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母の死|明智光秀と愛娘、玉子(11)

だぶんやぶんこ


約 3155

光秀は、絶好調だった。

その熱気は家族一門に伝わり、家中に気合が満ちていた。

次第に、信長に仕える以上、第一の臣となりたくなる。

惟(これ)任(とう)という九州の名族の名を与えられ、信長の期待が痛いほど分かりうれしかった。

信長が、光秀の家格を上げ信長の重臣に相応しい名としたのだ。

九州を平定すれば与えられる希望を得た。

 

家臣団の層は広がりつつあったが、織田家中の信頼も得たかった。

だが、あまりに早い出世に、今一つ家中に根を張れないもどかしさもあった。

また信長も光秀だけに目をかけるのではなく、常に競争心をあおるように他の重臣とバランスをとるようにしており、気を抜けない。

 

まずは、与えられた役目を信長が喜ぶようにこなすと、丹波攻略の策を練り、調略を始めていく。

これほどの責任ある任務は初めてで、全精力を振り絞る。

だが、信長はそれだけでは終わらせない。

多方面に戦線を広げており、支援部隊となるよう命じるのだ。

柴田勝家率いる越前攻めに加わるよう命令された。

兵を引き連れ秀吉と共に先鋒となり、加賀へ攻め込む。難しい戦いで支援だけではすまず、力を入れて戦わなければ勝てない戦いだった。

勝利し、戦いの目処がつくと、坂本城に戻り、いよいよだと丹波に兵を進める。

 

以後、丹波・丹後平定の総指揮と信長に折々命じられる他の方面への戦いの支援と、戦いに明け暮れるとても忙しい日々となる。

丹波、篠村八幡宮は尊氏が鎌倉幕府打倒の挙兵をした地だ。

丹波衆は、尊氏を擁する強力な国人衆が多く、戦力も優れていたために、この地を挙兵地にしたのだ。

だが、幕府の力が弱くなると、丹波衆が勢力争いを始め続いていく。

 

それでも、丹波衆は、将軍家を信奉し、義昭を擁した信長に素直に臣従した。

信長は私怨による戦いを禁じ、信長の許可がない戦いは許さないと強気で命じた。

その信長の命令を盾に、光秀は丹波に侵攻し、信長への忠誠心を確認し、完全配下においていく。

 

義昭を信奉する丹波衆は、信長が、義昭を追放すると、信長に反感を持った。

その丹波衆を信長の完全配下とするのは、難しく、光秀に任されたのだ。

丹波一の有力丹波衆、赤井(荻野)直正。

戦国の世、抜群の軍事力で勢力を広げ、但馬国(兵庫県北部)守護、山名(やまな)祐(すけ)豊(とよ)の領地の一部まで支配下に置いた猛将だ。信長に敵対する気はなく従った。

同じく、信長に従った山名(やまな)祐(すけ)豊(とよ)は、かっての領地を取り戻し、信長から安堵されたいと、旧領地に侵攻する。

だが赤井(荻野)直正の軍勢に追い返された。

そこで、赤井氏の横暴を信長に訴えた。

 

待っていた信長は、山名氏の申し出に理ありと裁定し、大義名分とし、赤井氏征伐を光秀に命じた。

丹波を完全勢力下に置くには独自の動きをする赤井氏の存在は目障りで、つぶそうと考えたのだ。

光秀は、強権の行使をちらつかせ、義昭ではなく、信長に忠誠を誓う丹波衆へと変えていく。

そして信長に逆らい、山名(やまな)祐(すけ)豊(とよ)勢と戦い追い払った黒井城主、赤井(荻野)直正を追い詰めることで、他の丹波衆がより強く信長に臣従するはずだった。

 

1576年2月、黒井城を目前にし、万全の態勢で最後の戦いを始めようとした。

信長の満面の笑顔を思い浮かべ、期待に応えると余裕だった。

だが、この時、丹波第二の勢力を持つ丹波衆、波多野秀治が光秀の背後で裏切り、光秀を襲い、光秀勢は総崩れとなる。

波多野秀治は今まで、光秀の指示のもと良く戦っており、信頼していたが裏切った。

 

赤井(荻野)直正の先妻は、波多野秀治の妹だ。

これまでも、通婚が続いた親しい仲で、綿密な打ち合わせがあっての裏切りだった。

気づかなかった光秀は、自分を責める。

また直正の後妻は関白、近衞前久の妹であり、前久とも非常に親しい仲だった。

近衞前久は信長を支持しよく協力をしたが、赤井氏討伐は謀られた戦いだと知っており許せなかった。

そこで、波多野秀治と連絡を取り合い信長に一矢報いる作戦を立てた。

大成功だった。

近衞前久も裏切ったとは、光秀は信じられなかった。

 

光秀は、壊滅的打撃を受け、命からがら坂本城に退却。

丹波攻略の見直しをせざるを得ず、信長の怒りの顔が迫ってくる。

急ぎ、体勢を立て直し、波多野秀治の居城、八上城を攻撃するが、丹波の入り組んだ山岳地帯を知り尽くす波多野勢に翻弄される。

 

4月、本願寺顕如の石山本願寺攻めを命じられて出陣。丹波を離れる。

信長は、義昭の異常な執念での「信長包囲網」作りに手を焼いていた。

義昭は、京を追われ再興の道を断たれてもあきらめないのだ。

石山本願寺の奮起を促し、本願寺もその命令に応え、信長と戦った。

丹波攻略を焦る光秀には、本願寺勢との天王寺(大阪市)の戦いは負担だったが、手を抜ける戦いではなかった。

その最中、5月、過労で倒れた。

 

坂本城に戻り、妻、煕子の献身的看護を受け、2か月以上生死の間を彷徨ったが、8月には回復し、戦線復帰した。

ところが、看病疲れの出た凞子(ひろこ)が倒れた。

そのまま1576年末、41歳で亡くなる。

 

明智家の未来は輝いていると、誰もが思っていた時の死に、皆、打ちひしがれ言葉もなかった。

母は、数々の苦労を口にすることもなく「子たちに恵まれ幸せな一生でした」と満足の笑顔で亡くなった。

良妻賢母の鑑のような女人だった。

 

 光秀は、この時、自分の人生を悟る。

妻の分まで生きるように与えられた命の重みを知る。

同時に、身代わりとなった煕子の元にいつでもいけるのだとの安堵感を得た。

信長の信を得ることばかり思い、明智家の末永い繁栄のために戦わねばと、どこか気負いすぎていた。

戦いでの失敗を恐れ、まだ死ねないと死の恐怖もあったが、ここで超越する。

煕子に守られていると気持ちが楽になり、たとえ光秀が死のうとも後を引き継ぐ者たちの存在を信じることができた。

 

玉子13歳、母の死を受け入れられず、衝撃を受け悲しみに沈んだ。

いつも側にいた母が、亡くなることはありえないと思っていた。

これから先の明智家、父、光秀を思うと胸が張り裂けそうだった。

身近なとても大切な人でも亡くなる、という悲しく厳しい現実を初めて経験した。

 

幾日が過ぎると母の言葉を、口にすることができるようになる。

母から「必ず見守り続けます。目の前からいなくなるだけです。死を冷静に受け止めるように」と何度も聞かされていた。

思い切り泣いて、周囲の悲しみの様子が見えてくると「私はもう大人です。母のように生きます。安心してください」と気丈に振舞えるようになる。

母の悲しむ姿を見せたくないとの思いで、一杯になる。

いつまでも、母が誇れる娘でありたい。

 

こうして母、煕子の死を乗り越える、光秀と玉子がいた。

光秀は、愛くるしい玉子の存在で、未来に期待することができた。

信長の命じる戦いは止まることはない。戦い続けるしかない。

1577年、雑賀攻めに加わり、紀伊に出陣し戦う。

続いて、信長の信頼を得ていた松永久秀が、反信長勢力と呼応し居城、信貴山城に立て篭もった。

直後、信長に命じられ、光秀は筒井順慶、細川藤孝と共に信貴山城を攻める。

落城させるまでには至らなかったが、加賀に出陣していた軍勢が救援に駆けつけ、信貴山を包囲し、圧倒的に優位な体制となった。

ここで、松永久秀は68歳で自害し城は焼け落ちた。

 

丹波での戦いを続けながらの各地での戦いはきつかった。

それでも光秀勢は丹波攻略で成果を出していき、いよいよ丹波攻め最終段階となる。