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光秀の子、そして玉子の結婚|明智光秀と愛娘、玉子(12)

だぶんやぶんこ


約 5944

凞子(ひろこ)亡き後の明智家の奥を仕切り、子たちの世話をする女人をどうするか考える。

光秀には、3男4女が生まれた。そのうち凞子(ひろこ)は、4人の子を生み、5人を育てた。

1549年生まれの長女、倫子。母は、進士氏。

1555年生まれの次女。

1563年生まれの三女、玉子(細川ガラシャ)

1565年生まれの四女。

1569年生まれの嫡男、光慶(十兵衛)。ここまで凞子(ひろこ)が母。

次男、光泰(十次郎)。

三男、乙寿丸。この二人が最後の妻、服部氏が母。

 

先妻の子だが、凞子(ひろこ)が育てたのが長女、倫子。

摂津国(大阪府の大部分・兵庫県の一部)領主、荒木村重の嫡男、村次に嫁いだ。

信長が、京に近く陸海の交通の便に優れた要所、摂津を任せるほど重んじたのが、村木家だ。

摂津には、後に大坂城が築城される。

 

荒木村重は、丹波国(京都府中部・兵庫県北東部)の国人、波多野氏の庶流。

波多野氏は、河内源氏の嫡流、源頼義に仕え、相模国に遣わされ、頭角を現した。

源家に仕え続けた重臣だ。

義朝に仕えて側室となり、頼朝の兄、朝長を生む女人がでるほど、源家の中枢におり、一門待遇も受けた。

 

相模国でも力を伸ばすが、本拠に帰った一族がおり、応仁の乱で、丹波守護、細川氏に属して、戦功を上げ、丹波での勢力を広げた。

その一族で摂津に移り池田氏に仕え、池田氏を凌ぐ力を持ったのが荒木村重だった。

池田氏は、信長から摂津支配を任された摂津の有力国人だ。

幾多の戦功を上げて池田氏に成り代わった村木村重が、信長から摂津を得たのだ。

 

光秀は、京入りして以来、村重と親交を深めており、そこで信長が決めた結婚だ。

荒木村重は、光秀与力となり、光秀の重要な戦力となる。丹波攻めでは光秀に従い果敢に戦った。

光秀が織田家一の重臣となるためには、必要な武将だった。

光秀が納得する結婚であり、凞子(ひろこ)は「良縁だ」と嬉しそうに嫁入り支度し嫁がせた。

 

次女は、いとこの明智光忠(父、光継の弟、光久の子)を婿養子に迎えた。

長らく嫡男に恵まれない光秀が後継者の含みで迎えた。

凞子(ひろこ)との第一子であり、明智家を継ぐにふさわしい賢い娘だった。

光秀と凞子(ひろこ)は「これで、明智家は安泰だ」と結婚を祝った。

 

三女、玉子は、藤孝の嫡男、細川忠興との結婚が決まっており、1578年嫁ぐ。

すでに姉二人は嫁ぎ、坂本城では玉子が惣領娘だった。

光秀が坂本城に戻ると、妹弟を従え、真っ先に飛んで来る。

何をしていたのか、戦いは勝ったのか、根掘り葉掘り聞いた。

光秀は笑いながら適当に、玉子が喜ぶように武勇伝を話した。

玉子は気を良くして、一人悦に入る。

その時の輝く笑顔は美しすぎるほどだ。

光秀・凞子(ひろこ)の自慢の姫であり、織田家中にも知れ渡る才媛だった。

 

1574年、信長が玉子と細川忠興との婚約を命じた。

一番喜んだのが母、凞子(ひろこ)だった。忠興との結婚を願い続けていたのだから。

「おめでとう。天にも昇る嬉しさです。安心して、逝けます」と病が重くなった時、母は何度も口にした。

 

母、凞子(ひろこ)は、越前の屋敷で忠興の父、細川藤孝に対面して以来、親しくし、その妻、麝香(じゃこう)とも仲が良かった。

以来、明智家・玉子の成長に合わせるように、藤孝・麝香(じゃこう)との仲を深めた。

そして、細川家は明智家を支える光秀の盟友だと確信していく。

藤孝も凞子(ひろこ)と思いを同じくし、嫡男、忠興と玉子との結婚を望んだ。

そこで、光秀が信長に願い出て、了承されたのだ。

 

四女は、同じ頃、織田一族、信長の甥、津田信澄と婚約した。

信長が「(光秀を)一門とする」と上機嫌で決めた。

凞子(ひろこ)は「信じられない嬉しさです。信長様と縁続きになるのですね。ありがたいことです」と涙した。

ここで、光秀は信長一門となった。

 

嫡男、光慶は7歳になったばかり。

凞子(ひろこ)は、どのように成長するか、光秀の後継足り得るか不安だった。

全幅の信頼を置く次女に任せると決めた。

「(光慶を)預けます。お願いします」と。

婚約時は明智家後継になると聞かされた次女であり、難しい立場だったが、一点の曇りもなく「(光慶を)必ず立派な後継にします。見守ってください」と明言した。

凞子(ひろこ)は涙を流し「良き子を持ちました。幸せものです」と礼を言った。

光慶には「父上に従い、明智家を守るように」と慈愛を込めて言い残す。

 

凞子(ひろこ)の死後、1577年、光秀は、三度目の妻を迎える。

光慶の母が必要だったからでもある。

最後の妻との間に、次男、十二郎・三男、乙寿丸が生まれる。

信長に縁ある女人との再婚を願うべきだとも考えたが、3度目であり正式に妻とすることをためらった。

そこで、凞子(ひろこ)に仕えた服部氏を妻にした。

 

服部氏は、伊賀国(三重県西部)福地城(三重県伊賀市柘植)主、福地宗隆の子。

母は、服部保長(服部半蔵正成の父)の妹。

福地氏は、平清盛を祖とし柘植(つげ)氏(し)を名乗る伊賀柘植の有力国人の分家。

服部氏(母の実家)一門ではあるが光秀謀反で闇に包まれていく人物だ。

 

服部氏は、服部半蔵正成のいとこになる。

服部半蔵は、家康譜代の臣となり、伊賀・甲賀忍者を率い戦った有名な武将だ。

そして同じく、いとこ、服部正尚は2代将軍秀忠の母、お愛の方の母の再婚相手だ。

服部半蔵が、家康の腹心となる前に、服部氏は光秀の妻となった。

 

服部家は、伊賀国阿拝郡服部郷(三重県伊賀市服部町)を発祥の地としている。

桓武平氏の流れであり、壇ノ浦での戦いに敗れ落ち延び、伊賀に潜んで始まった。

この後、伊賀忍者の頭領を務め、分家を作りながら代々続く。

だが、狭い伊賀では収入も少なく発展の余地がないと、服部保長(初代服部半蔵)は一族を引き連れ、京に出て将軍、義晴に仕える。

この頃から、明智家・進士家との付き合いが始まる。

 

 だが、服部保長(初代服部半蔵)は冷めて目で将軍家を見るようになっていく。

将軍に力なく、戦功をあげても恩賞がなく飛躍は望めない、伊賀に戻るしかないと諦めた時、三河で破竹の進撃をしていた松平清康(家康の祖父)と出会う。

ここで清康こそ仕えるべき主君だとひらめき仕えることを願う。

家康も、服部保長の武将としての力を見抜いており、快く応じた。

こうして、三河に付き従い、思う存分戦っていく。

 

だが、その時は短く清康は殺された。

その後の松平家の混乱で、忍従の日となるが、後継、服部半蔵正成が引き継いだ頃、家康が三河に戻り、再び活躍の機会を得る。

 

伊賀は、古くから東大寺などの寺領となっており、国主となる人はいなかった。

そのため、時代を経ると、管理支配を任されていた豪族がそれぞれ独立化し自らの領地としていく。

それぞれ忍者を抱え山中に拠点を持ち、奇襲・陽動など攪乱戦術に長けた強い軍事力を培っていた。

 

室町幕府が開府されると、伊賀守護、二木氏が任命された。

だが、仁木氏には伊賀をまとめることはできなかった。

百地氏、藤林氏、服部氏の伊賀上忍三家が、その他の強豪9家と合議制と取りながら仕切る、自治領としており、その組織を壊すことは出来なかった。

服部家は、合議制の元、伊賀忍者を統括する立場にあった。

 

近隣、阿拝(あはい)郡(ぐん)柘植郷(三重県伊賀市)にも平家落人が住みつき、柘植(つげ)氏(し)を名乗る。

柘植氏は、次第に強力な国人衆となり分家を作る。

有力分家が北村氏・福地氏。

福地氏は、福地(柘植・名張)城を築き居城とした。

柘植本家は、伊賀衆から離れ、伊勢の支配者、畠山氏に仕え、重臣となる。

柘植保重は、福地宗隆の子であり、本家に養子入りし本家を継いだ。

 

そこに、織田信雄が侵攻してきた。

信雄は、伊勢を制し畠山氏に臣従を求めた。

ところが、畠山氏は拒否。

柘植家当主、保重は信長の勢いを見て主家を離れ、臣従すると決めた。

再三、畠山氏にも臣従を促したが拒否され、やむなく、畠山氏を離れ柘植勢を引き連れ、信雄の元に行く。

畠山氏の元で人質となっていた柘植保重の妻子は、裏切りを攻められ磔となった。

 

1576年、柘植保重が先陣を務め、織田信雄は、畠山氏を大軍で攻め滅ぼし、伊勢を平定した。

ここで、柘植保重は、信雄家老となり、権力を握る。

信長は、伊勢の次は伊賀だと、1579年、侵攻を命じる。第一次天正伊賀の乱だ。

 

この時、保重の父、福地宗隆は伊賀衆の一員として信雄と戦った。

長年自治を持ち伊賀を治めた伊賀衆は、権力者の支配下に置かれることを拒否した。

福地宗隆は、武力・武術を駆使し、我が子、織田信雄家老、柘植保重を討ち取ってしまう。妻子を失った我が子を殺した虚しさに苛まされ、戦いに嫌気をさす。

信長・信雄の実力を正当に評価すべきだと信長に臣従することを決めた。

伊賀衆に降伏すべきだと進言するが、聞き入れられず、結局、福地家だけが裏切ったことになった。それでも、信雄に従う。

 

こうして福地宗隆は、柘植保重を引き継ぎ信長方となり伊賀攻めの案内役となる。

攻めあぐねていた信雄だったが、地理をよく知る福地氏の先導で、織田勢有利に変わっていき、戦いに勝利、伊賀衆は壊滅的打撃を受け、信雄に臣従する。

だが、服部家中は家康の元に逃げ、伊賀衆の主だったものもすでに逃げていた。

伊賀衆は、伊賀だけでは暮らせず、有力大名らに召し出され諸国で活躍しており、その伝手で逃げたのだった。

 

光秀は、1571年、坂本城(滋賀県大津市)を築くとき、姉川の戦いで知り合い、戦術に長け、土木普請も巧みな伊賀衆、服部半蔵(1542-1597)に築城普請の手伝いを頼んだ。

服部半蔵は家康に属していたが、伊賀衆は求められればどこにでも行く。

すぐ一族を集め、光秀の元に行かせた。

服部一門は、よく働き、光秀は築城後、幾人かを家臣とした。

 

その中に、服部氏(福地宗隆の娘)がおり凞子(ひろこ)に仕える侍女となった。

以後、光秀と服部半蔵はより一層親しい関係となる。

服部氏や福地氏や柘植氏など伊賀衆は、信長と対峙しながらも、信長・家康などに従う一族もいたのだ。

 

こうして、光秀は、服部氏を妻にした。

服部半蔵正成の養女として嫁ぎ、福地氏ではなく服部氏と呼ばれる。

家康に仕えた服部半蔵は業績を上げ、腹心となっていく。

光秀と家康の縁も出来ていたのだ。

 

光秀の妻となった服部氏は、玉子の嫁入り支度を整えた。

玉子は、忠興との結婚を望み婚約を喜んだ母、凞子(ひろこ)の面影を胸に、明智家の姫として恥ずかしくない教養をつけると学び続けた。

この間、忠興は、初陣を果たし、元服した。

すべての準備を終え、母の死から2年後、1578年、結婚する。

 

玉子と夫、忠興は15歳の同い年だ。

両家とも岐阜城下に屋敷があり、顔を合わせる機会がありお互いを意識していた。

そこで、光秀が望み、申し出て、信長が婚約を命じたのであり、お互いが待ち望んだ結婚だ。

 

 光秀は、6才下の細川藤孝を出会った時から高く評価した。

藤孝が義昭と信長との取次役だったが、光秀が引き継ぎ、義昭と信長の取り次ぎ役となり、義昭を擁しての信長の上洛を決め、義昭を将軍とした。

その後も親交を深め、藤孝を説得し、信長の家臣とした。

信長に命じられ、藤孝を与力として従え、信長の命じる戦いに共に出陣した。

兄のように藤孝(1534-1610)を見守り引き立てた。

 

藤孝は、信長家中での光秀より格下の地位を受け入れてはいなかった。

将軍、義昭(1537-1597)の異母兄だと、確信しており、室町幕府の政治を主導する管領を歴任した細川家の一門であることに誇りを持っていた。

それでも、織田家中での序列は明らかに光秀の下であり、上役の姫を迎えたのは紛れもないことだと、自身を戒めながら、にこやかに玉子を迎えた。

 

玉子は、藤孝から「嫡男の嫁に迎えられ、光栄だ」と礼を尽くした歓迎を受けた。

格上の光秀の姫として、うやうやしく細川家に迎えられ父の威光を感じ肩身が広い。

自信に満ちた美しさに細川家中の羨望の目を感じ、とても嬉しい。

しかも、夫のまぶしそうに見つめる目に、まっすぐに応えられる喜びに酔う。

望まれて嫁いだのだ。

この幸せは父母のおかげだと、母への感謝を心に刻みながら、細川家の人となる。

 

細川藤孝は、博学多才の教養人だった。

剣術等の武芸、和歌・茶道・連歌・蹴鞠等の文芸、さらには囲碁・料理・猿楽までも習熟している。

その上、公家、三条西実枝に古今(こきん)伝授(でんじゅ)(古今和歌集の解釈を秘伝として受け継ぐ)を受け、その子・三条西公国、さらにその子・三条西実条に伝授するまで、和歌の二条派の正統をも継承した。

 

玉子が、嫁いで一番驚き、感動したのが、藤孝の持つ深い学識だった。

細川家に嫁いでよかったと思えた。

結婚前から、細川家との付き合いはあり、ある程度は知っており、結婚後は教えを受けたいと、思っていたが、直ぐ側で話すと想像以上の感動の連続だった。

藤孝も多忙であり、教えを受けるときは限られていたが、わくわくしながら学ぶことが出来た。

 

細川家は長岡に勝龍寺(京都府長岡京市)城を築き居城としており、玉子は、勝龍寺城で幸福な新婚時代を過ごす。

安土城下の屋敷も建築中であり、完成後移り住むことになっていた。

美男美女の二人は、はためもうらやむほどの仲のよさだった。

忠興は少々神経質だが、玉子は満ち足りていた。

 

結婚の翌年1579年、長女、長姫が生まれる。

生まれた時、忠興は丹後守護、一色義道と戦っていた。

一色氏は義昭に仕え、信長に従ったが、信長と敵対した義昭を匿ったことから反信長とみなされ、光秀・細川勢が攻め込んだのだ。

忠興は、見事な戦いぶりで、一色義道を倒し、名を上げた。

だが、一色勢の反攻は続き、一掃することはできず戦いは続いていた。

忠興は、長姫が生まれたのも知らないほど戦いに打ち込んでいた。

 

玉子は忠興が側にいない寂しさがあるも、思う存分長姫を抱きしめることができた。子を育てる母の喜びを味わう。

 父母に愛され、家庭を持ち、父母と同じように子を愛し、歴史を受け継ぐことにたとえようもない幸せを感じる。

天から見守ってくれる母に感謝の思いを捧げ、今を報告する。幸せだった。