にふさわしくないと、ニコニコとつぶやく。

1530年、頼(より)武(たけ)を追い詰め、妻の実家、朝倉家へと追い払った。

続いて、長井長弘を「頼武と内通した」と殺す。

 

長弘亡き後、嫡男、景弘が家督を継ぐ。

ここで、道三は、長弘の遺志だと長井姓を名乗る。

すると、翌1531年、景弘が亡くなり、道三は、景弘を引き継ぎ、念願の長井家当主となる。

こうして道三は、稲葉山城(岐阜城)に入り、堂々と、美濃を支配し、政務をとる。

 

すべて思いのままになったが、美濃を治める大義が欲しいと考える。

そこで、いち早く道三に臣従し、家柄・戦力を頼りとした土岐氏一門、明智氏の姫、小見の方との結婚が、土岐氏を引き継ぐ道三にふさわしい大義となると思う。

小見の方の知性と可憐な美しさに惹かれており、結婚を決める。

1532年、道三38歳・小見の方19歳の結婚だ。

 

こうして、土岐一門となった道三は、自信を持って、美濃を支配するが、周辺国、越前守護、朝倉氏・若狭守護、武田氏とは、決裂し、戦いが続いていく。

近江守護、六角氏も、頼(より)芸(のり)を認めず、嫡流の兄、頼(より)武(たけ)を支持したままだ。

頼(より)武(たけ)を美濃に戻そうと、度々侵攻して来る。

 

多方面の敵を迎え討つのは、あまりに兵の消耗が激しく、越前守護、朝倉氏との戦いは続けざるを得ないが、六角氏との戦いは避け味方にすると決める。

頼(より)芸(のり)に「六角氏から妻を迎え、和睦し味方とすることで、美濃は安泰となります」と持ちかけると、頼(より)芸(のり)は大賛成だ。

 

頼(より)芸(のり)は、父、政房に溺愛されたとはいえ、側室の子であり、10代から家督を巡る争いを続け、しかるべき妻がなく、良縁だと喜んだ。

六角氏も戦いに疲れており、乗り気であり、結婚話は進んだ。

1536年結婚、六角氏の推挙と将軍、義晴により、頼(より)芸(のり)は正式に美濃守護となる。

頼(より)武(たけ)は姿を消した。

 

次いで1538年、持是院家、斎藤利良の死を公表し、道三は、彼の遺志だと斉藤氏を名乗る。

守護代、斎藤利茂は頼(より)芸(のり)に従い、道三にすべてを任す。

道三が、持是院家・美濃守護代家をまとめ、美濃の覇者として美濃政治を執る。

 

成し遂げた満足感に浸ると、道三は、国盗り物語の終焉のため、動き始める。

1539年、頼(より)武(たけ)追放後も、居城、大桑城(岐阜県山県市)に住まいした頼(より)武(たけ)嫡男、頼純と和議を結び、庇護すると約した。

頼純を味方とすると、1541年、指示に従わない頼(より)芸(のり)の弟、娘婿、頼満を殺す。

頼(より)芸(のり)は、激怒し、決起しようとした。

やむなく翌1542年、頼芸と嫡男、頼次を尾張へ追放する。

続いて1543年「これで美濃守護になれる」と喜んだ頼純を大桑(おおが)城(じょう)から追い出した。

 

頼純は、伯父、朝倉孝景を頼り逃げ、孝景に美濃に戻りたいと訴える。

追われ道三への憎しみを募らせる頼芸は、頼純と連携し、織田信秀の支援を得て道三と戦うと、合意する。

 土岐頼芸を中心に、織田・朝倉連合の同盟ができた。

皆それぞれ、これで道三を倒せると、希望に満ちた。

 

朝倉孝景は、翌1544年、美濃へ侵攻するが失敗。

同じく、織田信秀も美濃に侵攻したが、こちらも失敗。

道三はどちらも押し返した。

この時、頼(より)芸(のり)の弟、頼(より)芸(のり)に内通した娘婿、頼(より)香(たか)を殺す。

 

道三は、朝倉勢も、織田勢も、殲滅まではできないが、ねじ伏せた。

これで良い、ここで有利に内戦を終わらせると決めた。

1546年、朝倉孝景・頼純と和議を結び、頼純を大桑城に迎え入れた。

頼芸と嫡男、頼次を美濃に受け入れ、頼(より)芸(のり)は隠退。

頼純の美濃守護職就任を約し、道三の娘と結婚、を条件とした。

頼芸は納得しなかったが、押し切る。

 

美濃守護となった土岐頼純だったが、翌1547年、亡くなる。

すると、頼(より)芸(のり)は、織田信秀の庇護のもと、美濃守護に戻ると勇んだ。

そこで、織田勢が攻め込んでいくが、道三は、美濃を守る。

 

続いて、道三は、織田家との和議で、内戦を集結させると決める。

1548年、信秀と和議を結び、濃姫と信長の結婚を決める。

美濃と尾張は友好な関係となり、お互いを尊重する和議だ。

いつまでも逆らい続ける頼芸と嫡男、頼次を美濃から追放する。

ここで道三の国取り物語が完成する。

 

その一部始終を1527年生まれの義(よし)龍(たつ)が見ていた。

生まれた頃、道三と深芳野が熱く結ばれていた姿は覚えていない。

美濃の国主となり旧主から下げ渡された深芳野のイメージは良くないと悩む道三の姿も知らない。

道三の氏素性は誇れるものではなく、美濃を治めるにふさわしい大義を持つ妻を望み悩む姿も知らない。

義(よし)龍(たつ)は、母、深芳野を見捨て、小見の方を選んだ道三を頭に焼き付けていた。

 

義(よし)龍(たつ)が知っているのは、道三と小見の方の結婚を知り、怒る母、深芳野の姿だ。

深芳野は、悲しむ姿を見せることなく、義龍に惜しみなく愛情を注ぎ育てた。

深芳野の実家、稲葉家も、道三に許せない思いを持ちながら義龍の成長を見守った。

 

道三は、土岐一門、明智氏と共に、美濃を治めることを大義名分とし、人心をつかむと決め、小見の方を正室としたため、深芳野は側室となる。

その後、小見の方との間に男子が生まれても、嫡男は義龍だと変えることはない。

道三の誠意であり、義(よし)龍(たつ)を我が子だと信じていたからだ。

義(よし)龍(たつ)は優秀で後継に相応しかった。

 

だが、義(よし)龍(たつ)は道三の守護、土岐氏に対する無残な扱いを恨んだ。

しかも「弟ばかり可愛がり自分を亡き者にしようとしている」と思い込む。

密やかに家臣団をまとめ時を待つ。

 

道三は60歳になり体力の衰えを感じ、重臣たちの勧めで1554年、家督を義(よし)龍(たつ)に譲る。実権を渡すつもりはなかったが。

だが、思いを秘め、この時を待っていた義(よし)龍(たつ)は、体制を固めると決起した。

土岐氏に縁あるものすべてが従い、母の実家、稲葉家一族の総力を挙げた支援もあり、家臣団の大勢を占めるまでになっていた。

 

まず弟たちを殺し、1556年5月、義龍勢1万8千・道三勢3千の兵で、長良川河畔で戦う。道三は娘婿、信長に援軍を要請したが間に合わない。

道三は殺され、義(よし)龍(たつ)は、名実ともに後継となった。