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玉子、幽閉|明智光秀と愛娘、玉子(17)

だぶんやぶんこ


約 6459

玉子は唖然とする。

玉子を迎えたことに感謝し良き嫁と話した義父、幽(ゆう)斎(さい)(藤孝)が、光秀とは一切の関係がないと公言したからだ。

もともと幽(ゆう)斎(さい)(藤孝)は光秀の与力であることに不満であり、その能力も天下人にはふさわしくないと見定めていたかのようだった。

光秀に勢いがあれば乗ってもよいと、考えていたのがありありなのに、憎らしい。

 

家中は「殿の隠居だけでは許されるはずはない」とあわてふためいていた。

玉子との縁を切ることなくしては、細川家は生き残れないとまでいう。

幽(ゆう)斎(さい)・忠興も、謀反人、光秀の影響を最小限に抑えるため、策を必死で考える。

玉子を愛する新当主、忠興は「離縁しない。これだけは譲れない」と宣言する。

それでも、何らかの措置は必要と受け入れ、玉子の身を隠す事に同意した。

玉子と離縁せず、味土野の奥地に幽閉させることで、家中は一致する。

 

玉子は幽(ゆう)斎(さい)・忠興の冷たさに衝撃を受け、立ち直れない。

特に、夫、忠興には、光秀に加勢しなくても、玉子への愛ゆえに光秀らを助ける努力をして欲しかった。

そして、父、光秀に武将として潔い最後を遂げて欲しかった。父の死の様子は、聞くに耐えない惨さだった。

「夫、忠興は、父を裏切った」と生涯、肝に銘じ、忘れることはない。

 

ただ玉子の処遇をどうするか家中で騒動となった時、藤孝も忠興も重臣たちもそれぞれが、光秀を裏切った自責の念がありありとあるのを、玉子は見逃してはいない。

 父、光秀は偉大だったのだ。

細川家にも天下取りの夢をもたせていたのがよく分かる。

でも光秀にその力はないと見た。

すると、細川家だけはなんとしても守りたいと大きくかじを切った。

 

 光秀や玉子の出生が曖昧にされていくのも許せない。

父、光秀は、明智家嫡流を受け継ぐ自負を持っていた。

斎藤道三が美濃を支配する大義とした土岐家を受け継ぐ家系であり、それ故、叔母、小見の方が道三の正室となったのだ。

それは、信長の正室が濃姫となったことに繋がる。

 

 疑いようがない事実であり、それ故、信長に代わる天下人となると決意したのだ。ただ、続々現れる英傑より少し早く生まれ、信長が力を削ごうとしたため、準備が足らず決起を急がざるを得なかったため、失敗したのだ。

玉子は、明智家が細川家より見劣りする家柄とは考えもしなかった。

また天下人は家柄だけでなるものではなく、理念がふさわしくあることが大事だ。

藤孝が、忠興が、細川家が、全力で支えれば、父は天下人たり得たはずだった。

たとえ失敗したとしてもこのような酷い結果にはならなかったはずだ。

その時、細川家がなくなっても悔いはない。

 

玉子の側近は、結婚前からの顔なじみ河北一成。

侍女筆頭、老女は、一族の小侍従だ。

河北一族は有力な丹後衆で、細川家に仕える一族がいた。

そのこともあり、光秀は河北一成に玉子の結婚に関して細川家との取次を命じた。

玉子のためによく働き、玉子も信頼した。

嫁ぐとき玉子に従い、そのまま細川家に仕えた。

嫡男、一生らは、光秀に仕え続ける。

 

玉子は、付き従う近習に、光秀が決起した詳細を聞き行く末を探るよう命じる。

そして、多くの旧臣が浪人となり、行方知れず、困窮していると知り、心痛める。

光秀の命令で、玉子を頼ったのが、河北一生・進士(しんじ)貞連・三宅重利・金津(かなつ)正直(まさなお)ら。

玉子は、忠興に明智家旧臣を細川家で召し抱えられるよう、願う。

光秀を見殺しにした自責の念がある忠興もせめてもの罪滅ぼしであり、うなづいた。

 

河北一成は、玉子側近となり、1千石取りの重臣となっていた。

迎え入れた一族とともに、忠興の命令で、川喜多姓となるが、数家をおこし、続く。

朝倉旧臣である幼いときからの守役、金津(かなつ)正直(まさなお)は、150石で玉子に仕える。

明智一門、光秀のいとこであり先妻の義兄、進士(しんじ)貞連は、玉子に仕え、忠隆に仕え、千世姫とともに前田家に仕えるようになるが、続く。

玉子の甥(姉、倫子の子)、三宅重利は成長後、玉子に仕え1500石重臣となる。

 

 後に、玉子は、彼らからも、本能寺の変から光秀の死までの詳細を何度も聞く。

聞けば聞くほど、父、光秀の思いをよく知りながら、止めようとすれば出来たかもしれない義父、藤孝幽(ゆう)斎(さい)の変わり身の早さに耐えられなくなる。

 

細川家の仕打ちに抗議し、光秀の娘として父の後を追って死ぬと決意を固める。

だが、父から委ねられた明智家に縁ある人々を守る役目があった。

これから、いかに生きるべきか思いあぐねる。

それでも「夫、忠興は私を守ってくれるはずだ。子達の為に、頼ってくる者たちのために、協力して生きる」と漠然と心を決め、希望を持った。

だが、幽閉が決まる。

 

「私に非はありません。どこにも行きません」と激しく夫に食い下がったが「ほんのひと時の辛抱」と繰り返す忠興の言葉を覆させることはできず折れるしかない。

「すぐに迎えに来てくださいますね」と念を押し、子たちに別れを告げ、味土(みど)野(の)(京丹後市弥栄町)へ旅立つ。

虚しく、情けなく、我が身の力の無さを嘆いたが、味土(みど)野(の)に行くしかなかった。

小侍従、河北一成らが付き従った。

 

まだ19歳だったが、どこからか忠興との幸せだった結婚生活は終わったとの声が聞こえた。

父の死で自分の人生は変わった、父の思いを受け継ぎ生きるしかない。

父の生きざまが頭に突き刺さるが、それは心地よい響きだった。

出立前の幾日か、忠興は玉子の元を毎日訪れた。

 

果てしなく続くと思えた山深い細道を標高約400mまで進み続け、味土(みど)野(の)に着く。

尼寺で静かに隠棲生活に入るのも良しと、覚悟していたが、これほど山の中とは思わなかった。

細川家が、玉子を隠したい思いが伝わり悲しい。

それでも、質素ではあっても、不自由のない暮らしが待っていると信じていた。

細川忠興の妻としての尊厳が保たれる暮らしのはずだった。

だが、思いは打ち砕かれた。住み家は、急ごしらえで建てられた小さな屋敷だった。

 

しかも、2棟建てられていた。

玉子が侍女と共に住む「女城」と、向き合うように警護の兵で固めた「男城」だ。

「男城」は玉子を守る警護の為と言われたが、玉子の動きを厳重に監視する為にあるとしか思えない。

罪人扱いに、悔しさが募る。

 

付き従ったこの地に詳しい一色宗右衛門に「この屋敷は狭すぎます。しかも監視されているようです。ゆっくり過ごせる屋敷一つあればいいのに。あまりにひどい」と訴えた。

頭を下げ「しばらくのご辛抱です」と答えただけで警護の者に後を任せ去った。

小侍従ら侍女を残し、河北一成も細川家に戻る。

「取次を務め、近いうちに戻れるよう、励みます。しばらく辛抱ください」との言葉を残して。

 

玉子は、秀吉の追及から逃れる為にしばらく身を隠すのだと考えていたが、捕らわれの身になったのだと息苦しい。

今まで、味わったことのない屈辱で身体が震える。

 出家し尼となり、父母一族の菩提を弔う覚悟はしていたが、このような屈辱を味わいたくなかった。

 

ところが、まもなく妊娠を知る。

父、光秀が、無念の最期を遂げ嘆き悲しんでいたのに、忠興に抱かれ身籠ったのだ。

心と身体は別だと呆然とし、苦笑いだ。

それでも、わが子が胎内に居ること、次第に大きく育つのが何物にも代えがたい喜びとなり、父の生まれ変わりだと出産を待ちわびるようになっていく。

翌1583年、興(おき)秋(あき)が生まれる。

忠興から、興(おき)秋(あき)の乳母・侍女が送られて来た。

この時、義母に願い、親しくしていた清原マリアも呼んだ。

 

味土(みど)野(の)の暮らしに慣れていく。

住み始めたときは、冬の始まりで、次第に、雪深くなり、美しく輝く銀世界を堪能したが、隔離された悲しさに涙も溢れた。

きつい泣きはらした目で、厳しい自然を見続けた。

 

だが、若芽が芽吹く春になり、興(おき)秋(あき)が生まれると、生きる元気を得ていく。

移りゆく季節・自然にときめきを感じるようになる。

田植えも始まり、この地の人達の薪炭を作る姿、木製品を創る共同作業、畑仕事に関わる姿を見て、自給自足の生活に驚き感心する。

 

玉子は、琵琶湖畔の風光明媚な坂本城(大津市)で育った。

嫁いだのは、豊かな水をたたえる堀が巡る勝龍寺城(京都府長岡京市)。

まもなく、天橋立を望む海辺にある宮津城に移り住む。

それぞれが、素晴らしい景観に恵まれて、開放的な城だった。

自然と庭園・茶屋など人工的な美しさがうまく合わさり、心地よい空間だった。

その中で、歌を読み、茶を点て、華道・名物茶器を自分流にアレンジするのは、至福のときだった。

衣装にも化粧にもこだわり、美を振り撒き、壮大な絵を描いていた。

 

比べて味土(みど)野(の)は、驚くほど山奥の異郷の地だった。

この地で自由に外出もできず、人を呼ぶ事も出来ない、孤独の中での暮らしだった。

従う小侍従・清原マリアを通じて、連絡を取りたい人と文をやり取りし、世の移り変わり、情勢の変化を知る事しか出来ない。

今まで、思うように生き、その天真爛漫さ明るさを誰からも受け入れられ、それを当然だと思い暮らしてきた。

あまりに違ってしまった暮らしに、興(おき)秋(あき)を抱き微笑み幸せを感じる時があれば、いらだち取り乱すこともある。

 

時々、訪ねてくる河北一成とのよもやま話が楽しみだ。

細川家家臣としての立場をわきまえたことしか話さないが。

父の死後の明智家がどうなったのか、知りたくて、胸が波打つのを感じながら、次々質問する。

父母姉弟、すべてが亡くなった。

長女、倫子と次女。

弟、光慶・光泰・乙寿丸

唯一、妹だけが生きている。

 

甥・姪は、

姉、倫子と秀満の嫡男、三宅重利は生きている。

もう一人の姉(次女)と光忠の娘、小ややは生きている。

妹と津田信澄の子、昌澄・元信・長女は生きている。

 

玉子の甥姪5人が生きていたのは、大きな救いだった。

河北一成の詳しく愛情のこもった報告に感謝する。

明智旧臣のために働く一成は忙しく、用事を済ませるとそそくさと戻るが。

 

玉子に、納得できないもやもやが残っていく。

玉子は、光秀に加担しなかった細川家におり連座を問われる立場にはないはずだと。

秀吉は光秀の痕跡を消すことは強く命じたが、連座の追及は緩かった。

と言うより、逃げた武将の捜索はしていない。

 

匿われて主君とし仕えたり、縁者の伝手で召し抱えられたり、秀吉に願い出て許され仕えたり、罪を問われることなく、自分の意志で生き抜くことができた。

 実際、玉子を頼ってきた明智旧臣を忠興は召し抱えている。

 

 光秀筆頭家老、斎藤利三の嫡男、利宗は明智勢として果敢に戦い、最後に逃げ降伏したが、出家することで助けられている。

後の家光乳母、春日の局の兄だ。

秀吉は、光秀と一族の死に直接関与しようとはしていない。

 

耳に入るどのような情報からも、秀吉は、光秀一族を制裁することに、こだわってはいないことがよく分かる。

山崎の戦いで勝利し、弔い合戦の勝利を自画自賛しただけだ。

織田家中をまとめ、信長亡き後の政権作りに必死で、光秀の謀反は想定内ですぐに記憶から消し去ったかのようだった。

主力武将以外は、秀吉に降伏し、臣従を誓えば寛大だった。

 

 秀吉は、織田信澄の妻だった妹と、遺児3人を、身内のように可愛がっている。

かって織田信澄を主君とし仕えた、藤堂高虎が、妻子を引き取り、男子2人、昌澄と元信を、力ある武将にすべく、育てている。

長女は、秀吉の養女格で、京極高知に嫁いだ。

長じて、昌澄も元信も秀吉を主君とし、死後、秀頼に仕え、大阪の陣も、秀頼に従い戦った。

それでも、家康に許され、旗本となった。

 

秀吉は、当面の敵は織田家筆頭家老、柴田勝家であり、勝家を倒さなければ、信長の後継者にはなれないと肝に銘じていた。

光秀勢となったすべてに過酷な制裁を加えると、追い詰められて柴田勝家に取り込まれる可能性があった。

秀吉は、光秀に与しようと考えた武将に対し、敵方に廻る事のないよう、細心の注意を払い、過酷な制裁は避けていた。

 

また、信長の妻、濃姫も健在だったのも大きい。

信長を受け継ぐと自称している秀吉であり、濃姫は主君に変わりない。

濃姫は、小見の方を母とする光秀の従兄弟だ。

明智家縁者を庇護しており、その頼みには秀吉も応えざるを得ない。

望めば玉子への寛大な処遇を願ってくれるはずだ。

 

玉子は「(幽(ゆう)斎(さい)は)秀吉殿に対し、過剰な反応をしている」と確信した。

幽(ゆう)斎(さい)が動かなかった事が、光秀への同調者を少なくし、光秀があっけなく敗れた原因なのだ。

幽(ゆう)斎(さい)・忠興は、秀吉への功が大であり、玉子を気にする必要はないはずだ。

事の次第が明らかになっていくにつれ、不信感が募る。

 

細川家が理不尽な扱いをするなら死を持って応え、父の志を引き継いで潔い生き方をすると覚悟を決めた。

すると、時間とともに、気持ちは収まり、いつもの自信をもって思うがままに生きる玉子の明るさが戻ってくる。

時期を待とう。必ず近いうちに運が巡りくるはずだと。

 

この頃から、行動範囲が広がる。

村人とも気軽に話し、田畑を大切に守る様子を楽しそうに見守る。稲が育ち刈り入れの時までを興味深く見守り「早く食べたい」とねだる。

まもなく、村人が、得意げに新米を持って来る。嬉しくて、輝く笑顔で受け取る。「おいしいお米です。ありがとう」と笑顔で褒める。

この世の人とは思えないほどの貴人、玉子を仰ぎ見て、村人の顔が輝く。

 

必要な品は望めば届けられた。

好きな本を思う存分に読み、村人に教えたり読んで話したりするのも楽しい。

村人が学ぶ楽しさを覚える瞬間の輝く目を見つめる。

他愛ない一コマ一コマだが、すべきことがあるのだ、生きなければならない思いが高じる。

四方を見渡せる素晴らしい自然に包まれて、心が洗われ、自然の恵みを得て、村人と共に生き生きと暮らす。

 

興(おき)秋(あき)が元気に動き回るようになると、夫の愛を信じる妻であり子たちと共に居りたい母となり、涙が出る時もある。

「何も悪くない」と叫びたい思いを押さえ、忠興に「戻りたい」との思いを綴る。

興(おき)秋(あき)はあまりに可愛い。残した子たちに会いたくてたまらない。

子たちへ母としての責任を果たしたいし、父母弟姉妹や一族の菩提を弔いたい思いもある。

 

迎えに来ると信じながらも揺れ動く思いの中で味土(みど)野(の)での暮らしが続く。

秀吉の勝利に貢献した忠興が、玉子を戻したいと思うなら、秀吉・濃姫に願い、味土(みど)野(の)での暮らしは数ヶ月で終わるはずだった。

なのに警備の兵は変わるが、忠興からの連絡はなかった。

 

その時、突然、照れたような忠興が現れ「よく我慢した」と子たちの様子を話し、興(おき)秋(あき)を抱き上げ帰る。

まもなく、正式な迎えが来る。

秀吉が信長後継の立場を確立し、玉子がまだ幽閉されていると知り驚き許したのだ。秀吉は、光秀の子、玉子など気にしていなかった。

細川家が秀吉に忠義を尽くせば良しとし、それ以上は望んでいない。

 

細川家から、玉子の処遇をどうすべきか秀吉に願い出たのではなかった。

藤孝はいつも慎重だ。

光秀の思いをわかっていながらも、世の動きを慎重に見極めようとしていた。

そして動かなかった。

玉子の処遇も、用心深か過ぎただけだ。