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玉子と忠興、再びの暮らし|明智光秀と愛娘、玉子(18)

だぶんやぶんこ


約 7117

村人に別れを告げ、玉子は、大坂城内にある玉造屋敷に戻った。

長女、長姫は、5歳になっていた。

二年ぶりの対面にきょとんとしていたが、何か思い出すものがあったようで、そう時間がかからないうちに、母と子として見つめ合い離れていた月日を取り戻した。

血を分けた娘だと何度も抱きしめた。

 

忠隆は、4歳。

覚えてはいなかった。

二年前の母子に戻る為には、何度も涙を流さなくてはならなかった。

それでも、三人の子たちはかけがえのない宝で、生きていてよかった。もっと生きたいと思う力を与えてくれる。

子たちのはしゃぎ声が、生きる喜びだ。

 

夫、忠興や子達と一緒に暮らす、一見元通りの暮らしが始まる。

玉子の気性をよく知る家中は、玉子が暴れだすのではドキドキしていたが、親子夫婦仲睦まじく、以前のように戻ったと、ほっとした。

小侍従もその様子を喜んで「お方様は、多くの天分をもって生まれた。この世のものとは思えないほどよく出来たお方です」と褒め続けてくれる。

 

結婚時は、そんな誉め言葉を信じ、明るくおしゃべりで周囲を楽しませるのが得意だった。

面倒見がよくて優しくて賢いと称賛され、その評価が当然と思っていた。

何でも思うようになると疑うことを知らない、わがままな性格だ。

学ぶことは忘れず、文芸・宗教にはこだわりがあり博識だった。

 

皆が振り向く美貌に恵まれ、自尊心の高い明智の姫として皆が開けて通した。

だが、父、光秀の死以来、その自信を失い、疑い深くなった。

その反動で、心に決めたことは何があっても貫く一途な性格が目立っていく。

強がりを押し通すことでくじけそうになる自分を支えた。

その性格は、忠興とよく似ており、衝突の種となっていく。

光秀の死で、二人の心に深い溝が出来ていた。

 

忠興は、丹後全土11万石の藩主になっていた。

信長から得たのは、丹後南半国5万5千石だけだった。

光秀の死で、倍増した。

丹後北半国藩主、一色義定の領地を奪い取って得たのだ。

一色義定は光秀に従い蜂起した。だが、光秀の死を知り、隣国、細川家に降伏した。

妻が、忠興の妹、伊也だったからだ。

 

秀吉へのとりなしを願った。それで許されるはずだった。

忠興は、秀吉に一色義定が降伏し居城で謹慎しているとだけ伝える。

秀吉の許しを乞い、領土の安堵を求めて、忠興に取次を頼んだことは伝えていない。

 

秀吉の側室となった竜子姫の願いで光秀に与した弟、京極高次が許されている。

同じような事例がいくつもあり、一色義定も許されると信じて待った。

この時点で、秀吉は、一色義定の処分は口にしていない。

だが、忠興は秀吉の了解を確信した。

信長は、丹後国を細川家と一色家で分け合うように与えたが、細川家は一国全て欲しくてたまらなかったのだ。

 

そこで、一色義定を宮津城に呼び出し、謀殺する。

すぐに、義定居城、弓木城に細川勢を送り、城内外の兵を討ち果たし、占拠した。

7月2日光秀が殺され2か月以上経った9月24日の出来事だった。

ここで、秀吉に一色義定と光秀の親密な関係、討ち取った仔細を申し出る。

秀吉は気にしていなかったが、忠興の言い分を受け入れた。

こうして、忠興は秀吉に与した恩賞として、丹後全域11万石(隠居の幽(ゆう)斎(さい)に与えられた所領も含めると12万石)を得たのだ。

 

忠興の作戦勝ちであり、光秀勢と命を懸けて戦った秀吉や与した武将を除けば、光秀の死で一番勢力を伸ばしたのが細川家だった。

玉子は、父、光秀を足蹴にして伸びたのが忠興だと冷徹な目で見る。

 

そんな時、居城、宮津城には側室、藤の方がおり、子が生まれることを知る。

玉子は、言葉にはならないほどの衝撃を受け、激怒する。

忠興の重大な裏切りだと責めた。

忠興が、二年間も女人なしに過ごせるとは思わないが、公然と側室とし子をなすことは許すことが出来ない。

玉子に何の相談もなしに行われた裏切りに、忠興の愛を疑う。

同時に、立場が変わったことを、まざまざと知る。

 

結婚時は、上役の姫として敬われたが、今は、後ろ盾の実家をなくした帰る所のない妻なのだ。

父、光秀は側室を持たず、母への愛を貫き、命をかけて主義主張を貫き通した。

父に比べ忠興は、早くに側室を持ち、権力に対し卑屈だ。

忠興の生き様を見た気がした。許せない卑劣な性格だと軽蔑する。

 

玉子は、次第に寡黙になっていく。

忠興は多くの家臣を抱えており、きれいごとだけでは、細川家を守れないと理解しているが、玉子に対しては誠実であって欲しかった。

忠興の玉子をないがしろにする独断専行に、吐き気がした。

 

細川家は、室町幕府足利将軍家の一族で、管領(かんれい)として幕政を率いた名門だ。

だが、室町幕府の凋落と共に、家中の内紛が続き力を落とした。

京を征した信長は、細川家嫡流、京(けい)兆家(ちょうけ)を義昭追放後の足利将軍家を継ぐ家とみなし妹を当主、細川晴元と結婚させ信長一門とし、支配下に置いた。

存続させるべき細川家は、それで充分だった。

栄光ある細川京(けい)兆家(ちょうけ)を、信長は、妹婿の家系とし自らが引き継いだのだ。

 

藤孝は、細川京(けい)兆家(ちょうけ)の出身ではない。

父は、奉公衆、三淵晴員。

母は、清原宣賢の娘、智慶院。

和泉守護を代々勤めた和泉上守護家に養子入りして、後継となった。

そのため、信長は、特別取り立てる必要のない分家と見なした。

 

足利将軍、義昭の異母兄との風聞があり、そんな噂が出ること事態を嫌った。

忠興は、将軍側近の奥州細川家の家督を継ぐが、同じく分家に過ぎないと見なした。

信長は家柄ではなく武将としての力を試し判断する。

大義は必要だが、名門にこだわるのは嫌いだ。

藤孝は、信長から得た地、長岡を名とし、信長への忠誠心を見せている。

 

 藤孝は、文人としての才が際立っていたが、武将として評価される為には、戦勲を上げるしかないと肝に銘じる。

不本意だったし、難しいことだった。

その結果、細川家は織田家中で重要な位置を占めるまでにはならず、光秀の後ろ盾で丹後南半国を得ただけだった。

光秀に比べ領地が少ないことや、光秀の配下のように扱われるのは不満だったが。

 

忠興は、藤孝とは違い、光秀を尊敬した。

常日頃「義父殿は素晴らしい。教えられることばかりだ」と話した。

忠興は、光秀から軍事を学び戦いに従い、戦上手と言われるまでになったのだ。

玉子はそんな忠興と話すのが大好きだった。

細川家、子たちのことなど思い思いに将来を語り合った。

 

父、光秀の話題で盛り上がる時が、玉子には至福の時だった。

実際、忠興と光秀は、父子のように見えるほど仲が良かった。

だが、藤孝は、光秀の出世の伸びが止まり頭打ちに陥ったと注視していた。

そんな時の本能寺の変だった。

 

玉子が玉造屋敷に戻って以来、忠興は光秀の話を一切しない。

玉子は、細川家が今日あるのは明智家ゆえだと、ゆるぎない信念を持っている。

臆することなく玉子や明智家に対する理不尽な扱いに抗議する。

そして「明智家を利用して伸びたのが貴方だ」と追求する。

玉子は利用された悔しさで、抑えられなくなってしまうのだ。

謀反人の娘としてひっそり暮らすことを望む忠興には、困った存在だ。

 

忠興は、玉子の行動に不信感を持ち始め、目の届く屋敷内に居るようにと、外出を控えるように命じる。

静かに従う玉子ではなく、秀吉の妻、ねねや、本能寺の変が起きるまで親しくしていた大名家の女人との付き合いは続ける。

直接会いに行くことは避けて、侍女を通じての付き合いとし、時には、招いてお茶席など開く。

大坂城のすぐ近くにある広大な屋敷は、便利も良く細川家は大きくなったのだと今更ながらに思う。

 

落ち着いてくると、父や弟妹に会いたくなる。生きていてほしかった。

大坂城が聳え、秀吉の世だと物語っている。

光秀と秀吉、違いがわからない。

信長と対峙したか、うまく取り入ったかの違いしか無いと思う。

父は、早く立ち上がりすぎて、滅亡した、その事実は重い。

玉子を始め、多くの家臣、縁者が酷い目にあったのだから。

 

秀吉の評価の高い忠興は、軍事にも政治にも冴えた力を発揮し、来客も多かった。

玉子も、細川家への正式な来客には、思いを押さえ、忠興と共に正室として会い、公式の場にも出る。

心中がどうであれ、天下人、秀吉の信頼を得るためには、細川家中が藩主の元一丸となるべきだとの思いは同じだ。

内紛に通じる仲違いはすべきでないと細心の注意で、にこやかに応対する。

 

忠興には、才色兼備の自慢の妻であり、気品が漂い教養が溢れる申し分ない妻だ。

皆に見せ付けたい思いも強い。

玉子も、その思いに応え、光輝く笑顔で寄り添う時もあった。

玉子は、話好きで、気づいたこと面白い現象を夢中になって饒舌に話し続ける時が度々だった。

でも、そのようなときはなくなり、静かに書を読むことが増えた。

寡黙にはなったが、慎重に考えながら発する言葉に重みが出てくる。

心地よい響きのある声で心のこもった話を聞くと、聞く人は魅了される。

 

だけど、藤の方が子を生むと知って以来、忠興と会えば、激しく責めた。

玉子への熱い視線を藤の方にも向けているのだと思うと、忠興を許せず受け入れる事は出来ない。忠興を避けるようになった。

藤の方に関心を持つようになり、生い立ちを知りたく、側に控える河北一成・金津正直に調べるよう命じる。

こうして知った藤の方の生きざまは感動すべきことだった。自分の思いの浅はかさを感じる。

 

藤の方は、姉、倫子に仕えた摂津衆の娘だった。

倫子は、父の後を追い死ぬことは本望であり動じることなく運命を受け入れたが、藤の方が共に死ぬことを許さず、逃した。

藤の方は、父、郡宗(こおりむね)保(やす)の元に逃げた。

秀吉直臣となり3千石を得ていた父は「よく戻った」と迎えたがずっとは置けない。

大身でない身で、本能寺の変の主謀者の一人、明智秀満の妻、光秀の長女、倫子の老女、藤の方を庇護するのはまずいと考えたのだ。

 

郡宗(こおりむね)保(やす)は、共に義昭に仕えた亡き三(みつ)淵(ぶち)藤(ふじ)英(ひで)の弟、藤孝に「娘を預けたい」と頼んだ。三(みつ)淵(ぶち)藤(ふじ)英(ひで)は、藤孝の実の兄だが、義昭に忠誠を尽くし信長を裏切ったと見なされ、自害を命じられた。

かっての同僚で、余裕の隠居ぐらしとなった藤孝こそ預けるにふさわしいと考えた。

藤孝も、秀吉が怒るほどのことはないと郡宗(こおりむね)保(やす)の頼みに、快く応じた。

 

以後、藤孝夫妻に仕えた藤の方を、忠興が目に留め気に入ったのだ。

忠興の側近くで仕えるようになるが、二人とも玉子の存在が大きくのしかかる。

忠興は、玉子への後ろめたさで、かえって、熱く燃えた。

子が生まれると分かると、忠興の子の母として、氏素性問題ないと側室に迎えた。

ここで、藤の方の身は保証され、安住の地を得たのだ。

 

藤の方は、姉、倫子と共に生き、身代わりとして生きることを命じられた女人だ。そのことを知ると、藤の方を追及することが出来なくなり、感謝の気持ちが生まれ認めざるを得ない。

 

郡宗(こおりむね)保(やす)は、摂津郡山城(大阪府茨木市)を築き居城とした有力な摂津衆だった。

義昭を将軍とすることに功があり、父、伊丹(いたみ)親(ちか)興(おき)は義昭に推され摂津守護となった。

だが義昭対信長の戦いが始まり、郡宗(こおりむね)保(やす)は将軍に従い戦い続け、父や養父・一族郎党が戦死した。

1571年、仕えていた荒木村重が信長に従うと、郡宗(こおりむね)保(やす)も村重に従った。

 

そして、村重嫡男、村次と光秀長女、倫子の結婚が決まる。

その時、倫子付け家老を命じられたのが、郡宗(こおりむね)保(やす)。

郡宗(こおりむね)保(やす)は、一族で倫子に仕え、全幅の信頼を得る。中でも幼い、藤の方は妹のように可愛いがられた。

だが村重対信長の戦いが始まってしまう。

 

倫子は離縁となるが、郡宗(こおりむね)保(やす)は藤の方を生涯仕えさせたいと願った。

離縁となったが、充実した結婚生活だったと満足していた。

それは、郡宗(こおりむね)保(やす)一家の配慮によるところが大きいと感謝しており、藤の方を喜んで引き取った。

そして、荒木家は滅んだ。

その後、倫子や藤の方の働きもあり、荒木家から光秀に仕えるものが多く出る。

 

光秀は、倫子の逆臣の妻という汚名を払拭したく、甥、秀満との再婚を決めた。

その時、倫子は、藤の方をそばに置くのは、良くないと考える。

そこで、信長側近となり力のある信澄(信長の甥)の妻である玉子の妹に預ける。

藤の方は、心細かったが、黙って耐えた。

 

倫子は、藤の方の姉でもあり母親代わりでもあると、将来に責任を持とうとした。

なのに、手放してしまい、申し訳ないとわびた。

その後、嫡男、重利が生まれると、時も過ぎ、大義もあると、すぐに藤の方を呼び戻し召し抱え子守役とする。

光秀は、村重を乗り越え戦勲を上げ、信長の覚えも良い、藤の方を召し抱えるのは問題ないと笑顔で許した。

 

ここから再び倫子と藤の方主従の楽しい暮らしが始まった。

だが、本能寺の変が起きる。

ここで藤の方は、倫子の代わりとなって重利のために生きると決意し、逃げた。

 秀吉に仕えている、父のもとに戻り、時期を待つと決めた。

そして藤孝のもとに行くことになった。

 

玉子は、藤の方を許す。

すると、忠興はとても嬉しそうに感謝し、玉子への愛の言葉を次々に口にし、側を離さない。

忠興を愛する玉子だ。夫婦の暮らしが戻る。

忠興の愛は変わっていなかった。

玉子を熱い目で見つめ、屋敷に在するときは、夜ごと訪れ、共に過ごした。

 

こうして、1586年、3男、忠利が誕生。

家中は「細川家の後継は万全であり藩主夫妻の仲睦まじさは戻った、よかった。よかった」と、祝った。

玉子も細川家にゆるぎない立場を築いたと嬉しかった。

忠興への愛は以前と同じではなく変わったが、正室としての立場は守ると心に決めていた。

誰気兼ねなく、子達を甘やかしたり厳しくしたりと子育てを楽しむ。

子育てに没頭しているときが一番幸せだった。

 

玉子は、国元に行かなかった。

秀吉が主だった大名に大坂城下に妻子と共に住むことを望んでいたからでもある。

国元との行き来は、秀吉の了解を得れば出来るが、玉造屋敷を動かない。

家政を仕切ることは苦手で、文人として学び、憩うのが好きで、父の悲劇を思うと、政治は嫌いだ。

藤の方は顔を合わせたくない女人でもあり、競いたくもなく、国元は任せた。

 

玉造屋敷ですべき大切な仕事があった。

明智家の復権であり、生きている甥・姪の安寧な暮らしだ。

長姉、倫子と明智秀満の間に1581年生まれた子、三宅重利を引き取りたいと忠興に願う。藤の方も思いは同じだ。

三宅重利は、光秀の知り合いの商人の元で育ち、僧になると決められていた。

 

玉子も藤の方も三宅重利の望む道を歩ませたいと密やかに支援を続ける。

1594年、重利の「武将になりたい」との願いを確認し、忠興に強く求め引き取る。

玉子の死後、唐津藩に仕えた父、秀満の8千石家老、天野源右衛門を頼る。光秀が自慢した忠臣、明智三羽烏の一人だ。

藩主、寺沢広高の妻は、母、煕子の姪であり、玉子のいとこだ。喜んで迎えられ、後1万石で天草を任せられる。

 

次姉と明智光忠の間に生まれたのが、小やや。

忠興は、姫なら問題はなしと引き取りを許した。

幼い時に引き取り、わが子同様育てる。

 

妹と津田信澄の間に生まれた昌澄・元信。

秀長重臣となった藤堂高虎はかって信澄に仕えていた。

藤堂家が後見し育てるが、玉子も密やかに援助する。

 

甥姪にとって一番近い親戚が玉子であり、皆を引き取りたいと忠興に再三頼んだ。

だが、忠興は渋った。

この時は、家名再興を図るかもしれない光秀の孫との縁を深めることは、細川家にとって不利益だと判断した。

 

玉子は、もやもやした思いを河北一成に話す。

長年の付き合いで、思いの丈を話すことができる父親代わりの大好きな守役だ。

その後の明智関係者の行く末の話を聞く。

河北一成の子、河北一生が隠棲し、も野に潜んでいると知る。

金津正直は、称念寺に住まいした時から世話になった近くにあった金津神社の宮司の家柄で朝倉氏家臣だった。

朝倉家滅亡後、光秀に仕え、玉子の側近くにいた。

忠興に、川北家・金津家を召し抱えてくれるよう願い、すぐに、実現した。

 

それまでも忠興は、明智家旧臣や関係した武将を多く召し抱えていた。

光秀に対する申し訳なさと、優秀な家臣を集めたい思いからだ。

秀吉が本心から光秀を謀反人と決めつけていないと知るに連れ、堂々と召し抱える。

 

手元に置いた唯一の姪、小ややは玉子を母と慕いつつも、謀反人につながる娘だと立場をわきまえ、控えめに賢く育つ。

甥たちは皆、状況に応じて耐える力、生き抜く力を持って育った。

もっともっと支援したかったが、忠興は用心深く、密かにしかできなかった。

甥たちに申し訳なく、心を通わすこともできず情けない。

忠興への怒りを抑えられない。