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光秀の家臣団|明智光秀と愛娘、玉子(13)

だぶんやぶんこ


約 9603

少し遡る1569年、義昭がいた本圀寺が襲われ、義昭を奪われそうになった。

そこで、信長は、義昭の身を守るための御所が必要だと、防備を備えた二条御所を築き、義昭に提供した。

義昭は、将軍御所が出来、将軍としての権威が高まったと、上機嫌だった。

同時に、信長の思うがままに扱われている傀儡でしか無いと、将軍として力を発揮できない不満が湧き出てくる。

 

信長は、義昭に一定の将軍権力を許していたが、それだけでは収まらずより強い権力を持ちたい。

そこで、信長に隠れて、御内書をあちこちに書きまくる。

信長包囲網作りに精を出す。

 

信長は、度々義昭の勝手な行動を諌め責めるが、懲りない。

腹立ち、将軍の権限を限定する命令を出していくが、守ることはなく、ついには怒り許せなくなる。

1572年、義昭に17条の意見書を定め、守るよう厳しく命じた。

敵対勢力となると恐れ、監視下の将軍であるべきだと考えたからだ。

義昭は、追い詰められ信長にすべて従う道を取るか戦うか、決めざるを得なくなる。

 

それでも、義昭には、信長包囲網を作り上げた自信があった。

信長の力に頼り今があるとよくよくわかっていたが、信長に勝てると自信が膨らんでいき、戦いを決意した。

琵琶湖湖畔に今堅田・石山の砦を築き幕臣を配置、伊賀衆甲賀衆に守備を命じた。

この時点では、伊賀衆甲賀衆は将軍、義昭に従った。

だが、琵琶湖からの防備まで手が回らず、湖上から攻め込んだ光秀が突破口となり、一挙に崩壊。

義昭は二条城を強化して信長と戦うつもりだったが、あまりに早く、しかも光秀の急襲で今堅田・石山の砦を落とされたと知り「勝つ見込みはない」と戦意をなくす。 

将軍、義昭を擁することはまだ価値があると考えた信長は、配下に置いておくと決め、勅命を得て、和解した。

 

義昭は、敗者となり和議を結んだ。

将軍としての誇りがあり、信長に全面的に屈することは出来ない。

信長包囲網がうまく働かず、先んじてしまったのだと、まず、朝倉勢・武田勢・本願寺勢等が立ち上がってから動くことにする。

皆が結集し、再度立ち上がるよう御内書を次々発給した。

 

彼らの具体的な動きを確認し、信長包囲網は出来た。

きっと勝てる信長の思うようにはならないと自らを鼓舞して、二条城を出て槇(まき)島(しま)城(じょう)(宇治市)に籠り、対決姿勢を見せ、和解を否定した。

だが、天は味方せず、上洛を目指した期待の武田信玄が道半ばで死んでしまい、信長包囲網は崩れ去った。

信長はもう許せないと決意しており、1573年、義昭は、京都から追放され、室町幕府は実質的に滅亡した。

光秀の功は大だった。

 

光秀は、義昭の追放を苦渋の思いで見送り、幕府に仕えていた者を積極的に召し抱える。

いつの日か義昭を京に迎える日が来ることを信じ、その日のために自らの家臣団とし、守り続けるつもりだった。

明智家譜代の臣は、信長重臣の家臣団としては層が薄く見劣りすると常日頃から思っており、折々優秀な臣を召し抱えたが、ここで一挙に家臣団の層が厚くなる。

 

光秀の家臣団トップが「家老衆」5人。

全幅の信頼を置き本能寺の変の決行を打ち明けた5宿老だ。

だが、明智家を率い任せられるほどの力はなかった。

参謀ともならず、光秀自ら決断し、その意を伝える忠臣でしかなかった。

 

第一が、明智秀満。 光秀の叔父、光安の後継。

明智城から共に逃げて以来、光秀を支え、光秀あるところ秀満ありと言われるほど、一心同体の影になり、明智家再興に尽くした。

長女、倫子の婿である。

 

本名は、三宅弥平次。

光秀の叔父、光廉と妻、三宅氏の子だ。

兄、光安に望まれ、養子となり継いだ。

倫子とともに、光秀の後を追うように亡くなる。

 

倫子との間に生まれた嫡男、三宅重利(1581-1637)は、守役、三宅六郎太夫に預け、乳母とともに逃がした。

三宅重利は、京の町人、大文字屋のもとで育ち、12歳で鞍馬寺に入る。

ここで、僧を嫌い玉子を頼ると決め、連絡を取り、玉子に迎えられ、庇護される。

 

第二が、明智光忠。光秀の叔父、光久の嫡男。

次女の婿である。

光秀に後継が生まれるまで、次期後継と考えた娘婿養子だ。

だが、結局、明智家を託すほどの武将には育たなかった。

次女とともに光秀の後を追うように亡くなる。

 

第3が、斎藤利三(1534-1582)。将軍、家光の乳母、春日局の父。

血筋は、道三とは違う美濃守護代家、斎藤氏の一族。美濃斎藤家の嫡流になる。

父は斎藤(さいとう)利(とし)賢(かた)(光秀の叔母が後妻)。

母は蜷川親順(室町幕府の重臣、蜷川氏)。

1534年、次男として生まれる。

斎藤(さいとう)利(とし)賢(かた)の父は長井(斎藤)利安。母は稲葉氏(一鉄の姪)。

斎藤利賢の妹は明智光安(光秀の叔父)の妻だ。

光秀との縁は重層的に深く、稲葉氏とも繋がっている。

 

光秀のたっての願いに応え、筆頭家老の役目を引き受ける。

光秀が見込むほど、武将としての器量があった。

利三の父、斎藤(さいとう)利(とし)賢(かた)は、行政手腕を持つ人材を必要とした道三に、呼び寄せられた。

それまで、京に在し、幕府政治に関与しており、培った政治力を見込まれた。

 

斎藤家を率いる道三に呼ばれ、京で結婚していたが妻と別れ、美濃に戻る。

妻は二人の子を連れ幕臣、石谷光政と再婚し、長宗我部元親の妻となる娘を儲ける。

利賢との間の嫡男、頼辰は、娘婿養子となり石谷家を継ぐ。

頼辰は、光秀に仕え、最期まで戦うも、光秀に命じられ、逃げ、妹婿、長宗我部氏に仕える。

娘は母の甥、蜷川(にながわ)親(ちか)長(なが)に嫁ぐ。

蜷川(にながわ)親(ちか)長(なが)も後に、長宗我部家に仕える。

 

戻ってきた利賢に、道三は光秀の叔母(父、光綱の妹)との再婚を決める。

利賢の妹と明智光安の縁を重んじたからだ。

ここから斎藤(さいとう)利(とし)賢(かた)は、土岐氏重臣だった父、利安が築いた白樫城(揖斐郡揖斐川町白樫)に住まいつつ、美濃山県郡に領地を得て、斎藤道三・義龍父子に仕える。

 

利三の母の実家、蜷川(にながわ)家の領地は丹波国船井郡桐野河内だった。

居城は南北朝時代に築き、延々と守り続けた蟠(はん)根寺(こんじ)城(じょう)(南丹市園部町高屋)。

黒井城(兵庫県丹波市春日)との距離は50㎞ほどしかなく近い。

光秀が利三を直臣としたいと考えた大きな理由が、母方の実家の威光を生かし周辺の国人衆の調略を担い、光秀配下とする役目を任せたいと考えてのことだ。

 

父、斎藤(さいとう)利(とし)賢(かた)は、道三に呼ばれ、近習とともに美濃に戻り、妻子はそのまま残した。母は、すぐに再婚し、斉藤利三は、母に育てられた。

道三は、斎藤(さいとう)利(とし)賢(かた)と光秀の叔母(父の妹)とを結婚させたが、子は生まれない。

嫡男はすでに、再婚先の嫡男となっており、次男、利三が、父の後継と決まり美濃に呼び戻された。

 

それまで、利三は、京に三好政権を打ち立てた三好長慶の重臣であり、三好政権を率いる4家老の一人、松山重治に仕えていた。

道三が迎え入れ、すぐに仕えることになる。

道三は、濃姫と信長を結婚させ、美濃統治に力を注ぐ守りの体制に入った時だった。

父、斎藤(さいとう)利(とし)賢(かた)が、道三に認められる働きをしていたこともあり、道三は、利三を娘婿とした。

こうして、利三は、道三に近侍し、同僚でありいとこ(義母の甥)でもある光秀から、美濃治世のあれこれを教えられる。利三は、光秀を尊敬した。

 

だが1556年、道三は討たれた。

土岐氏に繋がる斎藤家は、義龍の命に従い仕える。

まもなく、最初の妻、斉藤道三の娘が亡くなる。

ここで、稲葉一鉄から、娘、安との結婚の申し出がある。

義龍が認めた結婚であり、安を後妻に迎え、稲葉一門となった。

 

一鉄は「嫡男、貞通を後見して欲しい。共に稲葉家を大きくしよう」と頼む。

利三は、最大限褒められ、持ち上げられた。

稲葉家を任せられるかのような申し出であり、心地よい言葉に酔い了解した。

 

美濃は変わっていく。

一鉄と甥、斎藤義龍との仲は緊密で、稲葉家の勢力を大きく広げた。

だが、1561年、義龍は死んだ。

死後後継となった龍興と稲葉家は特別の信頼関係はなく、距離を置くようになる。

若き龍興には義龍ほどの気概も統率力もなく、信長に押されるままだ。

 

それでも、一鉄は忠臣として「信長と堂々と対峙し美濃を守りましょう。一部の側近の言葉ばかりを信じずに、主君として強く美濃衆を率いていただきたい」と諫言(かんげん)するが、効果は無かった。

次第に、龍興に見切りをつけ、稲葉家の力を保ちつつ、どのような形で信長に従うかに関心が移る。

そこで、西美濃三人衆(一鉄、安藤守就、氏家直元)と呼ばれた有力家臣団をまとめ、信長への大きな土産とし、恩を売ったと得意で臣従する。

 

大喜びで迎えた信長は、忠誠心を見たいと、龍興打倒を命じる。

こうして稲葉家は、1567年から立場を変え斉藤家打倒の急先鋒となる。

一鉄の裏切りが美濃衆に与えた影響は大きく、龍興家臣団は瓦解し、龍興は稲葉山城を放棄し、斎藤氏は滅亡した。

 

一鉄は「斎藤氏殲滅の第一の功は稲葉氏だ」と自信があった。

当然、信長からの恩賞を期待したが、思うほどには恩賞はなかった。

そのため一鉄は、戦功のあった利三に十分には報いることはできなかった。

嫡男、貞通と長子、重通の功に報いるのが精いっぱいだ。

 

利三に不満が残った。

安との間に利康、利宗、三存、七兵衛と二人の娘が生まれ、斎藤家を大きくさせなければならない責任があり、将来を考える。

何度も、一鉄に待遇改善を訴え、話が違うと詰め寄るが、答えが無いまま、一鉄の隠居と貞通への家督引渡しが決まる。

 

将来不安となった利三は、常日頃から懇意にしていた、いとこ(母の兄の子)光秀に相談する。

丹後攻めにぴったりの価値ある人材だと見込んでいた光秀は1570年、1万石で筆頭家老に迎える。

利三は予期していた以上の厚遇に、感謝し、忠誠を誓う。

 

稲葉家も信長も認めない突発的な引き抜きで、ひと波乱あった。

光秀は「人がこだわるほどの良臣を蓄(たくわ)えなくては上様(信長)のもとで大功を挙げられませぬ」と名言を述べ、動じず利三を召抱えた。

京で育った斎藤利三は、洗練された学問を身に付け、津田宗及らと度々茶の湯を嗜むなど、茶人としての教養も兼ね備えていた。

嫡男、利康・次男、利宗・3男、三存が利三と共に、光秀に仕える。

 

道三は、明智家の小見の方(光秀の父の妹)を妻にし、嫡男、義龍の生母は稲葉家の深芳野だ。

光秀は、かっては火花の散った明智家・稲葉家をまとめ、強力な信長家臣団とし、明智家家臣団の層を厚くするはずが、一鉄は、光秀の思いに応えることはなかった。

 

第4が、溝尾茂朝。

明智家の政務を統括する。三宅氏一門。

流浪の時から側にいた股肱の臣だ。

光秀の介錯をした後、自害したことで名を残す。

 

第5が、藤田行政。

明智家譜代の武勇に秀でた重臣。

嫡男、秀行・弟、行久ら皆、光秀に忠誠を尽くし、戦死した勇猛な一族だ。

 

「家老衆」に次ぐのが「明智三羽烏」と称賛された家中で最も戦功の多い3武将。

光秀と共に天下を治めるほどの重臣ではないが、軍事では最も頼りとする一騎当千の強者であり忠臣だ。

本能寺の変での活躍で名を残す。

 

安田国継。美濃国安田村生まれの若狭武田家旧臣で、譜代の臣。

本能寺の変で信長に一番槍を突いた、手柄がよく言われる。

逃げ延び、秀長に仕え、その後、森家・立花家・寺沢家に仕えた。

唐津藩主、寺沢広高は、8000石重臣で召し抱えた

寺沢広高の妻は、玉子の母、煕子の姪(兄の娘)だったゆえだ。

 

古川九兵衛。美濃出身の譜代の臣。

本能寺の変後、浅野家に仕える。

浅野家は、明智家と同じく土岐一族になる。

 

箕浦(みのうら)大内蔵(おおくら)忠重。近江坂田郡箕浦出身。

藤堂家一門で藤堂高虎のいとこ(母の妹の子)になる。

本能寺の変後、逃げ延び、秀長に仕え、次いで、浅野家に仕えた。

 浅野家は、秀吉の妹婿(ねねの妹、やや)の家系で、豊臣一門だが、光秀に好意的だった。

 

「譜代の臣」明智一門・土岐氏一門など。

光秀と共に天下を治めるほどの重臣ではないが、譜代の臣。

明智一族。明智光安(1500-1556)を引き継ぐ一族。

嫡男、秀満は別家を起こすが、秀満の弟たち、光安の弟、光久一族など。

光秀に従い戦う。

 

池田輝家とその一族。美濃可児郡池田城主。明智家家老。

坂本城で討死。

 

奥田景綱とその一族。美濃中島郡の豪族。明智家家老。

山崎の戦いで戦死。一族に、名君として名を残す堀直政がいる。

 

可児吉長とその一族。明智家家老。

美濃国可児郡(岐阜県南部)に生まれ天台宗願興寺で修行。

槍の名手となり武功を上げ、斎藤龍興に仕え、柴田勝家から明智光秀に仕える。

光秀に最後まで従うも、前田利家に助けられ、仕える。

 以後次々主君を変え、福島正則を最後の主君とし、関ヶ原の戦いの英雄となる。

信長重臣、近江の国人、山岡氏から娘婿養子を迎え後継とする。

 

進士貞連とその一族。明智一門。

光秀に従い戦い、最期に、光秀の命令で逃げ、玉子に仕え、前田家に仕える。

 

妻木広忠(1514-1582)とその一族。

明智一門であり、光秀が頼りにした妻の実家。玉子の祖父だ。

広忠の子、妻木範賢・範武・範之は、光秀とともに戦い、戦死。

広忠の妻は、水野信元の姪であったこともあり、4男、妻木貞徳(1544-1618)は、光秀に与せず、隠居した。

貞徳嫡男、頼忠は、本拠で7500石の大身旗本として続く。

娘は肥前唐津藩、寺沢広高と結婚。光秀の孫(祖母は煕子)らを守る。

 

肥田家澄とその一族。土岐氏庶流、譜代の重臣で明智家家老。

一門、尾張肥田氏は、後の尾張藩家老。

光秀とともに戦い、嫡男、則家とともに戦死。

則家遺児を連れた妻は、中津川(岐阜県中津川市)の実家に戻り土着、帰農。

江戸時代、中山道が開削され宿場町、中津川宿ができると、中津川宿問屋役、庄屋を代々務める。

 

三宅秀朝とその一族。明智一門。

明智秀満の実父の家系。光秀とともに戦い、二城御所を襲った。

 

森勘解由とその一族。明智家家老。

森勘解由は、光秀に従い、討死。

 

柴田勝定とその一族。明智秀満の妹の婿。

柴田勝家に仕えた後、光秀に仕え、丹波柏原城を得る。

光秀とともに最後まで戦い戦死。

 

土岐一族で光秀に従った重臣たちは、

隠岐惟恒とその一族。光秀叔母婿、亀山留守居役家老。

光秀嫡男、光慶の守り役。光慶の死に殉じた。

石森九郎左衛門とその一族。

道三の死の直後、落城した本拠、明智城を信長から与えられた光秀は、石森九郎左衛門に預け、城代とした。

光秀の信頼厚かった。

 

瀬田左京とその一族。

道三が、近衛家と縁があり、美貌才知申し分ないと愛した女人の弟。

道三亡き後、光秀に仕えた。近衛家と光秀を結ぶ。

 

多治見国清とその一族。

土岐郡多治見城主、道三亡き後光秀に従った股肱の臣。

光秀に最期まで従い、討死。

 

尾張衆。

千秋輝季とその一族。熱田神宮、大宮司家。

妻は藤孝の母、智慶院の姪(兄の子)。

幕府奉公衆であり義昭追放後光秀に従う。吉田家とも近い。

1573年、輝季は、近江国今堅田城の戦いで討死するも一族は光秀に最後まで従う。

 

などなど。

重臣の層は、信長家臣団と比べることはできないほど薄いが、光秀の出世と共に層は厚くなった。

明智家一門は、堀田氏(春日局の娘婿)・桑山氏・土田氏(信長の母の実家)・水野氏・大橋氏などなど名だたる美濃・尾張の有力者と通婚しており、光秀は、彼らの支持を得られると考えていた。

 

旧幕臣衆

光秀が信長に代わる時、必要な人材であり、頼りにすると、決めていたのが、室町幕府を率いた奉公衆であり幕府重臣だ。

光秀は、幕府再興への思いを強く持ち続けており、彼らを厚遇した。

彼らの所領の多くが丹波国など光秀の支配地に属し、光秀に仕えることで、今まで得ていた所領の安堵を求める。そのために、家臣となった者も多い。

 

伊勢貞興一族。

室町幕府の政所執事。かって幕府内で絶大な権力を持った。

伊勢貞興は光秀に殉じた。

 

一色藤長一族。義昭が追放された後、家臣となる。

義昭の側近であり、姉が足利義晴側室だったこともあり、幕政に精通しており、重用された。

 

今峰泰正一族。土岐一族の幕臣。

 

上野秀政一族。足利氏庶流。義昭が追放された後、家臣となる。

義昭が毛利氏のもとに行く1576年、別れ信長・光秀に仕える。

 

諏訪盛直一族。義昭が追放された後、家臣となる。

光秀に最期まで従い、戦死。

 

蜷川貞栄一族。義昭が追放された後、家臣となる。

伊勢家と縁戚で、代々政所代。斎藤利三一門。

 

山城衆

御牧景(みまきかげ)重(のり)一族。幕府奉公衆。山城国久世郡御牧の国人。

義昭が追放された後、家臣となる。

山崎の戦いで戦死。一族は秀吉に仕える。

 

佐竹宗実一族。義昭が追放された後、家臣となる。

山城国愛宕郡高野の国人。妹婿が吉田兼見であり、細川家との縁も深い。

本能寺の変には共に戦ったが、その後、許された。

 

山本秀勝一族。義昭が追放された後、家臣となる。

山城国愛宕郡静原に静原山城(京都府京都市)を築き居城とした国人。

秀勝は、義昭に呼応して静原山城で戦い戦死。

嫡男、勝則は、光秀に仕え、後、細川家の松井康之に仕える。

 

近江衆

山本久政一族。近江北郡山本村の国人。

光秀に従い、最期まで共に戦い戦死。

 

猪飼(いかい)野(の)昇(ぶ)貞(さだ)・明智秀貞(猪飼秀貞)一族。近江堅田衆。

光秀から近江志賀郡を任されるほど重用され、嫡男は光秀の娘婿となる。

水軍を統括した。

昇貞は、光秀と共に最後まで戦い、戦死。秀貞は戦わず、秀吉に従う。

 

磯谷彦四郎一族。

 

寺本忠時一族。

忠時の父、寺本直勝は、足利義輝に近侍し、引き続き、義昭に仕える。

1569年、「本圀寺の戦い」で、三好三人衆と戦って六条河原で討死。

以後、嫡男が、忠時は、光秀に仕える。

忠時の弟、直寿・次男、政久は浅野長政に仕えた。

などなど。

 

光秀政権の中枢を担う家臣団となるはずだったが、藤孝の影響が強く、思うほどの家臣団にはならなかった。

 

丹波衆

荒木一族。波多野氏庶流であり、娘、倫子の婚家、荒木村重の一族でもある。

細工所城主、荒木氏綱・氏清は、波多野秀治に従い、光秀を撃退した勇者だ。

だが、光秀の反攻で、水源を絶たれ、悲惨な結果となり降伏、光秀に従う。

以後、光秀家臣となり、光秀とともに、戦死。

 

梅若広長一族。猿楽の名家。

信長に仕え、光秀与力となり、与して決起する。

光秀とともに戦い戦死。

 

尾石予三一族。

荻野重基一族。

 

川勝継氏(1531-1602)一族。丹波国桑田郡国人。

幕府奉公衆だったが、義昭から離れ、信長に仕え、光秀の与力となった。

丹波で、1万石あまりを得て、嫡男、秀氏(1555-1607)は、光秀の娘(養女)婿となるほど光秀に重用された。

だが、光秀には従わず、本能寺の変後、いち早く、秀吉に従う。

秀氏は3570石を引き継ぎ、旗本家として残る。

 

小畠国明一族。亀山城の普請を担当。光秀与力。

丹波攻めの中心となった丹波衆で宍人城主。

その功績を賞して、小畠国明の子、小畠永明は、光秀の娘(養女)婿となる。

1579年、小畠国明・永明は、戦死。

光秀は、永明の子に、明智姓を与え、明智伊勢千代丸と名乗らせ、一門とする。

 本能寺の変では、まだ幼く戦力とはならなかった。

 

加治石見守一族。

 

河北一成とその一族。氷上郡河北発祥の丹波衆。

一成は、玉子の結婚の取次役となり、そのまま玉子に付き従い、細川家家臣となり生涯玉子に仕える。

一族は光秀に従い戦う。後、細川家家臣となる。

 

酒井孫左衛門一族。丹波出身。

 

四(し)王天(ほうてん)政(まさ)孝(たか)・四王天政実、親子とその一族。丹波衆の筆頭。

光秀は、福知山城代、1万石の厚遇で召し抱えた。

二条城攻めの総指揮を取り、信忠を討ち取った。

政孝は光秀を信じて最後まで戦い、戦死。

政実は逃れ青木秀以次いで結城秀康に仕えた。

 

田中盛重・田中五内親子一族。船井郡大村城主。

光秀亡き後、細川家、松井康之に仕える。

 

中沢知綱一族。

丹波猪倉城主。光秀に敗北後、従った。

 

並河易家一族。

並河(なびか)城(京都府亀山市)主。丹波守護代、内藤氏重臣。

槇島城の戦い後、義昭を離れ、光秀に仕える。

光秀とともに、最後まで戦い戦死。

 

藤木権兵衛一族。秀満の前の福知山城代。

藤田藤八一族。

波々伯部員次一族。

本城惣右衛門一族。元荒木氏家臣。

 

 松田政近一族。

並河(なびか)氏とともにあり、よく戦い、山崎の戦いで、戦死。

などなど。

将軍家・細川家との縁が深く、光秀が本拠とした亀山城の国人衆であり、光秀重臣となる。

 

「その他」

阿木弥市一族。藤孝の紹介。

熊谷宅右衛門。頓智の奇才。藤孝の知人。

沼田光友。細川家への使者を務める。細川藤孝の妻、麝香の弟。

 

麻生吉左衛門一族。阿波三好氏の旧臣。

津田重久一族。河内津田城主。

管領細川氏、三好氏、三淵氏、将軍家に仕えた後。光秀に仕える。

番頭大炊介義元。元三好家臣。

 

金津正直一族。越前朝倉氏の旧臣。

1573年、「一乗谷城の戦い」で朝倉義景が滅亡すると、明智光秀に仕えた。

光秀の命令で逃げ、玉子に仕える。

1600年、大坂細川屋敷でガラシャとともに自刃した。

 

山崎長徳。越前朝倉氏の旧臣。

朝倉義景の家臣。父は、義景家老、山崎吉家の弟・山崎吉延。

朝倉氏が信長によって滅ぼされると光秀に仕え、光秀とともに戦う。

 

木村吉清一族。荒木村重家臣。丹波亀山城の城代。

山崎の戦い後、秀吉に降伏、仕え、大名となる。

 

東行澄一族。愛宕百韻に参加して句を読む。

「古今伝授」で著名な歌人武将でもある東常縁の縁戚。

 

村上清国。丹波平定戦で活躍。 

光秀とともに最後まで戦い、戦死。

 

 村本甚兵衛。

光秀に従い最後まで戦い、その後、柴田勝家に仕え、北ノ庄城を守り戦死。

 

などなど多彩な家臣を集め、信長政権に匹敵する家臣団を作り上げようとした。

畿内、山城国・摂津国・河内国・大和国・和泉国の5か国を与力として信長から預けられ、合わせると200万石以上の所領で、彼らを思うように動かせる錯覚に陥った。

 

軍事力では、筒井順慶が実質45万石を支配し、畿内への影響力は大だった。

光秀軍団の最有力となるはずだ。

軍事はもちろん信長を討ち果たした後の光秀政権で、最も頼りとしたのが、藤孝。

細川家なくしては将軍を擁しての光秀政権はないと、共に政権を作るはずだった。

この両輪で、天下取りは出来ると確信した。

絶対的に信頼していた二人に裏切られることになる。

 本能寺の変後、光秀に与したり、与しようとした公家・大名などがいたが、細川・筒井連合軍が光秀とともに決起しないとわかると、尻込みしていく。