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光秀、葛藤の時|明智光秀と愛娘、玉子(14)

だぶんやぶんこ


約 9112

丹波丹後国攻めは続いていた。

1576年の生死をさまよった酷い撤退から、改めて調略を進め、忠義を確かめつつ味方を確実に増やした。

1577年、波多野秀治包囲網を築いた。

そして1578年、丹波亀山城の築城を始める。

光秀の本拠とし、丹波統治の拠点とする。この地に骨を埋める覚悟で、調略した丹波衆を家臣としていく。

 

まもなく、赤井直正が亡くなる。

いよいよ丹波攻めの最終段階に入る。

ただ、信長の命令による出陣が続き、各地への転戦に駆り出され、丹波攻めは、思うようには進まない。

光秀、超多忙の時、玉子は結婚した。

 

1579年、丹波国平定。続いて藤孝とともに丹後国も平定。

光秀は、丹波一国の主となった。

細川藤孝は、丹後南半国(加佐郡・与謝郡)を得た。丹後北半国は一色氏が得る。

筒井順慶は、大和国を得た。

近畿地方を得ている織田大名、彼らが皆、光秀の与力となったのだ。

ここで、光秀支配の丹波、滋賀郡、南山城を含め、近江から山陰へ向けた畿内方面軍が出来上がる。

 

 光秀には、思うほどには優秀な家臣団の育成ができないもどかしさがあった。

そんなときの玉子の結婚であり、光秀に気力を吹き込んだ。

細川家と強く結びつき、幕府旧臣すべて迎え入れ、政権を担う人材を育てていく、それができる希望と確信を持つことができた。

 

は、歴史が古く、人脈ができている。

1556年、光秀28歳まで道三に仕え培った、人脈もある。

明智家・土岐家一門衆や美濃衆は光秀を支えるはずだ。

 

1560年から仕えた朝倉家で培った人脈。

朝倉旧臣。越前衆。

 

1571年、近江国の滋賀郡を得て、西近江衆を家臣とする。

 

義昭が追放されると、親密な付き合いがあった旧室町幕府の奉公衆・幕臣衆を家臣としていく。

光秀の最も信頼する家臣団の中核になる、幕臣衆、山城衆など。

 

1580年、丹波一国を得て、それまで調略していた国人衆を含め、丹波衆として家臣としていく。

 

1567年、義昭に仕えつつ、信長の家臣として働き始めて以来、新参者と奇異の目で見られても、濃姫のいとこであり、美濃衆との深い結び付きをバネに、人脈づくりに励んだ。

相応の人脈は出来た。

 

 そして、勢力を伸ばす常套手段、婚姻政策も重ねている。

光秀の子たちは養女も含めて婚姻により明智軍団を形作った。

 

1568年、長女、倫子と荒木村重嫡男、村次が婚約。

婚家、荒木家は、丹波の戦国大名、波多野氏の一族になる丹後衆。

村重を始め文武両道に優れた一族だ。

この結婚で、光秀が丹後攻めを任されることになる。

光秀は、荒木家との縁を深め、明智一門衆としていく。

そして、信長重臣と伍する家臣団が作る自信がみなぎる。

 

1574年、玉子と細川忠興との婚約と成る。

1578年、嫁ぐ。細川家を配下にしたと感慨深い。

この間、丹波・丹後平定は、勝ち負けはあっても、間違いなく進み、信長家臣筆頭の地位を狙うと、武者震いをするほどだった。

 

この間にも、光秀の娘(養女)との結婚で強く取り込んだ国人衆がいる。

近江堅田衆、猪飼昇貞の嫡男、明智秀貞(猪飼秀貞)。

丹波衆で、小畠国明の子、小畠永明。

丹波衆で、川勝継氏の子、秀氏。など。

 

玉子を細川家に嫁がせ、ホッとした11月、荒木村重が謀反を起こした。

すぐに、滝川一益の援軍として村重居城、有岡城(兵庫県伊丹市)攻めに出陣する命令が来る。

長女、倫子が戻ってきており不安はあったが、信長に刃向かうとまでは思わず、光秀の頭は真っ白となる。

藤孝と村重を両輪として高く飛躍するはずだった、その村重が裏切った。

 

村重とは盟友であり、重要なことは相談があると信じ込んでいたが、誤算だった。

最近、じっくり話すことがなかった。

本願寺や毛利氏とのつながりを心配はしていたが、信長の力は伸び続けており、一族郎党を思えば裏切るはずがない村重だった。

 

京に勢力を持っていた武将にとって、信長政権ができたとはいえ、すべてを信長にささげ、忠誠を尽くすのは、複雑な親戚関係もあり難しい。

信長も理解し、反信長勢力を力で抑えるだけではなく和睦の道も用意している。

多少の自由裁量は大目に見たが、信長の命令があれば、従わなければならない。

命令に従わないと、信長は激怒し、何をするかわからないほど怖くなる。

 

村重は、どこか信長に信用されていない不安を持っていた。

信長に呼ばれた時、忠誠心を見せるために、すぐに頭を下げ、対面する必要があったが、なかなか動けなかった。

そして、機会を失い、追い詰められ、閉じこもり、謀反となったのだ。

光秀は、間に立つべきだったと深く後悔する。

 

村重は光秀に累が及ばないよう、長女、倫子を早くから実家に戻した。

光秀は黙って受け入れた。

村重の光秀への心遣いだ。

光秀も連携を疑われないため、すぐに、倫子と秀満との再婚を決める。

 

村重の裏切りを乗り越え、丹波丹後を平定し信長の評価を上げなければならない。軍事に力を注ぐと同時に、筆頭家老、斎藤利三や明智秀満や明智一族などとの連携を強めていく。

また取り込むべき有力国人衆と明智一門との縁組も重ねていく。

 

信長は、荒木村重の裏切りに怒った。

光秀にも荒木村重を捕らえるよう厳しく命じた。

翌1579年、村重は有岡城に1年近く籠城し続け逃げた。

村重を逃したが、城代らによって有岡城は、信長に引き渡された。

 

信長は、荒木村次と光秀の娘、倫子の結婚を取り持ったにも関わらず、村重を離反させたのは、光秀の責任だ。

村重を捕らえられないのも光秀の責任だ。と言わんばかりだった。

光秀は身の置き所がなかった。

 

 村重謀反は大事件だが、信長に取って天下布武の一つの通り道にしか過ぎない。

光秀も気にしてはいられない。すべき役目を果たすしかない。

1579年、1年半戦い続けた波多野秀治、波多野秀尚兄弟だが、兵糧も尽き士気は落ち精魂尽き果てていた。

そこで光秀が、降伏するよう使者を送る。

武勇をたたえ助命を保証し、光秀の伯母を人質として出すことで投降させた。

 

信長は、波多野秀治、波多野秀尚兄弟に安土城に来るよう命じた。

光秀は、命令に沿い「(信長は)波多野氏の臣従を受け入れ、家臣とする」と話し、行かせた。

ところが、信長は、臣従を誓いに来た波多野兄弟を、処刑。

1年以上も天下布武の道を邪魔した波多野氏を許せなかった。

 

光秀は許したが、結果的に、波多野氏を裏切ったことになった。

波多野勢は怒り、報復だと、人質、光秀の叔母を殺す。

光秀は唇を噛みながら、それでも、丹波平定を成し遂げた。

 

すぐに丹後平定に取り掛かる。

国人衆の大勢は信長に臣従しており、簡単に進むはずだった。

玉子との結婚で明智一門となった藤孝に丹後平定を任す。

かっての丹波守護、細川氏一門の藤孝。

隣国、丹後守護、一色義道とは旧知であり、簡単に平定できるはずだった。

 

一色義道は信長に従っていたが、旧知の延暦寺の僧を匿まったことが信長に知れ、激怒させてしまった。そこで、光秀勢が攻め込んだ。

謝罪し忠誠を誓えば、制裁は受けても、滅亡まではなかったはずだ。

だが、一色勢は戦い続け、1579年、追い詰められた一色義道は自害した。

嫡男、義定が引き継ぐが、降伏しかない状況だった。

 

藤孝は、共に将軍に仕えた同僚だとの思いがあり、義定に降伏を呼びかけ、決戦は避けて降伏を待った。

そこに油断があり、父を殺された恨みを持つ一色義定が藤孝を急襲した。

藤孝は、絶体絶命の危機に陥る。

その報を聞いた光秀は、即座に動き、必死の速さで駆け付け、藤孝勢に加勢した。

藤孝は、命拾いする。

 

ここで、光秀はこれ以上時間をかけては信長が納得しないと、義定と和睦する。

藤孝の娘、伊也と一色氏後継、義定との結婚を条件にした。

こうして丹波・丹後の平定を成し遂げ、安土城で信長に報告する。

信長は、光秀の働きを絶賛し、一色家の存続を認めた。

光秀は、古くからの友でもある一色家を救うことが出来、ホッとした。

 

だが、ゆっくりすることはない。1580年、備中攻めの最中の秀吉を支援するべく命じられ、出陣する。

ここで、信長は上機嫌で、光秀に近江国滋賀郡の5万石に加えて、丹波一国29万石を加増し、34万石を与えた。

藤孝には、丹後南半国(加佐郡・与謝郡)5万5千石を与えた。ここから、細川家居城は、宮津城(京都府宮津市)となる。

一色氏は、丹後を取り上げられたが、丹後北半国5万5千石を得た。

 

信長は、天下平定の道を順調に進んでいると、満足の顔だった。

ここで改めて、光秀に細川氏・一色氏を与力として与える。

光秀と細川氏・一色氏の差は明らかになり、光秀の優位性は増した。

光秀は、黒井城主を斎藤利三とし、丹波亀山城を居城とし、丹波を統治する。

 

1578年、築城を初めて以来、城・城下町の普請を進め、城下町に人が集まり賑わいが生まれ、光秀の居城にふさわしくなっていた。

城下町の賑わいを見て、厳しい戦いだったが平和をもたらしたと、自画自賛した。

山陰道の入り口にあり、交通の要所としてどんどん人が集まるのが嬉しい。

 

城の南側は、内堀・外堀・総堀と堅固な防御機能を持ち、北側は外堀だけだが保津川の流れをせき止めると一気に巨大な堀になり、防御機能は十分だ。

名城と詠われ、領民の自慢の城となる。

普段は美しい景観を眺め、四季折々の花木を楽しむことができる。

光秀は丹波の地、丹波亀山城が好きになっていた。

愛着を持ち、この地を支配できることを喜び、領民に戦争の惨禍を与えることなく豊かな地とすべく張り切った。

 

この時、信長は、大和の筒井順慶等の近畿地方の織田方大名も与力として与えた。

こうして、直接支配する丹波、滋賀郡と与力大名を合わせると、近江から山陰へ向けての畿内(近江・山城・大和・丹波・丹後)を支配した。

柴田勝家の北陸方面軍にも匹敵する勢力となった。

信長のなくてはならない重臣になり、期待される喜びと、何を望まれているのかつかみきれない不安がでてくる。

信長の元、畿内は安定しており戦うべき相手はなく、光秀のすべきことはない。

 

この年、1580年、玉子が忠隆を生む。

信長も「細川家嫡男の誕生は、光秀にも藤孝にも喜ばしい」と祝福した。

光秀は、細川家当主の外祖父になるのだと喜びを隠せない。

藤孝に「光秀一門としての絆が今まで以上に強くなった。いつ何時も光秀と共にあるように」と冗談を言うほどだ。

 

玉子は、父や忠興や細川家中の祝福を受け、得意絶頂だ。妻として成し遂げた感涙に咽ぶ。

そして、改修し、新たな細川家居城となった宮津城に、夫と子たちと共に移る。

玉子は、光秀の後ろ盾で大きくなる細川家を見続け、胸いっぱいの幸せを堪能した。父が大好きだった。

 

父が玉子の為に細川家の飛躍を願い、手を貸していたのを、よく知っている。

結婚以来、細川家の歴史を学び、栄光の歴史を知った。

それ以上に明智家の歴史を学び、父、光秀の成し遂げた武勲に自信を持った。

 織田家中で、明智家は細川家の上にあり、細川家は明智家に従っているのだ。

細川家の主君筋になる光秀の娘として、わがままに見えるほど、光り輝いていた。

 

それでも、藤孝・忠興は、丹後半国では納得していないのがわかり、残念だ。

夫の戦いぶりは見事で、目の覚めるような凛々しい勇猛な武者だった。

良き夫を持った幸せが日々あふれ、細川家の人となった自分の姿に笑顔がこぼれる。

玉子には充分な今の細川家だが、藤孝・忠興は不満なのが、不可解だった。

 

父、光秀は、信長への忠義とはなにか悩むようになっていた。

そこに、新たな難題が降りかかった。

信長が政権を打ち立てた頃、畿内では三好衆の力がまだあった。

だが、本圀寺の変で追い払って以来、三好衆は急速に力をなくし、追い詰めていく。

1575年には、畿内からほぼ一掃し、残存一族は本拠、阿波に戻った。

 

その時、最後まで三好家を支え戦った一族の重鎮、三好康長は、秀吉の取次で信長と対面し、忠誠を誓い、許された。

秀吉の姉婿は、三好家と繋がっており、秀吉は親戚だと親しく接した。

以後、三好康長は、四国の三好勢を信長方とするための役目を命じられ、領地として河内国の一部を得た。

 

天下布武を目指す信長には、四国の三好勢を掃討するか、配下に置くことは、早急にすべきことだった。

三好勢にてこずった思いがあり康長に期待し、秀吉に早急に結論を出すよう命じた。

 

同じころ、四国では、長宗(ちょうそ)我部元(がべもと)親(ちか)が土佐を平定し支配した。次いで、伊予国や阿波国、讃岐国へ侵攻していた。

長宗(ちょうそ)我部元(がべもと)親(ちか)の妻が、光秀の筆頭家老、斎藤利三の妹。

光秀の叔母(父の妹)の子という縁もある。

叔母は再婚で、先妻の子だが、親子であることに違いはない。

その縁で光秀は、長宗(ちょうそ)我部元(がべもと)親(ちか)を信長に臣従させるよう命じられる。

 

斎藤利三やその縁者を通じて、長宗(ちょうそ)我部元(がべもと)親(ちか)との和睦の交渉を始める。

長宗(ちょうそ)我部元(がべもと)親(ちか)は、信長に臣従するが、土佐とこれから平定する地の安堵を求めた。

そこで光秀は「四国の儀は元親手柄次第に切取候へ」と信長のお墨付き得た。

長宗(ちょうそ)我部元(がべもと)親(ちか)は、光秀に感謝し、喜び、和議を結び、四国統一に向けて弾みが付いたように猛進する。

 

信長は、長宗(ちょうそ)我部元(がべもと)親(ちか)に阿波に強い勢力を持っている三好氏や伊予に侵攻している毛利氏を抑える役目を与えたのだ。

その効果は抜群で、長宗(ちょうそ)我部元(がべもと)親(ちか)の進撃は、毛利氏への牽制、三好氏勢の掃討に役立った。

天下布武が進み、四国を信長の支配下に置くことが射程内になり再配分を考える。

信長の腹心や一族に再配分し分け与えることは、信長の威勢を、四国および九州・西日本に知らしめるいい機会になるはずだ。

 

秀吉が、三好康長や阿波で長宗(ちょうそ)我部元(がべもと)親(ちか)に追い込まれている三好家を率いる十河存(そごうまさ)保(やす)の働きを認め、より強く信長に忠誠を尽くすように、それぞれに領地を与えたいと、信長に働きかけた結果でもある。

信長は、四国の再配分は必要と決めた。

1581年、おもむろに「長宗(ちょうそ)我部元(がべもと)親(ちか)に土佐一国と阿波南部以外は返上させるように」と光秀に取次ぎを命じた。

 

光秀は、びっくり仰天だ。

長宗(ちょうそ)我部元(がべもと)親(ちか)を信長に取次、臣従させ、長宗(ちょうそ)我部元(がべもと)親(ちか)が切り取った四国の領地を安堵すると約したのに、約束を破る命令だ。

信長に臣従し戦う三好康長に四国の一部を分け与え、意のままに戦っている長宗(ちょうそ)我部元(がべもと)親(ちか)の監視役とするのだ。

あまりに理不尽な命令だと、納得できないが、命令に従うしか無い。

 

筆頭家老、斎藤利三に信長の意向を伝えるように命じ、斎藤利三が説得に出向くが、長宗(ちょうそ)我部元(がべもと)親(ちか)は承知しない。

何度も、交渉するが進展しなかった。

信長は、許さず、長宗(ちょうそ)我部元(がべもと)親(ちか)討伐を決め、三男、信孝を総大将とし四国平定を命じる。

光秀の面目は丸つぶれで、長宗(ちょうそ)我部元(がべもと)親(ちか)に合わす顔がないどころか、長宗(ちょうそ)我部元(がべもと)親(ちか)を滅亡させる道を作ってしまったのだ。

しかも、長宗(ちょうそ)我部元(がべもと)親(ちか)さえも押さえられない光秀の能力を見定めたかのように「丹波、山城、坂本などの領地を召し上げる。代わりに毛利の所領を与える」と告げた。

その上で、中国攻めの仕上げに入った秀吉を支援し、戦うよう命じた。

四国平定に向けての秀吉の働きぶりを評価し、光秀は、秀吉の下に置かれたのだ。

 

光秀は、精魂込めて治めた丹波を離れることは、耐えられなかった。

丹波亀山城は、坂本城以上に愛着がある。離れたくなかった。

今統括下にある軍事力支配権を奪われることは、光秀を再起不能とさせることだ。

頭が真っ白になり、震えた。

しかも、毛利領は、秀吉に与えるとも言われている。

毛利領は広いが、信長の意図が理解できない。

光秀の織田家内での序列は、柴田勝家と同格だと自負していたが、秀吉の下になり下がるのだ。

 

丹波平定以降、信長の為に良かれと働いた労を認められず、反対に、気分を損じさせて叱責されることが度々だった。

信長との意思疎通が微妙にずれ、かみ合わなくなっていた。

それにしても、この扱いはあまりにひどいと悔しさが、こみ上げる。

尊厳を踏みにじられ、信長重臣としての将来に絶望した。

 

比べて秀吉は、柴田勝家の無能を暴き、今度は光秀に恥をかかせ、信長第一の臣の地歩を固めている。

信長も、秀吉の働きぶりを褒めその意に応えることが、天下布武に通じると確信しているようだ。

秀吉は、毛利氏を配下に置き九州平定に進みたいと野望に燃えている。

光秀の出番はなく、必要とされていないのがはっきりと分かる。

 

光秀と秀吉は、共に京都奉行に抜擢されて以来、ライバルだった。

秀吉と意見が合わず、競合することばかりだったが、互角だと自負していた。

そんな秀吉の配下になるのは耐えられない。

しかも、光秀は、義昭との仲は緊密で、義昭を京に戻し政権を作り公家衆とも連携できるのは、自分しかいない。

信長に勝るとも劣らない能力がある、我が道は自ら切り開くしかない。

 

1581年2月、光秀が責任者となり、織田信長の他、丹羽長秀や柴田勝家らが参加し、正親町天皇も見物する、京都御馬揃えが内裏東側で盛大に行われた。

朝廷・公家衆から信頼されているとひしひしと感じる。

いい気分だった。

6月、18条にも及ぶ「明智光秀家中軍法」を制定。

心の中に野望が満ちていく。

 

そんな時、藤孝は、新たに居城とした宮津城に光秀を招く。

玉子に会いたくて、機嫌よく応じた。

藤孝は主君筋の光秀のために、歓迎行事を次々催した。

光秀は、玉子と楽しい時間を過ごし、藤孝に連れられて余佐の浦(宮津湾)天の橋立に遊行した。里村紹(さとむらじょう)巴(は)を始め連歌師数人も招かれている。

 

余佐の浦には、光秀との連歌会のために、茶屋が建てられ鮎や鯉、鮒の泳ぐ池が造られていた。

藤孝に頼まれ、その一切を取り仕切ったのが、愛宕権現白雲寺内にある福寿院住職、幸朝だ。

藤孝は、3男、幸隆を福寿院に入門させると決め、福寿院住職、幸朝と度々話し合い幸隆の今後を決めていた。その時、光秀接待のための準備を頼んだのだ。

 こうして、連歌会が催された。光秀も粋なしつらいに満足した。

 

藤孝は歌を残した。その内の一つに、

「ふた柱 帰りさまさぬ 橋立に 遊ぶ吾は 丹後の長ぞ」

ふた柱、藤孝と光秀の強いきずなと、藤孝の誇りを詠った。

この時、光秀は、自分の思いの丈を話した。藤孝は同意したように首を縦に振る。

藤孝は必ずついてくると確信した。

翌1582年4月、幸隆11歳が福寿院住職、幸朝のもとに入る。

本能寺の変が起きた時、藤孝の子は愛宕権現白雲寺にいたのだ。

愛宕権現を通じて光秀と藤孝は、何でも話し合える状況だった。

 

1582年に入ると、信長に従い、甲斐に出陣。

武田勢と戦うこともなく、甲斐を平定し武田家を滅亡させた。

次いで、4月、信長は甲斐の視察を行う。

案内は、家康。付き添いは光秀。

武田領の論功行賞を行い、信長の天下平定はまた一歩進み、時間の問題となった。

 

上機嫌の信長は、家康の案内で、名所を見て回りながらの帰途につく。

家康は、信長への忠誠心を見せつけるかのようにもてなし楽しませ饗応する。

イベントが目白押しだが、自慢の富士山を見ながらのもてなしのために、北西麓の本栖湖の湖畔に、急ごしらえではあるが贅を尽くした信長の宿所を建てた。

ここで、祝宴を開く。

日を浴びて燦然と輝く富士、夕陽を受けて赤く燃え暗闇に消えていく富士、朝日の中で青い空、わずかな白い雲の前に堂々とそびえたつ富士と見せ場たっぷりな演出は見事だった。

続いて人穴(ひとあな)浅間(せんげん)神社(じんじゃ)(静岡県富士宮市)に案内、信長のために茶庭を建てており、信長の持つ名物茶器にはとても及ばないと言いつつ、一服点て、もてなした。

 

人穴(ひとあな)とは、富士山の側火山の噴火によって出来た溶岩洞穴で、住居として使ったこともあるほどの大きなものもあった。

武田勢に追われた家康を人穴(ひとあな)に匿ってくれた行者がおり、命拾いをしたことを面白そうに話す。

 

 光秀はずっと信長に同行した。

だが、信長は光秀よりも家康を信頼していると感じるばかりで、辛く情けなかった。

家康とゆっくり話すことはなかったが、妻、服部氏と秀忠・忠吉の母、お愛の方とが親戚であり身内のような感覚もあり、よもやま話をする機会が何度かあった。

 

家康は武田氏殲滅後の論功行賞に不満を持ち、その他諸々の不満もあり、信長に臣従を誓いながらも、意地を見せていた。

光秀は、あからさまには言わないながらも、共通の思いを感じた。

そこで、時が来れば何が起きるかわからないとの話をする。

家康は、同意したように首を縦に振る。

 

安土城に戻り、信長は、本拠での武田氏殲滅の盛大な戦勝祝いの宴を催す。

家康も呼んだ。

接待の礼も込めて武田攻めの一番の功労者だと持ち上げた。

その時の接待役を光秀に命じた。

将軍家の料理一切を受け持った進士家と深く結びついていた光秀だ、料理作法はお手の物であり準備を整えた。

 

だが、信長は、祝宴半ばで、接待役を取り上げ、出雲・石見国への出撃を命じた。

秀吉を支援する戦いに加わるよう命じたのだ。

家康との語らいの場を持ちたかったが、命令に従わねばならない。

光秀が家康と親しそうに話すのを、信長が嫌ったのではないかと思う。