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玉子との別れ、光秀立つ|明智光秀と愛娘、玉子(15)

だぶんやぶんこ


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玉子は、藤孝から、光秀を宮津城に招いたと知らされた。

それからは、父に会いたくて、会えば何を話そうか、とワクワクドキドキの日々だ。

父母と文は交わしており、近いうちに玉子に会いに来ると知っていたが、藤孝が光秀を迎えるために、準備に余念がないのを見ると嬉しくて待ち遠しい。

父、光秀の歓迎行事は、細川家にとって一大イベントなのだと、ますます誇らしい。

 

1581年5月、光秀が、藤孝に招かれ、宮津城(京都府宮津市鶴賀)築城完成の宴にやってきた。

玉子は、久しぶりに父、光秀とゆっくりとした時間を過ごした。

嫡男、忠隆の誕生を祝い、長姫に会いたくて、やって来たと光秀はにこやかだった。

光秀は、嫡男、光慶と次男、光泰を連れてきており、にぎやかな時を過ごす。

 

 幼いときから父の愛を独り占めした玉子だ。

その愛に応えて、幸せな結婚をして、父の第一の盟友と父とを繋ぐ役目を果たしていると、嬉しくてならない。

明智家と細川家は、未来永劫、固い絆で結ばれると、心の底から湧き出る幸せに酔いしれた。

 

 玉子は18歳。光秀は、53歳。

玉子の心中は興奮が渦巻いていたが、大人らしく、落ち着いて静かに語り合った。

それぞれ、成し遂げた自信がみなぎっていた。

玉子は恐れを知らない、純真無垢な輝きだったが、光秀は、得体のしれない影があった。それでも乗り越えていく自信が溢れていた。

 戦いが続く戦国の世、武将として名を成すためには、やむを得ないことと、シワを重ねた父の顔を見つめた。

光秀は、ニッコリと「孫たちが誇れる爺になる」と話した。

 

それから1年あまりが過ぎた。

玉子は、子たちの成長を見守りながら、時には、藤孝の教えを受け、義母、沼田(ぬまた)麝香(じゃこう)(1544-1613)と和気藹々と過ごたりしながら、忠興とともに暮らした。

義母、麝香(じゃこう)は、藤孝との間に8人の子を生み、堂々とした細川家の女主だったが、玉子の一歩あとに控え、玉子の一言一言をじっくり聞いてくれた。

実の母が蘇ったような錯覚を覚えるほどだ。

 麝香(じゃこう)の末の子たちはまだ幼く、長姫と兄弟姉妹のように仲が良い。

「恵まれすぎています。幸せです」と父に文で知らせていた。

 

 細川家が、父、光秀を裏切ることは、ありえないはずだった。

 

その頃、光秀は、安土城から坂本城に戻り出陣の準備を整え丹波亀山城に入った。

すでに決意は固めていた。

1582年6月17日、戦勝祈願のため、愛宕大権現へ参詣する。

標高924mの愛宕山(あたごやま)は京を大きく包むように聳え、山上からは京を一望できた。

光秀は、愛宕山に登り愛宕権現に戦勝祈願し白雲寺内、威徳院で連歌会を開く。

集まったのは9人。

光秀と嫡男、光慶と家臣、東行澄。

連歌師、里村紹(さとむらじょう)巴(は)・里村昌叱・猪苗代兼如・里村心前。

愛宕山住職、上之坊大善院宥源・西之坊威徳院行祐。

歌を詠み「愛宕百(あたごひゃく)韻(いん)」として残す。

 

一流の歌人ばかりを呼び集め、事前に予定を立てていた参拝であり連歌会だ。

だが、来るはずだった藤孝は来なかった。

光秀の句 ときは今あめが下知る五月(さつき)哉(かな) から始まり次々歌で繋がる。

 

4日後、6月21日、本能寺の変。

本能寺に宿泊中の織田信長を襲い、自刃に追い込んだ。 

信忠は宿泊所、妙覚寺から二条御所に移り籠るが、襲撃し、自刃に追い込んだ。

信長と後継、信忠を効率よく葬り去った。大成功だった。

京の皆が、光秀を応援しているかのようだった。

 光秀は幸先の良さに、頬が紅潮していた。

今まで感じたことのない勝利の喜びであり、将来への光だった。

 

信忠が二条御所に移ろうとした時、二条御所に誠仁親王らが住まわれていた。

信忠は、誠仁親王を戦いに巻き込んではいけないと、天皇の住まう御所に移す。

その時、手伝ったのは、光秀の行動すべてを知る里村紹(さとむらじょう)巴(は)。

誠仁親王は、成り行きに任せ二条御所を去るが、光秀の軍勢を押しとどめることはなかった。

 

その二条御所に、信忠はわざわざ少人数で入り、光秀勢を迎え撃つ。

すぐに、二条御所隣の近衛前久邸に光秀勢が入り、二条御所に向けて攻撃した。

近衛前久の屋敷を建てたのは秀吉であり、前久に譲る前まで住んでいた。

近衛前久は、光秀を支援した。

秀吉も光秀の動きを察知していた。

信忠は光秀勢を目前にすると、逃れようがないと思い定め、死に場所を二条御所とし、戦った。

 

変の成功の直後、吉田兼見が近江に向かう光秀が通る粟田(あわた)口(ぐち)(京都市東山区)に駆けつけ祝いを述べている。

吉田兼見の父と、藤孝の母は兄・妹で、藤孝と吉田兼見とはいとこ、常日頃からとても親しい。

ここで、吉田兼見は、光秀からの朝廷への使者を頼まれ、朝廷に仔細を報告する。

すると、今度は、朝廷から光秀との取次をするように命じられる。

朝廷は光秀の思いに同意し、光秀の天下を望んだのだ。

 

吉田兼見は、朝廷の意向を伝えるために、光秀の入った安土城に駆けつけた。

ここまで、京の朝廷公家衆は光秀謀反を当然のこととして受け入れていた。

そこには、藤孝の暗黙の支援が随所に見られた。

 

光秀は、信長を倒し天下人となった。

すぐに信長・信忠父子に与する者たちの掃討に乗り出す。

坂本城に入り近江をほぼ平定したことを確認し、信長本拠の安土城に入る。

勢多城(大津市瀬田)主の山岡景隆が、安土への通路、瀬田橋を壊し甲賀郡に逃げたため、仮橋の設置に3日間かかり、予想外に遅れたが。

それでも、安土城では、貯蔵の金銀財宝・名物道具を奪い、家臣や味方に与え、天下人としての妙味を味わう。

 幾多の困難があろうとも義昭を擁して、光秀政権を作り、天下人になると決意を固める。

 

義昭を呼び戻し、光秀政権を作るために、反信長勢力を結集させようと書状を書きまくり、送り届ける。

自らの大義を伝え、義昭将軍の元、新しい政治を始めると極度の興奮状態だった。

こうして、光秀は、京に凱旋した。

誠仁親王から京都の治安維持をまかせられ、勇気百倍となる。

 

安土城で得た金銀から、朝廷に銀500枚、五山や大徳寺に銀各100枚、勅使の吉田兼見にも銀50枚を贈り、天下人としての威信を見せる。

長宗我部元親・斎藤利堯・姉小路頼綱・一色義定・武田元明・京極高次・後北条氏・上杉氏・紀伊や伊賀の国人衆等が光秀の行動に賛同する。

順調に、室町幕府の再興が実現できるかに思えた。