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光秀死す|明智光秀と愛娘、玉子(16)

だぶんやぶんこ


約 6750

光秀は天下人として、毛利氏に、共に政権を創ろうと書面を送った。

ところが、その書面を、光秀の行動を注視していた秀吉が毛利氏に届く前に奪った。

秀吉に追い詰められていた毛利氏が、息を吹き返し、秀吉を攻め滅亡させるはずが、弔い合戦に燃える秀吉の中国大返しを招くことになってしまった。

 

光秀の動きを予期していた秀吉は、毛利家への使者の侵入を阻止するために、目を光らせ、使者はあえなく捕まってしまったのだ。

秀吉は天が見守っていると信じた。

光秀は、運から見放された。

 

また、信長の最大の協力者、家康へも、妻の実家、服部氏を通じて自らの思いを伝え、協力を求めていた。

その証に、家康は、少数の供しか連れず信長の元に来ていた。信長に与せず、光秀に敵対しないという証を見せたのだ。

光秀は納得し、家康と意を同じくし共に天下を創ろうと表明するつもりだった。

だが、家康は信長の死を知ると一目散に三河に戻り、光秀には与しないと世に示す。

 

新しい政権を作ろうと何度も話し、一番頼りにしていた盟友、藤孝・忠興父子にも文を送り、使者を遣わした。

だが、藤孝は光秀の誘いを明確に拒否した。

明智・細川の連合軍を主体とし京の治安を守ろうと考えていた光秀は、裏切られ、大きな衝撃を受けた。

 

筒井順慶は、光秀を主君のように尊敬していた。

大和(奈良縁)の有力国人だったが、松永久秀に追い詰められ存亡の危機となった時、光秀が信長に取次ぎ、存続できたのだ。以来、光秀の与力となった。

その後も、光秀は、事細かく面倒を見て、順慶は信長の評価を上げていった。

 

松永久秀が、信長と敵対した時、順慶はここぞとばかり戦い勝利し、大和37万石支配の権限を得た。与力分を含めると45万石を支配した。

光秀は「順慶は家族同様」と嫡男、筒井定次と光秀養女・筒井一門の大和国国人、井戸三十郎治秀と光秀養女との結婚を取り決め、親族になった。

二重の縁を結び、必ず光秀に継いてくると確信していた。

だが、筒井勢は、当初、協力し兵を動かしたが、周辺の動きを見て、裏切った。

 

想定外のことが多く、落ち込むが、それでも、政権を取ったのだと気持ちを切り替え、畿内(京周辺の山城・大和・河内・和泉・摂津の五か国)の掌握に力を入れた。

光秀の天下だと知れ渡ると、皆が協賛し、従うはずだと自分に言い聞かせた。

その時、秀吉が京に向かっているとの報が入る。

予想外に早く、慌てた。こんなはずじゃなかった。

すぐに迎え討つ準備に入るが、味方が集まらない。

 

ここから、協力して新しい政権を創ろうと、天下人として表明した申し入れが、懇願するように支援を頼むことに変わる。

その様変わりを見た、細川藤孝・筒井順慶らは、はっきりと、拒否し敵対する。

 

光秀に与した武将は、一族家臣以外では、

尾張常滑城主、水野守隆。

北近江守護だった、京極高次。

六角氏重臣だった、山崎片家。

六角氏重臣だった、後藤高治。

六角氏一門で浅井長政に仕えた池田景(いけだかげ)雄(かつ)。

近江犬上郡久徳から始まる近江衆、久徳左近。

近江小川から始まる近江衆、小川祐忠。

若狭守護だった武田元明。

武田家重臣だった若狭衆、武藤友益。

若狭武田一族、内藤重政。

武田家重臣だった若狭衆、白井民部少輔。

武田家重臣だった若狭衆、寺井源左衛門。

武田家重臣だった若狭衆、香川(かがわ)右(う)衛門(えもん)大夫(のたいふ)。

若狭武田一族、山県秀政。

大和国人、井戸良弘。

山城相楽郡狛郷の土豪、狛(こま)綱(つな)吉(よし)。

北近江伊香郡の国人であり浅井氏重臣だった阿閉(あつじ)貞(さだ)征(ゆき)、嫡男、貞大。

などで、戦力としてはわずかでしかない。

 

7月2日、天王山周辺での山崎(京都府乙訓(おとくに)郡大山崎町)の戦いが始まる。

中川清秀、織田信孝、丹羽長秀、蜂谷頼隆、高山右近、中川清秀らが秀吉に与し激しく攻め立てた。

光秀勢は、あっけなく総崩れし、秀吉の圧勝だった。

 

光秀は必ず再起すると自らを奮い立たせ、坂本城へ逃げ戻る途中、小栗栖村で落武者狩りの土民の竹槍で重傷を負い、自害した。

 

娘婿、秀満は、光秀の死後、坂本城に戻り、秀吉勢と戦うが追い詰められ、光秀の妻子を刺し殺し、自分の妻も刺殺して、自らは腹を切った。 

同じく、娘婿、光忠も戦うが、光秀の死を知ると妻、光秀の次女と共に自害した。

幼い愛娘、小ややは、逃した。

叔父、光廉も坂本城で自害した。

家老、溝尾茂朝も、光秀を介錯し、坂本城に戻り、自害した。

家老、藤田行政は、山崎の戦い後、自害した。

 

玉子もすぐに本能寺の変の詳細を知る。父ならばありうると思う。

父は天下人足らんとしている節があった。

細川家は、必ず加勢するはずで、父の思いは実現するかもしれないと、期待もふくらんでいた。

ところが、細川家は、光秀の申し出にまったく動じなかった。

 

明智家と細川家は運命共同体だと信じていた玉子は、驚き必死で、夫、忠興に父への加勢を頼んだ。

だが、忠興は無視した。

玉子は両家を結びつけたと胸を張っていたが、まったく意味を成さない幻想だったと見せつけられ、打ちひしがれる。

 

次いで、山崎の戦いの顛末を知らされる。

光秀の本陣は、玉子が忠興と新婚生活を送った勝龍寺城だった。

玉子は、父が藤孝・忠興と共に新しい時代を築こうとしたのを、ひしひしと感じ、涙があふれる。

忠興は、光秀を見殺しにした。

光秀は、山崎での敗戦後、あっけなく殺された。

天下人として力を奮うことなく、54歳で亡くなった。

次いで一族も坂本城を死守し、滅んだ。

 

この時、藤孝は、光秀との関係を断った証として、剃髪して隠居し幽(ゆう)斎(さい)と名乗り、家督を忠興に譲った。

藤孝が光秀を主君殺しの反逆人だと高々と意思表示したゆえに、光秀は縁ある他の有力武将から見放され無残に敗れたのだ。

 玉子は、父を殺したのは自分だとまで思いつめた。

 

次第に、藤孝の動きがわかってくる。

光秀が愛宕権現で戦勝祈願し、白雲寺内での連歌会に招かれていたが欠席していた。

藤孝3男、幸隆が、愛宕権現福寿院住職、幸朝に入門しており、再々行き来しているのに、欠席したのだ。

 

幸朝は、隣接する威徳院住職、行祐の元での連歌会の様子を詳しく聞いており、藤孝に知らせていた。

本能寺の変が起きると、すぐに本能寺周辺を見て回り、朝廷公家の動きを探り、京の細川家に駆けつける。

そこには、細川家家老、米田(よねだ)求(もと)政(まさ)が、状況を探りつつ待っていた。

米田(よねだ)求(もと)政(まさ)は、幸朝から知らされた情報を加味して、事件の詳細をすばやくまとめる。

その書状を、待っていた求(もと)政(まさ)家臣、快速で聞こえた早田道鬼斎に渡した。鬼斎は、ひた走り、藤孝に届ける。

こうして、名の知れた武将の中で、藤孝が真っ先に光秀謀反と京の動きを知った。

しばらく後に光秀の使者が来た。

 

主殺しの謀反人なのだ。

圧倒的支持を得ないと、今後の展開は難しい。

相応の支持者がいるが、京を上げての大歓迎ではないと見定めた。

秀吉も家康も光秀決起を予期していたが、情報を集めるだけで静観していた。

織田家中、柴田勝家らも京に一定の支持者がいる。

彼らも静観し、勝家らの到着を待っていた。

 それらの動きを加味して、光秀謀反は成功しないと見定めたのだ。

 

玉子は、愛宕神社の戦勝祈願から光秀の死まで思いを巡らせ詳細を聞く。

幸隆を弟子入りさせたこと。

幸朝が光秀の動きをつぶさに知っていたこと。

藤孝が出席しなかったこと。

米田(よねだ)求(もと)政(まさ)が京に居たこと。

快速の家臣を側に置いていたこと。

などから、藤孝はすべて知っており、賛同しながら光秀を裏切ったと確信する。

 

藤孝は、それまでの連歌会などでも、光秀の謀反の考えを知り賛同していたが、いよいよとなると確信が持てず、光秀が天下人になれるかどうか様子を見たのだ。

求(もと)政(まさ)からの情報で光秀に力なしと結論を下し、光秀を裏切った。

玉子は、震えながら、こみあがる怒りと悔しさで、父の無念を思う。

 

愛宕神社に行かなかったことで、藤孝は救われた。

福寿院住職、幸朝の働きは、素晴らしかった。

即座に情報を集め提供し細川家を守ってくれたことに感謝し、篤く庇護する。

1583年、幸隆が還俗するが、その後、娘、伊也の子、一色五郎に引き継がせる。

それからは、伊也の婚家、吉田家卜部氏が住職となり続く。

 

光秀の3番目の妻となった服部氏が、服部半蔵や服部正尚に仔細を告げ、本能寺の変での家康の協力を求めた。

だが果たせず、無残な結果となり、光秀に申し訳ないとわびた。

坂本城内で、我が子、光秀次男、光泰・3男、乙寿丸と共に、死んだ。

 

与した諸将の行く末は、

水野守隆は居城没収。隠棲し文人として生きる。

妻は水野宗家、信元の娘。家康の縁戚であり、子の代でお家再興となり旗本となる。

 

若狭守護、武田元明、自害。

武田家重臣・若狭衆、武藤友益。

すぐに赦免、丹羽長秀家臣に。

武田家重臣・若狭衆、内藤重政。

武田元明とともに戦うも行方不明。

武田家重臣・若狭衆、白井民部少輔。

武田元明とともに戦うも行方不明。

武田家重臣・若狭衆、寺井源左衛門。

武田元明とともに戦うも行方不明。

武田家重臣・若狭衆、香川(かがわ)右(う)衛門(えもん)大夫(のたいふ)。

武田元明とともに戦うも行方不明。

若狭武田一族、山県秀政。

武田元明とともに戦うも行方不明。

 

大和国人、井戸良弘。筒井順慶の妹婿、嫡男は光秀の娘婿。

改易されるが間もなく許され、秀吉次いで細川家に仕える。

山城相楽郡狛郷を領した国人、狛(こま)綱(つな)吉(よし)。

塙直政の与力だったが、塙直政失脚後、光秀に従い戦うが行方不明。

 

北近江守護、京極高次。

逃亡し潜んだが、姉、竜子の嘆願で許され、秀吉に仕える。

六角氏重臣・信長家臣、山崎片家。

光秀の死後、すぐに秀吉に降伏、所領安堵で許される。

六角氏重臣・信長家臣、後藤高治。

所領は没収されるも、赦免、蒲生氏郷家臣に。

六角氏一門・信長家臣、池田景(いけだかげ)雄(かつ)。

許され、秀吉に仕える。

 

近江衆・信長家臣、久徳左近。所領没収されるも、翌年赦免。

近江衆・信長家臣、小川祐忠。許され、柴田勝豊家臣に。

 

北近江衆・信長家臣、阿閉(あつじ)貞(さだ)征(ゆき)、嫡男、貞大。

秀吉与力だったゆえ、秀吉は、身内の裏切りだと怒り、阿閉(あつじ)貞(さだ)征(ゆき)を磔とし、一族すべて処刑した。

 

近江堅田衆・信長家臣、猪飼(いかい)野(の)昇(ぶ)貞(さだ)は、戦死。

光秀娘婿、嫡男、秀貞は、光秀には従わず丹羽長秀・家康に仕え旗本となる。

 

旧丹後国守護、一色義定。

光秀加担の責任を取り、謹慎中、細川藤孝・忠興に殺される。

 

光秀家臣、可児吉長。

降伏後、許され秀次・前田利家・福島正則に仕える。

 

光秀家臣、進士貞連。

最後まで光秀に従い、光秀の命令で細川家・玉子を頼る。

細川家に仕え忠興嫡子の忠隆付きとなり妻、千世姫に従い、前田家に仕える。

 

光秀家臣、四王天政実。

逃亡後、藤孝に仕える。

 

光秀家臣、田中盛重・田中五内。

細川家臣、松井康之に仕える。

 

光秀家臣、並河易家は、戦死。

易家の子、宗為・孫、金右衛門と宗照は加藤清正に仕える。

 

光秀家臣、金津正直。

光秀に命じられ、逃亡後、ガラシャ玉子に仕える。

 

光秀家臣、木村吉清。

降伏後、秀吉に仕え葛西・大崎30万石を得る。

 

光秀家臣、熊谷宅右衛門。

許され、家康に仕え、嫡男子、宮内は水戸光圀に仕える。

 

光秀家臣、津田重久。

降伏後許され、秀吉、秀次家臣を経て前田家臣。

 

光秀家臣、村上清国。

山崎の戦い後、浪人。後、家康に仕える。

 

光秀家臣、山崎長徳。

降伏後許され、柴田勝家配下の佐久間安次・前田家に仕える。

 

光秀家臣、河北一成一族。

光秀に命じられ、逃亡後、ガラシャ玉子に仕える。

 

光秀家臣、寺本忠時。

許され、浅野長吉に仕える。

 

光秀家臣、荒木氏綱・その子、氏清。

許され細川家に仕える。

 

「明智三羽烏」

安田国継は、山崎の戦い後逃げ、天野源右衛門と名を変え、羽柴秀勝、同秀長、蒲生氏郷に仕え、九州平定の際には立花宗茂に属して軍功があり、美濃に縁のある寺沢家に8千石で仕え、三宅重利を迎える。

古川九兵衛は、山崎の戦い後逃げ、浅野家に仕える。

箕浦(みのうら)大内蔵(おおくら)は、山崎の戦い後逃げ、羽柴秀長、浅野家に仕える。

 

皆、小勢力とはいえ、それなりの国人衆であり、名誉ある職についていた将であり、光秀重臣だ。

だが、戦死以外の多くが早い時期に許され、秀吉・家康に繋がる再仕官がなった。

光秀に与した武将への追及は、厳しくなかった。

 

 光秀が娘(養女)婿とし、高く評価し強く深く結びつき、命を懸けて光秀に従うはずだった4人の重臣がいた。

光秀娘婿、猪飼野秀貞は戦わず、丹羽長秀家臣を経て、家康に仕える。父、猪飼昇貞は光秀とともに戦い、戦死。

光秀娘婿、小畠国明の嫡男、小畠永明、その子、明智千代丸。光秀に従い戦った。

光秀娘婿、川勝継氏、嫡男、秀氏。

川勝継氏・秀氏は、秀吉に降伏し従い、後、旗本となる。

井戸良弘・次男、治秀。光秀勢として戦う。

改易となるが、後、許され、秀吉に仕える。

嫡男、覚弘は、筒井定次に仕えており、定次改易後、家康に仕え旗本となる。

 皆、光秀を裏切ることはなかったが、重要な戦力にはならなかった。

 

光秀が本心を打ち明けていた家康にも想定内の事件だった。

家康は、堺におり、光秀からの追手が来て誅される危険は感じなかったが、同道を迫られるはずだった。

光秀と同一視されることは、あってはならない事であり、逃げなくてはならない。

そのための心づもりはあったが、光秀がこれほどうまく信長を殺すことができるとは予想外で急いで、光秀の勢力圏から抜け出そうとした。

 

その時、信長の忠臣、長谷川秀一が案内役として側にいたことは大きかった。

もう一人の案内役が、西尾吉次だ。

この地には詳しくないが、家康の尊敬する祖父、清康の妹の子、西尾吉次は、東条吉良氏の生まれで、信長への人質となりそのまま仕えていた。

 

吉良氏は家康の配下となったが、吉次は信長家臣のままで、家康との取次を命じられていた。そのため、家康も、親戚衆として信頼していた。

吉次が評価した近江の地理をよく知る長谷川秀一であり、安心して逃避行の段取りを任せた。

 

もちろん、光秀とその妻、服部氏と連絡を取り合っていた家康の腹心、服部半蔵正成も、この時に備え準備はしていた。

信長・光秀の意向もあり少人数で京に来ており、防備が不安だった。

伊賀者の棟梁として細心の注意で家康を守る役目を担った。

 

また、家康が御用商人とした京の豪商、茶屋四郎次郎とも連絡を密にしており、変を聞いてすぐに多くの金銀を携えて家康の元に駆けつけた。

 

秀一は、山城宇治田原城(京都府綴喜郡宇治田原町)主、山口秀康に護衛を頼む。秀康はすぐに使者を送り家康一行を迎え休養の場を提供。

次いで、近江国甲賀小川城城主、秀康の父、多羅尾光俊の居城へ送り届ける。

家康らは、一息入れて、光俊の兵250名に守られ伊賀に入る。

 

ここから、服部半蔵の出番となり、連絡を受けていた伊賀衆、柘植清広が地侍200名を率い駆けつけた。

これからの道案内は柘植一族、福地宗隆。光秀の妻の父だ。

こうして、家康は無事三河に戻る。

家康は命拾いをしたと感激、関わった者たちすべてに破格の厚遇をすることで恩返しをする。

 

だが、切り捨てられるものもいた。

それが、福地氏。光秀の妻の実家だった故だ。

献身的に家康を支えたが成功後、伊賀衆から裏切り者だと責められ、野に潜んだ。

農民となり、松尾と名を変え、代々続く。

そして、松尾芭蕉が生まれた。

「月さびよ 明智が妻の 咄(はなし)せん」の名句となる。

(寂しいが深い味わいのある月明りのもと、光秀の美しく賢い妻の話をしましょう。思いを込めて)

光秀の三番目の妻は、光秀の天下取りに貢献すべく働いたが闇に葬り去られた。

光秀や煕子も含めて尽きせぬ想いをユ-モアで包み込んだ名句だ。